<超かいき★くえすと>くえすたぁず

 

第三十四話:加賀壬さん絶叫す

 

von:秋澤 弘

第一章

 「我、美咲あゆみが我が名と我に流るる血によって偉大なる御方々に願い奉る! 集い給へ七つのつるぎ! 我が身に理を現し、我をその守護者と成さんことを! いにしえの盟約を今こそ叶え給へ!」
 終(つい)の言。そしてあゆみは七剣(ななのへのつるぎ)になった。呪柱、つまりメイン術者であるあゆみは七大精霊をかろうじて納めきった。周囲の担い手六名が全神経を集中し、暴走を懸命におさえているおかげだったが、なんとか七とせの呪法は完成したのだ。古村の言うとおり、本家の結界術者は優秀だった。担い手に慣れているのである。今回、スピードを重視したおかげでものの数分で七剣に成れたのも、かつて由美を相手に苦戦した成果であった。由美の場合あまりにキャパシティが大きすぎたのだが、あゆみの場合、得手不得手の差が大きすぎた。その差を古村が理解していたのも成功を支えた。
 急がなきゃ。その焦りをこらえ、あゆみは無理矢理息を整え、つむっていた両目を開くことから始めた。だが、それは実際の目のことではない。精霊たちの目だ。
 疑似空間の真上にしつらえられた本陣。残った撃手たち。自分を囲み、自分の一部になっている古村たち結界術者。そして槍を握る拳も力強く、再び大地にしっかり立つ美咲弓枝がその目に映った。
 よし、出来る!
 あゆみは今一人ではなかった。内に精霊を抱え、外に担い手を繋ぎ。練術結界全てがあゆみに、いや七剣なっていた。最初はとまどうように、そして徐々に確信に満ちて、その目が耳が周囲に広がっていく。
 西の少し南寄り、先ほどシャッテンが爆散した先に身を潜める兵士と学者たちが見えた。彼らに重なって、幾つもの意思が影のようにおぼろに見えている。精霊の目を通じて見ながら、同時に由見でも彼らを見つめるあゆみ。由見でない美咲由美にはできない芸当だ。
 敵の指揮官と思しき者はオランダ人の傭兵あがり。歴戦の猛者だった。彼は本陣の様子に焦りを募らせている。シャッテンAusf.IIIの稼働時間が半分を切ったのだ。時計の針のイメージがその顔に重なる。針が進むのを恐れるのと同時に、それに期待している様子も見えた。右目の上に大きな古傷の残る古参兵の顔がちらりと浮かんだ。信頼を寄せるその男を待っているのだ。
 科学者たちは恐怖に怯えていた。シャッテンに寄せていた信頼が崩れている。さもありなん。彼らはAusf.IIの爆散を見たのだから。その中で一人、まだ若い学者が自分を落ち着かせるために、懸命に心で念じていたことがあった。これさえ設置したら帰れるんだ。それだけすれば帰れるんだ・・・。彼の足下に置かれている1メートルほどの長方形の箱。その中にあるのは精密な機械だとは分かったが、それがどういうものなのかまでは見えなかった。人が手でこしらえた物ならばともかく、機械が作った機械では「由」、つまり縁(えにし)が残りづらいのだ。シャッテンがくっきりと幻視できたのはそれによって失われた命が、散り際に吐いた怨念を纏っていたからだった。機械そのものを幻視できたのではないのだ。
 七剣の目はさらに伸びていく。いや、四方八方に広がっていく、が正しい印象か。
 森の南端あたりでは撃手が陣を組み、銃をうちまくる兵隊と死闘を続けていた。こっちの兵隊は数が多い。撃手参の剣士たちはそこで兵の足止めをしているのだ。死を覚悟した思い。弓枝への忠誠心。副長犬養にそれがだぶって見える。敵の指揮官はマスクをつけヘルメットを被っていたが、由見であるあゆみにはそれ越しにはっきりと見えていた。彼の右目の上に、かつて傭兵だった頃、隊長を守って受けた大きな火傷跡があることが。それに己の誇りを寄せている強い意志が。彼は抵抗を続けるニンジャに怒りと焦りを募らせていた。彼は部下を信頼していない。それもそのはず、今彼が指揮しているのは急遽あてがわれた日本人ばかりなのだ。指揮官の心に浮かぶ思い。共に戦った仲間がここにいたなら・・・と。
 七剣の目は限界を越えてぼやけるまで広がった。駆けつける者、走り去る者、倒れ、生を欲する者・・・
 状況を認識したあゆみが口を開こうとした時、それを止める意思がちらりと走った。声を出すという行動で許容量を超えて寄りつかせた風の精霊が散ってしまうかもしれない。それに思い当たり、あゆみは口をつぐみ直した。
 代わって声を出したのは意識を共有している古村である。
 「弓枝様、撃破したシャッテンの先に敵の大将が潜んでいます。かなりの手練れです。配下に兵三名、科学者が四名。術者はおりません。科学者は襲撃の目的である何かの装置を所持しています。また南の端で犬養副長が、襲撃者18名を相手に奮戦しておいでです。ここからではかなり遠いのですが、幸い自然公園のウエストゲートハウスに展開すべく到達した飯田一党の皆様が、銃声を聞きつけ、支援に向かっておいでです。
 筧様は南方から東に向けて大きく迂回し、こちらに戻っておられます」
 弓枝は頷くと、術者である側近に指示を出した。敵指揮官と学者たちを封陣でおさえよ、と。ついで撃手を逆くさび陣に組み直し、七剣が最深部になるように指示した。由美と違い、あゆみは担い手の組んだ陣から離れることができないのだ。担い手にとっても、今、この七とせの呪法を守りながら移動するのは困難である。術柱たるあゆみがもっと自分で精霊を宿せれば別なのだが、今は現状維持が精一杯。よって七剣はこの陣の中から離れることができない。
 しかし、それであゆみを責めるのは酷というもの。下屋敷のメイドさん、三咲優美香はたしかに七剣になれるが、三咲家伝来の霊器である差し渡し1メートルに及ぶ石造りの大きな亀を大地に直接すがえ、その背に乗ることが必要だった。つまり彼女の場合、七剣になってしまったら、もう動きようがないのだ。古村の助手である壬佐紀裕巳子は短時間なら七剣になって自由に移動できたが、それには核とする壬佐紀家伝来の匕首、破邪の刃が必要だった。
 初めて担う者たち相手に、何の補助具もなしであゆみは七剣になった。それはそのまま、彼女に流れる血が本家に近い事を示している。彼女は傍流の「三咲」でも「壬佐紀」でもない。本流たる「美咲」なのだという確かな証拠だった。


