よしなしごと2001年8月

  八月一日  「せんじ」と「たわけ」  ハーフとダブル
原爆忌  長崎の鐘  横浜今昔  甲子園の黙祷  ネクタイ
自動販売機  東京には空がない プータロー  江戸は何倒れか?

2001/08/26   日曜日   江戸は何倒れか?  

  京の着倒れ、大坂(明治まではこう書いた)の食い倒れということは広く知られている。では、江戸はいったい何倒れなのだろう? 「行き倒れ」だなどという冗談めいた評価もある。もともとは、上方から広まった比較文化論のようで、江戸は視野には入っていなかったらしく、これに「堺の履き倒れ」というのが加わっていた。履物に凝るというのは、今でもあり、何千足もの靴を持っていたというフィリピンのイメルダ大統領夫人などは、その極致と言える。韓国・朝鮮には子沢山の家は生活が大変だという意味で、「むかでの足に靴を履かせる」ということわざがある。

 京の着倒れは、江戸時代以来のものらしく、朝鮮通信使に随行した製述官申維翰の著『海游録』にも書いてある。鎖国下にあって外国使節の行列というのは、一生に一度見られるかどうかというほど珍しいものだった。それだけに、行列見物には着飾った群集が押しかけた。通信使一行にとっては、大坂が初の大都市だっただけに、大坂の人々の服装のきらびやかさにも驚いているが、つぎに淀川を遡って京都に行ったときには、「大坂以上だ」と驚いているのである。

 江戸については、「見倒れ」という言葉もあるらしい。これは芝居好きということなのだが、何事にも物見高いという意味にもとれる。実際、今も首都圏の人が何か新しいものができると、人に遅れまいと大挙しておしかけるのを見ると、あたっているという感じもする。この見倒れ文化は今では全国化し、大阪にもUSJなどができたが、物見高さという点では、今も関東人の方が上をいってい。これは、「首都圏」の人は、有名なところに行ったことがないというのを恥と感じるのに対して、大阪の人はそんなこと「しょうもない」と思う違いであるように思う。また、江戸は「飲み倒れ」だという説もある。飲むのは、もちろん酒のことである。初期の江戸は男の人口が異様に多い都市だったので、そういう時期もあったかも知れない。
2001/08/25   土曜日   プータロー  
 最近気になる言葉に「プータロー」という言葉がある。現代語としては、いわゆるフリーターやもう働くべき歳になって親のすねをかじっているパラサイトのことをさすようだ。自分から「プータローしてまァす」などという若者もいる。そのような意味で「プータロー」が全国的に広まったのは、せいぜいこの十年以内のことではないかと思われる。

 私がこの言葉が気になって仕方がないのは、横浜出身だからである。1946年生まれの私が小学生だったころ、すでにこの言葉は広く使われていた。しかし、その意味は、今日でいうホームレスや、ドヤ(簡易宿泊所)を転々とする日雇い労働者のことであった。小学生同士の間で、罵倒の言葉として、「プータロー」という言葉は当時から日常語であった。親愛の情など微塵も感じられない言葉で、まして自称として使うことなど考えられないことだった。横浜には東京の山谷、大阪の釜ヶ崎と並び称される寿町(ことぶきちょう)という寄せ場(ドヤ街)があるが、私の子供のころには「プータロー」は寿町などの特定の地区だけにいたのではなく、町の中心部のいたるところで、昼間から寝ている姿が見られたものである。子供心に、おとなしい感じの人が多かったことを憶えている。

 プータローという言葉を、私は関西に来てから久しく忘れていた。この言葉が広く普及するより前のことだったと思うが、横浜で中学生の一団がホームレスの老人を襲って殺した事件があり、新聞にそのうちの一人の「プータローをやっつけて面白かった」という言葉が載っていた。「懐かしい」と思うような言葉ではないが、「ああ、こんな言葉もあったなあ」と思ったものである。この言葉を最近の流行語と思っている人が多いのではないかと思うが、横浜では戦後まもなくのころから、ごく日常的に使われていたことは知っておいて欲しい。

