<超かいき★くえすと>くえすたぁず

 

第二十八話:加賀壬さん堪能す

 

von:秋澤 弘

第一章

 美咲の屋敷。その離れに近い一室で、当主、美咲風に言うと御主(みす)の孫にして筆頭術者、美咲由美はじっと目をつむったまま考えに耽っていた。この部屋は和風にしつらえてはいるが、ネットに常時接続されたPCがあり、電話もFAXも揃っている。自室にはラジオ一つ置かない風潮の美咲本家にあって、ここは由美の書斎と呼ぶべき部屋となっていた。筆頭術者に与えられた資料室という名目だが。
 彼女の前にある卓はもちろん、周囲にまで資料が広げられているが、整然と並べられた状態なのは由美の由美たる所以である。
 薄い座布団に正座したまま続いていた思考は、廊下を歩む足音に中断された。
 「俺だ。いるか〜?」
 返事も待たずに開かれる障子の向こうに青年と呼ぶにはちょっと老けた男が立っていた。神道の術者に相応しい、長髪に白袴姿ではあるが、ぼさぼさの前髪に無精髭というこの男。退魔師としての由美の相棒、筧啓介(かけい けいすけ)である。室内に入ると、由美の左に並べてあった資料を無造作に追いやって、袴の裾をひょい、と折り込むと畳の上に正座した。
 由美の顔が不機嫌極まりないものになっても、啓介は意にも介さず、手を伸ばして急須を掴んだ。
 「・・・」
 由美、無言の威圧。ポットから湯を注ぎ、空になっていた由美愛用の湯飲みに茶を入れると、啓介はずず〜〜と下品な音を立てて煎茶をすすった。
 「・・・」
 由美、無言の威圧。
 「あち〜〜。ん〜、暑い日に熱い茶をすする。日本人だなぁ、あはははは」
 「・・・・・・」
 由美、呆れた眼差し。追い出してやりたいところだが、啓介の態度に気になる点を見て取っていた由美はそのまま待った。
 「ん〜。ま、予想はついてるみたいだな」
 啓介は両手を付いて腰を浮かせ、由美に向き合う様に座り直した。
 「やっぱ揃わないってさ」
 「・・・」
 由美は天井を振り仰ぎ、眉間にシワを寄せた。
 筧啓介。今は美咲家の客人というか居候であるが、元々は美咲とは別系統、筧流の術者だ。筧流呪術は平安期にまで遡る歴史を持つ古神道から分離した一派である。紆余曲折の結果、現在では八卦を元とした占いが主であるが、有名なのは星の並びで吉兆を占う星見の一族としてだ。美咲家とも戦後、血縁関係が結ばれており親しい間柄である。啓介はその中で、世界中の術系統でも珍しい時間魔法、「時見」の使い手であり、時に近づくために己を高める手段として剣術を会得していた。まぁ、今や術者は廃業、剣士が本業になっているのだが、それは相棒である美咲由美の術技が尋常ならざるものだったためである。決して啓介が術者として三流だったから、では無いことにしておこう。
 彼が、彼自身にしてはほんの少し、世間では20年ほど時の狭間を彷徨っていた間に、啓介と筧家とは縁が切れてしまった様な状態だった。それでも一族に対し、特に生家である岩槻の筧家に対してはそれなりのパイプを有していた。それを通じ、啓介の甥にあたる星見の長に依頼をしたのが由美だった。
 「まだ資料が足りないという事か」
 「んにゃ。多分見えない凶星があるんじゃないかってさ」
 啓介の返事に由美は身を乗り出して顔の向きを変え、彼を見つめた。
 「見えない・・・凶星?」
 啓介は息がかかる程の距離から見つめてくる由美の視線に、困ったような表情になった。
 「なんて言うかなぁ・・・。ん〜、星見じゃねぇお前にどう説明したらいいのか・・・
 まぁ、その、なんだ、地図だと思え。ん、いや、地図じゃないな、えっと・・・。そうだ曼陀羅。世界の真理が図になってるんだと思え」
 およそ神道の身とは思えない言葉をさらりとはきながら、啓介はなんとか説明を続けた。
 「でも、星見は人に過ぎねぇからな、曼陀羅全体を見るなんてことはできねぇ。虫眼鏡でその一部を見せてもらうんだ。でもよ、当然見えてない部分の方が多いわけだし、見えてないからって、影響がないわけじゃない。
 見えないとこに、なにかでっかい凶事があって、それが星の並びを乱してるってことだ」
 由美の眉間のシワはさらに深くなった。
 「それを見いだす方法は?」
 その視線に耐えきれなくなり、啓介は両手を後ろに突いて、身を逸らした。
 「あるが、事実上ねぇ。十年とか、百年単位で定期的に見直すしかねぇんだよ。凶星の正体さえ分かってれば簡単なんだが、それを見いだすとなると百年単位の長丁場だ」
 「つまりは一人の人の身では見いだせない程の凶事、ということか?」
 「あぁ。期間限定、地域限定の、な。しかも古い。古すぎる。五百から千年は前のもんだってさ。だから少しずつ見立てを変えて、変化から予想するしかねぇんだよ」
 由美は正座を正し、「振り出しに戻ったか」とつぶやいてから黙り込んだ。
 由美の10Gはあるかという高重力の視線から離れた啓介はふぅ、と溜め息をついて姿勢を戻した。
 「あのなぁ、相棒」
 啓介は湯飲みに手を伸ばし、息を吹きかけながら言葉を継いだ。
 「何が知りたいんだ? 先に聞いちまって、読み違えしちゃまずいんで聞いてなかったけどよ。筧にだって、星並べ以外の道、あるんだぜ。なにか別の方法があるかもしんないだろ? 言ってみろよ。お前、何を調べてるんだ?」
 視線を卓上の書類に向けながらも、何も見ていない瞳のままで由美がつぶやいた。
 「発端だ」
 「発端?」とオウム返しにする啓介。
 「門かがり」

 この地は江戸時代、異世界からの侵略と戦った合戦場だった。今、美咲屋敷のある古墳自体が巨大なゲートと化し、続々と妖(あやかし)が現れたのだ。人々はそれに気づき、己を、家族を、国を守るべく迎え撃ったのである。当時は理解されていなかったが、それはそのままこの世界を守る戦いであった。ここに巣くった闇の王は、その力を全てこの世界に送り込んだのなら、世界そのものを崩壊させうるほどの大物だったのだから。
 時の将軍の命の下、美咲、当時は見前(みさき)一族と呼ばれていた者たちが中心となり、侍、修験者、仏法僧とあらゆる力を結集して妖を滅ぼし、その門を封じたのだ。以来、美咲は魔封じのため、この地に居を構え続けている。
 封じられているとはいえ、門そのものは消去できずに今もここにある。よって現世に発する歪みは他の地域よりも大きい。結果、この地に超常現象が起きやすいのは当然だった。地下鉄工事現場の一件を挙げるまでもなく、この地域には数多くの超常現象が発生しているのだ。だが、遠く室町時代から力を蓄え続けていた美咲の退魔師たちは異常の早期発見、原因究明、ゲートの破壊というルーチンワークを着々とこなし続けていた。
 しかし、数年前から、妖しの侵略パターンが変わった。学校を結界とし、そこに住み着き、学生や生徒を餌にする。大変に局地的ながら、放置すれば学校自体がゲートと化す可能性もある。異常現象を見た生徒は発狂と思われるのを恐れて黙りこくり、大人はひたすら隠蔽し続ける。結果、早期発見は困難を極めた。その新戦術の発端とされているのが超常研の母校での事件。一昨年、開始された新手の侵略は美咲の手の内を熟知しており、抑止程度にしか美咲の術は効かなかった。しかし、その新戦術は予想もしない方法で解決された。「学生は学生が守る」をスローガンに、当時二年生だった殿下と美雪が手を組み、魔王の手下である魔性を滅し始めたのだ。学校という特殊な閉鎖空間を悪用した魔性の新戦術。それに抗したのは同じ閉鎖空間で過ごす学生だった。美咲の術者として孤軍奮戦していた由美を説得し、「術者ではなく、学生として」仲間にした殿下は、ゲートを滅した後、超常研を発足させたのだった。
 そこまでは超常研会員なら誰でも知っている。しかし、この新戦術には先触れとも言うべき前例があった。三年前、由美が中学三年だった時だ。この学校にゲートが開く予兆があったのである。だが、それは異界からの侵入ではなかった。こちらから、現世から異界へのゲートを作ろうとしたのである。幸いにしてその際には学校を結界にする計画は成功しなかった。そのため、召喚ゲート作成の術は学校の敷地を越え、すぐさま美咲に知られるところになったのである。術者の一群が派遣され、召喚魔法陣は破壊された。しかし、それを行なった者たちは見付けることが出来ず、完全な封印は不可能であった。
 翌年、美咲の術者、由美が入学したのはその痕跡を懸念してのことだった。しかし、前年の戦いが中途半端に終結した悪影響が出たのは由美にも予想外だった。召喚ゲートを完全に抹消できなかった事から異界に情報が漏れていたのが痛かった。美咲の術が縁(えにし)をつなぐ事を基本として成り立つ精霊魔法であると魔王たちに知られていたのだ。美咲流の基本は理(ことわり)の歪みを正すこと。あるべきものをあるべき姿に。そのため異界から力ずくで出現する魔王にとっては、最悪強制送還をくらうという致命的な美咲流呪術であったが、元からそこにある存在には効果が薄い。それを知った魔王たちはもともと現界、この世界にいる学校霊や浮遊霊、怨念を手なずけて魔性に仕立て上げたのだ。
 結果、由美はその強大な術力をもってしても封印しきれず、神聖系の物理攻撃を得意とする殿下と共闘するに至ったのである。
 彼らの活躍でこの学校のゲートは完全に封じられた。しかし、同じ戦術で次々と他校が襲われている。超常研もその対応で手一杯だった。由美は二代目会長として、そして美咲家筆頭術者として、忙しい毎日を送っていたのである。
 そんな中。由美はずっと考えていたことがある。特に凶事が迫るという予兆が現れてから考える時間は長くなった。そもそもの発端は何だったのか、と。