 啓介はとにかく走っていた。彼には木立の位置も足場の悪い根っこの場所も分かっていた。行く道は自然と見えていたので、森の中でも全力疾走だ。
 時の技を身につけるためには己を極限まで高めねばならない。ある者は墨書で、ある者は瞑想し、その道を求める。啓介は子供の頃から好きだった剣術の道を選んだ。分家である埼玉出身の啓介にとって上京にある筧本家での修行は過酷なものだった。本家で学ぶ者は皆確かな後ろ盾のあるエリート揃いだ。伝統を重んじ、すでにその作法自体が芸術と化している筧の技。そしてその頂点に就くのはただ一人である。ライバルだらけの修練場で右も左も分からない分家の子供に誰も手を差し伸べるはずもなかった。
 啓介がずぼらで田舎言葉(つまり標準語)の不作法者に己を固めたのはひとえに修行中の風辺りからだった。生来反骨心は強かったが、昔から今のような男ではなかったのだ。京言葉の中で一人、彼は己を貫き通した。星見を主流とする筧家にあって、時見の技は秘儀中の秘儀式。それを会得している者も、学ぶ者も皆の模範となるべき人格が必要とされていた。だが、その一元化は啓介にとって最後まで馴染めないものだった。
 異色どころか異邦人扱いだった啓介だが、ひとたび術に入ればその高みに師匠も舌を巻いた。真剣を構え、時を呼び、集中した啓介の意識は人たる肉体を離れ、周囲の自然に同化する。
 「なんつぅか、自分の背中が見えるんだよ。鳥になった気分ってのかな、前も後ろもなくってさ、全部が全部、そこにあるとうりに見えるんだよ」 
 啓介自身はそう表現していた。己を高めた結果、己をいでて周囲にとけ込む。美咲流に言えば、それは理(ことわり)の一部になるという事。啓介はそこまでの高みに辿り着いていたのだ。残念ながら彼が当初望んでいた術者としてではなく、剣士として、だったが。
 今、森を疾走する啓介には背後のシャッテンが移動する様はもちろん、銃撃をなさんと左腕を持ち上げるのまで見えていた。そして弾が描くだろう軌跡も。振り返ることもなく、啓介は身をかがめ、高初速の7.63mm機銃弾の雨を避けた。同時に右に飛び、古木を迂回して走り続ける。
 よーいどんで整備されたトラックを疾駆する100メートル走なら、シャッテンはスタートダッシュから啓介に大きく差を付けてゴールするだろう。しかし、苔むし、湿った地面にはい回る根っこだらけのこの場所では、シャッテンは啓介にすがりつくのがやっとだ。体勢を崩しかけてもすぐにバランスは取り戻すのだが、その度に毎回直立の0姿勢になっていては追いつくはずもない。だが、それでもシャッテンは機械。啓介は疲労する人間だ。しかも啓介は数回に渡る本気の居合いで元々消耗が激しいのだ。
 そろそろやばいな。
 剣士として己の肉体を知り尽くしている啓介。迂回コースを逸れ、本陣に向かう。七とせの呪法、間に合っててくれよ、と祈りながら。


 本陣で。不意にあゆみが右手を伸ばし、南東の木立を示した。弓枝がすかさず指示を出し、その方向に陣形を微調整し終えた時、銃声が響いた。近い。もうすぐだ。撃手たちは勝負の一瞬に緊張を走らせた。七剣は移動できない。シャッテンを仕留めるには一度しかチャンスはないのだ。
 ソニックブラスターが音の洪水と爆発を起こしたすぐ後で、啓介が木立の間から姿を現した。すぐに木の幹で見えなくなるが、次に見えた時、もうすぐそこに飛び出してきた。陣形の右翼一番槍に位置する弓枝の脇をすり抜け、担い手に囲まれた七剣に迫る。目を合わせた時、それがあゆみだと気づいてびっくりした啓介だが、すぐに小さく頷いた。あゆみもまた頷いた。それは一秒の数十分の一にも満たない刹那の時。時を降ろした者と、宿した者にしか与えられていない時間。
 七剣の結界陣をなぞるように向きを変え、稲妻のように走り去る啓介。それと同時にソニックブラスト発射体勢から立ち直し、僅かに遅れていたシャッテンが木立の間にちらりと見えた。
 「構え!」
 弓枝の声に一度きりの一瞬に向けて身構える撃手たち。
 シャッテンAusf.III(アウスフュールンク・ドライ)はファットマン、つまり最初期のバリエーションだが、バージョンアップを繰り返し、基本動作は最新の機体と大差ないところまで引き上げられている。そのセンサー群も最新の物に交換されていたので、当然ながら弓枝たちをとっくに捉えていたが、メインユニットは彼らへの攻撃を指示しなかった。最高驚異をサムライと認定していたからだ。

 全照準、最高驚異目標に固定継続。
 メイン、サブスラスターを回避運動ユニットに直結。

 メインユニットは回避をオートで行わせて他の驚異存在に備えたが、あくまでもサムライ、つまり啓介を追った。撃手の陣形に向かい、正面に位置するヒューマンは跳ね飛ばす事にして突っ込むシャッテン。撃手からの様々な攻撃がそれに向かうが、横に滑り、向きを変え、するりと避けて行く。それでも周囲からの攻撃は的確にボディを狙っていたので、メインユニットの意識は瞬時、回避にセンサーを回すべきかの判断を行なった。そこに緊急警報が鳴り響く。撃手からの攻撃でとまどいを見せた隙を突き、力の全てを鎮めていた七剣がそれを結界ぎりぎりまで開放したのだ。
 Ausf.IIIに搭載されているアンチ・マジック・シェルの範囲は直径3メートル強。それはまだ結界、つまり集合意識である七剣に接触していない。

 最優先指令・緊急回避予測。

 メインユニットからの指示に応え、八種のオプションが直ちに提示された。シャッテンシリーズでも最重量級であるAusf.IIIにはジャンプして飛び越す余裕はなかったが、サムライの予想位置に近づきつつ、今発見された驚異を避けるルートは幾つもあった。しかし、それは七剣がその真の力を結界内に抑えていたからこそ、許された選択肢であることにメインユニットも回避予想ユニットも気づくことはなかった。
 腕を振り回し、上体の向きを変えて腰部メインスラスターを点火するシャッテン。サムライからの距離を守るため呪方陣の左ぎりぎりを迂回するルートを選択したのだ。
 そこまでで、シャッテンが姿を現してから1秒とちょっと。その間に意識を鎮め、距離を読んでいた七剣が、そこで呪を発した。
 「現!」
 地水火風光闇時。七精霊を練り上げた壁が虚空から出現する。それは高位練精の代表、虹。正面に出現した存在にシャッテンの感知センサーからの報告が飛ぶ。

 パワー・ウォール出現。

 精霊を感じる心を持たぬ視覚センサーは何も発見できない。それは実体ではないからだ。よってメインユニットは回避運動継続を指示した。サムライをトレースするために主要なセンサーを固定使用していなければ、その真の驚異に気づいたかもしれない。だが、シャッテンは自己に搭載されているアンチ・マジックの効果でパワー・ウォールは自動消去できると判断し、そのままドリフトするように上体の向きと移動方向の軸をずらしながら進んだ。
 アンチ・マジック・シェルの範囲に壁が入った途端、虹はその光を失した。衝撃に備え肉体の五感を切り離していた七剣にはその痛みは伝わらない。それよりも早く、力ある言葉をつむぎだしていた。
 「ななつたま ざん ふるべ!」
 呪言を発しながらあゆみの体は跳ね飛んだ。消滅したはずの虹に向かって。
 シャッテンの移動指示ユニットは自分の現在地と予定地点がずれていることに気づき報告を発した。と、同時にダメージコントロールと左腕外部圧力センサーからの報告も。

