
von:秋澤 弘
第一章
東宮会のエスパー、リャン・バウテカと華僑系コンツェルン、シャオツェンのジョージ・ハワード。互いに探り合いの状況を離れ、共闘することになった二人は一旦単独行動に戻り、双方の所属する上司に状況の報告を行なった。二人とも同時に新規情報も求めたが、さしたる進展はないようだ。
事前調査だった仕事だが、事態は急転し、一気に行動を要求されていた。しかし、今は東宮会、シャオツェン共に表立って動けない状況だ。東宮会は対立状態になっていたライナ・テッックと昨年末に情報開示協定を結んだばかり。手打ちをして半年しか経っていない。今、彼らと敵対することは協定成立に骨を折った理事たちがまず認めないだろう。シャオツェンの長老会にも同様に首を横に振る者がいることは間違いない。過去の事件の結果、シャオツェンにとってミサキは触れてはならない忌まわしい存在だったからだ。
結果、リャンとジョージは共に直属の上司である理事と長老の独断許可で動くこととなった。理事も長老も援助と増援を約束してくれたが、公に行動できる状態ではないので、即時動けるのは二人だけだ。行動に出る前に、残された時間は短かった。
今、二人は上司公認の元、互いの手の内を明かし合い、事態を最初から見直す事にしていたのである。
「発端は四月。ライナの研究施設が強襲された、上海での事件だな。おそろしく念入りな電波妨害と、ライナが警察の介入を恐れて事後に設備を徹底的に破壊したお陰で残された情報は少ない。分かっているのはシャドウが防衛に参加し、侵入者阻止に失敗したこと。
侵入者はたった一名。性別不詳。サムライソードを持っていた。電波障害の完璧さからバックに相当の組織が付いていると予想されたが、どことも関与が認められない。
ちなみに言えば、東宮会は上海にシャドウの研究施設があること自体知らなかったよ」
「シャオツェンも関与していませんよ。そこに何かあることは予想していましたが、シャドウ関連と断定するには至っていませんでした」
ハワードが付け加えた後でバウテカが話を進める。
「それからしばらく、シャドウの配置状況は不明。デモンストレーションも行なっていない。侵入したサムライも行方不明のまま。
その二ヶ月後、フィリピン船籍の貨物船でシャドウの保守装置が横浜に陸揚げされた。陸路で北上、このすぐ南にあるインターチェンジを降りて、その後不明。今月に入り、別途日本に派遣されたライナの実働部隊が同じく配置不明」
「結果、本社はここにライナが戦力を集めていると断定しました」
「ああ。そして今朝、新たに装備が運び込まれ、その後トラックを処分したか、何者かに強襲されたか・・・」
「それは不明ですが、何者かの追跡に気づき、急遽ライナが装置を回収し、爆発を起こして追っ手をまいた、という説を私は推しますね」
バウテカは同意を示したのか、うなづいてから会話を続けた。
「確実なことは、ここがミサキとHIIの本拠地ということ。そこにライナ・テックの極秘新兵器と特殊部隊まるまる一小隊が秘密裏に配置された・・・と。
ミサキとHIIは同盟している。内紛により、彼らの一部がライナと手を組んでいる可能性はない。それも確実だな?」
「はい。この地での表世界はHIIの中枢、ホンジョーが、裏世界はミサキが支配してますね。両者の関係は同盟と言うよりも共生です。ホンジョーは政治的、経済的な力を求めている。ミサキはそれには興味がない。彼らの興味は何百年もの間、対ミスティック戦のみに向いています。
一方、兵器産業に足場を保たないホンジョーは自身の利益のために平和が続いてくれないと困る。民事よりも軍事に経済が傾くのが必至となるミスティックの侵出。それを滅するミサキはその点、大変役に立っている。
ホンジョーは資金と情報操作を提供し、ミサキは平和を提供する、とまぁそんな関係ですね。今のところ、仲間割れの気配も予定もないようです」
「そしてミサキのノウハウを生かした対ミスティック用兵器という、全く新しい兵器市場をHIIが独占開発する、と」
その言葉にジョージは軽く眉毛を寄せた。
「んー。困りましたねぇ。
まぁ隠す事はやめにしましたので。
お察しのとうりです。シャドウもトップシークレットですが、対ミスティック用兵器の比ではありません。なにしろシャドウは通常兵器の最先端というだけです。数年すれば他社に抜かれて旧式ですよ。一方ミサキの超常兵器は他社が後続開発しようにも、まずはミサキの協力がなければ難しい。なにしろ敵そのものの能力も戦力も個数もが不明。それを少しでも認識しているのはミサキだけ。よって機密度は桁外れです」
「となると、同じく桁外れの価格が付く、と」
「ましてや買い手は世界中。陣営分けすらありません。北に売ったから南に表だっては売れない、ってことがないんですよ。アパートの一室に完璧なネズミ防御が成されたのなら、両隣にネズミが逃げ込むわけですからねぇ。一国が配備したら、みんな我先にと買い付けるでしょう」
「なるほどな。通常兵器でライナに、超常兵器でHIIに遅れを取った某コンツェルンとしては死活問題ということか」
「さすがにそれにはノーコメントですね」と言ってからジョージは数秒口をつぐみ、こう続けた。
「少なくとも通常兵器市場で大きな変化は起きないと思いますよ、当面」
「ほぉ。シャドウ計画は勝手に暗礁に乗り上げるって奴か?」
ジョージは脚を組み直し、カーテンが閉まったままの窓を見た。どこまでを明かして、どこから隠すか。通常のエージェントであれば許されないその計算を、ジョージ・ハワードは許されていた。彼は命令される側ではなく、下す側の人間だったから。
「今回の件に直接からむ可能性があるのでお知らせしておきましょう。シャドウの開発・量産化には一つ、大きな難関があるのです。それはそれは大きな難関がね」
リャンは「ほぅ」と軽く促しながらも、神経を集中した。
「これはライナも知らないことなのですが。実はですねぇ、シャドウの原理、それを開発したある人物は、うちの本社にも接触してきたことがあるのです。競札状態にして、値段を吊り上げようとしたわけですね。しかし、その難関があまりにリスキーだったので、本社は提携を蹴った。結果、ライナだけがその原理を入手し、開発を開始した、というわけです。
で、その難関ですが。原理の詳細は言えませんが、これだけはお知らせしましょう。
シャドウの原理を知れば、その開発を阻止・抹消しようとする存在があります。ある方面では最強の存在。こちらから手出ししない限り無害ですが、敵対したらとんでもない被害を被りかねない存在。しかも先頃、伝説の<ジェネシス>を得、さらに強化された存在」
「ミサキ・・・?」と、リャンが問う。一呼吸置いてからジョージは頷いた。
「ライナは甘く見たようですが。うちは以前生え抜きの工作員+世界トップクラスの術者でミサキに仕掛け、成功率100%だった作戦を軽く阻止されてますからね。その時、一切の隠蔽工作がミサキには無意味だと思い知らされました。マジックには結構自信があったんですけどね、ミサキのESP、クレアボヤンスやフォーアテルの怖さが身に染みたのです。一人で両方持ってるなんて。エスパーの術者なんてもう反則ですよ。
しかもその後の方がもっと痛かった。以後我々はミサキの敵と認識され、ミスティック研究分野の世界中ありとあらゆる組織から絶縁状を叩きつけられました。そちらとさえ商売を再開するまで何年かかったかは言うまでもないでしょう。結果、超常研究分野で独占状態から転落し、新参の連中に惜敗。
そこからなんとか盛り返しつつある、うちからしますと、ミサキは触れてはならない存在なのですよ」
リャンは表情を隠すことも忘れ、呆然とした。
「じゃ、今回の件は簡単じゃないか! ライナが自己利潤のため、ミサキをつぶす。そうだろ?」
「それはどうでしょうか・・・」
「それ以外ないじゃないか! シャドウにはアンチ・マジック・シェルがある。術者は無力なんだぞ! 一機あたりの作戦行動時間が極端に短いとはいえ、十機あれば本拠地に乗り込んでミサキをつぶすなんて造作ないことだ、違うか?」
ハワードは熱くなったリャンを押さえるように両手を持ち上げた。
「まぁまぁ落ち着いてください、Mr.バウテカ。考えてみてください、もしそう読んだなら本社はあなたを雇ったりしません。ミサキとホンジョーにシャドウの情報を売りますよ。ライナがミサキに直接攻撃するのなら本社はそうやってます。本音を言いますと今はまだそうしたくないのですが。
おしゃるとおり、確かにシャドウは強力な兵器です。局地戦用陸戦兵器としては最強評価。防空性能も驚異的で毒も細菌兵器も電波障害も効かない。しかもアンチ・マジック装備まで完備。シャドウが対超常能力を有し、能力者に対して圧倒的優位に立っているのは戦ったあなたが一番ご存じでしょう。
シャドウの外装に使用されているパルスマティック・システマイズド・カーボナイト・スチール、つまりパルス鋼は魔法の源となるパワーソース、マナのパルスを相殺し、消失させます。そのため、外周にアンチ・マジック・シェルを張る効果があります」
「あぁ。魔法だけでなく、ESPもPKも遮断される・・・」
バウテカは顔を曇らせた。忘れようにも忘れられるはずのないあの戦い。シャッテンAusf.IIIとの激戦が脳裏をよぎる。あの声までもが。
ハワードはそんなリャンの心に気づかぬ様に先を続けた。
「PSIも波動をベースにしているので当然ですね。タイプによって異なりますが、スペックデータ上、最新のMk.XIIは最大時直径4メートルに及ぶシェルを張る。その内部では魔法もPSIも効果しません」