 この世界からゲートを開き、異界との接点を作ること。それを美咲では「門かがり」と呼んだ。それはこちらと向こうに門を作り、それを結ぶことでゲートを成す、という意味である。人たる身の限界を感じ、不死に近い長寿など、力を求めて異界に赴こうとする者は多かった。逆に異界から力あるものを召喚し、使役しようという者も。それらは全て、理(ことわり)を守る美咲の敵である。
 しかし、学校に最初に開かれようとしていた「門」は明らかにそういった種類のものではなかった。そのままでは向こうから妖しが攻め入るのを防ぐことは出来ず、門を通ったものを強制的に支配するものでもなかった。ただ単なる門。異界のものの方が圧倒的に生命力に満ちている以上、それは自殺行為とも思えるほどだ。
 世界を壊したかった。それが目的であろう。そう美咲家は判断していた。しかし、由美にはどうもひっかかる所があった。それは、なぜその行為が美咲のお膝元で起きたのかである。
 門かがりを起こせるほどの術者であれば、美咲を知らぬはずがない。これでは消防署に放火するようなものだ。これは美咲に対する陽動なのであろうか。挑戦なのだろうか。そう考えたとしても、同じケースがその後起きていないのが謎だ。逃げ延びた犯人は何を考えていたのか・・・。

 「なるほどな。発端、つまり動機が分からない以上、完全な対策は出来ない。後手ごてだな」
 啓介はたもとから出した右手で無精髭だらけの顎をなぜた。
 「で? それが星見とどう結びつくんだ?」
 由美は左手に座る啓介の言葉に、正面を向いたままゆっくりとした口調で答えた。
 「なぜ門かがりをこの地で起こしたのか。その答えを探していた。
 学校をターゲットとした妖の騒ぎは、その門かがりに端を発している。それをずっと調べていたが、結論は出なかった。
 何か、まだ未知の要素があるのではと思い至り、いろいろな可能性を考えていた。
 仮説が、ある仮説が浮かんだのは、校外での、いわば一般的な超常現象を記録としてまとめていた時だ」
 ?マークを浮かべながらも、啓介は口を挟まず、聞き役に徹していた。
 「発生箇所は地下深くであることが多い。環状地下鉄線工事や開発工事、ビル建設など、地を掘ると水が沸く変わりに超常が出てくるかの如くだ。特に術者のからまぬ、自然発生的現象にそれは顕著だ。
 ふと、それを並べてみたのだよ。そうしたらな。それは線につながった」 
 由美はそう言って資料の中から二本の線で点を結んだ白地図を出した。首をかしげながらも眺める啓介。
 「この線に何か意味があるのだろうか。陣形でもない、ただの線。しかし、これがかつて零上川の流れていたラインに近いと私は知った」
 「はぁ?!」
 思わず声に出してしまう啓介。だが、すぐに口をつぐみ、由美の言葉を待った。考えることと説明することは相棒の仕事だったのだから。
 「昔と言っても、百年や二百年ではない。千年近くも昔だ。まだ人もこの地には定住していない。そんな頃、零上川は先ほどの線に沿っていた可能性が高い。それがそのまま当時の竜脈であった可能性もな」
 由美が口を閉ざしたのを知り、啓介はその地図をじっと眺めながら話を続けた。
 「するってぇと、それが本当に地脈だったのか、線に沿って星が並ぶのを待ってたってことか」
 「うむ。しかし、そう並ぶことがない、という結論だ。となると、この仮説も破棄せざるをえんな」
 言い切って腕組みをする由美。しかし、啓介は腑に落ちないという顔で地図を眺め続けていた。
 「なぁ。お前、この地図を送ったのか?」
 「うむ。スキャナーで取って添付した」
 啓介は左手に地図を持ち、右手で顎をなぜながらしばし沈黙していたが、ふと顔を上げ、由美を見据えた。
 「見えない凶星ってさぁ、美咲のお山の事じゃねぇの?」
 由美は瞳を下げ、啓介が持つ地図を見た。たしかに美咲山付近では美咲家の結界が強く作用し、自然発生的超常現象が無かったため、発生地帯を拡大したその地図には南の山裾がちらりと見えているだけだった。
 「はぁ・・・」
 由美は溜め息をつくと、啓介を見返した。
 「馬鹿かお前は。いや、前言撤回、馬鹿だったな。いやそれも撤回、大馬鹿だ。
 いいか、ここにゲートが出来たのは江戸時代だ。千年前を見立てるのに、何故それが関連する? 千年かけて、連中がのんびりゲートを作っていたとでもいうのか?」
 絶対零度の視線。しかし、啓介はその視線を真っ向から受け止めたままだった。単に鈍いのかもしれないし、さすがに慣れたのかもしれない。由美が頭の片隅でちらりとそう考えた時、啓介がつぶやいた。
 「なんつぅか・・・。なぁ、なんでここにゲート、出来たんだ?」
 無人で目立たぬ上に、見事なまでの竜穴だった。そう言おうとして由美の唇は開きかけたまま停止した。
 もしや・・・
 「お前、発端って言ってたよな。ここが古墳だって事は、ゲートが開く前から何かあったんだよな。んで、どこの誰様が眠ってるかも記録が残ってないってぇ謎の古墳だろ? だからさ、ここが元々ゲートが開きやすい・・・」
 「霊穴だった・・・」
 「そう。それが発端。超常現象が起きる歪(ひず)みが当時の竜脈上だっていうならさ、こんだけ時を経て未だに霊障が幾つも起きるほどのでけぇもんだったんだろう。しかも地下ばっかだ。偶然穴掘ってたから人間が巻き込まれたってだけでさ、実は見つかってねぇ霊障は五万とあるんじゃねぇか?」
 「氷山の一角、か」
 「ああ。ならよ、その先に霊穴があってもおかしくない。で、そこに目を付けた異界人がゲートを開いた。だがそれはお前んとこの先祖にやられちまった。以後、この山は竜脈に、今の竜脈にそって要塞みてぇになってるから、それを通じて来ることは無理だ。でも、昔の竜脈だったら? いや、もしかすると門じゃなくって、もともとの霊穴に用があるなら、昔の竜脈を活性化させるのが当たり前だろ?」
 「最初の門かがり。あれ自体、学校を結界に利用しただけで、目的は古い地脈の活性化・・・。そしてそれに誘われた妖しがそれを真似て騒ぎを起こしている間に、自然発生だとして我々が重視していなかった超常現象こそが、刻一刻と地脈を目覚めさせ・・・」
 「あぁ。可能性はあるだろ? 今夜ならまだいけるぜ、晴れてりゃだけどよ。もう一回りでっかい地図にして、星見、立ててみようぜ」
 啓介はやおら立ち上がり、廊下に飛び出していった。実家に連絡するのであろう。そう思った由美は準備を進めるべく拡大する前の地図を引き出した。どこかに見落としはないか。まずはじっくり考えをまとめようとして愛用の湯飲みに手を伸ばしたが、18歳の乙女でもある彼女の手は直前で止まった。由美はすぐに立ち上がり、床の間の脇にある客用の湯飲み茶碗を取りに行った。

 幸いなことにその夜は晴れていた。明け方から雷雲が立ちこめだして来るまで。


第二章

 翌朝。
 「また工事現場で事故だってさ。いやだねぇ」
 食卓で新聞を広げていた父、篠木原俊太郎は深く溜め息をついた。
 テーブルには父の他に三人の子供が座っており、母はキッチンに立ったままだ。
 三人の子供とは言っても、娘が嫁に行った後、篠木原夫妻の血を分けた子供はそのうちの一人だけ。パンをかじりだしたその息子の隣で、彼の婚約者、既に近所では「嫁」と呼ばれている雅菊子(みやび あきこ)が答えた。
 「朝のニュースで見ましたけど。居眠り運転のトラックが突っ込んだって話しですよね? 深夜でよかったですね、昼だったら怪我人続出でしょ?」
 家を出る時間がバラバラのこの一家で、一番先に出発する彼女はもう食後の紅茶を飲んでいるところであった。
 「そうそう。人死にが出なかったのは不幸中の幸いって奴だなぁ。
 おーい、母さん、お茶くれるか?」
 「あ、私やりますよ」
 父が差し出す湯飲みを受け取ったのは立ち上がった菊子だった。
 「もう、お茶くらい自分でいれたって罰あたらないでしょ、あなた。アキちゃん朝は一番忙しいのよ」
 キッチンから当家の主婦、真智子の声がする。
 そんな会話を余所に息子、俊之は向かいに座る新顔、雅司(みやび つかさ)の様子をこっそり観察していた。少女と見間違えそうな細身で小柄、端正な顔立ち。そして中学生とは思えない程落ち着いた立ち振る舞い。おしゃべりではないが、会話をすれば明るく、はきはきとしている。しかし、子供らしさを微塵も見せないその話し方は達観した人生観さえ感じさせるものだった。
 司は誰にも敬語を使わない。丁寧語は使うが、へりくだったり、敬意を相手に示したりはしない。多分教師にも同じであろう。長らく欧州にいたので生活習慣が違うのだ、と俊之は納得しようとしてはいたが、難しいことだった。どうやら、司には人類皆平等という精神が染みついているようである。彼の幼少時からの生活を考えれば、達観もやむなし、というところか。異国で生まれ、両親を早くに亡くし、家族といえば絵に人生を捧げたような祖母のみ。学校も転々としたことから親しい友人もいないという。
 ハムエッグを危なげなく箸で切り分けているその姿は、初めて日本に来たばかりとは到底思えない。見た目の綺麗さを除けばごく普通の日本人だ。しかし、その心は平均的な日本人から遠く離れているのは間違いない。
 俊之が考えながら食事をしている間に、遠距離通学であるアキが支度を整え、真っ先に出発した。
 「じゃ行って来ます」
 アキの声に顔を上げ、笑顔を送る司。そういった様子からは心を閉ざしているとは思えない。しかし、親戚であり、新たに家族同然になったアキにさえ、相互不干渉を要求している点は欧風個人主義の一言で割り切れるものでもなかった。朝夕の食事だけは篠木原家でとっているが、それ以外の時間全て、風呂もベッドも雅家で、である。アキは雅家の庭に立てられたアトリエに行く以外、篠木原家で生活しているので、司はほとんど一人暮らしだ。「一人の方が落ち着けるから」と笑顔で言う司。しかし、それで本当に彼は幸せなのだろうか。干渉はお節介と思われるだろう。しかし、それでもこちらからアプローチして彼の心を開く必要があるのではないか・・・
 「ふぅ・・・」
 玄関でアキを見送ってから溜め息をつく俊之。自分の思考が逆説ばかりになっていくのが悲しくなったのだ。
 とにかく、司は隣人であり、家族同然である。血のつながりはないが、アキと結婚予定である以上、俊之とも親類になるのは間違いない。大の仲良しとまでいかなくても、困った時に支え合う様にはなりたいものだ。そう俊之は思った。
 司が日本に来てから、アキの創作活動がほぼ停止しているのを彼は知っていた。アキが司との関係改善に苦労しているのははっきりしている。ならば。歳が近く、なおかつ同性である自分が司の兄貴分、あるいはせめて友人になることは出来ないだろうか。
 二番手として車で出発する父母を送り出し、司と二人で食卓に座って紅茶をすすりながら、俊之の思案は続いていた。
 そんな彼の心を知ってかしらずか。司は父が置いていった朝刊に目を落とし続けていた。


