
von:秋澤 弘
第一章
「カンストドゥードイチュ?」
電車の中で不意に話しかけられた加賀壬はびっくりして声の主を見た。
うわ、綺麗な子!
すぐ隣に座っていたその人物を見て、加賀壬の第一印象はそれだった。歳は14,5か。飾り気のない純白のYシャツに紺のキュロット。その質素な出で立ちは、逆に顔立ちの美しさを際だたせているだけだった。
通勤ラッシュにはまだ早いいつもの電車。満員とまではいかないが、それなりに混雑した車内には、畳んだ新聞に見入るおっさんや眠たげなOLで一杯の見慣れた光景。その中で「隣人」はあまりに際だった存在だった。
天使みたい。
そう思いながら、加賀壬の目は透けるような白い肌に、筆で描いた様にくっきりとしたその瞳に釘付けだった。
「カンスト ドゥー ドイチュ?」
先ほどより少しゆっくりした発音がほっそりとした唇から発せられた。思わずその顔に見入ってしまっていた事に気づき、加賀壬の耳が真っ赤に染まる。と同時に止まっていた思考が動き出し、今の言葉が日本語でも、英語でもないことを理解した。
Kannst du Deutsch?
加賀壬の脳裏でその発音がアルファベット、いや、アルファベに変わる。ドイツ語ができるのか、と聞かれているのだ。
「ヤー、アーバー ヌア アインヴェーニヒ。イッヒ シュトゥデーレ ドイチュ イェッツト」
加賀壬は手にした単語帳を見せながらそう答えた。今勉強してるとこなので、ほんの少ししか話せない、と伝えようとした自分の発音。それが、あまりにたどたどしいので悲しかったが、習いだしてさほど経っていない言語ではどうしようもなかった。
「グート!」
それでも隣人はにこりと微笑むと、そう言ってくれた。英語で言うGoodだ。発音を褒められたわけではない。もっと軽い受け答え、いわば、なるほど、というような意味だろう。しかし、短いながらも会話が成されたことに加賀壬は嬉しさを隠せなかった。緊張が喜びにとってかわる。なにしろ、香土岐先生以外に初めてドイツ語で語ったのだから。
「高校生でしょ? ドイツ語なんて珍しいよね?」
隣人の言葉は日本語に切り替わった。日本語できるのか、と呆気にとられた刹那、自分の下手なドイツ語が恥ずかしくなり、加賀壬の緊張はパニックを伴って帰ってきた。そしてそれに輪をかけた事。美少女だとばかり思っていた隣人は、実は少年だった、という認識。シャツが左前だったのだ。
「あ、授業じゃなくて・・・。その・・・趣味で・・・」
パニくっている加賀壬が曖昧にそう答えた時、電車が速度を落とした。軽く会釈して立ち上がると、隣人も立ち上がった。話し続けるのも、逃げるのもできず、加賀壬は少年と並んでむっと熱気の立ちこめるホームに降り立った。キュロットだと思っていたのはゆったりとした半ズボンだった。そこから伸びる、すらりとした純白の素足。
こりゃあんまりだ。男でこれか? 神様はやっぱり不公平だ。
泣きたくなる加賀壬を余所に、少年が口を開く。
「北口の東側って、こっちでいいんだよね?」
「う、うん。そう・・・です」
「東循環のバス停、分かる?」
「え、えぇ・・・あそこの改札出てすぐですよ」
明らかに年下の相手だったが、タメ口で押し通せない加賀壬。間違いなく自分とは住む世界の違う人種に見えたからである。それに反して少年は全くのタメ口。そういえば、さっきも敬称であるSie、「あなた」ではなく、Du、「君」だった事に気づく加賀壬。やはり世の中不公平だ。
朝の通勤ラッシュがそろそろ始まろうという時刻。改札を出た二人は並んでバスロータリーに沿って歩いていた。二つ目のバス停が東循環の物だ。
「ここです」
少年はありがと、と短く告げ、列の最後尾に並んだ。加賀壬が今来た道を戻ろうと振り返った時。少年が声を掛けた。
「ねぇ、あの制服」
加賀壬が少年を見ると、彼は右手の交差点待ちで日陰にたたずむ中学生を指さした。
「あれ、どこの制服?」
青というよりは水色のセーラー服。大きな帽子もセットになっている。このあたりに余り詳しくない、電車組の加賀壬でも知っている程特徴のある制服だ。
「桜・・・、えっと郁優学園付属、桜中の制服ですよ」
「ダンク! チュス!」
「ち、ちゅすー」
加賀壬は初めて使った、俗語の「さよなら」に焦りながら足早に立ち去った。
残った少年は加賀壬をもう見ることもなく、その瞳を細め青信号で歩き出した中学生を見つめていた。
「う〜ん、グリュックだねぇ。もう見付けちゃった」
中学生の女の子が視界から消えた時、彼はぽつりとつぶやいた。
「桜中・・・か」
香土岐亮子は管理棟三階にある図書室で一人、いつものごとく机に腰掛けていた。
社会科の教師でありながら司書教諭も兼ねている彼女は異例の塊である。採用も企業経由。公立校の職員でありながらその給料は企業から、幾重もの隠れ蓑を通じて支払われている程だ。もちろんその給料も教師としてでも司書としてでもなく、「魔封じに長けた香土岐一族の術者」としての高給である。その金額を知ったら、校長夫人は涙するに違いない。
とまぁ異例づくしの存在故、毎朝の職員ミーティングですら「必要事項がある場合、不参加もやむなし。連絡事項はメールで通知」ということになっている。今、彼女はその特権を享受し、コーヒーカップを片手に一枚の表を眺めているところだ。しかしながら、既にそのコーヒーも冷めており、亮子の表情も特権を楽しむというには程遠いものだった。
7月に入ったあたりから彼女の実際の雇い主たる本条総家と、美咲本家の双方が慌ただしくなってきた。それぞれが別々の経由で危機を感じ取っていたのである。本条側は情報の影に埋もれた空白の領域から、美咲はお家芸、由見の持ち主が受け取った不吉の予兆から。しかし、危機の正体は見えてきていない。両家ともに様々な事象からその正体を探っていた。当然香土岐もその一翼を担わされていたのである。目前に迫った期末テストで元から忙しいこの時期に。
その手にあるのはこの地域の「学校」と呼べる全ての施設名が羅列された一覧表。その横に超常現象が確認、未確認に分かれて記載されている。去年の欄と比較すれば、その発生件数はうなぎ登りと言ってよい。単なる噂であればともかく、超常研、本条、あるいは美咲本家までもが「異界からの侵略」と断定した事件を示す赤の文字だけでもかなりの数だった。逆に事象例が記載されていない施設が少ない程に。
冷たい瞳の上で眉を潜めたまま、香土岐はカップの底に残っていたコーヒーを飲み干した。彼女は高位と呼べる術者であり、かなりの実戦経験を持つ魔導士だ。医術を志した祖先が昔、蘭学と共に入ってきた黒魔術を学び、日本古来の陣形術と組み合わせた新しい封陣を発案した。以来結界と魔封じを得意とするのが香土岐一族。しかし亮子は香土岐の名を持つ者としては珍しく、純然たる西洋魔術を本格的に学んでいた。その本領はマスマジック、つまり数字魔法。今手にしている表ですら、彼女にとっては単なる文字と数字の羅列ではなく、曼陀羅の様につながりあい、結びあい、波及し合った物に見えていた。その中で時期的、手段的に連続した物を組み合わせ続ける香土岐。無数の可能性が踊るようなラインとなって曼陀羅の上に現れては消えていく。
地脈と絡む可能性のある事例を抜き出し、美咲がその存在を予想している第二の地脈のありかを探すのが今の香土岐に与えられた任務であった。しかし、未確認事象、つまり不安から発生した見間違い、愉快犯の介入までも包括している以上、その進行は遅々としたものだ。まずはそのふるい分けから始めねばならないのだから。ピースが足りないジグソーパズルの方がまだましだ。足りないだけでなく、間違ったピースが大量に混入したジグソーパズルなのだ。
香土岐は疲労を覚え、目を閉じて右手でぐっと押さえてから、再び数字の中に没頭すべく、瞼を開き表に目をやる。次は朱星第二中学の番だ。その情報が必要か否かを見極めようと意識を向けてゆく。しかし、彼女の思考はその階層に向かう前、全体が目に収まった段階で違和感を感じて歩みを止めた。
またか・・・。
最初にこの表を見た時から感じていたデータの欠損部分である。
確実に無関係と思しき事象を削ってはプリントアウトし、また削る。その繰り返しをしていた香土岐。彼女はどうもモニタ上の数字が苦手だった。映し出された数字をじっと見つめると、数字一つずつが持つコードを読みとってしまうからだ。特に今回の様にしっかりと数字のつながりを見据えようとすると、数字は意識下で簡単に二進法に変わってしまう。よって推考しながらの作業だと純然たる数字、つまりプリントアウトしたものでないとつらい。おかげで、考えてはパソコンで修正し、打ち出し、考え、また修正し、の繰り返しである。
そうして幾度と無く作り直した表を視野に入れ、考察を始めようとする度に、その場所が気になっていた。データ欠損部分だと認識しているにもかかわらず。それほどに違和感は大きかった。数字がからみあい、うごめきあう中、そこだけ白地のままなので浮き上がって見えてしまう。かといってそこを削除してしまうと連続性の意味がなくなる。情報が無い故の仮定的0と、情報で確認した上での確定的0では異なるのだから。
数字による曼陀羅の中。その一点がどうしても彼女の目を引いて離さない。地理的&霊的に接している他校と、つながりが絶たれている様に見えるのだ。周囲の四校にはそれなりの超常事例がある。それらは時間的にも連携している。美咲家の資料から読み取った地脈、竜脈に沿ってつながるはずの二校にも事例が記載されているのに、その一校だけ未確認事例すらない。それはまるで空白地帯のような中学校。
「妙だな・・・」
そうつぶやいた時、図書室の扉が開く気配がした。
「おはようございます!」
室内に入ってきた加賀壬の声はいつに増して元気だった。
「おはよう。どうした、気力十分みたいだな」
背を向けたまま答えながら、香土岐は眺めていた表をファイルに手早く挟んだ。テーブルに鞄を置いて振り向いた加賀壬は、香土岐亮子の背中、尻の寸前までばっくりと開いたイブニングドレスのようなスーツ姿の背中を目にして、再び世の不条理を嘆かずにはいられなかった。染み一つ無いその肌。おもわず触れてみたくなる程だが、それでもまだ許せる。その持ち主が女性なら、だ。さっきのは、あれは反則だ・・・。
「やる気があるのかないのか、はっきりしろ」
