
von:秋澤 弘
第一章
「いやぁ、全然ダメだよ、取り付く島もなしって感じだ」
待ち合わせ場所だったホテルのロビーで。真声ネット社長、吉田は900円もするまずいコーヒーを飲みながら携帯に話しかけている。
「使えるだけのコネは使ったんだけどね、全然だめ。まぁ週末で偉いさんはつかまらなかったから、また週明けにでもチャレンジしてみるよ」
相手は待ち合わせだったはずの茂木(もてぎ)である。本人は姿を出さず、予定時間を40分もオーバーして電話で声だけやってきたのだ。
これが自分だったら社長の雷だ。さすが茂木さんは別格だなぁ。
同じくまずいコーヒー、しかも二杯目を飲みながら、社長と向かい合う樅塚はそうぼやいた。もちろん心の中で。
吉田は雷どころか、上機嫌だ。普段茂木はのらくらしているが、一度動き出したら止まらない男だ。その点だけは昔も今も変わりはしない。二人で張り込みを続け、大臣を追いかけ回していた頃と同じだ。現に今も移動時間を利用して電話しているに違いない。その精力的な取材活動が暴きだすネタを思う吉田の声が明るいのは当然だった。
「うん、そうだね、そうしよう。で、どなの、病院・・・。
は? そっか、そりゃまずいねぇ。
えっとね、こんちゃんの所とたっちゃんとこから八人借りたから。なんていうの、ネタ見分ける鼻は利かないけど、張り込みはしっかりやれる連中。とりあえず二人、病院の方に回すよ。
あ、そだ、救急隊員の方は?
おぉ、そうか、さすが早いね。うんうん。
え? タクシー? おぉそれはいいぞ」
今朝の吉田は取材用にスーツ姿である。手帳とペンを手にして書き込みする吉田。
「オレンジで青ライン・・・提灯か。じゃあれだな・・・うん。うん。分かった。そのタクシーの方は俺が自分でやるよ。署にも行くから途中で。うん。
おぉ、そうか、うん、分かった。警察の方は俺がなんとかすっから。うん。じゃ」
吉田は携帯と手帳をしまい、まずいコーヒーを一気に飲み干して立ち上がった。
「俺、署に直談判行って来るわ。もみちゃんは部屋戻ってて」
レシートを掴むとすたすた歩き出す。
「しゃ、社長! お、俺聞き込みに・・・」
「部屋で待機。こんちゃんとこの若いの来るし、もてっちゃんから多分何か頼み、また来るから。それまでフリーで待機」
慌てて立ち上がり、社長の背を追う樅塚。だが鞄をとりにまた席に戻っている間に、社長は既にホールを出ようとしていた。
「そんな、俺も外回り・・・」
「待機、よろしく」
その声を最後に吉田は自動ドアの向こうに消えた。立ちつくす樅塚。
「電話番? なんだよそれ。つかいっぱ以下かよ! ちくしょう!」
側にあった椅子を蹴りつけようとして、従業員に睨まれている事に気が付き、その動きが凍る。
「ちくしょう・・・」
床を思い切り蹴り、樅塚は腹立たしげにエレベーターに向かった。
タクシー会社はすぐに判明した。情報元のOLが車体の特徴をよく覚えていたのだ。警察のすぐそばだったので、吉田はまずタクシー会社に向かった。
事務所のおっさんの協力で運転手を確認する吉田。ここでは茂木から聞いていた担当刑事の名前が絶大な効果を発揮した。顔がばれるので、嘘をつかず、さりとて本当も言わず、口八丁で軽々と乗り切った。
運転手の自宅は遠かった。警察にも顔を出したかった吉田はそばにあったオフィスビルに入って電話ですますことにした。思ったとおり、中のテナントやオフィスは閉まっていたが、階段脇に自販機と並んで公衆電話があった。ここなら雑踏の騒音もなく、怪しまれることもないだろう。周囲を見回してから電話をかける吉田。
「あ、沖田さんのお宅で? 敬三さんは・・・あ、沖田敬三さん? たびたびすみません、先ほどの件で確認を。はい、交通課の宮崎と申します。はい、こっちでも別途書類が必要で。えぇ、すみませんねぇ、二度手間で・・・。あ、そうでしたか。それはすみません。例の女性、乗車位置と降車位置で所轄違ってるので。すみませんねぇ。
で、まず乗車位置の確認からなんですが・・・」