 郁優学園付属桜中学。緑に囲まれたこの学校は、高度な授業内容と、それに値する高額な学費で土地っ子からはちょっと縁遠いところだ。生徒数はごく少数で町を歩いていてもその水色の制服にはそうそう遭遇しない。
 高台にある学校の正門から麓へゆるやかなカーブを描きながら下る坂があり、校名の由来となった桜並木になっている。まだちょっと早いためか、今その通学路を歩む生徒の数は少ない。坂の終点が学校で終わっているため、通う車も職員や出入り業者のものばかりだ。
 その道端に一台のセダンが止まっている。時折、水色の制服に身を包んだ中学生が全くそれに目をとめずに登っていく。それもそのはずだ。彼らにはその車は「あってなきのごとし」という状態になっているのだから。
 坂の先にちらりと見える校舎を車窓からじっと見つめている瞳があった。しかし、見つめてはいるのに、その二つの瞳はどこにも焦点を結ばず、ただ目に入る景色を眺めているようだ。いや、正確には二つではない。二つで四つの瞳だ。
 車内には四つの瞳の持ち主の他に二人がいた。運転席にいるのはダークスーツを着こなした、いかにもお抱え運転手といった風情の男。最後の一人は四つの瞳の持ち主と共に後部座席に姿勢正しく座る、長髪の若い女性。美咲由美である。
 「なんか・・・変」と、つぶやいたのは由美よりもさらに若いというか幼い風貌の娘。美咲家次期当主、美咲真由美だ。おかっぱ髪が童顔の印象をさらに強めているが、戸籍上、彼女は由美の叔母である。
 真由美が沈黙を破り、つぶやき出した後も、年上の姪は沈黙を守り、周囲からの視線を防ぐ「揺らし気の呪法」を維持するだけだった。
 「まるで・・・」と真由美の唇が動く。次いで唇を動かさないまま、同じ声がそれを続けた。
 「絵みたい・・・」
 由美は一身二魂である観察者に問いかけてみることにした。
 「絵? どういう意味?」
 それに応えて、「えっと・・・」と、「う〜んと・・・」という二音がハモった。
 「由(よし)に特に揺らぎはないんだけど・・・。えっと、何ていうのかな、色がね・・・」
 くちごもってしまった真由美の代わりに、その体を共有する彼女のしもべの声がした。
 「なんだかはっきりしすぎているの。赤は赤、黄は黄っていうのかなぁ・・・」
 「うん。昔の、総天然色カラーの映画って感じ? 塗ったような・・・」
 由美は桜中の正門と校舎をしっかりと見つめた。彼女は高位術者である。よって、今、視界には自分が発している術力以外、作用していないことは理解していた。しかし、由美は美咲の血が薄かったため、伝家の秘術、由見(ゆみ)の業は持っていなかった。由見とは事象のつながりを見て取ること。ごくささいな想いから、怨念と言えるほどの意思まで、場に記された様々な過去の出来事を見て取る能力だ。
 真由美は由美とは反対に術は×、由見は◎という力の持ち主だった。幼い叔母と年上の姪。このコンビなら魔法も隠蔽工作も見破る事ができるはずだった。
 「何かが隠されている?」
 由美の言葉に、真由美たちは首を傾げて答えた。
 「ん〜、わかんない。理(ことわり)の揺らぎも特に・・・。でもどっかわざとらしいの。
 えっと、何て言うのかなぁ・・・。木が風で揺らいでいるんだけど・・・ゲームの背景、3DCGみたいにね、パターンどうりに動いているっていうのか・・・」
 「それでもちゃんと周囲の風に沿ってるし・・・違和感はない、けどどっかおかしいの」
 「一番おかしいのはね、門があるような気配がするの。でも、門がない・・・ここには門はないの。あるのはかすかな歪みの跡だけ」
 歪み。由美はかすかに眉根を潜めた。
 「これ以上は潜入しないと無理ね。でも、どうやら何かあることは確かね、ここ」
 由美のつぶやくような言葉に、真由美の中から声がした。
 「広位界にも狭位界にも、ここにつながる門、ないの。ここにある門の気配は全時空のどこにも先がない・・・。絵に描いたような門」
 「開いたことがない、ということ?」
 「ううん、違う。開いたから、もっとちゃんと言うと開き掛けたからどこかに通じかけた残滓が残ってるの。でも、それに対応する先がない」
 由美はおもわず唸った。真由美の中にいるのは「終末の剣」。かつて「創世の杖」と呼ばれた創世の力たるジェネシスの化身。唯一、多元宇宙全ての異世界に同時に存在し、次元回廊をその両側から同時に破壊、いや消去出来るもの。その終末の剣が言うのだ、異界との行き来が成されていないのは間違いない。
 だとしたら、その門はどこに通じていた? 
 考え込んでいた由美は、バックミラーからこちらを見る運転手の視線を感じた。はっとして時計を見る。
 「そろそろ登校時間ね。山内さん、お願いします」
 「はい、出します、由美様」
 車は向きを変え、坂を下り出した。真由美は後方に消えてゆく景色をその四つの瞳で見つめ、由美は目をつむって思案に耽っていた。 




 彼らが乗る車のすぐ脇を、のんびりとした足取りですれ違う少年。真新しい水色の上下。その胸元にも、学校指定の鞄にも同じ校章が刺繍されていた。
 司である。俊之を残し、篠木原家を三番手に出発した彼は、通学路最後の坂道を登っていた。篠木原家から桜中まで歩いて30分というところか。直接向かう道がないため、地図上よりもかなり遠くに感じる場所だった。
 他の生徒同様、彼も美咲の乗る車に何の反応も示さず、正門に入っていった。
 まずは職員室だ。司は昨日指示されたとうりに事務員が働く窓口に向かった。

 桜中の在校生は少ない。よって校舎も二棟しかない質素な作りであったが、その反面、小さな家程度の設備があちこちにあり、逆に移動授業は面倒だった。それらは細い渡り廊下で結ばれている。その内の一つ、理事長室からつながっている廊下を歩く二つの人影を発見し、三年二組の教室はざわついていた。
 「本当に転校生、来るんだ」と呆れ顔の女子。
 「ちっこいな。ズボンってことは男なんだろうけれど・・・」
 「先生と一緒ってことは、このクラスだよね?」
 「ばかちん、後ろ見ろよ。席一個増えてるだろ!」
 生徒たちの困惑。三年は3クラスしかない。三つとも丁度同じ人数で新学期をスタートしたが、すぐに一人、この二組に転校生が入り、ここだけ人数が増えた。そのうえ、またこの二組に。担任教師と歩く小柄な人影を眺めながら、生徒たちの勝手な推測が始まる。
 「仁科先生、断ったんじゃないの? あの人、勝手だから」
 「それはあるかも。でも1組の野田先生も断ったのかな?」
 「男女数併せたんじゃ?」
 「もともと合ってないって。女子の方が圧倒的だって」
 「この前は新学期始まってすぐ。今回は夏休み寸前。計画性無さすぎ」
 二人が校舎に入ったのを見届けて、生徒たちは口を閉じ、席についた。
 やがて開かれる扉。担任のすぐ後ろにいる転校生の姿が見えたのは前の方の席にいる生徒だけだった。どこまでが見えていて、どこから見えてない生徒なのか、その瞬間にはっきりと線が引かれたかのように二分された。転校生を見た生徒は一様に凍り付いたかのように身動きを止めたからである。
 担任が足を踏み出し、教壇に向かう。転校生も一歩進み、戸のすぐ内側に立ち、教室にいる生徒全員の視界に入った。
 室内に聞こえる音は担任の足音だけ。生徒たちは無言。いや、呼吸すら止まっていたかもしれない。
 「今日からこのクラスの仲間が増えることになりました。雅君」
 呼ばれて歩み出す司。生徒には一瞥もなく、正面を向いたまま教壇に上がり、担任のチョーク入れから勝手に一本抜き取ると、黒板に大きく書き込んだ。

