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よしなしごと2002年3月
★ ともし火近く衣縫ふ母は 呼称と敬称 食の東西 正座
鹿児島県の言葉と苗字 治水 「アジア」という言葉
北方四島の広さ 統計の錯覚
鈴木という苗字 本村洋さんのこと 赤穂浪士の姓
うどん屋と風邪薬 家事のできすぎる男 さくら
知らないままで 写真の効用 いぶりがっこ
2002/03/31 日曜日 いぶりがっこ 
死亡率の都道府県別統計が新聞に載っていた。都道府県間の格差は確実に縮まっているらしい。一昔前は、東北地方の死亡率の高さが際立っていた覚えがある。
私の祖父は生粋の秋田人であった。とにかくしょっぱい(関西ではからい)ものが好きだった。酒もよく飲む。飲むとおかずを食べない。関東の塩辛さで驚く関西人には信じられないことだろうが、東北地方の料理の塩辛さは関東の比ではない。塩分への好みが東北地方の死亡率の高さに影響しているという説がある。祖母も生まれは秋田だが、成長の過程で東京や「外地」での生活を経験していたので、さほど塩分への好みはない。祖父はよく、塩辛など塩分の極度に強いものを自分で買ってきては、いっぺんで全部食べてしまうということがよくあった。ときどき祖母の料理から息抜きしたかったのかもしれない。
あとになって本で読んだことだが、昔の秋田では、素っ裸になって寝る習慣があったという。あの寒い東北の冬でと思うと、信じられない気がする。当然、その分、掛け蒲団を重ねる。その圧迫が、ある年齢を過ぎると致命傷になることがあるらしい。祖父が素っ裸で寝ていた記憶はないが、あるいは祖母より気の弱い祖父は、東京や外地で育った祖母に遠慮していたのかも知れない、と今にして思う。病気とはまるで縁のなかった祖父は、私が中2のとき、まだ65歳で突然脳溢血で亡くなった。典型的な東北人の死だったのかも知れない。
メデイア時代の今日では、塩分が身体に悪いという情報は常に飛び交っている。さまざまなものが食べられる時代に、特定の食物への執着はどんどん薄くなっている。7年前、秋田に旅行する機会があった。土産に「いぶりがっこ」を買ってきた。要するにたくわんなのだが、普通のたくわんとは違い、たくわんを天井からつるし、囲炉裏の煙でいぶしたもので、真中の色が濃い。「がっこ」とは、秋田では一般的に漬物のことである。「いぶり」は要するにいぶすということである。せっかくの土産を、私の子供たちは真中をくり抜いて食べていた。
写真は、祖父が亡くなる1年前に私の撮ったものである。天寿を全うした祖母も、今は故人である。
2002/03/30 土曜日 写真の効用 
四月が近づき、今年も退職する人が多い。退職後何をするのかというと、写真をするという人がけっこう多い。今さら絵を習うのはたいへんだということもあるだろうが、老後の趣味としての写真にはさまざまな効用がある。まず、さまざまな被写体を求めてよく出かけるので、よい運動になる。これが絵だと、ともすれば家にこもることになりやすい。出かけるとなると、いろいろと計画を立てなければならない。これもまた楽しみの一つとなるだろう。写真には運もともなう。せっかく遠路はるばる出かけても、その日の天候の加減で、いい写真がとれないことも多いが、これがまた次の意欲を掻き立てる。絵だとひたすら自分との対話になりやすいが、写真だとさまざまな対象に心を寄せ語り合うきっかけとなるので、孤独もまぎれる。しかし、写真は、けっこう金のかかる趣味である。もっとよい写真がとりたいと思うと、高いカメラが欲しくなる。足代も馬鹿にはならない。それでも伴侶の理解が得られやすいのは、これまでに述べたような効用があるからだろう。
2002/03/28 木曜日 知らないままで 
『日本人の知らない日本語』(富田隆行著、市井社)という本が近所の図書館にあったので、借りてきて読んだ。著者の富田氏は今は大学で教えているが、インドネシアなどで日本語教育に携わった人らしい。軽妙なエッセイ風に書かれていて、言語についてこれから考えようという人には、是非すすめたい本だと思った。
しかし、1ヶ所だけ、どうにも納得しかねるところがあった。それは、「まま」という語の用法についての富田氏の主張である。富田氏は、「窓を開けたまま寝ました」という言うのはいいが、「お風呂に入らないまま寝ました」という言うのは誤りであるという。富田氏は、「まま」というのは、「前に何かをしたことによって生じた状態」を「その後、その状態を変えないで」というときに限って用いられるべきだという。したがって、「借りた自転車を壊したまま返した」はいいが、「借りた自転車を壊して、直さないまま返した」は不自然だという。
