
von:秋澤 弘
第一章
私立緑苑学院高等部。それが戦場の名だ。街の中心地に位置するこの高校は名前に反してほとんどコンクリだらけの無機的な学校だった。一応緑もあるがそれは壁画である。緑苑というにはほど遠い世界であった。
新入生のパーティは裏門の側にある塀を乗り越えて侵入する事になっていた。既に学院側から警備員に内々の指示が出てはいるが、監視カメラに姿を映すといった、侵入の証拠を残すのはまずいからだ。伸縮式のパイプ梯子をフェンスにかけている時にその警備員と出くわしたが、彼は指示通りに見て見ぬ振りをして立ち去った。
真っ先に出発した班に金居がいた。彼らは登山者のように一本のロープでお互いを結び合い、順番で金網を越えていく。必死の形相の金居は二番手だ。
と、彼の前にいた生徒が向こうの校庭に足を踏みしめた途端、その姿がかき消えた。しかし、その腰に結ばれていたロープはそのまま宙に浮いている。真っ青な顔でその虚空を睨む金居。後ろの生徒に促され、彼もおそるおそる足を踏み出すと忽然と消えた。最初の班の全員がそうしてかき消えていったのを悲鳴を挙げることもできずに見つめる新入生。ふと気づくと加賀壬は北村の手を握り、振るえていた。
そこにあったのは、怖ろしいとか怖いといった、感情の入る余地のない、絶対的な異常感だった。あそこは「超常」なのだ。この金網の向こう側は既に。足は震え背中に冷や汗が流れる。比喩ではない。本当に冷たい。氷の様に冷たい汗だった。加賀壬が無意識の内に手に力を込めると、北村がしっかりと握り返して来た。その手も振るえているしじっとりと汗ばんでいる。それも当然だろう。この目の前に異界への扉があるのだから。
「よし、五分経った。行くぞ」
第二波が加賀壬たちだった。佐伯を先頭に小島、北村、加賀壬と続き、最後が山崎だ。戦闘力のある二人を前後に配するという基本に従った順番らしい。全員、加賀壬が持ってきたザイルに繋がっていた。それぞれが腰に金具つきのベルトをつけ、ザイルとむすんでいる。単なる縄だった金居の班と違い、腰にぐるぐる巻きになっていないだけ行動は自由だった。
先頭の佐伯が皆のベルトを確認してから、メンバーを見つめた。
「よし、頑張ろうぜ」
皆無言で頷いた。
まず佐伯がパイプ梯子をぎしぎし言わせながら登る。彼が天辺に着いたところで小柄な小島が登り出す。次いで北村が手を掛けたとき、すでに佐伯は向こう側に足を降ろそうとしていたところだった。
「じゃ、行くぜ」
「お、おう」
小島がひきつる顔で笑顔を作る。佐伯は足を校庭に降ろして、消えた。加賀壬は恐怖に鷲掴みされ、悲鳴を挙げかけたが何とかとどまった。最後尾に付く山崎がその肩を押さえてくれたのだ。無言のまましっかりと肩を支えてくれる大きな手。その間に小島も消え、北村が梯子の天辺に着いた。自分の番だ。さっきから口の中で言い続けていたその言葉をしっかりと噛みしめた。
「頑張る」
そう言うと梯子を掴み、最初の一段目に足を掛けた。途中まで登った時、ふと下を見かけてぞっとした。
うーん、怖いのは超常現象だけではないんだな。
そう思った時、何が超常で何が常識内なのだろうとふと思った。こんな深夜、見知らぬ学校に泥棒みたく侵入する。もうこれは十分に超常なのだ。それが分かると少し落ち着いた。足を着けたら消える。そう分かっている以上、心構えがある。いきなり起きたらパニックそのものだが、予備知識があるだけで十分に違うはずなのだ。そうか、常識なんて見方で異なるんだ。加賀壬は天辺に着いた時にはなんとか冷静さを取り戻していた。逆にスカートの中が下の山崎に見えたのではと、いらぬ心配をしてしまったが。
下を見るのが怖いので目をつむったまま反対側に身を向ける。背中のバックがひっかかったが、なんとか無事に外れた。手探り、というか足探りで次の段を見つけ、降りて行く。もう北村は消えているはずだ。よし、急ごう。そう思いながらもしっかりと段を降りる。三段降りてから下を見た。やはり前には誰もいない。
狭いグラウンド。点々と付く水銀灯の灯り。全くの無人の校舎。しかしザイルは宙で止まっている。加賀壬は息を整えると、そのまま降りた。地面に足を着けようとした時、瞬時体が凍り付いたが、ぎしぎしと揺れる梯子が後ろに続く山崎の存在を伝えてくれた。それを確認し、足を降ろした。
何が起きたのか分からなかった。不意に自分の体が傾くのが分かったが、すぐに誰かが加賀壬の体を押さえた。
「ひっ!」
身が縮こまる。と、そこにいたのは北村だった。
「大丈夫? 私もこけかけちゃった。梯子が急に消えるんだもの」
そうか。見えなくなるのじゃなくて、どっかに移動するのか。それが分かったのは山崎が不意に現れたからだ。
彼もバランスを失いかけたが、すぐにそれを取り戻した。運動神経があるのはすごいな。加賀壬は自分の反射神経の鈍さを悔やんだ。
「よし、じゃ俺達は予定通り本校舎に向けて進もう」
佐伯が声を掛ける。北村にもう一度礼を言ってから周囲を見る加賀壬。どうやら美術室のようだ。油絵の具の臭いがする。
「ここには何もいなかったの?」と北村。
「ああ。無人だ。みんな準備はいいか」
佐伯の声に応えて小島が大きなライトをつける。それを見て思い出した加賀壬は登山用のバックを降ろし、上の段からヘッドランプユニット付きヘルメットを出した。軽いのだが大きいので邪魔でしょうがなかったのだ。これで背中の荷物は随分減る。ランプは小型だが電池式ではない。腰に下げたバッテリーにつなげる強力なライトだ。今はバッテリーはバックパックの底にしまってある。その光量は長時間使用を予想して半分のキャンドルパワーに押さえてあるが、それでも十分に明るい。ヘルメットはぶかぶかだったが、父が中の留め具をできるだけ調節してくれていたのでなんとか被れた。顎ひもで固定しながら、逆にぶかぶかな分、眼鏡が邪魔にならなくて良かったかもしれないとも思う加賀壬。
「なんか本格的ね、加賀壬さん」
「え? そう?」と、振り向くと北村が直射を受けて顔を手で覆った。まぶしかったらしい。
「何でそんなの持ってるの?」と小島がびっくりして言った。彼の手にある大きな懐中電灯よりも明るいからだ。
「登山に使うやつなんだけど・・・」
加賀壬はみんなが目を細めるのを見て、まだ明るすぎる事に気づき、額の前にあるヘッドランプのレバーを下げて光量を最低に押さえた。それでも確かに十分に明るいと感じた。次に軍隊式の単一電池使用L字型ライトを出してバックパックの右側の肩紐にある留め具に差し込んだ。L字型ライトのレンズ前には拡散版がねじ込んであり、広範囲を照らすようにしてあった。これで体の前と顔を向けている方の両方が明るくなる。暗闇が怖かった加賀壬は重さを最低限にしながら灯りを持ち込みたかった。
入会した研究会で今夜肝試しがある。そう言って、登山が趣味の父から借りた物だ。最軽量にして最大の明るさにはこれが最適だと父が選んでくれたのだ。
「なぁ、その明るさ、武器になるんじゃ?」と小島。