 雅 司

 「みやび、つかさ、だよ」
 書き終えてそう告げると、軽く一礼した。彼が顔を上げた途端、女子の一人から思わず声が漏れた。
 「きれい・・・」
 その言葉で魔法が解けた。一斉にざわつく教室。司の外見はそれだけのインパクトがある美しさだったのだ。反響を予期していた担任は両手をばんばんと叩き、浮き足だった生徒たちを鎮める。
 「あー、雅君は生まれてからずっと海外で暮らしており、日本にはまだ馴染んでいないでしょう。同じ三年二組の級友として、いろいろ教えてあげてください。
 雅君、もうちょっと細かい自己紹介はできませんか? それも自己表現の練習ですよ」
 雅は生徒たちの方を向きながらも生徒の顔を見ることなく、教室後方にある黒板を見ていた。教師の声を聞き、ちらりと視線を向けてから教室全体を見回すようにした。
 「生まれはコングスバルグ。その後、オスロ、ヒンデローペン、マイセンなど、あちこち引っ越したけど、保護者だった祖母が死んだので日本の親戚に引き取られてこっちに来たんだよ。
 趣味は専ら読書。好きな作家はクリフォード・ドナルド・シマックとミヒャエル・エンデ。日本の作家だと小川未明あたりかな」
 そう言うと、また口を閉ざして後ろの黒板を見る。クラスメイトの反応など見る必要もないという感じで。
 しかし、生徒たちはその様子よりも、今聞いた内容を隣の級友と確認しあうのに忙しかった。
 日本語ぺらぺらじゃん・・・でも何言ってるのか分かんないけど・・・ コンバルってどこ? エンデって映画のあれか? 
 再び担任が両手を鳴らして教室を静めた。
 「じゃ雅君、席は・・・」
 教師の言葉が終わるよりも先に、司は今朝持ち込まれた真新しい机に向かって歩き出していた。
 「あー、来週のテスト結果に合わせて席替えをします。それまではそこが君の席です」
 教師の言葉に無反応のまま歩いていた司は机の上に鞄を置き、椅子に座る寸前、すっとその視線を動かして壁際に座る生徒を見つめた。
 視線を受け、びくっと身を縮めたのは編み込んだ長髪を後頭部に巻き込んでいる女生徒。
 冷たくも優しくもない司の視線。だが、それは視線というより「視圧」というほど、強烈なイメージを女生徒に与えた。すぐに司は目を手元に向け、椅子に座り込んだ。視線が止まっていたのは一秒もなかったかもしれない。しかし、それは圧倒的な重さを持った一秒だった。
 な、なに? 今の・・・。
 その女子、小野村はるかは全身に鳥肌が立ち、背筋に氷の柱を押し付けられたかのように感じていた。だがそれは恐怖とは別のものだった。そうそれは。
 衝撃。



第三章

 ハワード名義で借りているホテルの一室で、リャンは今朝の事故現場の写真に食い入るように見入っていた。どこから手を回したのかは知らないが、ハワードが鑑識の撮影した現場写真を入手してきたのである。
 「何か分かりましたか?」
 礼儀など気にせずにパジャマ姿のまま、のんびりとした口調で尋ねるのはこの部屋の主だ。彼の前のテーブルにはルームサービスでとった朝食の食器が重ねられ、今はコーヒーを飲んでいるところだ。テレビの隣にある別の机に向かっていたリャン・バウテカは写真をぽいっと机上に投げ、振り返った。
 「肉眼で見ない限り、そうそう分かるもんじゃないんでね」
 「それは残念です」と軽く肩をすくめてからジョージがつぶやいた。残念といいながら全く期待していなかったのは間違いない。
 「車の侵入角度から見て、居眠りでってのは信じられないな。道はカーブでも角でもない。直進道の途中で急ハンドルで曲がって、間違いなく、このシャッターを目指して突っ込んでる。ブレーキ跡もないしタイヤ跡に迷いがない。
 過失による事故ではなく、故意による事件だ。それは確かだがな」
 バウテカは両手を首の後ろに組んで天井を見上げた。
 「そしてこの爆発跡。何かの痕跡を隠すためにぶっ飛ばしたって可能性は捨てがたい。しかし、この写真からは確証はとれんな」
 口をつぐんで考え事を始めたようなバウテカ。その後ろでナプキンで口を拭いてから、ハワードが質問をした。
 「<シャドウ>は4tトラックの体当たりで、どうにかできる物ですか?」
 「どうにもならんな。一次装甲に多少傷が付くくらいだ。パルス鋼の二次装甲には跡も残らないだろう。トラック受け止めるくらいは造作もないトルクだしな。キャタピラに踏まれた状態から起動して、メルカバをひっくり返すくらいだ。
 そもそもトラックの速度では起動したシャドウに命中させるのは無理だ。ファマスにシュテアーアーウーゲー、十字射線でフルマガジン全弾打ち込んでも、三発も当てられなかった程だぞ。しかもそいつは旧式のAusf.IIIで、だ。
 せいぜい、爆発でセンサーを攪乱するのが関の山さ。それも保って2秒ってとこだがな」
 「なるほど、経験者は言うことが違いますねぇ」
 その皮肉を無視して、バウテカは考察を開始した。
 「まずこれがシャドウがらみかどうか、が第一だな。Yesとして、次は建物と車、どっちにシャドウがいたか、だ」
 「トラックにシャドウが?」
 「あれの作戦行動時間は短い。トラックの荷台に乗せ目標に接近、起動させてすぐに突っ込み、戦闘終了後、回収班の所まで自力移動。そうすれば一番ロスが少ない」
 「なるほど」
 バウテカは向きを変え、ジョージと向かい合った。
 「現場、入れるか?」
 「しばらくは無理です」と即答するジョージ。どうやらすでにチェック済みらしい。
 「入れたとしてもですよ、第一の問いがYesだった場合、既に彼らが痕跡一つ残さずに消してますよ」
 バウテカは首を振った。
 「ライナの事後処理班がとんでもなく優秀で、弾丸、薬莢、足跡に至るまで消してたとしてもだ、消せない物もあるのさ」
 「コトダマ・マスターのクレアボヤンスで、ですか?」
 クレアボヤンスは離れたところの映像を見る力と一般的には解釈されているが、距離以外にも離れている場合がある。過去や未来など、時間が離れていても見ることもできるのだ。よってその場合「遠視」ではなく「幻視」と訳すのだが、美咲の「由見の技」はまさしくその「幻視」である。「場」を見る性質上、逆に距離的に離れていると見ることが出来ないのが特殊な所なのだが。
 「それなら完璧だけどな。そこまでいかなくても、めりこんだ弾丸を掘った跡やら、場合によっては金属探知できない場所に、弾が見つかるかもしれない。100%痕跡を消すのは難しいものさ」
 ジョージはなるほど、と軽く相づちを打った。リャン・バウテカ。数いるエージェントの中から、彼が本社から選ばれたのは二つ理由があった。対シャドゥ戦の経験者だという点で制服出身組が推薦し、日本で確実な情報網を有している点でスーツ組が推薦した。しかし、本社トップには第三の理由があった。それはバウテカが大変特殊な能力を有しているからであった。
 「あなたならライナの隠蔽を出し抜ける。そういう事ですね、Mr.バウテカ」
 「多分な。しかし、現場が隔離されてるとなると、下手に手出ししてこっちの存在がバレるのが厄介だ。
 となると、この建物に何があったのか。それを探る方が早いな。んー、こっちは手一杯だろう、あんたの方でできるか?」
 「やってみましょう」
 ジョージの短い答えにうなづき返し、リャンは椅子に深く座り直した。
 「そうやって一つずつ、情報を固めていくしかないな。なにしろここで何が起こってるのか、皆目見当もつかん」
 と、その時、ベッドサイドの電話が鳴った。
 「はい。はい、了解です。では早速」
 手早く電話を切ると、ハワードはゼロハリバートンからノートパソコンを取り出した。
 「Mr.バウテカ、それ、止めて貰えますか?」
 うなずくとバウテカは腕を伸ばし、盗聴防止用に持ち込んでいた電波発信機の一時停止レバーを下げた。 
 「すみません、本社から至急扱いで知らせが来るそうで・・・」
 パソコンを起動させながら、長辺30センチほどの細長いケースに入った乱数解読器をつなげるジョージ。
 リャンはカクテルバーからミネラルウォーターを引っ張り出すと、再び椅子に身をゆだね思考を再開した。
 しばらく沈黙した後で。ジョージがパソコンを終了させた音が響いた。ふとそちらを見るリャン。そこで視線が止まった。
 ジョージは微笑みを浮かべたいつもの表情のまま装置を片づけている。手探りで攪乱電波のレバーを跳ね上げながら、リャンは初めて見たジョージの様子に驚きを隠しえなかった。
 リャン・バウテカ。彼は精神系のエスパーだ。香港を中心に、中近東から極東までの超常現象研究者を繋ぐ結社、東宮会のメンバーであり、精神系では最高位にある真性ESPの持ち主だった。東宮会は美咲の様にミスティックに対象を限定された組織ではない。村の長老の語る雪男から、墜落したUFOの破片と称される金属板に至るまで、超常現象と言われる全てのジャンルの研究者が情報交換のために集まった結社だ。
 内紛により両親を失い、食うために傭兵になったバウテカは東宮会にその能力を買われ、エージェントとして訓練を受けた。その結果、彼の力は大きく開花したのである。
 彼の専門は東宮会式に言えば受動型精神系と呼ばれる力である。これは簡単に言ってしまえば、すこぶる五感が冴えているのだ。感知できる幅が常人を遙かに越えている彼は、赤外線を見、犬笛を聞く。ドアの向こうに隠れた人間の熱をも見ることが出来た。そのため感知型ESPと呼ばれることもある。しかし、あくまで受動型であり、相手に精神催眠を起こしたり、念動力で攻撃するといった能動的行動は論外だった。しかし、傭兵としての経験からナイフや火器の取り扱いには慣れている。残念ながら日本に愛用品を持ち込むことはできなかったが、それでもかなりのすご腕だ。
 リャンの目は彼の雇い主であり、バックアップとしての相棒たるジョージ・ハワードを見つめ続けた。
 その姿はいつもどうりに見える。しかし、ジョージの精神から発せられる波動、オーラと言えばいいのか、それがブレて見えていたのだ。
 人間の感情が高ぶった時や逆に情熱が覚めた時、オーラは人の形の境界を越えて揺らめく。それによって殺意といった強い感情を見抜けるのがこれまでリャンの命を守ってきた。だがそれにも限界がある。ジョージ・ハワードが正確に何者なのかをリャンは知らなかったが、華僑系巨大グループ、シャオツェンでも意思決定に関わる中枢に立つ人物であるとは知っていた。諜報畑の現場上がりであろう。しかも一流の。軍人にしろ、諜報員にしろ、一流になるとその感情をコントロールする術を身につけているものだ。ジョージもしかり。故にこれまで、リャンから見たジョージは肉体的外見と精神的外見が見事なまでに一致していた。あまりに完璧ゆえに、彼の目からは専門の訓練を受けていることが一目で分かるほどに。
 しかし、今そのオーラは肉体の内側に引きこもっている。ごくわずかの誤差が彼の姿をブレて見せているのだ。
 大きな心の動揺を隠している。そうバウテカは悟った。無理に感情を押さえ込んでいるのだ。
 ジョージは何事もなかったかのようにゼロハリバートンのロックを閉めた。そしてリャンに顔を向け、その見入るような視線を正面から見返した。
 数分、そのままの二人。その交わされた視線には無数の思考がからみあうかのようだ。
 「そうですね、ゆっくり酒でも酌み交わして、と言いたいところですが、あいにくと私、仕事中にはノンアルコール党員でしてね。コーヒーでも・・・」
 そう言ってジョージは立ち上がり、ベッドサイドの電話に向かった。
 「そいつは好都合だ。朝から酒を飲むような男にはなるなってのがばぁちゃんの遺言でね」
 
