第八話:加賀壬さん感謝す

von:秋澤 弘

第一章

 「ここだな・・・」
 佐伯がしんみりと言った。ここで殿下に会った。そして敗退を知ったのだ・・・。しかし、今、あの時の絶望感も焦燥感も無かった。今あるのは達成を目指す使命感と、仲間がいるという安心感だ。
 「先輩の資料だとMP戦が予想される。俺と山崎で楯になる。北村、敵に隙を作ってくれ。加賀壬、なんとか説得するきっかけを考えてくれ。昆先輩、治癒をお願いします」
 佐伯の声に一行は頷いた。加賀壬はザイルを調節し、予備の長さも足してみんながつながったまま、自由に動ける余裕を確保した。
 「開ける」
 山崎と佐伯がその古ぼけたトイレに侵入した。佐伯が手で止めたので北村と加賀壬はそのまま戸の外で待った。後方を警戒するのは昆だ。
 トイレは異臭に包まれていた。アンモニアの臭いだけではない。なにやら気持ちの悪い臭い。腐敗したような・・・。
 その異臭は鼻だけでなく、喉も目も刺激した。思わず胴着の袖で顔を覆う二人。
 「ひどいな・・・。これじゃどこが出元だかも分からん・・・」
 二人は仕方なく個室を一つづつ開けていった。四つあるドアの内、一つは掃除用具入れだ。まずそこを開ける。次いで隣。また隣。
 その時、泣き声が聞こえた。最初はかすかに。しかし、瞬く間に耳をつんざくほどの大きさで。

 やめて・・・。お願い、もうやめてぇ・・・

 剣道部員二人は狭い室内で背中合わせに立ち、周囲に視線を走らせる。どこだ? 一体どこから・・・
 「上っ!」
 北村の声。と、同時に二人は跳びすさった。一瞬前まで佐伯のいた場所にびゅんと何かが走った。咄嗟に木刀で切り込む佐伯。しかし、まったく手応えがない。MP体だ。その何かはすぐさま姿を消した。
 「見えたか!」
 「え、えと、白い、白いなにか・・・」と、とまどう北村。
 そう、それは白かった。真っ白だった。
 「来る!」
 山崎の叫びに反射的に身をそらす佐伯。その脇を奴が飛んだ。真っ白い長いモノ。1メートルはあろうか、しかしその太さは30センチもない。それが床に消えた。さすがMP体。床でも天井でもおかまいなしだ。
 一瞬気が緩んだ途端、奴はすぐに襲ってきた。山崎の真横から。伸びるその白いモノ。佐伯が左手で木刀を握り、右手は添えるだけの状態で斬りかかった。真横に。奴の中心をなぎるように。なにも手応えはない。しかし、その木刀がやつの中心に入った時、佐伯は両手で木刀の柄を握りしめた。ぎらっという感じでスイッチが入ったライトが煌めく。

 きゃああああ・・・

 悲鳴と共に奴は消えた。しめた、光は効果ある!
 「北村!」
 佐伯の声に応え、北村がカメラをかまえたまま室内に入った。彼女はきょろきょろと周囲を確認する。しかし、その目は奴を追っているのではない。
 ほぼ長方形。ドアはほとんど開いているけど、あの一つだけ閉まってる。室内は壁も天井も真っ白。そうか。ならバウンスで行けるかも。
 彼女はストロボの可動式になっている発光部を上に向けた。
 もう一クリック。よし、これで・・・
 その時、真正面に奴が出た。目前にいる北村を無視し、山崎を狙って。反射的に右手がコンティニアスハイにスイッチを切り替え、レリーズボタンを押していた。
 シャキ、シャキ、シャキ・・・
 甲高いモーター音と共に秒間5コマのハイスピードでシャッターが降りる。さすが新型だ。この前までの物とは明らかにレリーススピードが違う。当然満タンに充電されているバッテリーが各レリース毎にストロボを立て続けに焚き続けた。
 奴は声もなく逃げまどった。透明化していても、光りを避けることはできない。ストロボ光は天井に向けられていたのだ。天井がそのたびに真っ白く光り、室内全体にバウンス光を満たしていた。
 北村が連写を止めた時、奴の気配は消えていた。周囲を真剣な眼差しで見る佐伯たち。しかし、悲しいすすり泣きだけが室内を満たしていた。
 加賀壬は考えていた。なぜだろう。どうしてまりちゃんを襲わなかったんだろう。どうして佐伯君と山崎君にだけ・・・
 加賀壬の耳にまたすすりなく声が聞こえる。

 あぁ・・・。もう許して・・・ おね・・・がい・・・

 その言葉が心に落ち着いた時、加賀壬は嫌な想像をした。思いついた途端、ぶんぶんと頭を振ってその考えを振り払おうとしたくらいにイヤな想像。
 でも・・・。そうなのかもしれない。きっと、そうだ・・・。

 覚えておけ。一番怖ろしいのは人の心だ

 香土岐の声が蘇る。そうなのか。
 加賀壬は唇を噛んだ。もしそうだとしたら・・・。助けないと・・・。せめて魂だけでも・・・。
 「佐伯君、山崎君、戻って! ここは・・・男子は・・・だめ」
 加賀壬の顔は苦しげだった。その表情を見て取り、二人は警戒しながら室外に出た。一人残った北村は怯えた。
 「まりちゃんも出て。説得してみる。だめだったら、逃げる時間をそれで稼いで! お願い」
 「ひ、ひろこ・・・一人で・・・?」
 「ううん。
 愛姫(いつき)先輩。来てくれますか?」
 加賀壬は昆を見た。彼女は怯えてはいたが、加賀壬の目を見つめると、しっかりと頷いて室内に入ってきた。
 今、室内には加賀壬と昆がいる。戸のすぐ外にはカメラを構えた北村と、いつでも楯になるために飛び出せる様に身構えている佐伯。後方の見張りは山崎だ。
 「先輩・・・。多分、この子、無理矢理・・・」
 加賀壬は口ごもった。だが昆は頷いた。
 「そうですね。ひどいことを・・・。でも、どこに・・・」
 二人は周囲を見た。どこにも見えない。
 加賀壬はポケットからビニール袋を出してジップロックを開けた。中にあるのは清められた塩。塩弾ガスガンのBB弾に使われているものだ。先輩が用意してくれたその貴重な塩をひとつまみ、部屋の左隅に投げてみる。今度は右奥に。振り向いてドアのすぐ左に。次いで右に。どこにも反応はない。
 まだ閉まっていた個室のドアを開け、一部屋づつ投げてみたが、全く反応はなかった。相手はすすり泣いているだけだ。
 相手は自由に移動する。しかし、どこかに縁(えにし)があるはず。加賀壬は美咲会長と香土岐先生の語った言葉を思い出しながら考えた。ここは間違いなく<場>である。魔性に与えられた力で作られてはいるが、必ず本人と何か縁のある、何かの接点があるはず。魔性は大抵黒魔法系だ。だとすれば物理的な接触・・・。
 いや違う。加賀壬は思った。この戸は<跳>ばない。ここは物理的には繋がったままだ。空間を歪めているのではない。ではどうやって? 加賀壬の付け焼き刃知識では分かるはずもなかった。
 精霊魔法も黒魔法に属する場合がある。マイナス思考になるのを避け、加賀壬はその方法を考えた。地、水、火、風。これが四精霊。黒魔法にもこれが多い。他に光と闇と時があるというが、時は高位すぎるという。ライトに怯える以上光ではない。それに白い以上、多分闇でもない。なら四精霊、あるいは木か金か?
 木はここにはほとんどない。戸くらいだ。火は全くない。金も風も。いや、もしかすると。加賀壬はこの嫌な臭いを思った。これが場の正体かも? 
 彼女は向かい側まで歩き、そこの窓を開けた。少しだが、夜風が入る。それも濁ったどんよりとしたものだが、中の異臭よりはすがすがしい。加賀壬は分かった。今風が起きた以上、風でもないし、中にそれが来る以上、臭いでもない。このガラスのある位置が結界面のはずだから。それを自由に行き来する以上、それが源ではない。
 残るは土と水。水? そうか水ならあちこちにある。しかし、土にあたるものは少ない。なら、試してみよう、水を。
 加賀壬はポケットからビニール袋をまた出した。ジップロックを開けて一掴み、その中の塩を手にした。これはただの塩ではなく清めの塩だ。ほんの少しで効果はあるはず。まずは左側に並ぶ小便器に少しづつ入れてみた。反応はない。今度は床の中央にある排水溝に入れてみた。さらに個室にある便器にも。昆が側についてじっと見守る中、加賀壬はそれぞれに塩を入れては水を流した。だが、どれも手がかりにはならなかった。今度は掃除用具入れに向かう。ここにはモップを洗うためか、大きな水受けがあった。そこに塩を入れる。そして蛇口をひねって水を流した瞬間、空間が、トイレ全体がきしみをあげた。咄嗟に加賀壬を引き寄せようとその腕を掴む昆。次の刹那、二人は、正確には二人の心はここにはいなかった。

