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よしなしごと2001年11月
★ ピースサイン 双子 「ず」と「づ」
恐怖の質 回文 義母を送る Discover Japan かぜをひく
スキー 焼肉店の受難 蘆原将軍 よその子供を叱る大人
『モゴール族探検記』 機械との相性 ご苦労様 あ〜ら、不思議
2001/11/29 木曜日 あ〜ら、不思議 
1から10まで言うときと、10から1まで言うときとでは、唱え方が違う。、「いち、に、さん、し、ご、ろく、しち、はち、きゅう、じゅう」に対して、逆にいうときには、「じゅう、きゅう、はち、なな、ろく、ご、よん、さん、に、いち」となる。1から10まで唱えるときには、すべてが漢語であるのに対して、10から1まで唱えるときには、「なな」と「よん」というヤマトコトバが入る。「し」は「死」との連想から嫌われ、「しち」は「いち」とまぎらわしいことから避けられた結果、「し」「しち」より「よん」「なな」の方が使用頻度が高くなった。40、70は、それぞれ何というのが普通だろうか? 私自身は、「よんじゅう」「ななじゅう」といっている。1から10まで唱える場合は、いちばん普通の数え方であるために、すべて漢語のまま唱えることが、古くから習慣として定着しているということであるようだ。
2001/11/28 水曜日 ご苦労様 
初めてパートに出たという主婦の方からメールを頂いた。パート先で「ご苦労様」と言ったら、失礼な言い方だからやめなさいと言われたけど、どう思うかという趣旨であった。確かに、「ご苦労様」は、対等以下の人に対しては言いやすいが、目上には使いにくい。「ご苦労様でした」でも大差はない。私の勤め先ではお互いに「お疲れ様でした」という人が多い。別れ際に言うなら単に「失礼します」でもよい。
それにしても、なぜ「ご苦労様」ではだめで、「お疲れ様」ならいいのだろうか? 思うに、疲れるのは何も苦労したときに限らない。存分に楽しんだあとでも疲れは残る。ゴルフやスキーのあとに「お疲れ様」といっても何の違和感もない。苦労をしなければならないというのは、それだけ地位が低いからという解釈も成り立つ。そういえば、もう死語になりかかっているが、目上の人が何かするときには、何でも「遊ばす」という表現もある。
朝鮮語で「ご苦労様」にあたる表現は「スーゴハムニダ」である。しかし、やはり目上には使いにくいという感じがあるようだ。「スーゴ」とは、「受苦」と書く漢語であり、要するに「苦労」のことだ。こういうときは、「スーゴハシゲッスムニダ」と言えばよいともいう。直訳すれば、「ご苦労でいらっしゃることでしょう」という感じになる。
2001/11/26 月曜日 機械との相性 
私は機械とは相性が悪い。HPを開いているくせにPCはとくに苦手である。何より、ついさっきしたのと同じ操作をしたのに、機械の反応がまるで違い、フリーズなどしたときには腹立たしい。そういった話を同僚の理科の先生にしたところ、「人間だって同じじゃないですか」と言われた。そういえば、同じことをしたのに反応の違う気まぐれな人はたくさんいる。しかし、私には、人間とつきあうのは人生の目的であり、機械とつきあうのは手段に過ぎないという気持ちがある。相手に合わせてつきあわなければならないという点では、人間のみならず動物であっても我慢できる。しかし、「機械は人間のために人間が作ったものではないか」という気持ちが私の機械に対するこらえ性のなさにつながっている。
機械との相性というのは、機械に強いかどうかということとは別のことのように思われる。相性のいい人とは、機械とつきあうのを人生の目的と感じられるほど、機械が好きな人なのではないだろうか? 勤め先のPCがうまく作動せず四苦八苦している人がいるとき、頼まれたわけでもないのに、のぞきこんで任せてほしいという人がいる。そういう人が機械に強い人だとは必ずしも限らない。その人よりもっと機械に強い人で、頼まれてから仕方なく重い腰を上げる人もいる。自宅のPCが壊れたときには、相談する人がいないので、機械に強くもなく、相性も悪い私は四苦八苦する。私にとってPCは人に読んでもらいたい文章を発信する手段であり、PCを操作すること自体はあまり好きではない。