「は、はい! やる気あります! もうがんがん覚えますよ、せめて日常会話くらいは・・・できないと・・・。
恥ずかしいし・・・」
尻切れトンボに弱腰になるその声。香土岐は呆れてため息を付いた。
「ふぅ・・・。お前の浮き沈みにいちいちつきあっていてはこっちが持たないな。
ま、日常会話を覚えたければ急ぐことだ。ノイホーホドイチュはさっさと切り上げてミッテルアルターに移るからな」
「はぃいィィィィ???」
素っ頓狂な加賀壬の声。その末尾が図書室に響き終わる前に、香土岐がびしりと言い放つ。
「当たり前だろうが! お前が読むべき文献は現代ドイツ語ではなく、中世ドイツ語か古ゲルマン語だからな」
うは、そうだった。これは単なる外国語講座じゃなかったんだ。
それに思い至り、はぁ、と今度は加賀壬が溜め息をついた。
隣に来た香土岐が手を差し出すのを見て、加賀壬は慌てて鞄を開けた。昨日の宿題だった和文独訳をつづったノートを引っ張り出す加賀壬。香土岐は無言のままそれを受け取り、ページを睨んでいる。
毎度の事ながら、加賀壬の心臓がバクバクいう瞬間だ。香土岐の次の行動が怖い。いきなり頭をこづかれるか、あるいは深い溜め息をつくのか。夏の暑さに赤い顔をさらに赤くし、加賀壬が固まっていると、香土岐はノートを閉じて机に置き、そのすぐ隣に腰掛けた。
「では次の章に入るぞ。本を開け」
加賀壬は反射的に文法書を鞄から出しながらも驚きと喜びを隠せなかった。どうやら珍しく宿題にミスはなかったらしい。
早朝の語学講義は時間が短い。加賀壬がals構文に?マークを連発しているうちに、すぐに終了時間が迫った。
「うむ、そこまでだな。後は放課後だ」
テーブルに腰掛けたまま足を組んでいた香土岐が立ち上がった。下着が見えるのではないかというほど短いタイトスカート。そこから伸びる足に加賀壬は思わず見入ってしまった。
綺麗な足・・・。やっぱ世の中不公平だ・・・。
加賀壬の声なき言葉に、香土岐の拳が答えた。
「うぎゃ!」
「さっさと教室に行け!」
彼女が転げるように飛び出していった後、自分も職員室に向かうべくファイルを手にしかけた香土岐。しかし、その手は先ほどまで眺めていた表に伸びていた。超常事例の無い、空白の中学。
「桜中・・・か」
始業前の騒々しさの中。3年C組の教室は未だに進路が決まっていない木村遙吾を囲んで盛り上がっていた。半分ひやかし、半分やっかみという感じで。
「だ〜かぁらぁ〜、もうメンバーもいないんだろ? バンド続けようがないじゃんか!」
「そうだよ木村、どっか大学入ってさ、そこで新規結成でもいいじゃん」
高校三年の夏。半ば強制的に軽音楽部を引退した木村はふてくされながら鞄を机の脇に掛けた。
「別にいいだろ、俺がどうしようと! ほっといてくれよ!」
「そうもいかね〜だろ、お前がそんなんじゃ、村田たち、困るだろ〜が!」
「村田は村田、俺は俺だよ! あいつも続けたきゃ続けるだろうし、俺も同じだ」
どかっと音を立てて椅子に腰掛けた木村を見おろすように、腕組みした女生徒が口を開く。
「むらっち、泣きそうだったよ昨日。自分が部活辞めたから、バンド解散になったって。仲間だったんでしょ! どうすんのよ!」
「ばかやろぅ! だった、じゃねぇ、今でも仲間だ!」
もめてる輪から少し離れて。数名の女生徒が盛り上がる連中を見ながら話していた。
「ま、ここまで来て進路決まってないって、木村君、ある意味大物よね」
頷く女生徒たち。
「うちのお姉ちゃん、協栄だったんだけどさ、いいよね、エスカレーター式」
「ま、確かにね、中高大学までそのまんまってのは魅力だわさ。でもさぁ、中学受験ってのがなんかなぁ・・・」
「今時常識でしょ?」
「んじゃあんた、なんで公立校きてんのさ」
「希望と現実には差があるものよ、知らんのかね、舞ちゃん」
「中学受験、いいじゃん、一回で済むんだよ、その方が楽じゃん!」
「いや、そんな事はないと思うけど。近所の子がさ、郁優に付属中学から入ったんだけど。推薦枠はもう最初っから決まっててさ、ちゃんと受験してたよ」
「そりゃあんた、推薦枠だって無限じゃないんだから、勉強してなきゃだめでしょ。上位何名とかだろうから」
「ううん、違うんだって。入学時にもう推薦決まってて、それ以外は普通に受験らしいよ」
その言葉にみな驚きの表情を示した。
「なに、桜中の受験成績で郁優の推薦決まっちゃうの?」
三つ編みの女生徒が答えた。
「んとね、あそこ寮あるんだって。で、一位入学とか、卒業生の子供とか、理事の推薦あった子とかしか寮に入れないのよ。ってか、いいとこのお嬢様は寮でしっかりお預かりしますって感じかな」
「あそこ、ミッション系?」
「そうじゃないみたいだけど。でもなんか10人だか、20人だかしかいない女子寮があってね、その子たちだけ本科生って言うんだって。あそこ、寮も校内にあるんで、休日でも学校から出るには許可制らしいよ」
「はぅぅ、厳しそう・・・」
「共学だったよね? 女子寮しかないの?」
「うん。元々女子校だったらしいから。でね、毎年文化祭で生徒代表になる子が本科生から選ばれてね、その子は卒業まで姫って呼ばれるんだって」
「はぁ? お姫様ぁ?」
「制服も純白のに変わるんだって。で、もう男女問わず、全校生徒の憧れで・・・」
「おぉ〜〜〜〜! ゆ、ゆ、百合、咲き乱れ?」
「黙れ、この変人」
言いながら盛り上がる同級生の背中をこづくのは弓道部の倉知舞だ。
「あ〜もうやだなぁ、舞ちゃんにはこの清らかに咲き誇る百合が見えないのかねぇ・・・。心が濁った女はいやだねぇ」
「百合からヤオイにエスカレーター決定済みのあんたに、何言われても気にならん」
「ま、舞ちゃん、その二つの間には狭くて深〜〜〜い溝があるのよ! かけ算の受け責めが入れ替わるくらいに、ふっかぁ〜〜〜いのよ!」
「黙れ、この変人!」
「さ、差別用語使用反対!」
「あ、差別って言えばさ」と、三つ編みの子が話しを戻す。
「陽ちゃん、あ、近所の子ね、その子みたいな通学組は外来って差別されてるらしいのよね」
「うっは、病院かい!」
「あ、それあたしも思った。本科外来生の略で外来なんだって。でね、本科生だけが郁優学園に推薦でフリーパス。外来はみんな受験だって。ま、と言っても高校側でも外来用の枠があって、優先して入れるらしいけど・・・。その前に合格しないとダメって事よね」
「ひっど。知らずに桜中入ってたら、あたし暴れちゃうよ!」
「大丈夫、大丈夫。あんたじゃ中学の受験段階で、向こうからお断りだって」
「うが〜〜ッ、言ったな〜〜」
その時、もともと騒がしかった教室内に、一気に騒音が巻き起こった。いつのまにチャイムが鳴ってたのか。教室に入ってきた担任の姿に、蜘蛛の子を散らすように散開する生徒たち。
それまで周囲に関係なく、一人、座ったまま単語帳を開いていた美咲由美はふと目をつむった。今聞いた名前を声に出さずつぶやいてみる。昨夜受けた「門かがり」の報告にあった名前だ。
「お前等三年だろうが! 先輩としての自覚と落ち着きをだなぁ・・・」と説教モードに入った担任にはかまわず、美咲は瞳を閉じたまま、また小さくつぶやいた。
「桜、中・・・」
二時限目も終わりに近い。二年B組の教壇で、新任教師、園比良(そのひら)裕一郎はチョークを持ったまま悩んでいた。
今年、念願の教職に就き、希望と熱意を持って県立高校に赴任してきた彼は、夏を迎えた今もその熱き想いに陰りはない。いや、これまでの三ヶ月の経験でむしろ新人教師から熱血教師にレベルアップ中とすら言えた。ベテラン教師との衝突、登校拒否問題、煙草を所持していた生徒を殴ってしまった事件。さまざまな出来事を通じ、彼は自分の信念が正しいと確信するに至っていた。生徒たちも園比良のあまりに分かりやすい性格に呆れたり、煙たがりしながらも、もめ事が起こるたびに「ま、裕ちゃんじゃ仕方ないよね」と妙な納得をする様になっていた。
「高校時代にこそ、人としての基礎が出来る」
昔、恩師に言われたその言葉をつぶやきながら、彼は今日もネクタイをきっちりと締めて来たのである。実のところ、まだまだ新人としての卵の殻を被ったままなので、彼の大学の先輩にあたる教頭がはらはらしながら見守り、フォローし続けている事には気付いていなかったのだが。
チョークを戻し、英語II・文法の教科書を無意識に右手に持ちながらも、裕一郎の目は茶髪の生徒を見つめていた。いや、むしろ睨んでいた。と言っても、その腰まで伸びた豊かな茶髪が染めた物でないことは知っている。その生徒の服装も生徒規約ぎりぎりというルーズさではあったが、風紀的に乱れているとか装飾過多という事はない。単にずぼらなのだ。脳筋とまでは行かずとも体育会系なのであろう、頭を使うより、体を動かす方が得意な生徒だという認識もある。しかし・・・。
今、教室内で裕一郎の困惑に気づいていない生徒は、当の茶髪ただ一人だった。
他の教師の様に無視するのか、それとも怒るのか。2−Bの生徒たちは皆、裕一郎の次の行動に期待のまなざしを隠せない。あ、いや、皆ではなかった。ただ一人、最前列に座った小柄な男子生徒だけは、どうしたらいいかとはらはらしながら見つめていた。彼、超常研書記である朝臣こと宮原だけは裕一郎に心底同情していたのである。
「こほん・・・」
軽く咳払いした裕一郎は一度つむった目を開き、茶髪の生徒を見つめ直した。というか、茶髪しか見つめられなかった。その女生徒の顔は机に突っ伏していたからである。ボリュームある豊かな髪の毛で、広げられたままの教科書すらほとんど見えない。
「じゃ次の例題3を・・・み・・・み・・・」
喉から絞り出すような声。しかし、それに続く「美咲君、やってみなさい」という言葉は喉にからんでなかなか出てこない。と、その時。最前列からのアイコンタクトに気づいた。
「み・・・やはら君、やってみなさい」
「はい!」
大声で立ち上がり、椅子を蹴り飛ばす勢いの宮原。彼が必死に起こした騒音でも茶髪は微動だにしない。
宮原が答える間、裕一郎は教科書を読むふりをしながら黒板の方を向いた。生徒に助けられた悔しさと恥ずかしさ。その反面、生徒が助けてくれるという喜び。複雑な心境だった。
彼はこの街の出身ではない。故にこの春、赴任前にわざわざ行われた説明会で聞かされたある事項に驚愕した。
「美咲家とは可能な限り関わらないように」
みさき? はぁ?
