<超かいき★くえすと>くえすたぁず

 

第三十話:加賀壬さん疾走す

 

von:秋澤 弘

第一章

 「あんた、また馬鹿やったそうね」
 開口一番のその言葉に、加賀壬はむっとなった。無言のまま手を伸ばす。その手に巾着袋を乗せるのは当校の誇る二代目マッドサイエンティスト、神宮司つばさ。
 ここはつばさの所属する1−Dの教室前。周囲の生徒たちが二人から距離を置き、ひそひそ話しをしている最中、加賀壬は巾着袋からフレアのユニットを取り出して確認した。
 「見た目同じっぽいけど。どこが新しいの?」
 「よく見なさいよ、まずカンデラだけどバブルレンズのセンタークロスが・・・」
 一瞬、嬉しげに説明しかけたつばさだったが、相手が誰であるのかを認識したようだ。
 「ふぅ、あんたに言ったって分かりゃしないわよね。まぁ動かしゃ分かるわよ。ふふふふふ。びっくりするわよ、ふっふっふ」
 口元に不気味な笑いを浮かべるつばさだが、その瞳は笑っていない。完全にこけにされているのを悟った加賀壬はすぐにフレアユニットを巾着袋に戻すと、くるっと振り向き自分の教室、1−Bに向かって歩き出した。背中に向けられる高笑いを無視して進む加賀壬の目の前で、開きっぱなしだった1−Cの扉から人影がぬっと現れた。怒りで気が散っていた彼女はあやうくその人物と衝突仕掛けたが、人影の方が彼女を避けて止まった。
 「あ、ごめん、加賀ちゃん」
 「あ、早川君、こっちこそごめん。ちょっと嫌な事あって・・・」
 早川は右手からまだ聞こえてくる高笑いに事態を認識したらしく、すぐに加賀壬の耳元に顔を近づけた。
 「ん〜、あんま気にしない方がいいって加賀ちゃん。教授の作る物は確かだからさぁ。作り手ははまぁ、アレだけど」
 「分かってる」
 そう言って、加賀壬は超常研の仲間である早川に頷いてから歩み去った。
 「今の、加賀壬?」
 後ろから聞こえた声に早川が振り向くと、そこには加賀壬の所属するアタックチームのリーダー、佐伯一磨が立っていた。
 「あ、うん。なんか教授とまたアレな状態になったみたいっすなぁ」と、苦笑を浮かべる早川。彼は先頃再結成されたアタックチーム、二代目勝城隊のメンバーだ。彼の言う教授とは言わずもがな、当校の誇るマッドサイエンティストの事。
 「な、なるほど・・・」
 ひきつった笑顔を浮かべる佐伯にも高笑いは聞こえていた。加賀壬と神宮司。この二人の仲の悪さは筋金入りだ。リーダーである佐伯にも手の施し様がない。その心中を察してか、背中を叩く早川。と、さらに別の手がぽん、と佐伯の肩に乗せられた。振り向く佐伯。いつの間に来たのか、そこには出来たばかりのアタックチーム皆瀬樹隊のメンバー、野田が立っていた。
 「ほっときなさいな。二人とも本当の敵が誰かくらい分かってるって。大丈夫よ、リーダーさん」
 「ま、まぁな。そうだよな」
 佐伯は苦笑を微笑に切り替えて見せた。
 野田絵美は彼らの最初のアタック時、壊滅した第三波にいた。中学時代、魔性の恐怖に怯え、高校入学と同時に戦いに身を投じたが初陣で傷つき入院。しかし、そこからまた仲間に戻った復帰組だ。全滅した経験の無い佐伯にとっては、ある意味尊敬に値する人物である。
 「仲間を信じるってやつ? それしかないよな」
 佐伯は微笑みをさらに笑顔に変え、右手を野田、左手を早川の肩に乗せた。
 「そゆこと〜〜」とおどける早川。
 その様子を横目で見ている一人の生徒。かつて彼らの輪の中にいた小島矢津希である。魔性と戦う恐怖よりも、何もできない自分を恥じて超常研を退会した小島は、教室の後方に集う三人と目を合わせることが出来なかった。


 1−Bの教室。自分の席に戻った加賀壬は巾着袋に目を向けた。うさぎさんの刺繍がかわいい手作り品。思わず微笑みが浮かぶ加賀壬。つばさの双子の姉、しずくが加賀壬のためにこしらえてくれたに違いないから。うさぎが眼鏡をかけているのもそのせいだろう。
 双子でどうしてああも人格違うかなぁ。そう想いながら加賀壬は袋を開けてみた。触った感触で分かっていたが、案の定袋の内側には衝撃緩和用に薄いウレタンが敷かれている。こういう細かい気遣いはしずくならではだ。
 フレアのユニットを出してみた。確かに、正面に付いているレンズが変わっている。つばさが作った以上動くのはまず間違いない。その認識は加賀壬には悔しいが事実である。しかし、輸送中に事故が起きている可能性はありうる。やはりテストはすぐしてみるべきだろう。今日は探索はないのだが、フレア受領の際にテストするかもと思いセンサーユニットとバッテリーは持ってきていた。ここ数回の探索でフレアMk.IVはさらに進化している。ヘルメット本体がなければ、文庫本サイズにまで小型化されたほど改良され持ち運びはらくちんである。
 接続して、スイッチを入れてみる。
 「おぉ」
 思わず声が出た。明らかに明るい。窓から入る夏の日差しに照らされた室内。その中でもくっきりと赤い光点が見えた。
 「おぉ〜〜」
 つい壁を照らして遊んでしまう。
 「おぉぉ〜〜〜」
 何事かと振り向くクラスメイト。と、加賀壬のお遊びはこづかれた頭の衝撃で一時中断した。
 「あほ、なにしとんねん」
 「いてぇぜ、しおやん・・・」
 顔を見ずとも声で分かる。加賀壬は鮎川に抗議の声を上げ、おおげさに頭をさすってみせたが再び光点を動かすのは止めない。
 「電池、もったいないぞ。やめときな」
 今度は鮎川の相方、開田だ。これも無視。
 「それは遊ぶ物じゃない」
 とどめは佐伯隊の仲間、山崎の声。
 うは、正論。
 加賀壬は首をすくめ、慌ててスイッチを切った。
 「うっひょ、山崎君の言うことしか聞こえない悪い耳はこれか! これか!」と、開田妹が加賀壬の両耳をぐいっと引っ張った。
 「いてっ、いてて〜〜」
 「あんたん耳は山崎君専用かい!」と同時に鮎川のつっこみも入る。
 「いやー、どっちかっていうとこいつの全身、山崎君専用希望で・・・」
 開田妹が言いかけた台詞に切れる加賀壬。
 「き〜〜〜〜ッ!! 誰が夜のペットだ〜〜〜〜!」
 加賀壬の爆弾発言で、今日もまた話題に事欠かない1−Bだった。



 
第二章

 町の人々から上厳位と呼ばれている真先賢中り厳源(まさきけんあたりげんげ)社。元々修験者の瞑想場があったといわれる山の頂上にあるため、そこに向かう長い階段でことに有名だ。近在一の宮でお正月に大賑わいになるのは当然。しかし、この数年魔性による被害が急増していることから、神を頼ってやってくる参拝者が平日でも多く見かけられる。
 社務所の一室で電話応対に懸命になっているのは前原照唯。照正が不在の今日は息子の照唯がここの責任者だ。弓道部主将鈴音の父であり、静音の叔父にあたる。若い頃は大変病弱であったが、病を克服してからは父照正の跡を継ぐべく、長年修業を続けた。今では社務のほとんどを彼が取り仕切っている。
 「はい、全てはつつがなく進行中です。それでは宜しく」
 本条総家への定時連絡をとっている間にも三本電話がかかってきたらしい。目の前におかれた三枚のメモ用紙に、ふぅと溜め息をついた照唯。
 事態が切迫しているため、今日の地鎮祭はこれまでの仕来りを無視して強行した。祭場の選択は地脈の位置から本条側が割り出して指定してきたのだが、急な協力を余儀なくされた祭場の持ち主からクレームが、そして我こそ祭場に相応しいと自認する地元の有力者からは脅しや恨み言が。彼らにとっては今回の地鎮祭も町内会での権力争いの一端にすぎないのだ。その本来の目的を語ることもできず、言い訳し続けねばならない。
 これからしばらく、これが続くのか。
 もう一度ついた溜め息は、先ほどのよりも深かった。
 彼は娘の鈴音が中学に入った頃、かれこれ五年前から業務のほとんどを任せられていた。父照正の副官というより、すでに代理である。父を名指しで来るお払いの依頼も権力者や昔から懇意の老人から来るが、ほとんどの社務は照唯に委ねられていた。しかし、それはあくまで表の事。裏にあたる魔性がらみの件は父がずっと担当していた。その裏の件に本格的に組み込まれたのは今月初めにあった慰霊旅行からだ。父照正がここを離れる以上、照唯が厳位を預かるのは当然だし、準備作業の拠点や連絡業務の中継点になるのもまた当然だった。そしてその折り、照正は自分が現場を取り仕切るから、お前がここを仕切れと照唯に語ったのだ。それはそのまま、照唯に裏の件も代理を任せるという意味。引退をほのめかされたという事だ。今朝、照正はこの地域各所で行われる地鎮祭の責任者として出立したが、その準備は照唯に任せられていた。それは大変な仕事であった。
 父の偉大さを改めて感じた照唯は三枚のメモ見て、ふと自分の姉弟を思った。神儀も拳術もよく成した姉、照代。神儀についてはからきしだったが、拳術にあっては若くして父を越えた弟、照兼。そして照唯自身は病弱であった事もあり神儀にのみ突出していた。照正の子供三人が力を合わせれば、父をも越える世代になったであろう。だが、血を分けた二人はもういない。偉大な父の力をそれぞれに分け合った二人なくして、自分一人で跡を継がねばならない事に、しばし動きを止めてメモを見つめる照唯。
 そこに四枚目のメモが追加された。
 「これ、内海さんとこのお婆さんからの伝言です。
 あ、そうそう、垣沼海苔店さんとことドットラワンさんとこ、先に垣沼さんの方がいいと思いますよ。なんか茎さんともめてるらしいですから。それ先に解決しちゃえばラワン家具店さんの方、簡単だと思いますので」
 「え? あ、あぁ、そうかね、ありがとう」
 メモ用紙を追加した青年は照唯が電話の件で悩んでるのだと思い、助言してから足早に去っていった。
 「そうだね、私が動かないと動き出さないのだよね」
 そうぽつりとつぶやき、電話を手にした。彼が助言をくれたように、みんなで助けあい、まとまって仕事を成す。そのためにはぼんやりしている時間などないのだ。海苔店へのコール音が鳴る中、ふと照唯は四枚になったメモに目をやった。そう、減るだけではない。増えもするのだ。高校三年の娘、鈴音は正階を得るべく大学の神職課程を目指している。同居している姪の静音は卒業後、二年制の神職養成所に進むことを考えていると言う。照唯が父から受け継いでそれで終わりではないのだ。それを次代に残さねばならない。
 「はい、いつも明るいノリノリ人生、垣沼海苔店でございます」
 耳に入る声に、正座している照唯は改めて背筋を伸ばし、繋がった電話に向かって口を開いた。