 二人の前に彼女がいた。トイレの一番奥の戸。その支柱に手錠で左の足首を固定されて。縄の無惨な後が残る手首。破かれた制服。引きむしられた右のお下げ髪。
 彼女のかっと見開いた目は何も見ていない。しかし、その唇は震えながら言葉をつむいでいた。

 暗い・・・ 寒い・・・

 周囲は一転し、漆黒の闇。澱み、濁った汚水。そのタンクの底に彼女は沈んでいた。

 おかあさん・・・

 再び彼女の姿はトイレの奥で力無く横たわる先ほどのものに戻った。
 おかあさん。最期の言葉をつむぎ続ける唇。紫色に腫れ上がった唇。

 加賀壬は何も言えなかった。ただ口を押さえて目を見張るだけだった。

 一番怖ろしいのは人間だ

 その言葉が頭の中をぐるぐる回っていた。
 その加賀壬の脇で。無言のまま、しゃがみ込んだ昆が震える手を伸ばし、その子の頬に触れようとする。しかし、彼女の手は空をつかむように素通りしてしまった。
 「どうして・・・。どうしてまだここにいるの?
 もう・・・終わったのに・・・。みんな終わったのに・・・どうして?」
 昆の声。それを聞いた娘の目が、何も見ていないその目がゆっくりと下がる。昆を素通りし、自分の足元へ。繋がれた手錠へ。
 即座に昆の両手が伸び、くさりを引き裂こうとする。しかし、手錠も触れることは出来なかった。
 それじゃ・・・それじゃ、この子はこのまま繋がれたままで・・・。ずぅっと・・・
 昆は絶望し、茫然とへたり込んだ。このまま・・・
 駄目だ! 加賀壬の心が叫ぶ。駄目だ! 絶対!
 彼女の思考が再び動き出した。どうすればいい? 鎖は彼女同様MP体だ。いや、彼女自身が手錠も自分の一部だと思いこんでいる。どうすれば断ち切れる? どうすれば彼女を自由に出来る?! 彼女を倒せばそれで終わる。でもそれは魔性としての彼女を倒すだけだ。この子の魂は救えない。単なる自縛霊に戻るだけ・・・。駄目! それじゃ駄目! 救わなきゃ。命は守れなかった。だったら、だったらせめて魂だけでも!
 加賀壬は唇を噛んで思考を続けた。香土岐と美咲の講義を必死に思い出す。
 縁(えにし)を絶つ。それが一番早い。だが、今、ここに彼女を結ぶ縁は手錠だ。それなのに、それ自体がMP体なのだ。止められた柱は道具でも無ければ切れる物ではない。手錠に塩を振りかけても、彼女の苦しみを増やすだけである。じゃ、どうしたら・・・
 もう一度最初から考えてみよう。必ずどこかにキーワードがあるはずだ。そう思った途端、分かった。その言葉自体がキーワードだったのだ。キー、そう鍵である。鍵さえあればいいのだ。しかし、この手錠の鍵は一体どこに? 偽物ではだめだ。彼女自身がこの手錠の鍵だと信じるものでないと。彼女自身が納得しないと。架空のものでもいい、鍵だと彼女に信じ込ませれば・・・
 その時。
 加賀壬の記憶に何かが触れた。何かこんな事があった。いや、違う、こんな話を読んだ。虚構。しかし真実を内包した・・・。いつだ? 随分前だ。まだ小学生の頃? 違う、あの時私は制服だった。中学の・・・
 思い出した。市立図書館で借りた本。サンテグジュペリの星の王子様だ。夜間飛行と一緒に借りたんだった。
 主人公はどうやって王子様が望むものの絵を描いた? そうだ。そうすれば・・・

 後は昆だ。加賀壬は自分の状態を理解していた。本能的に恐れ、生理的に怯えている自分を。でも昆は違う。彼女は総てを見、総てを理解した上で、汗と汚物と血と体液、そして涙にまみれたその頬を暖めようとしたのだから。彼女ならきっと包み込める。
 加賀壬はヘルメットを外した。汗で張り付いた前髪をどかし、ゆっくりと呼吸を整える。お願い愛姫先輩! 気づいて!
 「先輩! 鍵です!」と不意に叫ぶ加賀壬。
 「さっき拾った鍵!」
 加賀壬の目はきょとんとする昆を見つめていた。しかし、視野の隅で横たわる少女の右手がぴくんと動いたのを見逃しはしはしなかった。キーワードは既にあの子の心にしみ込んだはず。後はそれに現実味を与えれば・・・
 「ほら、あの小さくて銀色で、冷たい感触の鍵! 先輩がしまっていたじゃないですか、制服のそのポケットに!」
 加賀壬は右手でその場所を指さした。
 昆は呆気に取られた。加賀壬の指すポケットにはハンカチとちり紙と消毒薬のスプレーしか入っていないのだから。
 「鍵?」
 思わずそう言って昆が加賀壬を見ると、彼女の目は真剣だった。どういうこと? 昆は理解を求めて扉のそばにいるはずの北村たちを見ようと振り向き掛けた。その時だ。床に崩れ落ちていたはずの、あの娘の上体が起きあがっているのに気づいた。びっくりして彼女を見る。その目は虚ろなままだが、じっと見つめている。加賀壬の指さす場所を。
 ・・・ そうか。
 昆は理解した。しかし、どうしたらいいのだろう。この中にはそんなものはないのだ。それを知っている昆にはそこから鍵を出すなどと言う芸当はできない。どうしたら・・・。
 しばしの思考。
 昆は決意して、右手でポケットのフラップを開け、左手でそこを広げて見せた。
 「この鍵はあなたのなのね? さ、お取りなさいな」
 昆の言葉に、震える手を差し出す娘。そうだ、これしかない。彼女なら、存在を心から望む彼女自身なら・・・。
 白く細い指。その皮膚はしたたる汚水に汚されている。その指が震えながらポケットに入った。瞬時の停止。
 そしてそこから出てきた時、その指先には小さな霧のような物体があった。
 すかさず加賀壬が畳みかける。
 「ほらやっぱり。間違いないわ、それが手錠の鍵!」
 その言葉を聞いて、霧のようなものは収束し、鍵の形を取った。じっとそれを見つめる三人の目。やがて、その手がおずおずと伸び、自分の足元に向かう。上体をさらに持ち上げ、片手で忌まわしい鎖を持つと、実体のない鍵を鍵穴に合わせる。
 「大きさもぴったり。そうよ、それで解放される!」
 加賀壬の声に促され、娘の指先にある鍵状の物が瞬時ゆらいだかと思うと、硬質の光りをにぶく反射させる銀色の鍵になった。それを差し込む指。そして、その指がそれをゆっくりと回す。
 かちん。
 かすかだが、確かな音。その途端、手錠が溶けて流れ落ちたかと思うと、娘の体も溶けて消えた。一瞬で。


 後には弱々しく光るテニスボール大の球体が残った。床上10センチ程の所にふうわりと浮かぶ光。
 両手を伸ばし、そっとそれを支える昆。指に触れるか触れないかという状態でそっと持ち上げると、球体は昆の手に沿って浮いた。胸に抱くようにして立ち上がる昆。座ったままそれを見つめている加賀壬。昆はゆっくりと、本当にゆっくりと振り向き、一歩づつ歩き出した。外へ向かって。
 「何があったの・・・」
 扉の側で北村が尋ねた。彼女たちには加賀壬が塩を流して部屋が不気味にきしんだのは一瞬前のことだったから。トイレ全体が生き物の様に揺れ動き、中の二人を救出しに飛び込もうとした瞬間、その二人が部屋の奥にいたのだ。光る球体を見つめながら。
 「この子をここから連れ出します。それで総て終わります」
 震える声で昆が答えた。そのまま、戸惑いと困惑の表情を浮かべる北村たちの側を擦り抜け、トイレから出た。その瞬間、光りはどくんと脈打ち、大きく、激しくなった。解放されたのだ。己が閉じこもり、封じられていた<場>から。魔性としての存在から。
 「さ、お行きなさい。新しい命へ」
 昆の言葉と共にさらに強く、そして素早く明滅し始める球体。そして、瞬く間にその光は廊下といわず、校庭といわず、総ての壁もドアもすり抜けて学校中を照らし出した。無数のサーチライトの様に。
 佐伯たちがまぶしさに顔を覆う中、昆はその光を優しく微笑みながら見つめていた。他の者には刺激でしかない光り。だが、昆には息吹に見えていた。新しい、まだ見ぬ命の灯火。
 光が周囲全体を照らし、学校中をその輝きで満たして、巨大な球体になったと思った瞬間、一本の光の柱が天井を、空を突き抜けて天を貫いた。そして、終わった。