富田氏の主張は、私自身の感覚からは受け入れられない。私には、「まま」というのは、単に「今の状態を変えないで」という意味であって、「前に何かをした」ということは必要条件ではないように思われる。たとえば、「知らないままで」という言い方は、私には少しもおかしいとは思えない。「知る」という言葉の場合、一旦知ってしまうと、再び「知らない」という状態に戻ることはほとんど不可能のように思われる。したがって、「彼女の過去を知らないまま結婚した」のほうがよほど自然であり、「彼女の過去を知ったまま結婚した」というほうこそ、不自然な感じがする。
私は、言葉についていずれ中学生にもすらすら分かる文章を書きたいと思っている。富田氏のこの本は、中学生でも面白く読めると思うので、私も参考にしたい。上に述べたことは言わば玉に瑕というに過ぎない。
2002/03/26 火曜日 家事のできすぎる男 
私たちのころには女子だけだった家庭科の授業を今の高校生は男女ともに受けている。ある男子生徒が洋菓子の作り方の本を読んでいるのを見かけ、「家庭科か?」と聞いたところ、「日ごろから趣味でやっている」と言うので、イメージに合わなかったせいもあって驚いた。
昔の若い同僚に、自律神経に失調をきたした人がいた。どうも新婚まもない伴侶と同居している自分の父親との仲が悪く、板ばさみになっているらしい。母親はすでに故人である。父親は、もと船員で一年に一ヶ月ほどしか日本にいない生活を続けてきた。したがって、家事は料理でも裁縫でも整理でも何でも得意で、息子の嫁を見ているといらいらするらしい。そのしわ寄せが生真面目で大人しい息子に来ているということだった。
帰省中にこの話をしたところ、妻も母も「そういう人は一人で暮らせばいいのに」と言っていた。しかし、私は男なので、そういう生活をしてきた人に限って、定年後は羽を伸ばしたいのではないかと思った。男子厨房に入るべからずとは教えられなかった今の男子高校生なら、また感覚が違っていることだろう。しかし、この父親の場合は、家庭のあり方についての感覚が昔のままで、家事は器用にこなせるというところが問題だったのだと思う。
学校から駅まで歩いて帰っていたとき、件の若い同僚の車がとまり、「どうぞ」と言うので乗せてもらった。赤ちゃんが生まれたばかりということで、子熊の絵のある洗面器が車内にあった。赤ちゃんは今どんな具合かと聞いたが、そんなのんきな話ではなかった。「変な話ですが、僕は運転しているときにときどき気分が悪くなって吐くんですよ」という。一瞬「降ろして」といいたくなったが、最後まで送ってもらった。
2002/03/25 月曜日 うどん屋と風邪薬 
 中学生ぐらいのころだったろうか、まだ白黒のテレビで「二十四の瞳」をやっていた。子供同士の会話の中に、「うどん屋に風邪薬を買いに行こう」というセリフがあって、きつねにつままれたような気がした。うどん屋と風邪薬とに何の関係があるのかと思ったのである。
だいたい「うどん屋」という言葉自体、私の育った関東では一般的ではない。関東でも「そば屋」でうどんは食べられたが、あまり注文する人はいなかった。そばとうどんの両方を出す店は、東では「そば屋」、西では「うどん屋」と呼ぶのが一般的である。大衆食堂では、さらにラーメンも出すところがあるが、こういう店はご飯とおかずがメインで、そばもうどんもラーメンもまずいのが普通である。
関西に来てから、うどんをよく食べるようになった。そばより腹応えがある。鍋焼きうどんなど食べると身体も温まるので、風邪気味のときなどはいい。風邪をひいたときには、うどん屋でうどんを食べた上に風邪薬もそこで買ってさっさと治すという習慣が、関西などで一般的だった時期があったようである。しかし、戦後まもなく、薬を専門としない者が薬を売ってはいけないという薬事法の改正があり、うどん屋が風邪薬を売ることはできなくなった。
関西で外食しはじめたころ、「うどん屋」の壁に右のような看板(赤穂市立民俗資料館で撮影)が貼ってあるのを見かけた。「薬もあるのか?」と聞いて「昔の話」と笑われた。それにしても、なぜうどん屋で風邪薬なのか不思議だが、こちらにその説明がある。そういえば、うどんの本場は本来は関西ではなく、讃岐(香川県)である。そういえば、「二十四の瞳」の舞台となった小豆島も香川県である。
2002/03/24 日曜日 赤穂浪士の姓 