「うん、十分なる。すごいわ加賀壬さん!」
「そ、そうかなぁ」と加賀壬は戸惑った。次いでその武器にするナイフを出す。これは刃渡りこそ短いが、サバイバルナイフ式に柄の中に小物を入れられる。マチェットを小さくしたような物だ。裁縫道具と簡単な医療薬、そして水の浄化薬などが柄の中に入っていて、その蓋になる端っこにはコンパスも付いている。藪を抜けて行くかも知れないとウソを付いて借りたものである。そのくせ制服で出て行ったのでばれているような気もするが。
加賀壬が出したナイフを見て、「そ、それもすごい」と声を揃えて皆が言う。そうかなぁ。お父さんが山に行く時に使うのに比べたら玩具みたいなのになぁ。そう加賀壬は思った。彼女は父が単なる登山好きではなく、秘境好きなことを知らなかった。特にどんなに小さくてもいいから、「未発見の鍾乳洞」を見いだすことが学生時代からの夢だなどと、知る由もなかったのである。
加賀壬は最後にこっそりと借りてきた(というかガメてきた)ピッケルを出した。先端を保護するカバーを外してしまってからバックパックの脇にすぐに出せるように差し込み、さっきのナイフは左側の肩紐の留め具に留める。こうすればうつむくだけでコンパスも見れるのだ。
「なんか戦争映画みたいだな」と佐伯。そう言う佐伯と山崎はもう面まで着けた完全な剣道の防具姿だ。佐伯は竹刀だが、山崎は刃のない模擬刀というのを持っている。光りが反射するところなんか本物の日本刀そっくりだ。
小島と北村は加賀壬同様制服のままだ。他のパーティと出逢った時にすぐに認識できるように、特定の服装がない場合には制服着用が指定してあったからだった。小島は手に金属製のナックルをはめている。それが武器らしい。背中にはデイパックがある。そこからゴルフクラブが顔を出しているので、そっちは奥の手かも知れない。
加賀壬の視線に気づいて小島が答えた。
「クラブって細いだろ? なんか簡単に曲がっちゃいそうでさ。いざって時までとっておこうと思って」
自分のピッケルと同じだな。そう加賀壬は思った。すぐ前にいる北村はNICOMと刺繍された黄色い幅広ベルトで大きなカメラを吊っている。カメラには1リットルのペットボトル程もあるストロボが真横に付いていて、そこからコードが腰のベルトに留めてあるバッテリーらしい物に伸びていた。北村はストロボの後ろのパネルを確認し、「順調、順調」と頷いている。
うーん、さすがは写真部。お父さんの四角いカメラとは世界が違うなぁ。値段も桁違いなんだろうなぁ。
用意の出来ていた加賀壬はそう考えていた。実際、桁違いまでは行かないが数倍高かった。父の四角いカメラ、テヒニカの方が、だが。
「よし、みんな準備できたみたいだな。行こう!」
再び佐伯の声で全員が歩き出した。
第二章
扉を抜けて廊下を進む。しばらく行くと階段だ。左右を確認しながら階下へと降りる。ここは三階のはずだが、どこに通じているかは分からない。ゆっくりと降りてみる。順番はさっきと同じだ。ザイルでそう結ばれているのだから当然だが。
出た先はどうやらちゃんと二階だったようだ。突き当たりに本校舎へ通じるハズの通路が見える。
佐伯は左右を確認して前進を開始した。しばらく何事もなく進む。
「なぁ、なんもいないじゃん?」と小島。
「そうかなぁ。なんかいやーな感じよね」
加賀壬の目の前で北村が眉を潜めながらぼやく。
「しっ、静かに!」
佐伯の声。すぐに全員が歩を留めてじっと動かなくなった。
「聞こえたか?」
佐伯の声に加賀壬は首を振った。特になにも・・・、そう言おうとした瞬間、後ろから山崎がぽつりとつぶやいた。
「うめき声?」
びっくりして耳を澄ます。
???
何にも聞こえない。しかし、佐伯と山崎には何かが聞こえたようだ。
「列の先頭と最後で聞こえるの?」
不思議そうに言う北村。と、佐伯がすぐ隣の教室を懐中電灯で示した。窓から外の終夜灯も差し込むし、所々には非常灯も付いてはいるが、やはり影になる部分はある。ちょうどこの辺りはその影の一つだった。懐中電灯の光りが周囲を確認すると、そこには理科室と看板が付いている。
「こっからか?」
佐伯がその壁にぴたりと身を寄せる。小島も北村もそれに倣うので、加賀壬も壁に張り付いた。と、その時、確かに聞こえた。何かうーっと、うなる様な声。ぞっとして身を縮ませる。その瞬間、山崎が模擬刀を構えて後方を振り向いたのが見えた。
後ろから? そう思った加賀壬はそっちを振り向いた。と、それに合わせてヘッドライトが軌跡を残して後方を照らす。山崎がすぐに立て膝姿勢になってその灯りを遮らない様にしながらも、不意打ちにそなえて身構える。ライトの光りが何かを一瞬映し出したがすぐにそれは見えなくなった。
「な、なにか、いる・・・」
加賀壬の声は自分でもおかしくなるくらい震えていた。その耳元にそっと北村が近づいてささやく。
「ちょ、ちょっとおどかさないでよ! どこによ!」
彼女も手にしたペンライトで照らすが、何もない。
「本当にいたの? 怖いと思ってると、なんでもないものが・・・」
その言葉を聞きながらも、確認しようと思って額の前に着いているライトの調節レバーを上げた。最低から半分の出力に。一気に光りの束が太くなった様な気がする程明るくなる。こうなると明かりというよりもビームだ。
「え!」
小島の声。同じモノを同時に見た他の全員も息を呑んだ。ビームが伸びた先。さっき降りてきたはずの階段がない。そこには壁があった。その壁一面に何かの模様がある。小島のライトを含め、全員のライトが集中してその模様を確認する。
目だ。突き当たりの壁一面に巨大な目の壁画。いや、絵ではない。それがいきなりぎょろっと動いたのだ。
高さ2メートルはある目に睨まれた全員が動きを止めた。いや、止められた。驚愕に引きつる小島。佐伯が震える足でなんとか歩こうとするが、身がすくんで動けない。加賀壬の背中に抱きつくようにその身にすがる北村。その加賀壬もまた、北村に体重をかけていなければ倒れてしまいそうなほどだった。
目が迫る。その目元が笑った様な気がした。
巨大な目が迫る。そう、突き当たりの壁がどんどんこっちへ向かってきているのだ。どんどん、どんどん・・・
メンバーで最も壁に近い山崎はへたりこんだ腰を持ち上げて、左手で必死になって体重を支え、立ち上がろうとしている。しかし、全身の骨がなくなったかのようにぜんぜん力が入らない。
「ひ・・・」
北村のかすかな悲鳴。耳元でそれを聞いた加賀壬の体がびくっと揺れた。その拍子に、まだレバーを押さえたままだった右手が動き、ビームの出力が少し上がった。と同時に光が左にずれ、その直射を受けた瞬間、目がまぶしそうに瞬きをした。
それは一瞬だった。しかし、呪縛が解けた一瞬でもあった。
「光りを!」
佐伯の声に従って一気に最大出力にあげる加賀壬。彼女のほんの小さな動きでも、壁では大きく光りが踊ることになる。まばたきを終えて開きかけた強大な目の中心、瞳の真ん中をそのまぶしいビームが丁度よぎった。
う、うーっ!