第二章

 行ってしまった。あの子は行ってしまった。昆は涙を拭おうとして通話用のヘッドセットを外した。震える手でそれを腰のベルトに挿してポケットからハンカチを出す。手を差し込んだ時、そこから希望の種を取りだしたあの子の細い指を思い出した。とまどいと安堵の表情を向ける仲間たちの注視の中でハンカチで涙をぬぐってから、振り返って加賀壬を見た。
 哀しみ、憤り、恐怖、そして安堵。今の込み上げる想い総てを分かち合えるただ一人の相手を求めて。だが、昆の目はトイレの奥にうずくまる加賀壬の姿を見出して見開かれた。その背に、あの娘の姿がだぶったのだ。
 いけない。昆は不安にかられ、走った。宏子さん、だめ!
 その、うずくまった背にタックルを掛けるように体当たりをする昆。
 「宏子さん! 宏子さん!」
 驚いて駆け寄る佐伯たちに頼み、加賀壬の体をひきづる様にしてトイレの外に出した。
 「どうしたんです、先輩、加賀壬は・・・」
 佐伯が不安の色を浮かべて加賀壬の顔をのぞき込んでいる。昆は途切れ途切れながらも総てを説明した。ここであった忌まわしい事件。つなぎ止められていた哀れな魂。彼女の心がその恐怖の瞬間に固定され、怖ろしい魔性と化していた事。
 その時、うつむいたままの加賀壬の口からぽつんと声がした。
 「違うよ・・・。怖ろしいのは人間だよ・・・。魔性なんかじゃない」
 昆が説明するまでもなく仲間は理解した。加賀壬の心が猜疑心に凍り付いていることを。
 「宏子さん。あなたの言うとおり、一番怖ろしいのは人の心の闇です。どんな人にもそれはあります。あなたにも、そして私にも」
 昆がしゃがみ込み、加賀壬を抱きしめながらつぶやいた。
 「でもね、心の闇は消せるのです。一瞬かもしれませんけど、確かに消したり、弱めたりできるのです。心の闇を照らすもの。それは命を信じる心。
 殿下会長がよく言っていました。この世界は辛いことや悲しい事が多すぎる。でも、それでも人生、まだまだ捨てたモンじゃない。そう思える心。生を信じる心が闇を駆逐する、と。
 宏子さん。私たちは生きています。悩んだり、悲しんだり、怒ったり、そして笑ったり。その変化が命なんですよ。心の闇にばかり注目していては命の大切さを見失います。時にはそれも必要でしょう。己を鑑み、今の己を乗り越えるために。そして、時には心から笑い、喜びに涙する。その変化が人生なんですよ」
 そっと語りかける昆の声に、涙に溢れた瞳を向ける加賀壬。
 「でも、でもあんな事平気でやって、そんなの、そんな人間を守るなんて・・・。人の方が魔性より悪いじゃない!」
 叫ぶ加賀壬。だが、昆の表情は微笑みのままだった。
 「そうです。そういう時もあります。でも、そうでない時もあるでしょ? 喜怒哀楽。総てがあるんです。
 私は魔性の方が悪いと思います。魔性の方が許せないと思います。だって、人の弱い心を弄ぶのですから。
 あの子を見たでしょう? あの哀れな魂は、魔性にとりこまれさえしなければ、とっくに過去の恩讐を忘れ、時によって浄化されていたはずです。あの子にとって一番怖ろしい、一番思い出したくもない時間。そこに魂を縛っていたあの手錠。あれこそが魔性の本体だったんですから。一番いたくない<場>に無理矢理閉じこめて、そのマイナスの思念を利用していたのですから。
 私は人を信じています。命を信じています。光りと闇を併せ持つ命を信じています。だから、それを意志に関わりなく閉じこめる魔性のやり方が許せません。
 宏子さん。さ、立って。あの子が今度は笑えるように祈って下さい」
 加賀壬の顔が歪む。
 「今度? またこの怖ろしい世界で苦しむために生まれるの? 悲鳴と涙にまみれるために?」
 「そうです。そして時には笑うためにです。そして笑い合える親友や恋人に出逢うためにです」
 「だって、そうなるとは限らないよ! あの子、死んだままの方が幸せかもしれないよ! こんな世界にまた落ちてくるより!」
 「そうかもしれません。でもね、宏子さん。あの悪夢の一瞬にずっと閉じこめられているのと、どちらが幸せだと思いますか?
 孤独に死ぬかもしれない。でも心から笑い合える人と出会えるかもしれない。その総ての可能性のある新しい命と」
 加賀壬は呻き、なきじゃくりながら昆の胸にすがりついた。
 「わかんない、わかんないよ! そうかもしれない。でも、でもやっぱり・・・哀しいよぉ」
 「ええ。だからせめて私たちで泣きましょう。あの子の哀しかったこの命のために。でもね、次はどうなるのかは分かりません。そうでしょ? それが命なんです。あらゆる可能性があるのです。だから、せめて祈りましょう。せめて次は天寿を全うできるように。その人生をどう使うかはあの子次第です。私たちはせめてその人生を全う出来ることを祈りましょう」
 加賀壬は嗚咽をこらえながらじっと目をつむった。
 そうか。そうだな。私たちはまだ社会にすら出ていない。その段階で散った命。そうか。人生が良いものか悪いものか。それを決めるのは自分だけだ。あの子自身だ。私が決める事じゃない。あの子が天寿を全うし、死の床で考えればいいんだ。その時にこそあの子が自分で評価すればいい。私はあの子自身が忘れてしまった前世の哀しみに泣いてあげればいいんだ。そして新しい命にそれをおぎなう喜びがあるように祈ってあげればいいんだ・・・。
 魔性。人の心の闇に巣くうもの。そうか。人の心が一番怖ろしい姿になった時に無理矢理固定するもの。
 だめだ。それはあってはならない。
 加賀壬は美咲会長の言っていた理(ことわり)というものが見えた気がした。揺らぎ、変化し、流れるもの。その理を無理矢理固定する存在。人の魂を弄び、己の私欲のために無理矢理固定するもの。魔性。
 加賀壬は心を落ち着けるとあの子の、あの弱く輝く光の球体を思い出した。

 大丈夫だよ。安心して生まれておいで。確かにすぐには良くならない。でも、次に生まれて来る時には今よりもきっといい世界になっているから。少なくとも魔性にとりこまれたりしない世界にしておくから。だから、今は静かにお休み。総て忘れて。新しい命のためにね・・・