中学生のころ、機械を分解したり組み立てたりすることに熱中している友人がいた。私にはそういう時期がまったくない。その友人はプラモデルを組み立てるのも好きだった。そして、せっかく組み立てたプラモデルを2B弾というおもちゃの爆薬で爆破するのも好きだった。世の中にはいろいろな人間がいるものである。
2001/11/25 日曜日 『モゴール族探検記』 
大阪にある国立民族学博物館の初代館長(現顧問)を務めた梅棹忠夫氏が1956年に岩波新書の一冊として書いた『モゴール族探検記』を学生時代以来、久しぶりに読み返した。モゴール族とは、アフガニスタンに住むモンゴル系の住民のことであり、私がこの本を読み返す気になったのは、「文明の十字路」と言われるアフガニスタンがいま大変なことになっているからである。モゴール人は、かつてモンゴル軍がユーラシア大陸を蹂躙したとき、今のアフガニスタンの地に君臨し、モンゴル撤退後もそこに残った住民の子孫と言われている。いま、「北部同盟」の一翼を担うハザラ人もやはりモンゴルの末裔と言われている。しかし、ハザラ人が現在では歴然たるモンゴロイドの容貌を保ちながら、言語はペルシャ語の方言であるダリ語を話しているのに対し、モゴール人は梅棹氏が「探検」した1955年当時まで、まだかろうじてモンゴル語を保持していたようだ。モゴールというその名自体、「モンゴル」から来ている。しかし、この本によれば、当時すでにモゴール人もダリ語を日常用いており、モゴール語は、長老ですら、「アスプ、モリン」とダリ語とモゴール語で「馬」を示す単語を思い出すように並べるぐらいしかできなかった。しかし、その言葉を聞いて梅棹氏と同行したモンゴル語学者の山崎氏は驚嘆する。現代モンゴル語で馬は「モリ」というのに対し、「モリン」というのは、古文献にも残る中世のモンゴル語だというのである。今日、モゴール語は、最も若い話し手ですら60歳を超えており、絶滅寸前の言語となっているようだ。モンゴル系民族の分布について、和光大学のユ・ヒョヂョン助教授による、「世界のモンゴル人」という興味深い記事がある。
モゴール人は、600万もの人口を持つハザラ人と違い、人口の絶対数が少なく、3千人ぐらいと聞く。そのせいか、容貌もモンゴロイドの特徴を失っている。梅棹氏の一行がモゴール人の村を訪れたとき、村人は警戒心をあらわにして、進んで言葉をかけようとしない。しかし、一行が自分たちが招かれざる客であることを知って出発しようとすると、「アフガン」に襲われると言って急に引き止めにかかったという。「アフガン」とは、アフガニスタンで最も力を持ち、最近にわかに世界的に有名になったパシトゥーン人のことである。そのとき、梅棹氏らは、民族間の日ごろの対立関係の厳しさに慄然とする。今日のアフガニスタン情勢を考える上でも、この記述は参考になる。東西冷戦体制が崩壊したため、民族紛争が多発するようになったというニュース解説をよく聞くが、私は信じない。単に「先進国」の人間が、最近まで途上国の実情をよく知らなかったために、そう見えるだけに過ぎないように思う。タリバン政権がバーミヤンの大仏を破壊したとき、「先進国」は、それを非難したが、実はこの大仏は、欧米主導で決められる世界遺産にはまだ指定されていなかった。世界遺産の指定がヨーロッパに偏りすぎていることを指摘する人は多い。この点については、世界遺産資料館を参照されたい。
この本の中に気になる一節がある。「めくらの国では片目が王様」という意味のアフガニスタンのことわざを聞いて、梅棹氏は、「鳥なき里のこうもり」より「気がきいている」と書いていることである。現在80歳を超えた梅棹氏が失明していることを思えば、引っかかるものを感じずにはいられない。しかし、私は、何も梅棹氏を非難しようと思って書いているのではない。私が大学を出るまでのころの日本は、今日では常識となっている人権への配慮がまるでない時代であった。当時の私も、このような決まり文句を何気なく書いていたかも知れない。まだ、テレビの普及していない小学生のころ、映画館ではニュース映画というものが上映されていたが、日本のある離島の住民の映像を見た記憶がある。二人の女性が映っていたが、二人とも目が白く濁り、ナレーションは、それを近親結婚のせいだと言っていたのを覚えている。その後も私が大学生だったころまで、テレビでは、世界中の「未開」民族の映像を「奇習」を中心にゲテモノのように報じる番組が多かった。