「外からはいけるんだがな。直接念動で殴るのは無理でも、建物の基礎を破壊し、瓦礫に埋めることはできる」
「そうですね。シェルの範囲外から魔法で作った弾を通常の銃で打ち込んだ場合、シェルに触れた途端、弾は消えます。逆に通常の弾を魔法で作った銃で撃った場合、これは物理的エネルギーを失うことなく、シェルを貫通します」
「当たりゃしないがな」
二人は同時に肩をすくめた。
カップが空になっているのに気づき、ハワードがリャンのカップにコーヒーを注いだ。
「ありがとう」
そう言ってからカップに口を付け、ゆっくりと喉を潤した。そうして高ぶっていた感情を抑えてから、バウテカは話を続けた。
「魔法もPSIも効かない以上、シャドウは能力者より優位にある。もともと精神系の能力は効果しないし、物理系もシェルで守られている。それで、どうしてシャドウでミサキを潰すのに疑念が起こるんだ? ライナとしては最善策じゃないか」
「それがですねぇ、シャドウを出した以上、今回の件はどうもミサキへの攻撃とは思えない。シャドウは暗殺向きじゃないのです。とにかく壊しすぎる。ミサキのメンバーを全滅させたなら、同時に壊しちゃいますよ、ゲートの封印まで」
「それは・・・そうだな」とつぶやくリャンは、そんな簡単な事に気づかなかった自分を恥じた。こんな判断ミスを犯すほど、シャドウの存在が自分を熱くしている。いや、熱くしすぎている。リャンは今更ながらそうなってしまったあの戦いを呪った。
「今、我々は中世期よりも飛躍的に進歩した科学技術と大規模破壊兵器を有しています。反面失った物も多い。今、存在する術者はごくわずか。実戦経験もほとんどなく、平均能力も落ちています。剣や鎧に魔力を込める術は数百年の歴史の中で完成されていますが、機械に込めるには独立構成のパーツが多いため大変困難です。MBT一台、ミサイル一基に幾つ部品があるかご存じですか? とんでもない数ですよ。そもそも手作業部分がほとんどない。剣や鎧の様に術を練り込めながらパーツを削り出すなんてこと出来ません。ましてや弾丸一発ずつに込めてたらキリがない。もともと鉛には込めにくいですしね。
なんとか頑張ったとしても、今の軍隊には肉体を持たぬゴースト・タイプ・ミスティックに対する攻撃手段がない。核攻撃ですら素通りです。唯一有効なアンチ・マジック・シェルでも防御しかできず、ゴーストタイプに攻撃は不可能。
ミサキ&ホンジョーの超常兵器が配備される前にゲート開放が起きる。その意味するところは世界の破滅です」
二人はその想像に思わず身を振るわせた。
美咲の御山。その地下には世界最大級のゲート、異界からの門がある。江戸時代、美咲の先祖が封印はしたが、その門は今でも生きている。世界各地に存在する数々の魔術集団からの助力を得、その破壊を目指したが、結局「破壊不能」と諦めるしかなかった。今この時にもゲートは封印されているだけだ。根本的な解決は成されていない。
先月、美咲家次期当主、美咲真由美のしもべとなった<終末の剣>は、かつてジェネシス、つまり創世と呼ばれていた。その力は無と有を入れ替えるもの。虚無の中で振るえば存在を生み出す創世の杖となる。そして存在に振り下ろされたならば、それを抹消する終末の剣となる。
ジェネシスによって、さしものゲートも消去されるであろう。世の術者たちはそう考え安堵した。しかし、結果は否だった。ゲートの核となる部分がそこになかったためである。ゲートの先、美咲からは三界と呼ばれる異次元にある開口部にもそれはなかった。真由美の中にある<終末の剣>はこう言った。核は死霊の魂であり、転生していないため消去もできない、と。当主、美咲ユミはそれを聞き、怒りに肩を振るわせた。この地に攻め入った闇の王は死してなお、現界に呪いをはき続けているのか、と。
かくして美咲の「門」は今もそこにあるのだ。眠っているだけで。
「封印を維持しつつ、その守護者を葬る。これは破壊に手加減が効かないシャドウには難しいですねぇ。ライナがミサキをマークしている以上、それに気が付かないはずないです」
ハワードが話を続けた。
「ということで、シャドウをミサキにぶつけるのは危険極まりないんですよ。さらに今後の突発事態に備え、美咲の代理も門の守護に付けねばならない。これはライナじゃ無理です。要するに、ライナ自身はミサキに手を出すべきではないのです。
最初、シャドウをホンジョーに、チーム16をミサキにぶつけ、同時殲滅かとも推測しました。しかし、ホンジョーは近在とはいえ広範囲に拠点が分散しており、数と行動時間に制限があるシャドウでは無理があります。またチーム16は白兵戦に長けた傭兵一個小隊にもあたる戦力ですが、結局は術を持たぬ者。ミサキの結界内に踏み込んでただですむわけがない。それをサポートするために術者の集団でも用意していれば別ですが、今、その動きはない。それはあなたの所属する東宮会でもご存じのはず。
シャドウが量産化されていたなら、チーム16の各班にそれぞれシャドウを付け、シェルと行動を共にする戦法もあるんですけど。シェルを効果させる時間があまりに短い今、その戦法は突破口を開く程度ですぐ時間切れになっちゃいますし」
「なるほどな」と、リャンは重い口を開いた。
「こういうことだな。
ライナがシャドウの完成を目指すのなら、ミサキがいてはならない。で、ミサキを葬るつもりであれば、シャドウや兵士を使うのは分が悪い。能力者を使いたいところだが、科学技術一辺倒のライナ・テック、魔法はからきし。他と手を組もうにもシャオツェン、東宮会、EAA、RCROR、SENSCOMと、どこを頼っても機密を保持できない。個別に雇おうにも、アンチ・マジック・シェルなんてもんを作っちまってから能力者からは総スカン状態だ。もしいたとしても、金でプライドを売る三流ばかり。八方塞がりだな。
そうなりゃお家芸、中距離弾道弾ぶち込んで、どかんってのが手っ取り早かろう。
しかし・・・手荒な真似をして異次元からのゲートが開いたらそれこそおしまいだな」
「もちろんです。ゲートは物質的なものではない。故に核でも破壊できない。封印を解いちゃうだけです。ましてやミサキノオヤマは世界最大級のゲートですからねぇ、ミサイル打ち込んでゲートを開くような馬鹿はいないでしょう」
「面での制圧が不可能な以上、点での制圧しかない。つまり唯一勝算がある方法は奇襲だった・・・」
うなづくハワード。
「そのとうりです。ライナがこの地に戦力を集めているなどという情報が流れる前に、シャドウを突入させ、HIIの情報中枢とミサキの防御結界を破壊する。その後、ミサキの主力が出陣した隙にチーム16を潜入させ、混乱に乗じてミサキズ・アーク・メイジ全員を暗殺する。それが唯一の方法でした。しかし、とっくにその機は逸しているわけでして」
「準備期間が長すぎだからなぁ。HIIも情報を掴んでるだろうし、ミサキのESP持ちも危機を察知しているはずだ」
「そうなんですよ・・・」
「ミサキじゃなくHIIを狙ってるって可能性は低いな。超常兵器はまだまだ未完成。当分ミサキの協力が必須だ。開発データを盗む、あるいはHIIをつぶす、そのどちらでも、その後ミサキと友好関係を持つことが必須条件。脅しも買収も効かないのは誰でも知ってるからな」
「となれば、シャドウなんて出しちゃってライナだとバレバレな今、HIIなき後ミサキが組むのはライナ以外、となりますねぇ」
「結局のところ、美咲にとって代わる存在がないってのが問題点だな。ライナがそれを見付けていれば話しは早いんだが。あるいはゲートを消す方法を」
「それはさすがに・・・。あのジェネシスがさじを投げたんですからね」
大きく肩をすくめるハワード。
「ライナの一部が勝手に動いてる、あるいはどっかの組織と結託してるって可能性は?」
リャンの問いかけに、ハワードは肩すくめ状態のまま、首を横に振る。
「兵器開発部門の虎の子シャドウと、保安部のエリート、チーム16ですよ。この二つを同時に動かしている以上、ライナの中枢からの指示ですね。
でもですねぇ、実はシャドウとチーム16、微妙に情報が交錯しているんですよ。仲間割れだったら面白いんですけど・・・。別任務と見せかけるための情報操作の可能性高いですね、残念ながら。
結局のところ・・・」
ジョージは立ち上がり、窓辺に向かった。分厚いカーテンを指先でめくり、窓の向こうに広がる町を見つめる。
「はてさて、ライナ・テックの皆さんは一体ここで何をしているんですかねぇ・・・」
第二章
「・・・よとせ地の守り手、我が胸に」
雨が篠突く中、かすかに呪の詠唱が響く。あたりは漆黒。月はおろか、星さえない夜の木立の中、雨にうたれながら詠唱を続けるのは美咲家筆頭術者、美咲由美だった。
「世のはらからたる四精霊よ、我が身を因り代としその御力を現し給へ・・・」
由美が言葉をつむぎながら揺らす土鈴の音。それに合わせ、周囲を取り囲む六つの土鈴が鳴る。
「いつとせ光生むもの、我が前に。
むとせ闇満つるもの、我が身の背に。
黄昏と彼誰にて代りし御方々よ、今ひととき共に我が身に集いてその力を示し給へ・・・」
二つの放流が彼女の体を包み込む。白と黒の流れが美咲の体の周囲に安定した後、いよいよ呪文は最後の段階に入る。
それまで無言のまま由美の脇に立っていた相棒、啓介は由美の鈴の音に合わせ、ゆっくりと腰に下げた刀の柄に手を伸ばした。
「最後にして最大の力。七魂が司、星を見るもの! 我が額に宿りて時を示し給へ!!」
声と共に重力が数倍に跳ね上がったかのようなプレッシャー。雨はまるで滝の様に流れ、地に落ちた後、水滴すらしぶかず、大地にへばりつく。