というのが彼の返事。青ざめた顔でひそひそと語る先任たちからの言葉で、美咲という旧家がこの土地の実力者であり、特別扱いされている事を知った彼は、思わず反発しかけた。生徒は平等である。+であれ−であれ、差別はあってはならないのだから。しかし、先任教師たちの様子があまりにおかしい。新人の同僚の態度も。振り上げた拳を降ろす場所を失った彼は、その後、教頭に誘われた飲み屋でも困惑の色を隠せなかった。
実際に職場に就いてみると美咲という生徒は三人いた。三年に一人、二年に二人。全員女生徒だ。三年の美咲由美は学年トップを維持する才女。彼女の英語力と授業態度は文句の付けようがない。裕一郎からするともっと覇気を持って欲しいとは思っていたが。二年のうちの一人、A組の美咲真由美は裕一郎の担当クラスではなかったのでよく知らない。噂では、ぼ〜っとしてはいるが、特に問題ない生徒らしい。残る一人が、今ぐ〜すか寝ている美咲美由美である。定期テスト、学力テストに小テスト。点数はほぼクラス平均を維持しているし、出席率も問題ないのだが、席に着いているというだけでは授業に参加していることにならない。これまでも何度注意しようとしたことか・・・。主任からの再三に渡る指示さえなければ、多分チョークを投げつける所まで行っていたことだろう。
宮原が正解を述べ終えたところで丁度チャイムが鳴った。しまった、あと2ページ進めておかなくてはならなかったのに。裕一郎は試験前の大切な授業時間を無為に過ごしてしまった事に落ち込みながら職員室に帰って行った。その背を同情と哀れみの目で見つめる生徒も少なくない。
そして。美咲美由美はまだ寝ていた。
いつもながら。その美由美も放課後になると目もばっちりと開き、元気はつらつという感じになる。今も居眠りに対して小言を言う朝臣の肩をばんばん叩いているところだった。まぁ、午前中にぐっすり睡眠を取り、お昼休みにはちょっと一暴れした後なので、元気なのも当然である。
「美由美」
「んにゃ?」
声を掛けられ、片足を軸にくるんと180度向きを変え、ぴたりと動きを止める。その動作についていけなかったスカートの裾が遅れてひらりと舞った時、彼女は軽く笑顔を浮かべた。
「ん? どしたん?」
「鳴綾の件だけど」
近づいて来たのは隣のC組から来た超常研副会長、篠木原だ。
「柳さんに伝えるの、忘れてないよね?」
「仁(じん)さん? えっと・・・」
ポーカーフェイスどころか、能面とまで呼ばれる由美の従姉妹とは思えぬほど、美由美の表情は分かりやすい。どうやら鳴綾第一高校、柳仁(やなぎひとし)の顔を思い浮かべているようだ。そこから連想する物は特にないらしい。
「だろうと思ったよ。明日の射撃訓練の時に・・・」
そこまで聞いて、美由美の顔がぱっと明るくなった。その頭の上で電球が光るのが見えたほどに。
「お、おぉ〜! 10人くらいヘルパー頼むんだよね、覚えてるって!」
「忘れてたくせに・・・」
にぱっという感じで笑う美由美の背後で、宮原がぽつりとつぶやくが、美由美はスルーだ。
「仁さんにはちゃんと伝えるって、任せてよ!」
「頼んだよ。二高には合宿の打ち合わせついでに伝えておくから」
「あ、二高行くの今日だっけ。いってら〜〜〜」
篠木原は美由美に手を振って、宮原にも軽く頷いてから立ち去った。その背を見送った後。また180度くるん、と向きを変えた美由美はスカートが舞い終わるよりも早く宮原の喉に手を掛けていた。
「で、あたしが何を忘れてたって、あ・そ・ん〜〜〜??」
「わ、わ、タンマ、チョーク! チョーク!」
慌てる宮原を見て溜飲が下がったのか、すぐに手を離す美由美。
「朝臣の分際で、あたし自慢の揚げ足取ろうなんて、一万光年早いわ、あっはっは」
いや、その用法間違ってるって。二重三重に間違ってるって。
朝臣のその突っ込みは高笑いする美由美を前にして、口に出されることはなかった。
篠木原俊之が自宅の玄関を開けると、私服に着替えた同居人、雅菊子(みやび あきこ)が階段を降りてきたところだった。
「あら? 早いのね、シュン」
笑顔に笑顔で答える二人。
「すぐ出かけるよ。鳴綾二高に行く前に、荷物だけ置きに来た」
靴を脱ぐと、菊子が並べてくれたスリッパを履く。
「じゃお茶、いらない? すぐ煎れるけど」
「頼む。時間は大丈夫だから」
二人はそのままダイニングに入った。この後の予定は生徒会副会長としての訪問なので、篠木原は制服のまま椅子に腰掛けた。
「でも、アキの方こそ早かったね。アトリエ入るのかい?」
婚約者の背中を見ながら語りかけるシュン。丸いガラスのティーポットを出しながら、アキは振り向かないまま首を振った。
「うぅん、違うの。課題時間使って午前中だけで早退して、司君の手伝いしようかと思ったんだけど。結構ですから、とか、やんわりと断られちゃった」
その口調に、シュンは小さく笑みを浮かべた。
「残念そうだね」
「んー、残念と言うか・・・。もう少し、頼ってほしいかなぁ」
ヌワラエリアの茶葉を手に取って、アキが振り向く。
「言葉の問題が無いって言っても、やっぱり日本は初めてでしょ? いろいろ困ってると思うんだけど・・・」
アキの溜め息を聞きながら、シュンは窓の向こう、隣家である雅の家に目をやった。
アキの祖父が入院してから空き屋同然だったその家に、親類である雅司(みやび つかさ)が一人で生活し出したのはつい最近の事だ。ノルウェーで生まれた彼は両親を事故で亡くし、画家である祖母に引き取られていたのだが、その祖母も死に、親戚を頼って帰国したのである。
いや、正確には帰国とは言えないだろう。なにしろ日本に来たのは初めてなのだから。
海外で生まれてからずっと欧州を転々としていたはずだが、家族とは日本語を使っていたらしく、日本が初めてとは思えないほど会話は流暢であった。しかし、過去の流行語、数年前のTVが元ネタの言葉など、日本に住んでいないと分からないものは多いはずだ。意志疎通にズレがあるのは確かだったし、なにしろまだ彼は中学生である。
「うち解ける、とまでは行かなくとも、もうちょっと信頼してほしいのに。なんかね、今日いきなり学校決めてきたみたい。お祖父ちゃんの入院証明持っていって、保護者不在のまま一人で三者面接受けに行ったわ」
湯煎しながらアキはさみしげな表情になった。
その顔を見て、シュンは立ち上がり、歩み寄った。
「不幸が続いた子だからね。環境の変化へ、自分に籠もることで対応していたみたいだし。時間はかかるよ、アキ」
伸ばされた腕に誘われるように、アキが一歩歩み寄り、二人は身を寄せた。
「分かってる」
軽い口づけの後で身を離し、アキはヤカンの火を止めた。
「家族になるって、難しいわね」
しんみりとした口調。椅子に座り直したシュンは話題の方向を変えることにした。
「で、司君、学校はやっぱりBCNにスキップ?」
「ううん、それがね、郁優付属。戸籍課に行った帰り、向こうで世話になった人にばったり会ったそうよ。その人が郁優学園の理事だったんですって。で、とんとん拍子に話が決まって。普通に中三に編入するみたいよ」
「へぇー、近いじゃないか。んー、でもバスだと遠回りだなぁ、自転車かな?」
「歩く気らしいわよ、脚には自信あるから、だって。実際歩いたら結構あるのにねぇ」
ポットの中でくるくると回り出した茶葉を眺めながら、シュンは頷いた。
「桜中ねぇ・・・」
第二章
「小休止だ」
そう言われ、図書室の机に突っ伏していた加賀壬は、数分後コーヒーの香りに顔を上げた。
「ありがとうございます」
礼を告げ、カップに手を伸ばす。朝と違い、放課後の語学講習は本腰を入れた物だ。あの香土岐とOne on One。自分でもよく続いているな、と加賀壬は思う。努力、根性、やる気にガッツ。そんな言葉はコミックの世界でしか知らないような自分が、逃げ出さずに継続しているという事態が信じられない。まぁ、より正確にいうなら逃げられずに、かもしれないが。
この図書室にもいつの間にか慣れてしまった。近づいてはいけない場所や、注意を向けてはいけない物を覚えただけなのだが、どこに不安と恐怖があるのか分かった今では、「安全圏」にいる限り、むやみに怯えることも無くなった。図書室自体が発する、ぴりぴりする緊張感は常に感じていたが、今ではそれも集中力を維持するのにはありがたいとさえ感じているほどだった。入学当初、全てにびくびくしていたのとは大違いだ。