うめき声が廊下にこだまする。同時にまた目が閉じた。
「走れっ!」
佐伯が声と共に前に駆け出す。みんながそれに従って走り出した。呪縛が消えると同時に山崎も駆けだしてダッシュし、加賀壬と北村は抱き合ったままザイルにひきづられる様に走りだす。
前方、本校舎への通路に入った途端、先頭の佐伯が消えた。続いて小島も。他のメンバーもとまどっている暇はない。ひきづられてすぐに後を追った。
飛び出すとそこは外だった。あの狭い校庭に違いない。彼等はその校庭の中央に立っていた。
「無事か!?」
佐伯がみんなを確認する。小島、北村、加賀壬、山崎。全員が荒い息でぜーぜー言いながらそこにいた。
「助かった、のかな?」
北村が息の合間につぶやいた。
「ど、どうして走らないんだよ、抱き合ったままでさぁ! はぁはぁ・・・。引っ張るのが大変だったんだぞ、重くてさ」
その北村に文句を言うのは女子二人を事実上一人で牽引していた小島だ。さすがに水泳部。足腰を鍛えているだけのことはある。小柄ながら、見た目によらぬ体力でひっぱり続けていたのだ。
「だって、加賀壬さんが動かないから・・・」
その言葉に全員が加賀壬を見る。困って俯く加賀壬。まぶしいビームが足元を照らす。
「びっくりしたんだろ、あんなの見て。仕方ないさ」と、気まずい雰囲気を察して佐伯が口をはさんだ。
「え、いえ、その・・・」
とまどいながらもビームの出力をまた最低に下げる加賀壬。小島が文句を言おうとして口を開きかけた時、黙っていた山崎が先に言った。
「光りがないと目が開く」
ぼそりという声。しかし、それでみんなに十分伝わったらしい。加賀壬も頷いた。
「光りをあててないとまた金縛りになるかと・・・
こ、これ、前にしか、見ている方にしか行かないから・・・」
「そ、そっか。そうだった。ごめん、俺、てっきり腰が抜けたのかと」と小島。
「あ、あははは。実はあたしもそう思ってた。だからずっと後ろ向きになってたのね」
北村が手でゴメンとジェスチャーしながら言う。
「ううん、いいの。私こそ、運んでもらってごめんね」
そう加賀壬は二人に言った。それに頷いた後で北村がくるりと向きを変えて小島に向き直る。
「?」
小島はきょとんとして彼女を見た。北村は前屈みになって左手を腰にあて、右手を小島の眼前で振ってみせる。
「な、なに?」
「女の子に、<重い>はキ、ン、ク! 今度言ったらずーっと、ちび助って呼んじゃうぞ!」
矛先が自分に向いたのを知ってぎょっとする小島。確かに二人の目線はさほど変わらない高さにある。
「ち、ちびすけ・・・」
絶句する小島。「それくらいショックだってこと」と追加する北村。残りの三人は笑いをこらえていた。
第三章
確かにここは校庭だった。しかし、金網の外には何も見えない。この学校はビルの谷間にあるはずだ。しかし、周囲には何もない。
「結界、だったっけ? その中だからかな」
小島がつぶやく。加賀壬はうなづいた。そうとしか思えない。今、この校内は異空間の様なものなのだろう。
「さて、どうするの?」
「とにかく本校舎から音楽室に抜ける。それが俺達のコースだからな」
佐伯の言葉に、本校舎への入り口を指さす北村。
「あそこね。じゃ、行きましょうか」
「ちょっと待ってて」
小島の声に振り向くと、彼は背中からチタンシャフト・ドライバーを引っこ抜こうと悪戦苦闘していた。無言で山崎が手を貸す。
「サンクス」
そうか。あんなのにまた会ったら困るからな。そう思った加賀壬もピッケルを引っ張った。ベルクロでバックパックの脇に止まっているので、一番下をちゃんと引っこ抜きさえすれば簡単にとれた。
その間に北村も左手でカメラの脇に出っ張っているストロボのグリップを握りしめ、そこに付いているリストバンドをしっかりと固定した。
「おまたせ!」
佐伯はうなづいて歩き出した。小島が右手に懐中電灯、左手にゴルフクラブを持って直ぐ後に続く。
狭いトラック部分はすぐに終わり、目の前に校舎の入り口が見えた時、右手側からどどどどどっという轟音と、地面を揺らす振動が周囲を襲った。
「うわぁ!」
先頭にいる佐伯が悲鳴を上げて一歩下がり、小島とぶつかった。加賀壬は咄嗟に脇にどいて前にライトを向ける。照らし出されたのは・・・
「ゴール?!」
そうそこにはサッカーのゴールポストがあった。さっきまでは何も無かったのに。目の前にたちはだかるように。
「な、なんかさぁ、あの網につかまったら、やばそう・・・」
北村の声は震えている。加賀壬はピッケルをぎゅっと握った。
「ね、ねえ北村さん。ゴールって、目、ないよね」
その妙な問いに北村は真顔で答えた。
「う、うん。多分。だから灯りは効かないと思う・・・」
そう言った時、急にゴールが突っ込んできた。一番下部、地面に接している場所がまるで足のように曲がり、這いずってくるのだ。
「ちっくしょう!」
佐伯が叫びと共に竹刀を上段に振りかざして立ちふさがった。がしっと上部のバーを力一杯叩く。竹刀がみしっと嫌な音を立てたが、それなりに効果があったようだ。そこがぐにゃりと曲がり、苦しそうに身悶えたから。
「行けるぞ!」
佐伯はネットにぶつかりそうになったが、足がうごめく時に下に隙間ができる。ばっと身を低くしてその間から向こう側に抜けた。
「小島、やれっ!」
「せーの!」
キィーン、という高音が響く。小島が握ったクラブが佐伯の攻撃と同じ箇所にクリーンヒットしたのだ。小島はその衝撃で手がしびれかけたし、後方の加賀壬達も耳を塞ぎたくなった。しかし、一番苦痛に身をよじっているのはゴールだ。小島もそのまま難なくネットの下をくぐった。
「あ、あたし?」
北村は自分の前に盾の様に立っていた男子二人が攻撃を終えた後、目の前に敵が迫るのを見た。
「ひょっとしてあたしのばんー!?」
そう言いながらも考える。カメラで殴るのは絶対に出来ない。もしも壊れたらおしまいだから。しかし、他に武器らしいものもない。目前に迫るそれに、仕方なく蹴りを入れる彼女。がしっという手応え、もとい足応え。
「いったーい!」
当然だ。
北村はすっころび、地面に伏せた格好になってこれも難なくネットをすり抜けた。右足を押さえてはいたが。
「く、くるー!」
これは加賀壬。ピッケルでぶっ叩こうかと思ったが、もしもこれが突き刺さったら、リストバンドで手首にむすばれている加賀壬はひきづられる。あの足に踏まれ続けたらとっても痛そうだ。もちろん痛いと感じるのは数分だろうが。
彼女のためらいを見て取った佐伯が叫ぶ。
「ネットにからまるぞ!」
そうか。ネットか。要は網である。なら。そう思った加賀壬はピッケルを手放した。支えを失ったピッケルはリストバンドがあるので落ちはしない。落ちはしないのだが、振り子の様に動き、後ろにいた山崎はぎょっとした。もう少しで彼女の腹に突き刺さる所だったのだ。ピッケルはほんの数センチの差で空を切った。それに彼女は気づかなかったが。
もうゴールは加賀壬の目の前。ネットにからまると思い、山崎がザイルを引っ張ろうとした瞬間、加賀壬のかけ声がした。
「そーれっ!」
バレーボールでもしているような間延びしたかけ声。しかし、その次の瞬間、ゴールが今までにない程の反応を示した。ばくん、という音と共に左右が閉じ、加賀壬を飲み込んだ形になったのだ。
「加賀壬さんっ!」
まだうずくまったままの北村が悲鳴を挙げる。だが・・・
「はーい!」
加賀壬が元気に答えるとその上半身がネットから出てきた。両手で凶悪そうなナイフを握って。そのままその刃の背に付いているザイルカッターでがしがしとネットを切って道を作ると、その中からぴょこんと飛び出す。
「呼んだ?」と加賀壬。
全員が唖然とする中でゴールは一瞬で風化した様に崩れていった。その向こう側に模擬刀を手にしたまま立ちつくす山崎を残して。
「だ、大丈夫か、加賀壬!」
佐伯が戻ってきて加賀壬の目の前に立つ。
「はい?」
ナイフを鞘に戻しながら彼女が問い返した。
「あ、ああ、無事なら・・・いいんだ」
佐伯は拍子抜けした様な口調で答えた。その時、小島が大声を出した。
「あったぁ! これだろ、霊水って!」
振り向くと彼は崩れ去った、元ゴールの灰のような固まりの中でうずくまり、片手を挙げていた。その手にはミニ缶くらいの大きさのとっくりがある。
「えー、見せて見せて!」
足をひきづりながら北村が側に近寄った。みんなもそこに集まる。
陶器の様な素材だが触ってもぬくもりも冷たさもない。振るとちゃぽちゃぽ音がする。下部はまるまっちくて上部は細い首が伸び、その先端に木製らしい栓がしてある。その栓を塞ぐように一枚の細い紙がぐるりと周囲を巻いており、その上にはびっしりと文字らしいものが墨で書いてあった。
