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よしなしごと2001年12月
★ 走る 500円玉 老人と老犬 ピルトダウン人
五右衛門風呂 パール・ハーバー あるく
喪中欠礼 風邪は万病のもと? ミレニアム
底冷え、しばれる、マローズ ノリリスク クリスマス 千年の恋
大相撲 日記一年 煤払い 尾籠な話 メールの効用
2001/12/30 日曜日 メールの効用 
私はどうも電話が苦手である。こちらが何をしていても、これがいちばん大事だとばかり鳴りつづけ、受話器をとるまでおさまらないのだから、まるでだだっ子である。受ける側は何ら主体性を発揮できない。そこへ行くと、いつチェックするかをこちらで決められるメールは便利である。もう一つ、メールのありがたいところは、考える時間を持てるということである。二つ返事で引き受けるというわけにはいかないようなことがあるとき、電話ではちょっと考えさせれくれとは言いにくい。その言い方だけで相手との関係が壊れてしまうこともある。表現を練った上で対応できるという点では、メールは手紙に似ている。そして、添付ファイルという形で、大量の情報を瞬時に送れることも魅力だ。
メール・チェックの頻度や時間は人によりさまざまなのに、自分が頻繁にチェックするせいか、ひどくせっかちな人がいて、この前の返事はまだか、とばかりこちらが返事を出す前に、しつこくメールをよこす人もいる。HPを開いていると未知の人からメールがくることも多い。礼儀として、できるだけ返事を出すようにはしているのだが、何も出さないこともある。話をしても無駄だと感じるメールがときどきある。メールを出して無視されることは、私にもよくあるので、それがメールというものだと思って、お互いに納得する習慣をつけるべきだと思う。
手紙、電話、メール、ファックスと、相手に会わずに意思を伝え合う手段を、われわれは潤沢に手にしている。それぞれの利点、欠点を踏まえて使いこなしてゆきたいと思う。
2001/12/29 土曜日 尾籠な話 
「尾籠」という言葉がある。「びろう」と読む。「失礼」という意味である。本来は「馬鹿げた」という意味の「をこ」というヤマトコトバに当て字したものを、あとで音読みすることによって成立した。私の祖母の世代ではよく使っていた言葉のようで、私もかなり小さいころから知っていたように思うが、今や完全な死語と言ってよい。最近聞いた例では、テレビで「外地」からの引き揚げの苦労談をする老婦人が、「尾籠な話ですが」と前置きして、身体中にしらみが「湧いた」話をしていた。要するに、人が聞きたくないのは分かっているが、自分としてはどうしても話さずにはいられないというときに使う言葉のようである。
さて、今日は尾籠な話なので、食事前の人は、食事を済ませたのち、改めて心して読んでいただきたい。私が小さいころ、よく家に近郊の農家の人が下肥を汲み取りに来た。要するにトイレの糞尿のことである。そして、鄭重に礼を言って代金を払っていった。その当時の農家の人が住んでいた一帯は今や住宅地で、田畑などあとかたもない。都市の住民の下肥は、栄養が豊富なのでお金を支払ってでも買うという江戸時代以来の伝統が、私の子供時代にまで続いていたようである。
やがて、畑に下肥を撒く習慣は日本からなくなった。田舎の代名詞とされた「田舎の香水」とか「野壷」という言葉も死語となり、汲み取りは自治体の仕事となった。汲み取られる側が手間賃を支払う時期が短期間あったが、水洗の時代の今は、それすら昔語りである。「大」がぽたんと落ち、「おつり」が返ってくるトイレは、昔はよくあったものだが、今はかなり田舎に行かないとお目にかかれない。小さいころ、「こえたんご」を満載した大八車を引く牛が、電柱につながれて主人の帰りを待っていたのを、今更のように懐かしく思い出す。牛が肉骨粉など食べさせられず、リサイクルなど当たり前であるがゆえにリサイクルという言葉すらなかった古き良き時代の話である。
「長屋中の尻で大家は餅をつき」という川柳がある。汲み取りの代金は大家の収入になるのだが、正月が近くなると大家は、溜め込んだ汲み取り代金を餅をつくのに当て、餅を店子たちに無料で配って大家としての気前の良さを示した。この川柳は、「もともと、わしらの尻から出たものではないか!」という店子の気持ちを代弁しているのである。