自分が10歳のときに書かれた『モゴール族探検記』を、私は大学生のときに読んだ。梅棹氏の文章力もあって、この本は学術調査の報告にしては珍しくよく売れた。実際、面白いし、アフガニスタンの社会への分析も鋭く、学術調査の記録としても優れている。ただ、今の時代では、「探検」という言葉に、どうしても抵抗を感じてしまう。現在は絶版になっているが、岩波新書は図書館に行けば揃っていることが多いので、興味を感じられた方は一読されたい。
2001/11/24 土曜日 よその子供を叱る大人 
ちかごろ、よその子供を叱る大人を見かけない。仮にいたとしても、今の世相では変人と見られてしまう。しかし、よその子供を叱る大人は、私の子供のころにはいくらでもいた。
近所に、子供たちからとても恐れられているおばあさんがいた。一人暮らしだが、一軒家に住んでいる。その近くの空地で、私たちが野球をしていたときのこと、私の打った球が所もあろうに、そのおばあさんの家に入ってしまった。ホームランといいたいところだが、ただのファウルである。野球をしていた全員がひどく緊張した面持ちで、おばあさんの家を訪れた。おばあさんは庭の手入れをしていた。身体に当たったという。本当かいなと思ったが、誰もそんなこと口に出さない。そして、「誰が投げたの!」という。おばあさんは、投げた球を打つ遊びが野球だということも知らない。幸いなことに、私は打ったが投げてはいない。ピッチャーをしていたS君が正直な子で手を挙げ、おかげでおばあさんの矛先はS君に向き、私は他の子たちと同様、ほっとした思いでお説教を聞いていた。
私たちの上の世代の人生経験には、私たちとは隔絶した厳しさがあった。そこからおのずとにじみ出る迫力に、子供たちは恐れをなさずにはいられなかった。今にして思えば、私たちの世代は、上の世代の時代のことを案外よく知っている。祖父母と同居しているのはごく普通のことだったし、テレビが普及してからも一家に一台で、子供にチャンネル権はなかったから、大人たちの好きな番組にもつきあわざるをえず、見ているうちにそれなりに面白さを感じるようになっていった。
今の子供たちの置かれた状況は、私たちの世代とはだいぶ違っている。核家族が圧倒的に多いし、ビデオが普及してからは「チャンネル権」という言葉も死語となり、大人たちと一緒にテレビを見ることもない。そして、私たちの世代には、私たちの上の世代ほどの迫力はない。こういったことが重なって、今の子供たちは、ちょっと昔のこともほとんど知らない。私たちには懐かしい曲がリバイバルし、若い世代に新しい曲として受け入れられるのも、それまで聞いたことがないからであろう。私たちの目から見れば、古色蒼然たる内容の歴史教科書が、臆面もなく「新しい歴史教科書」などと称せるのも、こういった世相の反映であると思う。
2001/11/23 金曜日 蘆原将軍 
小さいころ、祖母が「将軍といっても、蘆原(あしわら)将軍というのもいる」と言って笑っていたのを覚えている。なぜか、それが誰かを訊かないまま、記憶の片隅に残っていた。蘆原将軍が何者かを思いがけずに知ったのは、朝日新聞社が前世紀の末に出した『二十世紀の千人』の第10巻の「マージナル・ピープル」を読んだときであった。この巻の最初に朝倉喬司氏の文章で蘆原将軍が紹介されていた。
蘆原将軍こと蘆原金次郎は、没落士族の櫛職人であった。20代の後半から自分が(軍隊の)将軍であるという誇大妄想にとりつかれ、都立松沢病院に収監されて一生をそこで過ごした。その風貌は将軍というに値するほど貫禄十分であり、病院の職員まで彼を将軍として扱った。蘆原将軍から「これこれのことをアメリカ大統領に伝えよ」と言われると、職員は「かしこまりました」と言って部屋を出て行った。一日中新聞を読んでいたので、当時の国際情勢にも詳しかった。病院にはしばしば新聞記者が訪れ、その意見を大々的に報道した。おかげで蘆原将軍は、全国的な有名人になった。
病院をかの乃木希典が訪れたこともある。こちらは本物の将軍なのだが、蘆原将軍が「おぬしも日露戦争ではご苦労であった」というと、乃木希典が、「はっ、閣下、ありがとうございます」という調子で、どっちが本物か分からなかったそうである。蘆原将軍は当時のメディアが売り出した人気者だったのだが、今から見れば人をおもちゃ扱いしていたような気がするし、誇大妄想のあり方が、当時の世相を反映しているように思う。