変わったといえば香土岐も変わった様に加賀壬は思う。香土岐に怒りやさげすみ以外の感情が増えてきたような気がする。時々、そうほんの時々だが、微笑むことさえあった。表情こそ変わらないが、微笑む時の感じは分かるのだ。柔らかというかおだやかというか。常にピンと張っているような感じが、ふっと緩む。それが香土岐の微笑みだった。先生に頭を撫でられたこともある。後になって気が付いたのだが、あの時、自分は落ち込みのどん底にいたらしい。自分ではそれすら気づかない程の落ち込みの。
まぁ、怖いのは今でも同じだが、その怖さが発揮されるには前提がある。加賀壬自身がドジった時だ。意味無く、怒鳴り散らしている人ではない。
そういえば、一人で飲んでいたコーヒーを加賀壬にも煎れてくれるようになったのはいつからだったろう。香土岐に怯えるのではなく、自分のミスに怯えるようになったのと同時期だったような・・・。
夏を迎えたというのに、この部屋はひんやりとしている。多分冬でも夏でも、同じ気温なのだろう。ここは香土岐が厳重に施した結界の中なのだから。そんな事をぼんやり思いながら、熱いコーヒーにふぅふぅと息を吹きかけ、ちょっとづつ飲む。文法で許容量オーバーしていた頭が少しずつ落ち着き、また回転しだすのを感じる加賀壬。
ノイホーホドイチュ。現代高地ドイツ語。古典や中世の資料を読むにはミッテルアルター、つまり中世ドイツ語が必要だが、現代会話としてはノイホーホが必須だ。だから勉強しているのだが、ベートーベンの第九やマーラーの大地の歌は原語で歌える様になっても、まだ日常の受け答えをするには単語が少なすぎる。
ドイツ語は元々英語と同じ母語から発しているので、思いの外共通の物が多かった。しかし、似ているからこそ間違えやすいのである。英語の時間にスチューデントの発音が、シュトゥーデントになってしまい、どうしても語頭のS音をシュからスに直せなかった。英語教師に呆れられたのはついさっきの事だ。
英語とドイツ語、ごっちゃになってるよなぁ・・・
カップをソーサーに戻した香土岐は、加賀壬の声なき言葉に答えた。
「そんな事では同じゲルマン語族、例えばネーデルラント語、日本式に言えばオランダ語だな、それなど発音もできんぞ。まだ両方とも自分の物になってない証拠だ。耳から入った音で、自然に切り替わる様になれ」
「うは、そいつは無理・・・
えっと、同じ印欧語族でも、ラテン系じゃだめだったんですか? ドイツ語じゃなくて」
香土岐はちらりと蔑みの視線を送った。
「お前の英語の成績がもう少し良ければなぁ。仏、伊、ラテンと行く道もあったのだが」
加賀壬は反射的に香土岐から目を反らした。彼女の言う「もう少し」、とは加賀壬にとって「ものごっつ」という意味であるのが分かったからである。
「お前が英語を学んでいる途中なのでな、同じ系統のドイツ語にしたのだよ」
「うぅみゅ〜〜〜。なんか似すぎてません?」
その言葉に、香土岐の視線の温度が5度は下がった。
「当然だ。言語史的に見れば英・独語が分離したのはつい最近だからな」
そう言ってから、香土岐は軽く首を振り、アプローチを替えることにした。彼女の弟子は術者の血筋ではない。家業として生まれついた時から学ぶことを義務づけられているのではなく、自分の意志で超常に近づき、それを学ぼうとしている。言い換えれば覚悟の度合いが違うのだ。物心付いた時には学ばねば生き残れないのが当然だった亮子自身とは違う。つい三ヶ月前まで、加賀壬は「一般人」だったのだから。
しかし。それでも加賀壬は自分から望んでここに来た。加賀壬をやる気にさせるのは義務感でもその身に流れる「血」に訴える事でもない。興味を引き、それに納得しさえすれば、この弟子はスポンジで水を吸うように覚えてゆく。
脳みそが隙間だらけで、スポンジだったのが幸いか。
「では加賀壬。沖縄の言葉、琉球方言に日本の古語が含まれているのは知っているか?」
いきなりの質問に、加賀壬はきょとんとしながらも頷いた。
「えっと、聞いたことはあります・・・けど・・・」
「琉球はかつて独立国家だったわけだが、古来、日本語、当時の日本語が流入し、外来語として定着した。本土、つまり日本では消えてしまった様な物言い、呼び方が残っているのは言語が分離して育ったからだな。分かるな?」
加賀壬はちょっと考え込んでから口を開いた。
「それはオーストラリアに他の大陸では消えちゃった生物が生き残ってるってのとおんなじような物ですか?」
「ふむ。それはどちらかと言えば進化の過程が異なっていたという要因が高いだろう。
ある程度の行き来はあるが、別の発展を遂げた。その結果、片方では消えてしまったものが、もう一方に残っている。そういうことだ」
「日本語も中国語の影響多いんですよね? 一つの漢字で音読み、訓読み二系列の発音があるのは中国語が変化したから、輸入された時期で変わったって聞きましたけど」
「影響が多いどころか・・・。まぁ漢字というくらいだからな。
だが認識としてはそれでいいだろう。そうやって、近隣の言葉は互いに輸入しあい、刺激しあっているがその後の成長は異なる。しかも、昔は海を渡るなど、大変な苦労だった。地続きであっても山脈などで隔てられていた場合、隔離性は今とは比較にならないほど高かった。それ故、文化ごとに言語が独自に発展した。
それは分かるな」
無言で頷く加賀壬。
「お前は英語とドイツ語が似ている。そう言ったな。それが混乱の元だと。
では、何故似ているのか。それを考えなかったのか?」
再びきょとんとする加賀壬。いや、同じ母語から発生したんだから当然じゃ・・・
「そこに歴史があるからだ」
きょとんを通り越し、惚ける加賀壬。
「英語の辞書を出せ。独和ではCの項目は極端に少ない。英和と比べて見ろ。
分かるな? では次にYを見ろ。ドイツ語で言うイプシロン。第25の文字だが、これが語頭に来る単語はほとんど存在しないだろう? 何故だ?」
「そ、それは元々ドイツ語には無くて、ラテン系とかからの外来語だったから、では?」
「では何故英語にはたくさんあるのか」
「え、えっと・・・」
考え込む加賀壬。
同じ母語から発生したのなら、英語にもCやYは存在しなかったはず。分離してから外来語としての増え方が違った? 英語圏の方が他国との交流・交易が多かった? あるいはドイツ語圏での使用がすたれた・・・のかな?
いや、まてよ。そう言えばフランスの貴族だったノルマンディー公ウィルなんたらいう人がイギリス行ったりしてるよな。カエサルのガリア戦記とかもあるし。ラテン語族に征服されたから? あ、もしかしたらアメリカが多国籍のるつぼだったから・・・だと歴史的に日が浅いかな?
う〜ん、もしかすると・・・。江戸弁の「し」と「ひ」の音に区別がないように、ドイツ語圏ではCとKの区別が無かった? 母語は区別していた。だから英語には一杯Cがある。でもドイツ語圏は全部Kにまとめてた・・・のかな?
な、なんでだろう・・・
悩む加賀壬を余所に、香土岐はさらに言葉を続けた。
「英語のアルファベットで23文字目をダブリューと言うが、これはダブルUの意味だ。ダブルVと呼ぶ言語もあるが英語ではダブルU。見た目、Uが二個並んでいるからだな。つまりその段階でUは英語に存在していた。WはUより後から追加されたわけだ。BとWの区別の必要がなかったのだろうな、昔の英語では。しかしドイツ語ではW(ヴェ)は基本音だ。辞書を見れば項目の多さは一目瞭然。ヴァイン、ヴァーゲン、ヴァイス、ヴァッサー、ヴォレン等々、初学者がまず学ぶべき基本単語も多く含まれている。ちなみにフランス語だと、Wなんてほとんど使用しない。WXYZ共にほとんどな。アルファベットの末尾にあるくらいだ、いかにも追加音だろう?
いいか加賀壬。まず言語が独立するには意味がある。その言語を使った文化が、民族がある地域での巨大な覇権を握ったということだ。戦争で日本がアメリカに占領され、そのまま属国化したなら、今我々は英語で話していただろう。日本語は消えた言語として文献にのみ残る、となっていただろう。事実、大陸では漢民族が満民族に支配され、言語も文化も変化した。まぁ、満漢全席という言葉が示すように、両方が混在したのだがな。
もっと狭く考えれば方言だ。関ヶ原の合戦で石田勢が勝利し、大阪が日本の首都だったら? 大阪弁が日本語となり、東京は江戸のまま、江戸弁を話していることになる。分かるか? 言語の歴史はそのまま民族の、支配の歴史だ。
英語と独語。似ているから混乱する。そう思うのなら、その歴史を考えろ。なぜ似ている? いや、逆になぜ異なった? ルターが聖書を印刷する際に文字と文法を整えたからか? 英仏海峡が狭すぎたからか?