そのタイミングに合わせ、啓介の刀、<七つの剣>が鞘走った。
一条の軌跡。それは流れ星のごとくに走り、由美の額飾りで光る宝玉に吸い込まれていく。
「我、美咲由美が我が名と我に流るる血によって偉大なる御方々に願い奉る! 集い給へ七つのつるぎ! 我が身に理を現し、我をその守護者と成さんことを! いにしえの盟約を今こそ叶え給へ!」
今までより強く、一斉に八個の土鈴が鳴る。由美の左手、周囲の長老たちの左手、そして啓介の刀に結わかれた諭壬の土鈴が。
雨音さえ消すかの様に一際重い音色が響いた後、由美は、いや七剣(ななのへのつるぎ)は瞳を開けた。美咲流の奥義であり練術法を用いるための最高位形態である。円陣を組む長老たちの背後で、さらに大きな円陣を組んでいた術者たち、撃手弐の者がすぐに長老を傘の中に入れた。
「ご苦労でした。引き続き担い手には結界を、撃手には警備をお願いします」
七剣になった由美の声に従い、二重の円陣は方陣に組み替えられた。
長老に混じり、担い手、つまり術の支援者として土の精霊を担当していた白鳥あゆみは足が震え、耳鳴りもひどく感じていた。
本家はすごい。すごすぎる。
今日築館から到着したばかりの彼女。本家の御主に目通りを終えた後、師匠となる美咲由美が学校から帰るのを待った。由美は挨拶もそこそこに、あゆみを修練場に連れ出し、力量を見極めた。そしていきなり今夜の予定にあゆみを組み込んだのだった。
築館は分美咲の長である。分家の中でも結界陣に特に優れている家系だ。あゆみ自身も結界術者であり叔母である御主、ユウカの呪方陣造りには毎回支援の指名を受けていた程の熟練である。そのあゆみでさえ、一の呪言から終の言まで、僅か一分という由美の<七とせの呪法>は信じがたいものだった。実は由美一人でも七剣(ななのへのつるぎ)になれると知ったなら、あゆみは卒倒したことだろう。彼女の新たなる師匠の技量は今のあゆみには想像できない程なのだ。
ななのへのつるぎ。地水火風光闇時。美咲の術者がこの七精霊を身に宿した状態の事を言う。その名は七精霊を集わせるからだとも、美咲流練術を現在の形にまとめた明治期の御主、諭壬の愛刀、<七つの剣>から来ているとも言われている。今啓介の腰にあるのがその刀だ。美咲流の術者ではない啓介は七つの剣に結んだ諭壬の土鈴で、相棒たる由美とコネクトしている。二人にとって諭壬は因縁浅からぬ故人だ。
七剣は練術法と呼ばれる、複数精霊の重なり合った呪法中、最難関&最高峰。この状態であれば、世界を構成する七種類の精霊全てが力を貸してくれるので、いかなる存在に対しても魔法的アプローチが可能になる。ごく短時間であれば、精霊の入れ替えや、風に乗って飛行したり、水と風の力で水中呼吸しながら潜行するといった、とんでもないこともやってのける。
この状態になる術、または儀式の事を<七とせの呪法>と呼ぶ。美咲本流の血筋にしかこの術は使えない。美咲流の術者でその血が薄い者も七とせの呪法を修行中に必ず学ぶが、基本四精霊を宿すのがやっと。それに光闇を加えた六精霊を従えることは大変困難だ。そして第七の精霊、「時」を寄りつかせる事ができるのは本流の血筋のみであり、他は召喚はおろか、接触することもできない。
室町末期、美咲の祖先である見前家頭領の娘が鬼の王に見そめられ、成した子が七霊術を得たという伝説がある。そのため、王の血が流れる美咲本流の血筋にしか七精霊が同時に従うことはないという話だ。所詮は伝説、真偽の程は定かではないが、実際に七とせの呪法を使えるのは美咲本家の血を濃く引く女性術者だけ、いわば本流のみの特権であった。その遺伝子こそが、本家に女児しか生まれないという特殊性を生んでいるのではと、呪術美咲流を長年に渡り研究している城之崎(きのさき)教授は仮説を立てている。特に<由見>の持ち主でない由美こそが七剣の最強の使い手である事から、七剣の資質は本来の美咲のものではなく、代替わりの途中に加えられた物だという説を城之崎教授は提唱している。
美咲の血を僅かでも宿す女性であれば<由見>の力を持つ可能性がある。場や物に込められた念や思いを目にする技であり、熟練者であれば隣接している別時空を見ることもできる。これは男性に発現したことはない。由見の持ち主で、なおかつ十分な術力があれば、本流でなくとも七剣に成ることが可能だ。とはいえ、七とせの呪法は使えないので、使うことの出来る者が大変面倒で長ながとした儀式で清め、その血を吸わせた霊器が必要となる。いわば器物写しだ。その霊器を用いて七とせの呪法を模した儀式を通じて七剣になる。しかし、この儀式は術者の意識を失し、そのまま回復しない事があるため、余程の緊急時でなければ行われていない。術者の心が、血を提供した本流の者にとけ込んでしまうからだと言われていた。
美咲流の呪法は世界各所に伝わる流派の中でも特殊な存在だ。特に由見の技は名高く、魔法を研究する者であれば大抵耳にしたことがある程だ。しかし、<七剣>はほとんど知られていない。それはその使い手がごく少数であることと、闇の王クラスの強敵相手にしか用いられていないことが原因だ。
まさしく秘術、奥義なのである。
現在その使い手は美咲本家に七名、分美咲にいる使い手も含めても総勢11名しかいない。それほどに限られた術であった。ましてや美咲流練術法で唯一の直接攻撃魔法、奥義中の奥義「七魂斬振」(ななつたまざんふるべ)の修得者として知られているのは今、美咲由美ただ一人である。美咲の歴史を紐解いても、この奥義の使い手は十名と見いだせない程、幻の技だ。
七とせの呪法はそれほどまでに特殊なものだ。その力は強大だが、それ故、術者一人の手に負える物ではないので、術の中心となる者、「呪柱」と六名から十二名の支援者、「呪の担い手」の共同で行う。例外的に一人でこれを成せる由美でさえ、重要な任務では集団呪法によって宿す精霊の力を増やすことが多い。
この練術は呪柱が召喚した精霊一つずつを、陣を組んだ呪の担い手が一旦預かり、それを徐々に術者に渡していく。それを四回行う。次いで光と闇の精霊を召喚、これは担い手が外から霊圧を込め、追い込む形で術者の身に纏わせる。最後に全員で最大の精霊、目に見えず、耳に聞こえぬもの、「時」を呼ぶ。形にまとまることのないこの最強精霊を、術者が持つ霊器に寄りつかせるのに、数分はかかる。
それがどうだ。まずあゆみは受け持った土の精霊の、あまりの巨大さにそれを宿しきれなかった。実は彼女は土術にはちょっと自信があった。しかし、召喚された土の精霊は雲を突く巨人の様にあゆみには感じられた。呪柱たる由美の術力、そのキャパシティがとんでもなく大きかったのだ。よって召喚された精霊の半分もあゆみの身に入っていないであろう。バランスを崩す。そう思った時、既に精霊は皆、由美に受け取られていた。あゆみは、ただ必死に精霊を束ね、由美の中に吸い込まれる時に、形を整え続けるので精一杯だった。光と闇も担い手が己の呪力そのものを結界にするだけで、輪にまとまり、圧力をかける必要もなく、由美が纏った。
そして何より時の精霊がすごかった。一瞬で現れ、そのまま由美に宿ったのだ。筧が時専門の術者であると聞いてはいたが、そのサポートがあったとしてもあの即喚、即納ぶりは理解を超越していた。
あれだけの精霊を、どうやってあの一身におろせるのか。それもまたあゆみの心を震わせる事実だ。召喚された七精霊は戻るべき道を担い手に押さえられ、呪柱の意図に従うのが通例。しかし、呪文の終わった今、担い手は何もする事なく、全て由美が一人でおさえていた。いや、宿していた。
膝に力が入らず、かくん、と崩れかけたあゆみ。気を失うと気づき、胸元に下げたお守り袋に右手をあて、慌てて心をまとめようとした。しかし、それよりも早く、彼女の腰を支える力強い腕。啓介だった。
「びっくりしたみたいだな、新入り君。なんか相棒の術は普通じゃないらしくてな」
ずぶ濡れになった顔でにやりと笑む啓介。あゆみが礼を言った時、撃手弐の長、真紗希冬美が啓介に代わってあゆみを支えた。啓介は再び相棒の隣に立った。
「も、もうしわけありません、わ、私・・・」
あゆみが言いかけた謝罪を手で軽く制し、七剣である由美が口を開いた。
「術量は体感しましたね? 次の機会でそれを生かせれば良いのです。幸い、今夜は実戦形態ではありますが、偵察です。実戦たる退魔業の折に生かせるよう経験を積んで貰ったのですよ、あゆみさん」
「あ、ありがとうございます」
真紗希とあいあい傘状態のまま、あゆみは深く腰を曲げて頭を下げた。
うなづいてから、由美は後ろに控えていた真由美に手招きする。緊急時に備えていた本家結界師の長、古村柚木恵が差しだす傘に入ったまま、真由美がぴちゃぴちゃと浅い水たまりを踏んで歩んできた。真っ赤な長靴がこの場にごっつそぐわない。
「私の準備は整いました。そちらもよいですね?」と、由美が声をかける。すぐさま真由美の背にふわりと朱鷺(とき)色の翼が広がった。精霊に直接作用する、その実体のない羽根は今、雨を弾くこともなく左右にすらりと伸びていた。
と同時に聞こえる「うん」と「いいよ」の二音。前者は真由美本人の、後者は彼女の中に居るしもべ<終末の剣>の返事だ。真由理という名を与えられてはいたが、真由美直属のしもべ故、名を呼ぶのは失礼だとばかりに「朱鷺色の腕(かいな)」とか、「次期様のしもべ」等と呼ばれており、その名を呼ぶ者は少ない。
次いで由美は啓介を振り返った。真由美を見ていた時の表情から優しさが消え、一瞬にして退魔師・七剣の顔になる。