「へー、こんな小ちゃいんだ。でもなんか違わない、ちらしにあった絵と」
「あ、だっていろんな形があるって書いてあったわよ」
みんなで見ている内にすっと手が伸び、それをつかむと加賀壬に渡した。反射的にそれを受け取る加賀壬。手の主を見ると山崎だった。
「あたしが持つの?」
眼鏡の奥で加賀壬の目がきょとんとする。山崎は無言のまま頷いた。
「そうそう、倒した人のもんらしいからな」と佐伯も頷いた。
「いいなぁ、俺も欲しいなぁ」
小島は単にレアアイテムだという理由で欲しいらしい。
「あたしが使って良いんだったら、はい!」
そう言って加賀壬は北村にそれを手渡そうとした。だが、彼女はそれを手で押さえた。
「あたしはまだ大丈夫。骨折だって直っちゃうんでしょ? このくらいの怪我で使ったら勿体ないから、それは加賀壬さんが持っててよ」
そう言って加賀壬の手を押し戻す。
「いいの? じゃ、もし痛くなったら言ってね」
加賀壬が制服のポケットにそれをしまってから、また全員が歩き出した。
第四章
本校舎の入り口に入る。すると、また佐伯が消えた。今度はなんとなく予感がしていたので、続く小島はなんのためらいもなく足を進めた。北村、加賀壬、山崎と続く。
「ここは? おい、灯りをもっと」
佐伯の声に従って加賀壬が光量を挙げ、ちょっと横を向いて胸のL字ライトとヘッドランプが別の場所を照らすようにする。
「机がいっぱい・・・」
「あれ、スクリーンじゃないか?」
みなが口々に見えるものを言う。
「視聴覚室ってやつかなぁ」
周囲をきょろきょろ見回すが、別に異常はない。ドアがあったので山崎がその脇にあるスイッチを入れたらぱっと明るくなった。
「ここには何もいないみたいね」
北村がそう言いながら渡されていた校内地図を机に広げた。
「えっと、視聴覚室、視聴覚室っと。どこ?」
「これじゃないかなぁ、シアタールームっての」
小島が指さしているのは音楽室の隣にある部屋だった。
「あ、そうか、そういう名前なのね」
「シアターねぇ。映画でもやるのかな?」
佐伯の声に小島が突っ込む。
「18禁はないと思うぞ、やっぱ」
「ばーか。それよりプログラムとポッポコーン買ってこい、バター付きのな」
ひとしきり笑った後、不意に佐伯が素っ頓狂な声を挙げた。
「音楽室の、となりー!」
びっくりして全員がその地図を見る。そのとうりだ。ここのドアを開けると廊下、というより小部屋。右が音楽室。左が本校舎だった。
「す、すげぇ、ニアミスじゃん!」
「い、いや、ま、待て小島。お、お、落ち着け。い、いいか、こ、このドアの、む、む、向こうが本当にそうとは限らないぞ!」
そう言う佐伯の方が緊張しまくりだった。
「へ、下手に期待するとな、外れた時に、その・・・」
「開けりゃ分かるじゃん」
そう言って事もなく扉を開ける北村。目の前にガラス窓。そしてその左右にドアがあった。どやどやと出てくると全員が右の戸の前に並んだ。戸の上には確かに「音楽室」という札がある。
「よ、よし、開けるぞ!」
「いや」
「? 準備か。早くしてくれ」
「いや。いっちゃやだ」
「???」
佐伯は今やっとその女の声が北村でも加賀壬でもない事に気づいた。
「いや。あそんでよぉ!」
いやーな予感。そーっと振り向く佐伯の目に、天井からゆっくりと現れる人型のモノが映った。周囲では仲間がぽかんと口を開け、真っ青な顔でそれを見ている。
「ひ、ひょっとして・・・」
小島の声は最後まで言えない。姿がはっきりと見えてきたからだ。その右肩には目を覆いたくなるような傷口がぱっくりと開いている。腹部もざっくりと裂かれ、内臓らしいものがはみ出ている。それなのに、顔はとてもかわいい女子高生だ。
ざーっと音がするのをみんなが耳にした。一気に血の気が引く音だ。
「あそんでぇー。ねぇー。あそんでよお。いっしょにちだらけになろう!」
その声が全身を掴むように皆凍り付いた。ただ一人、小島だけが反射的にクラブを振り上げたが、それは女生徒を素通りしてしまう。MP体だ! 小島は事態を認識して結局凍り付いてしまった。どうやって闘うんだっけ。もう思考も停止していた。
「あ・・・」
確か説得するんだ。そう気づいて話そうとするが舌が動かない佐伯。その脇にすりよる幽霊。
「あそぼーよー」
幽霊の手がすっと上がる。と同時にその爪が10センチ程も伸びた。それで佐伯を引き裂こうとする霊。動いたのは山崎だった。一瞬早く佐伯を突き飛ばしたのだ。
「ぐ!」
左肩を深々と爪でえぐられて山崎がうめく。その爪は剣道着の上に何の痕跡も付けてはいなかった。しかし、肩にまるでつららでも突き刺されたかのような痛みと冷たさが走り、彼はうずくまった。
「山崎っ!」
助けられた佐伯が飛び出す。と、霊が瞬間移動し、一瞬で彼の背後にいた。
「ひだりじゃないよ、み・ぎ!」
そう言って彼女は佐伯の右肩に爪を突き刺した。
「ぎゃあ!」
佐伯の悲鳴。手から竹刀が落ちる。小手のまま右肩を押さえてよろける佐伯。
「こんどはだあれ? おなかに行くよー!」
霊はすぐ隣にいる小島に迫る。
「やめろー! 人の体で遊ぶなー!」
叫ぶ小島。霊はすっと動きを止めてにやりと笑んだ。ぞくっとする寒気を周囲にまき散らして。
「どおしてよお。いいじゃない、たのしいでしょー!」
「た、楽しくなんかない! あっち行けー!」
叫びながら必死でクラブを振り回す小島。
「たのしいじゃない。みんなであそぼうよお」
またニッと笑う霊体。
遊ぶ。それがこの幽霊の目的?
加賀壬は必死で考えた。そう、説得しちゃえばいいのだ。それを思い出した加賀壬は一生懸命考えた。どこかにヒントがあるはず。説得の。
遊ぶ。一緒に。いっちゃいや。幽霊の声とその姿を結ぶものは?
「うっ!」
小島が腹を押さえて倒れる。その手にあった懐中電灯が加賀壬の足元に転がった。それを見た加賀壬の脳裏にぱっとある考えが閃いた。それを目標に、そこまでの行程を思い描く加賀壬。頭部のライトのスイッチを切って思考をまとめる。その間に今度は北村が襲われたが、彼女はストロボをばしばしと焚いて幽体をまごつかせて逃げた。うずくまりながら山崎が自分の荷物から塩の袋を出し、それを一掴み投げた。ぎょっとして避ける幽霊。
「んもう、いーわよーだ。こっちのひととあそんじゃうからねーだ。ね、あそんでー」
幽体が加賀壬に向いたのと、彼女の思考が一本の道につながったのとは同時だった。
幽霊。思いを遂げるために、一途にそれをなそうとする純粋な存在。純粋。つまりは子供だ。
「イヤ!」
加賀壬はきっぱりとそう言った。腕組みをし、じっと幽霊を睨み付ける。
「そーんなかおしたって、こわくないもーん」
幽霊は動ぜず、加賀壬の腹を狙って爪を突き出そうとする。でも加賀壬は逃げない。
「ダッサーぃ。あんたってサイテー。まーだそんな古い遊びしてるのぉ」
腕組みしたまま下を向き、上目遣いで軽蔑のまなざしを送る加賀壬。幽霊がぎょっとしたのをその目は見逃さなかった。いける! そう思った加賀壬は切り札の言葉を口にした。
「おっくれてるー!」
そうきっぱりと言われ幽霊はかっとなった。仕方ないじゃないの、時間が止まってるんだから! 幽霊はそう抗議しようとしたが、その前に加賀壬はしゃがみ込み、小島のライトを手にしていた。
「今の遊びはこれよ!」
「?」
幽霊が興味を牽かれ、のぞき込む。かかった。やっぱり純粋だ。遊びという言葉に瞬間的にひっかかったのを確信して加賀壬は脇のスイッチをいじった。
不意にラジオが鳴り出す。交通情報だ。チューニングし、他の局を探す。と、さすがにFM。ビートの利いた曲を流している局がすぐに見つかった。電波が通じていて助かった。そう加賀壬は思った。実は本来、電波は通じていない。結界内に存在していた幽霊が興味を持ったので、その縁(えにし)が電波を引き込んでいるのを加賀壬は知らなかった。
すぐに胸のポケットからマジックを出した。迷路に迷った時のために持ってきたのだ。床に大きな丸を幾つか書いて、幽霊を見た。
「知らないの? ビートに合わせてステップ踏むの」
「あ、しってるー! ちょっとまえにゲーセンではやってたよね」
「ちょっと前? それって前に流行った時じゃない? もうすっごく昔! もー、これだから学校に閉じこもってる人は遅れちゃうのよ。ま、昔も今も基本は同じだから、この曲で行ってみて!」
加賀壬はルールを説明した。
「さ、行ってみよー! Yeah!」
丁度曲が変わった。拍手でビートを取る。シモンズがばしばし効いたノリのいい曲だ!
