よしなしごと2002年1月

 としのはじめのためしとて 箱根駅伝 写真 韓国の受験事情
ナツメロ クチコミ カメラの進化 成人式 150万人
ひげ  通信簿  中田正一と風の学校  プレッツェル
  不許葷辛酒肉入山門  秋味  
テープ起し  奇遇
  真面目な話  カプセル・ホテル

2002/01/31  木曜日  カプセル・ホテル  

 衛星放送が見られるようになったとき、世界各国の定時ニュースをあちこち見た。フランスの定時ニュースで、パリのオルリー空港の近くに、ひどく狭いホテルが開業したことを報じていた。ベッドのほかにはスペースがほとんどない狭い部屋であった。「いくら安くても、いったい誰が泊まるんでしょうかねえ」というコメントがあった。コメントは、「日本にはもっとすごいのがあります」と続き、カプセル・ホテルの映像が紹介されていた。

 私は、カプセル・ホテルに一回だけ泊まったことがある。身一つ横たえるだけの空間に金を払うのだが、少なくとも寝台車や座ったままで眠らなければならない飛行機よりは快適である。枕元の電気をつければ、他の客の迷惑にもならずに本を読むこともできる。ただし、絶対に許されないのは喫煙であり、吸いたくなったら、喫煙場まで足を運ばなければならない。当然、喫煙を防ぐために、すべてのカプセルがテレビで監視されている。ふと、このホテルが火事になったら、焼け跡はどうなるのだろうと考えた。アウシュビッツの焼却炉などを思い浮かべると、たしかに、あまりいい気はしなかった。

 それ以来、カプセル・ホテルはさすがに敬遠したくなるが、私は、旅行をするとき、あまり宿にはこだわらない。旅行というのは、起きているときに旅先でふだん見られないものを見たり、ふだんできないことを体験したりするところに魅力があると考えるからである。そのための費用を捻出するためなら、宿代はできるだけ切り詰めたい。宿だけが目的なら、自分の住んでいる町でもかまわない。海外旅行の場合は、一流ホテルなど万国共通だからつまらないと思う。身の安全さえ保障されるなら、カプセル・ホテルでも構わないと思っている。

2002/01/29  火曜日  真面目な話  

 「マジ」という若者語がある。「マジメ」の略語と思われているが、それは違う。「マジメ」とは継続的な生活態度である。これに対して、「マジ」とは、一瞬の構えである。強いて翻訳するなら「本気」というのがふさわしい。「マジかよ?」といって若者は相手がマジになるのを牽制する。そのくせ、自分に都合のいいときには「マジ、たのむわ」という。その用法は、単に「フリーターしてます」と言えばいいものを「フリーターとかしていまァす」とぼかすのと同じ心性から生まれてくる。若者は「マジ」になるのが怖いのである。「マジメ」は漢字で「真面目」と書く。まじまじと見つめる目だから「真面」と書く。授業中「真面(きらきら輝く目)」で聞いている生徒を見ると嬉しくなる。

 「マジメ」を漢字で書くときには必ず「真面目」と書くが、「真面目」は必ずしも「マジメ」と読むとは限らない。「シンメンボク」と読むこともある。「マジメ」を意味する「真面目」が「真面・目」と分けるのに対し、こちらは「真・面目」と分ける。「面目(メンボク)」とは「本領」ということである。長いスランプに落ち込んでいたスポーツ選手が本調子を取り戻したときに、「面目を施した」という。

 「真面目」という言葉は、中国にもある。しかし、日本の「真面目」がよい意味の言葉であるのに対し、こちらは良い意味ではない。日本語の訳語としては「正体」というのが適当である。マジメぶっていた人が仮面を脱ぎ捨てたときに使われるのが、中国語の「真面目」であるようだ。

 「東海林」という苗字の人を知っている。「ショウジ」ではなく「トウカイリン」と読む。よく「マジでぇ?」と言われるそうだ。同じ漢字だが、秋田県では「ショウジ」、山形県では「トウカイリン」が常識だ。本人は関西生まれだが、両親は山形県の出身である。

2002/01/28  月曜日  奇遇  

 去年の冬の朝、タクシーに乗った。「京都は寒いでしょうなぁ」と運転手が言う。唐突な感じがして思わず「はぁ?」と言った。その日、京都では駅伝があった。娘が兵庫チームの選手として出ているのだという。仕事があって思うように応援に行けないとぼやいていた。降り際に名札を見て「岡本さんですか?」と言った。「『岡本ハルコ』といいます。応援してくださいよ」と言う。その名前を知らなかった私は、新聞で兵庫チームの主将の名前が「岡本治子」というのを確認した。