吉田の声は男としてはかなり高い。年齢を考えればすごく高く、若々しい声だ。今、普段よりもはきはきとした口調で、いかにもデスクワーク担当の下っぱを装い、べらべらとまくしたてている。こういう時には大変便利な声だった。
オフィスビルを出て、警察署に向かう。ざっと見、通りは一方通行が多い。タクシーを拾うのを諦め、歩きながら茂木に電話を入れた。
「あ、吉田。
今タクシーの運ちゃんと話してたんだけど。やっぱりそうだね、かなりごついカメラ持ってたらしいよ。天文部の観測だって言ってたってさ。そんで違和感なかったんだから、超望遠だね。うん。そそ、カメラと肩掛け鞄だけだったって。三脚はなかったみたいだね、ま、小さいのなら鞄入っちゃうけど。うんうん・・・。ん、今向かってるとこ。吉報期待して。じゃ」
警察署はすぐそこだ。吉田は歩きながら鞄を脇にはさむと、両手で顔をぱん、と叩いた。
「よし、やるか!」
気合いを込めて吉田は直談判に向かった。
第二章
携帯が鳴った。自室のベッドに腰を下ろしていた加賀壬が出る。
「はい・・・
うん。大丈夫だよ。うん。クラスの友達も来てくれてる。うん」
本棚と無造作に積み上げた書物だらけで、とても狭い加賀壬の部屋で。その友達、開田茜と鮎川紫織は無言のまま加賀壬を見つめていた。開田は椅子に座り、鮎川は加賀壬の足下でクッションに座り、ベッドに背をもたれた姿勢で。
鮎川家の朝は早い。朝刊で事件を知った紫織が茜を電話でたたき起こし、大慌てで電車を乗り継ぎ、加賀壬の家にやってきたのは8時過ぎのことだった。土曜出勤があった加賀壬の父が出かけた後の事だ。
二人は加賀壬がとりあえず取り乱していないのに安心したが、あまりに様子がおかしいのは一目瞭然だった。なにやら考え込んでいる加賀壬をずっと見守って二時間ほどになる。かける言葉もなく、二人はその場にいるだけだった。その間にかかってきた電話はもう8件になる。
「うん。そだね。戻ってくるまで私たちで頑張んないとね。合宿、しっかりね。うん」
加賀壬の声は抑揚がなく、いつもの声の1.5倍は間延びしている。開田も鮎川も自分たちの無力さを痛感していた。
事件を美咲から聞かされ、加賀壬は長いこと号泣していたが、美咲の結界内ゆえ、父母にも近隣にもその声は聞かれていない。
泣くだけ泣いてから、加賀壬は心ここにあらず、という状態になった。そこで美咲はゆっくりとゆっくりと加賀壬に語り始めた。魔性の仕業ではない、自然発生的な超常現象に巻き込まれたらしいと。友人の個人的な相談を受け、その実態を確認に行って事件に遭ったことを。美咲は既に中野恵子が警察に語った調書の内容を知っていた。
「しかし、例え超常現象であったとしても、今回の事件は学校霊でも異界がらみでもありません。そのため超常現象研究会が行動を起こす事はありません。在野の術者、医者の仕事になります」
それを聞き、かすかな希望を見いだす加賀壬。在野の術者という言葉で。
「わ、わたし、私が・・・」
加賀壬の声を聞き終わるまでもなく、美咲は首を振った。
「古来より我ら美咲一党は武家からでも公家、商家からでも依頼を受けてきました。身分に関係なく、支払える者であれば誰からでも、ということです。逆に言えば支払えない者の依頼は受諾できません。美咲を動かす。その支払いがどれほどか、理解していますか?」
「絶対、絶対払います、えと・・・」
分割で。その言葉はさすがに今の状態の加賀壬でも口に出せなかった。
「例え払えたとしても。我ら術者で北村さんを救えるかどうかは分からないのです」
美咲は心痛を隠し、事実を語った。中野雄哉、北村茉莉香。この二人を「見た」術者の報告は正直絶望的だった。
「魂がありませぬ。呪封印の痕跡も。由(よし)は完全に途絶えております。あるのは肉体のみにございます」
それでは自然治癒はありえない。可能性があるのは時間制限で戻ることだが、それで助かる確率はきわめて低い。呪文でも魔性の力でもない自然な「封印」。それが解けるのは何年後、いや何世紀後であろうか。
「美咲も万能ではないのです。美咲は術者です。そして超常研は対魔性戦のエキスパート集団。しかし、今回の一件は術でも魔性でもない。それでは理(ことわり)も揺らがない。私たち人にとっては超常現象。でも世界にとっては自然発生した現象です。理の中にある事。すなわち自然。