しかし。
幽霊は哀しい顔をした。
「てじゃだめ?」
「なにいってるのよ! ステップが基本でしょ! さ、早く。あなたの次ぎにあたしがやるからね。採点はみんなでしてもらうから」
「・・・」
頃合いよし。加賀壬は急に大声を上げた。
「あー! あんたなに? 足がないの! やっだー、それじゃ遊べないじゃないよ!」
加賀壬はがっかりした顔で幽霊を見た。幽霊は悔しそうに唇を噛む。
「つーまんなーい。なーんだぁ。遅れてる人は遅れてる遊びしてたら? つーまんなーい」
加賀壬はそう唱うように繰り返しながら両手を頭の後ろに組んで向きを変えて、彼女をシカトする格好になった。
「うー! つまんない! もうやめ! べつのにしよう!」
「もう止め?」と、くるっと振り向いた加賀壬が結論を導く誘導発言をした。
「やめやめ!」
「あっそ」
加賀壬はラジオを切った。
「じゃ、遊びはおしまい。そしたら次はやっぱり勉強ね。学生だもんね。仕方ないよね」
「えー、べんきょう! やだあ、あそぼうよお」
「あんた本当に学生? ここって進学校でしょ? なに寝ぼけたこと言ってるの! 遊びだけじゃなくて勉強でも遅れちゃうよ!」
遅れると言われどきっとする幽霊。
「ま、急には大変だから、復習ね。今日は何を勉強したの?」
加賀壬は話を「時間」に向け始めた。これが一番早いと踏んだのだ。
今日? そう言われ幽霊は悩んだ。えっと今日・・・。何曜日だったっけ。
「えー、今日習った事も覚えてないの! それじゃ遅れるの当たり前じゃない。
いい、思い出して、今朝起きてからどうしたの? 朝ご飯は?」
親切そうな声を作るのに罪悪感を感じるが、このまま幽霊にしておくよりはよっぽどいいはず。加賀壬は決心してさらに言葉をつなげた。
「大丈夫だって。順番で思い出せばいいのよ。ね、朝ご飯は何を食べたの」
幽霊はぽつりと答えた。
「たべてない」
「どうして?」
「ねぼうしちゃって。いそいでたから」
「ほら、ちゃんと思い出せるじゃない。じゃ、通学は何で? バス? 自転車? 電車?」
「じてんしゃ・・・」
「途中で誰かにあったりしなかった?」
「うーん。もうずいぶんおくれてたから。みんなもう、とうこうしちゃってたみたいで・・・」
加賀壬ははやる心を抑えて、つとめて同じ調子で次の言葉を言った。幽霊の傷口から見て、多分これだろう。そう、ここが勝負だ。
「他に何か気づいたことない? いつもと違うこと見なかった? たとえば・・・
交通事故とか」
幽霊が動きを止める。それを確認して加賀壬が静かに言葉をつなげる。
「自転車で飛び出しちゃったの? それとも何かを避けようとしたのかな?」
「ううん。あたし、ちゃんとしんごうまもってとまってたの。それなのに、それなのに、つっこんできたの。あかしんごうむしして。あたしよけようとしたんだけど、したんだけど・・・。
いたくって、ちがいっぱいでて、いたくって・・・」
幽霊は両手で顔を押さえてなきじゃくった。
「遊びに行きたかったの?」
「うん・・・。ちゅうがくのみんなと・・・。でも、ぜったいにこうこうはここにはいれっておかあさんが。だいがくにはいるまでは、べんきょうにしゅうちゅうしろって。はいったらサークルかつどうでもなんでもしていいっていったの。でも・・・」
加賀壬は身を屈めてその俯く女生徒の顔を見上げた。
「遊びたかったのにね。
でもここにいたら、ずっとこのままだよ。新しい遊びもできないし。それにここだと、一回遊ぶとみんないなくなっちゃうでしょ?」
「うん。そうなの。もっとあそんでほしいのに。ずっとあそんでほしいのに・・・。みんな、いっちゃうの・・・」
加賀壬はそっとうなづいた。
「さみしいよね、それは。哀しいよね。
でも高校入学をやり直すのはできないよね。
だったらさ、最初からやり直せばいいじゃない?」
「さいしょから・・・やりなおす?」
幽霊はすがる目つきで加賀壬を見た。その瞳は先ほどまでの狂乱の色がなく、普通の目のようだった。その目に加賀壬の瞳が映っている。眼鏡の奥の静かな色の瞳が。
「そう、やり直そ! こんな所にいてもずっとこのままだよ。外に出ようよ。ほら!」
そう言って加賀壬は窓を開けた。冷たい夜の空気が入ってくる。
「私は空を飛べないから一緒には行けないけど、道を示してあげる!」
そう言って加賀壬は窓から身を乗り出してヘッドライトを最強にした。一直線に光りの道が延びる。天に向けて。
「うえに、ゆくの?」
「うん。途中で壁があるけど、あなたなら大丈夫。だから、ね、新しくやり直そう! 新しいお友達。ずっと遊んでくれる仲間。そして好きな人と出会って、結婚して。ね、ここで止まってたら、だめ」
「でも、でも。ここからでたことないもの・・・。こわい」
「大丈夫。私が見ていてあげる。ここで見ているよ。道しるべになってあげる!」
加賀壬はヘルメットを外し、そのビームを上に向けたままで幽霊を見た。
「あなたの名前は?」
「みか。かのう、みか」
「じゃ、みかちゃん。見てるよ、私が。ずっと。ね?」
すーっと美香は体を浮かせた。
窓から外に出る。不安そうな顔で振り向く彼女に微笑む加賀壬。
「私は宏子。また会おうね。みかちゃん。約束だよ」
「うん。ひろこちゃん、こんどこそあそぼうね」
そう言うと叶野美香の体はビームの中に入った。そのまま上を見る。
「なんかまぶしい。うえがまぶしい」
「見える? 本当に!? 良かった、きっとそこが入り口。ね、大丈夫でしょ?」
「うん。わかる。いくね」
美香はすーっと登っていった。結界を通過すると、そこだけ空間が開き、その先にビームが伸びているのが見えた。
加賀壬はずっと見守った。ビームの中にその姿が見えている間。そして見えなくなっても、ずっと。やがて結界が再び閉じ、ビームは宙に消える状態に戻った。
とんと肩に手が乗った。振り向く加賀壬。その目は涙で一杯だった。
「頑張ったね、ひろこちゃん」
「うん・・・。頑張った。頑張ったよ、あたし。でも、でも・・・」
「良かったね、みかちゃん」
「うん・・・」
加賀壬は泣いた。北村の胸にすがって思いっきり泣いた。
第五章
佐伯も小島も山崎も命に別状はなかった。しかし小島は出血こそないが、重傷のようだ。すいぶん顔色も悪い。佐伯と山崎もつらそうだ。二人ともそれぞれ片腕をだらんとたらしている。小手を外してやると、手は血が通っていないかのように冷たかった。しかし、かろうじて脈はある。MPへの損害というのはこういうものなのだろうか?