 加賀壬と額と額を押しつけ合うようにしてその華奢な体を抱きしめる昆。二人の心は一つの願いを唱えていた。


第三章

 巨大な光の球体の出現と天を貫く光の柱は校舎の外にも見えていた。魔性の結界が破られたのだ。
 裏門のすぐ側に建てられていたベースでは超常研のメンバーが歓声を上げていた。
 「ほう、なかなかやるじゃねぇか。倒すんじゃなくて浄化しちまったか」
 その声に振り向く美咲。そこにはいつの間にか来たのか、OBたちがいた。昨日までここを守っていた全員がその結末を見に来ていたらしい。その数は15人以上に登った。
 「現在二隊に分けた波状攻撃を慣行中です。今、新入会員の第一パーティが四体目の魔性を昇天させたようです」
 美咲が手早く状況を説明する。
 「あの頑張りっこのパーティだな」とうなづきながら殿下は連絡役の朝臣の側に立った。手慣れた手付きで通話装置をいじる殿下。この前買い換えたばかりなので彼にとっては初めていじる機械のはずだが、殿下はパソコンといわずBCと言わず、弱電関連全般に異様に強かったのだ。その細い指がパチリとスイッチの一つを入れると、魔性の結界が乱れた今、クリアーな音でアタックチームの会話が聞こえた。
 <違うよ・・・。怖ろしいのは人間だよ・・・。魔性なんかじゃない>
 不意に聞こえた加賀壬の声にベースの全員が動きを止める。第二パーティを預かるシュンは鋭い視線を校舎に向けた。すぐに出た方がいいかもしれない。そう思って。
 全員が耳を澄ます中で加賀壬と昆の会話がスピーカーから流れている。
 やがて・・・。
 二人の会話が途切れてつぶやく祈りの声が聞こえてきた。
 殿下は机に腰掛けて、腕を組む、いつもの体勢になっていた。すっと手を伸ばし、アタックチームの状況を記入しているノートをつかむ。じっと読み、目をつむる殿下。
 美咲たちが黙したまま見つめる中で、殿下はマイクを掴んだ。通話スイッチを押して話し出す。
 「おい、股すり! 聞こえるか! 返事しろ。俺だ」
 雑音が響いたかと思うと、すぐに昆のとまどった声がした。
 <え、ええと、こちらアタックチーム1です。昆です。あの・・・殿下会長・・・ですか?>
 そのおどおどした声に苦笑する殿下。こいつはいっつもそうだ。殿下は昆の真っ赤な恥じらいの顔を思い出していた。
 「おう、股すり、久しぶりだな。お前がそっちになるとはな。正直驚いたが、ま、どうやらうまい事こなしてるようだな。安心した。
 で、魔性は消えたんだな?」
 <はい・・・。魂を場から出したら浄化されたようです・・・>
 かすかな嗚咽。まだその衝撃が尾を引いているのだろう。だが、と殿下は思った。この声なら。こいつは平常心だ、と。
 殿下は美咲を見た。彼女は黙したまま、指揮官の椅子に座って動かない。お任せします。そう言っているようだ。よし。殿下は決めた。
 「おい、股すり。お前等の状況を報告しろ。無事か?」
 ややあって、どうやらリーダーと相談したらしい。全員元気だという返事があった。ならば。
 「いいか股すり。お前等の作戦開始状態を10、気絶寸前を1としろ。今のメンバーの現状をHP、MP双方の数値で言え。まずお前からだ。HPは?」
 <えっと、そうですね・・・>
 どうやら体を確認しているらしい。ちょっとの間の後で答えが来た。
 <9です。少し怪我しただけですから>
 「よし、MPは?」
 <MPは8くらいです。少し疲れましたが大丈夫です>
 殿下は朝臣が書き込んでいたノートの白紙のページにそれを大書した。それを見て朝臣が哀しげな顔をする。折角規定通りに記入していたのに。あの裏のページは書き直しだ、と。
 「えっと次はお前等のリーダー。あの面男だな。さはくって読むのか、これ。そいつはどうだ?」
 <サエキさんです。えっとそうですね。HP9MP7といったところです>
 「じゃもう一人の剣道男は?」と殿下が言う。すでに名前を確認するのは止めたらしい。
 <山崎さんはHP9MP8でしょう>
 「んじゃバンダナ激写娘」
 その声に皆がふと思った。北村のはバンダナではない。長いリボンだ。後ろから見たら髪よりも長くその端が伸びている程長いリボンなのに、と。だが、とりあえず先輩に敬意を表し、黙したままだったが。
 <HP、MP共に9です>
 「ん。成る程な。で、頑張りっこは?」
 <加賀壬さんですね。えっと・・・。HPは9。MPは・・・>
 沈黙。だが殿下も黙したままで即答を促しはしなかった。彼女は思考に時間がかかる。それを知っていたからだ。だが、冷静な彼女の目は負傷者の微妙な変化で内臓の破損までも見抜く。殿下は股すりの「目」を信頼していた。
 <えっとすみません、加賀壬さんのMPは・・・
 MPは15です>
 驚く朝臣を余所に、殿下はにやりと笑んだ。やっぱりな。次いでその目が美咲を見る。二人の視線が重なった。
 美咲は何も言わずに頷いて椅子から立ち上がった。そしてその隣に立つ。この三月までいつもそうしていた様に。
 「指揮権をOB会会長に一次委任します」
 そう宣言する美咲は知っていた。殿下には人を育てる力があると。ずっと一人で戦ってきた自分とは比較にならないほどに。今日までここを守ってきたOBに対する謝意も含め、美咲は殿下に任せることにしたのだ。新たな力を殿下がどう育てるのか興味があったのも理由だったが。
 殿下は軽く頷きかえすとマイクに向かった。
 「よーし、いいか股すり。よく聞け。魔性の欠員で出来た揺らぎは、そうだな、多分、後一時間は持つ。その後で最後の魔性が全権を握るだろう。その間にお前等はそいつに肉薄しろ。魔性の結界に近付けば揺らぎの影響も減り、いつも通りに戻るぞ。向こうも馬鹿じゃないからな。気を抜くな。
 お前等は引き続き最後の魔性を倒すべく、美術室に向かえ! 敵は多分MP体だ。いいな」
 連戦。新入会員のパーティにそれをやらせるのか? 2、3年生のほとんどが呆気にとられていた。だが、美咲はもちろん、第二パーティのメンバーも確信していた。行ける。流れはこちらにある、と。
 <は、はい! でも、えっと、七カ所にここの生徒さんたちが気絶したまま倒れています。特に職員室では早期治療の必要な子がいます。彼等の・・・>
 「即刻回収する。場所を言え」
 殿下はノートを朝臣に返し、後を任せた。
 「本条、天使隊を出してくれ。救出を頼む。美雪、香坂。権田と伊香見を連れて四人で直衛だ」
 指示を発した後で椅子に歩み寄り、向きを逆にするとどっしと腰を降ろし、背もたれに腕をかけて顎を乗せた。さーて、面白くなってきやがった。その顔はそう言っていた。


第四章

 佐伯の指示で全員が装備をもう一度点検し、再び前進を開始する第一パーティ。彼等もなぜか連戦を無条件で納得していた。特に加賀壬の表情が与える影響は大きい。その顔は先ほどまでの取り乱した様子は微塵もなかった。確固たる意志がオーラの様にあたりを包んでいたのである。彼女の大きな瞳は静かに燃えていた。
 宏子ったらまーたレベルアップしちゃった。北村は歩きながらため息をついた。まーったく、すごい子。でもあたしだって負けないからね! 彼女は新しい電池に代えた懐中電灯をぎゅっと握りしめた。

 目的地の美術室は隣の校舎の二階、突き当たりにある。まずは校舎を横断し、連絡通路になっている二階広場へ出る。ここまで、何の支障もなく来ていたが、隣の校舎に入った途端、また跳ばされた。出たのは中庭だ。
 「どうやら簡単には行かせて貰えないらしい」
 佐伯が不敵に笑いながら、目の前の校舎を見た。
 「でも、妨害者はいないね」と北村。
 「ああ。今のうちだな。急ごう!」
 彼等は校舎を回り込み、一階の通路に入った。そこから中に入ると二階への階段が二カ所ある。まず手近な所に足を踏み入れた途端、そこは図書館の脇だった。
 ぐるっとまた回り込み、再び一階の入り口に着く。
 「なんだか分かってきたぞ・・・」
 佐伯のつぶやきに加賀壬が答えた。
 「どうやら弾くみたい。近付くと」
 次なる道は反対側の階段。そこまでの長い廊下でも、何の抵抗も無かった。
 <五体目の魔性がまだ校内総てを掌握してない証拠と思われる。さっきの浄化の光が影響してる今の内にルートを見付けてほしい>
 ベースからの声もだんだん聞き取りにくくなって来た。
 先頭を進む佐伯も、しんがりを務める山崎も決して油断はしていないが、魔性配下の手下共は出てくる気配もない。
 「愛姫先輩、ここの生徒で後行方不明なのは?」
 「記録が正しければ後六人です」
 二人の会話に佐伯がうなづいた。後六人。必ず助ける、と。

 階段に着いた。しかし、ここもやはり閉ざされていた。出たのは中庭だ。また振り出しに戻った事になる。
 「地図あるか?」
 その声にみんなでベンチに広げた校内地図を睨む。もう二階に通じているのは三階からの下り階段しかない。
 まず近い隣の校舎に向かい、一旦三階へ上がった。ここの連絡通路が閉ざされていたら、もう道はない。
 三階連絡通路は二階の広間の半分程しかない。残りは吹き抜けになっており、ここの天井はガラス張りだ。
 魔性が消えたゆらぎの影響からか、今はぼんやりとながら月も星も見えていた。これが見えなくなったら、最後の魔性がフルパワーになった事を意味している。
 山崎は考えていた。ここも多分駄目だろう。そうだとしたら、この天井にどこかから出て、二階のベランダに潜り込むルートはないだろうか、と。最後尾を歩く山崎は、昆の前を行く加賀壬が天井をきょろきょろ見ながら、向こうに見える二階教室のベランダとの距離を目測している事に気づいた。丁度加賀壬も同じ事を考えていたらしい。それが分かると、山崎はその考察を加賀壬に任せ、自分は周囲の監視に全神経を研ぎ澄ますことにした。