「私と次期様の体、慎重に扱えよ啓介。不埒な真似をしてみろ、一夜の快楽に身をゆだねた後悔は一生ものだぞ。分かっておろうな」
「へいへい、わかってらぁ。
しかしお前よぉ、俺にだけそんな態度とらねぇでもいいだろ? よいですね、とか言ってたくせに、いきなり、おろうな、かよ」
「愚か者。そもそもお前が私に錦悠哉の型など押し付けねば、こんな事態にはなっておらん。己の蒔いた種と知れ」
「もうとっくに影響抜けてるくせによぉ」とぶつくさつぶやきながらも、啓介は真由美と由美の間に立ち、すっくと背筋を伸ばした。
七剣は真由美「達」と瞳を交わしてからまぶたを閉じた。
術者を名乗るあゆみでさえ、その瞬間を悟ることはなかった。左の薬指に結ばれている美咲の鈴がころん、と鳴ったのに気づいた時、朱鷺色の長い翼が地面に落ち、真由美と由美の体ががくりと崩れた。すかさず啓介が左右の腕で二人を支える。あゆみがはっとして見つめた時には、翼は地面に消えていた。
漆黒。だが地中は闇の精霊の支配力よりも土の精霊の方が当然強い。七剣は土精を通して、真由美は真由理の目を通して見ており、周囲の状況ははっきりと認識できた。由美は<気抜け>と呼ばれる美咲流の幽体離脱で、真由美は心を真由理に預ける事で、三つの心は地中深くに沈んでいった。
七剣は土と水の精霊が作る道を通っているので、地脈や水脈のある方向には風のように速く進める。しかし、このあたりでは地層が掘り起こされていないので土精も断層化されている。よって横滑りならばともかく、潜るのは遅くなる。土の中でも自在に「飛べる」真由理の方が行動の自由度は高い。圧倒的に。
「ちょっと先見てこようか」という言葉がかすかな振動として七剣に聞こえた。土の精霊に触れることで声を伝えてきたのだ。この地下にゲートがあるのなら由見たる真由美が七剣よりも先に見いだすであろう。真由理はそれを勧めていた。
しかし、七剣の返事は「否」の振動だった。かつて真由理自身、赤き三種、心技体に別れていた。その一つ「技」は純然たる術力の塊だった。この下層にある物がその類だった場合、真由美では見ることが出来ない。彼女は一切呪法が使えないのだ。
さらに七剣を不安にさせているのは真由美を守る真由理の弱点だ。真由理自身は<創世の力>の化身故、精神攻撃系は一切効果ない。そのためその系統の攻撃に対しての反応が鈍いのだ。これまで対応する必要がなかったのだから、当然といえば当然である。攻撃だとさえ気づいていなかったのだから。それが七剣の不安の素だった。物理系であれば、呪を唱えねばならない七剣よりも早く、堅固に守るのだが。
「私が潜る速度に合わせ、平行してより広範囲を」
七剣からの指示に従い、円を描くように策敵を行う真由理。
時の精霊とは不思議なものだ。寄りつかせている間、時間の感覚がなくなるのだから。やはり時間という尺度は人間のものなのだろう。そう七剣は心の片隅で思った。真由理はもとより時間の感覚など無かったし、潜りだしてからどれだけの時間が経過しているのか、分かるのは真由美一人である。そのはずなのだが、元々彼女ものんびりというかおっとりというか・・・。時間に鈍いのだ。結果、潜りだして数分なのか数時間なのかも分からない。もうすっかり時間的に迷子になっている三人だった。
かなりの深さまで潜ったはずだ。七剣は地表から染みこんだ水の精霊とのつながり方でおおよその目安にしていたのだが、もうとっくに香土岐が示していた予想深度を超えている。それでも何も見つからない。美咲家最強の術者と由見でも。
「異常のある異界は?」
七剣の問いは、別時空にある何かの存在が、こちらに歪みを生んでいるという可能性を考えてのことだ。真由理は今、翼の生えた真由美の姿をしているが、その分身とも言える無数の存在が、全時空の同一点にある。その特性故、複数の界を結ぶ「門」を、その両側から同時に消去できるのだ。
「なんにもないよぉ」
本体を真似た、のんびりした返事。
おかしい。さらに降りながら、七剣は星見の見立てを思い出していた。歳経ているが力ある竜は巨大な玉を噛んでいる。それによれば古い地脈は凶星まで伸びているはずだ。しかし、これまでのところ、巨大な凶星にあたる歪みも、古い地脈すら見つからない。
七剣はそこで停止した。真由理はその周囲をゆっくりと旋回している。
どういうことだろう。ひずみもゆがみも見つからない。術力の欠けらさえ。
七剣はアプローチを変えることにした。すこし戻った場所に、ガスが溜まった狭い空間があった。その厚さは僅か数ミリ。そこに手をかざし、ゆっくりと精霊の配合率を変えていく。土の結合を弱め、水を染みこませ、風を徐々に送る。それら全ての反応を、時を重くする事で早め、少しずつ、空洞を開いてゆく。真由理は七剣の意図を察し、翼を畳んだままその身を縮めた。掌が入るくらいの大きさまで広げると、七剣は左手をそこに起き、意識を手にした土鈴に集中した。微妙にブレだすその姿。鈴だけ実体の物と入れ替えようというのである。これは「成仏しない娘さん」の得意技だった。七剣の状態なら出来るのでは? そう考えた由美の予想は違わず類似の魔法の応用で、その空間に由美の肉体が持っている方、つまり実体の土鈴が出現した。その代わりに肉体が帯びている幻の鈴に七剣は念を込めた。
啓介、頼む
地上では雨が小降りになっている以外、何も変わっていなかった。あゆみは足下から染みこむ水気と冷たさを感じてはいたが、幼少期から術者として修行を積んだ彼女にはそれを知覚から退けることなど造作もない。あたりには雨が地面や茂った葉を打つ音だけが響いている。それらにももうすっかり耳が慣れてしまった。
静かだ。何度目だろうか、あゆみがそう思った時、由美と真由美の体を寝かせてある戸板の脇で、不意に声があがった。
「あいよ、任せろ相棒!」
声と同時に立ち上がった啓介は右手に柄を握り、居合いの要領で抜刀すると体の正面で突然それを止めた。流れるような動きと、一瞬で訪れる停止状態。静と動は何度も入れ替わる。その手にした刀を右に、左に振るい、止めているのだ。その度に雨が激しく振り払われていく。
七回振った所で一度その動きは止まった。しばしの後、もう一度ゆっくりと刀を振ってから鞘に納める啓介。
あゆみは興味津々。しかし、長老や撃手が無反応故、何をしていたのかと問うことはできなかった。
啓介は虚空に一礼し、そのまま地面に座り込んだ。先ほどまでの舞などなかったかのように、またじっと雨に打たれ続けている。
啓介の刀に結んである諭壬の土鈴。それは本来鳴ることはない。うち鳴らすべき中の玉が入っていないのだ。激しい静と動の間にも鳴ることはなかった。由美の土鈴が鳴った時、それに反響するごとく音を発するのだ。そしてその逆もまた可。
七剣が開いたごくごく狭い空間で。由美の土鈴は前触れもなく、ころ、と音を立てた。鈴自体は揺らぎもせずに。音は鈴が地に接する底面から周囲に振動として伝わった。二度、三度・・・
七回それが鳴った時、真由理がはっと顔を上げた。七剣と目を合わせてから真由理は振り仰いだ方向に飛んでいく。真由理からのごくかすかなOKの合図を受け、七剣はもう一度、と啓介に念じた。
ころん・・・
すかさず真由理が舞い戻ってきた。
七剣は先ほどの逆の手順を踏み、土鈴を入れ替え、空間を隙間に戻してから真由理の示す地層に向かう。
そこには。ビー玉ほどの大きさと感じられる球体のなにかがあった。それは実体ではない。目の前にしても真由美の反応もない。
「なんだこれは・・・」
七剣の発する振動はビー玉を貫通している。土の精霊はそこに何もないと判断しているのだ。精霊を介さず、実際に音を鳴らして初めてその存在が分かる物。
「これが巨大な凶星? 存在あって、存在せぬもの? もしくは・・・音の精霊界のものか?」
美咲の教義では、万物は揺らぎ、動く。その最たる物が風の振動、つまり音である。美咲にとってあらゆる存在が振動し、音を発している。そのため、音単独のエレメントに接する術は美咲流に存在しない。しかし、他の流派では、音の精霊を召喚するものがある事を由美は知っていた。美咲流である以上、由美には未だ触れることのできぬ領域だったが。
困惑する七剣。答えを出したのは真由理だった。
「違う・・・。これはどこの世界にも所属しない場所。あるけどない場所。デミ・プレーン・・・」
「疑似空間?」
さすがにその事実に、七剣も身を震わせた。
大いなる意思によってか、あるいは偶然の産物か。虚無に出現したジェネシスの力はその発生と同時に数え切れぬ程の空間を一斉に生み出した。その一つがこの世界である。しかし、多元界の理(ことわり)はそれ自体が揺らいでいる。故にジェネシスの生んだ連続帯とは別個の存在を生じる事があった。存在の一部が突然変質して現れる異空間なのか、あるいはジェネシスの力が及びきらず、時空連続体に組み込まれなかった単独空間か。それは他界との接触なき故、空間を真似たもの、疑似空間と呼ばれていた。
その数が幾つあるのかは分からない。存在しているが感知できない以上、疑似空間は無いのと同じだ。普通は無視されているのだが、力ある者はそれを呼び出し、自身の意思で制御する事さえある。だが、通例は術者や闇の王が力づくで世界から切り取った空間を疑似空間と呼んでいる。由美もこれまでの経験上、それには何度も接していた。しかし、これは術力を感じない以上、自然発生した真の疑似空間だ。
「これが入り口なのか?」
初めて接する真の疑似空間。七剣もどう対処していいのか分からなかった。
「違うよ。これがデミプレーンそのもの。圧縮されてるの」
「これが?」
「時の振動の波長が違うから、存在の大きさも中と外では違う。もちろん時間の流れ方もね」
