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「鼻濁音」にこだわる
必要がどこにあるのか?
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| 『日本語アクセント辞典』(1958初版)をもとに作成した分布図で、緑が鼻濁音のあるところ、橙色がないところである。ただし、この地図は、都道府県単位で作ってあるので、境界は必ずしも都道府県界に一致せず、飛び地となっているところもあちこちにあるが、概略としてはこれでいい。『日本語アクセント辞典』では、東京23区と大阪市が鼻濁音の有無の混在地帯とされている。 |
「ら抜き言葉」と並んで、日本語の「乱れ」を言うとき、必ずといってよいほど槍玉にあげられるものに、「鼻濁音」の消滅がある。「鼻濁音」とは、語の中にある「がぎぐげご」のことで、「まがる」「くぎ」などに見られ、IPA(国際音声字母
International Phonetic Alphabet)では[ ]で示される鼻にかかる音である。ここで、誤解をしている人が非常に多いのでことわっておきたいことは、鼻濁音をうるさく言う人たちがすべての「がぎぐげご」を[ ]で発音せよと言っているわけではないということである。語の頭にある「がぎぐげご」は、昔から日本全国どこでも[ ]で発音されてきた。だから、たとえば、「がっこう」「ぎり」を「んがっこう」「んぎり」と言う必要はないし、むしろ、言ってはならない。
鼻濁音の存在が気づかれにくいのは、語頭にあるときは鼻にかからない「がぎぐげご」、語中にあるときは鼻にかかる「がきぐげご」(鼻濁音)という役割の分担(相補分布)がなされているからである。つまり、[ ]か[ ]かで語が区別されることはほとんどない。数少ない例として、「戦後」の「ご」が[ ]、「千五」の「ご」が[ ]であることが挙げられるが、これは「戦後」が一語、「千五」が二語と意識されているためである。したがって、語中の「がぎぐげご」を鼻濁音で発音しなくても、会話に不都合が生じることはないと言って差し支えない。それなのに、なぜ鼻濁音のことがよく話題になるかというと、語中の[ ]を「耳障り」だとか「汚い」とか感じる人が一部にいるからである。しかし、同じ[ ]音を語頭にあるときには何とも思わず、語中にあるときには「汚い」と感じるのは、考えてみれば、おかしな話である。
英語にも、singやlongなど[ ]音はある。しかし、語頭に立つことはない。singerは[si ]、longerは[l   ]だが、逆にしたからといって話が通じないということはない。しかし、[ ]音が語頭に立つ言語も珍しくはなく、たとえばベトナムで最も多い姓である「阮(グエン)」は現代の「クォック・グー(国語=アルファベット表記)」では、Nguyenと書かれる。古い中国語にも語頭の[ ]音はあったが、現代の北京音では「五」「芸」がそれぞれ「ウー」「イー」と発音されるように脱落している。この脱落はかなり古い時期に起こったらしく、朝鮮漢字音でもそれぞれ「オ」「イェ」となっている。日本語の「ゴ」「ゲイ」という読み方は、古い発音の名残であるが、もちろん語頭では[ ]音に変っている。
自分が鼻濁音を使っているかどうかを調べるのはさほど難しくない。「まがる」「くぎ」といった言葉を鼻をつまんで言ってみて、息がつまる感じがすれば鼻濁音を使い、しなければ使っていないのである。私自身は鼻濁音を使っているが、語中の[ ] 音を「耳障り」とか「汚い」とか感じたことはない。現代の若い世代で鼻濁音を使う人はきわめて少数派であり、発音にうるさいアナウンサーの採用にあたっても、鼻濁音はもはやうるさく言われなくなっている。しかし、聞いて違和感を覚える視聴者が少しでもいる限りはということで、鼻濁音の研修は続けられている。そのため、現職のアナウンサーの場合、鼻濁音を使う人は一般よりずっと多いが、それでも過半数が鼻濁音を使っていない。