2001/12/28 金曜日 煤払い 
正直に言うが、私は整理が苦手である。明後日が最後のゴミの日ということで、明日中に部屋の整理を厳命されている。整理をすると、何て無駄なものをたくさんためこんでいるのだろうと毎年あきれてしまう。年末の大掃除を「煤払い」というが、煤払いとは歳神様を迎えるために本来は13日に行うものだったらしい。しかし、13日ではまだ忙しいために、たいていの家では、13日には神棚や仏壇だけを掃除して、大掃除は年末ぎりぎりにすることになった。
いつか、保護者参観があって、職員室をのぞき込んだ母親が、教師の机の上を見てあきれ、「あれで生徒を指導できるのか?」と言っていたという話が職員会議で校長から伝えられた。小さくなっていたのは私一人ではないが、では明日からというわけにはなかなかいかないのが情けない。
ところで、葛飾北斎はさまざまな奇癖で知られているが、中でも頻繁な転居癖が有名である。絵を描いていると特に散らかるせいもあるのだろうが、片付けるのを面倒くさがっているうちにさすがにたえられないほど散らかると引越ししたようである。整理に長けた人が聞けば、引越のほうがよっぽど面倒くさいのにと思うだろうが、私には北斎の気持ちがよく分かる気がする。
2001/12/27 木曜日 日記一年 
子供のころ、私は宿題以外で日記をつけたことがない。それだけに、この日記が1年続いたのに自分でも驚いている。なぜ続いたのかというと、実はその内容が日記にはなっておらず、雑記帳のようなものだったからである。日記というものは、もっと日々の生活に密着したことを書くものというイメージが私にはある。しかし、あまりに身辺に密着したことを、不特定多数の人が見るウェブ上にむやみに載せる気にはとてもなれない。雑記帳のような内容になってしまうのは、そのためである。しかし、「毎日更新することを原則とする」ということを自分自身の肝に銘じるために、来年も「日記」のタイトルのまま「雑記帳」を書き続けることを御了承願いたい。
2001/12/26 水曜日 大相撲 
大相撲の人気が落ちているようである。花田一家の内紛の影響もあるのかも知れないが、それ以上に裾野が小さくなっていることが問題であろう。大相撲とは、何に対して「大」なのだろうか? 私の子供のころには、無数の「小」相撲があったからだと勝手に思っている。私たちのころまでは、棒で地面に適当な丸を描き、その中で相撲を取って遊ぶことは、ごくありふれた子供の遊びであった。しかし、今の高校生に聞くと、そんな経験のある生徒はきわめて少ない。
私が小学校に入るかどうかのころ、祖父はよく私を相手に相撲を取ってくれた。外掛けなどすると大げさに倒れてみせるので、私は祖父は本当に弱いのだと思っていた。しかし、こうやって子供に自信をつけさせるというのは大事なことで、子供同士では私はまあまあ相撲は強いほうになれた。とくに好きなのが腰投げという技で、きれいに決まると気持ちがよかった。しかし、そんな私のプライドは、高校に入るとこなごなにされた。私たちの世代は絶対数が多いので、さまざまなクラブが成立したのかも知れない。学校には相撲部があり、ちゃんと屋根のある土俵もあった。体育の授業で相撲が教えられることもたまにあった。しかし、たまにしかしなかったせいだろうか、相撲の授業のときは、出席番号の隣り合わせの生徒としかやらせてもらえなかった。私の場合は、いつもS君とやらされた。
S君は、相撲部ではないが、体重100kg近い巨漢であった。しごく穏やかな性格だったが、相撲となると鬼だった。その得意技はひたすら突っ張りで、武蔵丸みたいだった。まわしをつかませてもらえたら、まだしも何とかできるかも知れないと思っても、痛いほどの突っ張りの連続で、そんなことは夢のまた夢だった。土俵を割るだけならいい方で、ぶざまに尻餅をつかされることもよくあった。頼むから彼以外とやらせてくれと何度も思ったものであった。