 インビジブル・パワー・ウォール、健在。

 なにかが運動エナジーに抗して目前にある。その認識はシャッテンのメインユニットを瞬時混乱させた。自己診断回路を起動して魔法の中和が実行されているのかを確認しつつ、現状を確認しようとしたところに、衝撃が走った。
 虹の壁は光を失っていた。しかし、七剣を担っている古村の目には見えぬながら強烈な印象の何かがそこにあるのを悟っていた。七色の虹は六色を失し、それでも最後の一色、目には見えない色をまとっていた。それは。時。
 動きを止めたシャッテンに、あゆみの伸ばした左腕が迫る。その手にする美咲の鈴が揺れた時、虹越しにシャッテンの外部装甲に触れた。
 「七魂斬振」(ななつたまざんふるべ)。本家筆頭術者、美咲由美にしか使えないとされていた奥義があゆみによって発動した。アンチ・マジック・シェル内で中和されていたはずの精霊。時と練られていたごくわずかの精霊が七剣の意思を伴い、虹にこめられていた時をも吸い込み、Ausf.IIIに叩きつけられたのだ。その狙いはシャッテンの中で最も「重い」場所。七剣であり由見でもある今のあゆみから見ればはっきりとそこが分かった。他の部分とは明らかに違う、密集し、重くそして暗い場所。それは胸部の中央やや右より。
 時の壁が消え、押さえられていた運動エナジーが一気に発現した。七魂斬振を込めたあゆみの腕を、キリの様に突き立てられたシャッテンは制御もかなわず、予定されていた方向、つまりあゆみへと移動する。自分を貫く物に向かって。 
 だめだ!
 あゆみはその瞬間、そう理解してしまった。外部装甲を貫き本体の装甲に接触した時に、その侵入角度がずれ、弾かれることを予見したのだ。外部装甲は布のような金属。それはしなやかではあるが、堅固な装甲。接触し、貫通した際にあゆみの腕を弾き、わずかに向きを変えていたのだ。完全に七魂斬振を使いこなす由美と違い、あゆみには確実に精神のみを飛ばすだけの技量はない。よって精霊で守った肉体ごとぶつかったのが凶と出たのだ。
 シャッテンも同時にそれを予想し、さらに接触角度を変え、確実に弾くべく上体をひねることを選択した。それに応え、腰と肩の駆動系が間接を動かし出していた。あゆみは必死に腕を伸ばし追従しようとした。しかし、精神は通常の数百倍にまで反応速度が上がっているが、肉体は所詮肉体。機械の反応速度に追いつくはずもなかった。
 ずれる!
 あゆみの不安が失意に、絶望に変わるかという刹那。シャッテンの右太股に配されたサブスラスターが全力点火した。ひねった上体が、逆方向に回転を与えられた下半身によって、無理矢理戻される。シャッテンのメインユニットが自律稼働に設定してあったスラスター制御をコントロール下に戻す間もなく、あゆみの指先はシャッテンの胸部にほぼ垂直に突き立てられた。パルス鋼によって作られた強靱な装甲であったが、直角では弾くことも適わない。七魂斬振はそのままあゆみの腕を、体を包み込み、シャッテンは己の運動エナジーによってそれを装甲の内側深くに引き寄せてしまった。

 あゆみとシャッテンが衝突した。本人以外にはそれしか見えないほど短い間の出来事だった。
 あゆみによって胸部を引き裂かれたシャッテンは彼女の左手にコアを奪われ、メインユニットを破壊された。パルス中和機能への動力が途絶し、即座に担い手たちが張っていた結界が復帰した。シャッテンは結界に弾かれて軽々と宙を舞い、太い古木に激突した。
 まだほんのさわり程度で、完全には会得しきっていない奥義、七魂斬振を使ったあゆみは意識の制御を失い、七精霊とのえにしが途切れた。七剣が消え去った喪失感を覚えながら倒れるあゆみ。その体はがっしりした腕に支えられた。もちろん啓介だ。
 後ろに走り去ったはずの彼が、いつのまにか隣にいた事であゆみは理解した。あの時、駆け寄る啓介に対して身構え、シャッテンが向きを変えたのだと。メインユニットの指示下ではなく、反射神経的な自律制御下にあった回避運動ユニットが、同じく自動で最高驚異目標を追尾していたセンサーからの情報を事前設定どおりに処理したのだ。接近した目標からの剣撃を察知し、回避すべくスラスターを全力点火した。その下半身の動きがシャッテンの角度を戻し、メインユニットが試みた最後の抵抗を排除したのである。
 気を失うまでの僅かな時間。あゆみは啓介の顔を見上げた。今の今まで精霊の目を通して見ていた彼女には肉眼よりも由見で見た光景の方が印象強い。
 あぁ、やっぱり暖かい人だなぁ・・・
 がくりと首が傾き、あゆみは啓介の腕の中で気絶し崩れた。
 「よし、よくやった」
 啓介のその声はあゆみに届いたであろうか。
 「まだだ!」
 突然の悲鳴。振り向く啓介の目に、上半身を半分引き裂かれたシャッテンが動くのが見えた。脳にあたるメインユニットは自己の破壊を予想した最期の瞬間に、全ユニットを自律に設定し、戦闘継続を指示していたのだ。
 シャッテンは腰を回転させ、あゆみを抱いてひざまづいている啓介や、その周囲で疲労と安堵で動きを止めていた古村たちに照準を合わせていた。最強兵器エナジースフィアは既に充填され、発射準備完了しており、右腕と肩の間にスパークが走っていた。
 啓介がジャンプしながら射線上から彼女を押し出すべく、空中であゆみを投げようとした時、それは発射された。炎を通り越した純然たるエナジー。放電を巻き起こす60センチほどの直径の球体。それはメルカバMk.IV戦車三台を瞬時に溶解するほどの威力。ナパーム弾を幾つも混ぜ合わせ、濃縮したような光の玉だ。
 発射の轟音と爆風、そして髪を焦がす熱風が結界を力でねじ伏せ、術者たちをなぎ飛ばし、光球は飛んだ。まっすぐに飛び、やがてその膨大なエナジーを球状に支えきれなくなった瞬間、上空で大爆発を起こし、数十の炎の玉に分散して弾け飛んだ。
 爆風に飛ばされながらもあゆみを体で守っていた啓介は身を起こし、呆然と西の空を見つめた。拡散していく巨大な光の玉。そこから飛び散る炎。エナジースフィアは上空に大きくその進路を逸らしていた。
 振り向く啓介はシャッテンの装甲の隙間、右肩基部から深々と刺さった槍を見いだした。関節から見えるのは柄の端だけなほど深く。その衝撃が肩を跳ね上げ、固定兵装の射角を発射寸前で上空に向けていたのだった。
 シャッテンAUSF.IIIは完全に沈黙していた。数本の煙をくすぶらせながら。
 「弓枝様!」
 殺戮機械のすぐ後ろに倒れている弓枝に部下たちが駆け寄った。
 「だ・・い・・・丈夫だ。熱かったがな」
 前髪も眉も焦げたすすだらけの顔で弓枝は片腕だけで身を起こした。美咲本家伝来の槍を最後まで支えていた左腕は上腕から奇怪な方向にねじ曲がっていたのだ。近寄った部下は彼女の左目も白く濁っているのを見た。
 「弓枝様ぁ!」 
 「療術者を! 早く!」
 騒ぎの中、啓介も立ち上がろうとして背中に激痛を感じ、うめいた。
 「いってぇ・・・」
 右手を回してみると手に溢れる血が付いた。爆風で飛んできた何かが刺さったらしい。
 ちっ運が悪いなぁ。まぁ白鳥は無事みたいだから、いいか・・・。
 彼の腕の中で白鳥あゆみはすーすーと寝息を立てていた。その顔には微笑みすら浮かんでいる。やりとげた充実感だろうな。そう啓介は思った。しかし、実際には意識を失う寸前に見た暖かな光景が、微笑みを浮かばせていたのだが。
 なぁ相棒、白鳥の奴、けっこうやるぜ。
 そう意識に浮かべた時、思いがけずそれに答える声と音が聞こえた。まだ握ったままの七つの剣の柄で、鳴らないはずの土鈴がころん、と。