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大石神社前にずらっと
並んだ石像のうち、
武林唯七。筆者撮影 |
赤穂に行ってきた。去年の12月で吉良邸討ち入り300周年ということで、大石神社は改装中だった。宝物殿に四十七士の画像があった。一人一人に名前がつけられているのだが、いずれも、「大石内蔵助藤原良雄(おおいしくらのすけふじわらのよしたか)」というような記し方をしている。「大石」は苗字、「藤原」は姓である。姓は朝廷から与えられるもので、苗字と違って自由に名乗ることはできないはずだが、武士が姓を私称することは、かなり古くから行われていた。足利将軍家は中国との外交では源と名乗っていたし、徳川幕府は、豊臣家は平だが徳川家は源だといって、日本などまっぴらと思っている朝鮮を説得して、国交を回復した。しかし、赤穂浪士たちは、武士として決して高い身分ではない。それなのに、足軽であるがゆえに切腹を免れ四十七士中唯一天寿を全うした寺坂吉右衛門までが藤原となっていた。47人中藤原が27人、源が9人、平が5人、紀が2人、菅原、清原、占部、孟が1人ずつであった。極端に種類が少ない。
姓の私称は、自分が古代に姓を与えられた者の子孫だと自称しながら行われていた。それゆえに、どうせなら名のある姓を称しようということになる。もし苗字がなく、誰もが姓を名乗ることになっていたら、人口の半分近くが金李朴の3姓を名乗る朝鮮半島と似たような状況になっていたかも知れない。しかし、日本の場合、祖先を崇拝する儒教が朝鮮ほど浸透していなかったため、本拠地の地名などをもとにした苗字がつぎつぎと作られ、姓を背景に押しのけたのである。
赤穂浪士の姓の中でひときわ異彩を放つのは、武林唯七孟隆重(たけばやしただしちもうのたかしげ)の「孟」である。唯七の祖父孟二寛は中国浙江省武林の人で、秀吉の文禄の役のとき、明軍に従軍し、朝鮮で捕虜となって日本に渡り、そのまま日本で生涯を終えた。吉良邸討ち入りのとき、炭小屋に隠れていた上野介に真っ先に斬りつけたのが唯七であったことは、私も小さいころよく見た東映の時代劇などで覚えている。唯七は、孟子の子孫であるということを自慢にしていた。大石神社の前には、四十七士の石像がずらりと並んでいる。最も神社に近いところに大石父子の像があり、最も遠いところに寺坂吉右衛門の像がある。死後300年もたっても、身分どおりに並べられることに、やり切れない思いが残った。
なお、大石神社に近い民俗資料館に方言に関する面白い資料が展示してあったのをカメラにおさめ、「方言はなぜうまれるのか?」に載せたので、御覧いただきたい。
2002/03/22 金曜日 本村洋さんのこと 
山口県光市で起こった母子殺人事件の判決が先日あり、残された夫の本村洋さん(25)がニュース・ステーションに出演しているのを見た。本村さんの言葉には、抗いがたい説得力があり、胸を打たれない人はいなかったと思う。男が母親への乱暴目的で押し入ってきたとき、泣いたために発覚を恐れて殺された女の子は、まだ生後11ヶ月だった。この時期は、単に可愛いさかりというだけではなく、親自身にとっても子供の成長に支えられた充実と飛躍の時期である。その時期を、身勝手な暴力で突然に中断された怒りと悲しみは察するに余りある。
被告は、当時18歳の少年であった。判決は少年を極刑にしなかった。このような凶悪犯罪を起こした者が少年法の保護の対象となることに、割り切れない思いがする人が多いことは当然である。しかし、だからといって、少年法の精神自体をも否定するような粗雑な言論には私は反対である。少年犯罪というものが大人社会の矛盾の反映である以上、できる限り多くの少年の更生を図るというのは当然のことだと思う。問題は、遺族に与えた苦しみや社会への影響があまりにも大きい犯罪の場合をも少年犯罪として一括してもいいのかという点と、遺族をまったくの無権利の状態に置いてもいいのかという点に絞るべきであろう。たとえば、神戸の「酒鬼薔薇」ことA少年が、まだ少年法の適用対象であるうちに社会復帰することには私も疑問を感じている。少年であっても、犯罪の質を考慮に入れる必要はある。