 昨日、大阪国際女子マラソンがあり、テレビで観戦した。ケニアのキプラガト、弘山晴美についで、神戸の須磨学園高校出身の岡本治子が3位でゴールインした。私が去年会ったのがその父親であることは間違いないだろう。応援していたことを、ここに報告しておきたい。

2002/01/27  日曜日  テープ起し  

 テープ起しを何度かやったことがある。テープ起しとは、会議や集会などの録音を聞き取り、文章にまとめる作業であり、最近は「テープ・リライティング」などと称して、通信講座まである。テープレコーダーが普及し始めたころ、これで速記というものはなくなると言われた。しかし、テープの録音を仮にたくさんダビングして配ったとしても、2時間の会議の録音を再び2時間かけて聴く気になる人はいないだろう。大量に配る必要があるときには印刷のほうが能率がいいためもあって、テープを文章にしてまとめるテープ起しという作業が必要になってくるのである。

 私は速記を知らない。そのため、まずすべてをかなで書き取る。かなは横書きで連綿と続けるには不向きなので縦書きで書いていた。しかし、キーボードを速くたたけるようになってからは、無変換にしてひらがなでパソコンに打ち込むようになった。この方が、あとでそのまま編集すればよく、書き直す手間がないのでずっと楽である。しかし、手書きにせよ、キーボードをたたくにせよ、そのスピードは録音に追いつかないので、何度もテープを一時停止し、巻戻してはまた聞く。では、テープを書き取れるぐらいの速さで再生したらどうかと思われるかも知れない。手元に再生スピードを細かく指定するテレコなどないが、仮にそんなスピードで再生しても、まったく何も聞き取れないそうである。だからそんなテレコなど売り出されていない。こんなとき、速記を知っていたら、どんなに楽だろうと思うのである。

 テープ起しとは、発言を一字一句書き留めることではない。テープ起しをしてみると、人間の話し言葉には何て無駄が多いのだろうと思ってしまう。「あ〜」とか「え〜」とか言っている時間が半分以上を占めるのではないかと思われる人も珍しくない。比較的無駄のない人でも、文章にしたら不要な繰り返しなどをたくさんしているし、言いよどんで無言の時間もけっこう長い。こういった無駄を省くだけでも、原稿はぐんと短くなる。

 そういった無駄を省いてさえ、聞き取ったことをそのまま原稿にしたのでは、まだだらだらした感じはぬぐえないので、テープ起しとしては失格である。文章として読めるようにするには、編集が必要である。そういう要約の作業は私は得意なのだが、ここにいたるまでのしんどさは、テープ起しをしたことのない人には分からない。一時停止、巻戻し、再生を小刻みに何度も繰り返す作業は、実にしんきくさく、進んでやりたいとは思わないほどの苦行である。テープ・リライティングで稼ごうと思うのなら、速記を身につけてからにしたいと思う。編集を終えた記録は簡潔であり、2時間の会議のあらましを20分程度で読むことができるのだから、テープ起しは今後も必要とされることだろう。

 裁判所には、法廷で語られる言葉をキーボードをたたいて、リアルタイムで打っている人がいる。キーボードをたたくのが普通よりかなり速い私も、あれには神業と脱帽せざるをえない。裁判の場合は、受け答えの一字一句が問題になることも多いと思われるので、あのまま記録として残されることになるのかも知れないと思っている。

2002/01/26  土曜日    

 私の住む兵庫県南部は瀬戸内気候であるから、日本でも最も雪が降らない地域に属する。しかし、兵庫県でも北部の但馬地方は雪が降り、スキー場もある。しかし、今年は暖冬気味とのことで、雪不足に泣いているようだ。私の住んだ中では、京都が比較的よく雪が降る。大学のとき、鴨川の河原で同級生たちと雪合戦をしたことを思い出す。童心に返ってというより、まだ子供だったということかも知れない。試験のために、しんしんと降る雪の中で何人かで泊り込みで勉強をした。朝一面の雪景色だったので、試験を受けたあとみんなで大原の三千院に繰り出した。山中の雪景色は、市街地よりもまた一段と趣が深かった。

 雪国の人と私とでは、雪に対する感覚が違う。電車に乗っているとき雪が降り、線路が隠れそうだったという話を福井県出身の友人に得々と語ったとき、「そんなの小雪や」と一蹴された。教師になってスキーの修学旅行に行ったとき、宿のおばさんがおかしそうに笑っていた。生徒たちが、せっかく雪を掻き分けて作った道を歩かず、わざわざ新雪の中を歩いているからであった。今は、雪のおかげで暮している民宿の人たちだが、スキー・ブームが起こるまでは、雪は生活の妨げ以外の何物でもなかったことだろう。日本の北陸地方は、世界一雪がたくさん降るところらしい。北陸より寒いところは、世界中にいくらでもあるが、たいていの地域は乾燥しているから、北陸ほど雪が降らないのだという。