前記の「マージナル・ピープル」とは、「辺境人」の意味である。国内外のさまざまな20世紀の有名人を扱ったこのシリーズの中で、特定ジャンルにおさまらない人物を集めたこの巻はとくに面白い。詳しくは、同書をお読みいただきたい。
2001/11/21 水曜日 焼肉店の受難 
日本で2頭目の「狂牛病」の牛が見つかった。ようやくほとぼりがさめると思っていた焼肉店などの経営者にとっては、心臓がとまる思いだったと思う。イギリス政府が国内での肉骨粉の使用を禁止しながら輸出は自由としたこと、日本政府が肉骨粉の牛への使用を禁じながら、それを徹底しなかったこと、一部の農家の勉強が足りなかったことなどのツケを、このような経過に責任のない焼肉店が負っているわけである。2頭目の出現で焼肉店の受難はまた長引きそうである。
感染牛の部位のうち、最も危険な脳を食べても、それでヤコブ病にかかる確率は1%にも遥かに及ばず、「狂牛病」とヤコブ病の関連にも確証すらないのだが、いったん広まった不安はなかなかおさまりそうもない。行政の措置が徹底しても、この病気の発生をゼロにすることはできないだろうが、食肉になる段階でのチェックをきちんとしているのなら、まず大丈夫と思う。今回の2頭目の発見は、逆に牛肉の安全性の証ということもできる。危険といっても、その危険性は、夏に海水浴をして溺れたり冬にスキーをして立木に激突して死ぬ確率より、さらに遥かに低い。楽しみで泳いだりスキーをしたりするのと同じつもりで、焼肉を楽しんでほしいと思う。しかし、行政の怠慢に対しては、猛省を求めたい。危険性を限りなくゼロに近づける努力を不断に続ける責任が行政にはある。イギリスはもちろん、日本の政府もその責任を十分に果たしてきたというには程遠い。
焼肉店の経営者には在日コリアンが多い。一昔前は、当然すべてがそうだったといってもよいほどだったが、焼肉の普及とともに、日本人が経営することもごく普通のことになった。在日コリアンの経営者にとっては、痛し痒しである。そのことによって、今も就職口が狭い在日コリアンの生活は、いっそう脅かされることになっていた。そこにもってきてこの「狂牛病」問題である。何の責任もない焼肉店に客足が戻ることを望みたい。どうしてもまだ心配という人は、、焼肉ばかりが朝鮮料理ではないのだから、これを機会にさまざまな料理を味わってみてはいかがだろうか?
私の育ての父も在日コリアンである。その古い友人に焼肉店を経営者がいて、子供のころ連れられていったことが何度もある。無煙ロースターもない時代だったから、もうもうたる煙の中で養父と経営者とのまったく理解できない朝鮮語の会話を聞きながら、黙々と肉を食べたことを思い出す。焼肉店の経営者のみならず、客にも日本人が珍しかった時代のことである。今回のことを死活問題と感じているのは、焼肉店に限らない。近所のステーキハウスも、最近になって魚貝料理を始めているし、畜産農家も深刻であろう。
2001/11/20 火曜日 スキー 
日替わりで駅の掲示が変るものに桜便りと紅葉便り、そしてスキー場便りがある。地球温暖化のせいか、西日本のスキー場の関係者にとっては、一冬を棒に振るのではないかと、やきもきする季節が始まった。実際、雪のかけらもない斜面に動かないリフトが張り付いているのを冬のさなかに見ることもある。
むかしテニスとゴルフとスキーは金持ちのスポーツと言われた。しかし、今ではどれもとくにぜいたくなスポーツとは思われてはいない。イギリスではこの三つは古くから中流のスポーツとされていて、上流は乗馬や狐狩りなどに精を出していたらしい。高校生のころ、北海道を旅行して、農家の納屋にスキーが立てかけてあるのを見て、違和感を覚えた記憶がある。
ひところ、高校の修学旅行をスキーにするのが流行ったことがあった。生徒の大半が未経験という時代であった。そういうころにスキー修学旅行についていったことが何度かある。スキーにすれば、昼間はインストラクターに任せておけばよいし、疲れるので生徒も夜は早く寝るというのが、教師にとってのスキーのメリットであった。