言葉を言語という独立の存在だと思うな。言葉にはそれを使う民族がいる。彼らの宗教、文化がある。そしてそれは今も徐々に、あるいは劇的に変化している。その積み重ねこそが、すなわち歴史」
そう言い終わると、香土岐は加賀壬を見つめた。ぽかーんと口を開け、机の上を見ている加賀壬。彼女の目は二冊の辞書に向けられている。英語と独語。だが、それはもう文字の塊ではなかった。加賀壬の瞳はその先にあるものを見つめていた。途方もない数の人々が何世代も連なって作ってきた、気が遠くなるほどの流れを。
香土岐は空になった二つのカップを持ち、司書室に向かった。ドアを開ける前にちらりと時計を確認する。
今日は語学講義の続きをするのは無理そうだ。それよりも大きなものを加賀壬が得る可能性を重視しよう。そう香土岐は考えた。弟子に教えていのは確かに語学だが、それは手段に過ぎない。その目的は未知なる超常現象への対処方法を知らしむる事なのだから。
香土岐はそう納得し、図書室に戻って来てからも無言のまま、今は用を成していないカウンターに座った。そして惚けたような加賀壬を余所に、図書カードの打ち込みを始めた。
30分ほどして。加賀壬の心はやっとこっちに帰ってきたらしい。
「ふぅ・・・」
溜め息を付き、両手を上げて背筋を伸ばすその様子を横目に、ふと猫を思い出した香土岐だったが、無言のまま、加賀壬の反応を待った。
「むみゅ〜。いっそのこと、英語圏に生まれてればなぁ・・・。かな〜り楽できたよ〜な気が・・・」
どうやら出来の悪い弟子の思考は現実問題に戻ったらしい。立ち上がる香土岐。
「英語圏に生まれていれば、かなり苦労したろうな」
そう言いつつ、香土岐は加賀壬の正面に座った。
「なにせ日本語は学ぶのに厄介この上ない言語だからな。最初に覚えておいて、お前も私もかなり楽できているのだぞ、加賀壬」
「それはそうかもしれませんけどぉ。実際、アメリカにでも生まれていたら、私日本語なんか覚えないような気がしますけど」
「いや、学ぶ」
香土岐にそうきっぱりと言われて、加賀壬は反論を堪えた。まぁ、加賀壬の思考は、香土岐の結界内であるこの図書室ではだだ漏れだったのだが。
「確かに、ここに入学していなければお前の人生は大きく異なっていただろうが、ifはあまり意味を成さない。なにしろ、お前がお前である限り、お前はいつか触れただろう、ミスティックにな」
ミスティック。妖魔。その言葉に図書室の奥がかすかにざわめいたのを加賀壬も感じた。しかし、彼女にとって、それは既に恐怖を呼び覚ますものではなかった。この奥に封じられている「もの」は取り扱い注意の劇薬。加賀壬はそんな認識を得ていた。ちゃんとした扱いさえしていれば問題ない。劇薬である事に恐怖を感じ、焦って扱いを間違える事の方が恐ろしいのだ。
「えっと、それはつまり、いらんことに首突っ込んでって事ですか?」
「ナトゥーァリヒ」
当然、と会話に口、いや、クチバシをはさんできたのは香土岐の使い魔、セキセイインコのぴーちゃんである。以前は香土岐の片側だけ長く垂らした髪に隠れて存在自体を隠蔽していた。しかし、最近は加賀壬には姿を見せるばかりか、ちょくちょくからかいに来るようになっていた。
香土岐の言葉を伝える時以外、つまり自分自身で語る時にはこのインコ、何故か常時ドイツ語なのだ。
「なによぅ、あんたまで・・・」
むくれる加賀壬。香土岐はいつもながら革手袋をはめた指先で、肩に乗るインコの背を軽くなでながら頷いた。
「そうだな。ミスティック、美咲風に言えば妖(あやかし)は世界中にいるからな。そしてそれを調べるのに日本語は必須科目なのだよ、加賀壬」
は? 何故に?
加賀壬の間の抜けた思考にまた呆れ顔になる香土岐あ〜んど、ぴーちゃん。
「ゴッザイダーンク・・・」
「美咲家だ! SENSCOMやEAAがわざわざ相談に来るだろうが」
「え、えっと、センスコムはアメリカの超常現象対応の情報局ですよね? エーアーアーって・・・何です?」
「EAAはそのEG(エーゲー)、英語で言えばEU版だ」
「な、なるほど・・・。ってことは美咲家って・・・ひょっとして結構有名?」
香土岐は口をあんぐりと開いて固まった。ぴーちゃんも同じく、くちばしをあんぐりと。
「はわわ、なんか地雷踏んだかな・・・」
青くなる加賀壬の前で。口と目を閉じ、香土岐はしばしうな垂れた。呆れて物も言えん。全身からその言葉がにじみ出ている。ぴーちゃんに至っては、マスターの髪の中に引っ込んでしまった。
「はぁ・・・。
いいか加賀壬、ロードクラスのミスティックに勝利した記録は少ない。ましてや門を閉じてロードを一時的に追い払ったのではなく、門の向こうに反撃してロードを殺した、つまり完全勝利した記録は世界中探しても滅多にない。あっても神代の時代、神話の類ほど曖昧だ。しかし、唯一完全に記録された例が、日本で、ここ、この地であったのだ。江戸の昔、美咲の祖先たちが完勝したのだ」
「あ、なるほど・・・」
「ましてや美咲は元々術者の家系。過去を見る。よって見前(みさき)と呼ばれた頃から長年記録された資料があり、なおかつロードとの戦いに勝利し、その後も妖しを大系的に調査し続けている。その上、あの由見の力。証拠品を一目見るだけで、妖しの関与の有無を見破る技だ。
資料、経験、鑑定と三拍子揃っているのだぞ。超常現象の中でミスティックに関する項目であれば、世界中、誰がどう調査しても美咲に辿り着く。美咲は明治以降、情報公開の方向性にあるし、今の当主はそれがさらに顕著だ。海外の研究者は美咲の資料に埋もれた言霊を見いだすために、日本語を学ぶのだよ。
しかし、それはもう大変な苦労だろうな。雅語やら古語が溢れまくっているからな、あいつらの言葉には」
加賀壬はそれには素直に頷いた。美咲会長の言葉は短く、理解しやすいものなのだが、時々普段使わない言葉が混ざるのだ。「それはチョウジョウです」、と言われても、即座に「超常」ではなく「重畳」の文字を当てはめ、意味を察するのは普通できるものではない。ましてやこの前の様に「私を敵にさせないでください」などと言われたら・・・。ごく当たり前の言葉に内包されていた言霊を理解するには辞書や文法書だけではなく、日本語で考える脳が必要だろう。「私を敵にするな」でも、「敵になるな」でもない。その微妙なニュアンスを感じ取り、言霊を見いだすには。
なるほど、日本語を一から覚えるのは大変だろうなぁ。加賀壬はアルファベットと比較してみた。日本語には50音だけでもカタカナ、ひらがながあり、なおかつ無数とも言える漢字がある。ましてや美咲の家の物だ、第一、第二水準なんて枠に収まらないだろう。資料も筆書き、しかも崩し字だろうし。日本に生まれて16年の自分でさえその資料が完全に読めるとは思えない。
それには納得した。しかし、それで現代高地ドイツ語 > 中世ドイツ語 > 古ゲルマン語と時間を遡って続きそうな語学講義が簡単になるわけもない。
「ふぅ・・・。大変だこりゃ・・・」
第三章
加賀壬が頭を抱えている場所から、零上川を南下し二キロほど。繁華街の一角にあるホテルの一室で、今は危機管理コンサルタントという謎の肩書きになっているエージェント、リャン・E・バウテカも頭を抱えていた。
「ふぅ・・・。大変だこりゃ・・・」
「私は大丈夫です、思います。私のにっぽん語、完全に、です」
にこにこしながら答えるのは今日からしばらく彼の雇い主になる、ジョージ・S・ハワード。
もうちょっとマシな偽名は思いつかないのか。リャンは苦み走った表情になった。ジョージの外見は誰がどう見ても中国系だ。「アルね」とか言った方がよっぽど自然に見えるであろう、日本人には。
短い髪。細い眉に細い目。唇は笑った形がデフォルトらしい、この痩せた中国人、自称タイ人のハワード氏。日本語は堪能、という資料の一行はお得意の情報操作なのだろうか。
「Ok,lets talk us in english」
リャンは日本語での会話を諦め、英語に切り替える。
「俺はあんたらに雇われた。それは確かだ。しかし、俺の仕事はあんたを喜ばすことじゃなく、あんたらの目的を達することだ」
「それでいいですよ、Mr.バウテカ。でも、私も折角日本語を学んできたので、使いたいのです。いいですよね?」
同じく英語で答えるジョージには屈託のない笑顔が張り付いたままだ。
「日本人に敬意を表し、日本語を学んできた。それを示す分には大いに結構。しかし、挨拶以外では禁止だ。いちいち通訳するのは面倒だからな、基本的に英語で通してくれ」
「それは同意できません。私は・・・」
「ストーップ!