2002/01/25  金曜日  秋味  

 出張先の近くの自動販売機でキリンの「秋味」を売っていた。季節はずれなことおびただしいが、思いがけないことだったので、喜んで買った。この味の濃いビールが秋しか売られていないのを残念に思う。最近、アサヒが40何年ぶりにキリンから王座を奪回したとのことだが、私はスーパードライなどのアサヒをまったくうまいとは思わない大のキリン党である。キリンはラガーの生(なま)化で味噌をつけたように思う。今さら「クラシック・ラガー」などと銘打って売り出しても、後の祭りにしかならない。

 私の住む兵庫県は日本一の日本酒の産地である。全国的に名の通った銘柄以外に、江戸時代以来、一品しか作っていない中小メーカーが兵庫県には多い。その点では、ドイツにおけるビールも同様と思う。新製品の売り出しで人気を繋ごうとするようでは、日本のビール文化は底が浅いとしか思えない。一方で、阪神・淡路大震災で、由緒ある日本酒の酒蔵がたくさん壊れた。それでも一品生産の中小メーカーの多くが再建されたのだから、その努力には敬服する。

 昨秋の「秋味」の販売期間は例年より短くてがっかりした。新発売の「白麒麟」を冬物として早く売り出すためだったようだが、この「白麒麟」のあまりのまずさに驚いた。いくら安い発泡酒でも、あれでは飲む気になれない。

2002/01/24  木曜日  不許葷辛酒肉入山門  

 お寺の入口に、「不許葷辛酒肉入山門」と書かれていることがある。「葷酒」とか「酒肉」だけの場合もある。漢文としては、「くんしんしゅにくさんもんにいるをゆるさず」と読む。「葷」はにおいの強い植物の総称、「辛」はもちろん辛(から)いもので、酒肉は説明の必要がない。

 江戸時代のこと、あるお寺の和尚が、肉を食べながら酒を飲んでいたところを、檀家の人に見とがめられた。和尚は、これを「くんしんはゆるさず、しゅにくさんもんにいる」と読むのだと強弁したという。にんにくやとうがらしはなくてもいいけど、酒と肉だけは見逃してほしいということらしい。

 たしかに、和尚のような強弁は、理屈をつければ漢文では可能である。しかし、漢文を知る人がこのような解釈をすることはまずないと思う。和尚のような解釈の内容を漢文で誤解のないように記すなら、「在山門内可飲酒不可食葷辛」とでも書くべきだと思う。
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 なお、新年に入ってからも日記の日付を2001と書いてきたことに今日になって気が付いた。これ以上歳をとりたくないという潜在意識のあらわれかも知れない。

2002/01/22  火曜日    

 茶の発祥地は中国であるが、今では世界中に広まり、さまざまな形で飲まれている。最近の日本では、自動販売機でさまざまな茶が買えるようになった。原価からいえば、一本120円は暴利と思うが、寒い冬にどこでも手軽に熱いお茶が飲めるのはありがたい。缶入りの茶が売り出されるまで、自動販売機で売っている飲み物といえば、甘いものかアルコール入りのものしかなかった。そのどちらでもないものがあったらいいなと私は前から思っていたのである。

 家や勤め先にいるときは、缶入りの暴利の茶を飲む必要はない。学校の職員室で茶を飲みたいと思ったときにはその都度自分で入れる。女子教員が入れてくれるなどということはありえない。その方が気楽だと思うのだが、女子社員が茶を入れるほうが、会社などでは普通らしい。ただ、学校でも、お客さんが来たときに茶を入れるのは女子事務員の仕事となっているし、保護者会のときなどには、女子教員が受付に当たる場合が多い。

 意外なことに、中国では急須を使わないことが多いようだ。茶葉をそのまま湯飲みに入れ熱湯を注ぐ。茶葉が浮いているので飲みにくいと思うだろうが、入れたての茶はそうでなくても熱すぎて飲みにくい。茶葉がふやけて底に沈んだころが、ちょうど飲みやすい熱さになっている。なるほどと思ったものである。

2002/01/21  月曜日  プレッツェル  

 USAのブッシュ大統領がプレッツェルなるお菓子をのどにつまらせて倒れた。しかし、よほどの年寄りならともかく、55歳(私も)の男がそんなことだけで倒れるわけはなく、何か他の原因もあるのではないかという医者が多いようである。意識を失っていた時間は短く、ことなきを得たが、もっと重大な発作なら大変なことになっていた可能性もある。大統領ともあろうものが、SPもつかず、家族もいないところで、二頭の犬だけをそばにおいて一人でテレビを見ていたというのも面白い。誰だって一人になりたいときはあるから、たまにこういう時間を設けたほうが大統領の精神衛生にいいことは確かだろう。