私にも自然と闘う力はないのです」
「じゃ、じゃまりちゃんは、もう・・・」
「分かりません」
美咲は正直にそう答えるとじっと加賀壬を観察した。取り乱す時期は過ぎたものの、まだどんなキーワードで心が乱れるか分からない。そんな状態だ。しかし、それでも言わねばならない事があった。
「一つ、あなたに警告せねばなりません。今回の事件でマスコミの注目を浴びています。一条電鉄、本条総家、そして我が校が。そこから超常現象研究会並びに美咲の名が引きずり出され、世間に魔性の侵略が公表される恐れがあります」
加賀壬はきょとんとした。ゆっくりとその言葉が彼女の意識に到達する。考えてもいなかった事だった。
「美咲は、そして超常現象研究会はそれを阻止せねばなりません。一人の軽はずみな行動で、日本中が、世界がパニックになる。見てもいない魔性に恐怖し、些細な事象の影に魔王の姿を見てしまう。疑心暗鬼。
魔性の侵入は一気に世界規模になるでしょう」
美咲のその言葉に加賀壬はいつかの姫の言葉を思い出した。
魔性を憎むっていうのはぁ、魔性にとってすごく嬉しい事なの。魔性は憎しみが大好きだから。
恐怖が、絶望が人の心を捕らえる。そうなったら魔性を招くようなものだ。
加賀壬はそれを理解した。しかし、それでも北村を助ける方法を探さないでいられない。それも理解、いや実感していた。
「それはつまり・・・。超常研が調査に乗り出したら魔性の事がばれてしまう。だから超常研は行動しない。むしろ嵐が去るまで沈黙する。そういうことですか?」
加賀壬の声に怒りと不安、そして自分自身へのいらだちを感じ取った美咲ではあったが、今、言える言葉は一つだった。
「そうです」
加賀壬は黙した。その脳裏に、今度は自分の言葉が蘇った。
私がやってる何かを美咲会長が中止したとするね。私はそれに同意できない、として。
それでも私は会長に逆らう気にはならない。そう思ったの。
それはほんの半日前の自分の言葉。ほんの数時間前の言葉。それから、どうして世界はこんなに変わってしまったのだろう・・・
「なら・・・。私、自分で調べてみます。できるかどうか・・・分からないですけど・・・。その超常現象を見付けてみます」
それは美咲の予想どおりの発言だった。加賀壬ならそう言うだろう、でも言って欲しくない。そう思っていた発言だった。
それを受け、美咲はついに心に定めていた言葉を、言霊を口にした。
「今回の事件から魔性の存在が暴かれることは避けねばなりません。その可能性がある事態すら避けねばなりません。
超常現象研究会会長として会員、加賀壬宏子に命令します。一切の調査行動を禁止します。無視した場合、除名とし、私があなたを阻止します」
加賀壬は呆然と美咲を見つめた。その目は北村の状況を聞いた瞬間と同様、凍り付いたように動かない。
「私を敵にさせないでください。これは・・・心からのお願いです」
美咲由美はゆっくりと頭を下げた。見守る加賀壬の前で。その姿が薄れ、ゆがみ、消えていった。ひらひらと舞い落ちる奴(やっこ)さんを残して。
加賀壬はその折り紙を見つめながら、つぶやいた。
「除名・・・阻止・・・」
ややあって。もう一つの言葉。
「敵・・・」
そのまま加賀壬はベッドに座り込んでいた。茜や紫織が駆けつけるまでの数時間、ずっと。
第三章
合同合宿所でも北村の事故は大騒ぎを巻き起こした。だが、それを難なくまとめたのは、さすがに前生徒会長、本条百合恵と言えよう。現会長、近藤:出番なし。近藤にとってはカリスマの差を見せつけられた思いだった。全員揃っての朝食後、3分間のスピーチだけで彼女は騒乱を鎮圧し、志気を盛り返すことに成功したのだ。もちろん一部の生徒をのぞいて、だが。しかしながら、その一部の生徒も不満を表すことなく、周囲に合わせていた。彼らには既に美咲会長からの指示が下りていたからである。
「マスコミの注目を浴びている今、この事件から魔性の存在が暴かれることは避けねばなりません。会として一丸となって解決策を探れるようになるまでの間、軽はずみな行動を慎んでください」
