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よしなしごと2002年11月
★ 「キム・ヘギョン」の「ヘ」 牀前月光を看る
ペットの持ち込み 科学的に生きる 週刊金曜日
新しさの価値 回し者 年賀状 再会
2002/11/29 金曜日 再会 
町で思いがけず、むかし勤めていた学校の同僚を見かけた。奥さんと一緒である。しかし、その奥さんも見覚えがある。しばらく考えて昔の生徒であることを思い出した。後ろから二人の肩を相次いで叩いた。何事かと振り向いた二人に「覚えてる?」と聞いた。すぐに二人とも「あーっ」と言った。奥さんの在学中に噂を聞いたことも思い出した。奥さんが卒業し、私がその学校を去ってからだいぶ経ってから結婚したとのことである。
2002/11/28 木曜日 年賀状
まもなく十一月も終わり、年賀状の心配をしなければならない。去年は義母の喪中で出さなかったので、2年ぶりということになる。私は年賀状を印刷で出したことはない。筆ペンで謹賀新年と書き、その年のえとのスタンプを押し、余白に一言ずつ書き添える。年賀状は虚礼だと言われる。いま現在日ごろ顔を合わせている人に出す年賀状は、確かに虚礼に近い。それでも、日ごろのつきあいについて一言書き添えるのが有効なときもある。まして、長年あっていない人から近況を聞くのは楽しみでもある。学生時代の友人で毎年年賀状をやりとりしながら、もう何十年も会っていない人も多い。何かと忙しい師走になんでこんな習慣があるのかと恨みたくなることもあるが、今年も出すことになるだろう。
2002/11/21 木曜日 回し者
小テストの書き取りで「ゆうちょう」を出題した。「そんな悠長なことしていられない」というときの「ゆうちょう」である。生徒の出来は思っていたほどよくなかった。中になんと「郵貯」と書いた生徒がある。これでは「ゆうちょう」ではなく「ゆうちょ」である。答え合わせのとき、黒板に「郵貯」と書き、書いた生徒を名指しして「ふざけるな」というと、満場爆笑となった。しかし、「お前、郵便局の回し者か」というと、みんなきょとんとしている。回し者というヤマトコトバを知らないからである。漢語で「間諜」と言っても通じないに違いない。今の生徒に通じるように言うのなら、「スパイ」というか、「郵便局からカネ貰ったのか」というしかないのだろう。いずれにせよ、私には味気ない表現のように思われる。
2002/11/17 日曜日 新しさの価値
「新しい」ということが無条件で値打ちのあることのように思われるようになったのはいつからだろうか? 私自身、若かったころ、「そんなの古いよ」と言って古いものを否定した覚えがある。しかし、今になって考えてみると、「古い」ということは長年多くの人々によって受け入れられてきたということであり、評価が定まっているということを意味するように思われる。それを否定するには、それなりの理由が必要となるはずである。これに対し、「新しい」ということは、まだ評価が定まっていないということを意味する。だからよくないとは言えないものの、新しいというだけでよいとは言えない。
英語を習いはじめたころ、new の反対が
old
、young の反対も old ということにまごついたことがある。日本語で「古い人」というのは、老人ということではない。逆にいえば、若者だからといって「新しい人」だとは言えない。新しいからいいのだという考え方は、古いものがよいと考えて新しいものを毛嫌いする考え方と同様に、今では「古い」のではないだろうか? 「古い」「新しい」ということにこだわらず、いいものはよい、悪いものは悪いと一つ一つ見分ける目を養っていきたいものである。
2002/11/15 金曜日 週刊金曜日
だいぶ前のことだが、近所の書店で本をさがしていたとき、おばあさんが店員に「週刊金曜日」というのはないかと尋ねていた。どうも、誰かに頼まれて探している様子であった。店員は、噛んでふくめるように、「フライデー」ならあるけど、「週刊金曜日」というのはないと言っていた。私は、たまりかねて「『週刊金曜日』というのもありますよ」と言った。「週刊金曜日」は、発行部数わずか4万部ほどのマイナーな週刊誌である。主として定期購読料で発行を続けており、とくに契約した書店以外には置いていない。マイナーとはいえ、その編集陣には、筑紫哲也、本多勝一、佐高信など、そうそうたるジャーナリストが顔を連ねており、知る人ぞ知る硬派の週刊誌でもある。