 それにしても、プレッツェルという菓子の名は、私たちには耳慣れない。酒の肴に炭水化物というのにも違和感を覚える。しかし、肉と野菜が中心の欧米系の食事は、一般に炭水化物に乏しい。その分をおやつで補っているのであろう。欧米でケーキやアイスクリームを食べるデザートという習慣が生まれたのも、中心となる食事に炭水化物が乏しいからのようだ。こういう食事の体系を考えずにデザートという習慣を導入するのはおかしい。本体ですでに炭水化物の多い食事にデザートを加えたら、炭水化物は過剰となり、肥満などさまざまなトラブルを引き起こしてしまう。

2002/01/20  日曜日  中田正一と風の学校  

 今日の「知ってるつもり」で中田正一(なかた・しょういち)を取り上げていた。中田は農林省を定年退職後、アフガニスタン、バングラデシュなどで農業協力に努めた人である。その経験を踏まえて、農業協力者を養成する「風の学校」を開いたときは、なんと78歳だった。それから84歳で亡くなるまでの6年間が、中田の人生の中で最も充実した時期であった。

 この番組を見る気になったのは、沢木耕太郎が彼について書いた文章「風の学校」を授業で取り上げたことがあるからである。沢木のこの文章は、新潮文庫の『彼らの流儀』の中に収められているので、中田や風の学校について詳しくは同書をお読みいただきたい。また、中田自身の著書『国際協力の新しい風-パワフルじいさん奮戦記-』が岩波新書に入っている。

 中田の本領は、徹底した現地主義だった。中田は、日本の援助で贈られた高価な機械が、わずか1〜2年で野ざらしになっているのにショックを受ける。修理をする技術も、部品を買う金もないからである。「金より人、物より技術」というのが中田のモットーだった。そして、機械は現地にある物で作れ、技術も現地の人が習得できるものでなければならないとする。このような中田の考えを、「風の学校」で彼が育てた後継ぎたちが、井戸掘りなどの形で実践していく。高齢の中田が世界中を飛び歩いたのは、使命感にかられてというのではなく、もっと自発的な意志からだったように思える。そのようなエネルギーを私も一生持ち続けたいのだが、では、そのようなエネルギーが自分にあるのか、さらには自分にはできることが果たして何かあるのかと考えてしまう。

 中田の海外援助活動の出発点はアフガニスタンだった。そのことは中田も強く意識していて、ソ連軍が引き揚げたものの外国人の入国が許されなかったときに、高齢を押して潜入を試みたというのだから驚く。中田の夢はアフガニスタンを緑あふれる国にすることだった。その死後すでに10年が経っているが、その国の現状を中田が生きていたなら、どんなに怒り、また、悲しんだことだろうと思わずにはいられない。

 なお、ネット上では下記のページが参考になる。

http://www.ntv.co.jp/shitteru/next_oa/020120.html

2002/01/19  土曜日  通信簿   

 通信簿とか通知簿とか「あゆみ」とか言うが、法律上は、学校は別にそんなものを出さなくてもよい。したがって、出すにしても、名称も形式も自由である。なぜ、親と学校をつなぐ手紙に法的根拠がないかというと、日本の学校は、国家と子供の間で成り立っており、親などは関係がないからである。誘拐事件を扱ったテレビドラマで、逮捕を強行すると子供が殺されるかも知れないという部下の刑事を、上司が、「わしらの仕事は、秩序を乱す犯人をつかまえることだ!」とどやしつける場面を見たことがある。これも同じことで、国家と犯人の間の関係にのみスポットが当てられていて、被害者などは関係がないのである。経済の構造改革が有効かどうかは別として、こういう政治の構造改革も必要だと思う。

2002/01/18  金曜日  ひげ  

 私の知っているある小学校の先生が、久しぶりに会ったとき口ひげをたくわえていたのに驚いた。なぜ驚いたかというと、ものすごい童顔だからであり、似合わないことおびただしいと思ったからである。しかし、考えてみれば、いろいろ物事が分かってきた高校生を教える立場と違って、小学校の先生は顔が幼いと、子供たちから軽く見られるせいかも知れないと思った。

 明治の偉人たちを見るとたいていひげを生やしている。ひげは近代化のために背伸びしていた開化期の日本にあっては、威圧の手段として最適だったのだろう。しかし、現代はそんな威圧の手段は、かえって「ダサイ」と卑下される時代である。