超常研会員たち、とりわけ佐伯隊の面もちは暗かった。北村は佐伯隊のムードメーカーだったのだから。
合宿に参加している超常研の「長」クラスは副会長の一人、野球部のサーこと三沢だけだ。彼はスポーツセンターのロビーの片隅で、同じ副会長の篠木原、つまりシュンと電話で協議していた。
「うん、それとねシュン。佐伯隊だけじゃなくて皆瀬樹隊の方も問題だ。合宿組の遠藤・佐々木はいいとして。残りの三人は中学からの親友だろう?」
電話の向こうでシュンの沈痛な同意がする。
「うん・・・。皆瀬樹、野田、榎本の三人は僕がこれから訪問しておく。近藤会長からも様子を見に行ってくれって頼まれたからね。皆瀬樹に至っては向こうから来ると電話がきたよ。会の決定に抗議したいのだろうけど・・・」
「つらいだろうけど、頼む。僕は合宿組で佐伯隊のメンバー、佐伯、山崎、前原、昆先輩とさっきまで相談してたんだけど・・・。不満見え見えだけどね、一応は納得してくれたよ。事態の緊急さをね」
途中でサーの声が小さくなったのはロビーの反対側に並ぶ公衆電話に、その前原が近づいたからだ。
「前原君は思ったより冷静だ。加賀壬君がらみで一悶着あるかと思ったんだけどね」
「今すぐ加賀壬宏子の所へ行くぞーって?」
「そうそう。でも正直、佐伯隊で一番冷静だ。まぁ北村君と一番つきあいが薄かったからかも、だけどね」
ホールの反対側。身体測定の順番待ちである前原は、すっくとジャージ姿の背筋を伸ばし、加賀壬と電話をしていた。
「そうか。それはよかった。開田隊長の妹たちか? なるほど。
先ほど三沢副会長から訓辞があった。こちらにいる佐伯隊四名は予定どおりにスケジュールをこなし、帰還後はより一層の活躍を期待する、という内容であった。
うむ、もちろんだ」
前原は話しながら考えていた。
加賀壬宏子はスローモーながら普通に会話をしている。予想通りショックから立ち直っているようだ。友人も心配して来ているという。ありがたいことだ。
だが安心はできない。かつて加賀壬宏子は北村茉莉香を大事な友人だと言った。奇跡の金曜日事件から数回探索を共にしただけだが、北村は佐伯隊にとってなくてはならない存在だ。前原自身にもそうである以上、初めから共に参加していた加賀壬宏子にとって大きな心のよりどころであったはず。
前原はぐっと受話器を握りしめ、加賀壬に告げた。
「加賀壬宏子。お前が正しいと思う道を探してくれ。迷うだろう、悩むだろう。しかし、お前ならば必ずその道を見いだす。私はそれを信じている。私はお前の腕だ。盾であり拳である。お前は私の目だ。お前が見た未来に共に歩む。お前の前に立ちふさがる者に私が挑む。
その時が来たならば呼んでくれ。私はいつでもお前と共にある。見付けてくれ加賀壬宏子。我らの進むべき道を。
それまで、私は己の技を磨くことに全力を注ごう。それまでお前は悩み、迷い、吟味してくれ。我らの道を見いだす為。
連絡を待っている」
前原はそう告げ、電話を切った。前原にとって今の会話にはなんら隠すこともないので普段通りの声だった。それゆえにサーにも、電話を介してシュンにもそれは聞き取れた。
前原がメディカルセンターに向かった後で。シュンがサーに言った。
「前原君を少しみくびっていたよ、僕は」
「僕もだ。北村君とつきあいが薄いからなんて、失礼なことだった。撤回する。
後は、加賀壬君が正しい選択をしてくれることを祈ろう」
「切に、ね」
シュンが携帯を切ったその途端。「威風堂々」が流れた。びっくりしたシュンだが、この着メロに指定してある番号は一つだけだ。写真部部長、長瀬その人である。慌てて受信するシュン。
「なにくっちゃべってんだよ、何回かけたと思っとるかね、キミ!」
大音量。思わず電話を離すシュン。予想してしかるべきだった、と思いつつも謝る。
「それは失礼しました部長」
「あんたは携帯依存症のじょしこーせーかっつぅの!」
それは部長でしょう、という言葉は飲み込んで。
「僕は部以外でも責任ある立場ですので、ご理解ください」
「うはっ、ちょっとぉ! そう言われたら、この振り上げた拳はどこに降ろしたらいいん?