いいか、ハリスンさん、トーキョーでならともかく、ここはミサキの土地だ。どこに奴らがいるか、分かったもんじゃない。
あんたの日本語は笑いを取るにはいい。向こうのガードを崩すにはな。どうせそれが目的だろ?」
「ハワードです」とジョージが突っ込む。しかし、それにはかまわず、リャンの口は閉ざされなかった。
「問題は日本語ではあんたがお得意の情報操作ができないってことだ。
いいか、相手はコトダマ使いだ。エスパーだと思っていい。言葉からその真意を引き出す専門家だぞ。あんたの日本語はコトダマを隠せるほどじゃないんだ」
ジョージは瞳に悲しげな色を浮かべた。同情を買うには十分な色。しかし、リャンは動じない。彼は彼の雇い主が誰だか知っているからだ。表情など、いくらでも自在に作れるに違いない。
「契約した以上、あんたは俺のクライアントだ。俺はあんたを信じる。だからあんたも俺を信じろ。そんな見え透いた表情、作るな。
のんびり日本見物するのならガイドを雇え。銃が持てないのが不安だと言うのならガードを雇え。だが、俺はフォワードとして雇われた。あんたはバックアップ。そういう契約のはずだ。前線では俺に従ってもらう。
いいか、挨拶以外日本語禁止。英語で話せ。日本語しか通じない相手は俺に任せろ」
「なるほど。エスパーはエスパーに、ということですね。了解です」
その返事を聞き、リャンの眉が潜められた。瞬時睨み合った後、肩をすくめたのはジョージだった。
「怒らないでください。私はあなたを信じますよ、Mr.バウテカ。今回の調査に最適であると本社が選んだ人材ですからね」
一時間後。夏の夕暮れまではまだ遠い時刻。二人はレンタカーを降り、美咲山の麓に広がる公園に入っていった。
池の畔に立つ、がらがらのレストハウスに着くと、既に在野のエージェントは窓辺のテーブルを確保していた。
「いやぁ、どうもバウテカ様。えっと、こちらがハワード様ですか?」
にこにこしながら日本語でそう言い、握手の手を差し伸べるのは20台後半の日本青年。紫色の夏用スーツ姿だ。表の本業、不動産仲介業の営業スタイルである。
三人は簡単に挨拶を交わすと席に着き、アイスコーヒーを注文した。コーヒーが来た時には公園を見おろす位置にある雑居ビルの図面を広げ、間取りについて英語で相談していたが、ウェイトレスがカウンターに戻ってから、本来の目的に会話が変わる。
「バグは?」
リャンの問いに、営業スマイルを浮かべたまま、小声ながら口調も替えずに答える青年。
「ここはチェック済みです。問題ありません。美咲に対してという意味なら、外部との電話のみ可能です。屋敷内部に直接というのは無理ですね。ネットに枝を張るのも、ごく短時間なら可能ですが、枝からこちらが見越されるのは防ぎようがありません。なにしろ美咲ですから」
「HIIは?」
「本条精機も難しいですね。ハッカー対策は当然厳重ですし。末端施設76箇所に千個以上のバグを仕掛けましたが、どこまで成果が上がるかは疑問です。あそこに耳を向けるにはシャオツェンかGIEくらいのバックアップがいりますよ」
とても聞き覚えのある企業名を耳にしてもジョージは顔色一つ変えずにいた。どうやら挨拶だったカタコトの日本語以外、口をきくつもりはないらしい。拗ねたのかも。ふとそんな推測が浮かぶが、彼はそんな感情的行動からは程遠い人物のはずだ。即座にその思いをうち消し、リャンはそのまま質問を継続した。
「上海がらみの方は?」
「詳細はこちらに・・・」
青年は契約書と表紙に日本語で書かれた書類を鞄から出すとリャンに手渡した。
「お読み下されば分かりますけど。横浜港経由で例の品が到着していることは間違いないのですが、南白谷の高速インターチェンジを降りた以降、その後は全く掴めません。
実は今、この地域一帯が開発工事のど真ん中でして。隠す場所は幾らでもあるのですよ。MBTや核弾頭ならともかく、あの兵器の特殊性からして現在地の予測もつけようがありません。一応可能性の高い74ケ所をピックアップして調査中ですが。本日正午段階でその25%が完了、痕跡も見つかっていません」
「チーム16は?」
「ご指摘のとうり、潜伏している可能性が高いです。ライナ・ワークス多摩工場での対テロ対策会議ですが。チーム16からの派遣メンバー中、出席を確認したのが管理職クラスの8名のみ。同時入国した32名、保守任務とやらで、任地も不明です」
「特務保安課、四班分まるごとか。ま、予想どおりってとこだな。
現状、新情報はなし、か」
青年はその声を受け、かすかに目を上げた。
「確認情報と未確認情報が一つずつ。
まず確認情報ですが。
どうやら上海での戦闘は予想以上の大規模なものだったようです。シャドウシリーズMk.VIとVII、共にあれ以降のデータがダミーである可能性が高いと判明しました。Mk.VIとVIIの保守要員は移転先であるローマの研究施設内に軟禁され続けています。保守管理すべき対象が消滅したと判断するのが妥当かと」
その報告はリャンの目を見開かせるに十分だった。
シャドウ。それは世界的企業グループ、ライナ・テックが開発中の新兵器、シャッテン(影)の事である。そのAusf.(アウスフュールング)ゼクスとズィーベン、つまり6型と7型は二機セットで活動するように同時設計された機体であり、戦闘能力だけなら最新型のAusf.XII(ツヴェルフ)以上であった。リャンはかつて別の名前を名乗っていた時、Ausf.III(ドライ)と遭遇し、戦闘を行ったことがある。彼はシャッテンシリーズと戦い、生存しているごく希な例であった。それこそが、彼が今回の仕事に選ばれた最大の要因でもある。
上海での戦闘は数時間に及んだはずであるが、ほとんどが戦力差の大きい一方的戦闘、いや虐殺であり、激戦が行われたのは10分に満たない。つまり一個機械化師団にも匹敵する戦力を持つシャッテンを二機、それを僅か10分で撃破したことになる。実際に戦った経験上、リャンはそれがどれほど困難かを知っていた。
「シャドウが暴走し共倒れになった可能性は?」
リャンは他の可能性を挙げてみた。まだまだあのシリーズは試作品だ。改善の余地がある。戦闘行動時間もあまりに短いし、なにしろ不安定なのだ。戦闘能力を下げてでも安定性を重視した新型を開発しているのはその顕著な現れである。
「戦闘推移から見て、外部から侵入されたのは間違いないでしょう。侵入者は単独。施設最深部、地下12階まで侵攻し、同型機を撃破、その後で悠々と別ルートを使用して去っていると考えるのは・・・」
「シャドウが暴走したのなら途中でガス欠、間違いなしか。つまらん事を聞いたな、すまん」
リャンが珍しく取り乱したのに気づかない様に、青年はその謝罪には何も反応しなかった。
「もう一つ、未確認情報の方ですが。上海での戦闘に関して、当事者たるライナ・テック以外の何者かが情報を掴んでいるようです。かなりの広範囲に渡って調査、および隠蔽工作の跡が確認されています。事後での行動ですので、ライナとは別の存在、多分対抗組織と思われます。その手際から見ておそらくシャオツェンの情報部が行動していると予測されます。さらに情報部だけではなく、シャオツェンの虎の子、私兵部隊が動いている形跡もあります。日本に既に中隊規模の部隊が潜入している可能性が高いです。来ているとしたら、目的地はここでしょう。ご注意ください。
現時点では以上です」
青年が結んだのを受けて頷く二人。青年は浮かべていた営業スマイルをさらに1ランクアップして立ち上がった。
「これ程の物件は滅多にないですよ。じっくりとご検討ください。それでは!」
そう日本語で言ってから深々と頭を下げ、レシートを手にして立ち去る青年。
座ったまま礼を返し、リャンは渡された資料に目を通し始めた。表書きは日本語だったが、中身は英語でびっしりと情報が記載されている。右手を伸ばし、不動産屋のおごりという事になったコーヒーを掴み、一口啜った。といっても、ここの勘定は必要経費として来月リャン・バウテカ宛に請求書が来る。さらに翌月、ジョージ・ハワードが本社に請求書を回すことになるのだが。
一通り目を通し、ジョージの前に資料を送ると、彼は読みもせずにそれをゼロハリバートンにしまい込んだ。
「バレバレだったなぁ、あんたんとこ」
リャンのつぶやきを聞きながらケースの蓋を閉じると、ジョージが肩をすくめて見せた。
「我が社がパートナーとして選んだあなたが、予想どおり日本国内で高度な情報網を有している証拠、と前向きに考えておきますよ。ま、事が片づいたら支社の方でちょっとした人事があるでしょうけどね」
上海シャオツェンの情報部長を待ち受ける未来に瞬時同情してから、リャンはガラス窓の向こうに広がる山を見上げた。ジョージもそれに倣い、外の景色を見つめる。
「あれがミサキノオヤマですか。思ったより小さいですねぇ」
大きめのサングラスを掛けたジョージは、見た目外国人には見えなかった。一方のリャンはベトナム生まれだが、両親が台湾生まれなのでそのままで十分日本人である。
「山を巡る森と用水路は大陸系の結界らしいが。ま、そっちはあんたの方が詳しいだろう。チャイムを鳴らさずに訪問して番犬に手痛く噛まれたみたいだからなぁ」
「昔の話しですよ」と、嫌みの籠もった話題をジョージが軽く流した。
「あんたらは<シャドウ>があれを越えて潜入すると考えてるのか?」
その問いに、ジョージはアイスコーヒーの氷をゆっくりとかき混ぜてから答えた。
「どうでしょうかねぇ・・・
補助的要素が揃えばその可能性もあるでしょうけど。本社のスタッフは潜入は無理だと判断しているようですよ。現状では、ですけどね」