 環状地下鉄に併設される緑地計画地。その地下六階。完成後は零上川増水時の貯水フロアとなる巨大な空間に神詞が響いている。急ごしらえで用意された祭壇ではあるが、巨大な白幕に包まれた祭場には幾人もの白装束の男たちが立ち、それなりに厳かな空間を生み出していた。
 完成後は制御室になる張り出し部分から祭場を見おろしているのは、長い白髪を結ぶ神主姿の老人。真先賢中り厳源社の前原照正である。
 照正は人員の配置終了を報告する黒スーツの男に、うむと短く答えてからその場を立ち去った。まだ他に三カ所、回らねばならないからである。
 照正がエレべーターの奥に消えたのを確認してから、祭壇の前にいた祭主は立ち上がり、束の間ながらご神体となる鏡を取り出して祭壇に安置した。
 元の場所に祭主が戻り、いよいよ式が始まろうとしている。
 その場を天井から観察する男の目は高位の神官らしき老人の退場を見届けてから、再び周囲を見回した。その目には各所に配置されているガードマンの姿が見えていた。祭場のみを照らすこうこうとした灯火の外部、漆黒の闇に身を隠しているが、観察者の目にはしっかり見えていた。
 祭主は三十台後半とおぼしき、実に体格のいい大男だ。居並ぶ者も手練れを揃えたらしい。祭器として帯びている刀剣類も実戦向きのあつらえばかり。一段下がった場所に控えている者も、式典用と言うには無骨な槍や矛を手にしている。
 観察者はゆっくりと地下五階の点検抗に戻り、赤外線センサーを避けながら地上に戻った。
 工事車両が止まる駐車場。仕出し弁当屋のバンがその一角で停まっていた。バンで隠れた壁際のマンホールから観察者は身を乗り出し、周囲を確認してから地表に付き、待ち受けていた運転手と共にマンホールを元通りに直した。
 車内に戻ると、片手でハンドレストーキーセットを押さえたまま、ジョージ・ハワードが観察者に振り向いた。
 「おかえりなさい」
 「ここも違うな」
 リャン・バウテカはスライドドアを閉め、背負っていたバックパックをハーネスごと脱ぎ捨て、足下のバスケットにしまうと運転席に通じるインターホンに声を掛けた。
 「ポイントチャーリーはクリア、周囲がOKならポイントデルタに向かってくれ」
 「了解」
 インターホンを切り、擬装用の白衣を羽織る。だるま弁当と染め抜かれた白衣はハワードとお揃いだ。バウテカが懇意にしている日本人の支度屋が用意したものだが、仕出し弁当屋のバンには「だるま弁当」と書いてあるのが日本の常識らしい。真っ赤な張り子人形の絵がバンの側面に大きく描いてあるのを目立つと感じたハワードだったが、支度屋が大威張りでそう言い切ったのでバウテカが承諾したのだ。
 「ライナは文字どうり<影>も無し。神官共が工事の無事故を祈願する式典やってたよ」
 「ミサキはいました?」というハワードの声に頷き、壁に固定された形ばかりのシートに腰を下ろした。
 「ガードマンの中にミサキの戦闘服の女が二人混じってた。祭壇の奥にそこだけ空気の臭いが違う場所があってな、場を封印してるところらしい。
 戦闘の気配はなし。殺気もな」
 エンジンが始動し、人目を引かぬ様に車がゆっくりと発進した。
 「ポイントデルタはルファン・シーレラ会の経営する病院でしたね。そこもあなたが?」
 「無論。俺は自分の目で見ないと気がすまない性分でな」とバウテカはシートの脇に縛ってあるバックから次のポイントのマップを取り出した。
 「おかげで未だに最前線配備さ」
 その言い訳の裏にある真意をジョージは悟っていたが、口には出さなかった。バウテカは最前線に身を置かなくてはならないのだ。「仇」と再会するその日まで。
 「えぇ、あなたが行くのが確実だとは思いますけど。でも病院ですよ。偽装もなく、あの格好で侵入するというのは・・・。まさかこれで行く気じゃないでしょうね?」
 そう言って白い上っ張りを引っ張る。ハワードの目からすると「白衣」だが、医者の物と日本の配膳屋の物とでは違う事くらいは理解している。日本でも医師の背中に赤い張り子人形の絵はないはずだ。
 「それに病院に堂々と入るには、あなたは目立つのでは?」
 「ポイントデルタは病院の裏手にある、隔離病棟の地下だ。排水溝から潜入する」
 「排水溝ですか。病院くらいは私が代わりに出ようかとも思ったのですが。生憎ネズミは苦手でしてねぇ」
 そう言って、いつものごとく大げさにお手上げのポーズを取るハワード。片耳に押し付けたヘッドフォンを肩で器用に挟みながら。
 「意外にかわいいぞ。きーきー煩いがな。今度紹介してやろう」
 「黒髪のスレンダーな子を。ヤナギゴシがいいですねぇ、折角日本に来たんですから」
 呆れ顔になったのは今度はバウテカの方だった。ジョージ・ハワード。凄腕のエージェントだが、冗談は下手だ。そうバウテカは思った。


 昭和通りを南下する車の遙か上方。昨夜からの曇天がまだ残る空。雲を挟んだ上空で旋回を続けているのは中型のビジネス機だった。本条精機の所有する白の貴婦人、移動司令室A75だ。そのナンバーから往年の名機ステアマンの名前が冠されていた。
 スーツ姿でシートに座り、通信ヘッドセットに語りかけているのは本条総家、革新派の指導者たる本条百合恵。
 日本人形の様にまっすぐに切り揃えた前髪。細く、切れ長の目に同じく細く鋭い眉。対面式のシートに腰掛け、先ほどからその視線を受け止めている小堺常務は、既に真っ青になっている。
 「では大嶋、<影>の件はそのまま継続、青寺にチーム16の分裂について最優先で調査させなさい。東郷セキュリティからの報告も青寺に限り開示を許可します。早急の報告を待ちます。以上です」
 本条会館の執務室で情報の交通整理に躍起になっている担当重役、大嶋への指示を終え、百合恵の指は簡易テーブルの上にあるキーボードを走り、次の通話先をコマンドした。
 「こちらステアマン。本条です。一ノ戸チームからの報告、読みました。在校生を出さずに済みそうにありませんね」
 「折角初期段階で抑えてたのにな」
 イヤホンから流れる声は超常研の創設者で前会長、通称殿下である。彼はいつもたむろしている喫茶店で四人のOBと共に情報を集めていたのだ。
 「さすがに竜脈暴れたら、魔性も一気に出てくるぞ。魔性共に結界を張られたらやばい。地下も地震が危険だが脱出路は確保できるだろう。結界で脱出路が絶たれる可能性がある以上、一番危険になるのはあの五校だ。校内活動なら超常研の出動もやむを得まい」
 今年卒業した元地学部の一ノ戸享からの報告では旧地脈が活性化し、暴走した場合、その本、支流上にある五校で霊障が発生する予想がなされていた。魔王の学校侵略は幾つかのステップに別れるが、そのスタート初期の段階で出現しかけたゲートを封じ安全を確保していたはずの学校である。殿下の作った封印呪符や美咲の術で封じてあるのだが、竜脈程の高い霊圧の前にはその効果は消失間違いない。
 「けどな本条、今はあいつらの代だ。決めるのはあいつらだ。美咲としてもまず大事からかかるだろう。超常研の方は俺等の代で情報収集と魔性の早期発見をサポートする。だが・・・」
 「決定は現会長が行う、ですね」
 「うむ。五校の校長に打診したな?」
 「既に。幸い、全て以前超常研によって危機を救われた経験者です。全面的な協力が得られました。その時が来たら、即座に人命救助要請を出す手筈になっています。また校長と連絡が取れない非常事態になった際、三旗セキュリティーサービスが独自で校内の人命救助に動く様依頼した書類にも署名をもらいました」
 「ん。こうなると頼みは精進だな。生徒に被害が出てからじゃ遅い。魔性出現を一瞬でも早く感知してくれる事を祈ろう。
 精進チーム自体の安全圏移動はさっき終了した」
 「黒田からも先ほど報告がありました。<くみちゃん3号>は我々の目です。警備員増員も行ないました」
 「OK」
 殿下は今語り合うべき事が済んだと知ると、挨拶もなく通話を切った。そしてその間に到着した相棒、美雪に呆れ顔を向ける。
 「なんだその格好は・・・」
 薄紫色の事務服でやってきた仲田野美雪はカウンターの奥にいるマスターにアイスコーヒーを二つ頼むと、スポーティなデニム姿で座る相羽幸の隣に腰掛けた。
 「おひさ、相羽ちゃん」
 「なに、仕事休めなかったの?」
 「そそ。書類あってさ、午前中指定の。んでちゃちゃっとやって、着替えんのもめんどいからそのまんま早退した」
 実際には係長の工藤に押し付けて、である。脅迫して、とも言う。
 「それ、着替えじゃないの?」と言う相羽の目は美雪が持ってきた大きなバッグに向いていた。
 「んだんだ。でもさ、まずは涼ませてよ。茹だるかと思ったわ。実際遠すぎだよここ」
 仲田野は丸の内にある商社でこの春からOLをしている。一方の相羽は地元就職組だが、運動能力を買われ企業のバレーボールチームに所属している。普通の業務もこなしつつ、チーム活動もしている相羽の方が忙しい。しかし、早くも有力選手と見込まれている彼女、日曜をトレーニングに充てるための休日シフト申請はほぼ素通りだった。
 在校中、女子バレー部のエースだった相羽幸は超常研助っ人三羽ガラスの一人だった。超常研のOBではないのだが、手勢を揃えるために連絡の付く者全員に呼集がかかっていたのである。
 「さっさと着替えてこい、美雪。たるんでるぞ」
 殿下の不満げな声。しかし、美雪は斜め前に座る殿下を軽く一瞥しただけだ。コンビを組んでもう二年。殿下の表情で敵がまだ姿を現していないのはバレバレだったのだ。それがまた殿下を不機嫌にしたが、間もなく運ばれてくるアイスコーヒーを二杯、続けて飲めばすぐ着替えるだろうと予測もしていた。そこでそれ以上突っ込むのを止め、無線で精進を呼び出し、元発電機、現在は魔性発見器となっている<くみちゃん>の起動状況を確認することにした。
 殿下と美雪。長年連れ添った夫婦並の相互理解であった。