 当然だろう。私の弟子だからな。

 ちっ、遅いぜ相棒。
 
 そう思った直後、彼の意識はぷつんと途切れた。


第二章

 「ふーん。こりゃすっかり無防備だ」
 ほむらはしずくの指先で、小野村のほっぺたをつんつん突いた。
 手術台の様な台座の上に横たわる「門の開き手」小野村はるかは精神を深く閉ざされ静かに眠っていた。残り二人の姫巫女も眠ったように台座に横たわっている。
 加賀壬と神宮司双子、というか三つ子は放射状に並べられた三つの寝台の側に立っていた。周囲には白衣のスタッフがあちこちにある計器を睨み、ファイルに記録を続けている。
 「じゃ、始めようか」
 しずくの声で、ほむらがそう告げた。加賀壬は飛びついて止めたい自分を押さえ、事の成り行きを見守っていたが、つばさの方は既に我関せず状態。いつものように腕組みをし、見下した笑みを浮かべた偉そうな態度で壇上に立つ穂甲斐を見上げている。
 「始めてくれ」
 高い天井にあるスピーカーから響く穂甲斐の言葉が終わらないうちに、しずくの膝がかくんと折れた。非力な加賀壬でも、咄嗟に支えることができる程しずくが小さな体だったのは幸いだ。
 「ば、ばかっ! いきなり移動して、くーちゃんに怪我でもさせたら、あんた・・・」
 偉そうにふんぞり返っていたので、姉を抱き留める役を低脳に持って行かれたつばさが怒鳴る。
 「あ・・・。か・・・。過保護・・・だなぁ、つばさは」
 かすれる声は小野村から。はるかの体を支配したほむらが答えたのだ。
 「んー。
 えっと、ちょっと待って。この子、かなり精神入り組んでるから。
 なんかさぁ、いじりすぎだよ、これ。何重にも記憶書き換えられちゃってて。憑依する身にもなってよ」
 どこか見当はずれなクレームをつけるほむらに、穂甲斐が声を掛けた。
 「貴重な被検体だからな。多少はやむをえん」
 穂甲斐の前にあるメインコンソールには各部署からのデータが集まっている。疑似空間との接触を高めるはずの波動増幅器とつながる小さなモニタはシグナル0のままだ。ラージェスの部下はその設置にどうやら失敗したらしい。それは痛手ではあったが、B2Aの存在はそれを補って余りあるものだ。棚からぼた餅というのはこういう事を言うのだな。そう穂甲斐は思った。
 既に準備は全て整っていた。そう、全ての準備が。
 「5秒後にセカンドステージ開始!
 3、2、1・・・スタート!」
 穂甲斐の声で、あちこちにある装置に一斉にスイッチが入れられた。だが、加賀壬には低くうなっている機械音が少しその調子を変えただけで、何も変わったようには見えなかった。
 彼らを見降ろす位置で。天井にある配電用ハッチの真上に陣取ったリャン・バウテカにはそうではない。彼のすこぶる敏感な感覚器官は、装置が動き出した途端、溢れる音と光の洪水に、思わずうめき声をだしてしまうところだった。腹這い状態では振動が皮膚に直接響き、酔いそうなほどだ。まぁ、隣で伏しているジョージ・ハワードには無縁な苦しさだったが。
 ハワードは配電スロットの隙間から階下を見つめていた。装置と学者たちの動きでその目的を読もうとしていたのである。
 天井に二人のエージェント。部屋の中央で加賀壬とつばさ。部外者4人が見学する中、実験は、いや電子制御の儀式は進んでいく。
 「ファイナル・インパルス発生確認!」
 「ゲート、共振開始しました」
 とうとうゲートが開いてしまう。それを止めるべきか、見守り続けるべきか。加賀壬の心が乱れるのも当然だ。ゲートなど認められる物ではない。しかし、この儀式が成功しないと地軸がずれるほどの大災害が発生するというのだから。その悩みを感じ取ったのか、つばさがしずくを抱きかかえながら低く声を出した。
 「闇の姫巫女は利用できない。門はただ姫巫女だけを呼ぶ。そうでない者には何ももたらさない。
 そういうことになってんのよ、昔からね。あんたもちょっとは資料、読んでおきなさいよ。あたしなんてあれから結構・・・」
 言いかけて止めたつばさ。加賀壬を殺し屋と呼んで香坂や尊敬する精進にまで大説教を食らってから、つばさは真剣に超常現象を研究していた。己の認識不足を痛感したのだ。しかし、それを当の本人である加賀壬に語るのは、どうも自分の負けを認めるようで嫌だったのだ。
 「読んだよ。だからその言葉も知ってるんじゃない」
 その加賀壬の反論は軽く流された。
 「あ、そうか。あんたのレベルじゃ読めても理解できなかったわね。とにかく、ゲートから異次元のエナジーを引き出すって事自体が勘違いなのよ」
 加賀壬は文句を言う気にもならなかったが、勘違いという言葉には興味を示した。
 「どういうことよ」
 「簡単。あいつらが引き出していたエナジーはゲートの向こう側、異次元から出てるんじゃない。そんなのほんの一握りにすぎないわ。異次元とこの次元との間に存在する相違がエナジーになってるだけ。異次元とこの世界ではそれだけ違うのよ、原子組成はもちろん、そのサイズも振動幅も違う。よって時間と距離自体異なる。それだけ異質な物をゲートだけで変換してるのよ、その相違反発はとんでもない。
 あんたの脳で分かるように言うなら、ゲートで無理矢理繋いだんで、二つの世界が重なってきしんでる。ズレが発生しちゃってるのよ。そのきしみが力になって現れてるだけ。プレートテクニクスによる地震説、あるでしょ? あれと同じでね、きしめばきしむほど、揺り返しが来る。すごいのがね。異次元から何か出てるなんて、子供だましもいいとこ。
 あの女、知っててそれを隠してる。何か企んでるわ。よく監視してなさいよ」
 加賀壬は無言のまま頷いた。