さて、未経験なのは生徒ばかりではなく、教師も同じであった。未経験の教師を集めてインストラクターが一人ついた。私も生徒の一人としてそれに加わった。ゲレンデの一番下の方で、プルークで曲がる練習をさせられた。曲がるところが難しく私は転びまくった。他の人が次々とできていく中で取り残された。そのうち上に上がろうということになった。なかばやけっぱちでリフトに乗ったが、それが結果的にはよかった。下の狭いところで急にターンしようとすればあせる。そのあせりのおかげで身体もうまく動かない。ところが広々とした上では、ターンとターンの間隔が長い。それでコツをつかむことができた。あとは、その間隔を短くすればよかったのである。そうやってどうにか滑れるようになった。しかし、ターンのとき、一瞬谷底へ真っさかさまという態勢になる恐怖になれるのには時間がかかった。
母が小四まで北海道育ちということもあって、私は小さいころからスケートは滑れた。しかし、平面と斜面では爽快感がまったく違う。滑るのに慣れれば景色を楽しむ余裕も出てくる。確かにスキーは楽しい。しかし、飛行機に乗って緑豊かな日本の山を見るとところどころに無残に禿げたところが見られる。それがスキー場である。寒い北欧では自然の状態のままでもスキーができる。しかし、緑の豊かな日本では木を切り倒さないとスキー場はできない。ゴルフにしても同じことが言えるが、開発には歯止めが必要だという気もする。そのころの写真を一枚添える。左側にいるのが私だが、自分で見てもさまになっていない。
2001/11/14 水曜日 かぜをひく 
急に寒くなって風邪を引いた。「かぜ」という言葉を「風」「風邪」と書き分けるが、結局は同じ言葉と思う。朝鮮語で風邪は「カムギ」という。「感気」と書く漢語である。「風邪を引く」は「感気が入る」と表現される。英語ではcatch
a cold という。どちらも日本語と発想が似ている。温帯に住む人は、「かぜ」の原因は寒さだと思い込んでいる。しかし、どうも寒さは抵抗力が弱まるきっかけに過ぎず、大半の風邪はウィルスが原因らしい。
何年か前の正月に、日本のテレビ局が、寒帯に住むイヌイット(エスキモー)の一家と、熱帯に住むニューギニア人の一家を、入れ替え旅行に招待するという企画を立てたことがある。途中、両家族を東京の料亭で対面させ、それからそれぞれ相手の生活圏へ向うという企画であった。温帯住民の感覚から言えば、風邪を引きそうなのは熱帯から冬の日本に来たニューギニア人のように思えるが、この一家はその後の北極圏の旅行ですら誰も風邪を引かないまま帰宅した。ふだん住んでいる所より遥かに暖かい日本で風邪を引いたのは、イヌイットの一家の母親であった。そのため、母親を日本の病院に残し、父親と子供たちだけでニューギニアに向うことになった。
イヌイットは寒さには慣れている。しかし、寒いところには微生物は少ない。母親は、それまでかかったことのないウィルスに感染したのに違いない。
2001/11/13 火曜日 Discover Japan 
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30年ほど前、私がUSA一周に利用した
高速バス網グレイハウンドの標語は、
"Discover the real America."だった。 |
旧国鉄が"Discover Japan"というキャンペーンを始めたのは、1970年のことだった。キャンペーンは7年続き、山口百恵の歌で知られる「いい日旅立ち」キャンペーンに受け継がれた。このようなキャンペーンが行われたのは、観光旅行がもはや贅沢ではなくなったことを物語り、"Discover
Japan"という標語は、英語がある程度まで大衆化したことを物語っている。しかし、一方でこの標語は、日本にもはや発見するものがほとんどなくなっていることをも示していた。このキャンペーンとともに、日本中に貼り出されたポスターには、都会の若い女性が観光用に整えられた古い街並みを歩く姿がよく描かれていたように思う。異質の空間への旅に憧れる私にとっては、あまり魅力のあるポスターとは言いがたかった。
"Discover Japan"という標語には、今にして思えば古めかしい面もある。"Discover