 やっぱりというか、残念な事にというか。三階から下り階段に出て、踊り場に着いた途端、彼等は二階連絡通路にいた。
 こうなればパズルの様なものだ。また地図を広げ、進入経路を確認する。
 閉ざされたブラックボックスは新校舎二階全域。先の魔性を倒すまでは何度と無く通過した場所だ。新規の結界が形作られているのは間違いない。
 「でも、まだ弱いということですね。この閉じた二階以外では跳ぶ事もないのですから」
 「それだけじゃないですよ愛姫先輩。出るところが似すぎてます。多分無理矢理空間をねじ曲げているだけです。まだ全部を掌握しきってないのか、あるいは余程自閉症的な魔性なんでしょう。テリトリーに近付きすぎた者を追い払えばいいみたいですから」と加賀壬が地図を睨みながら言った。
 「なんとか二階に侵入したいんですが。窓ガラスを割ってでも、三階のベランダからザイルで降りてでも」
 「そうだな。せっかく登山装備だものな、加賀壬」
 「あー、突入はお任せしますね。私、ここで応援してます」
 「あ、あのー、私も宙づりはちょっと。ここでベースと連絡役してますね」
 冗談100%の加賀壬と、本気100%の昆につられて、北村も逃げ口上を用意した。
 「じゃ、あたしは突入する佐伯君の記録に写真撮ってあげる!」
 佐伯の口元がにまっと笑った。
 「こういう場合さぁ、突入隊は真正面から撮るモンだぜ。
 謎の扉を開けるとさ、カメラはその正面から、最初に入ったはずの隊員を正面から撮る事になってるんだ。お約束だろ。
 というわけで、北村カメラマン。先行!」
 「うっしぇー、今時それはないっしょ!」
 二階広間に笑いがコダマする。
 「よーし、他に道がない以上、一旦屋上に出よう」
 そう言って、降ろしていた装備を背負い直していた時、山崎が昆の真剣な表情に気が付いた。宙づりを想像しているのかとも思ったが、昆の目はまだ広げたままの地図に釘づけだ。
 「先輩、何か・・・」
 山崎にそう問われ、昆が、はっと我に返った。
 「い、いえ、その・・・」
 口ごもりながらも何かいいたげなその顔。加賀壬がみんなを止め、昆の言葉を待った。
 「え、いえ、大したことではないのかもしれません。でも、さっきから私たち、いろいろな所を歩きましたよね。でも、一カ所、行っていない場所があることに気が付いたのです」
 「行ってない、場所? 今日はもう一回美術室前にも行ったよな。あの時は無人だったけど」
 「先輩、どこです?」
 北村に問われ、昆は地図のその場所を指さした。そこは・・・体育館。
 「え、でも行きましたよ、前回も今日も」
 「ああ、そうだ。すぐに跳んだけどな。それが・・・」
 佐伯は加賀壬の考え込む顔に気づいて黙した。
 「違う・・・。行ってない!
 そう、愛姫先輩の言うとおり・・・
 私たち、体育用具室には行ったけど、体育館には入ってない。用具室から見えたから、行った気になってたけど足を踏んでない。跳んじゃったから。そうよ、体育館には一度も入ってないよ!」
 加賀壬は昆を見た。
 「体育館、行ってみましょう」
 「あの、それと・・・。体育館を調べてみたい理由はもう一つあるんです。
 残った六人の生徒さんの内、二人は体育館で消えてるんです」


第五章

 <了解した。AT1は体育館の調査を遂行せよ。諸君の予想通りだとしたら、体育館内は既に最後の魔性の領域である。くれぐれも注意されたし。検討を祈る>
 「はい」
 昆が短く答えて対話キーを離し、うなづいた。
 今、彼等の目前に体育館がある。その戸は総て閉ざされていた。
 「盲点だったな。跳ぶ事ばかりに気を取られていた」
 佐伯は剣道着をもう一度着直し、紐と共に気を引き締めて立ち上がった。一歩遅れて山崎も立ち上がる。彼の方は面がないだけ着付けは早かったが、正座の姿勢で精神を高めていたのだ。
 「そうね、あんなにぽんぽん跳ばされてたら、まさか歩いて行くなんて考えなくなってたもの。
 その上、中の光景も見てたから、すっかり行った気になってたわ」
 北村がストロボのチャージを確認しながらつぶやいた。
 「よし、みんないいな!」と佐伯が全員を見回す。決意の籠もった四対の目を確認して、体育館に前進を開始した。
 「生徒が強襲してくる可能性が高い。HP戦なら俺と山崎で楯になる。加賀壬、鍵を頼む」
 剣道部員二人が体育館の大きな鉄の扉の左右に立った。その中心に歩み寄る加賀壬。その手には突入前に渡されていたマスターキーと一緒に結ばれた古風なでかい鍵がある。
 「開けます」
 そう言って鍵穴に差し込もうとして、躊躇する加賀壬。ひょいと身を屈めて鍵穴を覗いた。中は真っ暗だ。
 無言のままヘッドライトと胸のL字型ライトを点灯させる彼女を見て、今まで月明かりの中、消していた灯りを全員が灯した。それを確認し、鍵を差し込む。
 がちゃり。
 大きな音が周囲に響き、加賀壬は鍵が解放されたことを手の感触で知った。すぐに身を屈め、身構えた佐伯と戸の透き間に体をくっつけ、鉄扉の引き手を懸命に引っ張る加賀壬。
 ぎし、ぎし・・・
 不気味な音を夜闇に響かせて、扉が動き出した。緊張の一瞬。
 片方の鉄扉は完全に開ききった。

 複数のライトが交錯する。どうやら無人のようだ。佐伯がゆっくりと侵入し、脇にあるだろう電気のスイッチを探そうとした時、いきなり頭上から何かが振ってきた。
 ガッ、ガシャ、グァシャーン!
 大音響と共に幾つもの大きな物が頭上から落ちて床で飛び散った。最初の一撃が肩をかすめ、佐伯は崩れ掛けたがかろうじて前に飛び出し、受け身を取ってその激突を避けた。その時、上から佐伯の背中目がけて落ちる影。
 「胴ッ!」
 声と共に山崎が飛び出し、その落下体を見事になぎった。渾身の一撃。木刀が叩き落とした生徒はそのまま二メートルも横に吹っ飛んだ。しかし、人一人の体重をなぎ払った山崎もバランスを崩し、尻餅を付いた途端、第二の影が彼を襲う。咄嗟に加賀壬がピッケルを振るうが、タイミングが合わずに空振り、落下する影は山崎を直撃した。
 ドスッ!
 それでも彼は咄嗟に両手で防御し、飛び降りてきた生徒が振り下ろした大きなシャベルは二つの小手に挟まれた。生徒は不意打ちが失敗したと悟ると、武器を捨て、山崎の首を絞めた。とても人間業とは思えない腕力で。その肘が、肩の筋肉が限界を軽く超えてみしっと不気味な音を立てた。
 「やめてー!」
 悲鳴と共に昆が加賀壬を押しのけてその生徒にタックルを掛けた。背中にしがみつく昆に怒りの形相を向ける女子中学生。その短く切り揃えた髪型の頭がぐっと持ち上がり、口が大きく開いて昆の喉元に狙いを定めた。だが次の瞬間その口は悲鳴を発することになった。
 「ひ!」
 いきなり北村がその顔面寸前でGN50のストロボをマニュアルで強制フル発光させたのだ。レリーズしてオートで小刻みに何度も発光させるのではなく、今ある最大の光量で直接発光ボタンを押して一気に光らさせたのだ。バシュっという音と凍り付く白黒の光景。網膜に光りが乱舞し、視力を失っている間に、どすんという鈍い音が響いた。
 ずずっ・・・どさっ・・・。
 視力が回復した加賀壬は、腹部に佐伯の突きをまともにくらい、失神して倒れているその女生徒がぼんやりと見えた。佐伯は山崎の影で光の直撃を避けていたのである。
 ぱっと体育館に灯りがともる。北村がスイッチを見つけたのだ。

 入り口付近にはばらばらに砕け散った跳び箱が散乱していた。その中で口から血を吐いて倒れるブルマ姿の女生徒。すでに昆が彼女の体操着を脱がし、損傷を調べていた。その少し離れた所に、もう一人のブルマ少女。彼女は山崎の払いをまともに受けて、白目をむいて失神していた。
 その光景に思わず目を背けうなだれる佐伯と山崎。
 倒れている二人は、怖ろしい腕力だった。体育館の周囲をぐるりと囲む狭い二階からこれだけの物を突き飛ばし、飛びかかってきた妨害者たち。だが、今、光りの中で見ると二人とも身長150センチ程度しかない。その実体は小柄な女子中学生なのだ。
 山崎は胴をなぎ払った時の感触を覚えていた。佐伯も突きを喰らわせた時の衝撃を。咄嗟だった。考えてした行動ではなかった。反射的に、そう体が反応してしまったのだ。「強敵」と認識して。
 だが、それは魔性の影響に他ならない。魔性が人間の体の限界を超えて、体組織を壊してまで動かしていただけなのだ。その「強敵」の実体は・・・。哀れな女の子。