「中に何があるか見えるか?」
首を振る真由理の姿が脳裏に浮かんだ。
「これは無理。あたしでも触れられないよぉ。だって、あたしの作ったものじゃぁないもの。
姫にも何も見えないって」
真由美は精霊に接触する術がないので、そう真由理が代弁した。
眉根を寄せて七剣は対策を考える。しかし、これは全くの想定外だ。凶星の正体が想定外だし、そこに伸びる竜脈が見あたらないのもまたしかり。
「移動する可能性は?」
「今も動いてるよ。でもすごくズレ方が弱い。一年かかっても数ミリかな」
真由理はその色のないビー玉を見つめながら答えた。
疑似空間。その存在は予想だにしなかったものである。しかし。と七剣は思った。予想してしかるべきであったと。桜中で真由美たちが見た「先のない門」。真由理が見いだせない以上、その先は疑似空間しかありえなかったのだから。
こうなっては一度戻り、知恵者と協議するしかあるまい。そう判断した七剣はその周囲に術力を込め、目印にしてから地表に戻った。
由美が招集し、本家の当主、御主も交えた全体会議は難航していた。室町から続く美咲家であってさえ、前例のない事態である。しかも、その異例は美咲屋敷のすぐ側に潜んでいたのだ。幸いと言うべきか、今月に入った頃から由見の持ち主が近づく不安を予想しており、長老会も知恵者もなるべく地方には出向かない様にしていたので、今この広間には本家の要人全てが集まっていた。その不安の正体がやっと判明したと思ったら、とんでもないものだった、という事である。
「過去の縁が無いとなれば、開いたことが無いか、あるいは由見の技でも見えぬ程、長きに渡って開いていない、ということでしょうな」
知恵者の一人が考え込みながら発する言葉には皆頷いた。しかし、その対策についてはてんでバラバラの意見しか出ない。
「呪力がなく、縁もない。それをどうやって封印すればいいのやら」
「封じてすむものでもなかろう。まずは門から遠ざけることが先決かと」
「封じねば移動も成せぬぞ。霊器に封じて・・・」
「一つの世界を宿せる器なぞ、どこにあると?」
「問題はいにしえの地脈。それとの接点さえ閉じればよろしかろう」
「その接点が見いだせぬのでは? 七剣に成られた由美様で見付けられぬとあっては、我ら幾ら雁首揃えても無駄というもの」
当代御主の顧問である知恵者も、引退した退魔師を中心とする長老たちもさすがに解決策を見いだせない。
冠婚葬祭以外、母屋には出向かないと宣言している御主の次女、美咲美紀子も支援者の列に加わっていた。疑似空間は敷地内にある。美紀子が母から戦い取った「マイホーム」も同じ敷地内にある。夫と娘の美由美に愛犬。ささやかながら彼女が心から愛する家族に危険が及ぶかもしれぬ今回の件は、美紀子にとっても大問題だったのだ。
広間の奥に座る母、御主は次女美紀子同様にただ黙って聞き手に回っていた。議事を進行する筆頭知恵者の真砂友実が孤軍奮闘し続けている最中、予期せぬ報告が到着した。
議事には参加していないメイドさんの一人が由美の元に歩み寄り、その耳に何事かつぶやく。由美は真砂友実から一時退出の許可を受け、立ち上がった。あゆみや啓介の座す末席を通る時、その顔にはっきりと緊張が見えた。
ただ議論を聞いていただけのあゆみは、由美のその顔を見て不安に胸がつまるのを感じた。あれほどの術者でも対応に悩む事態。なんというタイミングで来てしまったのか。やはり自分は本家のお荷物なのでは・・・
ちらりと啓介を見上げると、同じ居候ではあっても、美咲本家で既に居場所を得ている彼は不安も焦りも見せなかった。まぁ、考えるのは相棒の仕事だと割り切っているのだけなのかもしれないが、今のあゆみにはそこまでの解釈は浮かばない。
私はここにいていいのだろうか・・・。筆頭術者様から術を学びに来たものの、今はそれどころではないのだから・・・
じっと座ったまま、あゆみの心が沈んでいく。深く、深く。
不安に心を乱していたあゆみは、ふと視線に気づき、広間の奥に目をやった。あゆみを見つめている視線。己の不安に満ちた心を見抜く様な感触に、びくぅ、と身をすくめるあゆみだったが、その視線から目が外せなかった。
次の瞬間。あゆみはきょとんと呆けた顔になった。その視線の主の口元が笑ったのだ。
それは真由美だった。次期当主として御主の隣にちょこんと座っている彼女が笑みを送ったのである。間違いなく、あゆみに。
分美咲にいる時から本家の次期様の噂は聞いていた。術力は皆無。反面、戦国末期の名君、見前弓と並び称される由見の名手。その目は五界までも見るという。高校在籍中。性格は温厚。誰彼の違いなく親しく接する天真爛漫なお人柄等々。
しかし、聞くと見るのでは大違いだった。真由美の背から数メートルに及ぶ翼が伸び、何の準備もなしで七剣と共に気抜けしたのを見たのはつい数刻前だったのだから。師匠になった由美と同じく、あゆみには理解を超越した存在。その真由美が自分を見ている。そして、微笑みかけられた・・・
白鳥あゆみが凍り付いている間に由美が数枚の紙を持って戻って来た。丁度発言していた長老会の長、観崎はそれに気づくと簡潔にまとめて言葉を終え、広間には静寂が訪れた。皆、由美が席に付くのを待っているのだ。しかし、由美は席を通り越し、まっすぐに御主の元に向かい、紙を手渡した。それを読む御主の目に驚愕が浮かぶ。
由美は御主のすぐ脇に立ったまま発言を求め手を挙げた。真砂友実からの許可はすぐにおりた。
皆の注視を受けたまま、由美の発言が始まった。
「本条総家よりの至急達が参りました。皆様心してお聞き下さい。
欧州・カナダを地盤とする企業体、ライナグループが日本政府に秘密裏で当地に新型兵器を配置した可能性が高いとの報告です。先日来報告にあった近づく不吉な波動の正体は疑似空間ではなく、この兵器投入の事と思われます」
熱心に疑似空間について考えていた一同は、心が真っ白になるかという程の衝撃を受けた。思わず開いた口を閉じる事も忘れ、ぽかん、と由美を見る長老たち。彼らより若い知恵者も目を見開いて固まった。
「開発名でシャッテン、つまり<影>と呼ばれるこのヒューマノイドデバイス、人型兵器はライナグループの得意とする生体技術とナノテクノロジー、人工知能の結晶です。自律行動するロボット兵器であり、一台で最新鋭の戦車三台を瞬時に破壊したと言われる戦力です」
「シャッテン・・・」
しんと静まりかえった広間に、撃手参の長、美咲弓枝の重いつぶやきが漏れた。
「なんてことだ」
「兵器・・・?」
弓枝の声を追うように、ささやく様なあたりからの声はその兵器の能力を知っている者の声。そして事態を飲み込めていない者のつぶやき。それを塗りつぶす様に由美の声が広がった。
「問題はそのシャッテンに装備された抗魔力です。既にご承知の方も多いと思いますが、ライナグループが完成させたと言われるアンチ・マジック・シェルを実装しているのです。
投入目標および目的は未だ不明ですが、本条総家では我らに敵対する物だと認定しました」
議場に大きな驚きの声が漏れる。ライナ・テックが開発した抗魔力は魔法を中和してしまう。その情報が裏で流れた時、世界中の特殊能力者に戦慄が走った。当然美咲家も注目したのだが、その抗魔力はミスティック、つまり魔性には効かない事がすぐに判明した。術の研究家である城之崎教授と、魔性の波動に詳しい精進室長の共同調査で、完全に否定されたのである。
アンチ・マジック・シェルは対人兵器としては優秀かもしれないが、対「妖」兵器にはなりえない。その調査結果が出て、美咲の興味は消えた。退魔性戦のみに専念する美咲には関係のない発明だった。そのはずだったのだ。まさかそれが自分たちに向けられるとは。
「魔法もPSIも無効にする抗魔力を持った最新鋭の兵器なのです。東宮会が誇った真性エスパーチーム、オカファイ・クーファンの特殊傭兵隊をシャッテン一機が壊滅させた昨年の事件は有名です。本条総家でもその威力は予想する以外ないようですが、シャッテンは4メートルに及ぶ球状の対魔法バリアを発生するようです。その内部では一切の魔力・ESPが発動せず、術による攻撃も無効、式神も呪を強制的に解かれるとか。その効果が不明である以上、由見の技すらキャンセルされる可能性も示唆されています。
よって現在の警戒強化体勢は意味を失しました。惑わしの術法による警備はシャッテンには通用しません。元々機械であり精神を持たぬため、暗示も効かず、結界も抗魔力によって無効化されるでしょう。
本条総家では警備員派遣の準備があり、当方よりの依頼あり次第、駆けつけるとの事です。それもふまえ、対策立案への議事変更を申請いたします」
騒然とする広間。疑似空間は驚くべき存在だ。兵器など足下にすら及ばぬ程、大いなる存在である。しかし、疑似空間は今すぐ襲ってくるわけではない。じっくりと対策を練るべき相手だった。一方、今、この瞬間にも襲撃してくるかもしれないのだ、シャッテンは。
制すべき議長の真砂友実も取り乱し、手のつけようがない状況だ。由美は直立不動のまま。御主は目をつむったまま考え込み、その姉は老眼鏡をかざし本条からの通告書類を真剣に読んでいる。騒ぎを収めようと動く者はいない。
事態を飲み込めていないあゆみはとりあえず啓介を見上げた。しかし、彼は今の驚くべき発表にも何ら心揺るがすことなく、落ち着いたまま座っていった。少しほっとし、あゆみはようやく周囲を見回す余裕ができた。と、また真由美の視線を見付けてその余裕は消えてしまったが。
真由美は周囲の騒動にも意を介さず、あゆみを見つめて微笑んでいる。
なんで? 何故私を?