本村さんの願いは、亡くなった妻子を取り戻すことである。しかし、それが不可能であることは、誰よりも本人が耐え難い痛みとともに知っている。「自分がまったく無力な人間だということを思い知った」というのが、判決後の本村さんの第一声であった。第一の当事者に、法的な権利が何もないことが、本村さんの無力感を増幅しているように思う。このことは、実は、国家というもののあり方に関わることである。むかし見た子供の誘拐事件を扱ったドラマで、子供の身を案じる部下を、上司が「われわれの仕事は、社会の秩序を乱す犯罪者を捕らえることだ」と一喝する場面を見たことがある。このような考え方では、遺族などただの第三者にされてしまう。国家の横暴を抑制し、被告の権利を守ろうとする側も、このことを当然と考えてはいけないだろう。それでは単に国家の裏返しに過ぎない。
死刑の代わりに終身刑をという声がある。これに対して、本村さんは「残酷と思われるだろうが」と断った上で、「自分の死刑をも受け入れられるようになってこそ、犯人が真人間になったといえる」と言っていた。私もその通りだと思う。ときに、「許されるものなら、自分が殺したい」という本村さんにとっては、最大限の譲歩なのであろう。しかし、私は死刑には反対である。その理由はいろいろあるが、凶悪犯罪の抑止効果という点に関して言うならば、州にもよるが死刑を残しているアメリカと多くの国が死刑を廃止しているヨーロッパの凶悪犯罪の発生率を比べてみたとき、死刑の抑止効果がさほど大きいとは思えない。本村さんは、一方で少年に真人間になってほしいとも言っている。内面が今も絶えず揺れつづけていることが分かる。しかし、話すときには、自分の感情を抑え、理路整然と話をしている。25歳というその年齢を考えるとき、敬意を払わずにはいられない。しかし、それだけに、本村さんの声を粗雑に利用しようとする動きには同調できない。
私は、終身刑の創設は検討されてもいいと思う。危険な人物を社会から隔離するという点では、死刑と終身刑とは効果に差がない。まれには、終身刑を宣告された者が社会復帰することも認めていいと思う。しかし、それはよほどの条件がそろったときのみの例外とし、その際、遺族の許可を必要とするということも考えられてよい。そして、誰を許可を与える遺族とするかは、裁判で決めればいいことではないだろうか?
2002/03/18 月曜日 鈴木という苗字 
「鈴木にもピンからキリまであるわいな」という川柳が新聞に載っていた。作者の名はイチローとなっていたが、むろん私ではない。鈴木姓は日本一多い苗字と言われていた時期があるが、今では佐藤に次いで二位というのが定説となっている。世の中にはちょっと考えれば分かることを考えない人がいるもので、このことを「佐藤が鈴木を抜いた」と思っている人がいる。出生率が苗字によって違うということはありえないのだから、苗字の順位というものはそうそう簡単に変わるものではない。情報技術の進展によって、実態がより正確にとらえられるようになったということに過ぎない。
かつて鈴木が日本一と考えられていたのは、やはり鈴木姓が多い首都圏を中心に不正確な統計がとられていたからである。神奈川で育った私には、高校時代、一クラスに四人の鈴木がいた記憶がある。しかし、関西で教師をしていると、鈴木という生徒は、一学年に一人いるかいないかという程度である。西日本にくるとぐんと少なくなるというのが鈴木姓の特徴である。首都圏の人は何でも日本中東京と同じと考えやすいのだが、苗字の分布には地方差があり、関西では田中、山本の方がずっと多い。また、鈴木姓の頻度が最も高いのは、首都圏ではなく、静岡、愛知といった東海地方である。
「鈴木」は、熊野信仰とともに広がったという。そのルーツは熊野神社の神官であり、古くは穂積氏といった。稲穂を積み上げたものを紀州でススキとかスズキとか言っていたのがその語源であり、「鈴木」というのは当て字である。他の漢字を当てる例は少ないが、私は「鈴来」、そして「鱸」というきわめて珍しい「スズキ」さんに出会ったことがある。
2002/03/16 土曜日 統計の錯覚 
特別区が設置されている東京は別として、日本で人口が最大の市は、大阪市ではなく横浜市である。それも、2000年3月31日現在の住民基本台帳人口によれば、大阪が約247万、横浜が約338万だから、大きく水が開いている。しかしこれは、統計上の錯覚に過ぎない。まず、面積が横浜市(431平方キロ)は、大阪市(213平方キロ)の2倍もある。隣接の豊中、吹田、守口、門真、大東、東大阪、八尾の各市を大阪市に加えると面積の合計が433平方キロとなり、横浜市とだいたい同じになるが、その人口の合計は約438万人にもなる。