 その時、二人の悲痛な心を余所に、とても嬉しそうな声が体育館に響いた。
 「愛姫先輩! ありました!」
 加賀壬が素焼きの壺を手にして昆に駆け寄って来た。
 「ちょっと待って・・・
 こ、これは・・・! す、すぐにこの子に飲ませて! 痙攣が始まったわ!」
 昆は北村の手を借りて女子中学生を押さえつけ、口を無理矢理こじ開けた。すかさず加賀壬が封印を指で破り、貴重な液体を惜しげもなくその喉に流し込んだ。むせ返る彼女を無視して、総てを注ぎ終えると必死の形相でその顎を押さえ、飲み込ませようとする加賀壬。

 やがて、もう一人の手当も終わり、汗だくの昆が立ち上がった。北村がハンドタオルを手渡す。
 「ご苦労様でした、先輩。うまくいって良かったです!」
 昆はタオルで顔をこすると、にこっと微笑んだ。
 「あの二人のお陰ですね。一撃で昏睡させたのですから」
 霊水の効き目を確認していた加賀壬も、こくんと一つ頷いてから立ち上がった。そしてしばらく悲壮感漂う男子二人を見つめていたが、やがて山崎に歩み寄り、その背中からぎゅっとしがみついた。
 「ありがとう。すごかったよ。あっという間に気絶させちゃったね。やっぱりすごいよ、二人とも!」
 鎖帷子の奇妙な感触を頬に感じながら、加賀壬は感謝の言葉をつぶやいた。
 「お、俺は・・・」
 口ごもる山崎。

 俺はもう少しで人を殺すところだったんだ・・・

 「はい!」
 その山崎に差し出されたもの。紙コップ。戸口に置いてきた荷物から出したペットボトルをもう一方の手に持って、北村が微笑み掛けた。
 「ご苦労様」
 震える手で小手を外し、その紙コップを受け取る山崎。北村はもう一度微笑むと、今度は佐伯に向けて走り寄った。
 「山崎君・・・」
 加賀壬が背中から声を掛けた。
 「絶対助けようね。後四人だよ」
 山崎は首を回し、自分が倒した生徒を見た。今、ブルマ娘たちは二人とも壁際に寝かされて、加賀壬の背負ってきた銀色の保温シートにくるまれている。その枕元に座っていた昆が視線を感じてふっと顔を上げた。そしてにこっと笑む。
 「あと・・・四人・・・」
 そうだ。今は成すべき事がある。彼女は生きている。だから謝ろう。病院に行って彼女と彼女の家族に謝ろう。
 だがそれは明日だ。今成すべき事。それは魔性を倒し、解放する事!
 山崎はスポーツドリンクを一気に飲み干し、空の紙コップをぎゅっと握りしめた。
 ずっとその背中に寄り添っていた加賀壬は、山崎が己を取り戻したのを知って、そっと離れた。昆の側に行き、へなへなと座り込むと真っ赤になった顔を膝に埋めた。

 山崎君、死にそうな顔してるんだもの。思わず抱きついちゃった。あー、恥ずかしい・・・。どうしよう。もう山崎君の顔、まともに見れないよう!


第六章

 通信はかなり乱れては来たが、体育館に要救護者がいることは伝わった。ブルマ娘たちは先輩に任せ、アタックチームは任務を継続する。
 彼等の目の前に体育用具室がある。その扉は開いていた。
 さっきは向こう側からここに入った。そして廊下に出た。だが、その逆は・・・。
 前進。今、彼等にはそれしかなかった。

 跳んだ先は漆黒の闇。飛び出した全員がすぐに円陣を組み、ライトを照らして周囲を確認する。
 「どうやら・・・。来たな」
 佐伯の右手には下り階段があった。その脇には登りが。正面には廊下が延びているが、窓は暗黒に通じていた。
 反対側の廊下。その突き当たりが美術室である。
 加賀壬の手がナイフをつかみ、その端に付いているコンパスを見た。くるくると回る針。
 「間違いない。ここも<場>」
 加賀壬の静かな声。それはここでは何が起きてもおかしくない事を意味していた。ベースとの通話も途絶している。ここはもう完全に魔性の結界内なのだ。
 「さぁ、いよいよ本番! あと四人、助けるにはやるっきゃないっしょ!」
 北村の鼓舞で士気を取り戻した佐伯を先頭に一行は前進を開始する。

 美術室に近付くと、すすーっと独りでにその戸が開いた。緊張が走るが、ここで待っているわけにもいかない。
 佐伯が室内に入った時、ぼーっとした灯りが灯された。蝋燭だ。美術室に並ぶ総ての机に蝋燭が、赤い蝋燭が点されていた。ごくりと生唾を飲み込む佐伯。もう一歩前進すると、声が響いた。
 「よぉく来たねぇ。わたしのかぁわいい生徒しょぉくぅん・・・」
 室内の全周に響く声。蝋燭の灯りはまるでインジケーターの様にその声に従ってゆらゆらと揺れ動いた。
 「さぁ、席につきたまえ・・・。もう授業はぁ始まっているのだよぉ・・・」
 MP体。しかも、これは教師か? 全員が覚悟を決めて室内に踏み込んだ時、扉が閉まり、山崎の目の前で壁になった。
 「もぉ帰れない、戻れなぁい・・・。さぁ、楽しい授業のぉ始まりはじまぁりぃぃ」
 不意にその姿が現れた。教壇の向こう。背の低い、こぎたない白衣の小男。ぼさぼさの長髪。血走った目に牙の生えた口元。ベレー帽をななめにかぶったその教師はパレットとブラシを手に、アタックチームに不気味な笑みを送った。
 「さぁ、まぁずはお手本。私のさぁいこう傑作をお見せしよぅ・・・
 野瀬くぅん、前へ」
 不意に生徒が彼の脇に現れた。透き通るその姿。その手には一枚のカンバスがあった。
 すっとパーティにその絵が向けられる。どぎつい色が入り乱れたもの。塗りたくられたカンバス。もうそれは前衛芸術というよりも、この教師の精神そのものだった。狂った世界。
 「んー? なぁんだ、その顔はぁ。そうか、やぁはり君たち愚民にはぁ、私の、この高潔なるたぁましいのさぁけびが、見ぃえないのかぁ。
 くっくっく。だぁが安心したまえ、愚民しょぉくぅん! きぃみたちでも分かる、かぁんたんなゲイジュツというもぉのを、これからみせてあぁげよう。白山くぅん。前へ」
 声に従い、もう一体の幽霊が現れた。その手にしているカンバスは真っ白。白紙の状態だ。
 「野瀬正一・・・。白山・・・さゆ・・・り」
 昆の苦渋に満ちた声。そうか。この二人も行方不明者だったのか。
 「さぁ、わぁたしぃのぅ、げぇいじゅつをぉ・・・
 見ろ!」
 不意にその右手が横に払われたかと思うと、そこからブラシの柄が一気に伸び、北村をなぎ倒した。
 「きゃぁぁ!」
 吹き飛ぶその体をがっしと押さえる山崎の腕。ぐたっと力無く崩れる北村の腹部にはどす黒い赤い線が引かれていた。と、同時に白紙のカンパスに血の色が一筆、すっと引かれた。
 「んー、まだまだだねぇ。こぉんな魂のさけびじゃぁ、私のぉ、げぇいじゅつには足りないよ。
 もっとだ!」
 再び伸びる筆。北村をかばって山崎がそれを受ける。しかし、実体のない筆は押さえ込もうとした腕をすり抜け、そこに目にも鮮やかな黄色の線を引いた。
 「ぐっ!」
 歯を食いしばって苦痛に耐える山崎。と同時にカンパスに黄色の線が入る。
 「くっくっく。わぁたしのぉ、げいじゅぅつ。くっくっく。

 お前たち愚民にはそれは分からない。誰も私を認めない。そうだろうな。私の才能を見ることすらできない愚民ばかりだからな。愚民共。その絵の具になれるだけ感謝し、その魂を私に捧げよ!」
 いきなり教師はその本性を現した。白衣が経帷子になり、髪が鞭の様に伸び、総ての先端に筆が持たれていた。その豹変に逃げまどう二体の亡霊。