あまり知られていない「週刊金曜日」が思わぬことで脚光を浴びた。拉致被害者曽我ひとみさんの家族の独占インタビュー記事を載せたことからである。それが曽我さん自身を怒らせ、北朝鮮の作戦に乗ったということで批判を浴びている。私もあんな記事は載せるべきではなかったと思う。ジェンキンス氏や娘たちが母親に会いたいと思っているぐらいのことは誰でも分かることであり、あえて報道するには及ばない。しかし、日本のマス・ジャーナリズムも、これを他山の石として反省が必要だろう。日本にいる被害者たちの動静をあれほど連日報道する必要があるかどうかは疑問である。その報道ぶりを知っている北朝鮮側がいらだつ気持ちも分からないではない。
現代の日本人は、マス・メディアが報道しない問題については考えないくせがついている。自ら想像力を働かせることは普段はしていない。今回あきらかになった拉致は、在日韓国・朝鮮人の問題を考える絶好の契機でもあることを私たちは忘れてはならない。北朝鮮で生まれ育った子供たちが日本に来ることの難しさを考えてほしい。まして、日本で生まれ育った在日の子供たちが、本国に行くことの難しさを、経済格差が逆であることを含めて考えてほしい。戦時中の朝鮮人強制連行に比べたら今回の拉致はものの数ではないという北朝鮮の主張は不愉快であり、論じるに値しないが、強制連行中に日本で死んだ人の遺族がまだ韓国や北朝鮮の「坊々曲々(津々浦々)」で健在であることを考えるなら、拉致事件を隣の国の人々への偏見に利用しようとすることは、断じて許されないことである。
1936年のベルリン・オリンピックのマラソンの金メダリストである孫基禎氏が90歳で亡くなった。孫氏のことについては、下記の記事で書いたことがある。改めて御参照されたい。
http://homepage1.nifty.com/forty-sixer/Son.htm
2002/11/13 水曜日 科学的に生きる
近頃あまり聞かなくなった言葉に「迷信」がある。決して死語にはなっていないのだが、私が小さいことに比べ、使う機会が減っているのである。そのころには、古くから伝えられる「迷信」を信じている年寄りが多かったように思う。「夜口笛を吹くと蛇が出る」とか、「夜爪を切ると親の死に目に会えない」といった他愛もないものが多かったのだが、戦後の新しい時代だということで、ことさらに排撃したのだと思う。
口笛と蛇、爪切りと親の死に目の因果関係を科学的に実証することはできない。科学的ということは、可能な限り多くの人を納得させられるということだと思う。科学は因果関係の証明にあたって厳格なルールを設けた。それが、さまざまな発明を生み、われわれの生活を豊かにしたことは否定できない。多くの人を納得させられないような思いこみで、人を傷つけることを避けるためには、科学的に物事を考えるということは、大事なことである。まして、多くの人を納得させられなければならない立場にある政治家や学者は科学的に物事を考えることは、義務といってよい。
この世には科学では説明できないことがあるという。そのことは私も否定しない。しかし、それに代わる超自然的な説明は、科学的な説明ほども多くの人を納得させられない。感情を共有しない人にそれを伝えるルールを持たないからである。現代において、オカルトが流行るのは、科学への過信の裏返しである。科学にも限界があること、いつかその限界がなくなるとは言い切れないことが常識として浸透していたならば、こういったオカルトの出番もないはずである。
しかし、超自然的な力を信じることを一概に否定することも出来ない。信仰によって心の平安を得たために免疫力が高まり、肉体の病気が治るということも大いにありうることである。中国の毛沢東時代、ハリ麻酔による脳外科手術の映像を見たことがある。患者は意識がはっきりしていて会話もできる。痛みはまったくないという。手には毛沢東語録を握りしめている。映像にはトリックはないようであった。しかし、当時の日本人が中国にわたってこのような手術を受けたとしたら、同じようにいったかは疑わしい。