 街の中心からすこし北に外れたあたり。新旧竜脈の間に挟まれてはいるが、支流が脇にあるため、街中で最も安全と香土岐が判断した地域だ。再開発の進むその一角に本条家の下部組織、一条重機の所有するビルがあった。精進等スタッフはぶち抜きでワンフロア会議室になっているその二階に陣取り、<くみちゃん3号>の稼働状況を確認していた。
 魔性の発する波動は実に特殊であり、電波とは全く異質な存在である。実際に何かを振動させているのではないらしい。それを受けた物体にひずみをもたらす物だと精進は言っていたが。
 それをキャッチする<くみちゃん>シリーズは多種存在していた。精進が思いつくままに改造したり、作り直した結果である。混沌の産物とも言えるほど、その数は多い。しかし、今現在、稼働するものは三機だけだ。そのうち、最初の試作機は母校の講堂にある。というか、講堂の地下全体がそのまま装置である。しかし、あくまで試作品。精度も低く、エネルギー効率もすこぶる悪い。その分、パワーだけは無駄にあるのだが、近距離での魔性の出現にしか反応しない。精度的に使えるのは精進の研究施設に設置してある3号Ver.4系と、今ここに配置された移動用の新型Ver.5の二機だ。今回は魔性の出現地点が竜脈に沿い、他では発生しない事が予想されていたので、一機のみが運用されることになっていた。
 このビルは安全な場所で、なおかつ出現予想地点全域を感知範囲内に納めるにベストな場所だった。幸い、もともと機密漏洩対策もばっちりで、地磁気の影響も抑えられる。自家発電も実用十分だし、建物も堅牢。居住性は研究室とは段違いだ。さすがは建築業でも名高い一条の施設であった。
 「いやぁ、こ、ここ、いいねぇ」とご満悦なのは<くみちゃん>シリーズの開発者、精進徹である。だぶだぶで染みだらけの白衣。その胸ポケットには黒赤青緑と各色のボールペンが差されているが、キャップを無くしたのか、緑のインクがポケット底の布地に染み出ていた。他にも浮かんだアイディアを殴り書きしたらしいメモが無造作に放り込んであった。その服装だけ見てもすっかりマッドサイエンティスト。しかし、ぼさぼさ髪の顔の半分は占めそうな、ばかでかい牛乳瓶底メガネがその印象を強大に増していた。
 「湿度もいいし、涼しいなぁ。や、やはり精密機械にはね、お、温度管理と湿度管理、大事なんだよ」
 そう言い、にま〜〜〜っという笑いを浮かべた。丁度外付けHDの取り付けを終え、運悪く精進の隣で立ち上がったスタッフ、来須に向けて、だった。真っ青になって引きつった顔で、上半身だけでもなんとか精進から離れようとのけぞる来須。それほど精進の笑顔はインパクト大だった。
 来須は親友であり、いつもはコンビを組んでいる谷を心底羨ましく思った。谷は研究所で留守番なのだ。
 来須の危機を救ったのは精進の助手兼秘書役、高校時代からの相方、香坂麻紀だった。
 「室長! 殿下会長から外線です」
 渡された子機を手に、精進はまず周囲を確認した。さすがに長いつきあいだ、開口一番、殿下の声が何なのかは分かっていたのだから。状況を今一度確認してから子機を耳に付ける。
 「し、しょ、し・・・」と、精進が名乗るのに手間取っている内に、殿下が話し出した。
 「何か問題はないか?」
 「あ、あぁ、大丈夫だよ、山口く、君。測定範囲は全域入ってるし、精度もりろ、り、理論値に誤差コンマ2だけだ。僅差だよ、許容範囲内だ。
 な、なにしろ今回は、発見する波動が限定されてるか、からね、か、か、必ず出現前に、反応できるよ」
 「おっけぇだ」
 その声を聞き、電話が切られると悟った精進は慌てて声を掛けた。
 「あ、あ、あと・・・」
 「ん?」
 殿下が通話を切りかけて止めたのを知り、ほっと安堵して精進が話し出した。
 「あ、あのね、ね、ねん、ね・・・」
 焦って話しかけたのでいつもの三倍はどもりが激しい精進。香坂が右手を伸ばしたのを見て、その手に子機を渡してふぅ、と息を吐いた。
 「お電話代わりました、香坂です。
 念のため、研究所にあるVer.455を全波動域に設定し、稼働させたいのですが宜しいでしょうか」
 「んー、早期発見上、問題ないならそっちに任せる。餅は餅屋ってやつだ。でも、それだと南半分しかカバーできないんじゃなかったか、確か」
 「ソフト的に解析度が上がってますので、中心部まで伸びています。さらに美咲の家まで確定範囲に入れるべく、昭和高校にある試作機も稼働させ、Ver.455にブーストさせようかと。ハード的には電源供給の並列強化、ソフト的には連立波動式を書き換えるだけですので。それで危険想定地域全域での、突発的な魔性発生を二重に感知できます。ソフトの方は以前作った物が転用できる事が分かりましたので、すぐに実行できるのです。
 そこで会長の方から近藤生徒会長に、うちのスタッフが校内に入る許可申請をお願いしたいのですが。既に電源車で向かっていますので、15分後には到着するかと」
 「んー・・・15分だと授業中だな。わかった、校長に頼んでおく。
 香坂、念のために聞くが・・・。それで講堂ふっ飛んだりしないだろうな」
 香坂はちらりと精進を見た。哀れ来須。再び精進の餌食になっている。だが、そのおかげで精進の耳には会話は入っていない。
 「室長はこちらに専念なさっていますので。高校には科学部の佐倉井部長・・・いえ、元部長のチームが移動中です。元々、試作機の製作もあのチームですので、理論学者の我々より準備早い上に確実ですから。実際の連立波動式測定ブースト開始時には私が行って指揮する予定です。既にここでの仕事は終了しており、Ver.52はお任せできますので」
 意訳:精進が行かないから安全。
 「了解。さすがに今回ほど規模のでかい霊障は初めてだ。お前らも思いつく限りやってみてくれ。た・だ・し! 精進には任せるなよ。お前の拒絶は俺様の拒絶だと言って止めろ。いいな、精進との連絡は密に。お前がそこを離れても、精進には任せるな! 天が許しても、俺が許さん!
 グッドラック!」
 今度こそ殿下は通話を切った。


第三章

 周りの光景がぐんにゃりと歪んで見える。その光景自体、映画の様に違う場所に移動している。コマ切れのシーンを見ているようだ。自分で歩いているのではない。体は鉛の様に重く微動だにしない。今、視界一杯に見える天井がどんどん移動している。横たわったまま、廊下を進んでいるようだ。
 ぱっと光景が変わった。視界の端で金属製の大扉が開くのが見える。黄色で縁取りされた扉。彼女はそれが寮母室の隣にある、地下シェルターの入り口だと気づいた。災害時、学校生徒を保護するための設備であり、普段は施錠され、寮生でも立ち入りできない。その中に自分が入っていくのが分かった。また光景が切り替わった。今度は椅子に座っているようだ。何人かの人影が周囲にいるが、その数すら分からない。音がしていた。獣の叫びのような、早口の外国語の様な。音はどんどん脳を浸食していく。まるで耳からおぞましい虫がはいずり込むような感覚。悲鳴を上げたくとも、口も開かない。
 ぬっと腕が伸びてきて、彼女の左腕を掴んだ。払いのけようとするが指一本動かない。光を反射する何かが押し付けられた。注射器だ。そう分かった時、あたりは真っ暗になった。
 別の場所だろうか。もう体同様、意識も自由にならない。心まで泥にびっしり埋もれているかのように。感覚はない。音も聞こえない。何も分からない中、たった一つだけ彼女が知っていることがあった。
 嫌だ、絶対に嫌だ。
 何が嫌なのかは分からないが、この先、自分を待つなにかが嫌だった。
 助けて!