相撲には立ち合いがある。朝鮮半島にはシルムという相撲に似た競技があるが、これは、最初に両者ひざまずいてがっぷり四つに組み、立ち上がったところから勝負がはじまる。土俵にあたるものはなく、相手を倒さなければ勝ちにはならない。これならS君とも少しは戦えたかも知れない。立ち合いがあると、舞の海のようにひらりと身をかわしたり、猫だましをしたりといった奇策を講じなければ、軽量の者はなかなか勝てないと思う。
2001/12/25 火曜日 千年の恋 
源氏物語をもとにした「千年の恋」なる映画が上映されている。どうも女優の顔ぶれで稼ごうとしているような気がして見に行く気になれない。光源氏まで女優だというのにも抵抗を感じる。
当時の上流階級の女性は、人前に顔をさらすことなどしなかった。そこで、男性は、筆跡や歌の出来栄え、噂話や兄弟の顔などを手がかりに相手を選んだらしい。しかし、そのどれもが容貌とはあまり相関関係がなく、あてにならないことは誰でも経験上知っている。男性にとっては、「こんなはずではなかった」という例が多かったに違いない。それでも、直接に女性の顔を見る機会のない当時には、男性はこういったことを手がかりとせざるをえなかった。それだけに、当時の上流女性は字と歌の練習には熱心であった。「六十の手習い」というように、「手」という言葉が習字や筆跡の意味で用いられるようになったのも、このころからである。
女優が男役を演じた例としては、「西遊記」で三蔵法師を演じた夏目雅子の例がある。孫悟空らの強さを印象づけるため、三蔵法師は頼りない優男として描かれることが多い。しかし、三蔵法師のモデルとなった玄奘は、国禁に反して単身でのインド行きを、もちろん孫悟空らのお供もなしに敢行した男だから、むしろ筋骨隆々たる男だったに違いないと私は思っている。
いろいろ文句はあるが、きらびやかな平安絵巻を、ふだん興味のない人たちが目にする機会ができたことは、いいことなのかも知れない。少しでも多くの若者が見て、あのうっとうしい茶髪をやめる機会にでもなればいいなと思っている。
2001/12/24 月曜日 クリスマス 
今日はクリスマス・イブだ。クリスマスというと、どうも気になってしまうのは、キリストはどちらかといえば暑いパレスチナに生まれたはずだということである。パレスチナは地形が複雑なので、雪が降る所もあるらしいが、今日世界中に広まっているクリスマスの祝い方はあまりにも寒帯的である。サンタクロースのモデルとなった聖ニコラオスは今日のトルコの人だったようだが、いつの間にかフィンランドに引っ越している。少なくともパレスチナではトナカイ橇に乗るということはないだろう。クリスマス・ツリーに用いられるもみの木がパレスチナに生えているかも疑わしい。七面鳥を食べる習慣がアメリカで始まったことは間違いない。アメリカ大陸特産の鳥だからである。ヨーロッパでは雷鳥が食べられていたようだが、アメリカに雷鳥がいなかったので、七面鳥が身代わりにされたらしい。サンタクロースが赤い服を着るようになったことにいたっては、コカコーラ社の宣伝がはじまりだと聞く。
今の時期にクリスマスがヨーロッパで盛大に祝われるようになったのは、キリスト教が広まる以前に盛んに行われていた冬至を祝う祭りが姿を変えたためらしい。ヨーロッパの悪魔の多くは、もとは異教の神々だったといわれる。以前、私は、このHPで次のようなことを書いた。オオカミがヨーロッパで嫌われるのは、ヨーロッパ人が本来牧畜民であり、家畜を奪われることから憎まれたからであり、これに対して農耕民である日本人にとっては、作物を食い荒らす鹿や猪をやっつけてくれるオオカミはむしろ「大神」として信仰の対象だったというようなことである。しかし、考えてみれば、オオカミ崇拝は、キリスト教以前のヨーロッパにも広く見られた。ローマの伝説上の建設者であるロムルスは、弟のレムスとともにオオカミに育てられたという伝説がある。キリスト教以後のヨーロッパでオオカミが憎まれだしたのは、むしろ、異教の神だったからという方が正確なのかも知れないと、最近考え直している。
古代ヨーロッパ人が冬至を祝ったのは、寒さからの解放が始まるというところに理由があったのだろう。後世に宗教的な装いをするようになった祭りの多くが、本来は自然との関係で行われる行事だったということはよくあることのようである。
2001/12/23 日曜日 ノリリスク 