すぐ暗室来なさい! みんな集まってっから」
そうきたか。どうやら部長には近藤会長からの指示も効果はないようだ。
「まだ北村君は治療中です。今集まっても・・・」
言いかけた言葉を封じるように部長が怒鳴った。
「来いっつぅたら、来い! 北村があんな事になって、んであんたまでそんな事言って。みんな集まったのに、副部長が来ない罠?
いいじゃない、みんなの顔見たくない? こういう時に一人でいてどーすんのよ! 来なさいよぉ、部長命令ぃぃ!」
最初は怒鳴り声。でも最後は泣き声に近かった。言葉を失いかけたシュンだったが、すぐに静かな声をかけた。
「僕はこれから生徒会副会長としての仕事があります。合宿に同行している近藤会長の代理で、北村君と特に親しかった生徒宅を回ることになっているのです。その後になりますが。すみません部長」
シュンの説明を聞き、電話の向こうで部長が息を飲むのが分かった。
「そ、そっか・・・そっか。あ、なんつぅか、その・・・」
「大事な時にいなくてすみません」とシュンの静かな声。
「あ、えと・・・。怒鳴ってスマソ。う、なんつぅか・・・見えんだろうが頭下げますた。反省のポーズを見せてみる、てすと?
えと、うん、待ってっから」
「あ、部長、事務の小堺さん来てるはずなので。電話しておきますから、会議室、借りてください。暗室に30人入らないでしょ」
「わかた、ありぽ!」
シュンにとっても忙しい一日になりそうだった。
第四章
「すまん」
ホテルの自室で。吉田は汗をバスタオルで拭きながら電話に向かって開口一番謝った。
「こんなのは初めてだよ。本庁からも手ぇ回したのに。暖簾に腕押し、糠に釘。参ったよ」
答える茂木の声は不満を隠せない。
「まじかよ、どうなってんの?」
「分かんないんだよ、まるで鉄だ、あれだよ、鉄のカーテン? あんな感じ。県警にも当たったけど一条・本条側の圧力ってだけじゃないよあれは。
なんて言うか反骨心? そんなのがある刑事もいたんだよ。所轄の署長ですらそんな感じだ。権力なにするものぞってさ。でもたぐれるだけたぐって、揺さぶれるだけ揺さぶったのに反応なしだよ。まるで、なんて言うのかバラしたら世界の終わりでも来るみたいに口つぐんで」
乗り換え駅の売店で買ったヨーグルトキャラメルを片手のちまちました指で器用に開けながら茂木が言った。
「で、カメラは?」
はぁ、とため息が携帯から聞こえる。さしたる情報がなかったからだ。
「カメラねぇ。鑑識に切り込んだらね、カメラがあったことは認めたよ。んで本庁の柘植さん、あの人からつついてもらってね、見せて貰った。F4、下無しのF4にサンニッパ付いてたよ。指紋は本人ののみ。相当磨いてたみたい。レンズは新品みたいだったよ。ボディはあちこち傷あった。でも壊れちゃいなかったけどね。ちょっといじらせてもらったの。まぁ、内緒でね。
でね、フィルムは未露光だったってさ。ISO3200、もちカラーネガ。
カメラはね、開放で露出優先。コンティニアス・ローでマニュアルフォーカス。ピントは15m強。ストロボは鞄の中だったって。クリップオンの標準のね。鞄にはね、えっと・・・28−200のすごく短いヤツね、それと58ミリf1.2、金属フードの古い奴。あ、全部常用フィルターにフード付きだったってまぁそれは当たり前か。えっとそれとねぇ、何て言ったっけダークバック? 中版でよく使う簡易暗室ね。それとご丁寧に空港検査用のフィルムバック。単三電池の予備。あとは携帯電話と手帳だったけどそれはさすがに見せて貰えなかった。生徒手帳だね、あれは。
フィルムは400が6本、3200が2本。ベロ出し未露光。全部サブロクでネガね」
キャラメルを一つ口に放り込みながら茂木が聞いた。
「58ってことは純正だな」
「うん、あれだよノクト。今更非球面もないもんだろうけどねぇ、プラレンズの方がいいだろうにさぁ」
ホームに移動しながら茂木がつぶやいた。
「フレアとピン密度の問題だろ。開放にする覚悟あんだからさ。いいレンズだぜ、ありゃ。ま、あんたは記者あがり、俺はカメラマン崩れ。その辺の意見の違いはしゃぁねぇな。しかし、F4にノクトねぇ・・・。
んで他になんか気付いたことは?」
「ん〜と・・・」
吉田はとったメモを確認したが、他には書いていなかった。そうなれば記憶を掘り返すのみ。