 朝食の皿が片づけられ、代わりに銀のお盆に乗った大きな魔法瓶と二つのソーサー、そしてミルクと砂糖が机の上に並んでいる。
 「さて、と」
 カップから口を離し、ジョージがまず口を開いた。
 「本腰を入れて掛からねばならなくなりました」
 「その様だな」
 バウテカもカップをソーサーに戻して頷いた。
 「今朝の一件ですが。予想外の所から情報が出まして。
 去年打ち上げられたホンジョーの気象衛星、<ミエルンデス ニゴウ>が事故の30分程前に、事故を起こしたトラックの同型車を写し取っていたことが判明しました。衛星写真なので写角上ナンバープレートは見えませんが、事故車と推測できます。南側から当市に向かう途中です。
 ミエルンデス ニゴウは監視衛星としての機能を隠し持つ衛星。その解像度はアメリカに次ぐ精度です。なので、うちも持ち主には内緒でちょくちょく映像を見させて貰っているのですけど。
 映像データを本社のスタッフが解析した結果、数コマだけですが、後続車両のフロントガラスにトラックの荷物が、つまり幌の中が写っているのを発見しました。ま、ちょっと大きな段ボール程度の木箱だったんですけどね。 
 ホンジョーはそれに気がついても何の感慨もないでしょう。でも、我々には大きな意味を持ちます」
 ジョージはそこで言葉を切り、バウテカを見つめた。ほんの少し頷いて、先を促すバウテカ。
 「私はそれに見覚えがあるんですよ。それは上海でトゥアーハ・アムラを隠していた箱にそっくりでした」
 目を見張るバウテカ。ジョージは無表情のまま語り続ける。
 「作戦開始前にシャドウ同士のデータを並列化する。それしか用のない装置ですよ、それが少なくとも5本。長さからして二列だったと思われますので、10本でしょう。その意味するところは一つです。
 ライナがここに招集したシャドウは10機。つまり現在稼働する全機です」
 衝撃が抜けきるまで数十秒。リャンは無意識のうちに顔を覆っていた両手を下げ、ジョージを見た。
 「どうやら、お互いにパートナーチェンジの猶予はないな」
 「腹を探り合う時間も、です」
 「探るどころか、腹を割って話すべき状況だ」
 そう言って、リャンはテーブル越しに右手を差し出した。
 「同感です」
 答えて握手を交わすと、二人はおもむろに座り直した。
 「まずお尋ねします。東宮会は今回の件にからんでいますか?」
 「今回は俺が個人的に受けてる。会からは今回の件について逐次報告しろという様な指示は出ていない。監視もされていない。ま、東宮会は俺の能力を知ってるからな、無駄なことはしないだろう。いつもどうりに作戦終了後に報告書を出す。それだけだ。俺が知る限り、東宮会は現在、シャドウに関しては興味を抱いていない。それがもたらす技術革新には興味あるだろうがな」
 「ふむ。なるほど、その言葉を信じましょう。ではこちらも信じてください。
 シャオツェン本社ではシャドウ計画を阻止するつもりはありません」
 きょとんとするリャン。それが彼らの真意だと思っていたからだ。
 「あれは勝手に行き詰まるのです。希望としては、それまでライナにはどしどしシャドウに資金と時間、人材をつぎ込んで貰って、なるべく多くの負債を負って欲しい。なので放置です。ライナのダメージが大きければ大きいほど戦略的にうちの儲けになりますからね」
 「それを信じるには、シャドウ計画阻止に代わる今回のそちらの目的が知りたい。そうでないとおいそれと信じられるものじゃない」
 その問いを予期していたハワードは即座に答えた。
 「ライナがここで今、何を行おうとしてるのか。それを知り、利益を横取りする。うちに被害が出るのならそれを阻止する。それが本社の意向です。シャドウが直接の目的ではないのです」
 ハワードの思考を読みとるかのように見つめるリャンは別の質問を口にした。彼にとって最も大事な質問を。
 「シャオツェンはシャドウの本体、またはデータを盗み、その計画を継続する意図を持つのか?」
 答えは即答だった。「No」と。
 「我々はシャドウを利用します。そのためにはあくまでライナの兵器でなくてはならない。我々はその中核たる原理以外、シャドウに用いられている技術のほとんどを個別に有しています。残った原理は我々に興味あるものではありません。よってシャドウを確保する必要はないのです。
 そして我々は知っています。シャドウ計画は必ず頓挫することを」
 ふぅ、と溜め息をつくリャン。
 「信じよう。あんたは俺の味方だ」
 「はい。あなたはお互いの信頼を、と先日言いましたね。今それが成されたのを嬉しく思いますよ、Mr.バウテカ。
 ここはシャオツェンにとって因縁深い場所です。日本では、えっと、ゲン ガ ワルイでしたっけ。ミサキとホンジョーの本拠地。そして裏にはライナの実働部隊。こういう場所で信頼できるパートナーを得るのは容易ではありません」



第四章

 本日二度目の休み時間。美咲由美は中庭に面したベンチで、香土岐と待ち合わせていた。
 気怠い表情でやってきた香土岐は、ベンチに座るとすぐ、四つ折りにした紙を美咲に手渡した。
 「可能性があるのはその七カ所。全て地下。しかも四カ所は地下水脈の中だ。散歩がてら見てくるというわけにはいかんな」
 「七カ所も・・・。星見の見立てどうりということですね」
 「さすがに疑いの余地はないな。全て関係しあっている。この学校で開いたファースト・ゲートは、今の地脈から古い地脈に力を送るバイパスだったわけだ。その後、場所、時間共に実に計画的な七回の刺激を受け、古い地脈は完全に目覚めているよ、既にな。ま、学校霊騒ぎはその副産物であり、煙幕だったわけだ。本条総家もおまえの所もしてやられたって事だな」
 香土岐はそう言ってあざけりの笑みを浮かべた。今でこそ彼女は本条の子飼いだが、当時はフリーランスのウィッチである。彼女には責任の無い問題だ。
 紙に書かれたリストを見て暗記し、美咲はそれを八つに畳んだ。手のひらに挟み、両手をぽんと叩く。ふわっと風がそよいだ。手を離すと、そこには紙の代わりに雑草の種が十粒ほど。美咲は後ろの緑地帯にそれを落とし、何事もなかったかのように座り直した。
 「いつ見ても呆れるな、おまえのとこの証拠隠滅技は」
 「木を大地に返しただけですけど」
 「はいはい、そういう事にしておこうか。
 で、凶星の方は? 何か分かったか?」
 星見の見立てによると、歳経ているが力ある竜は巨大な玉を噛んでいた。それに当たる位置は確かに美咲の御山。しかし、そこはかつてゲートがあった場所ではなく、もっと西寄りの山裾。山全体を覆う美咲家の敷地ぎりぎりのあたりだった。
 「文献では何もない場所です。史跡はもちろん、古井戸すらありません。術力の痕跡も。由見の技でも何も見えませんでした」
 「他の場所が地下深くだ。由見でも波及が見えないか、あるいは古すぎるか、だな」
 「今夜潜ってみます」
 そこらの河にでも潜るかのように、さらりと言う由美。しかし、その辺りには井戸も亀裂も何もない。香土岐は手袋をきっちりとはめている両掌を上向きにし、お手上げのジェスチャーを示した。
 「はぁ。もうどうとでもしてくれ」
 同じ術者と言えども、美咲流とマスマジックでは全くの別系統である。何の準備もなしにいきなり今夜、地中に潜る。その場合、ウィッチ・シアーであり、香土岐流封印術並びにマスマジックの皆伝である亮子でも、スコップとヘルメットを物置から引き出してくるしかない。まぁ、本当にそれが必要な場合、彼女は部屋のカウチに寝そべり、土まみれになるのはファミリア、つまり使い魔のぴーちゃんであろうが。
 「じゃ、私は引き続き地鎮祭に有効な鎮め場探しを続ける・・・が、今日は寝るぞ。さすがに二日も徹夜では肌が荒れる」
 美咲は僅かばかりにその目を見開いたようだ。隣に座る香土岐の剥き出しの肩から首筋をすっと見て取る。
 「年相応になるまで、まだ一週間は大丈夫では?」と言い、目にからかいの色を浮かべた。
 「お前の冗談は珍しいだけで全然笑えないぞ」
 別れの挨拶もなく、立ち去ろうとした香土岐。しかし、その足は一歩踏み出しただけで止まった。
 「なぁ、美咲。これは本条総家からの依頼とは関係ないことなのだが。どうも気になる事があってな。
 おまえのとこで、郁優学園付属、桜中学校について、何か知っているか?」
 美咲の目は、今度は明らかに見開かれた。
 「なぜ? その名を?」
 香土岐は再び由美の前に立ち、由美も立ち上がってその視線を受けた。
 東:香土岐亮子。175センチ。
 西:美咲由美。174センチ。
 ほぼ並ぶはずの二人だが、なにしろ靴底が違う。片や学校指定のべた底上履き。片やハイヒール型の特注パンプス。由美はまだ伸びる可能性があるので、将来的にはともかく、今、見降ろす側は香土岐である。
 「原始共産制、知ってるか?」
 「ギブ・アンド・テイクですか? いいですよ。たいした情報はありませんけど」
 「実はこっちもだ。しかし、お前と私がそれぞれのアプローチから同じ物に疑念を抱いたのであれば、それは大きな事だと思うがな。
 こっちのは簡単だ。統計的に見て、あの中学で超常現象が皆無という確率は0%だ。ありえない。数字はウソをつかない。どこかに見落としている条件項目がある」
 「隠されている? あるいは、最悪の場合・・・」
 既に魔性によって学校が完全に支配されているのか。普通の魔性であればそれでも周囲に被害が及ぶが、高位の妖しであれば情報操作もやってのける。美咲は不意にわき起こる悪寒を感じた。
 「ありえない」
 そう言って香土岐はその不安を一言の元に切り捨てた。
 「ここは他の地とは違う。異界まで近いからな。ハイミスティックが活動しているのであれば、もっとくっきりと分かる。台風の目の様にそこは穏やかでも、周囲は荒れ狂う。その可能性はない。また、既に支配が完成し、閉鎖されているとしても、霊的に接している他校に影響が出ないはずはない。
 つまり、桜中はよほどの術者が防衛しているか、独自の結界に守られているか、だ」
 「実は今朝、真由美と見に行ったのです」
 「なに?」と、今度驚くのは香土岐の番だった。
 「術に関しては結界はもちろん、防霊陣の痕跡も見いだせませんでした。一方、由見の結果、あそこには門が開いた残滓がある。けれど、その先はどの界位にも開いた痕跡がない、と。<創世>が言うには、絵に描いた様な門。向こう側のない門だと」
 チャイムが鳴った。由美は慌ててこう付け加えた。
 「私が桜中を気にした理由は簡単です。門かがりの年、本校に来ていた教育実習生が今でも一人だけこの町にいるのです。石倉という女教師が母校に、それも中学に勤務しています。校内にある寮に住み込みで。そこが桜中なのです」