ロシアの地図を見ていると、完全に北極圏に入るところに二つの都市があることが目につく。一つは北欧諸国にほど近いムルマンスクだが、こちらは海流の影響で高緯度の割に暖かく、ロシアにとっては貴重な不凍港となっている。ところが、もう一つのノリリスクは、シベリアの北辺、エニセイ川の河口近くにあり、真冬の気温は零下50〜60度にまで下がることが珍しくない。風も強く、どう見ても人間が好んで住むような土地とは思えない。ノリリスクの緯度を南半球に移せば、なんと昭和基地と同じになる。
こんな過酷な環境のところに30万近い人口を持つ都市ができたのは、ニッケルなどの貴重なレアメタルが産出するからである。この町には、当然街路樹が一本もない。町の光景にはすっきりした美しさはあるが、どこか異様な美しさである。ノリリスクの過酷な自然環境が成長期の小さい子供たちの発育にとって良いものでないことは当然であり、学校や保育園では、子供たちは毎日一定時間人工光線を浴びることを日課にしている。郊外の精錬工場の吐き出す煙には有害な成分が多く、空気中の二酸化硫黄の濃度は、日本の10〜15倍にもび、不名誉な世界一の座を占めている。地下1200mの深いところには、総延長440kmにも及ぶ縦横に張り巡らされた坑道があり、もう一つのノリリスクを形成している。とにかく、我々の想像を絶する都市である。しかし、ソ連崩壊後、レアメタルが世界中から求められるようになったため、この世界一北にある近代都市は、ロシア経済にとってますます欠くことのできない都市となっている。北極圏のひよわな生態系にとって、ノリリスクはたいへんな脅威であり続けることだろう。
2001/12/22 土曜日 底冷え、しばれる、マローズ 
私が学生時代を過ごした京都は、気候から言えばあまり住みやすいところとはいえない。夏は蒸し暑く、冬は「底冷え」する。「底冷え」とは、身体の芯まで凍てつくような寒さをいうのだが、京都は湿気の多い盆地なので、これが暑さ寒さのもとになっているように思う。驚いたことは、札幌出身の同級生が京都の冬は寒いといっていたことである。梅雨のない乾燥した北海道とは寒さの質が違うのかも知れないが、北海道ぐらい寒いとケチケチせずに暖房をするので、北海道で育った人は家の中での寒さにかえって弱いのではないかとも思う。
日本列島は、関東を境に急カーブで曲がって北上する。そのため、関東から九州にかけての緯度は横ばいだから、気候にさほどの差はない。しかし、東北、北海道となると別である。北海道には「しばれる」という言葉があると聞いた。厳寒の日に人々は「今日はしばれますねえ」と挨拶を交わすのだと聞く。北海道に夏しか行ったことのない私は「しばれた」経験がないので、その意味を実感できない。日本の最低気温は旭川周辺で記録されたマイナス40度未満と聞くが、その辺では冬でも冷蔵庫が欠かせない。外に出しておくとビンなどが破裂するので「温蔵庫」として使っているのである。
しかし、北海道の寒さもシベリアの寒さに比べればものの数ではない。真冬のシベリアでは、チェーンも巻かない自動車が走っている。凍った地面がスリップしやすいのは、摩擦熱で氷が溶ける程度の寒さのところに限られる。シベリアほどの寒さだと、摩擦熱程度で氷は溶けないし、溶けても一瞬で再び凍ってしまうので、チェーンなど要らないというわけである。シベリアの厳寒をロシア語で「マローズ」という。「しばれた」こともない私の理解を超える語彙である。シベリアでは金属製品に素手で触ることは厳禁である。張り付いて離れなくなってしまうからである。
ここ数日めっきり寒くなってきたが、関東から九州にかけての人は、「しばれる」ことや「マローズ」を思えば、あまり贅沢は言えない。京都の寒さなど、かの兼好法師が、「住まゐは夏をむねとすべし。冬はいかなるところにも住まる」と書いた程度のもので、誰もがたえがたいというほどのものではなかったようだ。日本列島は、気候的には、東北以北と奄美・沖縄地方とそれ以外の三つに区分されるように思う。
2001/12/20 木曜日 ミレニアム 
ある時期、猛烈に流行って忘れられてゆく言葉がある。ミレニアムという言葉もその一つで、もうほとんど耳にすることもなくなった。今年も来年も同じミレニアムなのだから無理もない。