つぎに、横浜の人口増加は、東京の膨張の一部に過ぎない。平成7年の国勢調査によれば、横浜市の昼間人口は夜間人口の89.7%に過ぎない。つまり、通勤通学で横浜に流入する人より流出する人の方が多いのである。これに対して大阪市は東京都区部とまったく同じ146.5%もあり、昼間人口では大阪市が横浜市を大きく上回る。なお、関西では京都市、神戸市も昼間人口が夜間人口を上回っており、大阪市から独立した存在であることを物語っている。
統計を見るときには、結果として出てきた数字だけを見ていては判断を誤まることが多い。名称にだまされてもいけない。「市」といえば大きく「町」といえば小さく聞こえるが、人口が3万に満たない市が72もあるのに対し、3万を上回る町が117もある(2000年3月31日現在の住民基本台帳人口)。さらに、人口3万を超える「村」が豊見城村(とみぐすくそん、沖縄)と東海村(とうかいむら、茨城)の二つある。一方で人口わずかに6千人台という市がある。北海道の歌志内市であるが、これは、もと炭鉱町だったからである。
先日、兵庫県の加西市というところに行った。JR山陽本線の加古川駅からディーゼル車の走る支線に乗り換え、さらに地元の人が「レールバス」と呼ぶ第三セクターの鉄道に乗り換えて着いた終着駅の北条町駅が市の中心であるが、駅前にはタクシー乗り場もなく、電話で呼ばなければならなかった。
2002/03/13 水曜日 北方四島の広さ 
高校生のとき、北海道を旅行した。北海道を地図でしか知らなかった私は、札幌から稚内まで夜行列車で一泊と言うのに驚いた。北海道とそれ以外の地域の地図の縮尺が違うということを、十分認識していなかったからである。この感覚は私一人のものではないと思う。日本とロシアの間で領有権が争われている北方四島(歯舞諸島を一つの島と数えた表現)を、とるに足らない小さな島と思っている人が大半なのではないだろうか? まず、最も小さい歯舞諸島の面積は、約100平方キロである。これは、戦後しばらくアメリカに領有されていた小笠原諸島の104平方キロにほぼ匹敵する。次に小さい色丹島は、253平方キロ、これは淡路島の半分、小豆島の1.5倍ぐらいであり、近い数値の島を捜せば、鹿児島県の徳之島の248平方キロということになる。国後島は1450平方キロ、これは沖縄本島の1204平方キロと大阪府の1868平方キロの中間ぐらいである。3184平方キロの択捉島に至っては、それだけでゆうに一つの県に匹敵する。鳥取県は3507平方キロ、奈良県は3692平方キロに過ぎない。結局、北方四島の合計は5036平方キロであり、千葉県(人口500万人台)の4996平方キロと愛知県(人口600万人台)の5117平方キロの中間ぐらいになる。北方四島は寒い。そのため、最大の択捉島でさえ、日本領だった戦前も、ロシア領の戦後も、人口は5万にもはるかに及ばないのである。
北方四島を間近に臨む地域を地盤とする鈴木宗男氏の去就が問題になっている。北方四島の領有権の主張をやめ、ロシア領のままで交流をしようという鈴木氏を、夕刊フジは「国賊」と叩いている。私は決して鈴木氏を支持する人間ではないが、「国賊」などという言葉をいまどき平気で用いる神経を疑う。ロシアと日本との関係でいえば、北方四島は、あきらかに日本領である。日本にとってはかなり広いこの島々にロシアが執着するのは、ここを認めればヨーロッパ方面で、古い歴史を持つ人口の多い地域を、論理的にはドイツやポーランドに渡さなければならなくなるからである。それさえなければ、世界最大の面積を持つあの国が、微々たる北方四島を手放すことぐらいで、ケチケチすることはないだろう。
日本からの北方四島の返還要求は、まったく正当である。しかし、この島々は、もともと日本民族のものでも、ロシア民族のものでもない。歴史上確認できる限りは、アイヌ民族の土地だったのである。ある意味では、この島々は日本に帰って来ないほうがいいのではないかと思うときがある。択捉島は広い。この時代にサケが遡上する川がたくさんあり、ヒグマがそれを食い散らかしている。春や夏には全島が可憐な花々で彩られる。こんな島が日本領になったときのことを考えよう。観光業者や建築業者が黙ってはいない。リゾート地域とするために、豊かな自然があっという間に破壊されることは目に見えているだろう。もっとも、そんなことはロシア領のままでも十分にありうる。鈴木氏は、そのような事業に一刻も早く手を付けたかったのかも知れない。
2002/03/11 月曜日 「アジア」という言葉 