 異変は突如出現した。三台のベットの中心。つまりこの部屋のど真ん中に。2メートルほどの高さの中空に、いきなり黒いバスケットボールくらいの球体が現れたのだ。
 「ダークスフィア、出現!」
 「各位相差、予想範囲内です」
 「フォース・フィールド出力安定。いけます!」
 部屋の各所からの報告は、穂甲斐の前にあるモニター群からも確認できた。
 穂甲斐は無言のまま、最終段階を見据えている。
 「ゲート開放!」
 「フィールド出力増大。収束可能域、サードフラットを越えました」
 「ゲート、固定確認!」
 穂甲斐を振り返って叫んだ男の声は、一斉に起きた拍手で迎えられた。歓声が巻き起こり、ファイルが、ペンが舞い飛んだ。
 口々におめでとうを叫ぶスタッフを右手で制し、穂甲斐が口を開いた。
 「ありがとう。そしておめでとう諸君。諸君等はついに目標に到達したのだ。このスフィアからほとばしるエナジーを見ろ。これが諸君の得た物だ」
 再び巻き起こる歓声。
 「本当に感謝するよ諸君。そう、これで私たちの目標も達成できる」
 そう言い、穂甲斐は白衣のポケットから出したキーをコンソールに差し込んだ。そしてそれをひねった直後、こう続けた。
 「では石倉先生」
 眠ったように台座に横たわっていた門の造り手、石倉安比奈(あいな)が不意に上半身を起こし、右手を動かした。
 「お先に、穂甲斐先生」
 狂喜乱舞するスタッフと穂甲斐に気をとられていた加賀壬が左側にあった台座に目を向けた時、銃声が響いた。悲鳴、怒声。騒音の中、手にしていた大口径のデリンジャーで自分の心臓を正確に打ち抜いた石倉は、踊るように飛び跳ねた。
 「ぐがぁ・・・」
 「うぐっ!」
 精神的に繋がっていた二人の姫巫女が苦悶の声を漏らした。二人が死にひきづり込まれなかったのは、穂甲斐の裏切りを警戒していたほむらの咄嗟の判断だった。リンクは三人を相互に繋げていたのではない。<開き手>にそれぞれ繋げていたのだ。その中心にあたるほむらが、憑依を解いたことで、それは途切れたのだった。ぎりぎりという所で<開き手>は死の淵に落ちる<造り手>の手を振り払い、<繋ぎ手>と共に生に舞い戻った。
 「やられた!」
 何かが起きると予期していたつばさでも、しずくを両手に抱えていたのでそれを防ぐことは出来なかった。スフィアの観察に夢中だったハワードも、穂甲斐が作動させたらしい周囲の機械音に注聴していたバウテカも発生した出来事に対応しきれなかった。
 加賀壬は目前で起きた惨劇に声を失い、その大きな目を見開いていただけだった。だが、甲高い金属音に気づき、そちらに目を向けると、すりばち状の壁面に立つ穂甲斐と正反対の場所でドアが開くのが見えた。壁面パネルに紛れていたその扉は巨大で、トラックがそのまま通れそうなほどの通路がその向こうにあった。だがその開口部は床から3メートル近くは上に出来ている。人が使える出入り口ではありえなかった。
 天井にいる二人には視界が狭いためにその光景は見えなかったが、その代わりに加賀壬が気づいてない事象を発見していた。
 この部屋の床は縦横無尽にコードやケーブルが走り回り、あちこちに装置が配置されている。そのため、今まで気づかなかったのだ。その床面に幾つものラインが掘られていることに。そのほとんどが覆われていたが、石倉の肉体から流れ出るおびただしい血がラインに流れ出してはっきりとその姿が見え出していた。
 「ルーンサークル!?」
 バウテカに瞬時遅れてハワードも気が付いた。コロシウムのようにすりばち状になっている部屋の底面。その全体が魔法陣になっていたことに。
 「参ったね。地球規模の無理心中とはね」
 寝ぼけたような声でしずくがつぶやいた。いや、しずくの体に戻ったほむらが、である。
 「ど、どうしよう、これ・・・召喚者が術中に死んじゃうなんて。これじゃ止められない。ジェネシスでも死者の魂までは消去できないもの」
 震える声はつばさだ。漆黒の球体を見つめる目には明らかに怯えがあった。
 「次元間の・・・相違共鳴が、始まる・・・。何もかも飲み込んで・・・弾け飛ぶ・・・。に、逃げなきゃ・・・」
 「逃げる? 地球の反対側、ブラジルくらいまでは逃げなきゃダメじゃない? まぁ、それでも死ぬまで苦しむ時間が延びるだけだけれども」
 つばさの声にほむらは冷たく答えた。その後でふっと加賀壬を見ると、彼女はお守り代わりの鞘を両手に捧げ、立ちつくしたまま、何か早口に口走っている。
 「んー、こっちはもうイっちゃったのかな?」
 ほむらの声に答えることもなく、加賀壬はつぶやき続けているが、その瞳はしっかりとした強い意志を示し、周囲を嘗めるようにして視界をすべらせていた。
 パニックに陥り、出口を求めて走る研究所員たちは部屋に三カ所設けられていたドアが全て閉鎖されている事を知り、夢中でドアを叩き始めた。中空にあたる場所に先ほど開いた大きな出口になんとかして飛びつこうとする者までいた。
 「さぁ、宴の始まりよ!」
 騒乱の中、一人笑顔の穂甲斐が右手を伸ばした。その手にはデリンジャー。しかし、その銃口は水平に向いている。下の階にいる所員たちを狙っているのでも、自分の心臓でも、天井裏にいるエージェントを狙っているのでもない。それは穂甲斐の真正面、新たに開いた通路に向けられていた。
 安全装置代わりの重いトリガーが穂甲斐の指の動きに答えて動作した。銃声。それに瞬時遅れて甲高い連射音。穂甲斐の体は、いや、体だった肉片は背後のドアに真正面から何度も何度も撃ちつけられ、見るも無惨に弾け散った。がっしりと物理的&電子式に施錠されたドア一面に飛び散る血。下から見上げるつばさたちにはそれだけが、そこに穂甲斐がいた事を示す証拠だった。
 「まさか!」
 その連射音を聞いたバウテカは咄嗟に脇に置いていたゴルフバックの様なケースの引き手を掴んだ。ハワードには判別できなかったが、リャンの耳は聞き分けていたのだ。忘れるはずもない、あの忌まわしい高初速7.63mm機銃の発射音を。耳を澄ますバウテカ。恐怖に満ちた悲鳴や神に救いを求める声。ダークスフィアからの人には聞こえぬ大音量のエナジー放流。そんな中でかすかだが、確かに聞こえる力強い二つの駆動音。重々しい振動と足音。
 穂甲斐からの攻撃を受け、即座に戦闘態勢に移行して反撃し、彼女を肉片に変えたのは自律駆動の殺戮者、シャッテン。
 ハワードの制止も間に合わず、バウテカはハッチを開き、その音がする方向に双眸を向けた。その時。まだ神経の大半が向けられていた彼の耳はか細い声を聞き分けた。ささやくよりも弱く、悲しい声。精神制御が外れて目覚めた<門の開き手>、小野村はるかの声だった。
 「いらない・・・」
 閉じられた瞳から溢れる涙。スピリチュアル・リンクから切り離されたばかりで、まだどんな危機に直面しているのかも気づいていない彼女は、心の一番底にある想いを、今まで識域下でずっとつぶやいていた想いを声にしていたのだ。
 「こんな力・・・いらないよ・・・」
 リャン・バウテカの瞳は見開いたまま通路から離れ、直下に向けられた。下着姿でベット状の台座に横たわるその少女。歳は一回り違うし、身長も体格もまるで違う。顔立ちが似ているわけでもない。しかし漆黒の短い髪が、少女と彼女とをバウテカの目にだぶって見せた。