あゆみの混乱を、周囲とは別の混乱を見て取って、その微笑みはより一層深まったかの様だ。そしてその後、真由美が立ち上がった。
「影は大きくて強いよ」
真由美の声が一瞬で広間を制した。
「でも、光も負けてない。一つ一つは小さいけどぉ、みんな集まってくれるもの」
怒鳴っているわけでも叫んでいるわけでもないのに、その声は騒乱の中、一瞬の空白に始まり、今や皆が次期様に注目していた。微笑みを浮かべたままの彼女に。
「大きな波が来るよ。でもどんなに大きくても、一カ所ずつ、しっかりと押さえれば大丈夫。ちゃぁんと鎮まるから。みんなが手伝ってくれるもん。
私分かるもの。今度の波が去って、その先がもっとあるの。お式、楽しみだなぁ、何着て行こうかなぁ・・・」
尻切れトンボで終わった言葉。御主姉妹を間に挟み、真由美と対称の位置に立っていた由美も、その言葉の意味が分からないという表情を浮かべた。発言の最後の方が意味不明だったのだ。
騒然 > 注目 > 困惑。そう続いた広間を掌握したのはやはり御主だった。
「議事変更を認める。しかし事態が火急故、まず臨時の対応を行う」
パン、と手にした扇を膝で鳴らし、御主が凛とした声を発した。即座に水を打ったかのように静まりかえる広間。
「実沙木優美。全分美咲の御主殿に支援の依頼を。一人でも多くの手練れが必要だ。特にお前の所、越前実紗木の呪剣士勢が欲しい。
綿貫我信。東三の間の者を率い、即下屋敷に戻り警戒を強化せよ。
小林、真紗希。撃手壱、弐、総員臨戦態勢。参から五までの撃手も招集せよ。六つ以下は療術者、剣士のみ招集。
由居。小林以下撃手壱を従え、奥矢倉にて使用可能な全霊器、神器を清め、使備せよ。一等価俊即を許可する。倉開けの儀は全て略して良い。
真沙希は敵性兵器の早期発見を旨とする体勢を立案し、疾く実行せよ。術の効かぬ相手であっても術による発見はできるはず。
西田、斉藤新蔵はそれぞれの隊を率い、古墳入り口を死守せよ。壬佐紀、お前が支援に付け。
前野、野村隊は撃手壱と代わり屋敷の警護に。古村、配下を二名づつ付けよ。前野、ヤマキを招集し火器戦への警戒態勢を立案させよ。
弓枝隊は疑似空間のある一帯を封鎖。撃手の招集後は撃手参総員で行え。海良隊はこれを支援せよ。
本居は大仁木家及び飯田一党に通達。我らが不得手とする火器での戦闘になる故、それに長けた手勢を貸していただけるようお願い申し上げよ。
あね様には上厳位と本条総家へ協力申請をお願いいたします。あね様の方でライナグループなる物の更なる情報検索も、できましたら」
美咲家のご意見番、美咲ユミヲは妹に頷くと、すっくと立ち上がり、歳の割に早い足どりで奥の戸から退室した。この屋敷で一番海外情報に近い場所。そこはユミヲの住む離れにある情報端末だったのだ。
「指名ありし者、疾く動け!」
ユミの声に、指示を受けた者が一斉に立ち上がった。
美咲と本条が動き出した。その報告は30分とせずにバウテカに知らされた。情報収集で街に出ていた彼がハワードのホテルに駆けつけると、待ち受けていた彼がプリントアウトした膨大な資料を手渡した。
「いやあ、びっくりですよ。動くとなると早いはやい。トーキョー、コウベ、カナガワ、イバラギ、ニイガタ、タイペイと各地から在野のスペルキャスター、エージェント、マーセナリーと、かなりの人数が招集されてます。ミサキ屋敷の防衛責任者に抜擢されたのはUSマリーンコープス上がりの日系三世だそうで。かねてミサキがこういう事態に備えて飼ってたらしいです。早速部隊編成を始めてるみたいですよ。正直、現代戦は苦手だろうと踏んでいたんですがね、そっちの専門家へのつて、用意してあったんですねぇ」
「こっちの情報じゃGSG9の教官上がりっていうドイツの猛者が、後二時間足らずで到着するらしいぞ。去年からニンジャ・マスターに招かれて来日してて、ニンジャの末裔に対テロ戦の訓練してたんだそうだ。ミサキの招集にニンジャ軍団率いて来るらしい。ま、これはさすがにガセっぽいがな」
バウテカは立ったままで資料に目を通してながらそう言った。それに応えてハワードも大ネタを出した。
「これなんかどうです? 昔ステイツが落とした不発弾を発見したという形で、セルフ・ディフェンス・アーミーの動員要請を県知事がいつでも起こせる手配もホンジョーがしたそうですよ。ペンタゴンにまで当時の爆撃記録でつじつま合わせるようにとミサキからの依頼がいったそうで。
まぁとにかく一気に動いてますよ。
住民の避難計画もいろいろしているようですが。パニックを考慮して苦労しているようです」
資料を斜め読みし、その内の一枚をじっくりと読み終えたバウテカは、部屋に入ってから初めてハワードの顔を見た。
「ライナも兵員増強したか。この情報が確かなら、戦争になるな」
「まぁ当然ですね。しかし、今から入国は至難の業でしょう。ホンジョーもミサキも世界規模の軍事関係にはコネないんですけど、日本国内にはしっかり根っこ張ってますからね。航空会社はもちろん、当然JSDFにも裏でいろいろやらせるでしょうから、昨日までとは段違いの難易度ですよ。空だけじゃないです、日本の海上保安船もホンジョー製の3Dレーダー積んでるくらいコネ強いですから船はまず足止めくらいますね。こうなっちゃうと本拠地は強いです」
バウテカは資料を机の上に置き、その脇に腰掛けた。
「親ミサキ派の東宮会理事にライナに協力しないでくれって依頼が来たそうだ。とりあえず東宮会としては中立を守るってことになってるからなぁ。俺としては立場が微妙だ。なんにしろ、一気に動き出したな。
で、どうだ、ミサキかHIIへ強行突入、あると思うか?」
「難しい質問ですねぇ。本社からの正式な予想はまだ来てないので。私個人としては無いと踏んでいます。どこかで騒いでメイジを引きづり出し、各個撃破。なにしろシャドウは作戦行動時間短いですからねぇ。最新のMk.XIIで戦闘状態Max25分、アイドリング状態でも保って180分。補給と再起動に半日かかる事を考えると遠出もできません」
「ゲート付近での戦闘を避けるため、各地で陽動、戦力分断しシャドウで各個瞬殺、だな。そのための全機招集だろう。二機交代制で3から4カ所ってところかな」
「ミサキ・ホンジョーの応援が集まる前に、チーム16で誘い出し、一気にシャドウで叩く、が確実ですねぇ」
「それなんだが・・・」
バウテカは少し言葉を濁した。自信のある情報ではないな、とジョージは即座に理解した。
「何か未確認情報でも?」
「ああ。今朝のトラック炎上な、チーム16の一部が独断で動いたという話がある。16同士で撃ち合った、ってな」
「わーお、それは素敵だね、リック」
と軽く笑い飛ばすジョージ。だが、そのポーズに騙されるバウテカではない。
「何か耳にしてるな?」
「いえ、こっちも単なる噂なんですけどね。
ホンジョーはライナを怪しいと睨んではいたものの、その動きを掴みかねていた。ライナとの情報合戦が続いていたんです。ところが今夜、タレコミが入ったそうで。シャドウ配置に関する情報だと言うことですけど。で、そのタレコミ、ライナ側かららしいんですよ」
「なに? 意図的なリークだと? 陽動・・・。狙いはHIIか?」
ジョージは大げさに首を振った。
「いえいえ、どうやらライナはその件に本気で慌てたらしいです。偽装じゃなく、本当にタレコミらしいのですよ。誰かは知りませんが、ライナのサーバー経由で堂々とホンジョーに通達した、と。噂ですけどね、足が付かないようにそれは巧妙に細工してあったそうですよ。何しろ、発信元のIDはマイセンにあるライナ・テック本社ビルの秘書課だったそうで。泥を塗られたワフキム会長、ワニ革スリッパに虎皮ガウン姿のままで駆けつけたそうです。トレードマークのライオンヘアーもズレてたって話で。もう大笑いですよ」
「ライナのお家騒動、どうやら本当らしいな・・・。
現体制に反対するとして、目星は?」
再び首を振るジョージ・ハワード。
「分かっていたらとっくにいろいろ対処してますよ。そう、いろいろとね」
「一体全体、どうなってやがるんだ」
ハワードは肩をすくめてみせた。
二人にとっても長い夜が始まった。
第三章
翌日の早朝。ごく一部では大変な混乱が発生しているのだが、世間一般的にはいつもどうりの朝だった。もちろん、それは薄皮一枚で守られた、いつもどうりだったのだが。
24時間対応の病院受付に立つのは桜中三年の小野村はるか。
「はい小野村さん」
差し出されたのはいつもの薬。安全な睡眠薬だと説明された粉薬。最初飲んだ頃は強すぎるのではないかと不安になる程の効き目だったが、最近ではどうも眠りが浅くなっている。暑さからだろうか、明け方、全身に汗をびっしょりかいて目が覚めてしまう。そうするとその先、もう寝付けない。授業を受けるのもつらい。今週もそうだったら調合を指示した前の担当医、桜井先生に相談してみよう。そう思いながら袋を受け取る小野村。
「ありがとうございます。あ、すみません、これも・・・」
小野村が手渡したB6サイズの紙を受け取り、「目的地:シーレラ総合病院」と記載された場所の脇にハンコを押し、さらに自分の名前のハンコも重ね、受付のおねぇさんが外出許可書を彼女に返した。
「いつもいつも朝早くから大変ね、これから学校でしょ?」
淡いピンク色の制服に身を包んだおねぇさんは、そう言って微笑んだ。
「あ、いえ、ちゃんと学校行けるんでそれだけで・・・」
ぺこりとお辞儀する小野村は、待合室にいる他の患者に気を遣い、そそくさと受付を離れた。
病院を出ると足早に歩き出す。
学校の敷地内にある寮から駅向こうの病院まで行き、とんぼ返りで登校。校内の寮って便利なのか、不便なのか分からない。小野村は精一杯の速度で歩きながらぼーっと考えていた。