21世紀最初の年の最大のニュースが、ニューヨークで起きた同時多発テロであることに、異議を唱える人はいないだろう。あの事件は、21世紀の人類に課せられた課題を明らかにしたという意味では、新世紀の幕開けにふさわしい。しかし、それがどういう課題であるかが十分に認識されているかどうかは、きわめて疑わしい。21世紀の課題とは、地球規模での貧富の格差を解消することである。あのようなことが起きる根本的な原因は、民族の違いでもなければ、宗教の違いでもない。民族も宗教も一様でない西欧で通貨が統合されたことからも分かるように、貧富の格差がなくなれば、人々の間に心のゆとりが生まれ、互いの違いに対して自然に寛容になっていくものである。
人は誰しも一度だけの人生を楽しみたいと思って生まれてくる。命をつなぐだけの貧しい毎日を送っていれば、自分は何のために生きているか分からないという気持ちになる。そんなとき、何のために生きるのかを教えてくれる宗教やさまざまな主義がいかに魅力に満ちたものであるかは、毎日ささやかな楽しみを持つ余裕のある人にはなかなか分からない。貧しい国でなぜ内戦が頻発するのかというと、武力によって富を集めることができるからである。そのために、多くの若者が銃を持ちたがる。こういう世界に生きる人が、地球規模ではまだまだ多数派であることを忘れてはならない。
ニューヨークのテロのようなことが起こらない限り、豊かな国々は貧しい国々のことを考えない。あたかも存在しないかのように思っているのが豊かな国の日常である。無関心を続けている限り、同じことは何度でも繰り返される。21世紀の人類の課題を、常に意識することが豊かな国には求められている。そして、モノを増やすことのみを豊かさと考える自分たちの社会をも問い直してゆかなければならない。
2001/12/15 土曜日 風邪は万病のもと? 
たちの悪い風邪を引いた。ひどいときには、全身に悪寒が走って何もできない。しかし、成績評価は間に合わせなければならず、しばらくHPのことは後回しとなるので、御容赦願いたい。よく「風邪は万病のもと」というが、正確には「万病は風邪に似る」ということらしい。つまり、風邪をこじらせて他の病気になるということではなくて、初めから他の重大な病気だったのに、風邪と見誤ることが多かったということであるようだ。医学が未発達な時代に、それを風邪がこじれたと解釈したことから「風邪は万病のもと」と言う諺ができたようだ。近所の医者に行ったが「ただのかぜ」とのこと。抜けるのを待つほかないが、ややこしいときに引いたもので、忘年会もキャンセルした。
2001/12/13 木曜日 喪中欠礼 
義母が亡くなって喪中欠礼の葉書を早めに出したところ、同じく欠礼の葉書が何枚も届くようになった。同じ年齢同士なのだから、その親も同じ世代なのだから当然ともいえるが、いろいろ考えさせられる。ところで、喪中欠礼の本来の意味は、出す側が悲しくてその気になれないからということではなく、死によって「穢れて」いるから挨拶を控えるということらしい。葬儀のときの清め塩と発想の根は同じだという。したがって、喪中の人にうっかり年賀状を出してしまったとき、「おめでとう」などと言ってはならなかったと出した側が恐縮するのは、喪中欠礼の本来の趣旨から言えば筋違いということになる。
昔の中国の官僚は、今が出世できるかどうかの瀬戸際というときであっても、親が亡くなったなら即刻帰郷し三年の喪に服さなければならなかった。朝鮮の葬儀では、遺族は親を死なせてしまったということで罪人のような衣装を着る。しかし、日本の喪中欠礼の根には、儒教の影響を受ける以前の「穢れ」の思想があるようである。「忌引」の趣旨も同じことで、仕事が忙しいからといって出勤することは、ほかの人たちを「穢す」ことになるからいけないということらしい。
義母の葬儀の打ち合わせのとき、清め塩を廃止し、その趣旨を書いた文書を渡すということになった。あらかじめ葬儀店が用意していた文書には、「昨日までの大切な人を亡くなったとたんに穢れたもののように扱うのはおかしい」とあった。
2001/12/11 火曜日 あるく 