「ストラップはメーカー純正の、例の幅広で黄色と黒のね。あとは・・・ファインダーは普通のだったね。スポットになってた。視度調整はちょいマイナスって感じだったな。アイピースキャップはなし。ピースシャッターもミラーアップもしてなかった。あとは・・・露出補正はしてなかった。オートブラケもなかったよ」
「視力は悪くない。機材のこだわるとこには徹底的にこだわるが、それ以外は使えりゃいいってタイプ。露出は開放固定の割り切りか。コンティニアス・ローってことは自分でピン合わせ続けるつもりだったのか・・・警備員が近くにいたか、だな。
アサ感は? マニュアル?」
茂木の言うアサ感とはASA感度のことだ。今で言うISO感度と同じもの。
「DXだったよ」と、吉田はオートであった事を伝えた。
「そりゃおかしいな」と茂木の声はくぐもった。
「は?」
「増感。するだろ普通。3200って粒子荒れる覚悟してんならさ、6400にすっだろ、F4のMAX」
「あ、なるほど、そうかも。あぁ、そうなら分かるね」
「フィルム、一回入れ替えやがったな・・・
ん、また連絡する」
「あ、じゃ俺は医者の方探り入れるから」
携帯を切った茂木は眉を寄せたまま、キャラメルをもう一個口に放り入れた。
3200を増感し6400にしていた。ストロボなしの自然光。レンズは常用をコンパクトズームで割り切り、微光量用にノクト、そして暗所望遠にサンニッパ。フィルムパックにダークバック。静音連写にスポット測光・・・。
電車に揺られる茂木の目に、あの右手が見えていた。そこにカメラの姿が入り、撮影者の性格までもが見えだした。画質なんていい、写ってさえすりゃ後処理でなんとかするって、割り切り型の記録重視タイプだ。間違いない。あの地下鉄工事現場には記録すべき対象があったのだ。報道されていない対象が。
茂木は次の手を考え始めた。
一人で考えたいことがある。そう茜たちに告げて帰ってもらった加賀壬はベッドに横になり、和紙で出来た奴(やっこ)さんを無意識のうちにくるくると回していた。
あちこちから来た電話によると、どうやら美咲会長が直接訪れたのは加賀壬の所だけらしい。まぁあれを直接と言うかどうかはこの際置いておくとして。
加賀壬はその理由を考えていた。自分が北村に一番近かったためだろうか? しかし、それなら中学からの親友、えっちゃんや野田さんの家に来たのはシュン先輩だというのが妙だ。しかも時間が異なる。美咲が来たのはよほど早起きし朝刊を読む人で無い限り事件を知らない。そういう時間である。つまり自分の所には事件が知られる前に来た。みんなの所には事件が知られた後である。事前と事後。やはり決定的に違う。
あり得るのは加賀壬が一番暴走しそうだ、と会長が踏んだこと。ありえすぎて悲しくなるほどだ。えっちゃん、こと皆瀬樹恵那は超常現象の可能性があるのに超常研が行動を起こさないという決定に憤慨していた。
「中野さんにも聞いてみたんだ。キタさん、会の先輩に相談するって言ってたって。きっと超常がらみだよ」
怒る皆瀬樹の声が蘇る。しかしそれでも彼女は超常研を動かそうと考えていた。それ以外は思いついてもいないようだった。そしてもう一つのポイント。「きっと超常」。そうえっちゃんは言っていた。それはつまり、シュン先輩が詳細を説明していないってこと。いやもしかすると。シュン先輩すら詳細を知らないということ。
加賀壬は思い至った。自分だけに会長が来た。自分だけに警告を発した。そして自分だけに事件が超常現象であると暴露した。
そこから導き出されること。美咲会長の意志。
「あなたにだけ、ここまで内情を教えたのです。それでも軽率な行動をするようであれば、あなたは私の敵です」
だが。それと同時にもう一つの可能性も見えていた。
「動けない私に代わり、会を抜けてでも解決なさい。私の妨害を乗り越えて」
会長はそのまま美咲だ。自分が動けるはずがない。
会長は最後に言っていた。「心からのお願いです」。それまでの平坦な口調とは明らかに違うもの。言霊をそのままに現したあの台詞。あれは本心だったと信じたい。ならばこういうことか。
「会を抜け、私の妨害を受ける立場になりなさい。けれども敵にはならないで」