 私たち東洋人は西洋人に比べひげが薄い人が多い。濃いのは鼻の下の両端であり、そのまま伸ばすといわゆるどじょうひげになる。ひげが薄いから、日本語ではひげという言葉が分化しなかった。英語では口ひげはmoustache、顎ひげはbeard、頬ひげはwhiskerと言い分ける。さすがにひげの濃い西洋人の言葉だといいたいところだが、日本人同様、ひげの薄い中国人が作った漢字でもそれぞれ「髭、鬚、髯」と書き分ける。東洋人にも少数派とはいえ、ひげの濃い人はいるからである。

2002/01/17  木曜日  150万人  

 今朝、1時間目に授業があった。全校放送で全員起立し、黙祷した。
 マスコミがフラッシュ・バックしてくれなければ、今日が何の日か覚えている人は、全国的には少ないだろう。阪神・淡路大震災で亡くなった人の大半は、神戸・芦屋・西宮の3市に住んでいた。そのうちの150万人が神戸市民である。150万人といえば、日本の人口の1%強、80人に一人ぐらいの割合だ。私はこの150万人という数字に因縁を感じている。今年の新成人は150万人だったと聞く。日本に定住している外国人(そのうち4割は韓国籍か朝鮮籍)も150万人である。1%という数字を大きいと感じるか、小さいと感じるかは、人によって違うのかも知れない。今年20歳を迎えた人が新成人であるなら、どうでもいいほど少ない数だとは私は思わない。私自身も体験した震災の被害がまだ調査中だったときに、「東京で地震が起こったら」と書いた週刊誌や、日本は単一民族国家だと信じ込んでいる人たちの「無邪気さ」は救い難いと思う。今の被災地は、地震などなかったかのように賑わっている。しかし、今もあの天災から立ち直れないでいる人も、まだまだ多い。私自身、被災地に住み、地震を体験しながら、そのことを忘れがちな自分に喝を入れる日が、今日の震災記念日なのである。

2002/01/16  水曜日  成人式  

 成人式があると暴れる若者がいて情けないという報道がなされる。しかし、成人式というのは、本当に必要なのだろうか? 当たり前の話だが、私も新成人だったことがある。しかし、成人式には出なかったし、出ようと思ったこともない。私から見れば、成人式に出ること自体が情けないという考え方もあるように思う。自分で成人だと確信できたときが成人なのであって、他人に成人と認めてもらう儀式にわざわざ出るのはおかしいと思うからである。

 成人式で暴れるのは、どう見ても感心できる行いとはいえない。厳粛な儀式にどうしてあんな場違いな連中が出てくるのかと嘆く自治体関係者も多いことだろう。しかし、実は、暴れる新成人こそ、成人式を最も必要としているのである。彼らの多くは、それまで余り大人たちから褒められたことがない。そういう自分たちが主役になれる数少ない機会だと思って、いそいそと式場に出かける。しかし、その場で彼らがいちばんしたいことは、もう大人のいうことを聞く子供ではないということなのである。あまり、それまでの人生に満足していない彼らであるから、その気持ちは大人への反発を示すということしかない。そして、その方法を考えるほどの訓練を受けていないから、市長に向ってマヨネーズを投げつけるというような幼稚な行動となる。

 私は、世の中に反発を感じるということ自体が悪いことだとは必ずしも思わない。しかし、私が言いたいことは、すぐ負けてしまうような形でそれを表現するなということである。彼らのなすべきことは、自分の反感を洗練させることである。自分の反感がどこからくるのかを正確にとらえること、それをすぐに負けない方法で表現することである。しかし、この二つの課題は、彼らにとってとてつもなく難しい。自分の気持ちをきちんと言葉で表現したい、大人たちに耳を傾けさせたい、という気持ちは彼らも持っているだろう。しかし、自分にはそれができないという無力感が彼らにはある。成人式での暴発の何よりの原因は、この無力感なのである。

 去年の成人式でひどい目にあい、今年の成人式を無難にすませた市長が、うっすらと涙を浮かべる映像がテレビで流された。涙を見逃さなかったアナウンサーがそれを指摘すると、市長は「成人式は、私のトラウマになっていましたからね。」と答えた。市長に知ってほしいと思うことは、涙を流すほどの無力感が、彼らにとっては日常なのだということである。地位のある市長は成人式を無事に済ますことができる。しかし、彼らには何らの手段もないのである。