America"にならったものであることは一目瞭然だが、いま、世界史の教科書に「アメリカ発見」と書かれることはない。コロンブスはアメリカに到達したにすぎない。当時のアメリカ大陸には、南北あわせてすでに数千万人の先住民が住んでいたのだから、「発見」などという言葉はおこがましい。1970年ごろには、このような思考はまったくといってもいいほど行われていなかった。
"Discover Japan"は、所詮、観光旅行の標語に過ぎず、旅へのいざないの言葉とは言い難い。観光旅行の主役はあくまで旅行客であって、旅人ではない。旅行客は、自分の日常を平気で旅行先に持ち込むが、旅人とは、行くさきざきの土地に自らをあわせて旅する人のことである。観光旅行のポスターの主役は、今も旅行客である。ただ、旅行先が広く国外にまで広がったことが1970年当時との違いである。
たとえば、「アジアのフランス、ベトナムに行こう」とか、「ホテルは豪華なコロニアル(植民地)風」などという観光の標語を見ると、いったい何を求めてベトナムに行くのかと思ってしまう。私がベトナムに行くならベトナムの伝統をこそ見たい。途上国では、どんな旅行をしても、地元の人に贅沢な人間と見られることは避けられないが、少なくともコロニアル風のホテルに泊まって宗主国民の気分を味わいたいなどとは、金輪際思わない。
2001/11/12 月曜日 義母を送る 
9日の早朝、義母が旅立った。横浜から私の母も参列した。遠路来なくてもよいと言ったのだが、ぜひ参列したいと言って聞かなかった。義母の人柄が好きだったせいもあるのだが、故人より2つ年上の母としては、同世代として身につまされたせいもあったのだろう。昨日の葬儀を終えて、今朝早く横浜へ帰って行った。
2001/11/08 水曜日 回文 
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ムーミンは妖精であり、たまたま姿が
似ているだけで、カバではないらしい。 |
私と同姓の未知の人から、親戚に「信太正」という人がいるというメールを頂いた。上から読んでも「シダタダシ」、下から読んでも「シダタダシ」である。こういう言葉遊びを回文といい、「シンブンシ(新聞紙)」や「タケヤブヤケタ(竹薮焼けた)」でおなじみである。もっと凝ったものでは、江戸時代に大晦日の晩に枕の下に敷いた七福神の絵に添えられた「なかきよのとをのねふりのみなめさめなみのりふねのをとのよきかな(濁点の有無を無視すれば、「長き夜の遠の眠りのみな目覚め波乗り船の音の良きかな」)という歌があるが、「遠」の字は「とほ」と書くのが正しい。
「シダタダシ」をテープに録音して逆回ししても、決して「シダタダシ」にはならない。「イシャダタディッシュ」となるはずである。日本人は音節単位に逆回しを考えるが、テレコで回文が成立するには単音単位にしなければならない。英語の回文としては、
"Madam,I'm Adam."というのがあるそうだが、これにしても文字単位であり、テープを逆回転させると、「マダミアマダム」となるはずである。
漢字単位にするとますます、わけが分からなくなる。「上から読んでも山本山、下から読んでも山本山」という海苔のCMがあるが、テープを逆回転させると、「アマヨトママイ」となるであろう。
2001/11/07 火曜日 恐怖の質 
だいたい、感情というものは理屈に合わないものだが、恐怖ほど理屈に合わない感情もない。笑いは一瞬の感情である。おかしなことが起こったとき笑うのはいいが、それが終ったあとまで一人でいつまでも笑っていたら気味悪がられる。悲しみは永続する感情だが、大事な人を失った人がいつまでも悲しんでいるのは、永続すべきことが続いているのだから当然である。これに対して、恐怖はその対象が消えたあとあとまで、かなり長く残ることが珍しくない。目の前にいた蛇が姿を消したのに、いつまでも怖がる必要はどこにもない。
恐怖にもさまざまな種類がある。たとえば、幽霊と原爆とではどちらが怖いであろうか? 今では初歩的な原爆でも広島と長崎で30万人もの人を殺した。どんな怖い怪談でも、30万人も取り殺したという幽霊の話は聞いたことがない。にもかかわらず、幽霊の方が怖いのは、得体が知れないためであろう。飛行機に乗るのが怖いという人はたくさんいる。そういう人でも船に乗るのは平気だったりする。外洋の真中で沈まれたら、どんなに泳ぎの上手な人でも助かりっこない。にもかかわらず、飛行機の方が怖いのは、船なら自分の力でとりあえずは何か助かる努力ができると思うからだろう。飛行機では、まったくのあなたまかせで、最初からどうしようもない。飛行機に乗るのは怖いのに、自分で車を運転するのは平気という人は、いくらでもいる。実際には車で死ぬ確率の方が、飛行機で死ぬ確率よりはるかに高い。