本当にそうだろうか? そんな事言われるほど、自分がすごい奴のはずもなし。やはり迂闊に動くなと警告しただけではないのか。よしんば動けと言ったにしても。自分にそんな事ができるだろうか? たった一人で。
「ん〜、ちょっと違うな。少なくとも二人だ」
前原静音。彼女は共にある。加賀壬がどの選択をしても必ず。
「悩め、迷え、吟味しろ、か。んもぅ言っちゃってくれるぜ、お静さんよぉ」
加賀壬は奴さんをぽん、と投げると、それが舞い落ちるのを見つめた。
そういえば・・・。会長が自分本体で来なかったのはマスコミのチェックが厳しいからだろうか。それとも、忙しくて来られなかったのか。どちらにせよ、電話ではなく、肉声で、表情を伴って伝えたかったのだろう。最初は電話だったのだ。でも電話では伝えたくない、伝えられない。だから姿を作った。それこそ、妨害を乗り越えて。
だとしたら。それはそのまま言霊を伝えに来たと言える。そして私の表情を、そして言霊を確認したかったと言える。
加賀壬は思考がそこに至ると、がばっと跳ね起きた。
「絶対まりちゃんを助ける。決めた!」
第四章
本町4丁目の交差点に立ち、加賀壬はしばし悩んでいた。ストライプ模様のTシャツにキュロット。大きなサンバイザーを目深に被り、ベルトポーチという姿だ。もちろん探索アイテムは何も持っていない。霊水と清めの塩くらいは持ち歩きたかったのだが、万一それらが世間に知れてしまった場合、誤魔化しようがない。手帳もいつものではなく、新年に行きつけの本屋で貰ったまま、袋から出しもせずにほおっておいたものを持った。開けてみたらちびっこい鉛筆も付いていた。表紙にでかでかと書かれた年号がちとださかったが。
学校に行くことになるかも。そうは思ったが制服を着るのは避けた方がいい。素性がばれるから。名前がばれる物もだめだ。そのため定期入れを置いてきたので、電車代が痛かった。スタンプカードやレンタル屋の会員カード、そしてレシートを外してみたら、財布はぺらっぺらだった。今月ピンチだったが、大ピンチになりそうな予感だ。
ここから南に下がれば中野の家がある。だが、そこはマスコミの集団が二重三重に待ちかまえているような気がする。北村の自宅も同じだろう。それに、皆瀬樹の話では、中野恵子はかなり精神的に参っているらしい。父も母も入院だ。兄に至ってはとんずらこいたらしい。そしてマスコミ攻勢。今は避けた方がいいような気がする。
ここから西に向かえば工事現場。そこもマスコミだらけだろうし、どう考えてみても現場まで入れるはずがない。新聞で見たフェンスは加賀壬が乗り越えられるとは思えない程高かった。
ここから北に行けば、ちと回り込むことになるが学校の方だ。だが、学校に行って何かあるだろうか?
ここから東に行けば・・・駅だ。今来た道ともいう。だめじゃん。加賀壬は早速挫折しそうになった。
とりあえず日陰に行こう。暑さにうだっていた加賀壬は文房具屋の軒先に入った。まずは場所的に考えよう。情報を見いだせそうな場所。
1:中野のマンション
2:工事現場
3:
・・・・・・。3ないじゃん;;
これではダメだ。では情報ソース的に考えてみよう。
1:中野恵子
2:恵子の母
3:
・・・・・・。やっぱ3、ないじゃん;;
振り出しに戻った。
中野母は病院だ。今朝のニュースでは昏睡、とあった。ならば情報源は中野恵子からの聞き込み、そして工事現場での調査。それしかなさそうだ。会長の話では北村は相談を受けに行ってそのまま事件に巻き込まれた。つまり中野家に行くまで北村自身も何があるのか知らなかった。それでは北村の家族からも自室からも何も出ない。
中野恵子に直接会うのはまずかろう。ピザ屋の出前のふりして、なんてのは無理に決まっている。ならば電話か? でも盗聴されていたら。それにきっと電話が鳴り続け、疲れているのではないか。同情してしまう加賀壬は強気に出られなかった。
と、そこで基本的な事に気が付く。中野恵子、家にいるのだろうか? 親に付き添って病院にいる方が確率高そうだ。諸処雑多考えた結論。皆瀬樹に携帯番号を聞くのが一番だろう。だが何と言って? これがあまりに難しく、加賀壬はいい言い訳が思いつかなかった。加賀壬に次いで暴走しそうなのは皆瀬樹だろう。しかし、彼女は会に内緒で動くことを思いついてもいなかった。半日前の加賀壬のように。美咲会長のマークもきついだろう。協力は難しい。