 だから、どうしたらいいのか、と問われても、私は即答ができない。ただ、言えることは、あのような若者たちがいるということは、この世の中が必ずしもうまくいっていないということの証明になるということだけである。地位や力や知恵のある人たちがまずなすべきことは、あのような若者たちの存在に目を向けることであって、目をそむけることではない。それによって問題が解決するわけではないが、その方向に向けて一歩を踏み出すことになることは確かだろう。世の中に反発を感じること自体が許されないということばかり言っていても、それは彼らの疎外感をますます深めるだけに過ぎないように思う。

2002/01/12  土曜日  カメラの進化  

蘇州の「天下第一泉」にて。  私の小さいころの写真はすべて白黒である。小学校のころ、集合写真を撮るときに、マグネシウムを焚いていたのを思い出す。今からみれば、なんとも大掛かりな装置であった。日本でカラー写真が普及しだしたのは、ようやく私が高校に入るころであった。それも初めのころは、撮ったフィルムがそのままポジになり、スライドとして見るものが普通で、今と同じプリント用のものはだいぶ割高だった。それが今では、写真はカラーが当たり前の時代になっている。フラッシュも手軽になり、使い捨てカメラでもフラッシュのついていないものはほとんど見かけない。

 1979年に中国に行った。当時はまだ経済開放が本格的には始まっていなかった。中国の国産フィルムはまだ白黒で、パッケージを読むと、なんと「夏の暑い日には写らないことがある」などと書いてあった。カメラの普及がようやく始まったばかりといったところだったが、中国人が持っているカメラの中には、当時の日本でも懐かしかった二眼レフもあった。同行の人の中に、街中の写真屋に入って写真を撮った人がいた。そのあと、なんと色付けをしてもらったのである。あとで見せてもらったとき、何よりの記念になったのに、自分もすればよかったと後悔した。こういう職人芸は、カラーの時代には消滅してしまう。フジやコダックの普及した今の中国では、もう過去のものになっていることだろう。

2002/01/09  水曜日  クチコミ  

 クチコミの威力を痛感したことが2回ある。1度目は学生時代に塾で教えていたとき、小学生たちが噂していた「口裂け女」の話を聞いたときである。そのときは、「しょうもないことを言っている」と思っていた。後姿のまま「私、きれい?」と問う女が振り向くと、口が耳まで裂けているという話であった。ところが、この話が小学生同士でクチコミで広まり、ついにマスコミが報道したとき、クチコミってすごいなあと思ったものである。

 2度目は、私の住む県で起こった少年事件であった。校門に小学生の首があったという事件である。ある日、私は勤め先で少年の実名を知った。家に帰ってその話をすると、妻はとっくに知っていた。同じ県なのだから、私の家の近くの主婦のうちたった一人にでも少年の家の近くに住んでいる親戚知人がいたら、主婦のクチコミでたちまち広まってしまうからであった。

 インターネットは、クチコミに翼をつける。めったなことをゆめゆめ書くものではないと、誰もが自戒しなければならない文明の利器だと思う。

2002/01/08  火曜日  ナツメロ   

  大学に通っている卒業生からメールが来た。その中でゴダイゴの歌のことを「ナツメロ」と書いていた。考えてみれば当然のことなのにまごついた。私たちの世代にとってのナツメロってなんだろう? いま、吉永小百合が「21世紀は来ましたか?」と語りかけるCMが流されている。そのバックに流れる「いつでも夢を」(橋幸夫とのデュエット曲)あたりが私たちの世代にとってのナツメロだろう。ナツメロという言葉は、私が小さいころからあった。そのころナツメロを歌っていたのは、霧島昇とか渡辺はま子とか、今の若者がまったく知らない歌手たちだった。ナツメロという言葉を最初に覚えたのはそのころだから、今でもナツメロと聞くと、そのあたりの歌を思い出してしまう。言葉自体としてはどの世代も使っていながら、思い浮かべる対象が世代ごとに全然違うという言葉があるのは面白い。

 私たちの一つ上の世代は、プロの歌手の歌をラジオかレコードで聴いていた。そのため、関心はもっぱら歌にあった。私たちが高校生になったころの歌手を、上の世代が歌がうまいかへたかでしか批評しないのをきいて、「分かってないなあ」と思っていた記憶がある。自分たちはよほど新しい世代のように思っていたのに、いつのまにか、若者の歌をまったく真似できない年齢になってしまった。霧島昇なんて知っているんだから、自分がめちゃめちゃ古い世代なのだということを痛感する昨今である。

2002/01/07  月曜日  韓国の受験事情  

 新年が来た。しかし、大学受験生にとっては、のんびり正月気分を楽しむわけにはいかない。受験地獄という言葉ができてから久しいが、受験地獄の元祖は中国の科挙である。世界中どこでも、「生まれ」によって身分が決まるのが普通だった時代に、中国では科挙という官吏登用試験が行われていた。近代になって、まずフランスがこれに着目して高等文官試験を行ったのがヨーロッパ中に波及し、それが世界中に広まって今日の日本の受験地獄が生まれた。