「標準語」という言葉は、その強制的な語感を避けて、戦後は「共通語」と言い換えられている。「共通語」という以上、あてはまらない地域の多いことにはうるさく言うべきではない。1958年に初版の出た『明解日本アクセント辞典』の付表を見ると、中国・四国・九州地方は、全域もともと鼻濁音を言わない地域である。近畿以東でも鼻濁音のない地域は、新潟・群馬・埼玉・愛知ではほぼ全県に及び、そのほかにもところどころ鼻濁音なしの地域がある。そして、本来は鼻濁音地域であったはずの東京と大阪の周辺が、両者の混在地域とされ、鼻濁音地域で真っ先にその消滅が始まっている。これは、さまざまな地域から人が集まる大都会であるため、普遍性のない区別は自然と排除されたためであろう。それこそが「共通語」というものであり、鼻濁音をうるさく言うのは、戦前の「標準語」的発想の名残だとしか言いようがない。もっと言うのなら、一部の人のわがままに過ぎない。大学時代、中国、四国、九州地方出身の友人から、小学校のとき、鼻濁音をうるさく叩き込まれたという話を何度か聞いた。横浜で育った私には、そのような体験がまったくないので驚いた。鼻濁音のある地域だから必要がないと思われていたためであろう。鼻濁音のお手本とされた地域で、真っ先に鼻濁音の崩壊が始まったのは、皮肉な話というほかはない。首都圏や関西は、鼻濁音のない地域の人がどんどん流入するために、こういう区別が真っ先になくなったのだろう。
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フィリピンの公用語であるタガログ語では、鼻濁音の[ ]が日本語の「を」に当る単独の語。 |
一方、鼻濁音についてうるさく言う人が多い地域に東北がある。これは、東北方言では、語中の音が「はた(旗)」が「はだ」のように連濁するのに対し、もともと濁音である「はだ(肌)」などの場合は、「はンだ」のように濁音の前の「わたり」の部分に鼻音を挿入するからである。そのため、語中の「がぎぐげご」も、自然に鼻濁音になるのである。東北方言の「わたり鼻音」は、「はンだ」の場合、「だ」を発音するための準備運動という感じで、はっきり一拍を形成していない。一方で「(溶接に使う)はんだ」の発音は東京同様はっきり一拍を形成する。この東北方言の「わたり鼻音」の存在には、私は子供のころから気がついていた。秋田の親戚がよく家に出入りしていたからである。よく詐欺師には純朴で人がよさそうな感じのする東北弁が有利などと言われるが、そのような印象は主としてこのわたり鼻音の存在にあるように私は感じている。
かつての鼻濁音地域でも、特に大都市部では、すでに鼻濁音を意識しない人が多数派になっている。今さら、こんな余計なハンディをもともと鼻濁音のなかった地域の人にまで背負わせるようなことにこだわるのは、好ましいことではない。そもそも、音の美醜とは、聞く人によって異なるものである。欧米人には、「ん」の音を伸ばすのはひどく耳障りらしく、日本語で歌うときにも、欧米人に配慮して、たとえば「ゆーやけこやけーのあかとんぼ」の「あかとんぼ」は、「あかとーおんぼ」のように歌うことになっているらしい。しかし、私にはこの歌い方はきわめて不自然に感じられ、「あかとんーぼ」のように歌いたいと思う。高校のときの音楽教師から、日本語の「う」の母音は「汚い」(欧米語の[u]のようには唇を丸めないため、欧米人には耳慣れないためだろう)ので、ドイツ語のÖのように歌うのだという話を聞いたこともあるが、やはり、素直な日本人の耳にはそれこそひどく耳障りである。よく何語はきれいで、何語はきたないという人がいるが、私は同感できない。どこの言語だろうと、きれいに話す人ときたなく話す人がいるということにすぎない。
「ら抜き言葉」にせよ、「鼻濁音」にせよ、私にはひどく瑣末なことのように思える。これからの日本語を考えるとき、もっと大事なことがたくさんあるのに、なぜこんなどうでもよいことにこだわるのか、と考えている。
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