 その時、目が覚めた。
 昼休みの教室。ぼんやりとした目で辺りを見る。周囲にはいつもどうりの光景が展開されていた。ふぅ。安堵の溜め息。
 汗で気持ちが悪い。震える手でハンカチを出し額の汗をぬぐう小野村はるかは自分が泣いていることに気がついた。涙を拭き、ハンカチをポケットに戻そうとした時、それに目が行った。
 左腕。肘の内側。そこにポツンとある幾つかの点。触ってみる。少し膨らんでいるようだ。蚊に刺されたようなその跡。
 注射!?
 ぎょっとして、思わず立ち上がってしまった。そのまま教室を飛び出しトイレに向かった。
 しかし、トイレはすごく込んでいた。時計を見る。昼食抜きなら寮に戻れる。それを理解するとすぐに走り出した。下駄箱で靴を履き替え、寮のある裏庭に駆けていく。
 幸いうるさい教職員に捕まることもなく、小野村はさくら寮に着いた。白っぽいピンクで壁面が塗られた寮はしんと静まりかえっている。ここは洋式なので靴の汚れを軽くマットで落とし、そのまま上がった。とにかく一人になりたかった小野村は静かな寮に入り、ほっと一息ついた。走ったので息が
上がっているし胸も苦しいが、それも気にならないほど静けさが嬉しかった。
 この時間ではシャワーを浴びるわけにもいかない。タオルで汗を拭いて、下着を替えて・・・。自室のある二階に向かいながら、小野村の思考はそこで不意に停止した。
 寮。シェルター・・・
 全身が汗をかくのが分かった。走って出ていた汗とは全く違う、冷たい汗。
 びくびくと怯えながら左の通路を見る。その奥にあの扉がある。ふらつく足が持ち上がり、左に体の向きを変えた。一歩、一歩。進んでいく。
 立ち入り禁止と書かれた大扉。その目の前に来て、はるかは安堵から全身の力が抜けるのを感じた。いつもどうりの扉だ。何も変わってはいない。
 ぺたんと尻餅をつき、扉を見上げる。
 睡眠不足なんだ。そう小野村は思った。予想以上に精神に負担が来ている。恩人である真志佐さんは学園の理事の一人。自分の状況はすぐに報告されてしまうだろう。なんとかしなくちゃ。これ以上迷惑をかけるわけにも・・・。病院で桜井先生に相談してみよう。薬、変えて貰おう。そう決めると、少し気が楽になった。
 昼休み終了も近いはずだ。はるかは右手で上体を支え、立ち上がろうとした。その時、それに気が付いた。
 毎朝当番がしっかりと掃除している床。そこにかすかな凹凸があった。それを感じた右手でなぞってみる。それは数本の筋。頭を下げて横から見ると、なんとなく傷が、いや凹みがあるのが分かった。ほんのかすかな跡。それは廊下からシェルターの扉の中に向かって・・・

 駆けてゆく天井。仰向けに寝ている自分。ストレッチャーで運ばれている自分。シェルターの中に運び込まれる自分。

 絶叫。
 窓側の壁にへたりこむように後ずさる。一声叫んだ後、喉は涸れてしまったかの様に何の音も出ない。両目を見開き、両手で頭を抑える。何か、自分の中から何かが飛び出すような感触。あたり一面に血をまき散らし、爆散する様な恐怖。体が動かない。閉じることもできない目が痛い。髪をかきむしる痛み。でも、そうしている自分の手は止まらない。
 その時、扉に振動が走った。開く。そう悟った小野村は必死に立ち上がり、玄関に向かって走ろうとした。だが、立ち上がりかけたところでもう動けなくなっていた。
 扉が開く。
 「ここで何をしているのですか!」
 怒声。開きかけた扉の奥に数名の人が見えた。向こう側は煌々と灯りに照らされており、人の顔ははっきりと見えた。寮母、石倉先生、穂甲斐先生、そして白衣の男。シーレラ病院の桜井先生だった。
 「あ・・・あ・・・」
 声が出ない。次の瞬間、小野村は寮母に両腕を押さえつけられた。その肩越しに見える穂甲斐先生の歪んだ表情。持っていた黒鞄を開く桜井先生。
 思い出した。
 あれは夢ではない。毎夜の様に行われていた事。薬で忘れさせられていた事。
 「いやーーーー! いや、いやぁぁぁ」
 やにわに暴れ出す小野村。しかし、寮母に石倉先生までがその体にしがみつき、簡単に床に押さえつけられてしまう。口がふさがれ、左腕が押さえられ・・・。
 注射器とアンプルを手に桜井先生が屈み込んできた。無表情のまま。患者を見る目ではない。実験動物を見るようなその目。

 嫌だ、あれは嫌だ、嫌だ!

 小野村の意識は途切れた。


第四章

 「遅い・・・」
 だるま弁当と大書きされたバンの中で。ジョージ・ハワードは時計を睨んだ。左手を上げ、ガルコのタクティカル・ホルスターに刺さったSIGのグリップに触れる。
 さらに五分待ち、ハワードはバスケットに固定しておいたゼロ・ハリバートンからオフ用のベレッタを取り出した。隠蔽性を重視する彼の商売上、シングルカーラムのM85なので弾数は心許ないが、あくまでメインはSIGだ。予備には十分だろう。インナーパンツのホルスターに突っ込み、腰の後ろに固定した。
 運転席に通じるインターホンを押そうとした時、ヘッドホンから雑音が響いた。
 「こちらネズミ狩り。聞こえるか?」
 「良好」
 そう短く答えたハワードは些細な音も聞きのがすまいと耳を澄ました。かすかに響く機械音。雑音にかき消される頻度からしてかなりの地下か、厚い壁の向こうだろう。
 「進入路は分かるな? 30分後、マップ2、二番目のT字で落ち合おう」
 「了解」
 これまた短く答えたハワードはヘッドセットを外した。