桜中の水色の制服はかなり目立つ。敷地内にある寮住まいの小野村は滅多に町に出ないのだが、そのせいか時折感じる視線が怖かった。人目を引く、目立ちすぎるこの制服が苦手になったのも仕方ないかもしれない。
元々の制服は黒のセーラーだったという。そのままだったらよかったのに。そう小野村は思う。昭和の終わり頃、デザイン変更の際にこの色になった。夜間の交通事故防止のため、明るい色がいいという警察側の指導があり、桜中らしく、桜色で予定されていたという。しかし、校舎が白っぽいピンク、つまり桜色に統一されていたので、逆に校内では視認性が低くなる。制服は別の色をということで、当時の生徒へのアンケートの結果、今の水色に決まったらしい。
確かに見た目は華やかでよい。そうは思うが、実際に自分が着てみると思いの外汚れが目立つし、装飾の多いこのデザインも机の角やドアノブに引っかけるのでいやだった。
制服もそうだが、小野村が一番困っているのは「本科生」という存在。他にも桜中での生活にいろいろ不満があるが、本当のところ、そんな事を言える立場ではないことを彼女は知りすぎていた。小野村は学費免除の上、医療費まで払ってもらっている。付属校なのでこのまま高校、大学までエスカレーターだ。寮では衣食住全てが揃う。寮母は厳格で怖い人だったが、食事の量、カロリー計算、防犯、防災など、実に細かく気を遣って生徒を守ってくれている。これで文句など言えるはずもない。
父が残した借金を苦に母と心中したものの、一人生き残ってしまったはるか。自殺も出来ず、ただ生きているだけだったのはほんの数ヶ月前だ。祖父の友人だったという真志佐さんに会った時、自分はもう抜け殻だったはず。なのに、今自分はこうして生きている。
ごめんなさいお母さん。はるかは口癖の様になったその言葉をまたつぶやいた。
最初、真志佐からの援助金は必ず返すつもりでいたのだが、父の借金まで肩代わりしてくれたと聞き、一生かかっても無理だと分かってしまった。せめて学年一の優秀な成績でも取れればよかったのだが、少しだけ自信のあった成績はクラストップに過ぎなかった。桜中の学力が高すぎたのだ。郁優学園の理事である真志佐の恩にどうやって応えていいのか分からないまま、ただ世話になり続け今日に至っている。小野村は暗い気持ちのまま歩き続けた。
駅の脇を抜け、北口方面に出る。今日は少し待たされたので急がなければならない。桜中はバスのルートから外れている。途中まで行くバスはあるのだが、本数が少なく、待ち時間を考えると歩いた方が確実だ。
急がなきゃ。一生懸命に歩く小野村はるか。夏の熱気がその身を照らす。しかし彼女の顔色は青ざめていた。
小野村とは対照的に。加賀壬宏子は元気に駅を出た。昨日、香土岐先生は都合があるとかで放課後の講義はお休みになった。その都合とは、養護の悠木さんに呆れられながら保健室でぐーすか寝ることだったのは、もちろん加賀壬の知るところではない。超常研も会長以下、主立ったメンバーが調査活動とやらでお休みだったので、久しぶりに鮎川等級友たちとつき合った。期末試験前、最後の息抜きというところだ。ショッピングモールで買い食いし、ファミレスで噂話しに興じ、駅前のミヨシヤでだべった。ほとんど甘い物食いまくりツアーだが、微妙な年頃の女の子、そこを突いてはいけない。
ラッシュ前の駅前ロータリーに入った時、加賀壬はあちこちに警官の姿があるので驚いた。くるっと見回してみる。人だかりがあるわけでも、救急車や消防車が止まってるわけでもない。警官は事故整理の様子もなく、ただ立って周囲を見回しているだけだ。
テロ防止かなんかの強化週間だったかなぁ。そんな事を思いながらバス停の脇を過ぎた時、背中を叩かれてぎょっとした。
「ハイ、メートヒェン!」
振り向いてもう一度ぎょっとする加賀壬。そこにいたのはこの前電車で出会った超絶美少年だった。ひきつる表情ながら、なんとか声を出す加賀壬。
「あ・・・えと・・・。グーテン・モルゲン」
「グゥーテモァグン!」
挨拶返しなのか、自分の発音が訂正されたのか。事態を把握しかねた加賀壬だったが、すぐに我に返った。この外見天使、中身小悪魔少年は、日本語が出来るのだ、と。
「いや、しかし、よく分かりましたね、一回会っただけなのに」
やはりタメ口は喉を出なかった。多分年下なのに。いや、多分じゃない、絶対だ。加賀壬はやっと少年の服装を認識した。水色がまぶしい、真新しい桜中の制服を着ていることを。
「ん〜、僕は一回見た人は忘れないよ。まぁ、そこらにいて目に入ってても、見えてない人の方が多いけどね。その他大勢は目を向ける価値もないからさ。
でも丁度いいとこに来たね。ちょっと聞きたいことがあって・・・」
どうやら加賀壬は脱出する機会を失ったらしい。少年はもうすっかり立ち話モードだ。
「は、はぁ・・・」
この前はバス停を聞かれた。察するに転校して間もない、というところだろう。加賀壬はこのあたりにはまだ詳しくないのだが、この四月から自分も他人に道を聞いたりいろいろ教わってきた以上、新規通学者からの期待に応えねばならない。
なんとなくそんな理屈を組み立ててはみたが、香土岐の怒りが怖かったので、さっさと質問会を終わらせるべく、加賀壬は答える気になった。しかし、質問は道でも店の場所でもなかった。
「日本じゃ何歳から結婚できるの?」
「はぇ?」
膝がかくん、と力を失い掛けた。ずっこける、って本当に起きるんだ。加賀壬はそんな発見を心のどこかでしつつ、残りでなんとか体を支えることに成功した。
「あ、あ〜・・・どうだったっけ。
えと、確か女性は16歳? 男子は18歳かな? あ、未成年は親の承諾がいるんだっけ・・・あれ? 違ったかな」
困惑する加賀壬。彼女にとって、結婚という言葉は生活から遠かった。
「そか。中学生じゃ無理か」と、少年はつぶやきながら少し首をかしげた。なめらかな頬のライン。すっきりとした顎。そして絵に描いたようにくっきりした目元。写真で見ても、すっげ〜〜っと騒ぐ事間違いなしの美少年が物憂げに首をかしげている。しかも目の前。生美少年だ。
う〜ん、やっぱこれくらいの歳だと、男の子の方が女より綺麗って説、うなづけるなぁ。
加賀壬はそう考えていたが、傍目、ぼ〜〜っと見とれている様にしか見えないのに、本人気づいていない。よだれを垂らす、まで行っていないのが彼女の未成熟さを示していることにも。
「じゃ中学生は結婚できないとして。SEXはOK? 禁止?」
「はぃぃぃぃぃぃぃ・・・い???」
加賀壬は今度こそずっこけた。
「あ、OKなんだ。よかった」
少年は加賀壬の肺活量限界まで伸びた叫びを肯定の言葉と認識したようだ。
「あ、いや、いまのはYesじゃなくって、た、単なる心の雄叫びというか・・・」
ふらふらと立ち上がる加賀壬に少年は手を貸した。
「冗談だよ」
にこっと笑顔。加賀壬は怒るべきなのか、とろけるべきなのか分からなくなった。なにしろ笑顔だ。それも生美少年。手も握られている。それも生美少年。はて、こういう時ってどうするんだ???
「で、どうなの? 禁止する法律とかあるの?」
質問の方は冗談じゃなかったらしい。
こいつぁ参った。加賀壬の思考は分断されながらも、識域下に残存するシナプスを総動員して考えた。
この歳でドイツ語ができ、さっき「日本では」という発言もあった。ならこの生美少年は帰国子女だろう。いや、男だから帰国子男? つぅか帰国男子? あ、なんか混乱してきた・・・
えっと、とにかく日本に詳しくない。でも日本語ぺらぺら・・・。あ、それは置いといて。えっと、問題は・・・えと・・・
SEX。
「はぅぅぅぅ」
問題を再確認し、真っ赤になって沸騰状態の加賀壬宏子16歳。彼氏いない歴、記録更新中。
「み、み、未成年、ほっ保護法というのが、我が国には存在して、いたし、ありましてる・・・」
言語中枢も陥落したらしい。少年はまた小首を傾げた。
うは、み、みとれるな私!
加賀壬の本陣は必死に指令を発するが、脳内でその伝令は倒れた。五感から脳に駆け上ってくる情報がすごすぎ、脳からの指示は、ざっぱぁぁぁん、と押し流されてどっかに漂着したらしい。一方通行状態。このままでは脳破裂も間近だろう。
「ん〜、じゃ未成年は結婚してないとダメなのかな。困ったなぁ。じゃやっぱり内縁の妻か、夜のペットか」
ちょ、ちょっと待てぃ! 加賀壬、心で突っ込むも、既に口も喉も、肺さえも彼女の支配から独立政権を樹立していた。
その時、唐突に少年は加賀壬の背後に視線を送り、道の向こう側を歩く姿に手を振った。
「やほ〜〜」
事態が急変したらしい。加賀壬の脳みそは、やっと失地を回復した。
今だ、逃げるなら今だ!
だが、その首は意思を無視し、くるっと向きを変えて少年が手を振る相手を見ていた。
桜中の女子制服は水色のセーラー式。色も特徴的だが、上着の裾や袖口など、デザインも目立つ制服である。靴も靴下も鞄も学校指定だが、校外では大きな帽子も着用せねばならない。一部のマニアには「空色の宝石、桜中制服で最大の萌えポイント」と称されていたが、生徒には不評だった。夏用と冬用の二種があるのだが、内布が無いだけで素材は変わらない夏用では通気が悪く、日傘必携状態なのだ。
その制服の女の子が一人、せかせかと歩いている。小刻みに足を動かしてはいるが、歩幅自体がとても狭いので動きの割には前進速度が遅い。ミニチュアダックスフント並のせわしなさ。運動効率低すぎだ。朝とは言え七月の強い日差しに照らされ、大きな帽子の影にあるその表情は貧血気味に見えた。
「具合悪そう・・・」
思わず口にしてしまう加賀壬。少女はしばらく歩いてから手を振る少年に気づいたらしく、はっとして歩みを止めた。
その顔。加賀壬には彼女の思考が手に取るように分かった。
今よ、逃げるなら今よ・・・
しかし、少女の足は動かなかった。いや、動けなかったのだろう。
仲間ハケソ!