まもなくワールドカップが始まる。世界人口の12%に過ぎない「ヨーロッパ」からの参加国が32ヶ国中15ヶ国であるのに対して、61%を占める「アジア」から「日本、韓国、中国、サウジアラビア」の4ヶ国しか出場できない。ずいぶん偏った選考枠だと言うことができる。面白いことに、普通はアジアに入れられるトルコがW杯予選ではヨーロッパの代表となっている。ところが、このトルコこそ、本来のアジアと呼ばれる地域だったのである。現在のトルコ共和国の領土は、イスタンブールなど一部がヨーロッパ半島にあるものの、その大半が「小アジア」半島に属する。
アジアは、As-iaと分析できる。Asは古代フェニキア語で「東」を意味し、古代フェニキア人は、地中海の東の地域を漠然と「アス」と呼んだ。そして、この地域がローマ帝国の支配下に入ったとき、土地を示すラテン語の接尾辞であるiaをAsにつけてアジアと呼ばれるようになった。今日のトルコ共和国の領土の大半を「小アジア」と称するのは、のちにヨーロッパ人が「アジア」という言葉をユーラシア大陸のヨーロッパ半島以外の部分の総称に拡大して用いるようになったためである。「本来のアジア」という意味で「小アジア」と呼ぶのである。今日のトルコ共和国人の多くはずっと後代になって遥か東方から移動してきた民族であるから、「トルコ半島」と呼ぶのはふさわしくないということだろう。
世界地図を見ていると、ジブラルタル海峡とスエズ地峡によって他の地域と隔てられ、ひとかたまりとなっているアフリカを一つの大陸とみなすのは納得できる。しかし、残余の部分をヨーロッパとアジアという二つの「大陸」に分けるのは、地球儀を虚心に見る限り納得できない。ヨーロッパはその大きさから見てただの半島に過ぎない。インド周辺をインド亜大陸と呼ぶことがあるが、ヨーロッパと同じような大きさなのだから当然であろう。ヨーロッパに身を置いて、視野を地中海に限るなら、アジアとの境界はダーダネルス・ボスポラス海峡と見てよい。しかし、北方ではどうだろうか? ロシアは普通ヨーロッパに入れられるが、その領土の大半はアジアにある。普通はウラル山脈を境にヨーロッパ・ロシアとアジア・ロシアに分けられているようであるが、この境界線は、地形的な根拠をまったく欠いている。
ところで、私たち日本人から見ると、サウジアラビアが同じアジアだというのは、どう考えても不思議である。遠すぎるし、文化的には同じく一神教を奉じるという点で、むしろヨーロッパに近い。結局、「アジア」とはユーラシア(ヨーロッパとアジアとの合成語)大陸中、ヨーロッパでない部分をヨーロッパ人が総称した言葉に過ぎない。アジアという単一の呼称で呼ぶには、あまりにも広く多様な地域である。
では、アジアと呼ぶ地域をヨーロッパ程度の規模に分けるには、どうしたらいいだろうか? 中国を中心とする東アジア、インドを中心とする南アジア、イスラム教徒の多い西アジアに分けるのが自然であろう。ミャンマー(ビルマ)以東の南アジアを東南アジアとして分離してもいい。この地域は、イスラム教徒が大半を占めるインドネシアがあったり、文化的にはむしろ東アジアに属するベトナムがあったりできわめて多彩な地域である。また、パキスタンを南アジアとするか西アジアとするかは微妙だというような問題もあるので、境界線の引き方には論議が要る。こうして分けた地域は、古来それなりの文化的一体性があるのだが、それぞれを一括して呼ぶ地元の呼称(強いて言えば、東アジアの場合は「天下」だろうか?)がないので、アジアという言葉を部分的に用いるのは当面やむをえない。
ユーラシア大陸を、ヨーロッパ、西アジア、南アジア、東南アジア、東アジアの各地域に分け、アフリカ、南米、北中米、オセアニアを加えて、人口に比例して各地域の代表数を決めてこそ、本当の意味でのW杯であろう。もちろん、地域によるサッカーの強弱の差は大きいが、なれればその方が面白い面もあるし、それでこそ、世界全体のサッカーもレベルアップすることであろう。現実的には、アジアをミャンマーとバングラデシュのところで東西に二分し、ウズベキスタンなどの旧ソ連5ヶ国の所属を決めた上、東西アジアに4ずつの枠を与え、その分ヨーロッパの出場枠を11に減らすぐらいのことは要求してもいいと考える。日韓共催W杯が成功したときには、日韓が音頭をとって、その程度の控えめな主張ぐらいはすべきだろう。なにしろ、世界の61%の支持を得られるはずなのだから……。
2002/03/10 日曜日 治水 