 暗く狭い水路。鼻を突く刺激臭はないものの、かといって花のようにかぐわしいはずもなし。時間通りにやってきたバウテカは特に敏感な鼻の持ち主だが、既に慣れていた。一方侵入したばかりのハワードは大げさに鼻をつまんでみせた。
 「あまりに遅いから、べっぴんさんに大歓迎されてるのかと思いましたよ」
 鼻をつまんでいるおかげでちと妙な発音だ。
 「まぁな。ここはビンゴだ。なかなかのぺっぴんだぜ。結構な警備体制で特に地下一、二階はかなりの火力を揃えてる。兵隊はショットガンにSMG装備、分隊支援火器の銃座まで作ってある。ここが日本だって事忘れるくらいの装備だぜ。
 ただ慌てて体勢整えたらしくてな、あちこち監視に穴がある。その分、兵隊を巡回させててな、それを避けるのに手間どっちまったのさ。巡回もランダム変更してるし、マナ・トラッップらしい苔まで配置してある。ここはスペル・キャスターにはつらいぞ。ま、俺には意味ない警備だがな」
 「で? 黒髪のヤナギゴシはいましたか?」
 「いろいろ揃えてきたぜ。お気に入りが一人はいるんじゃないか?」
 バウテカはハーネスに止めてあったデジカメを手にしてビューワー側にスイッチを入れる。肩越しにハワードが覗き込む形でスライドショーが始まった。
 白一色の室内。無数の薬品庫。調合台。手術台。様々な臓器の収まったケース。次々と現れる光景。
 「なかなか趣味の良い病院のようで・・・」
 そう言いかけたジョージは、今現れた写真に息を飲んだ。薬品庫の中で一番がっしりした物の中をガラス越しに接写したものだ。リャン・バウテカには薬品の知識はなかったが、警報装置が他より念入りだったので、何かの手がかりになるかと大写ししておいた物の一枚。バウテカはハワードの反応を知り、そこで手を止めた。
 「べっぴんだろ?」
 「なるほど・・・」
 「今なら特別に50香港ドルで焼き増ししてやるぜ。必要な枚数を裏に書き込んでおいてくれや」
 「実物が手に入るのなら、その百万倍出しそうなところ、知ってますよ」
 ハワードが頷いたのを見て、残りの写真を映し出していく。しばらく後の写真にもハワードは強い興味を示した。これまた何に使うのか分からない革製の拘束具に似た物。二本の細い針が出っ張っている裏側を接写したものだ。
 「針治療には中華の血が騒ぐのか?」
 「治療ならいいのですけどね。これは勘弁してほしいです。前頭葉に直接注射するための補助具ですよ」
 「あぁ? なんだって?」
 「頭蓋骨の隙間に刺すんですよ。ライナが昔やったID4計画、もうとっくに破棄されたと思ってましたが、その後継者がいたんですねぇ」
 全ての写真を見た後で、バウテカがライトを肩のストラップに固定し、なぐり書いた地図をハワードに見せた。彼が興味を示した物がある部屋をピックアップし、経路を組み上げ、二人は地下の研究施設に忍び込んだ。
 目的地である地下四階はまるで廃棄されたかのように人気がなかった。掃除や保管管理はされているようだが、設備もほとんどビニールシートが掛けられたままの状態だ。既にバウテカが監視体制を把握していたらしく、二人の潜入はすんなりと進んだ。急遽警備を強化したのだろう、熱源探知、音響探知など、探知機系をあちこちに配置してあったのだが、バウテカの感知能力はその全ての効果範囲を知覚できたのだ。
 ハワードが一番見たがっていた薬品庫は三重の警備装置が働いていたが、これもバウテカの目と耳がその全てを掌握していた。これは彼に解除できなかったのだが、警報装置の詳細を聞いたハワードは手際よく全てを眠らせ、ケースは難なく扉を開いた。
 ハワードはそこから三種類の瓶を選び出し、用意していたスポイト状の試薬入れに薬品をほんの少しづつ吸入した。その後で、一旦機械室に入った。
 「で、さっきのは一体なんだんだ?」
 周囲に警戒を怠らぬまま問いかけるバウテカ。その手にはどこから調達したのかブローニングが握られている。
 「ID4計画の一つ、スリーピングビューティーと呼ばれていたもので使用されていたお薬ですよ。まぁ、何というのか。人の第六感を強化するって、実にうさんくさい薬です。披検体があっちの世界に行っちゃって、帰ってこない者続出で、破棄されたと聞いていたんですけどね」
 ハワードは機械室にあった制御板を開け、中の配線をいじっている。
 「長いこと使ってないって感じだな、ここは」
 「そうですね。二年ってところですかね。設備からの推測ですが。スリーピングビューティープランが廃棄された後も稼働していたのは間違いないですねぇ。こっそりと継続してたんでしょう」
 「でも、また廃棄されたみたいだな」
 「それはどうでしょうか。施設はいつでも復帰できるように調整してあります。薬品も日付が新しい。調合し直してるのでしょう。おそらくここは予備施設ですね。過去には本格的に稼働していたようなので、二年前にどこかに移転し、ここは予備に維持してある。そんなところですね。
 ま、すぐに分かります」
 ハワードは配線を確認しながらそう自信ありげに告げた。情報収集は彼に任せ、警戒を続けるバウテカが、根本的な疑問を口にした。
 「で、ID4ってのは何だ? まさかSF映画じゃないだろうな」
 「PBが主演のあれですか? 残念ながら違います。話すと長くなるんですけど。
 えっと、進化なんですが。進化は偶発的に行なわれ自然淘汰されるっていうダーウィン式の進化論と、当初から予定されて組み込まれてたって意思論の二種あるの、ご存じです?
 ライナは宗教団体じゃないので、神の意思で人間が生まれたって説には否定的なんですが。人間がさらに進化する設計図は既に遺伝子に組み込まれてるって説には以前からご執心でしてね。
 つまり、ある特定の条件を付加すると、人間はさらに進化するって説なんですよ」
 「外的要因で偶然に頼った進化をするのではなく、外的刺激で内的要因が目覚めるってことか?」
 「よくできました。で、それを目覚めさせる方法を四つ考案し、試験したってわけです。超人類様にご生誕いただくためにね」
 「何だ、シャオツェンはそういうのはお気に召さないって言い方だな」
 ハワードは背中に背負っていたバッグからパームパットのような小型端末を取り出し、あちこちに端子をつけてゆく。その作業の中で、肩をすくめる様を演じたのはさすがだ。
 「一体全体、誰が自分を類人猿に落としたいんです?」
 「ま、たしかにな。で、どんな計画だったんだ?」
 「プランAは細胞レベルをターゲットにしたものです。老化抑制も視野に入れていた、実に俗物的プラン。一番堅実なはずだったんですけどね、隠されたDNAの解析が進まず座礁。後の研究で、全く無意味だったと判明しましたよ。
 プランBは一番長期的に立てられた計画です。劣性遺伝を意図的に繰り替えし、人間の設計図の裏面に隠された、次の進化を引き出すもの。受精卵を速効で受胎可能な段階まで成長させ、兄弟姉妹間で受精させ劣性遺伝を繰り返すって、ちょっと表には出せない実験でした。なにしろ人間使いますからね。しかし、これも途中段階、二世代目で予定していた遺伝子をどうやっても表層化させることができず、座礁。
 プランCは脳の完全解析を目指しました。遺伝子上で圧縮されてる設計図は、脳に解凍されて記載されてるって考えですね。で、部分部分を切り出してはデジタル式の造り物に置き換えていくって方法でした。当然頭蓋骨には収まらないので、部屋一個分というものになったそうですが。しかし、大きくなりすぎて、処理速度が遅くなった。結果、当時の技術では進化どころか退化しちゃったので座礁。しかし、この時に得た技術は今のライナ・テックに大きく貢献しています。最新型シャドウの人と見まごうばかりの自律行動もこの実験あったればこそ、ですよ。
 最後のプランDは薬品投与によって、成長過程で進化させるという計画でした。ドーピングなんかじゃないですよ。二次性徴とかあるでしょ、DNAに書かれたその設計図を薬で操作して、隠された能力を同時に目覚めさせようってアイディアでした。結果うまい組み合わせを発見できず座礁。でもこの方法の応用でナイスバディの女性や、胸毛ばっちり胸板ぶ厚い種馬男とかに二次性徴させる技術は完成しました。
 ま、プランBとDを合わせると、外見お好みでカスタマイズした生きたダッチワイフを3年でお手元に、ってことで。さらに今ならプランCの成果で脳まで作り物にできます。簡単な行動のみで限定された数の命令しか実行できませんが、ダッチワイフにはそれで十分らしいです。ライナの裏財布をかなり潤したらしいですよ。じつは上海の施設はこれを作ってたんじゃないかって説もありましてね」
 「副収入にはなったが、進化促進の面では全部失敗か。で、廃案、と」
 「いえ、一回統合して再実行されたんですけどね。プランCとDを合わせて、脳に直接刺激を与える方法で。それがスリーピングビューティーです。まぁ、この方法が実用的だったってことでしょう。でもその成果は予想とはほど遠かった。能力を上げることはできたんですけどね、意識が戻ってこなかったんですよ。驚異的な肉体を有する植物人間が一杯できちゃった。ま、人間をロボット兵器化するにはいい方法だったんですけどね。その時使われたのがさっきのお薬。バイオレット・ネクターと呼ばれてました。しかもさっきのはその原液。あれだけあればかなりの人をあっちに行っちゃったままにできますよ。
 まぁ、最終的には人をいじるより、電子式に人を造る方が量産性、効率性が高いという結論に達しました。一体一体の歩留まり、安定性もね。以後、生体兵器から、電子式一部生体兵器の開発に方向転換したわけです」
 「クローン犬やイルカの脳みそ使ったってXMPシリーズは? あれがライナのメインコースじゃなかったのか?」
 「あれの構想は70年代ですよ。実用化に時間かかったってだけで。今のはその後の話しです」
 説明をしながらの作業で、ハワードは必要な仕事を終えたようだ。配線を元に戻し、制御板を手際よく直した。
 「さて、これでOKです。こんな過去の亡霊が住んでる様なとこ、さっさとおさらばしましょ」
 頷いたバウテカは脱出用の経路に先導しだした。しかし、一階上、地下三階に登った時、階段の脇に身を寄せ、そのまま動かなくなった。踊り場にいたハワードはそれまでとは様子が違うバウテカに怪訝そうな色を瞳を浮かべながらも、SIGを握りしめ、下方に警戒を集中した。
 バウテカは小さく、ゆっくりとした口調で状況を説明した。
 「どうやらお客さんだな。他に歩いてる巡回員とは構成が違う。五人だ。男四人に女一人。ハイヒール履いた男でなけりゃ、だがな。男二人はかなりの軍事訓練を受けたプロだ。片足の音が重い。アサルトライフルかSMP肩に下げてるな。残りは素人だ。足音は軽い。武装はあっても拳銃程度だな」
 そうひっそりと告げるバウテカはその場を動かない。耳を澄ますハワードだが、いくら諜報員として訓練されていても特殊な感知能力があるわけではない。試しに壁に耳を付けてみたが足下から機械音がし、空調の音が響くだけで、足音など聞こえなかった。
 「室内に入ったぞ。一階上の3ブロック先だ。警備が厳しい辺りだな。残念だが、ちと覗いてみるのには無理がある」
 「B2の3ブロック先、ですか。それじゃ聞こえるわけありませんなぁ。
 さて、そうですね・・・。あなたの耳で話しも聞き取れないのから、盗聴はさっきの枝に任せておいて。となると・・・尾行ですね」
 「同感だ。さっきのお客さんはどうやらVIPらしい。警備員がかなり増えてるぞ。東の突き当たり、また4人、プロがエレベーターから出てきた。急いだ方がよさそうだ」
 二人は予定コースに従って地上に上がっていった。


 休憩室代わりに使用している小部屋に入ると、桜井医師はコーヒーのサーバーにまっすぐ向かった。同行していた保安要員二名は扉の左右に立ち、休めの姿勢になって動かない。残りの二人はソファに腰を下ろし、黙って桜井を見つめている。桜中の教師、穂甲斐成美とルファン・シーレラ医療会の日本担当理事、Dr.ハルフェフ・ラージェスだ。二人とも、その肩書きは表向きのものだったが。
 テーブルに紙カップを三個置き、桜井は居心地悪そうにソファに腰を下ろす。
 誰もコーヒーに手を伸ばす事もなく、黙した時間がしばし流れた。
 「で、<門の開き手>の容態は?」
 話を切りだしたのはラージェスである。歳の頃は50ほど。スーツ姿で貫禄漂う男だ。彼の言葉は英語だったが、門の開き手という単語は流暢な日本語。ライナグループからの裏金でシーレラ医療会が日本に進出すると決まった頃から彼は日本に赴任していたのだ。もうかれこれ十年になる。
 桜井はひきつった顔を上げ、質問に答えようと口を開いた。
 「精神崩壊を防ぐため、深い昏睡状態においてあります。そ、その、少しばかり調整に時間がかかりますが・・・。
 計画自体に支障はないか・・・と」
 その言葉を聞き、穂甲斐が冷たい視線を送ったが口は開かなかった。
 「<門の繋ぎ手>の二の舞になる可能性は?」
 ラージェスの言葉に、桜井の握った拳がひきつる。
 「と、投薬でなんとかできると・・・」
 焦る桜井を無視して穂甲斐が立ち上がり、コーヒーサーバーの隣にある茶筒と急須を手にした。
 「可能性は?」
 ラージェスに再度問われ、桜井はごくりと唾を飲み込んでから、喉にからみつくように声を出した。
 「五分五分です」
 「原因は?」と、次の質問がすかさず飛んだ。
 「た、耐性が付いたとは思えません。投薬量は予定通りに純度を増やしてましたし。脳の活性化も予定通りでした」
 「不明、だと?」
 桜井からの返事は無い。代わりに口を開いたのは湯飲み茶碗を手に戻った穂甲斐だった。
 「催眠時の記憶が戻ったのは全くの想定外だったね。可能性があるのは外的要因じゃないか? 門に関する可能性が高いね」
 それを聞き、驚いたのは桜井だった。彼を無視し、穂甲斐が続ける。
 「シャッテンからフィードバックが起き、何かのキーワードが識域下から躍り出た可能性もあるね」
 「薬品投与ミスが原因ではないと?」というラージェスの問いに穂甲斐は頷いた。桜井はうつむいたままだが、自分への責任追及が無くなったと思い、安堵しているのは明白だった。
 「となると、問題は<門の開き手>から予兆を読みとれなかった点だな」
 「ああ。途中経過が良好だった事から他の危険性も考えず、管理を怠った責任は重い。特に自分の研究にかまけて、<門の開き手>を部下に任せ、直接観察していなかったのは重大な背任行為だ」
 穂甲斐の言葉に桜井の体が硬直した。
 「うむ。その件はマイセンに報告せねばならないな。Dr.桜井に任せろと指示してきたのは向こうだからな。
 で、計画の方はどうだ?」
 穂甲斐は手を伸ばし、煎茶をまた一口すすった。
 「<門の繋ぎ手>は未だに精神不安定状態から回復していない。残念ながら彼女の自発的協力はもう得られないと考えた方がいいだろうね」
 「<造り手>と<開き手>だけで実行、となるとプランCだな」
 ラージェスはソファの背もたれに深く身を沈め、考え込む表情になった。頷いて穂甲斐が言葉をつなぐ。
 「そうだな。ただ<繋ぎ手>の意識が短時間でも戻る可能性はあるから、いつでも復帰できるように同行させるよ。正直、可能性は0に近い。でも、<開き手>には少しでも助力者が欲しいところだから。
 やはり力を発現した後も意識を保ち続けている<造り手>のケースの方が珍しかったんだろうね。もっとも、一番血が薄かったので、意識を持ち続けられたという可能性もあるが」
 それを聞き、ラージェスは苦にがしげに口元を歪めた。
 「<門の開き手>はそれでは困る。彼女が意識を持ち続けていないと閉じてしまう。そこが問題だな。
 もう時間がない、君から見てどうだ? 0アワーまでに<開き手>の意識は整えられるかね?」
 「努力しよう。最悪の場合、リヒャール教授の案を採用しようかと。<門の繋ぎ手>の二の舞は避けねばならないからね」
 「強制多重人格化かね。ふーむ。しかしあれは人格崩壊まで短かかろう。それで間に合うかどうか」
 穂甲斐はそれには即答しなかった。ゆっくりとお茶を飲み、その後で答えに変えてこう言った。
 「過去、我が穂甲斐一族は門を操る力の持ち主を捜し続けていた。一人もいない時代がそのほとんど。二人同時に現れた例は一度きり。しかし、今回は四人も。造り手の母、造り手、繋ぎ手、開き手。四人も力を持つ者が同時代に重なった。こんな事態は過去類を見ない。石倉親娘は二人とも力はごく弱かったのだけれど、二代に渡り、力が現れた事象も他にない。力を強く内包している繋ぎ手と開き手に百回ずつ受胎させたところで、力が受け継がれる可能性は限りなく低い。その源が解明できない限り、意図的に持ち主を増やすこともできない。
 結局の所、これほどのチャンスは歴史上一度しかない。そう言っていいんだよ。
 一人目は確保前に狂死、二人目は覚醒は安定したものの力が弱い。三人目は覚醒と同時に錯乱。そして四人目。多少の困難はあっても今度こそ成功させねばならない。前の二人のデータを最大限生かして、なんとしても。君たちと私の未来のためにね。
 そういうことだろう?」
 「うむ。やるしかないのだな。マイセン本社の方は私がうまくやっておこう。
 では次の問題だが。美咲の妨害はどうかね?」
 穂甲斐はふっと笑みを浮かべた。
 「問題ない。向こうは予想以上の傭兵を集めているが、こちらの意図を理解していないのだ。広範囲に兵を散らし守らねばならない彼らに対し、こちらはピンポイントで済む。貸してもらったチーム16の24名+こちらの用意した兵でシャッテンの補佐は十分だ」
 それを聞き、ラージェスは苦い顔になった。
 「1チーム、謀反を起こしたのはこちらのミスだった。反逆者の素性は割れている。追っ手も用意してあるからその点は心配ない」
 「問題は彼らのバックにいる者の正体とその目的だよ」
 「それはマイセンに任せておいてよかろう。我々はこの計画を遂行するだけだ。残された時間はあまりに短い」
 ラージェスが立ち上がり、穂甲斐もそれに続いた。声もかけられぬまま放置された桜井医師はそのままソファーに座り込んでいた。