 日本の受験地獄は、ヨーロッパ経由で成立したものであり、科挙を行う国のすぐ近くにありながら、この制度を導入することはなかった。しかし、中国と陸続きの朝鮮半島では、この制度を古くから導入していた。そのため、韓国の受験事情は、その伝統を受けて、日本に輪をかけて厳しい。

 日本でも東京一極集中が問題にされているが、韓国のソウルへの一極集中は日本の東京を遥かに上回る。受験に関して言えば、まず京大に当たるものがなく、東大にあたる国立のソウル大学が屹立している。ソウル大を諦めた受験生が入る大学としては、ともに私学で、やはりソウルにある高麗大学と延世大学がある。イメージとしては、高麗大は日本の早稲田、延世大は日本の慶應に当たるらしい。ある新聞が、3大学を比較して「金があったら」というコラムを載せた。ソウル大生は「本を買う」、高麗大生は「酒を飲む」、延世大生は「靴を磨く」というのである。軟派あつかいされた延世大生が怒って新聞社にデモをかけたというおまけまでつくが、どこまで本当の話かは責任が持てない。

 かつて、科挙の合格者が出ると、親戚一同が期待をかけて集まったという伝統のせいか、親戚の大学受験にかける韓国人の期待は日本以上のものがある。受験のため校門をくぐる受験生を親戚一同が文字通り鳴り物入りで送るというから、受験生たるもの、落ちたら恥ずかしくて故郷に帰るのが辛い。かつて学生運動華やかなりしころ、それを取材した欧米のどこかの局の制作のドキュメンタリーを見たことがある。主人公は離島の漁師の息子、島始まって以来の秀才と言われたが、ソウル大を落ちて高麗大に入った。その主人公が取材を受けて、「先輩たちの言うことはよく分かるけど、あんなに喜んでくれた島の人たちを裏切れない」と答えていたのが印象的である。そのくせ、ときどきデモに参加して腕を振り上げている映像も映し出されていた。

 一種のおまじないなのか、韓国中の大学の校門や石垣が受験の季節には水あめだらけになる。応援にかけつけた親戚一同が絶対ここに入るという願いをこめて投げつけるせいだという。もちろん、韓国も日本と同じですべての人が大学に入るわけではないのだから、それをぶつぶつ言いながら片付けているのは、大学を出ていない職員たちである。どういう成り行きだったのか、遅刻しそうになった受験生をパトカーがサイレンを鳴らして送り、そんなことにパトカーを使ってもいいのかと問題になったこともあった。

 韓国の受験事情が日本以上に厳しいことはお分かりいただけたと思うが、受験事情の厳しさで韓国をもしのぐのがシンガポールだという話を聞いたことがある。シンガポールのことは知らないので詳しくは書けないが、読者の中でご存知の方がいらっしゃったら、掲示板かメールでお知らせいただきたい。

2002/01/04  金曜日  写真   

 真を写すと書いて「写真」という。しかし、写真は必ずしも真を写さない。一枚の写真をもとに予断を持った上で本人に会うと、ずいぶん予想と違うということが珍しくはない。生きている人間の表情は絶えず変っている。とくに気にかけているわけではない異性の一瞬のまなざしに胸がキュンとなることもあれば、憧れの人の思いがけない表情に百年の恋もさめる思いをすることもある。写真は絶えず変化する表情の一こまをしかとらえない。電車内の中吊り広告の写真をじっと見つめつづけてみると、どんな美男美女でも、何か気味の悪い思いにとらわれることがある。よく「能面のような顔」というが、能役者は動き回ったり、顔を上下させたりして、能面に表情を持たせようとする。しかし、写真は変化しない。アングルを決め、光の当て方を決めてシャッターを押してしまえば、それまでである。

 日本の警察はよく似顔絵を利用する。その方が通報が多く、逮捕にも結びつくことが多いからだという。写真からは伝わらない「人格」が絵からはよく伝わってくるのであろう。絵を描く人は人格を見極め、それを絵に表現する。しかし、カメラは機械にすぎないから、人格をよく表す場面も表さない場面も区別しない。このような写真の限界を最もよく知っているのは、プロの写真家かも知れない。写真家は、自分の思い描いたイメージにぴたりとかなう瞬間が来るまで辛抱強く待ち、シャッターチャンスが訪れたときにそれを逃がさないところがプロなのであろう。