 プータローの語源は、まったく分からない。おそらく「風来坊」という言葉と関係があるのではないかと思うが、英語のpoorと結びつける説もあるらしい。。作家の山田風太郎は兵庫県北部の但馬の出身だから、横浜のプータローとは関係なく、「風来坊」の意味でペンネームとしたのではないかと思う。

2001/08/19   日曜日   東京には空がない  

智恵子は東京には空がないといふ  ほんとの空が見たいといふ
私は驚いて空を見る  桜若葉の間に在るのは
切っても切れない  むかしなじみのきれいな空だ
どんよりけむる地平のぼかしは  うすもも色の朝のしめりだ
智恵子は遠くを見ながら言ふ  阿多多羅山の山の上に
毎日出ている青い空が  智恵子のほんとの空だといふ
あどけない空の話である 
(高村光太郎)


 横浜に帰省したとき、78歳の今も健脚の母が散歩に行こうというので、私が小さいころ住んでいた付近を一緒に散歩した。そのとき、プロフィールに使った写真の場所の今の光景を写真に撮った。プロフィールの古い写真をポイントすると今度撮った写真が出るようにしてあるので、それを御覧の上、この文章を読んでいただきたい。

 ほぼ半世紀を経て、光景はまるで変わっているが、古い写真に写っていた建物の一部が残っていた。新旧の写真を見比べていただければ、どの建物か、すぐ分かるであろう。昔とまったく同じアングルで撮ることはできなかった。駐車中の車が邪魔だったせいもあるが、仮に全く同じアングルで撮ったとしたら、今の光景の全貌がまるで分からない。周囲の建物の高さが昔とは全然違うからである。

 高村光太郎の「あどけない話」という詩の中の、「東京には空がない」という言葉を思い出す。戦前の詩である。当時は、智恵子の懐かしむ東北の空ほどではないが、東京にもそれなりに空はあったはずである。だからこそ、光太郎は驚いて空を見たのだ。ところが、今の東京には文字どおりに空がない。横浜にもない。昔ほどの広さを失っている。大都市の空は高い建物にさえぎられ、さまざまな想像をかきたてるほどには普段は人間の視野に入ってこない。今の大都市でも空を見上げる気があれば、高層ビルを卑小に思わせるほどの広さであることが分かるのだが、現代人はめったに空を見上げない。

 いま、田舎や郊外に行くと、何か懐かしい気持ちになる。空をさえぎる高い建物がなく、自然に空が目に入るからである。私のおさないころ、横浜にも空があった。だからこそ、今も当時が懐かしい。そしてあのころは、この季節には、もうおびただしい赤とんぼの群れが、まだたくさんあった空き地の上を我が物顔に飛び交い始めたものであった。
2001/08/18  土曜日   自動販売機  
 小さいころ、自動販売機を見かけた記憶はほとんどない。自動販売機の古い記憶としては、高校生のころあったジュースの自動販売機があるが、今とはだいぶ違うもので、お金を入れると一定量のジュースが流れ出し、それを紙コップで受けるものだった。上部にジュースの噴水を見せて客寄せをしていたのを覚えている人は多いだろう。お金を入れなくても、揺すればいくらでもジュースが出るちゃちなもので、ときどき揺すってちゃっかりジュースを飲む同級生がいたが、周りの人からとがめられることはなかった。大学生のころ、自動販売機荒らしのニュースを新聞で読んだ。犯人は高校生で、セロテープで糸を貼り付けたコインを入れるという手口だった。そのころの自動販売機は、いったん入ってきたお金が出て行くなどということを想定していなかった。高校生は、機械が金額を表示するのを確認するとコインを引っ張り上げて改めて入れ、これを何度も繰り返した上で、返却ボタンを押していた。紙幣が使えるようになったのは、だいぶあとのことだった。選別を厳しくしすぎるとせっかくの客を逃がし、甘くしすぎると商品や金を盗まれる。今では当たり前の存在である自動販売機にも、、絶えざる技術改良の歴史があったようである。