 こんな力、無かったら良かったのにね。そしたら、私たち、普通の恋人に・・・な・・・れたかな・・・

 彼女の最期の言葉。バウテカの腕の中でつぶやかれた最期の。
 バウテカの時間が凍り付いて止まったあの夜。物理操作系の真性能力者だった彼女は、命を捨てて限界を超えた力を使い、ビルを倒壊させた。仲間を救うためにシャッテンAusf.IIIをその瓦礫の下に閉じこめたのだ。彼女と出会い、取り戻し掛けていたバウテカの心と感情は、その時消え去った。後に残ったのはただ、復讐だけ。
 シャッテンの駆動音も小野村の声も聞こえていないハワードだが、バウテカの行動から機銃を撃ったのが兵ではなく、彼の「仇」なのだと悟った。バウテカの腕を掴み、鋭く声を出すハワード。
 「今はだめです! まずゲートを止めないと! 何億という人が死にますよ!
 死者と生者、どっちが大事ですか、バウテカ!」
 バウテカは動きを止めたまま、今耳にしたハワードの言葉を、その言霊を聞き取った。
 死者と生者。彼女と少女。復讐と救命・・・。
 二つを秤に掛けて凍るバウテカ。彼の眼下では逃げまどう職員のほとんどがドアに殺到しており、中央部、スフィアの側にいるのは加賀壬たち三人+精神のみ一人と、腰が抜けたのかへたり込んだまま動けないスタッフが一人、そして闇の姫巫女三人だけだった。姫巫女の一人は即死していたので計六名(+精神のみ1名)。しかし、バウテカの常人を越えた視覚にはもう一人、正確には人らしい光るものが一つ写っていたが、今の彼にはそれに気づく余裕はなかった。
 加賀壬たちの目は穂甲斐がいた場所に向いていたが、また起きた激しい銃声にぎょっとして振り向いた。床から3メートルは上に開いた通路。そこからマシンガンを連射する者、いや物。殺戮機械が一機、灯りのない通路の暗がりから姿を現していたのだ。ドアの一つに集中する射線。そこにいた白衣の四人は全身を引き裂かれ、パーツとなって宙に舞った。
 「シャッテン!」
 「前門のシャッテン、後門のゲートか。こりゃすごいや」
 銃で撃たれたら死んじゃうつばさと、撃たれたらまた憑依すればいいほむらでは危機感が全然違うようだ。とはいえ、さすがにゲートが暴走したら、MP体でも消滅してしまうので焦ってはいたのだが。
 彼らの見開かれた目はシャッテンが、その左腕をこちらに向けたのを見た。咄嗟につばさがしずくを突き飛ばし、台座の影に隠れた。なにやらあっちの世界に行っていた加賀壬が、小野村を寝かされていた台座の影に引きずり込むのと、白衣の男が第二の姫巫女を同様に守るのとは同時だった。銃撃が彼らを襲い、がっしりとした金属製の土台の端々が吹き飛んだ。シャッテンには三種の7.63mm弾頭が用意されていたが、対人戦を想定していた本作戦では装甲を貫通した後で接触すると四方に飛び散る対人・対軽装甲車両共用の弾丸が装填されていた。その高初速弾は土台に食い込み、その中で四散したが、床と一体で構築されていた土台の裏側に隠れる人間まで貫通することも、着弾と同時に弾かれて兆弾することもなかった。
 加賀壬は床に伏せさせた少女が駅前で会った「夜のペット候補」だとは気づいていないが、既に得た知識で小野村という彼女こそゲートを左右する主格の姫巫女だとは知っていた。だがそんな事よりも、とにかく目の前にある命を見捨てることができずに咄嗟に動いたのであるが。
 意識を失ったままの第二の姫巫女を抱きかかえ、震えている白衣の男は元々彼女の面倒をみるために雇われた看護士だった。狂気に捕らわれ、言葉すら失った娘。意識が戻った時には暴れて全身拘束が必要という大変困った患者だった。だが彼は一度だけ見たことがあった。もう二ケ月以上前だが、その日、彼女は眠りから覚めた後も静かだった。そして手の届かぬ高さの窓辺に飾ってあった花を見て笑顔を浮かべたのだ。
 被検体などに選ばれなければ発狂することもなかったはず。そうしたらあの笑顔が似合う明るい娘だったのかもしれない。彼女を生きた歯車の様に扱うこの研究所の中で、彼だけは「患者」として彼女を見ていた。あの時の笑顔が、腰を抜かしたはずの看護士を立ち上がらせ、患者を守らせたのである。
 三つのベッドの残った一つに隠れた双子というか三つ子はぎゃーぎゃー悲鳴を上げていた。銃撃された恐怖によってではない。頭上から降り注ぎ、足下に落ちて転がる無数の物体はさすがの神宮司たちにも衝撃的だった。彼らの隠れたベッドの上から引き裂かれ、ばらまかれてくるのは石倉安比奈だった物体。もうスプラッタ映画なんか二度と見ないぞ。つばさが妙な決心を固めた瞬間である。
 反撃に備え、開口部から十分な距離を残す位置まで前進してきたシャッテンは銃口を左に流し、別のドア付近から転げるように逃げまどう人々を四散させた。銃声が止まった時、その部屋で生きているのは中央の台座に隠れている加賀壬たち六人と、同様に運良く機材の影に隠れることができた三人の所員だけだった。負傷者は0。一発でも銃撃を受けた者はみな息絶えていた。
 続いてシャッテンは右肩部の固定武装、ソニックブラスターを天井に向けた。その高感度センサーはそこに潜む二人を既に感知していたのである。この施設は本条からの襲撃に備えすこぶる頑強に出来ていた。天井部分でさえ、7.63mm貫通弾でも打ち抜くのは不可能。しかし、ソニックブラストを狭角集中放射すれば裏面に隠れている人体をも振動で破壊できるはずだ。
 ここに配置されていたシャッテンは12機製造された中の最後の二体。Ausf.XI(エルフ)とXII(ツヴェルフ)。最新型のリングボーイである。その呼称はソニックブラスター前面に展開するリング状のオプションパーツを標準装備していることから付いたもの。普段は右腕に収納されているこのパーツによって音響破壊兵器の振動幅と収束率を、戦況に応じ様々に変化させることが出来るのだ。
 だが、二人のエージェントはその放射を黙って待っているのでも、シャッテンの殺戮行為をただ眺めていたわけでもない。バウテカがケースから細長いバズーカ状のランチャーを取り出し、ハワードと二人で組み上げ、射撃準備をしていたのだ。対シャッテン用にバウテカがこつこつと一人で作り上げた兵器。シャッテンAusf.IIIとの交戦結果から導き出したそのランチャーは火薬を一切使用していない。細長いエアボンベを仕込んだ巨大なエアガンだ。弾頭にあたるのは二つの瓶。爆発物ではない、二種の液体がそれぞれに詰まっていた。そしてその重量のほとんどを天井裏のフレームに担わせ、天井のハッチから身を乗り出して狙いを付けるバウテカの目は直接シャッテンを狙ってはいない。90度横向きで照準器に向かっている。内部のプリズムで視線を曲げているのだ。
 シャッテンがブラスト準備体勢に入った時、バウテカは天井から必死に身を乗り出し、直接照準ぎりぎりで届く通路内に十字サイトを合わせていた。ハワードは少し離れた場所に設置されていた制御用のボックスに取り付いている。
 シャッテンのセンサーはとっくにそのランチャーと操者の行動を感知していた。しかし、炸裂物も危険物もそこには存在せず、エアボンベも病院同様の設備を持つここではあちこちにあるものだ。彼らは逃げようともしていない。さらに操者はシャッテンに顔を向けてはおらず、攻撃意図はない。よって各種センサーからの報告をまとめたメインユニットはこう判定していたのだ。
 低驚異目標と認定。
 結果、その攻撃順位は最後に回った。その時間を用いて、バウテカの報復兵器は準備完了したのだ。
 このランチャーは使い捨て。一度しか撃てない。本来なら仇を倒すためだけに作った武器なのだ。今ここにいるシャッテンは二機。見えてはいないがバウテカの耳にはもう一機の駆動音が通路の奥から聞こえていた。まず一機を戦闘モードに移行し、それが時間切れで動作停止した段階で、それまで休止モードで待っていたもう一機が動くのだろう。つまり一機を葬っても、もう一機によって彼らが殺されるのは火を見るより明らか。だが、バウテカはそれでも良かった。仇さえ討てれば。
 しかし、それはさっきまでの事だ。死者と生者、どちらが大事か。ハワードの言葉と少女の悲しい声がバウテカの目的を書き換えていたのである。シャッテンを破壊するために作った武器は、一機の破壊ではなく、二機の足止めのために照準を合わされていた。バウテカは気付いていなかったが、奇しくもその行為は「彼女」が最期に選んだ選択と同じだった。
 「全員息を止めて伏せろ!」
 バウテカが日本語で叫んだ。
 Ausf.XIのソニックブラスター照準がセットし終えた時、バウテカの指が一度限りの兵器の力を呼び起こした。圧縮空気が炸裂し、瓶が打ち出された。その発射音を合図にハワードが手にしていた剥き出しの二本のケーブルを接触させた。瓶は開口部から飛び込んでシャッテンの足下にぶち当たった。割れて飛び散る二種の液体。それは単独ならばシャッテンの判断通りなんの驚異もないもの。しかし、二種の液体+空気という三種が触れ、混ざった途端、ロケットエンジンにも使われる燃料としてのパワーを発揮した。
 轟音。爆炎。飛び散る建材。一瞬にして部屋中の酸素が消滅したかというほどの爆発。
 煙が消えた後、大きな開口部は頑丈なシャッターによって塞がれていた。ハワードが災害感知装置を欺き、防御シャッターを降ろしのだ。それによって爆発のほとんどは通路内を荒れ狂うことになった。彼は即座に下階の防御シャッターをコントロールするボックスにSIGから三発打ち込んで開閉を阻止した。
 バウテカはランチャーを脇に置くと、引き抜いたブローニングのマガジンを手早く交換した。彼はホロウポイント弾とフルメタルジャケット弾の二種を用意してあったのだ。最初に入れてあったホロウポイントは強烈な殺傷力を持つ。しかしそれは相手が人間の場合である。的がシャッテンでは繊維状の外部装甲上で爆散し、衝撃を吸収されてしまう。貫通は全く期待できないのだ。今装填した弾丸は東宮会謹製のスペシャルメイドのフルメタルジャケット。貫通力ならば通常弾の比ではない。
 一方ハワードは通常の弾丸のみを持ち込んでいた。集団の中にいる目標一体のみを殺傷するには、その体を貫通する弾も、その皮膚で爆散する弾も不要だ。連射した三発を確実に一人の肉体のみに食い込ませ、殺す。そのためには通常弾が一番よい。
 この二人。元傭兵と元スパイは共に使い慣れた弾丸を当然の様に選んでいたのである。