 一方、こちらはその桜中。三年二組の教壇でまだ若い女教師、石倉安比奈(あいな)は生徒が教科書を読み上げるに聞き入っていた。他の生徒もみな、じっと聞き入るか、教科書のその部分を目で読み併せている。
 桜中の生徒は勤勉なのか内申が怖いのか、みなおとなしく授業を受けている。とはいえ、もちろん若干移り気な生徒もいるので、その集中を集める話術も時には必要だ。
 パチパチパチ。
 読み終えた生徒は先生の大げさな拍手にちょっと恐縮気味だ。
 「間の取り方、抑揚の付け方。詩の内容を理解しているのが良く分かりますよ、岡村さん」
 岡村が席についた時だ。隣の一組から突然の大音響が響いた。
 「ダァマラッシャーーーーイ!」
 思わずしん、となってしまう二組の教室。本校一、生徒に恐れられている老教師、バラシェス先生の雷が落ちたのだ。
 廊下全体に響いた雷はそのまま遠雷となって続いた。雷雲はいまだ一組方面を席巻しているらしい。
 「ふぅ、びっくりした・・・」
 生徒たちは石倉先生のつぶやきで我に返った。
 「誰かバラシェス先生の授業中に内職してたみたいですねぇ。皆さんも受験に関係ない科目だからって、そんな事しちゃいけませんよ。あのダマラッシャイを受けたくないなら、ね」
 石倉先生の言葉は親身の籠もったものだった。彼女はこの桜中の出身者であり、バラシェス先生はその頃から生徒に恐れられていたのだから。彼女の言葉を聞き、生徒のほとんどが思わず一斉に頷いた。
 「えー、授業に戻りますね。では、岡村さんの次は・・・小野村さん」
 「はい!」
 立ち上がった少女はすぐ前に読み終えた岡村への評価を意識しながら、感情を付けて読み上げてみた。しかし、彼女はもともと感情の起伏が激しい方ではない。いや、むしろのんびり屋。小野村がやりすぎたかな、と自分で思う音読は、どうやら丁度石倉先生のツボにはまったようだ。
 読み終えた小野村は、先ほどよりもさらに強く長い拍手を贈られ、顔が赤くなった。
 「作者の感動が乗り移ったようです、見事でしたわ小野村さん。さすがは本科生ですねぇ」
 その一言で、一瞬教室内が白けた。ふっと目を教師から外す生徒たちにとって、石倉の褒め言葉はひいきの言葉に認識変更されたらしい。その空気を無視してか、あるいは気づかないのか、石倉先生はさらに言葉をつなげた。
 「いいですね小野村さん、本科生は皆さんの模範であらねばなりません。先輩として期待していますよ」
 にっこりと微笑む石倉。その笑みは本科生出身の先輩として後輩に向けられているのだが、それはそのまま小野村と他の生徒たちとの溝を深めるものだった。このクラスには本科生、つまり寮生は小野村はるか一人だったのだから。
 生徒、小野村、教師。この三者の微妙な関係を気にもとめず、転入生である司はただ教科書を読んでいた。ページは既に三学期分の内容に突入している。
 授業はそのまま続き、司の「読書」はチャイムが鳴る前に終わってしまった。つまらなそうに教科書を閉じ、その後はただ座っているだけの司。
 授業が終わり、休み時間になった。最初の休み時間にこそ、生徒の質問攻めにあった司だが、質問自体を無視したり、答えても、質問者がその内容を理解できなかったり。かくして転校初日、しかも午前中から既に「変わり者」のレッテルが貼られている彼に、話しかける者はもういなかった。それでなくとも近寄りがたい外見だったし。かくして彼は皆の注目を浴びてはいるが、それは視線の砲列のみで、接近戦をしかける勇者は皆無。
 と思いきや、近づく者がいた。委員長の山木脩だ。
 「雅君、次、教室移動だからね。みんなに付いていって。あと、次の授業、先生うるさい人だから。授業終わるまで教科書閉じたりしちゃダメだよ」
 山木は黒ぶち眼鏡をかけたステレオタイプのがり勉君だ。生来の世話好きだし、ルックスもよく、家も裕福。ただ、背が低いのが難点か。数年したらもて夫君間違いなしというクラス一の成長株であり、既にかなりの女子が粉をかけているのだが、身長同様、恋愛感も伸び出していない彼には、いまのところ有効打を出した者はいない。
 「おさむ、ホンカセイって何?」
 唐突な司の質問。教室移動を説明し、用件を終えたので「じゃ」と離れようとしていた山木の体が凍り付いた。数秒の間を置いて少しぎこちない姿勢で山木は笑顔を作った。
 「あ、じゃ準備して。歩きながら話すよ」
 その声は小さかったが、既に本科生という単語を耳にしていた小野村はつい意識してしまい、それを聞き逃すことはなかった。
 自分のいる所では言いたくないのだろう。小野村はるかはそれに気づき、教科書を出すと立ち上がり、そそくさと教室を出ていった。
 それを見送り、委員長が漏らした溜め息は周囲からのそれにとけ込んだ。
 「えっと、本科生ね。校庭の奥にさくら寮っていう女子寮があるんだよ。そこは学内トップクラスの才女とか、親が学園出身で元華族の子とかだけが選ばれて入寮しててね、なんていうのかな桜中のエリート集団? そんな感じなんだよ、すごいだろう、あはは・・はは」
 額に流れる汗が、山木脩の性格を示している。正直者で、かつ小心者なのだ。
 「あの子、オノムラ? 育ちも頭もよさそうには見えなかったけど」
 司の爆弾発言。生徒たちは小野村を追うようにそそくさと教室を出た。しかし、転校生である雅がまだ立ち上がってもいないのに、教室を出ることは学級委員の山木には出来なかった。
 「うん・・・。えっとね。小野村さん、両親を亡くしてて・・・。ここ、郁優学園の理事の一人がね、彼女の保護者になったんだ。それで・・・まぁ。なんというのか特別に・・・」
 どもりつつ、うつむいて説明する山木であったが、雅の次の質問には完全に思考が止まった。
 「ふ〜ん。じゃ理事のお手つき? 夜のペットなの?」
 「・・・」
 「まだまだ未発達だけど、いい体してるよね。もう一、二年したら抱き心地よさそう。楽しみだなぁ」
 「・・・」
 「あ、休み時間終わっちゃうよ。おさむ、行かないの?」
 「・・・」
 石化の魔法は簡単には解けない。耳まで真っ赤な石像と化した山木を残して教室を出ようとする雅は、扉のすぐ外でこっちをうかがっている三人の生徒に目を向けた。彼らは皆、心配そうに石像を見ていた。
 「おさむの友達? ふ〜ん、そう。おさむ、やっぱりいい奴なんだね」
 にこっと笑顔を浮かべ司は廊下を一人、歩き出した。ぽかんとする生徒たちを残して。




第五章

 その頃。駅前に所在なさげに立つ一人の男がいた。ぼさぼさの前髪をかき上げながら、ロータリーにある噴水の真ん中、時計塔をちらちら見ているその男は周囲からの注目をばっちり浴びているので、どうにも居心地が悪かった。
 道行く人々やバス待ちの老人たちは、その姿から近在一の社、厳位(いわい)神社の神主だろうと推測していた。すれ違うバスの中から両手を合わせる老婆までいる。さすがに白袴ではそれも当然だろう。しかし、その実態は星見の一族、筧家の元術者、筧啓介であった。待ち合わせで分かりやすいようにと、相棒によって勝手に決められた服装である。
 「ちっ、おっせぇなぁ・・・。時間厳守は美咲の鉄の掟じゃなかったんかよ」
 空を見上げる啓介の目に雷雲が写る。
 「雨降る前に来てくんないかねぇ・・・。こりゃ久しぶりに結構なお湿りになりそうだぜ」
 つぶやくその声に、おもいがけず返事があった。
 「そぉですよねぇ。涼しくなるから雨は嬉しいですけど、雷は怖いです」
 ぎょっとして声のした方を見る啓介。しかし、さらに俯かないと声の主の頭頂部しか見えなかった。
 「あ?」
 「あ、あのぅ、本家のかた・・・ですよね? ち、違ったら困っちゃうんですけど・・・」
 ささやくような声はハイトーンで小鳥のさえずりのようだ。年の頃は二十歳というところか。身長は160センチないだろう。漆黒の長髪を束ねた彼女の肌は雪の様に白い。走って来たのか、はぁはぁと息を弾ませ、頬だけ朱に染まり、額には汗もにじんでいた。えび茶色のスカートにブラウス。薄茶のソックスに革靴。その装いは新人OLの様だが、肩から提げた大荷物はすっかり家出娘だ。
 「本家? あ、そか。あんたが白鳥さん?」
 その名前を聞き、慌てて荷物を降ろしてぺこりと頭を下げてから、娘は曇り掛けた空さえ晴れ渡るかのような笑顔をぱっと浮かべて名乗った。
 「はい、築館美咲から参りました、白鳥あゆみです! よろしくご指導のほど」
 「はいはい、こっちこそよろしく、と。
 俺は筧啓介。美咲の、美咲本家の居候だよ。あんたの師匠になる由美とコンビで退魔師やってる。んで相棒の代わりに迎えに来たってとこだ。あいつぁ今学校なんでな。
 ま、なんだ。居候同士、仲良くしようや」
 無造作に差し出された右手。あゆみはすぐにその手を握った。
 「はいぃ!」
 握手を交わした後で、啓介はあゆみの荷物をひょいっと肩にかつぎ歩き出した。その重さを知っている白鳥がびっくりするほど、その動きは軽やかだった。
 「車が留めてある。こっちだ」
 「あ、す、すみませぇん!」
 また頭を下げてから、あゆみも慌てて歩き出した。
 筧啓介と白鳥あゆみ。後に美咲姓になる二人の、それが出会いだった。