 大学生のころ、アメリカを旅行中、信じられない体験をした。グランド・キャニオンへの観光基地としてフラッグスタッフというところがあるが、そこの長距離バスの駅で、私は自動販売機で買い物をした。すると、その様子をじっと見ている白人の老夫婦がいて、何やらひそひそ話している。やがて、夫のほうがつかつかと私の方に近寄ってきて、「この機械の使い方を教えてくれ」というのである。びっくりしながら教えたが、アメリカは広いと思ったものである。「アドベンチャー・ファミリー」という映画があった。大自然の中で自分たちだけで暮らす家族の話である。素朴そうな、感じのいい老夫婦だったが、あの映画のような生活を続けてきたのだろうか? 今や日本は世界に冠たる自動販売機大国だが、それは、この島国の同質性を象徴的に物語っているのかも知れない。
2001/08/16  木曜日  ネクタイ  
 ネクタイほど得体の知れない衣装もない。防寒にはまるで役立たず、護身という点から見れば首を絞められる恐れがあるのだから、むしろ有害である。結局、公の場で、きちんとした人間であるということを示す印という以外の意味は考えられない。ネクタイがヨーロッパで初めて現われたのはルイ14世の時代で、ルイ14世自身が愛用していたという。もとは、クロアチアの兵士の衣装だったという説が有力である。確かに、フランス語でネクタイのことを「クラヴァット(cravate)」というし、これをクロアチアと結びつけるのは語源的に無理はない。しかし、ではクロアチアにはどこから来たのかとなるとまるで分からない。中国の高官が首に巻いて正装としていたスカーフのような布に由来するという説もある。

 ネクタイには、確かに人の気持ちを引き締める効果があると思う。また、男性にとって公的な場で色づかいを楽しめる唯一の衣装ではある。しかし、これを熱帯といって差し支えない夏の日本でまで正装にするのは、もうやめたほうがいい。最近あまり見かけなくなった開襟シャツで十分である。夏のネクタイを廃止すれば、冷房を少しはゆるめることができる。それだけでかなりの電力が節約できることは言うまでもない。

 本来、衣装というものは、それぞれの地域の風土に合わせて発達してきた。50度にもなることのある砂漠でのアラブ人の全身を覆う衣装に日本人は驚くが、あれは極度に乾燥した地域では、あの程度の衣装では汗の蒸発を妨げることはなく、むしろ強烈な日光から身を守ることのほうが大切であるため、全身を覆うのである。日本の夏は高温の上に多湿である。そこで首をきつく絞めていたのでは、頭がぼーっとして当然である。衣装が人間より偉そうにすることはない。ネクタイに向かって、「郷に入りては郷に従え」と言いたくなる昨今である。

2001/08/15  水曜日   甲子園の黙祷  

毎年この日、甲子園の高校球児たちは、12時になると試合を中断して、さきの戦争で亡くなった人たちに黙祷をささげる。小泉首相の靖国神社参拝と異なり、これには誰も異議を唱えない。今の球児たちにとって戦争は遠い過去のことであり、もとより死者のことを直接知っているはずもない。それなのに、黙祷を行うのは、それが彼ら自身にとって意味を持つからである。葬儀には宗教によってさまざまな意味づけがなされているが、無宗教の葬儀も含め、あらゆる葬儀の共通の意味は、生き残った人たちが集まることで、死者のことを忘れないようにするということである。それは、自分を忘れてほしくないという死者たちの願いに応えることでもある。

 戦争で亡くなった人々を一時に偲ぶ儀式の場合、膨大な数の死者たちの共通の願いを生者たちが共有することを主としなければならない。戦争で亡くなった人たちが生者に託す共通の願いとは何だろうか? 少なくとも、自分たちと同じように死んでほしいということではないだろう。自分たちの思いを知った上でしっかり生きてほしいということであるだろう。その願いに応える死者の偲び方を考えることは、日本人共通の課題である。靖国神社の問題も、そういう偲び方をする上で、ふさわしい場所なのかどうかという問題であり、決して外交問題にのみとどまるものではない。日本人の一人一人が靖国神社がどういうところなのかを知った上で、判断すべきことである。

