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ある日走ったそのあとで
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| ヒートリーに追われる円谷。出身地の福島県須賀川市のHPより許可を得て転載。「須賀川の歴史」の中の「須賀川人物伝」にある。 |
「ある日走ったそのあとで、僕は静かに考えた。何のために走るのか、若い力をすりへらし。」これを聞いて何のことを書いているのか分かる人は、ある年代以上の人であろう。これは昔、東京オリンピックのマラソン(当時、女子マラソンはなかった)で銅メダルを獲得した円谷幸吉(つぶらや・こうきち)選手が自殺したあとに流行った鎮魂歌である。女声のグループが歌っていたように思う。だいぶ前のことなので、正確ではないかも知れないが、この歌は、さらに、「雨の降る日も風の日も一人の世界を突っ走る。日本のためのメダルじゃない。生きる力の糧なんだ。」と続いていたように思う。
1964年の東京オリンピックのとき、1946年生まれの私は、18歳だった。1988年にオリンピックを開催した韓国と同様、高度経済成長を達成した日本は、それを誇示するための絶好の機会として、オリンピックに全力をあげていた。地元での開催ということになれば、当時の日本選手にかけられた期待は今日では想像もつかないほど、大きなものであった。その中でメイン種目ともいえる陸上競技のマラソンで銅メダルを獲得した円谷選手は、たちまちすべての日本人に名を知られる人となった。なにしろその時は、エチオピアにアベベという群を抜いて強い選手がいたので、金メダルが無理なことは初めから分かっていた。そのアベベの次にマラソン・ゲートをくぐったのが円谷だったのだが、ゴール寸前でイギリスのヒートリーに抜かれ、銅メダルにとどまった。しかし、これにより、円谷にはつぎのメキシコ五輪への期待が高まることになった。
ゴジラを世界に送り出した映画監督の円谷英二氏と同様、福島県須賀川市出身の円谷は、自衛隊体育学校を出た自衛官であった。一言でいって、とても生真面目な人だったようである。そのため、つぎのオリンピックでの日本国民の期待をひどく重圧と感じ、それに応えられないと感じて、自らの頚動脈をカミソリで切ったのである。
東京での戦後初のメダル獲得以来、マラソンでの金メダルは、日本の悲願となった。東京のつぎのメキシコ大会の君原健二はアベベの同国人であるマモ、1992年のバルセロナ大会の森下広一は韓国の黄永祚に敗れ、それぞれ銀メダルにとどまった。金メダル獲得の期待は、新たに導入された女子のほうに集まるようになり、2000年のシドニー大会で、高橋尚子選手によって達成された。
円谷と高橋では、親子以上に歳が違う。そして、高橋には「日本のためのメダル」という意識は希薄なように思われた。テープを切った高橋は、インタビューを求められたとき、まず小出監督(生きていれば円谷も同年輩)に会ってからといって一旦それを断った。私はそれでいいと思う。走ったのは高橋であり、育てたのは小出監督なのだから、応援するだけの日本の視聴者を最優先させる必要はどこにもない。高橋は、「この時代に生きた証を残したいと思って走るのだ」と常々言っていた。自分のために走るという気持ちでなければ、これからのオリンピックは勝てないのではないかと思う。レース当日の朝、高橋は、「どうも今日がオリンピックだという気がしない。いつもと同じみたい」と小出監督に訴えていたという。「ある日走ったそのあとで」、それを我がことのように喜びたい人は喜べばいいのだが、それは高橋自身のあずかり知らぬことである。喜んでくれる人がいることは励みにはなろうが、決して人を喜ばせるために走ったのではあるまい。私も、身近な人のように思って応援してはいたが、まず日本のために喜べといわれると、ちょっと違うのではないかという気がする。
高橋の金メダルは、日本の陸上としては64年ぶりのことと言う。しかし、これをマラソンとして64年ぶりと言ってはならない。1936年のベルリン五輪では三段跳(田島直人)とマラソンで日本が金メダルを獲得したが、マラソンの金メダリストは当時、日本の植民地支配を受けていた朝鮮の孫基禎だったからである。孫基禎については、詳しくは、ある長距離ランナーのゴールを参照していただきたい。不幸な時代にあって、孫基禎は、金メダルをとったがゆえに、さまざまな苦難にさらされることになる。のびのびと走れた高橋は幸せである。
追記 その後調べたところ、冒頭に記した歌は、ピンクピクルスという女性デュオが歌っていた「一人の道」という曲であることが分かった。いつでも青春音楽館のこちらに歌詞と説明がある。
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