第五章

 「おう、お疲れさん」
 声を掛けられ、美咲屋敷の中枢、広間に向かうべく廊下を歩いていた白鳥あゆみと古村柚木恵の足は止まった。
 「お疲れさまです、筧様」
 「警護、ご苦労様です」
 啓介は広間の方を手で示しながら言った。
 「夜に備え、今、御主様は仮眠中だ」
 啓介に手招かれ、白鳥と古村は彼が座っている和室に入った。前室と呼ばれるこの部屋は本来広間の警護が詰める場所なので狭く、薄暗い。啓介は正座していたが、壁に背をもたせかけた、だらしのない格好だ。しかし、その膝には神刀、七つの剣が置かれているのが臨戦態勢を示していた。
 啓介の前に正座する二人。共に美咲の術者用戦闘服たる呪い着(まじないぎ)姿だ。古村の帯は本家所属を示す黒。白鳥の帯は築館所属を示す藍鼠。本家の総本山たるこの屋敷では99%が黒。藍鼠は白鳥一人である。帯の色は異なるが服その物は同じしつらえ。裾がとても短い和服という感じである。ということで、この格好で正座すると下半身がやたらセクシーな事になる。白鳥は裾を手で持って伸ばし、なおかつ両手で太股を隠すようにぎこちなく座った。
 美咲の血は女性にしか現れない。ましてや本流の血筋には女児しか生まれない。結果、かなり女性上位の感がある一族だ。男は術者を守る白兵戦要員が多く、それ以外の事務、諜報等の担当者はここではなく下屋敷勤務だ。勢い、男性陣の姿はこの屋敷では希である。筧は客人待遇なので自由に歩き回っているが、そんな男性は彼だけというほど珍しい。特に築館美咲は結界術をその本領とする家系。その屋敷では本家以上に術者、つまり女性に人口が集中しており、あゆみは作戦行動時以外、この服装で男性に会う事に全く慣れていなかったのだ。
 まぁ、実際の所、啓介の目が下半身に向く事はなかったのだが。なにしろお堅い古村が隣にいることだし。
 「えっと、古村さん、古村さん、と。あったあった。13時まで休息。以後撃手参と共に疑似空間の警護に付け、だってさ。
 んで白鳥は・・・」
 啓介は御主が定めた予定表の束を片手だけでめくり出した。
 あゆみは啓介が自分を呼び捨てにしてくれた事に安堵した。彼は由美の相棒である。つまりは師匠と同格ということだ。お願いして「さん」付けは止めて貰った。猫にまでさん付けする師匠にお願いするのは諦めたのだが。
 「あー、白鳥あゆみは13時まで・・・って、こりゃ古村さんと同じじゃねぇか。裕巳子ちゃん、持ち場を離れられないから、彼女の代わりに助手しろってさ」
 「助手、ですか?」
 あゆみは隣に座る古村を見た。
 「私の結界造りを手伝ってくれればいいのよ。担い手や繋ぎの呪法ね。大丈夫、結界呪法に限れば築館と本家で一切変わりはないから」
 「はい!」
 仮眠中の御主に気を遣って小声ではあったが、あゆみの返事は明るかった。にやりと笑みを漏らす筧。
 「随分仲よくなったみてぇだな、結構結構。なんだな、白鳥を昨日から古村さんと一緒にいさせたのは、この任務があるからだろうな。さすが御主様だ、やる事が細けぇや」
 「かもしれませんね」と古村も笑みを浮かべた。
 筧はあゆみに目を転じた。
 「裕巳子ちゃんは今ゲートの入り口を守ってる。いつもは古村さんの助手なんだけどよ、今回は守る場所が多すぎだからなぁ。
 あの子は分美咲の出身で、壬佐紀(みさき)の名を持つ子だ。その代理だ、しっかりやれよ」
 筧にハッパを掛けられ、あゆみは思わず居住まいを正した。
 この子にそれは逆効果では? と古村が咄嗟に思った時、啓介の自己フォローが入る。
 「去年から裕巳子ちゃんは古村さんにくっついて結界呪法を学んでるんだそうだ。ま、白鳥と由美とおんなじ関係って事だな。修行の身としちゃお前の先輩だ。ってことで、お前さんも裕巳子ちゃん見習って、早く一人で代理を任せて貰えるよう、頑張んないとな」
 「去年からですか・・・。なるほどぉ、私も来年までにはなんとか・・・って、師匠の代理って、とんでもないことじゃ?」
 「由美様は別格だから。でもね白鳥、由美様が出るまでもない霊障で、あなたが出陣する事態はありうるわ」
 筧と古村のダブルフォローで、白鳥の雪の様に白い頬が興奮で朱に染まった。
 「そ、そうですよね! そうすればお忙しい師匠のお時間を取らせてしまったご恩をお返しできますよね! そうかぁ、なぁるほど〜」
 思わず拳を胸の前まで挙げ、やる気を見せる白鳥。筧と古村が視線を合わせ、微笑みあったことにも気づいていない。
 二人が退出した後で、筧はぼさぼさの頭を掻いた。
 「由美は別格、か。そうだよな。俺も頑張んねぇと・・・」
 そのつぶやきは新たな足音を聞きつけて口の中に納められた。廊下を進んでくるのは見慣れぬ療術者の一群。いつもは下屋敷担当の顔触れだ。
 「お、蒔さんたちか、お疲れさん」
 啓介は、結構仲がいい食堂のおばさん、蒔の娘を見付けて挨拶を送った。以前一緒に出陣した事のある娘だ。
 「御主様は今仮眠中だ。夜に備えてな。
 こっち来てくれ。あんたらへの指示があるから」
 こうして啓介は忙しい時間を過ごしていた。だが、それは片手間に過ぎない。その本来の仕事。それは膝に乗せたままの刀がよく示していた。