2001/08/14  火曜日   横浜今昔  

横浜は今も「工事中」だった。作者撮影。 横浜に帰省してきた。桜木町駅からすぐのところにあるみなとみらい地区を歩いた。人出はそれまで王座を保っていた横浜駅周辺を上回るという。横浜の繁華街は、時代とともに移り変わる。戦後闇市でにぎわった野毛は、私が物心つくころにはすでに伊勢佐木町に王座を奪われ、今ではすっかり場末になっている。

 横浜駅周辺は西口が米軍の接収地として鉄条網に囲まれていた記憶がかすかにあるが、私の成長とともに開発が進みにぎやかになった。はじめ「表口」というと東口のことだったので、一時違う世代で待ち合わせをするとき、古い世代が西口のつもりで「裏口で」というと、若い世代は東口で待っているというようなことがあった。今日では、東口も「そごう」が建ってだいぶ巻き返している。

 伊勢佐木町の衰退は横浜駅周辺の整備とともに進んでいたが、みなとみらい地区が出来たことで決定的となり、私の子供のころからみれば、すっかりさびれていた。桜木町駅から遠いのが致命傷だったようである。日本で初めて鉄道が新橋・横浜間に通ったときの横浜駅とは、今日の桜木町駅のことである。みなとみらいの繁栄により、港に近い桜木町駅は、再び横浜駅から王座を取り戻したようである。

 私が高校生のころ、湘南地方の人は横浜を素通りして東京に買い物に行っていた。今日では東京からもみなとみらいや中華街をめざして人が来るというから昔日の感がある。ただ、横浜の繁栄は、東京が隣にあることによって支えられている。数字の上では大阪市を100万近くも上回る日本一の大都市だが、これは面積が大阪の2倍強もあるためであり、実質的には東京につぐ大都市はやはり大阪である。中心部のにぎやかさも、東京ほどではないが、横浜よりは大阪のほうが上である。それに、横浜は今も昼間人口が夜間人口を下回る。関西では、京都や神戸も昼間人口の方が多く、それぞれ大阪に対して独立性が強いことを物語っている。

2001/08/09   木曜日  長崎の鐘  

 8月6日以来、日記の更新を怠っている間に、「ながさき平和の日」がきた。こんな短い間に2発の原爆が落とされたのかと思うと、あの時代の異常さに改めて驚く。

 街頭テレビを見た記憶がはっきり残る私の世代にとって、最初の娯楽といえばラジオであった。当時、ラジオ歌謡というものがあり、繰り返し流されるうちにいつの間にか覚えた歌に「長崎の鐘」というのがある。この歌は永井隆というお医者さんのことを歌った歌らしい。永井隆さんの生涯については長崎市のHPからもリンクされているので御覧いただきたい。

 高校生のとき、修学旅行で初めて九州に行った。最初の目的地は京都だった。列車にのって間もなくお祖父さんが亡くなったということで引き返していったクラスメートがいた。目的地には長崎も含まれ、カラオケなどというものがなかった当時、一人ずつ歌を歌うことになった。私が「白い花の咲くころ」というラジオ歌謡を歌ったところ、なぜかバス全員が歌いだした。今にして思えば私たちの世代もずいぶん古いと思う。長崎ではクラス別にバスに乗ったが、私たちのクラスのガイドさんが「かわいい」ということが他のクラスでも評判になった。ガイドさんの写真を撮り、帰ってから硬い印画紙に53枚焼き付けて、裏にトランプの模様を一枚一枚手描きで描いて送った同級生が他のクラスにいたが、型どおりの礼状が一回届いてそれっきりというから、努力は全然報われなかったようである。