「確かに上空からも地中からも無理だろうな、あのままなら。しかし、それはあくまで隠密理にってことだ。力ずくで突破するなら、シャドウ一体でも十分だろう。武力制圧の可能性は?」
頬杖をつきながら、小声で語るリャンの目は、常人には見えない結界を光の反射の様に映し出していた。
「そうなってくれるとこっちも楽なのですけど。静的に動くのなら政治交渉で、動的になるなら軍事力で。どちらでも動いてくれるなら、うちとしては楽なのです。日本政府に働きかけた方が大っぴらに本社の名前が出せますしねぇ。セルフ・ディフェンス・アーミーの装備では被害を出すばかりでしょうから」
「装備云々よりもまず先に、人を殺した経験のないソルジャーばかりじゃなぁ。
とにかく、あちらさんが動いてくれるなら安保がらみで大手を振って軍が出せる、と。戦争だな」
「SENSCOMを出し抜けたら、の話ですけどね。
で、あなたならどうです? あちらに気づかれることなく、あちらを訪問できますか?」
「訪問は出来るだろう。だが、無事で帰ってこられるとは思えないな」
自嘲気味の表情を浮かべ、リャン・バウテカは短く続けた。
「諦めろ」
「了解です」とこちらも短く答え、ジョージ・ハワードは次の言葉を待って沈黙を守った。
しばしの間。
子供たちがはしゃぐ池を見おろしながら、リャンも無言だったが、やがて方針を決めた。
「シャドウが集まっているのは間違いない。様子見だな」
「集めさせてよいのですか? 何体来るかすら分かっていないのですよ。先手を打った方がよいのでは?」
「いや。水際で留めるにはその水辺が多すぎる。無理だな。ならばあいつらには派手に暴れて貰った方がよかろう。せいぜい利用させてもらうさ。
問題は上海でシャドウと敵対したサムライ・・・だな。
どこの組織にも属している形跡がない。バックアップなしでシャドウとやりあい、二機も撃破したらしい。ましてや上海と日本では事情が違うからな。今度はこっちの敵かもしれん」
それを聞き、ジョージは軽く肩をすくめた。
「サムライ、ですか・・・」
「謎すぎる。俺はシャドウ十機よりも、そいつの方が怖いな」
それから数日。彼らの調査は続いたが、なんら進展はなかった。
第四章
舞台はぐぐっと北東に移動する。宮城県でも、岩手や秋田にほど近い辺り、築館。「つきだて」と読む、念のため。
日本各地に点在する美咲家の分家、分美咲(わけみさき)。その長の地位にあるのがこの地に居を構える築館美咲家だ。主に結界呪法に優れた一族で、特に集団で行う練術結界に関しては本家に勝るとも劣らない。また結界を外に向けて張るのではなく、内に向けて張る事で成す封結に関しても全美咲一だと自負していた。先だって本家、分家総掛かりで行われた「赤きもの」封印の儀でも、築館美咲の御主(みす)、つまり家長がその中心を勤めたことでその評価は明らかだ。
元々鎌倉時代、美咲家の前身、見前当主の次女が東北の要としてこの地に屋敷を建てたのが始まりだったと言われている。当時は御崎一党と呼ばれる術者の傍流に過ぎなかった見前は独立しておらず、拠点にあたる場所はここしかなかった。そのため、室町末期、時の権力者に圧迫された見前が逃げ込んだのが築館だった。戦国時代に御崎一党が滅んだ時、見前家が残存術者を集めて独立したのもここだ。つまり一時期は本家があった場所である。
徳川支配の時代になり、時の将軍の命によって見前家が異界からの侵略者を迎え撃った時のこと。最期まで見前家当主、見前由深の隣に立ち、闇の王に一の太刀を浴びせた侍が伊達家から遣わされていたのも、この地に深い縁(えにし)があった証であろう。
後に美咲に表記が変わり、美咲郷を新たに作って主立った者が移住した際、旧本家となったここ、築館美咲家は正式に分家として独立した。他の分家が「みさき」の音を有しながら、その表記は「岬」だったり「美崎」だったりと変えてあるのに対し、築館美咲家は本家と同じ表記の「美咲」だ。それだけ本流に近い血筋という事である。もう一つ、東京にあった分家、東(あずま)美咲家も同じ美咲の表記を冠していたが、第二次大戦中、東京大空襲で血筋の全てを失い、滅んでしまった。結果、分家で唯一「美咲」を名乗る一族であった。
しかし、築館美咲家の今の御主は白鳥ユウカという。美咲家の血筋を示すミサキの音も、由見の能力者である事を示すユミの音も与えられていない程、下位の出身だ。築館美咲の血族ではあるが、傍流である。分家の分家といったところか。
それもそのはず。築館美咲家の直系は先代で滅んでいたのだ。それは先代の娘の不祥事から起きたことだった。
先代はその名を「美咲ゆみを」と言う。本家のご意見番「美咲ユミヲ」と同じ、かつての名軍師の名にあやかった名前だ。
彼女の夫君は早い内に亡くなったので、彼女には一女しか子供がいなかった。娘は不幸にして術力に乏しかったが由見の力はあったので次期当主として育てられた。高校卒業と同時に許嫁と結婚。しかし、それから一年としないうちに学生時代の知人と駆け落ちしてしまった。そして逃亡生活の末に重い病となり、男にも捨てられて二十歳にも満たずして狂死。
その事件は母たる御主の心を病ませ、一族で最も由見の強かった白鳥ユウカを後継者に選んで長老に退き、孤独のまま亡くなった。こうして二百年を越える歴史を持つ、築館美咲家はその本流を失った。
先代が亡くなってすぐ、美咲全家の御主が集った会議が急遽開かれ、築館美咲家の重要性からそのまま分家として継続することになった。白鳥ユウカの祖母が美咲の本流だった事から、かろうじてという状況だったのだが。この事件によって美咲一党の中で築館美咲家は評価を著しく下げてしまった。公的には未だに分家の長である。美咲の歴史うんぬん言うよりも、なにしろ彼らの結界術は儀式は元より、強敵との戦闘にひっぱりだこだったのだから。故に一党が集まる席上、本家を示す黒帯の隣には、築館を示す藍鼠の帯があったが、他の分家から疎んじられているのは間違いない。
東北自動車道の築館ICから車で10分ほど。築館美咲の屋敷は一面の田を見下ろす丘の麓にあった。米所に相応しい景色であったが、近年の開発の波はすぐ側まで来ている。幸い、この辺りはみな美咲の土地なので秋には昔ながら、一面の稲穂が輝いているのを屋敷のどこからでも見渡すことが出来た。屋敷といっても日本家屋は由緒ある一部が残してあるだけで、ほとんどが鉄筋の近代的ビルだ。建物自体はみな小さいがその数はかなり多く、全部の名を言える者は少ないだろう。一族の人数も分家としては格段に多い上、他家から修行に来る娘もかなりの人数に登る。築館所属の正式な退魔士は今30名しかいないが、屋敷に住む術者は百人を越えるのだ。ほとんどが住み込みなので、家や寮、修練場など、多数の建物の集合体になっている。栗駒山をはじめとする周囲の景観を重視して、そのほとんどが垣根の樹木に隠れるよう二階までしかないが、地下の方が遙かに深く、広く作ってあるのは地元でも知られていない。
御主一家と近親の術者が住む母家は未だに日本家屋のままだ。その一角、湯殿で一人、のんびりと湯船につかっている若い女性は御主の姪、白鳥あゆみ。母屋に住む者以外、ここには来ないし、まだ湯には早い時間だったので、檜作りの広い湯船を独占していたのである。
今日の修練も大変だった。またもや彼女の苦手な炎呪の特訓だったのだ。このところ毎日である。他の術者の修練とは別カリキュラムが組まれるほど集中的に。あゆみは元々結界術者なので、土呪に関しては一族でもトップクラスにある。美咲流の結界魔法では土の精霊とのコネクトが最も重視されるからだ。対して舞う風呪、流れる水呪は美咲流の結界とは関係が薄いのでまぁ普通程度の成績。そして揺らめく炎呪は全く関係ないので・・・もうかんべん、という感じだった。
でも、それも彼女自身が望んだことである。結界専門の術者ではなく、破邪の者、退魔士を目指したのだから。そうなると、滅すべき妖(あやかし)の属性が土だった場合、あゆみは手も足も出ないことになってしまうのだ。人間としては土術に長けていても、さすがに土妖相手ではその足下にも及ばないのだから。
あゆみがぼ〜っとしていると戸の向こうが騒がしくなった。やがて、からりと戸が開かれ、高校生程度の娘が四人、うわさ話に興じながら入ってきた。退魔業の実働部隊、撃手の娘だ。あゆみとは別班であり、顔を知っている程度の仲の娘たち。あゆみより若いのだが結界術者から退魔師に転向したあゆみにとっては先輩にあたる。あゆみは横に流すように瞳を動かし、四人と続けて目線を交わした後で少しだけ俯いた。公式行事以外、挨拶を略す美咲ながらの目礼である。一方、娘たちにとってあゆみは御主の血縁、同様に目線をあゆみと交わした後ですっと頷くように頭を垂れて礼を示した。
そろそろ混み出す時間らしい。あゆみは風呂から上がる事にした。母屋で寝泊まりする以上、基本的に和服である。高校の頃までは外出の度にいちいち着替えるのが面倒だったが、今はもう慣れた。いつも身につけている藍鼠色のお守りを首から下げ、胸元にしまう。
「あゆみ」とだけ書かれた小さな立て札がある四畳半。そこが彼女の私室だ。その一角には同じような小部屋が幾つも並んでおり、それぞれに立て札がある。ほとんどが名前だけで名字は略されているが、二つだけ名字から書かれているものもあった。
あゆみのように名字が略されている者は皆「白鳥」姓だった。このあたりはとにかく白鳥家が多い。古い墓地など、右を向いても左を向いても「白鳥家の墓」だらけだったりする。別に縁戚関係ではないのだが、あまりに白鳥が多いので、呼び合う時は名前だけになる。問題は由見の力を持つ長女に好んで「ゆみ」の音を使って命名することだ。よって、音だけ聞くと「シラトリ アユミ」となる者が82才から6才まで、あゆみが知るだけでこの屋敷に五名いる。困った話だ。