今月の日記を「走る」で始めた。「歩」という字の形には、「走」ほど後ろに蹴って前に進む迫力がない。ところが、今の中国語では、「走」という字は「歩く」という意味であり、「走る」という意味は、足へんに「包」という日本では見慣れない字で表される。「聞」という字が「においをかぐ」(「聞く」は「聴」で示される)という意味になっているのと並ぶ驚きである。
「あるく」と「あゆむ」はどう違うのかと聞かれたことがある。何となく「あゆむ」のほうが古くみやびやかな感じがする。さらに「あそびあるく」はまだしも、「あるく」には「とびあるく」という不思議な用法がある。いったい、飛んでいるのか、歩いているのか、と思ったことはないだろうか? 古語では「あるく」は「ありく」と言った。「歩く」という意味ではなく、「あちこちに行く」という意味であった。「歩く」の意味を示していたのが、「あゆむ」という言葉であった。そのため、「あゆみありく」という、現代語からすれば二重とも思える表現があるが、これは「歩き回る」ということである。
私はもう走らないが、いざとなると走れると思う。そのうち走れなくなる。そして歩けなくなる。走ってもすぐ回復するというのは、若さの特権である。
2001/12/08 土曜日 パール・ハーバー 
今日は、パール・ハーバーの日、授業に先立って今日が何の日か知っているかと聞いたところ、映画が上映された年だというのに、知っている生徒はきわめて少なかった。中にはジョン・レノンが殺された日だと答えた生徒もいたが、まだ確かめていない。考えてみれば、生徒たちが生まれたのは1984年か85年、パール・ハーバーは1941年のことだから生徒たちにとっては生まれる43〜44年前ということになる。ちなみに私は1946年生まれだから、43〜44年前となると1902〜1903年ということになる。日露戦争が終ったのが1905年のことだから、今の生徒たちにとっての第二次大戦は、私たちにとっての日露戦争ということになる。日露戦争が私たちにとって遥か昔のことだったのと同じ程度に、あの戦争は遥か昔のことなのだ。
大学生のとき、友人と一緒にすし屋に入ったときのことを思い出す。私たちが蘆溝橋は何年で真珠湾は何年だったっけというような話をしていると、主がいらいらしたような様子で、「蘆溝橋は昭和12年で、真珠湾は16年や!」と口を挟んできたのを思い出した。私が高校生だったころ、今の私と同じくらいの教師たちは、日露戦争をどう伝え聞いていたのか、今さらながら聞いてみたい気になった。一方、私たちがあとの世代に第一に伝えるべきことは、パール・ハーバーのことではなく、蘆溝橋のことである。私自身が身近に聞いた戦死の話は、中国での戦死が圧倒的に多かった。中国と戦い続けるためにアメリカとも戦ったのだということを忘れてはならないのである。
2001/12/07 金曜日 五右衛門風呂 
弥次さん、喜多さんが宿に泊まる。風呂に案内されたが見たこともない風呂である。まるで釜を大きくしたようなもので、入り方が分からない。ふたらしきものがプカプカ浮いているのを見た二人は、邪魔だとばかり外に出して、そのまま釜に飛び込む。とたんに足の裏が焼けるように熱い。あわてて飛び出し、どうやってはいったらいいのかを考える。そして、下駄をはいて風呂に入る。すっかり、いい気分になった二人は釜の中で踊りだし、ついに釜の底をぶちぬいて宿は大騒ぎになる。私たちの世代にはよく知られた、江戸時代の十返舎一九の『東海道中膝栗毛』の一節である。
釜のような風呂は、幼い我が子とともに残忍な釜ゆでの刑にあった大泥棒石川五右衛門の名にちなんで「五右衛門風呂」と呼ばれる。二人がふたと思った板の上に注意深く乗ってそのまま沈めて底にするというのが、この風呂の正しい入り方である。二人の入り方では、熱せられた釜の底にじかに足が触れるのだから、とても入れたものではない。
この五右衛門風呂に、私は、京都のある下宿で、何度も入ったことがある。普段は銭湯に行っていたのだが、ときどき風呂をご馳走してもらうことがあった。最初に入ったときにも、事前の説明は何もなかった。さいわい膝栗毛の話を知っていた私は正しい入り方をしたのだが、釜のふちをつかんで、板を底に沈めるのは、かなりアクロバティックであった。あの家には80を過ぎたおばあさんがいたが、毎日あんな曲芸をするのでは、血圧によくないのではないかと心配になった。