 長崎は、「江戸の仇を長崎で」という言葉もある通り、江戸時代には特別な土地だった。蘭学を学ぶ若者が日本全国から殺到した。もっとも、これは幕末の話で、長崎での貿易は中国との貿易が圧倒的で、オランダ貿易は比較にならないほど少なかったらしい。「しっぽく」や「ぺーろん」も長崎から全国に広まった。また、対馬を経由した朝鮮貿易は、年によっては、長崎での貿易の総量を上回る年もあったという。このほか、薩摩藩による沖縄を通じた貿易や松前藩を通じた北海道のアイヌ民族との貿易(ロシアなどの外国情報も入った)など、長崎が鎖国をしていた日本の唯一の窓ではないという研究もある。幕府は鎖国をしながら各地に窓を開け、外国情報を熱心に収集しようとした。だからこそ、約350年もの太平が保たれたのである。

 長崎は、日本にとって特別な意味を持つ土地であった。しかし、2種類の原子爆弾を投下することを予定していたアメリカにとっては、まだ空襲の被害が深刻ではなく、原爆の効果がよく確かめられる都市だったにすぎない。その意味で、京都も候補地に挙がっていたと聞く。もし3発目の、それも、広島、長崎とは比べ物にならない核兵器が今後人の住むところで炸裂したとすれば、人類はあれほどの犠牲を出した第二次大戦から何も学ばなかったということになるだろう。

2001/08/06  月曜日  原爆忌  

 今日は広島の原爆忌である。終戦があとわずか10日早かったら、長崎も含めて爆死者だけでも30万もの人命が助かったはずである。被爆者として被爆の体験を語りつづける「語り部」の一人に沼田鈴子という人がいる。ちょうど私の母と同い年である。この沼田さんがアメリカで講演したとき、中国系の学生に「原爆ぐらいなんだ。日本は中国にもっとひどいことをしたじゃないか」と言われて呆然として立ち往生している場面をテレビで見たことがある。その学生には、「君の目の前にいるのはまったく無力な一市民じゃないか」と言いたくなるのだが、これも、日本という国家があの戦争をきちんと総括していないという不信感が世界中に充満しているためである。

 原爆投下がなかったら、さらに続く戦争でもっと多くの人が犠牲になっていたというのは、仮定の話であり、原爆投下を正当化する論拠にはならない。広島、長崎の実情を世界に発信するためにも、あの戦争を肯定してはならないと思う。

 広島市の秋葉忠利市長の経歴は異色である。関東の出身であり、本来広島とは縁がない。アメリカの大学で数学を教えていた期間が長く、その間にアメリカ人女性と結婚して一児を設けたが、離婚を機に帰国した。その際、迷わず広島を選んだのは、在米中にアメリカ人がいかに原爆の惨状を知らないかということにショックを受け、広島への特別な思いを持つようになったかららしい。私立大学で数学を教えるかたわら、広島のテレビ局でニュース・キャスターをしたりしているうちに、当時の社会党からの誘いで衆議院議員に立候補して地元での知名度を武器に当選した。2年前に市民団体からの要請で衆議院議員を辞職し、市長選に立候補して当選した。社民党の中でも「左派」として知られていただけに、危ぶむ声もあったが、まずまず無難にこなしているようだ。

2001/08/04  土曜日  ハーフとダブル  

 近所に父が黒人、母が日本人という三人兄弟がいる。年子のようで、いちばん上でも10歳を超えていないように見え、そろって肌は黒い。そのうちの一人が下り坂で私を自転車で追い抜いたが、坂の下で曲がりそこねて転んだ。通りかかった二人連れの男性の一人がすぐに「大丈夫か?」と言って子供を抱き上げ、もう一人が自転車を立てていた。別にどうということもない光景だが、戦後まもなくの横浜で育った私には、いい時代になったと感じられる。沖縄につぐ基地県だった神奈川では、アメリカ軍人を父に持つらしい子をよく見かけた。しかし、当時は、よく見かけるわりには、しつこくじろじろ見たり、話しかけられても返事もしなかったりする日本人が多かった。進駐軍への反発などという理由からだとは今も思えない。それが今、あの近所の三人兄弟をじろじろ見る人を見たことはまだない。