 ああ、助けて。もうやめてください、先生・・・

 今度は今度は入賞するかもしれないじゃないですか。諦めずにまた描きましょう、先生・・・

 だがその声は教師の耳には届かない。今、彼の目には目の前にあるモチーフしか見えていないのだ。
 「きゃぁぁ!」
 昆が迫る筆を避けようとして転んだ。そこへすかさず加賀壬の投げた塩が飛ぶ。清めの力に阻まれ、彼女の魂をすすることが出来ずに鞭はその怒りを加賀壬に向けた。
 左右から迫る筆。加賀壬は左腕に激痛を感じ、同時に命が吸われていることを悟った。佐伯の木刀がうなるが、効果はない。死にものぐるいで暴れる佐伯。加賀壬に時間を与えるためだ。
 それを知った彼女は床に伏せ、腕の痛みに耐えながら考えた。
 この教師は狂っている。多分魔性になる前から。
 もう説得は効かないだろう。それにあのさっきの絵。何人の生徒を吸えばあそこまでになるのだ?
 ここでの行方不明者は後四人。ここにいる二人はもう手遅れだ。あの二人だけであそこまでの混沌になるのか? 四人全員が吸われたのか? いや四人でも足りないだろう。多分、この教師は魔性に取り付かれる前から・・・。何人もの生徒を・・・。
 加賀壬は左右を見た。昆が這いながら北村に近寄っている。最初の不意打ちをモロに受け、崩れ落ちた彼女に。山崎と佐伯はかろうじて手足ですんではいたが、もう何本もの線が引かれていた。多分今空中に張り付いたようになったあのカンバスには荒れ狂う線が何本も入り乱れているのだろう。

 だが、逃げまどうのは彼等だけではない。あの二人の亡霊もだ。彼等は美術部の生徒かなにかだったのだろうか。発狂しているとも知らずにこの教師に従っていたのだろうか。教師の口調は二重人格の様だ。もしかしたら昼間は優しい先生を装っていたのかもしれない。
 もうだめだ。この教師には話し合う余地がない。
 ならどうするか。加賀壬は周囲を懸命に見回した。と、右の壁に立派な絵がかかっているのが見えた。風景画だが、その絵は加賀壬の目にも綺麗に見えた。と、そこで気が付いた。今、この美術室の壁という壁は様々な色の絵の具が巻き散らかされているのに、その一角だけは汚れがない事に。
 もしかすると。
 加賀壬は這ったまま移動し、そこへの直線距離を確保すると、立ち上がって叫んだ。
 「ゲイジュツ? はん、笑わせないでよ! あんたの言う愚民に賞すらもらえなかった程度の腕で!」
 びくっと動きを止める教師。その背に怒りのオーラが舞い上がるのが見えた。同時に机の上にある幻の蝋燭がめらめらと燃え上がった。
 「で、お偉い画家さん、一枚くらい絵は売れたの? ざぁんねんねぇ、みーんな愚民で。あんたのその素晴らしいゲイジュツに1円も払わなかったんでしょ。んー、天才は大変ね。はーっはっは!」
 加賀壬は腹を抱え、身をよじりながら壁にもたれかかった。
 「笑わせないでよ。あんたみたいなの、何て言うか知ってる?
 下手の横好きって言うのよ! 愚民語ではね!」
 部屋中が震撼し、教師の髪が一気に加賀壬に迫る。彼女は両手を前に突き出すと身を縮こませた。ばしゅっという音。巨大なブラシが彼女の掲げた塩の袋を突き破り、高速で迫ったが故に、その結界に突きかかる結果になった。
 「ぎゃああああああ」
 悲鳴を挙げたのは教師。だが、加賀壬もその衝撃で弾き飛ばされ、失神寸前だった。
 「よくも・・・よくも・・・」
 今度は両腕を振り上げようとした途端、白山の叫びが室内を振るわせた。
 「先生! 絵が、先生の絵がぁ!」
 驚愕に目を見張る教師。加賀壬が弾いたブラシが、彼女が背にしていた、壁に掛けられていたあの絵をなぎ払い、そこにどす黒いシミを作っていたのだ。
 「あ・・・、わ、わたしの・・・、わたしの青春がぁ、ああ・・・あああ・・・、
 うぁああああああああああああああ!」
 絶叫。
 それが消えた時。
 もう室内は形をとどめては居ない。教師の心、いや、もう教師ですらない、「狂死」の心そのものにねじくれ、よじれ、うごめいていた。
 「殺してやる。みんな、みんな吸い取ってやる!」
 狂死は身動きできぬ白山と野瀬の魂を髪でからめ掴み上げた。
 そのまま吸収しようとしたその時。昆が立ち上がった。
 「命を、魂を弄び、その上己のために吸い込むとは。
 もうあなたには余地がありません。
 消します!」
 昆の目は決意に燃えていた。そのまま駆け出すと狂死に体当たりを掛ける。
 「愚か者。お前から吸い取ってやるわ!」
 両手を広げて昆を誘い込む狂死。彼女はためらいもせずに突っ込む。右手が腰のベルトに伸び、そこに挿してあった銀色の物体を高く掲げる。大きな乾電池の様な物を。
 昆の体が狂死の思念に飛び込んだ瞬間、彼女は両手で掲げたその物体を左右に引き、力一杯地面に叩きつけた。

 バシューッ!

 白煙が舞い、周囲が突風に巻き散らかされる。悲鳴を挙げる暇もなく、狂死の体は白い結晶に包まれ、そこから伸びた髪が千切れ、二人の魂が転げ落ちた。
 悪鬼の形相でその白い結界を突き抜けようとする狂死。だが、もうその動きは今の体内からの直撃で鈍く、捻れていた。吸収しようとしていたがために、完全に内部からの攻撃になったのだ。全身が真っ白に染まり、まるで雪の彫像の様な狂死はそれでも昆の魂を引きずり出そうと迫る。
 その時、加賀壬の声がした。
 「ぼ、帽子!」
 はっとして昆が狂死を見る。全身が白だが、そのベレー帽だけはなぜかまだらだ。白に染まっていない! この帽子はMP体ではない!
 「リャー、めーン!」
 山崎が飛んだ。3メートルもの距離を一気に飛び、そのベレー帽を弾き飛ばした。ばっと宙にまうベレー帽。かろうじてそれをつかむ一房の髪。
 「だめだ、これは、だめなんだ。これだけは、この絆だけは・・・」
 狂死の髪が蛇の様にそれを追いかけるが、白く染まったその体の動きは鈍い。
 「だめだ! 返してくれ! そ、それは、僕の総てなんだーっ!」
 伸ばしきった髪からふっとベレー帽が離れた途端、世界が裂けた。


第七章

 美術室。明日から夏休みなのに、生徒の表情は硬かった。今日は森田先生の最後の登校日なのだ。先生は自分の夢を叶えるために九月からアメリカに渡るのだから。
 「先生、向こうは寒いそうです。風邪引かないでください」
 「手紙くださいね、先生!」
 美術部員たちが口々に声をかける。
 森田は涙をこらえていた。すまん、みんな。でも僕は諦めきれなかったんだ。すまん。
 「先生、これ、みんなで買ったんです。気に入ってくれるといいんですけど・・・」
 「おいおい、白山、そんな・・・」
 「開けてみて下さい、先生!」
 涙が一気に込み上げるのが分かったので、それを見られないように背を向け、教壇に乗せてがさごそと包みを開ける。白い箱の蓋を開けると。
 そこには真新しいベレー帽があった。
 見つめる視界が歪む。森田はもう涙を堪えるのを諦めた。震える手で帽子を被る。そのまま振り向くと、部員全員が泣いていた。
 「先生・・・」
 「ありがとう、みんな。僕は頑張るよ・・・。みんなの事、忘れない・・・」

 そうか。いつの間にか忘れてたんだな、僕は・・・。みんなにひどいことをしてしまった。僕は・・・最低だ・・・

 森田は虚無にいた。何もない虚無に。なんにもない。これが僕の心か。なにもない。

 「いえ、いますよ、私たちが」
 「先生、先生! 聞こえるんですね、やっと気づいてくれたんですね!」
 森田の側にある二つの意志。
 「君たち・・・」
 「先生・・・」

 光が校舎を満たした。瞬時遅れて。三つの閃光が絡まりあい、螺旋状に天に駆け登る。

 こうして私立星ヶ崗中学を黒く染めていた魔性のペンタグラム。その最後の柱が崩れた。
 それを見届けた殿下が無言で指揮官の席から立ち上がり、裏門の側に集うOBたちに歩み寄っていった。
 美咲が一歩前に出て声を出す。
 「指揮権移行。会長たる私が全権を再掌握します。
 第二パーティ、篠木原隊、出撃用意! これより決戦に入ります! 作戦は第三段階へ移行! 超常研並びに生徒会各員は所定の指示に従って速やかに行動して下さい!
 殿下会長! OB会には第一パーティの保護をお願いします!」
 美咲は指示を出すと、椅子を元に戻し、座った。