 耳鳴りで聞き取りにくくなっている加賀壬は、僅かに声を聞き取り、顔を上げた。高い天井にある狭いハッチから逆さになって上半身を乗り出している男を見て、ちょっと唖然とする。
 「誰か、ゲートを止める方法を知らないか! 大きくなる一方だぞ」
 先ほどの警告同様、日本語で叫ぶのはバウテカだった。ゲートと聞き、立ち上がって振り向く加賀壬。浮かぶ漆黒の球体はバスケットボールほどだったはずだが、既にその倍には膨れあがっていた。戻って来たハワードもそれに気づき、蒼白になった。
 「ど、どんどん異相差が増えていく。止めるなんて、無理。美咲会長でもないかぎり」
 震える声はつばさのもの。だが、その美咲由美ですら、遅延させるのが精一杯なのだとついさっき加賀壬は知ったところだったが。
 爆発のショックで完全に目を覚ました小野村は重圧を感じて顔を上げていた。その視線の先にあるのは黒い球体。それが何であるのかを悟った彼女の体は凍り付いた。
 「どうなんだ、ゲートを収束させる方法はないのか?」
 バウテカは再度問いかけたが、そこにいた所員はただ首を振るだけだった。しかし、室内で一人だけその問いに答えた者がいた。ほむらである。
 「ゲートを塞いだって、もう私たちには意味ないけどね。でも被害を最小限に食い止める方法はある。
 その子が向こうに行くこと。それしかないよ」
 ほむらは球体に恐怖の目を向けたまま動かない小野村を指さした。
 「ホムりん、何言ってるのよ!」
 加賀壬の声には耳も貸さず、ほむらは続けた。
 「<造り手>は死亡、<繋ぎ手>は意識途絶。ここに残るのは<開き手>だけだ。彼女だけにゲートが呼びかけてるわけだよね。だから<呼び声>に応えて向こうに行けば、おそらくゲートは塞がる。その途端、私たちはお終いだけどね。異界と現界との軋轢(あつれき)は消えないからそれを繋いでいるゲートが消えれば、すぐに発現する。でも、今ならまだこの県とか日本列島がクレーターになるくらいで済むかも。やってみないと分からないけどね」
 「いやぁぁぁぁああああ!」
 小野村の絶叫。彼女は両手で頭を押さえ、目を思いっきり見開き、涙を振り落としながら叫んでいた。恐怖。絶対的な恐怖が「向こう側」にあるのだ。加賀壬は小野村の前に立ち、その視界を遮って彼女の頭部を抱きかかえた。
 「嫌なら見なくていい。目をつむって」
 「あ・・・あぁ・・・。あれは嫌・・・。怖い、こわい・・・私・・・」
 小野村はるかの声はかすれて行った。
 「他にないのか!」と、バウテカは焦りを隠さずに問いかけた。その先はほむらだ。
 「んー。リンクしただけでこんなに怖がるんだもの、<繋ぎ手>、つまり第二の姫巫女の見た向こう側は、とんでもないもんだったんだろうね。よしんば意識を取り戻したとしても、第二の姫巫女を向こうに自発的に行かせるのは無理。発狂した精神に入ったら僕も同調しちゃうから、僕でも無理。だから、第三の姫巫女を行かせるしかないね」
 「そんなことしたって!」
 加賀壬の声は叫びに近い。
 「そんなことしたって無駄でしょ! この子、こんなに怖がってるんだよ、怯えてるんだよ! そこの人みたく、向こうに行かずに帰って来るに決まってるでしょ! そんなこと、無駄じゃない!」 
 「確かにね。素直に向こうには行かないでしょうね・・・」
 つばさは俯き、床を見たままそうつぶやいた。彼女が口に出せなかった、その続きを言ったのはほむら。
 「そう。だから帰れなくするんだよ。彼女が球に触れ、精神が向こうに行った所で、その手が離れる前に、帰ってくる前に、殺す」
 「な・・!」
 加賀壬だけではない、バウテカも身を震わせた。
 「な、なんてこと! なんてこと言うのよ! い、言っていい冗談と、悪い冗談があるわ! じ、自分が生き残るためにって・・・」
 「生き残れない!」
 加賀壬の声を遮る怒声はつばさ。
 「もう今からどこに逃げたってあたしたちは助からない! でも、地球の裏側にいる人とかはまだ助かるかもしれないの!
 分かんないの、この低脳! ここであたしたちが何とかしないと、地球壊れちゃう! 壊れなかったとしてもその後、地軸は狂うし核の冬どころじゃない氷河期がくる。でも、もしかしたら今ならそこまでいかないかも。こんな前例のないこと予想できないけど、もしかしたら今ならなんとかなるかも。そしてそうできるのはここに今いるあたしたち、助からないって決まっちゃったあたしたちだけなの!」
 「だからって、だからって! 見てわかんない? 怖がってるんだよ! それを無理矢理に。そんなのない!」
 「どうせ僕らも死ぬんだよ加賀壬。その子を殺した直後にね。時間差は0.1秒もない。それだけさ」と、ほむらの冷たい声。覚悟を決めた声。
 「だからって! そんなの、許せない!」
 怒り狂う加賀壬。しかし、「大人」であるバウテカとハワードは彼女のようにはなれない。今にもシャッテンが突破してくるだろう。すぐに行動しなくてはならない。このゲートを放置すれば地球が滅ぶ。それを阻止できる可能性が1%でもあるのなら。試すしかない。どんなに犠牲があっても、だ。