 あのころには、「ハーフ」という言葉はなかった。「混血(児)」というのは文章語であり、「あいのこ」というのが普通だった。「ハーフ」という言葉が普及したのも、「あいのこ」のような差別的な響きがないと感じられたからであろう。しかし、最近になって、人権に敏感な人の間で、「ハーフ」に代って「ダブル」という言葉が使われていることは、まだあまり知られていない。両親のどちらかが、在日韓国・朝鮮人である人についても使われる。「ハーフ」と「ダブル」とはどこが違うのか? 「ハーフ」という言葉には「どっちつかず」という響きがあり、両親のどちらの文化も中途半端にしか身につけていないという印象を与える。「ダブル」という言葉は、両方の文化をどちらもフルに身につけているという理想を示す呼び名なのである。

 もうだいぶ前だが、やはり近所で、金髪の男の子が二人、バリバリの関西弁で喧嘩していて、周りの人が立ち止まって見ているところに出くわしたこともある。私も思わず、「えっ?」と思った。別に髪を染めているわけではないし、二人とも世間でいう「ハーフ」にさえ見えない。見かけはまったくの「外人」の子である。あの二人も、たとえばドイツ人とイラン人の「ダブル」かもしれないし、見かけと言葉が一致しなければならない理由もどこにもない。日本人も、こういうことにいちいち驚かないようにならなくてはいけない。

2001/08/02  木曜日   「せんじ」と「たわけ」  

日立のワープロwith meに付いていた画像入りフロッピーより 学生のとき、「すい」といって通じなかったことがある。無色のシロップをかけたかき氷のことである。関西では「みぞれ」というのだと教えられた。「みぞれ」というのは確かに風情がある。ところが、帰省のおり名古屋で途中下車して、ここでは「すい」とも「みぞれ」とも言わず「せんじ」というのだということを知った。まさに「なにわの芦は伊勢の浜荻」である。

 子供の小学校のころの担任が名古屋出身の人だった。よく「たわけ」というのが、子供の間で話題になっていた。何か、時代劇のような気がしてしまうのだが、名古屋では今も、「ばか」や「あほ」より、「たわけ」がよく使われるのだという。なお、名古屋と東京の比較文化論について、詳しいことは名古屋出身の作家清水義範の「そばときしめん」を参照されたい。清水氏の小説は小説とは思えない題名をつけることが多く、初版のときには、「そばときしめん」は料理書コーナーに置かれ、「国語入試問題必勝法」は受験参考書コーナーに置かれていたそうである。
2001/08/01  水曜日  八月一日  
 今日から8月である。暑中見舞が残暑見舞にかわるのがいつかを調べてみたら、厳密には立秋からということであった。立秋は今年は8月7日、来年は8月8日ということであるが、いずれにせよ、まだまだ暑い。それなのに「残暑」見舞というのは、旧暦に1月半を足すとだいたい新暦になるからである。2月11日が「建国記念の日」(←紀元節)なのは、神武天皇が橿原で旧暦の元日に即位したとされているからである。西行の歌に、「願わくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月のころ」というのがある。古典文学で「花」というと、ふつうは、「桜の花」を意味する。「きさらぎ」は旧暦の2月、「望月」は満月のことで旧暦では月の半ばである。したがって2月15日を1月半後ろにずらすと4月1日となるので、桜の開花期に一致する。

 旧暦は月の満ち欠けに基づく暦であり、月の一日目は月がちらっと見えることから「月立ち」と呼ばれた。これが今日の「ついたち」の語源である。月の終わりには月が見えなくなるので月の最後の日は「月ごもり」と呼ばれたが、これがのちに「つごもり」となった。しかし、「ついたち」とちがって「つごもり」はすでに古語となっている。

 「八月一日」「四月朔日」(「朔日」は「ついたち」の意)という苗字があり、それぞれ「ほづみ」「わたぬき」と読む。9月15日ごろには稲穂も出揃い、5月15日ごろには冬服の中に詰めた綿を抜くと考えれば季節がぴったり合う。