2002/01/02  水曜日  箱根駅伝  

 正月の恒例行事に箱根駅伝がある。首都圏の大学しか出ていないのにも関わらず、なぜか関西でも放映されている。今年は、私の実家のすぐ近くにある神奈川大学が往路優勝を達成した。

 ところで、箱根駅伝に出る大学といえば、ずいぶん前から決まっているように思う。どちらかというと、蛮カラ・イメージの強い大学が多く、ハイカラな大学は少ない。そして、すべて私立である。今年の場合は、「早稲田、中央、法政、日本、専修、駒澤、大東文化、東海、亜細亜、帝京、日本体育、順天堂、神奈川、関東学院、山梨学院」の15校であるが、毎年あまり変り映えがしない。目立つところでは、明治や東洋大が入っていないことぐらいだろう。

 これに対して、慶應義塾、上智、青山学院、立教、学習院、明治学院、成蹊、成城といったハイカラ・イメージの大学が箱根駅伝に出たという話はあまり聞かない。首都圏はもともと人口の絶対数が多い上、よそから来る人も多いのであまりにも大学が細分化されている印象をうける。

 関西の場合は、これほどはっきりとは分かれない。強いていえば、ミッション・スクールの同志社と関西学院がハイカラ系、そうでない立命館や関西大学が蛮カラ系ということになるが、その区別は首都圏ほどはっきりしていない。廃部寸前の相撲部を描いた「しこふんじゃった」という映画があった。主演は本木雅浩で、大学のモデルは明らかに立教大学と思われた。しかし、関西では同志社の相撲部は名門であり、のちにプロになった藤ノ川(服部)らを輩出している。このような多様性は、人口が首都圏ほどではないということから来ているのかも知れないが、いいことだと思う。

2002/01/01  火曜日  としのはじめのためしとて  

 私が小学校に入ったばかりのころ、私が家で「春の小川はさらさらゆくよ」と歌っていると、祖母(故人)に「え? さらさらながるじゃないの?」と言われたことを覚えている。戦後、子供の歌はやさしい言葉でということで、歌詞を変えさせられた歌は多い。この歌の一番の場合はもう一ヶ所、最後の部分が「ささやくごとく」が「ささやくように」と変えられていた。私は、歌の場合は、ふだんと違う言葉でもよいという考えであり、このような改作にはあまり賛成できない。「ながる」が「ながれる」の意味だぐらい、小学校の低学年でも分かるのである。「昔の言葉は今の言葉と違うんだな」ということを小さいころに印象づけておけば、大きくなって古文の勉強にも役立つ。私の高校時代には、意味も分からず覚えていた歌詞の意味を、「ああ、そういう意味だったのか!」という感じで分かることが楽しくて古文の勉強をしていたように思う。映画の題名とか、新聞の見出しにも文語調は残っていた。そういうことのない今の高校生の古文の力が私たちのころより落ちているのは当然のことである。生徒たち自身にとってもモチベーションがなくなって、古文は単なる苦行になってしまっているように思う。

 一方で、意味も分からず覚えた文語調の歌も、私たちの世代の場合は、意外に多かった。「としのはじめのためしとて」という「一月一日」の歌がその好例である。「ためし」という意味を話し言葉で「習慣」という意味で使うことは、私たちのころからすでになかった。そのため、何かやってみようかなあということかなと思う程度で、私たちにはこの歌の意味がよく分からなかった。一番の最後の「いおうきょうこそたのしけれ」も意味が分からなかった。「いおう」が『祝ふ」であり、「こそ〜けれ」というのが係り結びで、要するに「楽しいなあ」という意味だということを知ったのは、だいぶあとのことである。この点は、戦前の小学生も同じだったようで、叔父から教えてもらったこの歌の替え歌をいまだに覚えている。

 替え歌は、明治24年、岐阜県の根尾谷断層を中心に岐阜、愛知にかけて起こった未曾有の内陸型地震である濃尾地震を元にしていた。大正の関東大震災よりあとに生まれた叔父の世代にまで語り伝えられたほど、ひどい地震だったらしい。「としのはじめのためしとて、おわりなごやのおおじしん、まつたけでんぐりがえしておおさわぎ、いもをくうこそへがでるぞ」というのが、その替え歌の歌詞であった。
 歌というものは、非日常を演出するものだと思う。日ごろの授業までこけおどしの文語でする必要はまったくないが、非日常の歌ぐらいなら、意味も分からぬまま歌わせることがあってもよかったのではないかと私は思う。子供には分からない大人の世界があるのだということを、小さいころから印象づけるのは、子供がそれに近づこうとする努力を生み出すという意味で、むしろ必要なことではなかったかと今では思っている。