政治の「治」はさんずいである。その本来の意味は「治水」ということである。氾濫を繰り返す黄河の水を治めた者が黄河文明の支配者となったと伝えられる。政治は自然を治めることから始まった。しかし、自然を治めることが政治というわけでもない。川が氾濫するのはごく当たり前のことであり、河川敷というものができたのもそのためである。川にはあふれる余地を与えておき、人間にはそれ以外の土地を確保するのが政治の理想と思う。小さい川となると河川敷もなく川の流れに沿って堤防が続くところが多い。こういうところで大雨が降ると、溢れることもできない水が上流からたまりにたまり、下流でコンクリートの堤防をも決壊させるほどのものすごい水圧になる。こういう形で決壊が起きると、自然のままではありえないほどの大きな被害を出すことが多いようだ。やたらに工事をすることばかりが政治というわけでもないようだ。
2002/03/09 土曜日 鹿児島県の言葉と苗字 
大学時代、鹿児島県出身の友人がいた。鹿児島弁は、よその土地の人にはほとんど分からないことで知られる。「右の耳に水が入った」を「ミンノミンニミッガイッタ」、「貝を買いに来い」を「ケケケケ」というというのは、彼から初めて聞いた。彼の苗字も変わっていた。鹿児島は珍姓の宝庫と言われる。それでも多くは前田や岩本のように、他県にもいくらでもいる苗字が多いのだが、上前田とか大岩本とかいう人は、まず鹿児島に縁があると思っていい。こういう苗字が多いのは、門割制度という薩摩藩独得の土地制度に由来するらしい。「堀之内」「宮之原」「井之上」のように「之」の入る苗字も多い。「松元」「坂元」のように、「もと」は「本」より「元」と書くほうがずっと多い。「園」「留」「迫(さこ)」で終る苗字も鹿児島らしい。そのほか、「川畑」「有村」「鮫島」「原口」なども目立つ。「瀬戸口」「伊地知」「伊集院」など三字姓も多い。都城など宮崎県の南部も、むかし薩摩藩領だった関係で鹿児島的だ。
関西には鹿児島県人が多い。上に挙げたような苗字の人に鹿児島では?と聞いてみるとかなりの確率で当たる。最初に書いた友人は郡部の出身であり、高校時代から鹿児島市内で下宿生活を送っていた。進学熱の高い鹿児島県では珍しいことではないという。一口に鹿児島弁といっても、県内各地でまた言葉が違うらしい。頴娃(えい)という恐ろしく難しい字の町があるが、そこの言葉は鹿児島市の人には通じにくく、「えいご」と言われるらしい。さらに奄美地方となると沖縄の言葉の一派だ。高校時代は国際社会だったと友人は笑っていた。
ところで、鹿児島弁から共通語に入った言葉がある。人をどなるときの「コラ」という言葉である。しかし、この言葉は鹿児島弁では威張った感じなど微塵もない優しい言葉で、人をよびとめるときには、「もしもし」と同じつもりで「こらこら」と言えばよかった。一時は九州一帯に勢力を伸ばした島津氏が藩主を務めた薩摩藩には人口の割りに武士が多かった。その多くは農業を兼ねる郷士であった。明治維新で武士として生きられなくなった武士たちは、競って上京し、警官や軍人になった。明治の初期には、東京の警官の3分の1が鹿児島県人だったという。その警官たちが、江戸っ子や他の土地から移住して間もない人たちに、郷里と同じつもりで「こらこら」と呼びかける。別に脅したり威張ったりするつもりはない。しかし、相手は警官であり、しかも警官の威張る時代であったから、東京の人はギョッとする。そして、「こらこら」という言葉は、人を威圧する上で便利な言葉と認識され、東京で広く使われるようになり、全国に広まっていったのである。
2002/03/07 木曜日 正座 
私は正座が苦手である。厳密にそれらしい形を保ち続けられるのは、せいぜい十分が限度である。しかし、人間には適応力というものがあるようだ。亡くなった祖母は、洋室では、椅子の上でわざわざ正座していた。その方が楽なのだというのだから驚く。正座が嫌いな一方で、私は和室が好きである。夏に畳の上に横になる快感は捨てがたい。この点は、女性でも人のいないところでは実感できるであろう。男の場合、あぐらが許されることが多い。私は和室で、座椅子であぐらをかき、座り机の上で仕事やパソコンをしている。
祖母(座りだこがあった)のように、小さい頃からそれに慣れていれば、何ともないのかも知れないが、正座というのはやはり無理な姿勢のように思われる。女性の場合、あぐらをかくわけにいかないので、楽な姿勢をしようとすれば、立膝にするか、脚を前に投げ出すほかはない。しかし、そのような姿勢は、いまだに行儀の悪いものとされている。朝鮮半島の場合、床(オンドル部屋)にじかに座るという点では日本と共通だが、女性は立膝でよしとされている。床が畳よりずっとかたい上に、特大のスカートであるチマでは、見苦しい印象を与えないからであろう。