「なんか眠い。徹夜した後みてぇ。それに、寒い」
ぼやく小島は北村に支えられてなんとか立ち上がった。しかし、もう戦力にはならない。加賀壬はバックパックの下に結わいてあった銀色の保温シートを広げてそれで小島を包んだ。気休め程度かもしれないが。北村がその体をシートごと抱きかかえている。
佐伯と山崎は自立はしている。が、その片腕は多分だめだろう。少なくとも今夜は。
加賀壬はポケットの上からとっくりを押さえて悩んでいた。説明会の時、分けて飲むことはできないと言っていた。魔法のおくすりなんだから定量飲まなければ効果ないのは当たり前だろうに。あの時、そう加賀壬は思ったが、今はそれができないのが本当に悔しかった。
一番の重傷は小島だ。しかし、佐伯か山崎を回復した方が戦力になる。帰り道も分からないのだから、その方が確実だろう。北村はなんとか歩ける。我慢してもらうしかない。
では佐伯と山崎、どちらに? でも、もしかして小島の傷は見た目がなんともないだけで、内臓が機能停止しているかもしれない。凍ったみたいに冷たい手の様に。このままでは腎臓とかどこかが動かなくて死んでしまうかも。どうしたらいい? どうしたら・・・。
唇を噛んで悩む加賀壬に佐伯が気づいた。震えるその手がポケットを押さえているのに。
「山崎を回復してやってくれ。あいつの傷は俺を守ろうとして・・・」
だが言い終わるより前に山崎が首を振った。
「使うなら小島だ」
山崎も加賀壬の悩みに気づいていたようだ。
「ひょっとして、霊水?」と北村。彼女の方はその存在を今思い出していた。
「そうか、じゃ、小島君、早く飲んだ方が・・・」
北村はそう言って支える小島を見るが、彼も首を振る。
「僕、僕が回復しても・・・。あんまし役にたたないからさ。佐伯か山崎、直してよ」
加賀壬も頷いた。
「多分、それが一番安全」
しかし、佐伯も山崎も断固として断った。歩けるし、走れる。いざとなったら逃げることもできる。しかし、今の小島にはそれもできない。彼を回復した方が安全だ、と。だが加賀壬は覚えていた。目標の魔性を倒さない限り出られないことを。この結界から。
なら。一か八か、やるしかない。
加賀壬は決心して、きっと音楽室の扉を睨んだ。
「あ、あんたまさか・・・」
驚く北村。
「しかし、それしかないぜ。結界を壊さないとな」
佐伯の言葉がみんなに事実を認識させたようだ。そうなのだ。倒さない限り、力尽きるまで彷徨うのだ。他のパーティが来てくれるかもと、北村がつぶやくが、その可能性が低いことは皆知っていた。さっきからずいぶんここにいるのに、誰も来ないのだから。
「よし、じゃ、今は霊水は使わない。加賀壬さん、もしも誰かが倒れたら頼む。
みんな、いいな。もう一踏ん張りだ。行くぞ!」
そう言う先頭の佐伯は右腕が使えない。怪我のない加賀壬が、自分が代わろうと言ったが、彼は首を振った。
「知らないのか? 竹刀は左手で振るうんだよ。右手は微妙な向きを決めるために添えているだけだ」
そう言って彼は竹刀の端を左手で掴むと、ぶん、と片手で振って見せた。風を切る鋭い振り。
「大丈夫だ。俺が行く」
だが、その時山崎が前に出た。
「攻撃はできる。だが防御が効かない」
彼は右手で模造刀を持って佐伯の前に立った。
「・・・」
佐伯は黙った。そのとおりだ。敵の攻撃を弾くには右手がいる。しかし、山崎も左手が利かない。
「お前・・・」
「俺が盾になる。そして避ける。お前が踏み込め」
山崎の言葉に佐伯は瞬時考え込んだが、よし、としっかりうなづいた。
「いいか、みんな。絶対帰ろうぜ!」
佐伯が面の奥でにやっと笑うのが見えた。
「もち!」
と北村がウィンクを返す。
「開ける」
山崎の声。左右に開く戸が動いた。
音楽室には灯りがなかった。剣道部員達は電灯を持てない状態なので加賀壬と小島が光りを照らす。山崎がすぐにスイッチを見つけたが反応がない。と、佐伯が足元に落ちている物に気が付いた。それはぺっちゃんこに潰れた懐中電灯。その周囲にあるもの。飛び散った黒っぽい液体。
「血!?」
「な、なんだ?」
ここで一体何が?
周囲には窓があるはず。カーテンでもあるのかと左右に光りを伸ばす。そこには机と椅子でがっちりとバリケードが作られていた。
光りが中央に踊る。北村がストロボを焚こうかと小声で聞いた。ビームと違い、全部が一瞬だがくっきりと浮かんで見えるはずだ。
それを実行しようとした時、ビームが何かを捉えた。小島と加賀壬の胸のライトもそこに集まる。
部屋の奥。一段高くなった所に何かが見えた。
それは制服姿の生徒。ここの生徒かと一瞬加賀壬は思ったが、光りにネクタイらしい物が見えた。その制服は彼等と同じ物だ。
周囲を見回すが何も他に怪しい物はない。
「大丈夫か!」
佐伯と山崎が先頭になって走り出す。ザイルの両端が移動するので結ばれている三人も一緒に付いてゆく。
倒れていたのは五人。
「えっちゃん! みっき! えみまで……起きて、ねぇ!」
北村が女生徒を揺する。
「遠藤! おい遠藤!」
「佐々木!」
どうやらメンバーを交換したあのグループだったらしい。全員ひどい状態だ。足がねじくれ、制服が引き裂かれ、血まみれの腕が破れた袖から見える。白いのは、あれは骨? 加賀壬は吐き気を覚えて口を押さえた。
これじゃ、これじゃ誰に霊水を使っていいのか・・・。そう途方に暮れた彼女の耳に、かすかな音が聞こえた。はっとする加賀壬。周囲を見る。彼女以外はみな壇上に重なり合って倒れた友に必死に呼びかけている。その悲鳴の様な声の中で何か。
ピッケルをぎゅっと握り、周囲を見回す。天井を見る。ことごとく何か太い鞭のような物でたたかれたようにへこみ、蛍光灯の残骸があるだけ。右に顔を向ける。机と椅子のバリケード。そのまま後ろにある黒板に光りを向けたとき、また聞こえた。なにかごろっと転がるような音。はっとして左を向く。身構えてそっちに胸と頭の二本の光りの帯を向ける。ふと気づいてナイフの柄の蓋に付いたコンパスを見る。それはくるくると落ち着かなげに回っていた。
「手を貸してくれ加賀壬! 加賀壬・・・?」
佐伯が不自由な片腕で生徒を抱きかかえようとしながら、加賀壬の様子に気づいた。
「加賀壬! 加賀壬どうした!」
全員が加賀壬を見る。ピッケルを両手で構え、二本の光りの束を部屋の一方に向けるその姿。
「何か、いる」
加賀壬はそうつぶやいた。全員がゆっくり立ち上がる。佐伯が、山崎が武器を手にする。小島が、北村が電灯を照らして周囲に光りが交錯するがどこにも誰もいない。
「どこに?」
北村の問いに加賀壬は分からないと答えた。でも、いる。絶対!
「幽霊?」
「違う。HP体。だってみんな血だらけだから。天井も壊されてるし、懐中電灯だって・・・」
懐中電灯? そうだ、入り口に転がっていた電灯。なにかで押し潰されたような。
「何もいないぞ!」
「何か見たのか?」
「ひろこちゃん、何を見たの?」
口々に問いかけるが、加賀壬の思考は今、耳には向いていない。ふと、みなが加賀壬のつぶやきを聞いた。ぶつぶつとつぶやくその声を。
「押し潰す。天井まで伸びる・・・。生徒をなぎはらい・・・そして積み上げた。多分、入り口で。そう血だまりで。
入り口とこの壇上を三角形としたら・・・そのもう一辺は部屋の隅。
この部屋で一番重いもの。移動もできるもの。さっきの音は、あれは車輪? そういえば、そうだ。間違いない。入口で見た時には、あれはもっと手前を向いていた。そうだ、絶対!」
「おい、加賀壬!」
佐伯がすぐ側に来た。
「構えて!」
そう言いながらリストバンドを外した。
「何?」
佐伯はとまどいながらも反射的に竹刀を持ち上げた。山崎も加賀壬の側に来た。右手の剣を正眼に構えたままで。
「北村さん、小島君! ザイルを外して! 早く!」
加賀壬の声に躊躇したが、結局二人はザイルをつなげる金具を外した。かちゃり、かちゃりという音を確認すると、加賀壬が動いた。
「頑張る!」
そう叫ぶと、加賀壬は右手を大きく振りかざし、力一杯にピッケルを投げつけた。ひゅんひゅんと風を切って飛ぶピッケル。一直線に部屋の隅にあるグランドピアノに飛ぶ。その中央部、弦の張られた部分に突っ込むピッケル。げいん、と弦が鳴る音、はしなかった。代わりに部屋中に響き渡ったのは・・・
ぎゃぁぁぁぁ!
耳をつんざく不協和音。グランドピアノの鍵盤の蓋が開き、長い舌が宙に舞い、その巨体がねじくれる。加賀壬のピッケルはその中心にささっていた。
「きゃぁぁ!」
つんざく様な悲鳴は加賀壬。まさか本当に生きているとは。自分の思考の結果が正しい事の証明を喜ぶよりも先に、彼女は恐怖に悲鳴を挙げた。
しかし、もっとびっくりしたのはピアノの方だ。不意打ちを得意とする自分が、不意打ちを食らったのは初めてだったのだから。
ひきょうものー!