 バウテカの耳はシャッテンAusf.XIが埋まった通路を掘り返している駆動音を聞き取っていた。ガコンという鈍く重い音が瓦礫の向こうから響いてくる。その時、振動と共にくぐもった様な大きな音が防災シャッターの奥から響き、シャッターの真上あたりにヒビが走った。続く振動に騒音。事態を認識できたのはバウテカだけだ。シャッテンが瓦礫を破壊しようとして、逆に通路の天井が落ち、また埋まったのだ、と。
 一機が動いている間は二機目はアイドリング状態だろう。あの一機が出てくる前にやらねばならない。バウテカは悟った。そうなのだ。結局少女も彼女のように犠牲になるしかないのだ・・・と。
 「な、なんでそんなことに。どうして嫌がってるのを・・・」
 怒りから悲しみの声に転じた加賀壬。彼女はシャッテンの行動に気づいてもいない。ただ、なんとか生け贄を回避しようと懸命に考えていた。しかし、その案は浮かばない。
 「どうしたら・・・」
 泣きそうな顔になる加賀壬。彼女の脳裏に一瞬山崎の顔が浮かんだ。その幻にすがりつきたくなる加賀壬。しかし。
 加賀壬は首を振ってそれに耐えた。山崎にすがってはいけない。今そうしたなら、ずっとそうしてしまう自分を加賀壬は知っていたから。
 「ぜ、絶対・・・認めない! そんなこと、絶対に・・・」
 加賀壬が再び燃え上がらせた怒りの言葉は、腕にかけられた小野村の手を感じて止まった。彼女は加賀壬から上体を起こし、その目を見つめた。
 「あの・・・。朝、駅前のタクシー乗り場の所で、雅君と一緒にいた人ですよね?」
 「え?」
 小野村を見つめ返す加賀壬。少し垂れ気味の目尻。愛らしい口元・・・。そういえば見たことがあるような・・・。加賀壬が悩んだのも無理からぬことだ。制服の印象が強かったこともあるし、ミヤビクンとやらにも覚えがないし。だが、なにより髪型が全然違うのだから。今朝まで小野村は三つ編みをお団子状に巻き上げていた長い髪の持ち主だった。しかし、彼女をもう中学に返すつもりのなかった桜井医師は、脳への直接投薬に邪魔な前髪を生え際で切り落としてしまったのだ。耳や首筋にかかる髪も全てばっさりと。ざんばらな、あまりに哀れな髪型になっていたのだ。哀れついでに、それに小野村はまだ気が付いていない。
 「あーーーーーーっ」
 やっと理解した。小野村の顔を思いっきり指さしてしまう加賀壬である。注:これは失礼なのでやめましょう。
 しかし、本当に失礼なのはその先だった。
 「夜のペットの子犬ちゃん!」
 ぼむっという音と共に、小野村はるかが耳まで赤くして瞬時に沸騰状態に突入した。朝の会話を思い出してしまったのだ。
 瞬間湯沸かし器と化した小野村に、大慌てで謝る加賀壬。
 「あ、ごめん、そんなつもりじゃ。あ、えっと候補生だよね、まだなんだよね味見・・・じゃなくって! 
 あぅぅ!」
 「あ、あじ・・・み・・・はふぅ・・・」
 この二人、そのまま放っておくと、世界が滅びたことだろう。それを止めたのは埋もれた通路からはっきりと聞こえた衝撃音だった。バウテカははっとしてシャッテンを封じた先に目を向けた。
 「ちくしょう、もう出てくるのか!」
 Ausf.XIが大きな天井からの落下物を爆砕すべく、機銃を使ったのだ。続いて防災シャッターに大穴が開いた。超振動ナイフが目にも留まらぬ早さでシャッターを切り裂いていく。そこからガラガラと瓦礫が振動で崩れてくる。バウテカは身を乗り出した無理な姿勢でブローニングを構えた。いくらフルメタルジャケットとはいえ、9mm弾でシャッテンに立ち向かうのは意味のない行為だ。しかし、優先目標にされれば、まずこっちを襲ってくる。切り札を使ってしまった以上、時間を稼ぐには、もうそれしかなかった。
 「まずい!」
 焦るつばさ。彼女は加賀壬を突き飛ばすように小野村に駆け寄ると、その腕を掴んだ。
 「だ、だめっ!」
 小野村の肩を引き留めようとした加賀壬の指は宙を掻いた。ほむらが体当たりしたのだ。
 小野村の腕がつばさによって漆黒の球体に伸ばされる。その瞬間、つばさは気づいた。姫巫女は腕を下げようとはしていないことに。球体に近づけようともしていないが、つばさに抵抗もしなかった。
 つばさは小野村の顔を見た。彼女は涙を溢れさせながら伸ばされた自分の手を見つめている。
 「ごめん」
 つばさのかすかな声。小野村は首を振ってから、しずくととっ組み合う加賀壬を振り返った。
 「ありがとう」
 加賀壬も、その上に馬乗りになっているほむらも、一瞬きょとん、として小野村を見返した。
 「今朝のお礼、言ってなかったから・・・。困ってたとこ、助けてくれて、ありがとう・・・」
 全てを諦めた悲しい瞳。頬を伝う涙。それでも小野村はるかは口元に笑みを浮かべた。
 加賀壬の表情が歪み、わななく口が開くより前に、小野村は漆黒の球体を振り返り、見上げ、そしてつぶやいた。
 「はい。ここにいます」
 <呼び声>に応えた瞬間、球体が瞬間移動したかと思うほどの速度で動き、姫巫女の左手に接触したところで止まった。びくんと彼女の全身に衝撃が走る。
 「だめーーーーーっ」
 加賀壬の絶叫。
 ハワードが左手に握るSIGは姫巫女の頭頂部に向けられている。その指に力が込められた。






 続く