恐怖の強さは確率では決まらない。いま、問題になっている「狂牛病」の場合、最も危険な感染牛の脳を食べても、感染する確率は、1%にも遥かに及ばない。車を運転して事故死する確率にもタバコを吸って肺がんになる確率よりもずっと低い。それなのに、人は危険を覚悟で車を運転し、タバコを吸う。考えてみれば、世の中に絶対に安全と言い切れる行動はむしろ少ない。「狂牛病」が怖いのは、まだ得体が知れない上に、自分で避ける方法が最初から牛肉を食べないこと以外にないからであろう。確かに牛肉を食べなければ感染する心配はないが、焼肉店やステーキハウスはたまったものではない。行政が一定の措置をとったという今、車を運転し、タバコを吸うつもりで、牛肉を食べてもいいのではないかと私は思う。ただし、行政には、この病気のこれ以上の拡大を防ぎ、そのメカニズムを解明して、だれもが安心して牛肉を食べられるよう、最大限の努力をする義務があることは言うまでもない。米軍基地の多い沖縄が、同時多発テロ以来の観光客の激減に泣いている。そんなことをいったら、沖縄に住んでいる人は、毎日恐怖におびえていなければならない。普通の人が狂牛病やテロを防ぐことはできないが、自分の恐怖の質を問い直し、冷静に対処することは、誰にでもできることだと思う。
2001/11/06 月曜日 「ず」と「づ」 
「ず」と「づ」は、それぞれに対応する無声音である「す」と「つ」が別の音であるように、本来は別々の音である。しかし、現代の日本人は、有声音となるとこの聞き分けができなくなっている。そのため、新かなづかいでは、原則として「ず」に統一することにした。しかし、連濁によって生じ、語源意識が強い場合には、「かなづかい」「みかづき」のような例外を認め、「づ」を正しいとした。しかし、本来は「さかづき」であった杯は、すでに語源意識が失われているとして、「ず」が正しいとされた。しかし、この場合、語源意識の強弱を判定する基準は示されなかった。というより、示しようがなかったのである。杯の場合、平安貴族が食事に用いた高杯(たかつき)を知っていて、本来は「つき」と読める字であり、それに「さか(酒)」がついたのだということを知っている人は、「さかずき」と書くのに抵抗がある。しかし、「さかづき」と書くと誤りとされたのである。同様のことは、「つまずく」「うなずく」「けずめ」についても言える。「ず」が正しいとされたのだが、「つま」は「爪」、「うな」は「うなじ」と同じであり、それに「突く」がついたのだという語源意識をもっている人は少なくない。「けずめ」とは、鶏(とくに軍鶏)の脚の後ろに突き出した爪のことで、「蹴爪」が語源である。こういった語の場合、「づ」を誤まりだとしたために、せっかく語源意識を持った子供に×をつけることになってしまった。本末が転倒しているのであり、こういった場合は、「づ」を原則とし、「ず」を容認するとすべきだったのである。文字表記には、たとえば「適確」と「的確」がともに正しいとされるように、多様性がつきものである。このように、戦後の文字改革には、正しいものは一つだけとする偏狭さがみられる。なお、「じ」と「ぢ」の書き分けについても、「ず」と「づ」の場合とまったく同じことが言える。
2001/11/04 日曜日 双子 
自分が高校生だったときにも下級生にいたが、長年教師をしていると、何組もの双子に出会った。あるとき、授業中だった新任の体育教師が血相変えて職員室に飛び込んできた。「○○が怪我しました!」と言う。思わず「どっちが?」と言うと、「分かりません!」と言う。自分も見分けがつけられないくせに馬鹿なことを聞いたものである。それとは別のペアの話だが、学年全体で山歩きをしたとき、谷を隔てて後ろの山にそのうちの一人の姿が見えた。それからさほどたたない後にふと振り向くと、何とすぐ後ろにいる。思わず「もう追いついたのか!」と聞いたが、「あれは兄貴です」と言われた。高校時代の下級生は、二人並ぶと僅かに身長が違うので見分けがついたが、一人一人では区別がつかなかった。