いつもの自分の行動は棚に上げ、また妙な未解決和音でピアノが叫んだ時、山崎と佐伯が既に仕掛けていた。山崎の刀は蓋を支える支柱を叩き切り、佐伯の竹刀は鍵盤の蓋を上段から叩きつけて閉じた。突き出ていた真っ赤な舌をかんでまたうめくグランドピアノ。しかし、次の瞬間その巨体が、足の下に付いているローラーをごろごろと鳴らして佐伯にのしかかろうとしてくる。その目前に刀を振るう山崎。と、急に伸びた舌が彼の腹部を直撃する。かろうじて胴にその直撃を当てて逸らすが、片手ではバランスがとれず、袴にもつれて倒れる山崎。
がすっという鈍い音。舌が彼の右腕を力一杯叩いたのだ。そのまま巻き付き、その大きな口で飲み込もうとする。
やっと立ち上がった佐伯が竹刀で殴りかかり、その舌が緩んで山崎を離した。しかし、剣はそのまま飲み込まれてしまった。
「佐伯!」
山崎の叫びではっと振り向く佐伯にまた舌が伸びる。足がからめとられ、身動きができないその刹那、ピアノの足の一本が彼の右足に乗った。
「ぐぁぁぁぁ、ぐっ!」
悲鳴と言うよりは断末魔といった方が相応しい声。佐伯はその苦痛で意識を失った。びゅんと音がして何かが飛んだ。ピアノはそれを難なく舌でつかんだ。それはゴルフクラブだ。北村が渾身の力を込めて投げたのだが、足のふんばりが効かない状態ではスピードが足りない。絶望する北村。足元でうごめきながら、何とか前に行こうとする小島。
「さ、さ、えきぃ!」
山崎は立ち上がろうとするが両腕共に思い通りに動かない。かろうじて上体を起こし、立ち上がろうとするが、舌に足をなぎ払われてどうと後ろに倒れた。
そこまで、加賀壬は身動きできずにいた。ピアノが正体を現してから、恐怖に全身を鷲掴みにされていたのだ。しかし、両目は見開いたままだ。佐伯の苦痛も聞こえていた。
あたしにできること。
加賀壬は今見ていた状況からたった一つの希望を即座に見出すと、それを実行した。頑張る! そうつぶやいて。
「いやぁぁぁ!」
必死の形相で出口に走る。ピアノは獲物を逃すまいと舌を伸ばすが、加賀壬はそれを避けて走る。しかし、ザイルがそれを許さない。すぐに腰に手をやり、ザイルを外そうとするがそこで立ち止まったのをピアノが見逃すはずがない。伸びきった舌が再び向きを変えて加賀壬の足元をなぐように迫る。ぱっと飛び退いて、そのままヘッドスライディングのように地面を滑る。
「助けて! 助けて!」
加賀壬は丁度目の前にいる山崎に叫んだ。苦痛に耐えながらなんとか上半身を持ち上げようとしていた彼にしがみついてその影に隠れる。
ピアノは恐怖に震えるその声に満足しながらも、伸ばした舌で戸を閉めた。ゆっくりと料理する構えだ。
ピアノがごろごろと低い音を立ててゆっくりと前進してくる。
「たすけてーっ!」
山崎の影から再び加賀壬が飛び出す。今度は壁面のバリケードに向かって。机の足の一つを持って、一生懸命はがそうとするが、しっかりと食い込んでいる上にピアノの唾液で固定されているそれはそうそう外れない。仕方なく、そのバリケードによじ登る。ピアノはにやにやという不気味な笑みを浮かべながら加賀壬に迫る。
と、室内が急に光りに満ちた。ぎょっとするピアノ。反射的に目をつむる加賀壬の瞳に焼き付いた残像のような映像。それは北村だった。連写というか、連射状態でストロボを焚いていたのだ。
薄目を開ける加賀壬。ピアノは身をかがめてその光りから目を守っている。今だ!
加賀壬は飛び降りた。蓋が外れたピアノの背中。ピッケルが刺さった中心目がけて。
どしん、と尻餅を付く。ピアノはびっくりして背中を曲げた。振り落とされそうになる加賀壬。しかし、その時には両手にしっかりとピッケルの柄を握っていた。激痛に身を震わせながらも、ピアノはもう一度背中を揺すった。加賀壬の体が弾き飛ばされる。しかし、その寸前まで握っていたピッケルが加賀壬の体重と遠心力によってぶつんぶつんと弦を切り裂き、背中に大きな亀裂を生んだ。
ごわぁぁぁ
背中を折るようにして苦痛を現すピアノ。加賀壬は立ち上がると再びその巨体目がけて走り出す。しかし。ピアノへの不意打ちはそこまでだった。舌が鞭の様にびゅっと走り、彼女の腰に巻き付いた。
「きやぁ!」
悲鳴を挙げた瞬間。もう舌は彼女の胴を締め上げていた。腕も巻き込まれ身動きできない。それどころか呼吸も。肺が圧迫され、胃液が逆流し、むせかえろうにも喉も締め上げられている。
「がっ! ぐ・・・」
もうだめ。あたし死んじゃう。加賀壬は苦痛に意識が薄れるのを感じた。間に合わなかった。焦点が薄れていく目で自分の足元に巨大な牙がよだれを垂れ流しながら開いて行くのが見える。どうやら舌に巻き上げられたまま、天井近くに持ち上げられ、そのままかみ砕かれようとしているらしい。
間に合わなかった。あたしには。でも、でもみんなは多分大丈夫だ。お願い、みんなを助けてね。
意識が薄れる。お父さん、お母さん、ごめん。黙って来ちゃって。鮎川さん、開田さん、短かかったけどありがとう。香土岐先生。あたし、あたしだめだった。何かをしたかったけど。ごめんなさい。
ああ、あたしはここで死ぬのか。多分さっきのみかちゃんの様に自縛霊になって・・・。
そう思った時、彼女の声が聞こえた。
ひろこちゃん、こんどこそあそぼうね。
ごめん。あたし天国行けそうもない。ここに縛られちゃう。そうぼんやりと思いながらも彼女の耳は自分の声を聞いていた。
また会おうね。みかちゃん。約束だよ。
そうだ・・・約束したんだ。約束・・・。
あたし・・・。あたし、頑張る!
加賀壬は目に意識を戻した。もう牙はすぐそこだ。それが閉じようとした時、かろうじて動く下半身を無理矢理曲げてそれを避けた。
がりっといういやな音。と、同時に加賀壬は宙に放り出された。床にどすんと落ち、その衝撃で激痛が走る。舌が戻り、加賀壬の体は人形の様にごろごろと転がった。
いい気味。舌噛んだんだ・・・。もう何も見えなくなっている加賀壬はそう思った。
その時。激しい気合いの籠もった叫びが響いた。
「うぉりゃー!」
どすんという衝撃とぶちぶちと何かが切れるような音。ああ、間に合った。薬が効いたんだ。
「めーん!」
再び気合いが走る。ずしゃんというすごい響きが加賀壬の体を揺すった。
加賀壬は思い出していた。さっきの光景。山崎の影に入った時に飲ませた霊水。彼の前に手早く置いた自分のマチェットナイフ。一瞬からみあった二人の視線。
お願い
分かった
あの瞳の色。
ああ、よかった間に合って。でも、やっぱりあたしには・・・
「ひろこちゃん!」
ああ、眠い。寒い。
「かがみぃ!」
うーん、うるさいなぁ、だぁれ?
ふっと戻る視界。そこには誰か二人がのぞき込んでいるらしいのが見える。誰?
「ひろこちゃん、しっかり!」
何か熱い物を感じた。喉に。そして胃に。苦しい。吐き出そうとするが体が言うことを聴かない。く、くるしい。体が焼ける。足が、腕が、あぁ・・・
「大丈夫だ、効き出すまで我慢だ、加賀壬!」
ああ、この声。山崎君だ。
「すぐ、すぐ良くなる!」
あ、小島君だな、この高い声。
そして抱きしめているのは北村だ。あれ? 佐伯君は? 佐伯君は? 加賀壬は目を開け、佐伯を探そうとした。
「まだ無理に動くな! 数分かかる!」
山崎がいた。佐伯君は? そう問いかけようとするが声が出ない。唇が少し動くだけだ。
山崎の視線がまた加賀壬のそれと絡み合った。
「大丈夫。失神してるが、息はある。脈も。佐伯は頑丈だ」
そう。よかっ・・・た・・・。
第六章
目が覚めた時。吐き気に襲われたがすぐに直った。でも頭ががんがんするし、体中がまるで正座してしびれちゃった足の様にじんじん痛い。
「い・・・たいよぉ」
声が出た。
「起きた? ひろこちゃん」
目を開けると目の前に包帯を巻いた足が見えた。そのすぐ上に制服。そしてその上には・・・
「霊水ってすごいね。もう見る見る直って行くんだもの」
北村が微笑んだ。
「あれ、あたし・・・」
上体を起こす。北村が支えてくれた。
周囲は人に満ちていた。誰かが担架で運ばれている。ずいぶんたくさんの生徒がいた。私服の女の子がたくさんいて、包帯を巻いたり傷口を消毒したりしている。中にはあの二年生達も。
「みんなは?」
「佐伯君は医務室。多分入院だろうけど、骨には異常ないって。小島君と山崎君はさっきから先輩に質問されてるわ。二人とももう大丈夫みたい。お香嗅がされてたら、顔色もずいぶん良くなったしね」
彼女の見た方に顔を向ける。すぐそばで椅子に座る小島とその脇に立つ山崎の背中が見えた。よかった。無事なんだ。
「じゃあ最初にミミックに気づいたのはその加賀壬さんだね」
質問しているのは野球部の先輩だ。その脇に私服の女生徒がいる。いや、生徒じゃないのかな? 随分大人びてるし。
日本人形の様な髪型の綺麗な人。その細い目が加賀壬の視線に気づいてこっちを見た。
「それで、最初に不意打ちを仕掛けたのもその子だね」と副会長。
「はい。戦闘に参加できない僕らにザイルを外せと指示してからです」
「戦闘総て、彼女の指揮です」
そう言ったのは山崎だ。
あたしの指揮? ええっ!?