関東にいたとき、五右衛門風呂には話に聞いていただけで、入ったことがなかった。江戸者である弥次さん、喜多さんが五右衛門風呂の入り方を知らなかったのも無理もない。膝栗毛の話は、今の神奈川県小田原でのことだが、五右衛門風呂はやはり西日本の風呂であり、もう江戸の領域を離れたということを印象付けるために、ここで五右衛門風呂の話を出したように思われる。二人の話は、今ならさしずめ、欧米を旅行した日本人が日本の風呂と同じつもりで湯船の外で身体を洗って階下に水をもらすというのにあたる失敗談である。昔の日本では、国内で異文化を体験できたのであるが、今の京都にはさすがにもう五右衛門風呂はないことだろう。。
2001/12/05 水曜日 ピルトダウン人
旧石器時代遺跡の捏造で、各地の自治体が被害を受けている。幻の原人の里となったところでは、原人まつりが中止され、原人まんじゅうを続けるかどうかで和菓子店は悩んでいるという。一人の人間の功名心のためにたくさんの人が振り回されるのだから罪な話である。
私の養父は昔から読書家だった。その本をときどき読んでいたことがある。その中にピルトダウン人というのがあって、戦前の本なので、さも確実な古人骨のように書かれていたのを覚えている。現に、かの大英博物館にもれいれいしく展示されていた。それが今日では全くのまがいものだったことが明らかになっている。何しろ、たった1000ぐらい前の人間の頭蓋骨にオランウータンの下顎骨を組み合わせただけのものだというから、お粗末なものである。ピルトダウン人の骨が「発掘」された1910年代のヨーロッパでは、白人はチンパンジーの、黒人はゴリラの、黄色人はオランウータンの子孫だなどという荒唐無稽な説さえ唱えられていたぐらいだし、こんなまがいものが学会で認められたのも、頭脳が現世人類に劣らない(当たり前だ)骨がロンドン郊外のピルトダウンから発掘されたということで、ヨーロッパ人のナルシシズムが満たされたせいもあったように思う。捏造者は、少しぐらい古い骨で見破られないつもりでいたのだろうが、のちに骨の中のフッ素量で古さを知る方法が開発されたり、その後出てきた人骨にこれに似たものが全くないことなどから、真っ赤なにせものということが完膚なきまでに証明された。
学者の研究は地道なようでいて、前提のところに偏見があるとすべてが徒労に帰する。今回のF氏のものは明らかな捏造であろうが、他に岩宿遺跡などが発掘されているのだから、日本に旧石器時代がなかったということにはならない。岩宿の発見以前には、日本に旧石器時代などなかったという説が何の証明もなしに信じられていた。単なる思い込みである。考えてみれば、日本列島が大陸から離れたのはたかが1万年前なのだから、日本に絶対にないなどと考えていたのがおかしかったのである。
2001/12/04 火曜日 老人と老犬 
公園で老人を見た。車椅子に乗っていた。子犬を連れていると思ったが、連れているのは小型犬だった。見ると左眼が真っ白である。たぶん白内障であり、おそらくは老犬であろう。老人はコンビニ弁当を食べ始めた。脚に犬がまとわりつくと、老人は箸でおかずをつまんで愛犬に与える。そして、その箸で自分も食べる。塩分の多い人間の食事を与えていたら、犬が早死にしないかと心配になるが、老犬だとすれば、犬の体質もさまざまなのかも知れない。
車椅子に乗りながら犬を連れていたりすると、犬が急に走り出したときはどうなるのかと心配になる。しかし、老人の愛犬はそんなことをしない。餌こそねだるが、それが済むと老人の足元でじっとおとなしくしている犬であった。
高校生のころ、「ウンベルト・D」というイタリア映画を見たことがある。ウンベルトとはある老人の名前、Dとはその老人の苗字のイニシャルである。老齢でぎりぎりの生活をしており、愛犬だけが友達である。ある日、老人は踏み切りで愛犬を抱き上げて立ち止まり、迫ってくる列車が警笛を鳴らしても動こうとしない。しかし、愛犬が腕の中で暴れだし、ついに老人の腕を振り切って逃げ出す。老人はそのあとを追いかけ、意図に反して踏み切りから無事に脱出する。それ以来、あれほどなついていた愛犬は、老人がどんなに声をかけても逃げ回る。愛犬の信頼を取り戻すことが老人の新しい生きがいとなる、という映画であった。