あゆみは自室に入ると、今日の記録を書き付けた。これも勤務評定に入るので、克明に、どこをどうミスったかを書いていく。反省点の羅列に泣きたくなった。
今週は早朝勤務である二の番だ。あゆみは疲れた体を布団に預け、早々に寝てしまうことにした。
そして。またあの夢を見た。
臨終の床から伸びた、細くしわだらけの腕。その手には和紙に包まれた小さな落雁(らくがん)。
あゆみの寝顔に涙が浮かぶ。
先の御主、美咲ゆみをが病死したのはあゆみが十才の時だった。死の前夜。叔母である現御主、ユウカに呼ばれ臨終間際のゆみをに引き合わされた。ユウカに手を引かれて入った病室には病人とユウカ、そしてあゆみしかいなかった。叔母が張っている結界を越えた時、あゆみは死臭を感じた。由見の力が近づく死を形にしたのだった。あゆみが長老として退いた前御主に会ったのはそれが初めてだった。死の恐怖にひきつる彼女に向けて、ゆみをが腕を伸ばした。その細くしなびた腕。闘病生活の末、まだ50の声を聞いていないというのに彼女の姿は老婆のそれになっていた。それを死者の手と思ったのは子供だったからか、あるいは由見の力でか。怯え泣き叫ばんばかりのあゆみに、ゆみをは震える手を伸ばし続けた。
ふとその手に、和紙に包まれた何かがあるのに気が付いた。よく見ると、それは落雁の包みだった。その光景に見覚えがあるように感じたあゆみ。あれは幼稚園の頃だったろうか。満開の桃の木の下で叔母に誰かを紹介されたことがあった。その和服の女性は手を伸ばし、あゆみの頭を撫でてくれて。そして、そう、落雁をくれたのだ。
由見の力が見せた光景。あの優しい手はこの人だったのか。
あゆみはもう恐れていなかった。布団のすぐ側にぺたん、と座り、その手を握った。恐怖はもうない。しかし、かける言葉もなかった。もう間もなく、この人は写真だけの人になってしまう。それが分かっていたから。
だが、ゆみをの方は何かを告げようと唇を歪ませた。
叔母に促されて耳を近づける。かすかな声が聞こえた。
「ゆ・・て・・・けら・・ん」
言葉にならない、断片的な音。しかし、その言霊ははっきりとあゆみに伝わった。
許してちょうだい
それは謝罪の言葉。
翌日、ゆみをが亡くなったと聞いた時にも、あゆみは謝罪の意味が分からずに考えていた。もらった落雁の紙を折った小さな鶴を手に乗せながら考えていた。なんでだろう、と。
その意味を教えてもらったのは彼女が15才になって術者の道を選び、叔母からその証である鈴を授かった時だった。
目が覚めた。またあの夢。あゆみは枕元に置いておいたフェイスタオルで涙を拭いた。胸に下げた守り袋に右手を置き、ゆみをの顔を思い出してみる。広間に掛けられた、きりりとした写真の印象が強く、臨終の床での老婆の顔はもう思い出せなかった。腕だけが思い出せる全てだった。
なぜあの時の夢を見るのだろう。もう全部過ぎた事なのに。今更どうしようもない事なのに・・・
あゆみはとまどいながらも、また溢れてきた涙をぬぐった。
翌日。早朝勤務でまだ陽も登らぬうちから車止めの掃除をしていた時、あゆみは御主に呼び出された。別に珍しい事ではない。あゆみの母は彼女が物心付く前に亡くなっていたので、御主が母代わりだった。なにかお使いかな、と軽い気分で母屋に行くと、叔母がいつも座っている執務室の座布団には猫がだらしなく伸びているだけ。探してみると叔母は広間であゆみを待っていた。彼女は御主としての正装に身を固め、御座に座っていた。さすがにあゆみも驚いた。炎呪の特訓で失敗続きだったのが、ついに叔母さんの、いや御主様の怒りに触れたのか・・・。
不安に震えるあゆみに御主は公的な場で使う口調で告げた。普段と違い、お国なまりのかけらもない標準語で語られたその内容は唐突だった。
「お前の修行だが。美咲郷の本家で行うことになった。お前の班には裕美代を入れる。早急に引き継ぎを行い、身の回りの整理をせよ」
あゆみ、ぽか〜ん。
「黒の中に一人、藍鼠を背負って歩く事となる。築館の名をこれ以上汚すこと無きよう留意せよ。以上だ」
あゆみ、ぽか〜〜ん継続中。
「以上だ」
あゆみ、ぽか〜〜〜ん更新中。
「はぁ・・・」
御主は姪から目を反らし、大きな溜め息をついた。
一方こちらは本家。すこし時間は遡って、二日前の事。
本家の御主、ユミは孫の由美を西二の間に呼び寄せた。由美は高校から戻ったばかりだったので制服のままで二の間に向かった。
美咲流術者の戦闘服である呪い着(まじないぎ)はあまりに裾が短い上に、基本、下着は肌襦袢のみ。ノーブラ・ノーパンだし、呪器や呪符をしまうポケットが少なすぎる。よって彼女の場合、退魔業も制服のまま行なっていたので、これが礼装にもなっている。誰に会うのもこれでいい。簡単だ。
西の間はプライベートの翼に属しているが、家族団らんの場ではなく、遠路やってきた親類を迎えたりする、半公半私のスペースだった。誰か客人が来たのだろう。そう思って由美は廊下を歩んで行った。
由美は美咲のしきたりに従い、入室すると挨拶の言葉もなく、無言のまま御主と目を会わせ、一礼した。御主は正面の席を由美に手で示した。
部屋には御主しかいなかった。二人の間のテーブルに薄い木製の箱がある。平文箱、つまり書類ケースだ。
「まず、それを読んでおくれ」
御主は公式の場での威厳ある声ではなく、祖母として孫に告げる口調で話し出した。由美が箱を開けると封筒が大小幾つか入っている。
上から順番で読んでいく由美。
最初の封筒は築館美咲の御主から本家御主へ宛てた手紙だった。由美は御主間の書状を自分が読んでいいのかと一瞬迷ったが、当の御主が読めというのだ、かまわず読むことにした。開けてみると焚きしめられた香がほのかに漂った。品のいい薄紫で手漉き和紙の便箋。文字も便箋に似合う流美な達筆。そしてその内容は頼み事である。
先の「朱鷺色の翼」封印の儀で、本家筆頭術者殿の技を見た。実は当家の術者で非凡な才能を持つ娘がいる。退魔士を目指しているのだが、当家では封印業以外、彼女の才能を開花させるのは困難と思う。ついては本家筆頭術者殿のご助力を云々。
一つ目の封筒を読み終えた本家筆頭術者、つまり由美。綺麗に元通りにしまい込み、二つ目に手を伸ばしながらその表情に全く変化はない。しかしそれを見つめる祖母は初孫が困っているのを感じ取った。しかし、何も言わぬまま、彼女が全て読み終わるまで待っていた。
二通目は今目の前に座る本家御主からの返事。コピーである。当家筆頭術者はまだ修行の身、いずれは次期の知恵者になる事もあり云々。やんわりと断っている内容だった。
三通目は築館からの物。それが最後の封筒だったがそれまでと違い、A4サイズだった。中には書類と手紙が入っていた。手紙の方は再度のお願い。二枚に渡り、そこをなんとか、と書いてある。
手紙を畳み、今度は書類を見た。一つ目は履歴書だ。弟子入り希望の娘は漆黒の髪に純白と見まごうほどの雪肌。写真はカラーなのだが、白黒写真に見えるほど、白と黒しかない印象だ。穏和なおっとり系の顔立ちで、その目は明るい笑顔が似合いそうだと由美は思った。生年月日を見てさらに困る由美。歳上だ。まぁ、高校三年の師というのもさすがにいないだろうから当然と言えば当然なのだが、真剣に術を学ぶのであれば若ければ若いほどいい。少しだけ彼女に同情してしまう。この歳で師を探すのは大変だろうと。
学歴と共に術者と由見の者としての経歴も記載してある。美咲流の成人にあたる15歳から正規に結界術者となっているが、それもかなりの実力だ。そして18から退魔士を目指し、実戦も積んでいる。高校卒業後は表向き実家に事務職として就職、実際には撃手となっていた。実戦参加がパーティを組んでの物が多かったのは、結界担当として用いられていたのだろう。
由見としての力は正直、びっくりする程高かった。支えなしで三界まで見たことがあるという。これは滅多に出る血ではない。だがその訓練はあまり積んでいないので、実戦での効果は出ていないと推測できた。
つまりこの娘は結界術者としてはすでに高位に近い。退魔師としては結界専門の感が強い築館での修行はもう難しいかもしれない域だ。弱点の克服だけならともかく、長所を伸ばすのは無理だろう。なにより由見の者としては修行のしようがない。おそらく築館にこの娘以上の者はいないだろうから。なるほど、これなら本家に師を求めたくもなる。由美はそう感じたが、かといって自分がその師になる気はおきなかった。
次いで内申書。成績は高くはない。添え書きも可もなく不可もなく。
どうやって断ろうか。そう考えながら最後の書類を手にした。それは由美も聞き及んでいた築館先代の娘の不祥事に関してだった。だが聞いていたのは二枚目までで、その先は初めて知ることであった。その報告書を読みながら、孫の目が真剣になっていくのを御主は黙って見守っていた。
読み終えた後で。由美はその封筒をしまい、二通目もしまいこんでから、一通目を改めて読んだ。同じ文章から先ほどとは違う意味が見えてくる。行間に隠された思いが。
読み終えて文箱に戻したが、蓋は閉じなかった。そのまま三通の上書きを見つめていた由美は、やがて祖母に目を移した。
「会って・・・会ってみたいです。彼女に」
祖母はその目を見返しながら軽く反論した。
「本家分家の差こそあれ、仮にも私と同じ御主の位にある御仁の頼み。会って、ではさようなら、というわけにはいきませんよ」
「そう・・・ですね・・・」
由美は珍しく語尾を濁したが、その後でこう言った。
「お受けします」と。
続く