「的確な指示だったね。で、それから?」
「剣道部二人で仕掛けたけど、決定打には至りませんでした。佐伯は押し倒され、山崎は残った腕もやられ、動けなくなった時、僕のクラブを北村さんが投げたんですけど、それもだめで」
「動けるのは加賀壬さんだけだったんだね」
「急に逃げ出したんです。自分に注目を集める演技でしたけど」
小島の声に、あ、ばれてたのかと舌を出す加賀壬。それを見ていた綺麗な私服の女性の目が笑ったのに加賀壬は気づかなかった。
加賀壬さん、ねぇ。特に綺麗というわけでもないわ。どちらかと言えば目立たない、周囲に溶け込んじゃう子ね。プロポーションはまだ未発達。少年のような体つき。でも、目はくりっとしていて意志が強そう。ああいうタイプはいなかったわねぇ。
ふふっ、かわいい子だわ。眼鏡の奥はどうなのかしらね。早く見たいわ。あの子と遊ぶとしばらく退屈しないで済みそう、と本条百合恵は心の中で舌なめずりをしていた。だが、ノンケの加賀壬は全く気づかなかった。
「逃げるふりをしながら山崎のとこへ行き、影で霊水を飲ませたんです。それでさらに注意を惹きながらピアノを移動させて佐伯を助けました」
「ナイフも置いた」
小島が状況を説明し、山崎がぽつりと追加した。
「その時、北村がストロボを焚きました。なんとか加賀壬を支援したくって。で、あいつがそれに目をくらませた時に加賀壬があいつの背中に飛び乗ったんです」
「乗った? ミミックの背中に?」
びっくりする先輩たち。それを聞いて本条がターゲット・ロック・オンを決めたのが側にいた天使隊、いや、元天使隊の女の子にはぴんときた。彼女の鋭い視線を感じ、加賀壬は身をひきつらせた。直接触っちゃいけなかったのかな? 伝染性の病気でも持ってたとか。加賀壬は視線が怖ろしくなってうつむいた。
その間にも事情聴取は続いている。
「・・・ええ、そうです。で、山崎がナイフで叩き切ったら奴はこなごなになって。出てきた霊水を飲ませたんです、加賀壬に」
「成る程ね。確かに加賀壬さんとやらの指示で攻略できたんだね。
おめでとう。第三波の会員も全員命は助かったから。重傷者がいるし、救急車送りではあるけどね。全員生還。これは彼女の的確な判断とその指示に従った君たちの成果だ。おめでとう」
「他の班は? 無事なんですか?」
加賀壬はそれを聞きたくてまた先輩を見た。彼は笑顔だった。よかった。金居君たちも無事だったんだ。
「校内を彷徨わされていたよ。君たちが結界の中心たる魔性を倒したんでね、重傷者もいるけど、全員救われたよ。第一波は特にあやういところだったんだ」
ああ、みんな助かったんだ。ああ、良かった。加賀壬は涙が溢れてくるのを感じて手で拭おうとした。だが、それよりも早く北村が彼女の体を抱きしめていた。
嗚咽する北村。体が震えている。ああ、そうか。今緊張がとれたんだな。加賀壬はそう思い、彼女の柔らかな髪をなでた。
「終わったね。良かったね」
加賀壬の声に北村はうなづいた。
ふと気づくとさっきの私服の女性が目の前に来てひざまづいていた。すっと差し出されるハンカチ。それと同時にもう片手が伸びて加賀壬の眼鏡を外した。
「よく頑張ったわね、宏子さん。さ、こちらをお向きになって。涙を拭いて差し上げましてよ」
きょとんとしながら、なすがままになる加賀壬。誰、この人? 先生? いい香りのハンカチ。それにこの人の香水もいい香り・・・。
部屋中で医療活動をしていた元天使隊の全員が硬直していた。「おねぇさまが名字ではなく、名前で新入生を呼んだ」ことに。生徒会長だった本条の私設医療隊とも言える天使隊。その実体は本条の私設親衛隊だったから。新たなるライバル登場を全員が確信したのだ。
「申し遅れましたわね。わたくしは超常研OBの本条百合恵と申しますの。昨年度の生徒会長を務めておりましたわ」
その細い目がまた笑った。
え!? ほ、本条? ひ、ひょっとして、あ、あ、あのお嬢さまぁ!
「これを機に、ぜひ仲良くさせていただきたいものですわ。わたくしたち二人の運命の出会いの記念日ですものね」
ぱにくる加賀壬はただ頷くだけだった。その様子を入り口の影から見ていたOBの仲田野美雪は両手を広げ、ふうとため息をついた。またお嬢の悪い病気が始まった、と。
第七章
数日後。やっと缶詰状態から解放された「殿下」が会室に現れた。まっすぐに会長室に行く。そこには美咲と篠木原がいた。
「よう、面白い新入生が入ったんだって?」
殿下に会釈すると脇の椅子を示す美咲。かつて会長専用だった椅子にどっしと腰を降ろす、超常研創設者、殿下。
美咲は他の会員同様にパイプ椅子を愛用していた。この椅子は殿下のために残してあるのだ。
「4パーティを組み、同一ターゲットに向かわせました。第三波が真っ先に魔性と接触しましたが、ミミックタイプの魔性に不意打ちを受け壊滅。続いて訪れた第二波がこれを撃破しました。四波で重傷者二名。負傷者多数。ですが、魔性退治だけでなく、途中で自縛霊一体の浄化まで成功。大成果です」
「ちっ、編集のやろー、閉じこめやがって。面白い所を身損ねた」
悔しそうにうなる殿下。締め切りさえ守っていればそうならなかったんじゃとシュンは思ったが、もちろん口には出さない。
殿下は椅子をぐるっと回し、腕組みしてその背に乗せた。
「ミミックに不意打ち食らわしたんだって? その上またがってピッケル突き刺したんだって?」
嬉しそうに目を輝かせる殿下。
「正確ではありませんが、概ね事実です」と美咲がいつもどおりに答えた。この二人はいつもそうだった。やること成すこと破天荒で感情の起伏の激しい殿下。そしていつも冷静な秘書役の美咲由美。会長職をバトンタッチしても、二人の間は変わらない。
「見たかったなぁ。で、そいつに本条が目ぇ付けたって?」
「確認は不可能です。しかし、天使隊の先輩たちはそう確信しています」
殿下は頬杖を付いた。
「ま、あいつらはイジメはしないからな。ほっとくしかねぇが。OB会でもそいつの事で電話が飛び交ってるみたいだぞ。
えっと、何て言ったっけ、その頑張りっ娘(こ)」
殿下は昔から後輩の名前を覚えるのが苦手だ。その分、いつも勝手にあだ名を付ける。野球男、柔道男、曲芸娘、眼鏡。
どうやら彼女の名前は頑張りっこに決まったようだ。
「加賀壬宏子さんです」
無駄とは知りつつも美咲がその名を告げる。
その頃。その本人は本条総本家からのお茶会のご案内に真っ青になっていた。今日は会長に調べてもらった叶野家に言ってお焼香をしようと思っていたのだが、どこから聞きだしたのか、本条先輩はそこまで車で送ってくれるらしい。で、その後お茶会。「制服でおいでなさいな」という直筆の注釈付きだ。ど、どうしよう。加賀壬は開田と鮎川と山崎に囲まれてまたぱにくっていた。
こうして、後に殿下、美咲由美に続く三代目会長に就任する加賀壬さんの初陣は幕を閉じた。だが彼女の波乱に満ちた高校生活は始まったばっかりだった。
合掌・・・。
つづく