 車はロータリーを脇に入った大通りに停まっている。先を歩く啓介は、白鳥の靴音から彼女が遅れ気味なのを悟り、少し歩調を遅らせた。彼の相棒である由美は啓介よりも早足でかつかつ歩くので、ついその調子になってしまったらしい。女性と足並みを揃えて歩くという行為は筧の修行にはなかった事だし。
 振り向いてすまん、と一言謝ろうとしたが、その言葉は出なかった。彼の目は白鳥が何かためらっているのを見て取ったからだ。
 「ん? どした?」
 促され、歩を留める白鳥。少し迷った後で、声を絞り出した。
 「か、筧様は・・・、本家筆頭術者様をよくご存じですよね?」
 「ん? 由美か? まぁな、相棒だかんな」
 啓介も立ち止まり、あゆみを見つめた。
 「あ、あの・・・。わ、私大丈夫でしょうか?
 私なんか、まだまだ全然ダメで・・・。それが本家の、しかも筆頭術者様のお時間を・・・あの・・・」
 筧は彼女の言いたいことを理解し、困ってしまった。
 真由美の一件で由美の力を見た東北美咲の要、築館の美咲家から申し出があった。是非とも由美の元で学ばせたい才能ある術者がいる。築館ではこれ以上の指導は難しい、と。分家と本家双方の御主が協議し、その決定に従って彼女、白鳥あゆみがやって来たのである。
 しかし、どうやら本人がその決定にとまどっている。それを認識はしたものの、啓介はただ困りまくった。なにしろ、説明にしろ説得にしろ、およそ話術という類は相棒の担当だったのだから。
 「あ〜・・・。そうだなぁ・・・」
 救いを求めて周囲を見回しても、相棒は遠く離れた学校で授業中。すぐそこで待っている運転手も、多分相談には乗ってくれないだろう。
 困る筧。救いを求める目で見つめる白鳥。
 「え〜と・・・。お、そうだ蕎麦でも食おう、な! そこの蕎麦屋、結構いけるって聞いたことあるんだよ、食おう、蕎麦」
 「は?」
 啓介はそそくさと歩き出し、すぐ脇にあった古風な店構えの暖簾(のれん)をくぐってしまった。立ち止まっていたあゆみも、仕方なくその後に付いていく。
 「らっしゃ〜い、おや厳位の旦那で? お一人・・・あ、お二人さん?」
 「おうよ。いやぁ涼しいなぁ、天国だぜ」と啓介は答え、蕎麦屋のおっちゃんが示した四人掛けの席に座った。あゆみの荷物はとりあえず空き席に降ろしておく。
 遅れて暖簾をくぐったあゆみは長髪を背中で束ねているが、そこからして新人巫女という印象を与えていた。おっちゃんはすっかり神社の神主と巫女だろうと信じているようだ。
 「ささ、座れや」
 啓介に促され、正面の椅子に座るあゆみ。
 「あー、にしん蕎麦くれや、おっちゃん。
 あんたは何にする?」
 筧が差し出したお品書きを反射的に手にして、やっと状況を理解したようだ。
 「あ、あ・・・」
 隣に来たおっちゃんからプレッシャーを感じ、慌てるあゆみ。
 「おら、盛りでえがす・・・
 じゃなかった、も、盛り蕎麦くださいっ!」
 言い切って、真っ赤に染まった顔をうつむけるあゆみ。二人の男はそのあわてぶりに吹き出しそうになった。
 「はいはい、にしんに盛りね、はいよ!」
 おっちゃんが元気に立ち去った後で、啓介はまだ俯いたままのあゆみを見ていた。
 「実家にいた頃はよ、菜食オンリーだったんだ。ま、殺傷禁止だからよ、うちんとこ。こっちきてから食いだしたんだけどよ、うまいよな、魚。まぁ、さすがに鶏肉とかはどうもいまだに受け付けないんだけどよ、魚はうまい。うん」
 口元を緩めて話しかける啓介だが、あゆみの顔は強ばったままだ。以後無言の二人。
 啓介がまた話しだしたのは蕎麦の汁を底まですすり終わった後だった。
 「ぷはぁ。
 ん〜、暑い夏、がんがん冷房効いたとこで熱い蕎麦をすする。贅沢すぎるな、こいつぁ」
 「厳位の旦那ァ、そいつぁささやかな庶民の贅沢ってやつですよ。たまぁにだったら、お天道様も許してくれまさぁ」
 そう言って、おっちゃんがあゆみの前にそば湯を置き、啓介の前にはお茶を置いて去っていった。
 「さて、と。人心地ついたとこで。
 さっきの話しだけどよ。つまりあんたは自信がねぇんだな?」
 「は、はい・・・。私なんか、だめだめで・・・」
 俯いたまま答えるあゆみ。
 「俺、前にあんたんとこの御主、ユウカ様だったか、会ってるけどさ。しっかりした指導者に見えたぜ」
 ばっと顔を上げるあゆみ。その顔は一瞬で興奮の色に染まった。
 「はい、もちろんです! 御主様はとても素晴らしいお方で、由見も深くって、結界呪法なんて、それはもうすごいの一言です!」
 「ほぅ、尊敬してるんだな」
 「もちろんです!」
 「で、どうしてその人の決定を疑うんだ?」と、啓介は茶をすすりながら言った。
 また俯いてしまう白鳥。啓介は困り果てて髪をむしりかけたが、なんとか言葉を続けた。
 「今がダメダメ。そりゃ当然だろ?」
 「・・・」と、首の角度がさらに5°は俯角に入るあゆみ。
 「ダメダメだから修行に来たんだろ?
 あんたの才能は築館と本家の御主、二人が認めたんだ。でもよ、実力と才能は違うだろ? 一緒だったらよ、修行なんていらねぇじゃん」
 「そ、それは・・・分かるんですが・・・」
 「腹くくっちまえって。ここまで来たんだからよ。新しく修行始めるんだ、最初はダメダメ結構。当然じゃねえか。ばぁさんたちもあんたの今の実力は知ってるはずだぜ。
 だからよ、今恥ずかしがる必要はこれっぽっちもねぇんだよ。恥ずかしがるのは、才能を発揮できなかったって時だ。
 違うか?」
 「・・・」
 「あんた、恥ずかしいだけか? 尊敬する御主の期待に答えられなかったらどうしようって不安だからじゃねえの?」
 びくっとあからさまに身を縮めるあゆみ。図星だったらしい。
 「あんた、努力する気あんのか?」
 ぶんぶんっと大きく頷く。俯いた状態から、よくここまで派手に出来るもんだと、啓介は妙な事に感心した。
 「じゃ後はお前さんに才能があるか、ないか、だな。
 才能あったなら大手を振って故郷に帰れる。なかったらよ、それはお前さんの責任か?」
 お茶を飲み干した啓介は、盛り蕎麦のつゆを茶碗に入れ、そば湯も勝手に注いだ。
 「違うだろ? 御主の見立てが間違いだったってことじゃねぇか。んなもん、御主の責任だろ?」
 「そ、そんな、そんなこと!」
 白鳥はつゆを半分盗られたことにも気づかず、啓介の言葉の方に反論した。
 「叔母・・・、御主様は正しいです! お見立てが違った事など、一度もありません! い、いくら本家のかたといえど、あんまりです。訂正してください!」
 「あんたがそれを立証すりゃいいじゃねぇか。見立ては正しかったってさ」
 にやりと笑う啓介を見て、白鳥は罠にはまった事に気が付いた。ここで自分が不安がっていては、それはそのまま御主の見立て違いの可能性を認めたことになる。しかし、だからといって、「まかせてください」などと言えるはずもなし。
 「か、筧様は・・・ずるいです」
 啓介はきょとんとし、次いで得意の絶頂に舞い上がった。「ずるい」。一度でいいから由美に言わせてみたいものだ。言葉での勝負では一度も勝ったことのない啓介の夢である。しかし、現状、勝つどころか、同じ土俵に立たせてもくれないほど由美のずるさは天下逸品なのだが。
 「あのなぁ、失敗の不安ばっか抱えてどうすんだよ。成功の期待ってのも一緒に持てよ。
 世の中、どう転がるか分かんねぇんだ。不安と期待。両方持ってて、丁度いいんだよ」
 そうなのかなぁ。白鳥は考えた。
 「私なんかでも、もしかしたら期待に応えること・・・できるって思います?」
 「知らん。だって、そりゃあんたの努力と才能次第ってやつだろ」
 「そ、そうかもですね。今はどっちになるか分かりません。自信ないですし、御主様を疑うこともできないですし。
 それでいいんですか?」
 「いいんだよ」と、啓介は無造作に答えた。
 「期待も持ってれば、不安がっててもいいんです?」
 「ああ」
 「ほ、本当に?」と、白鳥は疑いの色を込めた眼差しで見上げてくる。
 「本当だ」
 「ぜ、ぜ、絶対です?」
 「絶対」
 「うそついてません?」
 「ついてないぞ」
 「すぐにバレますよ? み、見ちゃいますよ?」
 「ついてないって」
 「ほ、本当ですか? 覚悟してください!」
 「覚悟なんかしねぇって。ウソじゃねぇからなぁ」
 それを聞き、あゆみは上半身をさらに机に乗りだして啓介を見上げてくる。その姿勢で一度まぶたを閉じ、ゆっくりとそれを開いた。
 白鳥あゆみ。彼女はその名前に含まれる「ゆみ」の音が示すとおり「由見」の持ち主だ。間近に迫っている状態で、その視界一杯に啓介が見えている。同時にその含む縁(えにし)も由見の力で見えていた。
 「お・・・おい・・・」
 至近距離からじぃ〜〜〜〜っと見上げられ、とまどう啓介。あゆみの目にはそんな彼の表情は見えていない。彼女の目は啓介の顔ではなく、意識でもなく、もっと奥、心を見ていた。
 「うその欠けらもない・・・。そもそも、うそが苦手なんですね・・・
 広くて、無骨で、でも繊細。孤独だった。でも今は背中を任せ合える人がいる。まっすぐで・・・そしてなにより暖かい人・・・」
 きょとんとする啓介。生憎、彼の相棒の由美は名前が「ゆみ」の音でありながら、「由見」ではない。美咲屋敷には由見が卸すほど、それこそ他家に貸し出すほどいたが、みな筆頭術者の相棒である啓介に親しく話しかけたりはしない。そう、由見の持ち主で親しいのは真由美くらいだ。ところが真由美の由見は歴代美咲でも最高ランク。あまりに強すぎ、現実に見えている物以上に由見で見るものが印象づく程。そんな真由美にとっては由見で見た印象をわざわざ語る事などなかった。
 結果、自分が由見でどう見えるか、教えられたことなど無かった啓介は、今初めて見立てを告げられたのだ。
 「筧様は暖かい人なのですね・・・」
 由見で見た印象がまだはっきりと残像として残っている白鳥は、寝ぼけているかのように半分まぶたを閉じかけていた。
 「あったかい?」
 「はい。包み込むように。とても暖かいお人です」
 「はぁ? そうなんか?」
 首を傾げる啓介に、あゆみは居住まいを正し、頭を垂れた。
 「困らせてしまっていたみたいで。すみませんでした」
 「ん? あぁ、ま、あんま気にすんな。これから一杯頭使うんだからよ、そんなんじゃ、すぐパンクしちまうぞ」
 「はい」
 あゆみは明るく答えた。