正座の苦しさを知っている私は、女性に正座を無理強いする気にはなれない。とはいえ、和室には愛着がある。正座のゆえに和室までが女性に嫌われるのなら、女性のあぐらを認め、女性には座布団のほかに、ひざ掛け毛布のようなものを必ず渡すなどの工夫があってもよさそうである。しかし、これは洋装の場合であり、和服の場合は、正座がいやなら、脚を前に投げ出すほかはないだろう。掘りごたつならこの問題は一挙に解決されるが、集合住宅では難しいだろう。
伝統を守ろうとするのならば、むしろ、その一部を変えるなり、体系を組み替えるなりする工夫が必要だと思う。
2002/03/06 水曜日 食の東西 
小学校のころ、横浜駅の西口で、麗々しく「大阪の味、たこやき」と銘打って無料の試食を行っていた。つまり、そのころまで関東ではたこ焼きがほとんど知られていなかったということである。大学に入って関西に来たころ、私の考える寿司がなかなかなく、箱寿司(大阪寿司)が圧倒的に多かった。そばも少なく、圧倒的にうどんであった。しかし、今では味の東西交流はすっかり進んでいる。しかし、味付けの濃淡の差は、今でも根強い。肉の消費についても、東日本は豚肉優位、沖縄を除く西日本は牛肉優位である。魚についても東は赤身、西は白身の魚に人気ガある。私自身は、すでに人生の3分の2を関西で過ごしているので、とくに東日本風の味付けにこだわることはないが、初めのころは、店で出されるラーメンに醤油を入れることもあった。ただ、魚については、今もサケ、マグロ、カツオが好きである。
2002/03/05 火曜日 呼称と敬称 
武富士弘前支店の放火事件の容疑者がつかまった。「関与を示唆」と書かれた朝刊を読みながら、「逮捕」を報じるテレビを見ていた。全国で3億も配られたティッシュの一つがうちにあった。たしかに似顔絵によく似ているが、今の段階では「容疑者」と呼ばなければならない。そして、起訴されれば「被告」、有罪となれば「受刑者」となる。
むかしは、こういう場合、容疑者は新聞でもテレビでも呼び捨てだった。被害者に「さん」という敬称がつけられていること、社会面に限ってのことだが、顔写真が容疑者は四角い枠、被害者が丸い枠なのは今も同じである。「容疑者」というのは、敬称ではなく呼称であろう。被害者の場合も、「幹部」「組員」などは敬称というより呼称という感じがする。こういう場合に呼び捨てでは具合が悪いというところから、「容疑者」という呼称もつけられるようになった気がする。いま、新聞で呼び捨てで書かれるのは、スポーツ選手ぐらいだろう。これには「選手」という敬称(と思う)をつけることもできるが、それではスポーツらしいスピード感が出ないため、略されているように思う。ただし、これはスポーツ面に限られ、社会面などに出るときには、「選手」という敬称がつけられるようである。
最近、一部の新聞で呼び捨てで呼ばれた唯一とも思える例外がかのウサマ・ビン・ラディン氏である。報道における呼称と敬称の使用のあり方については、まだいろいろと論議する余地がありそうだ。
2002/03/01 金曜日 ともし火近く衣縫ふ母は 
3月になって、暖かくなった。しかし、寒の戻りがあるかも知れず、まだ油断はできない。もしも私の記憶が確かなら、むかし、つぎのような歌詞の歌を小学校で習ったことがある。
ともし火近くきぬ縫ふ母は 春の遊びの楽しさ語る
居並ぶ子供は 指を折りつつ 日数数へて喜び勇む
囲炉裏火はとろとろ 外は吹雪
この一番しか教えられていないと思うのだが、だいぶあとになって、二番が次のような歌詞であることを知った。やはり戦前の歌は油断がならない。歌の舞台は、春がひときわ待ち遠しい北国か雪国であろう。天井からは自在鈎が下がっているような気がする。
囲炉裏のはたで縄なふ父は 過ぎしいくさの手柄を語る
居並ぶ子供は ねむさ忘れて 耳を傾けこぶしを握る
囲炉裏火はとろとろ 外は吹雪
思春期という言葉がある。どの辞書を引いても「お年頃」というようなことしか書いていない。初めからそういう意味で作られた言葉のようであるが、季節に当てはめれば、春を待ち望むころということになる。思春期はまだ春ではない。春にさまざまな思いを寄せ、その準備をする季節である。しかし、今の若者に文字通りの意味での思春期はあるのだろうか? 迷いためらうこともないままに、この危うい季節を迎えているではないかと、心配になるときもある。
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