私の苗字はよく珍しいといわれる。「聞き取れない」「書けない」「読めない」の3拍子そろっていることは確かである。名前を聞かれて「しだ」と答えると、その前に一字補いたがる人が多い。圧倒的に多いのは「い」であり、知らない間に「石田」になっていることがよくある。「岸田」「菱田」と聞き取られたこともある。第二に書けない。「志田」と書かれることが最も多い。何度か会う機会のある人は、はじめの「信」だけは覚えてくれるのだが、それでも「信田」と書いてしまう。「だ」も「田」ではなかったことも覚えていて、毎年「信多」と年賀状を送ってくる人もいる。第三に読めない。「しんた」「のぶた」が多いが、たまに無神経な人が「しんだ」と読む。子供が小さいころ高熱を出し、連れていった病院でそう呼ばれたときには、ふりがなをつけて出したこともあって、シチュエーションを考えろと言いたくなったものである。
しかし、私の姓は、さほどの珍姓ではない。Googleなどで「信太」と打ち込んで検索してみると、私の親戚ではない同姓の人がたくさん出てくる。読み方は私と同じ「しだ」が圧倒的に多く、「のぶた」や「しんた」は少ない。「のぶた」「しんた」は、あとで「しだ」を読み替えたものと思われる。同じ字を書いて読み方が違う場合は、読みにくいほうがもとだと考えたほうがいい。わざわざ読みにくくする人はいないからである。テレビ司会者に逸見(いつみ)正孝という人がいたが、私の中学・高校時代を通じた同級生に逸見(へんみ)がいた。勝呂(すぐろ)誉という俳優がいるが、昔のスキー選手にこれで「かつろ」と読む人がいた。最近、「のぶた」と読まれることが多くなった。テレビドラマの『3年B組金八先生』に「信太(のぶた)」という苗字を持つ生徒が出てきたためである。そののち、これがヒントになったのか、大阪の白岩玄という若者が「小谷信太」という生徒を主人公にした『野ブタをプロデュース』という小説を書き、テレビドラマ化されて放映されている。およそ、創作をする人には、人の名前は架空の名前であればこそ、もっとありふれた名前を選んでほしい。迷惑な話である。 関西に来てからは、よく「しのだ」と読まれる。大阪府に「信太(しのだ)」という地名があるせいであり、しかも「恋しくは訪ねきてみよ和泉なる信太の森のうらみ葛の葉」の歌で知られ、平安時代のスーパースターである陰陽師安倍晴明の出生にまつわる有名な伝説があるためだろう。もある。この地名に由来する「信太(しのだ)」姓もあり、平安時代の「新撰姓氏録」に載っているほどの古い歴史を持つのだが、現存の読みとしては稀といってよい。 私の苗字は、今の茨城県稲敷郡に由来するようである。稲敷郡は明治になって信太(しだ)郡と河内(かわち)郡とを合併して設けられた。信太は私の母方の苗字だが、母方は江戸時代以降は代々秋田県に住んでいた。秋田藩主の佐竹氏は徳川によって秋田に転封されるまでは、常陸(現茨城県)の武士であった。信太姓が秋田に多いのはその辺の事情と関係ありそうである。伊豆に流された頼朝にとっての最大の敵は平家ではなく、源氏の主導権を争う関東の同族だったというが、頼朝の叔父に「信太三郎先生(せんじょう)義広」という人物(平家物語にも史実とは違う形で出てくる)がいて、頼朝と争って敗れ、木曾義仲に保護を求めた。これが後の頼朝と義仲の不仲の原因だという。祖父は義広の子孫だといっていたが、佐竹氏について秋田に移った小田氏の陪臣に信太(「志田」と書くこともある)がおり、こちらのほうがつながりがありそうだ。大阪の信太の伝説には及びもないが、茨城県には「信太(しだ)の小太郎」という伝説もある。 関西の人に「これはふつう『しのだ』と読むんじゃないですか?」と言われたことがある。非常識で悪かったねという気がした。別に読めないのを責める気はない。正しい対応は、「これ、何て読むんですか?」と聞くことである。ときどき、「しんたさんですか」と電話がかかってくる。「しだ」だというとひどく恐縮してみせる。セールスをするなら、最初に自分が何者かを名乗り、そのあとで「何と読むのか」とでも聞けばいい。それが常識だと思うのだが、そういう常識を守った電話がかかってくることはめったにない。一般に少ない苗字ほど、あとで読みかえるために、読み方が多くなる傾向があるので、思い込みは慎まなければならない。呼ばれる方にも、名刺にふりがなをつけるなどの配慮が必要である。
初めに記した表を見ると、信太姓は全国の3分の1が秋田、3分の1が首都圏、3分の1がそれ以外の地域に住んでいると考えてよさそうである。信太姓は秋田県の中でも北部の山本町にかたまり、とくに祖父の生まれた豊岡という集落に多い。祖父の小学校時代はクラスの3分の2が信太姓で、下の名前で呼び合っていたという。そんな所で育ったものだから、祖父は東京に出てきて自分の苗字が読めない人がいるのがショックだったらしい。郷里の父に手紙を出したときには、住所のあとに「御父上様」と書いたそうだが、手紙はちゃんと着いた。裏に自分の名前を書いてあったからである。地元の郵便局員なら誰でも誰が誰の息子かを知っている。 秋田以外で信太(しだ)姓の多いのは、千葉県の銚子市付近である。そのことは、たまたま銚子に仕事で行った叔父から聞いたことだったのだが、銚子は、苗字のもととなった土地に近い。首都圏の中でも東京ではなく、千葉がトップになっているのも銚子付近に住む人の人口が加わるせいであろう。この表を見ていると、信太姓を通じて、明治以降の人口移動の激しさが見えてくる。明治以前には信太姓は秋田と千葉以外にはほとんどいなかったのではないかと思う。そして、そのことから、一般に明治以前に住んでいた土地に子孫がそのまま今も残っているのは、もはや半数にも満たなくなっているといっても、過言ではないように思う。「しだ」という地名は、宮城県の志田郡や静岡県の志太郡など、あちこちにあるようだ。地名学者の鏡味完二氏は「芝」という意味だとしているが、これも一つの説に過ぎず意味は不明である。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 日本語の音 | 日本語の文字 | 日本語の気になる言葉 | 人名と地名 |
| 日本語の文法 | 日本語と社会 | 日本語と世界 | 朝鮮語の話 |
| 世界ことばの旅 | ことばとは何か | 「ことばの散歩道」表紙 | |