 美術室で。
 加賀壬は仰向けに横たわっていた。その胸が荒い息で上下する。片手を額と目の上に置き、加賀壬はぐてーっと倒れていた。その隣で座り込む昆。彼女の手には焼けこげてすすけたベレー帽があった。部屋の入り口付近には壁を背にぐったりとしている北村とそれを支えるように座る佐伯が見えた。今、かろうじて立っているのは窓にすがっている山崎だけだ。だがその彼もがっくりと項垂れ、荒い呼吸に身を震わせている。

 終わった。

 彼等はただじっとその言葉を味わっていた。終わったのだ。なんとか。

 <アタックチーム1! アタックチーム1! 聞こえますか! こちらベース! 現状報告を!>
 昆がかろうじて通話スイッチを入れた。
 「終わりました・・・。
 みんな、なんとか・・・。生きてます・・・」
 それだけいうと、彼女の手はスイッチを離れた。その目がぼんやりと周囲を見回す。ふと加賀壬の腕の下にある視線と出逢った。
 「愛姫さん・・・。残りの二人は・・・」
 「・・・もう・・・
 手遅れでしょう・・・。もう、白山さんたちのように・・・」
 がっくりとうなだれる昆。
 加賀壬の喉が嗚咽に歪む。大きな目に涙が込み上げてくる。だが、そこに山崎が荒い息に途切れながらもこう告げた。
 「まだ諦めるのは早い、加賀壬。ゲート。そこに・・・いるかも。
 そうなら先輩たちが・・・。きっと・・・」
 山崎は窓の下を見ている。その目には希望があった。のそのそと四つん這いで進み、昆と助け合いながら窓に向かう加賀壬。そして北村を抱きかかえ、同じく窓に歩み寄る佐伯。
 彼等の眼下。校庭に希望が歩んでいた。
 先頭はヘルメットを目深に被り、金属バットを握りしめるサーこと三沢弘展。二番手は巨大な清めの塩玉エアガン、MG42を肩に乗せ、背中に大きなエアタンクを背負った美咲美由美。次は肩から塩玉電動ガン、MP5Kを下げたシュンこと篠木原俊之。彼等のリーダーである。次いで自称救急箱運搬係。その実、彼等の目であり、異界や三界どころか五界までも見通し、いかなる魔性のトリックをも見抜く姫こと美咲真由美。最後にしんがりを務めるのが柔道着の大男。元帥こと大田原総太郎。超常研最強のパーティだ。

 佐伯が窓を開け、彼等に叫んだ。
 「お願いします、先輩!」
 窓際に並ぶ新入会員に手を挙げて、彼等の意志を受け継ぎ、そしてその善戦を讃える二年生たち。
 彼等は一直線に進んでいった。夜の闇の中を。魔性をも遙かに凌ぐという魔王に向けて。


第八章

 「しかし、よくその状態でそいつを黙らせたな」
 事情聴取の最中に殿下が口を挟む。朝臣は困っていた。しかし、美咲会長からの助け船はない。とほほ。
 「救う道がないと思いました。結局白山さんと野瀬さんが救ったのですが、あの時はもうだめだと思ったのです。すみません。倒すしかないと思ったのです。だから使いました。F2Bを」
 「フェイズ2ボムぅ?! あんなの、持ってたのか、お前!」
 殿下はすっとんきょうな声を上げた。
 その声を聞いて、昆と一緒に事情聴取を受けていた佐伯がびっくりする。やっぱり、あの白い煙幕は何か秘密兵器だったのか、と。
 殿下は股すりのベルトにある大きな乾電池状のそれを見つけ、記憶をたぐった。あれを作ったのはもう随分前だ。
 フェイズ2ボム。
 開発コード名「自爆くん」。別名「清めの塩玉グレネード」。高圧力で圧縮したガスガン用の塩玉を無数に詰め、炸裂させる塩の結界手榴弾である。実戦に出たのはたった一度きり。あまりにコストが高いのでそれきり消えてしまった試作品のようなものだ。
 確か残ったのは総て回収したはずだ。そんで護身用にと、各責任者に記念で一個づつ渡したが・・・。殿下は困惑していた。昆は責任者レベルではない。単なる天使隊の隊員だったはずだ、あの時は。
 「どうしてお前が?」
 「はい、殿下会長にもらいました。天使隊はたくさんいるけど、俺の胸を枕にして寝たのはお前だけだって」
 それを聞き、本条の目がつり上がる。
 そうか。そういえば会長室でそんな事があったような・・・。思い出そうと必死の殿下は周りの冷たい視線に気づかなかった。
 殿下の影でおねぇさまの怒りの姿が見えていない昆はさらに続けた。
 「で、これはそのフェイズ2隊長だった開田さんにもらったんです。頑張ってくれたお礼ですって。私、嬉しかったです」
 それを聞き、本条の目がさらにつり上がる。開田。あいつまで。目立たない男に見えましたが。やはり男は男。許せません。本条がそう思った時、不意に自分の名前が出たのでぴくっと眉を震わせた。
 「で、これはおねぇさまに・・・。よくやってくれましたねって。でも、もしも危険な時には、必ずこれで身を守りなさいって。おねぇさまのお部屋で、ふたりっきりの時に。直接おねぇさまの手が・・・私に・・・」ぽっ。
 それ以上は言えず、昆は両手で赤面した顔を覆った。
 本条は突き刺さる無数の視線を感じた。特に天使隊のかわいい子たちの嫉妬と仲田野美雪の突き刺すような冷たい視線を。その視線sを受け、この件はなかったことにしようと彼女は心に誓った。

 北村は天使隊の治療を受けていた。だが、かろうじて意識はある。今夜休めば多分学校を休む必要も無いと言うことだった。
 少し離れた場所で。加賀壬と山崎は背中合わせで座り込んでいた。二人ともHPの損傷は大したことはない。MPの回復を最優先にと元天使隊の先輩に言われ、休んでいたのだ。
 その二人をじっと見つめる美咲由美。
 加賀壬宏子。山崎昌男。この二人はどんな関係になるのだろうか。私と殿下会長のような師と弟子? それとも美雪先輩と殿下会長のように相棒? 精進部長と香坂先輩のようなアイディアマンと実践者? あるいは美由美と真由美のような一心同体のペア?
 だが、いずれにしても、この二人がキーだ。この二人の力を佐伯がうまく引き出すことができれば。彼はシュンの様に個性溢れすぎるメンバーをまとめる潤滑剤の様なリーダーではない。仲間の意見を聞きながら、あくまで己が先行して引っ張るタイプ。北村がムードとテンションを盛り上げて、昆の素直さと真面目さが彼等を正しい方向に導く。
 ならばこのパーティに足りないもの。それは純粋に戦闘能力だ。美咲はその解決策を模索しながらも、左手に乗せているアイテムにも意識を向けていた。八方離心輪。美咲家の秘術を元に自ら生み出した八卦板である。今、このアイテムはゲートに突入した美由美たちと結ばれている。
 あの子たちのためにも。このパーティを早急に強化せねば。

 美咲は常日頃から自分の存在を周囲に紛れさせる揺らし気の術法を背負っている。故に、彼等を注視するその姿は誰にも知られていなかった。注目されている二人にさえ。
 まだ朝は遠い。二人は満点の星空の下で互いの体温に心を温め合っていた。
 「ねぇ、山崎君。聞きたいことがあるの・・・」
 山崎は答えない。しかし、少しだけ揺れたその背で、彼が耳を澄ました事が加賀壬には分かった。
 「あのね、あのケーキ、山崎君が買いに行ったの?」
 加賀壬の背で。山崎がうろたえるのが分かった。もう鎖帷子は脱いでいたので、その皮膚が緊張するのさえ、加賀壬には分かった。
 「お店の人、びっくりしてなかった? ひょっとして山崎君、恥ずかしかったとか・・・」
 山崎のうろたえは極度に達した。地面に置かれた手がぷるぷると震えている。
 その右手に自分の左手をそっと添える加賀壬。
 「ありがとう。嬉しかった・・・」
 「そうか」
 短く山崎が答えた。そのまま二人は無言で目をつむり、ただ互いのぬくもりを感じていた。

 その二人を横目で見ている者。北村だ。
 あーあ、結局、私、今度も宏子ちゃんに勝てなかったみたい。あーあ・・・。まったく、見てらんない!
 おしあわせにーだ! はぁ。
 北村はため息をついた。

 ううっ、あたしもあーゆーの、欲しーよー! 

 彼女の魂の叫びは夜の闇に空しく消えていった。

 合掌・・・



 
 
 加賀壬さん頑張る。第一部:完