 蕎麦屋を出た二人は並んで歩き、待たせっぱなしだった車に乗り込んだ。
 遅れた事を詫びるあゆみに深々と頭を下げた後で、運転手が車を走らせた。

 かくして白鳥あゆみは一杯の不安と、生まれたばかりのちょっぴりの期待を持って美咲本家に到着した。
 それは彼女にとって人生最良の時の始まりだった。わずか半年足らず先で絶望に追い落とされ、終わるまでの間の大切な、大切な幸せの時間だった。残りの人生を、その思い出だけで過ごせるほどの大切な。



第六章

 放課後になり、加賀壬はぜぇぜぇと荒い息をつきながら階段を上り、図書室に向かった。廊下の突き当たり一面にあるその大きな扉の前で一回立ち止まり、呼吸を整えてから、念のため後ろを振り返った。
 よし、誰もいないな。
 この階には生徒会室もあるので、廊下に誰かいる可能性もある。無人なのを確認してから扉に向かう。
 「加賀壬です、入ります」
 一声掛けて図書室の扉に触れる。指先が触れた途端、観音開きの扉がすっと下がる。
 既に慣れっこになってはいるが、やはりどう見ても異常な開閉だ。タッチセンサー式の自動扉だと思うことにして久しい加賀壬であるが、誰か他の人が目撃したら大騒ぎだろう。つい入室前に確認してしまう、臆病者の加賀壬だった。
 室内は暗かった。これまた自動で扉が閉まる前に、咄嗟に灯りをつける。
 蛍光灯に照らされた無人の図書室はなかなかに不気味であった。加賀壬はいるのだが他に人がいないと、つい無人と思ってしまう。
 「せんせぇ?」
 呼んでみるが反応はない。きょろきょろっとして、カウンターに張り紙がしてあるのに気が付いた。近づいてみる加賀壬。


図書室利用者の皆さんへ

本日は司書が急用のため、勝手ながら業務はお休みさせていただきます。
明日のご利用をお待ちしております。

        香土岐

 

 「ぐはぁ」
 読み終えて、思わずカウンターに突っ伏す加賀壬。
 「り、利用者なんて、ここんとこあたしだけじゃん!
 業務ぅ!? 何、普通の図書室みたくしてるかなぁ!」
 入り口の外ではなく、カウンターにある以上、これを見ることのできる人間は限られている。というか、ほとんど個人特定だ。
 文字の脇にぴーちゃんのイラストまで付けた香土岐のユーモアのセンスに、加賀壬は付いていけなかった。これが香土岐の使い魔だと知っているのは美咲か加賀壬くらいだろう。つまり、やっぱり加賀壬限定の張り紙なのだ。
 しかし、講義がお休みとなればもうここには用はない。いくら慣れたとはいえ、好んで時間をつぶしたい場所ではないのだ。
 すぐさま扉に引き返し、左手を扉に、右手を電気のスイッチに伸ばす加賀壬。
 灯りを消し、すっと開いた扉を素早くすり抜けると、くるっと向きを変え、漆黒の室内に向かって頭を下げた。
 「お邪魔しましたー」
 扉が閉まってからすたすたと歩き出し、ふと思う。自分は誰に挨拶したのだろう、と。


 鉄扉を開けて外階段に出ると、下から見慣れた二人組がやってきた。超常研&生徒会の副会長、篠木原俊之と、生徒会の書記、宮乃弥生だ。よく連れだって歩いている姿を見ていたので、加賀壬は以前二人がつき合っているのかと思っていたが、同じクラスなので一緒に生徒会室に来る事が多いだけらしい。なにしろ篠木原にはもう婚約者がいるという話しだったし。
 ぺこりと頭を下げる加賀壬に、先輩二人が口々に挨拶を告げた。
 「あ、加賀壬さん、今日、超常研おやすみだからね」
 挨拶の後、篠木原にそう言われて驚く加賀壬。
 「今日は調査がいろいろあるんで、会長以下、バックアップ員はお仕事。君たちアタックチームは休養日ってことにさっき決まったから」
 「あ、そうなんですか。これから会室行こうと思ってたんですけど・・・
 何か手伝えることあります?」
 「大丈夫だよ、OB会が来てくれるから手は足りてる。休養日なんだから、休まないとだめだよ」
 「そうそう、そういう時、実働班はね、気力、体力、共に回復するのが仕事なのよ」
 宮乃にまでそう言われ、加賀壬は「はい」と答えるしかなかった。急に時間が空いたので会の方に出たかったのだが、仕方ない。
 加賀壬が階段を下りて行った後で、二年生二人は生徒会室に向かった。
 「でも、一体何が起きてるんだろう・・・」
 加賀壬の前では見せなかった不安な表情の宮乃。篠木原は生徒会室の鍵を出しながら、首を振った。
 「正体不明の危険が迫ってるってのは美咲家の予見だからなぁ。魔性がらみだとは思うけど、学校霊とは限らない。案外、僕らには関係ないことかもしれないしね」
 「うん・・・。だといいけど・・・」
 「美咲会長たちが予防措置してるんだから任せよう。僕らが不安がってると、一般生徒に伝染するからね。笑ってないと」
 それを聞き、宮乃は少しぎこちない笑みを浮かべた。

 管理棟を出、渡り廊下を進むのは加賀壬だ。北村や前原はどうするのだろう。加賀壬と違って他に部活があるので、そっちに顔だすのだろうか。チームの一年女子を思い浮かべながらとりあえず教室に戻ろうとしていた加賀壬は、下駄箱前で下校しようとしている級友の一群と出会った。
 「おぉ〜、かっきのん。これからドイツ語?」
 「あ、いや。今日は講習もおば研もお休みになっちゃって・・・」
 そういい掛けた加賀壬の言葉が終わるのも待たず、級友たちが互いに顔を見合わせて頷いた。次の瞬間、加賀壬の右腕に三宅、左腕に鮎川が飛びついてくる。
 「逃ぃ〜がさぁ〜〜ないっと!」
 「おっしゃぁ、連行や!」
 「はひ?」と、両腕を左右から掴まれ、ぱにくる加賀壬。
 「あんた、つきあい悪すぎるんだから。今日こそ七段ソフト、食べて貰うわよ!」
 靴を片手に持ったまま、開田がにま〜〜っと笑い顔を見せる。
 「そうそう、あの洗礼を受けて貰わないとね〜〜」
 開田と級長の言葉に加賀壬の目も口もOの字型になった。ショッピングモールにあるアイス屋。そこで七種類のアイスやシャーベットを乗せた、すごいソフトクリームがあるという。級友(女子限定)で制覇したのはほんの数名らしい。大抵二人で一個だが、三宅いわく、それでも多いとか。その噂を聞いていた加賀壬は期待に満ちた声を上げた。
 「おぉ〜〜、一回見てみたかったんだ、つぅか、見るだけでいいんだけど」
 その言葉に、級友たちの声がはもった。
 「「食え!」」
 「はぅぅ・・・。でもどうせ食べるなら、ほら、この前言ってた白玉あんみつ? おいしいとこあるって言ってたよね?」
 「あ、あれな。あれはあかん・・・」
 「おじぃちゃん、死んじゃってね、味がた落ち。でも、この前っていつの話よ。5月の連休の頃亡くなったんだよ」
 「あぁもう、かきのんったら、つき合い悪すぎるんだから。うまいもん情報もとろすぎんのよ。じゃ今日はハシゴ決まりね、一巡するわよ!」
 「おぉ〜〜〜〜!」
 そのまま一群となって加賀壬を包囲し、ガラス戸に向かうクラスメート。
 「ちょ、ちょっと待ったぁ。私、上履き! ってか、その前に体操着がまだ教室にぃぃ〜〜〜〜〜」
 「逃げようったってそうはいかないわよ!」
 「いや、ちょっと〜〜〜〜〜〜」
 加賀壬の悲鳴が辺りにこだました。

 その夜。甘味にデザートを堪能しまくった加賀壬は、夕食のほとんどを残して母親にこっぴどく叱られる羽目になった。しまいには「あんたなんかうちの子じゃないわ! 勿体ないお化けの子になっちゃいなさい!」と、どこか論点のずれた怒鳴り声まで浴びて。
 甘い物は別腹って、うそだな。それを知って、ちょっと利口になった気分の宏子だった。






 続く