 白鳥と古村は執政空間である表屋から居住空間の裏屋に向かっていた。
 「先に寝ておきましょう。食事はおにぎり、現地に向かいながら食べましょう」
 「はい」
 「ちょっとお行儀悪いけどね」
 二人は食堂には向かわずに仮眠室である集いの間へ歩いた。
 「白鳥は退魔の経験は?」
 不意にそう聞かれ、あゆみは慌てて答えた。
 「も、木形までで三回、練呪では土形までで十二回です」
 「鈴は一人で?」
 「はい」と答えるあゆみ。美咲の退魔士は皆、土鈴を持っている。特別な儀式と呪法を用いて作成する、特殊な土鈴だ。退魔士になる際、複数のメンバーでチームを組み、一つの鈴を共有することもある。例えば今の御主は現役の頃、二人で一つの鈴を持っていた。術者と剣士のペアで一つの土鈴を作ったのだ。
 一方、療術者や結界術者など、専門の道を選んだ者は一回り大きな土鈴を与えられる。形から柿鈴と呼ばれているが、これには退魔士の土鈴のような特殊な作成方法はない。一人に一つ。普通に焼いて作る土鈴だ。
 「一つ教えておくわね。後で知ってプレッシャーになるといけないから」
 古村が足を止めたので、白鳥もそれに倣った。
 「由美様はこれまで弟子をとったことはないのよ」
 「え?」
 あからさまに驚くあゆみ。
 「ひ、筆頭術者様が、ですか?」
 技を磨き、術を伝える。師弟関係は美咲家でも大事な絆だ。そのため普通筆頭術者は最も弟子の多い者がなる。師範代のような存在だ。
 「あの方の術力と技量は本当に別格だから。由美様を差し置いて筆頭術者を名乗れる天狗は本家にもいないわよ、さすがに。
 由美様にはこれまでにも何度か弟子入り希望の話しはあったのだけど、全て断っていたの。白鳥が最初の弟子なのよ。私もそれほどまでに築館の御主様のご推薦がすごかったのかなと思っていたのだけど。由美様がね、おっしゃったの。
 白鳥は自分に似ているから導き手になりたい。そう思ったって」
 白鳥あゆみ。目が点。
 「正直、どういう意味かは分からないわ。あなたと由美様。どこが似てるのか全然分からないもの。
 でもこれだけは覚えておいて。あなたは御主様間の取り決めだけでここに来たんじゃない。由美様自身があなたの師に成ることを選択なさったのよ。そうでなければ今までどうりに断ってたはず。だから、由美様の時間を使わせてしまって、なんて考えは捨ててちょうだい。
 あなたを弟子にする事。由美様もそれを望んでいるのよ」
 古村は再び歩き出した。
 そのうち姉弟子たちにも紹介されるのだろうと思っていた白鳥は、今聞いた話に考え込みながらも、慌てて付いていく。
 二人はすれ違う撃手の一群と目を交わし、わずかにこうべを垂れて廊下を進んで行った。美咲家では常時挨拶の言葉を交わす習慣はない。格上の相手には視線を合わせてから腰ではなく、首だけ曲げておじぎをするが、同格には目を合わせるだけだ。その際にすこしだけうなづくのは信頼を意味している。公式の場においては大変に長い式辞があるのだが、平時においては目を交わした後、格下が頭を下げる。それだけですむ。もちろん、仲のいい間柄であれば朝はおはよう、夜はこんばんは、は普通に交わされているが、無言のまま目だけ交わす相手の方が圧倒的に多い。
 別格は御主一族だ。さすがに御主と目を合わせるのは失礼ということで、御主がこちらを見る前に頭を下げるのが礼となっている。余談ながら、次期当主である真由美はそれを大層嫌っている。頭を下げられるより、こんにちは、と声を掛けて貰う方を喜ぶのだ。それで次代には今の様式は廃され、挨拶を交わすことになるのでは、と長老たちは危惧していた。
 古村たち結界術者は立場的にはバックアップであり、退魔士である撃手より位が下だ。しかし、古村は結界術者の長であり、御主直属である。ゆくゆくは知恵者に退くのは確実。そして何より古村に命を救われた者が撃手にはたくさんいたので、退魔士はみな、位階など関係なく、古村とうなづきあって挨拶を交わすのが普通だ。
 撃手たちは白鳥とも頭を垂れ合った。白鳥は結界術者であるが鈴持ち、つまり退魔士だ。地位的には同じ撃手という事になるが、藍鼠の帯を絞めた白鳥は黒帯を絞めた本家の撃手より位階は下がる。しかし、彼女は筆頭術者である由美の弟子なのだ。白鳥はそれだけで別格であった。
 撃手の一団が去ってから、少し進んだあたりでお香が漂ってきた。眠りの香は同じなんだな。白鳥はそう思いながら集いの間にあがっていった。
 たくさんの屏風をパーテーション代わりにした集いの間の形式も築館と同じだ。さすがに本家なので四つ同じ部屋があるのだが、一つの部屋の大きさは築館とほとんど変わりはなかった。
 美咲の術者にとって、睡眠を操るのは修行の基本。「気力越体」。精神を極めれば体を制御できるの意だ。仮眠なら目覚まし時計などは必要ない。呪い着を脱ぎ麻の襦袢姿になると薄い夏掛けをめくった。身を横たえ首から下げたお守りを胸の中央に置いた。髪を左側に寄せ、堅い枕に頭を乗せて瞳を閉じる。心の中で土鈴を鳴らす。ひとふり、ふたふり・・・
 白鳥は夢の扉をくぐった。

 しなびた手が招いている。歳経た老婆の手。

 またあの夢だった。眠りから覚め、上体を起こしたあゆみは夢の内容よりも、夢を見た事に驚いていた。美咲の術者は心身を休めるために眠る時、夢など見ない。意思に制御されない眠りであればもちろん見るのだが。
 眠りを操れなかった事を恥じ入るあゆみ。術者としても由見の使い手としても未熟な彼女にはそれが夢ではなく、由見が見せた予兆であるとは気づきもしなかった。


第六章

 その頃。高校生である師匠、美咲由美は授業中だった。
 彼女は幼い頃から己を封じることに長けていた。そうせねばならなかった、というのが本当なのだが。
 美咲の術者として学びだしたのはかなり遅い。中学からである。小学校就学前から呪法の基礎をたたき込まれるのが普通なのに。成長してしまうと術力まで弱体化する者も多いのだし。実際、美咲の撃手は20台で退魔士を退く事が多い。30台の現役となると、術力の衰えを技術と経験で埋める事のできるほんの一握りだ。まぁ、美咲屋敷には一人、100才を越えても現役だろうと言われる老婆もいるので、何事にも例外はあるということだが。
 中学になってから術を本格的に学びだした由美は長老たちを不安がらせたが、彼女は術の基礎、言霊を操る事を瞬時にやってのけた。手本を見せられただけで。彼女には思考を表層、下層と分離するのは簡単なことだった。本心を見せず、思いを隠して生きてきたのだから。そうして表層には言霊を浮かべず、下層で真の思考をする生活にすっかり慣れていた。
 というわけで。表層で熱血教師、園比良(そのひら)裕一郎の指名に答えて英文を読み上げながらも、下層では屋敷に戻った際に出す指示を吟味していた。
 「パーフェクト!」
 読み終えた美咲のアクセント&イントネーションに満点を付ける裕一郎は、音読が美咲にとって意識する必要もない事なのに気が付いてはいなかった。呪言に比べれば何の苦労もないことなのだ。
 二年の従姉妹と違い、服装も授業態度も折り目正しく、立派な生徒だ。そう感動している裕一郎はちょっと哀れかもしれない。

 三年生である美咲の教室は普通棟の一階にある。中庭を挟んだ正反対に位置するのは特殊棟。その生物室ではちょっとした嵐が過ぎ去ったところだった。中心は二代目マッドサイテンティスト神宮司つばさ。教科書の記述が間違えているといきなり彼女に指摘された女教師は、涙を流しながら準備室に逃げ込んでしまった。ということで、1−Dは自習になった。まぁ、いつものことだ・・・。
 超常研の一人、榎本美津紀はこっそりと溜め息をついた。こうやって授業が潰れるたびに宿題やらレポートやらになる。困ったものだ・・・。
 同じ超常研のメンバー、前原静音は真剣に考え込んでいた。教科書の記述を何度も読み返している彼女には、どこがどう間違っているのか分からなかったのだ。つばさの指摘、教師の弱々しい反論、そしてつばさの猛反撃。「父と母の学説はもう学会に広く認められているわ! あんたは私の両親を馬鹿にするつもり!?」。それがとどめとなり、先生は逃げてしまった。どうやら神宮司の両親とやらは大変に高名な学者らしい。高校教師でも知っているほど。その人物と比較されて反論の余地もなく涙を流し、逃げ出すほどの。
 その会話を思い起こしながら読んでみるが、前原には二人がどこを論点にしていたのかも分からなかった。その論点は大学まで教わることのない事だったので、前原の頭のせいにするのは哀れなのだが。
 首を捻っていた前原は、突然びくっと身を震わせた。何か、今背筋に何かが走った。
 それは強烈な殺気。
 跳ねる様に立ち上がり、周囲に視線を走らせながら右手でスカートの左側をまくり、左手をその中に突っ込む。間髪を入れず、つばさの双子の姉、しずくが作ってくれたレッグホルスター式の鞘から白刃を抜き放つ。白令笙朝霧。霊体の魔性すら切り裂く名だたる霊刃である。
 何事かと驚く生徒たちを無視し、すぐさま右の拳を握って腰だめの姿勢に入る前原。超常研メンバーであるクラスメート、榎本と佐々木はその姿に突発事態を悟った。ポケットから携帯電話を出す榎本。立ち上がり、落ち着いて、と級友に向けて声をかける佐々木。
 前原はゆっくりと向きを変えながら殺気の主を捜す。それを感じたのはほんの一瞬。今は何の気配もない。だが、その殺気はとてつもなく無情なものだった。魔性の物とも、魔王の物とも違う・・・。あれは・・・複数の人の殺気。それも今まで感じた事もないほどの。


 こちらは普通棟の三階。一年B組の教室では生徒も教師も唖然としていた。加賀壬が奇声と共に飛び上がったのだ。
 全員の視線を受けた加賀壬はそれに気づくこともなく、机の脇に掛けていた鞄から巾着袋を出し、続いてジップロックの袋を取り出すとそれを巾着に押し込んだ。
 「か・・・がみ・・・さん?」
 教師の問いかけも耳に入っていない加賀壬は、スカートの調整用についている短いベルトに巾着をゆわき付けたかと思うと猛然と走り出したのだ。
 「加賀壬!」
 山崎の声。クラスメイトのほとんどが、彼の大声を初めて聞き、さらに驚きの表情を示す。
 扉を開け、飛び出しながら加賀壬は振り向きもせず、山崎に叫び返した。
 「前原さんが呼んでる! 生物室で何か起きた!」
 加賀壬は走り去った。
 即座に立ち上がる山崎。超常研メンバーである金居も彼に続いた。二人は知っていた。加賀壬が巾着に突っ込んだビニール袋の中身を。それは対魔性用の清めの塩だ。
 二人が加賀壬の後を追い走り出し、扉の前まで来た時、後方の扉がガラッと乱暴に開かれた。
 「加賀壬!」
 声の主は佐伯。廊下で叫んだ加賀壬の声を聞き、1−Cから飛び出してきたのだ。廊下に足を降ろしかけていた山崎は右手で扉を掴み、背中を反らして上半身だけ教室内に戻した。
 「生物室だ!」
 「待て!」
 佐伯の制止。佐伯は廊下に飛び出し、ダッシュして山崎の元に駆け寄った。
 「前原がいるんだろ!? あの二人ならHP戦もMP戦もなんとかする。応急対応は二人に任せろ! 俺たちは会室だ、奴らの分も装備を!
 金居、会長に知らせてくれ!」
 頷いた金居は携帯を取りに席に戻った。
 「佐伯君! どうしたの?」
 慌てた声は1−Aから飛び出してきた一群の一人、北村茉莉香。
 「生物室で何か起きた。前原が加賀壬を呼んだんだ」
 「俺たちはまず会室に装備を!」
 山崎と佐伯が同時に発した叫びを北村は理解し頷いた。
 佐伯は廊下の左右を素早く見回し、超常研の一年メンバーのほとんどが各教室から飛び出して来ている事を確認した。
 「佐伯隊は会室で装備を調え次第、生物室に向かう! 皆瀬樹隊は付いてきてくれ! 勝城隊員は隊長に報告、指示を仰いでくれ!
 急げ!」