2001/12/03 月曜日 500円玉 
学生時代、アメリカ旅行をしていたとき、カナダに近い州に限ってカナダのコインも使える自動販売機があるのに驚いた。技術的にはさほど難しいことではないのかも知れないが、新たに識別できるコインを増やすには、機械自体を取り替えなければならないのではないか、と思う。そう思うのは、最近の日本では、500円玉に関して、何種類もの自動販売機があるからである。新500円玉しか使えないもの、旧500円玉しか使えないもの、両方使えるものなどである。両方使えないものもあるが、初めから500円玉を使えなかったものは少なく、もともとは旧500円玉を使えたのに使えなくしたものが多い。使えるコインを増やすのは難しいが、減らすのは簡単らしい。
旧500円玉が使えなくなったのは、日本円では50円に当たる韓国の500ウォン硬貨を変造したコインへの対策であったことは広く知られている。自動販売機で買い物をして、50円玉の代わりにフィリピンの硬貨が出てきたことがある。思わずムッとして店の人に言って50円玉に替えてもらったが、50円ぐらいのものなら、記念にとっておいてもよかったと後悔した。しかし、500円はちょっと痛い。だからこそ、変造コインを造る側からいえば、造り甲斐もあるということだろう。
2001/12/01 土曜日 走る 
「走る」ということをしなくなって久しい。せいぜい、駅に電車が入って階段を駆け上るときぐらいである。電車に乗ってからもしばらく息が切れてしまう。運動不足にならないよう、通勤にはなるべく自転車を使うようにしているのだが、寒くなるとついバスに乗ってしまう。走るのは自転車に乗るよりはるかにしんどい。
しかし、学校時代には誰しもよく走った記憶があると思う。運動会とか体育祭というと、やはりメインはかけっこである。脚の速い子は何種目も重ねて出場し、閉会式のときにはさすがにしんどそうにしているが、二日後(翌日はたいてい休み)にはけろっとして登校して来る。
「走る」ことに匹敵する重労働は少ない。だから、ジョギングする人をよく見る今に比べても、昔は走る人を見かけることは少なかったようだ。それだけに、ふんどし一つで走った飛脚など、当時も重労働だったに違いない。ジャーナリストの辺見庸氏の『反逆する風景』の中に、ベトナムでジョギングした話がある。辺見氏は、あちこちの赴任地で趣味のジョギングをして、地元の人と親しくなることに努めてきた。ところがベトナムでは勝手が違った。みんな走る辺見氏を見て、いったい何事かという目で見ている。子供などは、不思議そうな顔をしてあとを追いかける。必要もないのに好き好んで走る人など、ベトナム人は見慣れていなかったらしい。しかも、街中の道路事情は悪く、べたべたとめり込むような地面に辺見氏自身もへとへとに疲れたということである。
今日から十二月だ。別名を「しはす(→しわす)」といい、「師走」と書き習わされている。「し」とは先生、「はす」とは走ることだという。高校教師からプロレスラーを経て国会議員になった人に「馳浩(はせ・ひろし)」という人もいるように、「走る」を意味する「はす」という古語は確かにある。しかし、これが語源として確かだという確証はどこにもない。最後の月だから、「しをはす(やりおえる)」という意味だという説も、もっともらしすぎて怪しい。「師走」に限らず、月の名前の語源は、まだあまり明らかにはなっていない。
十二月を「師走」と書くのは、昔の先生はゆうゆうとしていて、日ごろ走ったりしないからだという説明もよく聞く。確かに、昔の教師は教えてほしいという生徒にだけ教えていたから、のんびりしていたのだと思う。孔子は「憤せずんば啓せず」などと言っている。生徒が本気になって答を知りたいという気持ちにならなければ何も教えてやらないという意味である。しかし、教わる気もない生徒を教えることのほうが普通である今の教師は、何も十二月に限らず、年中走りまわって いる。
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