双子には一卵性と二卵性がある。二卵性の双子は普通の兄弟程度にしか似ていない。従って、あまり似ていないことも多い。ダイエーの王監督も二卵性双生児の弟の方で、幼いころに亡くなった姉がいた。異性の双子は当然二卵性である。なお、この姉弟の兄の鉄城氏は外科医であり、王監督も現役時代に怪我をするとよく兄に診てもらっていた。テレビで球場に応援に来ていたのを見たことがあるが、あまり似ていなかった。これに対して、一卵性双生児は実によく似ている。というより、遺伝的には「同じ人」と言って差し支えない。マラソンで活躍した宗兄弟を思い出す。兄弟の通算の勝負はだいたい対等であった。同じ素質の人が同じトレーニングを受けたのなら、同じような成績になるのは無理もない。スキーの複合の荻原兄弟の場合は、兄の健司にスポットが当たり続けたが、それは、スポーツが僅かな差を争う時代に入ったからであって、普通の人レベルから見れば、二人とも「すごい!」と言うしかない。むかし、「ザ・ピーナッツ」「ザ・リリーズ」「こまどり姉妹」など、双子のデュオが流行ったのも、声が同じでよくハモるからに違いない。
一卵性双生児は、身体的にはそっくりだが、精神的にはやはり別々である。同じ家庭に育つのだから、精神的にも似ている面はあるが、ある一卵性双生児の兄弟の場合は、そうでもなかった。一人は教師に対して反抗的であり、一人は従順だった。そのため、顔はそっくりなのに、表情がすでに人相となっているので、一目で見分けることができた。二人に対する親の対応が違うのだろうか、それとも、家庭の外での経験が違うのだろうか? そう、前にもこの日記で書いたことだが、個人を作り上げるのは経験である。経験がそれぞれの「じぶん」となる。運命のいたずらで別々の環境で育った一卵性双生児をテーマにした小説はよくある。女子の一卵性双生児の場合は、親の干渉が男子より強いせいか、性格的にも似ている印象を受けることが多いが、互いに相手を意識している度合いは男子以上に強いようである。
最近、人工的に「同じ人」を作りうる技術が開発された。まだ人間には適用されていないが、やはり「クローン人間」は認められてはならないと思う。自然に生まれる一卵性双生児の場合は、時を同じくして育ち、互いに対等の関係にある。これに対して、クローン人間の場合は、すでに育った他人と比較されることになる。そのことが、彼または彼女が「じぶん」を形成する上で、著しい歪みを生む恐れがある。人間は肉牛や競争馬とは違うし、牛馬に適用するにしても、このような技術は、たとえ実験であっても慎重であるべきである。実験の段階ですら、何が起きるか予想をしきれるほど、人類が賢いとは思えない。
2001/11/02 金曜日 ピースサイン 
日本人が写真をとるとき、ピースサインをするようになったのはいつからだろうか? 少なくとも、私の高校生時代には誰もしていなかったが、私は、それ以前からVサインの名前で、このサインを知っていたように思う。Vとはvictory(勝利)の頭文字で、ナチスに対する戦いの勝利をめざして戦う仲間であることを確認しあうサインだった。
しかし、Vサインは今のピースサインの直接の起源ではなく、アメリカのベトナム反戦活動家が手の甲を警官隊に向けて行った挑発のサインに始まるものらしい。手の甲を相手に向けると挑発の意味になるのは、イギリスでも同じだという。これに対して、手の平を相手に向けるサインには、相手を拒絶する意味より、仲間であることを確認する意味があることから、今日のピースサインになったのかも知れない。日本では、ツーリングをする二輪ライダー同士でこのサインを交わしていた時期があるらしい。
それにしても、日本ほどピースサインを乱発するところは、ほかにはないようである。海外でただでさえ集団で行動する日本人が、写真をとるときに一斉にピースサインをするのは、外国人には奇異に映るのではないかと恐れる。ピースサインをする若者がこのサインの歴史を知っているとは思えないが、私にはいまだにVサインのイメージが強い。写真をとるときには、めいめいがポーズを工夫すべきだと思う。一斉にピースサインをするのは、どうも個性がない感じがして好きになれない。
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