 1年の教室は普通棟三階だ。普通棟と特殊棟はH字型につながっているのでどの階からも行き来が出来る。加賀壬はまず一階に降りようとしたが、生物室の状況が気になったので、三階の連絡通路に出た。通路は二階までしかなく、校舎の三階から出ると通路の屋上になる。屋根がないので雨の日などは不便なのだが、今回は見晴らしがいいのでそのルートを取ったのだ。
 昨夜までの雨はすでに完全に乾いている。加賀壬は屋上の左端近くを全力で走りながら生物室を見た。高所恐怖症なので、普段はど真ん中を歩くのだが、今回はそれどころではない・・・はずだ。緊急事態なのだ、と自分に言い聞かせながら下を見る。
 やっぱり、こぇ〜〜〜〜
 思わず立ち止まりかけるが、今も僅かに伝わってくる緊迫感が恐怖を押しとどめた。
 前原と加賀壬。二人はいろいろあって手に入れた霊刃、白令笙朝霧によって精神的なリンクが可能だ。前原は刃、加賀壬は鞘を持ち、二人で一人の状態になることが可能。この可能、というのがポイントだ。常時そうなっているのではなく、精神的に同調できる条件が満たされれば、という前提付きである。そして、その条件がなかなかに難しい。
 宮司の家系であり、なおかつ修行も成している前原静音にとって、精神統一はさして困難なものではない。問題は加賀壬の方だ。彼女は修行と名の付くものとはてんで縁がなかったのだ。さらに。好奇心旺盛というか気が散りやすいというか・・・。よって二人の精神リンクが成されるか否かは加賀壬にかかっている。
 白令笙。当代屈指の術者と奏者、そして刀鍛冶の三人が鍛え上げた霊刀であり、その完成までにも幾つもの伝説がある名だたる刃。白令笙の最初の一振りであり、最後の一振りとも呼ばれる朝霧の鞘は加賀壬が預かっているが、刀身は美咲家を通じ、ここの図書室で保管されていた。前原が超常研の探索時には管理者である香土岐から借り受けていたのだが、今月初めにあった地下鉄工事現場の一件以来、突発事態に備えて刀身も二人に預けられていた。書類上の正規の持ち主である厳位神社の照正と美咲、本条の間で、鞘は加賀壬が、刀身は前原静音が管理することになったのだ。
 疾走する加賀壬の左の太股にはレッグホルスター型の革ベルトが巻かれている。前原とお揃いだ。前原のは短刀本体、加賀壬のはその鞘が収まる。鞘の鞘、というのも変な話なのだが。
 普段、鞘はスカートで隠してあるのだが、夏用制服は生地が薄く、けっこうバレバレだ。なので加賀壬は登下校時には鞄を左に提げて隠している。加賀壬としては結構マジに隠しているつもりなのだが、クラスメイトはもう皆それを知っている。体育での着替えで女子に、体操服や水着姿で男子にもばれているのだ。さすがに体育の時間中は外してあるのだが、脚にはっきりとベルトの痕が残っているからである。
 腰に細いベルトを締め、そこから伸びた革紐に鞘が付く。揺れないように太股にも革ベルトが付くのだが、歩いたり走ったりできる様に、腰からの革紐は緩めになっている。そのため、太股でしっかり止めるしかないので、血行が悪くなるし、痕もはっきりつくのだ。まぁ、クラスメイトたちは加賀壬にせよ前原にせよ、あの超常研のメンバーだと知っているので、見て見ぬ振りをし続けている。それでバレていないと信じている加賀壬も加賀壬だが・・・。
 この革具は加賀壬たちの希望を神宮司しずくが叶えてくれた物で、収納部分の内側中央は肌に触れるように作ってある。直接肌に接触していないとリンクの効果が薄れるからだ。今、前原が霊刃・朝霧を通じて呼びかけ続けているのを、加賀壬は左脚で熱として受け取っている。加賀壬の心が焦りと不安に満ちているので、今のリンクはその程度だが、肌に接触していなければそれすらも伝わらなかっただろう。
 待ってて前原さん、今行くから。
 加賀壬からのその気持ちは残念ながら伝わっていない。全力疾走しつつ念を込めるというような芸当は加賀壬にはほど遠いものだった。



 
 生物室では騒然とする生徒を佐々木が鎮めようと必死だった。榎本は携帯のディスプレイに浮かぶ圏外の文字を呪いながら窓を開けようとしている。前原は警戒態勢のまま生物室の扉前へと進んでいた。
 「前原さん!」
 叫びと共に飛び込んできたのは加賀壬だ。俯き、両手を膝につけてぜーぜー言いながらも前原に視線を送った。前原は彼女に頷きつつも警戒を怠らない。息を整えてから鞘を手に持って加賀壬が歩み寄り、すぐに二人、背中合わせの体勢になった。
 何が起きているのか分からない生徒たちはざわめきながらその光景を見守った。
 我関せず。一人そんな態度なのはつばさである。彼女は頬杖を付き、窓の外、管理棟の方を面白くもなさそうな表情で眺めていた。何が起きているのかは彼女にも分からないが、超常研の会員が動いている以上、これは実働班の分担であろう。彼女は実戦とは関係なかった。
 だが、視野の隅の光景を認識した瞬間、つばさは理解せざるをえなかった。実働班の動く場所。そこはすなわち最前線なのだと。
 学校の隣。道を隔てた所にある駐車場のあたりから煙が巻き起こったのが塀越しに見えた。瞬時遅れてパフっという音。そして白煙と細い線を引いて飛ぶ物体。
 つばさが見つめる中、その物体は管理棟に突っ込んだ。
 爆発。黒煙と炎が突然管理棟の三階で生まれ、周囲に広がった。
 加賀壬が、前原が窓に駆け寄る。生徒たちは耳を塞ぎ、机に突っ伏した。
 つばさは見ていた。目もくらまんばかりの閃光にも衝撃波にも耐え、その惨劇を見ていた。炎はすぐに消え、黒煙も広がって薄れていく。その合間に、光る無数の何かが砕け散ったガラスの様に飛び散った。そして。ちらりと見えたうごめく黒いもの。さらにそこに広がった穴に管理棟の屋上から飛び込む数名の人影。パパパン、という乾いた音が三回響き、火線が見えた。
 破壊されたのは管理棟校門側の屋上付近。つまり図書室の天井と壁だった。香土岐によって何重にも張られていたはずの結界は全く作用しなかった。
 真っ先にパニックから回復したのは前原でも加賀壬でもなかった。より正確に言うならパニックに陥っていない者が生物室にいたのだ、たった一人。
 「加賀壬! 来て!」
 つばさの叫び。同時に生物室の後ろにある、非常階段につながる鉄扉に向けて走り出した。
 「え?」
 加賀壬は状況を把握できていない。つばさはクラスメートを弾き飛ばして鉄扉に飛びついた。
 「早く! 来なさい!」
 つばさは長いツインテールを弾ませ、必死に鉄扉を押しながら叫んだ。
 「な、何言ってるの! 図書室だよ! 守らなきゃ、絶対!」
 爆発場所が図書室だとやっと理解した加賀壬は、その結果起きる事象に戦慄した。あの場所に封じてあるものども。核弾頭と比較される程の危険を隔離してある場所。ガラスが飛び散った窓枠を開けるかガラスを叩いてどかすか瞬時悩んだ時、つばさの三度目の叫びが聞こえた。
 「有線誘導弾やマシンガン使う魔性なんているわけないでしょ! あんたらの装備じゃ相手になんないわ!
 家に来なさい! 武器を特別に貸してあげる!」
 開け放った鉄扉。一階なのでこの先はすぐ中庭に通じている。そこから差す強い日差しを背にし、両手を腰に、不敵な笑みを浮かべる神宮司つばさ。爆発よりもそのシルエットが怖くて、泣き出す生徒まで出た。
 つばさの家。ここからではタクシーを飛ばしても往復に時間がかかる。そんな余裕はない。そう判断し、開けはなった窓に足をかけようとした時、前原の腕が加賀壬を窓から引きはがした。
 「ま、前原さん?」
 「ここは任せて、行け、加賀壬宏子!」
 「ど、どうして、だって図書室だよ! 早く塞がないと!」
 「だからこそだ! あれが相手では我々では対処できない。何が起きたのかも分からない。ならば出来うる限りの予防策を取り、可能な限りの戦力を集めるべきだ。今は神宮司の言葉に賭けろ! 行け、加賀壬宏子!」
 前原は力強く加賀壬の背を押し出した。
 押されて数歩進んだ所で振り返る加賀壬。
 「で、でも・・・」
 「大丈夫だ加賀壬宏子。学校には会長も姫先輩もいる。私もいるぞ。任せて行くんだ」
 前原の言葉はいつもどうりの口調だった。加賀壬はうつむきかけたが、それは途中で止まり、振り仰いだ顔には決意があった。きっと結ばれた口。強い意志を示す眼差し。

 お願い!

 ああ、任せろ!

 パニックから開放された二人の心がやっと完全に繋がった。
 つばさの元に駆け寄る加賀壬。前原は腹の底に響く程の声で生徒の注目を集め、校庭への誘導を始めた。






 続く