人間の目的は生きることであって、考えることではない。とくに考えることを仕事とする人でなければ、生きるために有用であるなら、科学的に考えなければならない義務はない。その意味で、人類の歴史の中で宗教が果たした力は大きい。人々が、地域、言語、職業、身分、性など細分化された集団に分かれて暮し、グループ間のつきあい方が定式化されていたころには、それぞれの集団内で、共通の感情が起きやすかっただろうし、それを他の集団と共有する必要もなかった。しかし、集団間の壁がとめどもなく破られて行く現代にあって、私たちは、広く意思を通じ合わせる必要から、科学的に考え、生きざるをえないのである。一方で、そういう時代だけに、感情を共有する必要も高まってはいる。しかし、そういう感情の共有が他の人を傷つけるものにならないようにすることは、常に心がけなければならないと思う。
2002/11/10 日曜日 ペットの持ち込み
飲食店などで、「ペットの持ち込みはお断りします」と書いてある店をよく見かける。飲食店なら当然だろうし、ペットに大甘な非常識な飼い主の目をさます効果はあるのかも知れないが、「持ち込み」は、日本語の感覚からしておかしい。「「連れ込み」も変なので、「ペットを連れての御入店はお断りします」ぐらいに書くべきだろう。「持ち込み」は、この場合、なんとも汚い日本語である。
2002/11/04 月曜日 牀前月光を看る
むかし、子供といっしょにジャッキー・チェンの映画を見ていたときのことである。喧嘩になり、相手がジャッキーに「詩をつくってみろ」という。ジャッキーが「ベッドの前に月の光、……」と答えるのが字幕に出る。「お前の詩じゃないだろ」と相手が言う。漢文の授業でよく教えられる李白の「牀前月光を看る 疑ふらくは是れ地上の霜かと」であることは明らかだ。中国では長らく、官僚になるための試験である科挙で試作が必須科目だったので、こんなのが喧嘩の売り言葉になるのかも知れないと思った。
いつのまにか十一月になった。そろそろ年賀状の文案を考える時期である。しかし、霜月だという実感は湧かない。アスファルトや石畳が大半を占める町では、霜は月の光と見まごうほどには積もらない。雪にしてもそうだが、すぐに溶けてしまう。まして、地中から突き上げてくる霜柱の感触とは町は無縁だ。二十四節気にいう「霜降」とは、九月の中気とのことだが、新暦では10月24日ごろに当たるらしい。そのころ、新聞で今日は霜降だというコラムを見た。「そうこう」で変換してもなかなか出てこないなどと書いていたが、この人は頭が固いと思った。「しもふり」で変換して「り」を消せば一発である。
2002/11/01 金曜日 「キム・ヘギョン」の「ヘ」
拉致被害者横田めぐみさんの娘であるキム・ヘギョンさんのテレビ・インタビューについては、二つの方向から批判が相次いでいる。一つは、北朝鮮の思う壺ではないかという批判であり、もう一つは15歳の子供に酷ではないかという批判である。いずれにせよ、あんなインタビューを人目にさらすべきではないと私は思った。
インタビューの冒頭で、自分の名前を漢字で書けますかという質問があった。ヘギョンさんは「書けません」と答えた。漢字を教えることのなくなった北朝鮮では当然のことである。しかし、今でも朝鮮の名前は、漢字を裏に持っている。少女の名前は、たとえば「金惠卿」と書ける。朝鮮の女性名としては、きわめてありふれている。日本の報道では、金正日一族に同姓同名がいるなどということが報じられているが、[キム・ヘギョン」がいかに向こうでは平凡な女性名かということを知らないからではないかとも思う。
「キム・ヘギョン」の「ヘ」は、日本では「ケイ」と読む漢字に多い。「ケイコ」の「ケイ」の多様さを考えてほしい。その中で、ヘギョンさんの「ヘ」は「恵」である可能性がかなりあるように思う。女性に「惠」という漢字を含む名前をつけることは、南北を問わず隣の国では多かった。キム・ヒョンヒの教育係とされた「李恩恵」という人もいた。日本でなら、「惠」の字は、「めぐみ」と読むであろう。
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