加賀壬は足が凍り付いている少女に同情した。そりゃもう素直に心から。
「は〜るちゃ〜ん、おいで〜!」
まるで犬でも呼びつけるように手で招く美少年。加賀壬は瞬間的に理解した。「夜のペット」が誰なのかを。
左右を見渡して、車の姿がないのを確認してから、呼ばれた中学生が道を渡ってくる。顔は既に引きつり状態。しかし、足が勝手に動いている感じである。どうやら、加賀壬以上にパニックに弱いらしい。
「あ、あの・・・。雅君・・・ですよね? な、何か・・・」
「君を待ってたんだよ。先週もここで会ったの、覚えてないかな?」
「え? えぇっ?」と、うろたえる小野村はるか。小さな右手を握り、口元を押さえてパニくるその姿に、確かに子犬みたいと感じる加賀壬。
「君は気が付いてなかったみたいだけどね。ま、それはいいんだ。
あのさ、はるちゃん、理事って奴と別れる気ない? 別れて僕のペットになろうよ。僕はいい飼い主だよ」
「は?」
うろたえていたポーズのまま、固まる小野村はるか、もうすぐ15歳。
左足に重心を掛け、右足はちょっと膝を曲げ靴先だけ地面に付けている。左手は腰の前で革鞄を支え、右手は口元。身に纏うのはかわいらしい水色の制服。少し垂れた目は見開き気味で、口もかすかに開き掛けている。後ろに結い上げた髪。歩いていてほつれたのか、毛先が少しはみ出している。大きな水色の帽子はまとめ上げたお団子髪の縁に乗って、わずかに前傾。ちゃんと校章がまっすぐの位置にあり、帽子が全くずれていないのは、ピンで留めてあるからだろう。
「ん〜、かわいいね、そのままシリコンで型どりして1/8くらいにすると売れそうだねぇ。ま、もちょっと胸あった方がいいけど、それはおいおい増えるだろうし。その課程を毎日目と掌で楽しむのもいいよね。あれだ、紫の上計画」
小野村&加賀壬、二人揃って硬直状態。一人語る司は再び質問を繰り返した。
「で、どう? ペットにならない? 一戸建てだから声も気にしないでプレイできるよ。
理事には君に出した金額の三倍払っておくから気にしないでいいよ。交渉も僕がやるし。うだうだ言うならちょっと痛い目見てもらうから、大丈夫だよ。綺麗さっぱり縁切りさせてあげる。
君ほどのペット、必要経費だけで落とそうなんて、虫がよすぎるもん。あ、お小遣いもちゃんとあげるよ」
「はぁ・・・?」と、女子二人の声がはもった。どうやら一つの単語を脳が理解する前に、次の言葉に追いあげられているようだ。そんな事には全く介さず、司はゴーイング・マイ・ウェイ。
「日中は住み込みで家事してくれればいいよ。で、夜は僕のペットね。寝る時間がつらいだろうから、週末はお休みにしてあげる。学校も行きたいなら大学まで行っていいよ。どうせ日中、僕は家にいないだろうし。
でね、お給金はお小遣い込みで考えてるけど、学費とかつらいならボーナスも付けてあげる。あ、もちろんその分、プレイは過激になるけどね」
司はウィンクまで付けてお誘い続行。
そこで加賀壬の思考が完全に復帰した。さすが自分の事でないと回復は早い。
「ちょ、ちょっと待て! 待たんか!」
やっとタメ口が出た。
「あ、あんたねぇ、こんな往来で何を、って言うか、往来以外でもダメ!
冗談にもほどがあるでしょ!」
おもわず鞄を落とし、二人の間に割り込む加賀壬。足は肩幅、両手は腰状態。
「セクハラなんてもんじゃないわよ! あ、セクシャル・ハラスメントの事ね、分かる?」
「うん、分かるけど。でも、理事が味見する前に、契約破棄させないとさあ。ねぇ?」
最後の言葉は、ひょいっと上半身を左にずらし、加賀壬の後ろを見ての言葉だった。
「はぅ」
再び視線を受け、すくみ上がる小野村。
「ねぇ、じゃないでしょ!」
加賀壬は両手を伸ばし、司の肩を押さえ、自分の前に固定した。
「まさか本気なの? あんた的にマジなの、今の話し?」
「もちろん」
にっこりと微笑みながらうなづく司。目の前20センチで展開されたその光景に、一瞬、とろける加賀壬だったが、今度は怒りがそれをさせなかった。かわりに、思いっきり息を吸い込む。
「おおバカもの〜〜〜!」
ロータリー全域に響くかのような声。語り慣れた口調でバスの行き先を説明していた運転手も、一瞬マイクに向かう言葉を止めたほどだ。
はぁはぁ・・・。絶叫で周囲の注視を集めた加賀壬だったが、そんな事には気づかず荒い息を吐いた。
「大丈夫?」と、身を寄せ、心配げに背中をさするのは司。
「あん、あんたが・・・」
文句を言おうにも、今は肺がその指示を受け付けない加賀壬を無視し、司が真面目な口調で語った。
「君には関係ないことでしょ? いろいろ事情あるんだしさ。ね?」
諭すようなその口調。怒りの炎がふっとかき消された。今、加賀壬は超絶美少年に抱き留められ、耳元でささやかれている状態だ。腰がくだけそうになる。
その時、小野村が「わ、私・・・」と、か細い声を出した。それが耳に入った途端、消えかけてくすぶっていた加賀壬の心の炎が紅蓮の劫火に燃え上がった。
「あ、あんたねぇ、関係ないとか、事情とか。そんな事こそ、関係ないわよ!」
加賀壬は司を引き離し、また両手で肩を押さえた。大きな眼鏡の奥で、もっと大きく目を見開き、司の視線を真っ正面から受け止める加賀壬。
「いい? この子、怯えてるでしょ! 怖がってるでしょ! 困ってるじゃない!
どんな事情あったとしても、放っておけないでしょ! 違う?」
司は小首を傾げた。右手の人差し指で顎を押さえ、しばし「考えてます」のポーズ。加賀壬も小野村も身動きしない。いや、後者は硬直してできないのだが。
数十秒後。司は首を動かし、小野村をちらり、と見た。ひっと短い悲鳴を上げる小野村はるか。
「なるほど。本当だ」
司は肩を押さえられた姿勢のまま、ぽん、と両手を打った。そしていつのまにか足にはさんでいた鞄の握りを左手で持ってから、姿勢を整えた。
ぺこり。
司が頭を下げたのだ。加賀壬の手は空中に浮かび、そのまま、また硬直した。
「そうだよね、一生に関わる問題だもんね。ちょっと急ぎすぎたかな。ごめんね、はるちゃん。
じゃこうしよう。気持ちの整理が出来るまで待つよ。その間、理事に体で支払え〜〜とか迫られたら、僕を呼んでね。絶対だよ。あ、理事以外でも、相手が誰だっていいや、ね〜ちゃん、えぇ体しとるのぅ、ちとこっちこんかい、って言われても、僕を呼ぶんだよ、いいね? はるちゃん。
いいかい、よく聞いて。君が本当に困った時、僕を呼ぶんだ。忘れちゃだめだよ」
司の態度はさっきまでと変わっていない。でも、どこかその口調が変わったような気がする加賀壬。しかし、どこが変わったのか分からない彼女は両手を空中に持ち上げたままの妙な姿勢で、中学生の女の子に振り向いた。
「は・・・はぁ・・・」
彼女はとまどいの表情ながら、加賀壬と同じ疑問を抱いている様だった。
「怖がらなくていいよ」
すっと加賀壬の脇をすり抜け、小野村に歩み寄る司。その左手が上がり、ぽん、と帽子越しでその頭に触れた。ぶつかった衝撃はない。髪の毛に圧力を感じるが、丁度皮膚に触れたところで手は止まっていた。
ぽかん、とした小野村が、顔中を真っ赤に染めるまで1秒フラット。ぼんっという音がし、小野村の耳から蒸気が吹き出すのではないかと加賀壬が心配するほどだった。
「大丈夫だって。安心して、はるちゃん。君の意思を尊重するから。同意してくれるまで待つよ。
僕はねぇ、SMプレイは大好きだけど、あくまで合意あってのプレイだよ。だからレイプはしない。安心して」
「安心できるか〜〜〜〜〜〜っ!」
加賀壬の怒声が再びロータリーを席巻した。
とんでもないロスタイムだった。遅刻寸前の中学生は、やむなく目の前に止まっていた客待ちのタクシーに乗り込んだ。司と小野村だけには出来なかった加賀壬も乗り込む。小型4人乗りだったので、司は助手席に追いやられた。
桜中に付き、司はそこから加賀壬の学校までの分、と言って金を残し、小野村と共に下車した。坂を下りながら、一人後部座席に座る加賀壬だったが、タクシー代を司に払わせた事には何の後ろめたさもなかった。
今彼女の頭にあるのは、香土岐、怒りの形相。それだけだ。
ふぅ・・・。溜め息をつく加賀壬宏子。でも仕方ないことだった。うん、自分は正しい事をしたんだ。後悔はしない。そう思いこむ事にした彼女だが、登校後、すぐに後悔することになった。
駅前ロータリーは電車組はもちろん、駅の南にある住宅街から通学する生徒、並びに教職員のおきまりコースだったのだから。
周囲から感じる視線。そしてなにやらひそひそ交わされる会話・・・。
は、はずかし〜〜〜〜
今日は「急な仮病」でお休みしたい加賀壬であった。
続く