よし、ダメもとでいいや、現場行ってみよう。加賀壬は面倒なことは先送りにしてやっと行動を決定すると西に歩き出した。
じりじりと日差しの照りつける道。日よけになるものはぽつん、ぽつんとある街路樹だけ。しかも枯死寸前である。暑い。暑すぎる。
加賀壬の歩みはてくてく、からふらふら、になり、今やよろっである。このまま行ったところでどうせ中には入れやしない。その思いがじりじりと心の中を、そして日差しが外を。
あかん。これじゃ倒れる。
加賀壬は奇跡の様にそこにあった屋根付きの自販機コーナーに近寄り、今や貴重な軍資金から千円札を出し、スポーツ飲料を買った。小銭が一気に増えて財布は膨らんだが、中身は痩せた。まぁ仕方ない。ぐびぐびと冷えたレモン風味生理食塩水を喉に流し込みながら、この買い物は命を買ったのだ。そう思うことにした。
空き缶はくずかごへ。その文字のとおりにしたかったのだが、プレートの張られたプラ製のゴミ箱は一杯だった。仕方なくその脇に置いておく。さて、と。そうつぶやいた時だ。3台の大型トラックがすぐ側の信号で止まった。むわっとする熱気と排気ガスで加賀壬は泣きたくなった。前の二台は鉄骨を満載している。最後の車は荷台に幌がかかっており足場に使うのだろうか、金属の支柱が何本か突き出ていた。地下鉄工事現場に行くのだろう。
その考えが浮かんだ途端、加賀壬はふらっと歩き出していた。車道とを遮るガードレールは丁度そこには付いていない。自販機に立ち寄るドライバー目当ての隙間。それがそこにある。そうだ、自分は自販機コーナーのついたての陰にいたはずだ。運転手からは見えていないだろう。そして今も死角のはず。素早く道を見回す。トラック三台以外、目にとまるものはない。幌付きの荷台は高いが、登れないことはなさそうだ。しかも、それは目の前にある。すっとトラックの真後ろに立ち、支柱に手を伸ばす。これに乗ればきっと地下まで行ける。どこかで停まった時に飛び下りればいい。よし!
とその時だ、その支柱に小鳥が舞い降りた。ぎょっとする加賀壬。思わず歩道に戻ってしまった。その小鳥、セキセイインコが加賀壬を片目でじっと見つめている。何か本能的な恐怖に襲われ、身動きできない加賀壬。信号が変わった。トラックは騒音と共に走り去ってしまった。呆然とそれを見つめている加賀壬。その背に声がかけられ、再度ぎょっとした。
「愚か者!」
甲高いその声に、びっくりして左右を見回す。だが声の主は見あたらない。あたりをきょろきょろ見回した末に、自販機の上に留まっているセキセイインコを見付けた。
加賀壬の家は狭い。いきおい、ペットも限定される。犬も飼ったことはあるが近隣の大迷惑だった。庭が名ばかりの狭さだったから。そのため飼うのはみどりがめ、金魚、文鳥にじゅうしまつ、そしてインコ等となった。特にオパーリンブルーのおしゃべり手乗りインコは加賀壬にとって大の仲良しだった。それまでにナミセキセイとルチノーも飼っていたが、加賀壬にとってセキセイインコとはやはり一番仲のよかったオパーリンブルーだ。
今、目の前にそのオパーリンがいる。青を主にして頭部が白。その涼しそうな色合い。鼻の色も青みがかっているのでこれはオスだ。目が顔の両サイドに付いているのでものすごく視野が広く、見つめる時には片目だけ向けて見る。うん、これはセキセイインコだ。でも・・・おしゃべりインコにしてはその発声はハッキリしすぎていた。
「軽率な行動をとるな、と美咲に言われなかったのか?」
この口調。まるで倍速ビデオのように音程が一段跳ね上がってはいるが・・・この口調は・・・
「せ・・・んせい?」
それは香土岐の使い魔、ぴーちゃんだった。
とぼとぼと今来た道を引き返す加賀壬。そのベルトポーチにはぴーちゃんがすっぽりと入っている。加賀壬にはどういう仕組みなのかは全く、皆目、ぜ〜んぜん見当もつかなかったが、ぴーちゃん自身が香土岐の結界をまとっているらしい。故に言葉を発することもなく会話が続いている。
[妙な奴がいると思ったらお前とはな。あきれ果てて何も言えん]
[あはは・・・は・・・。いやぁ、妙と言えば先生の方が。ずいぶん小さくなりましたねぇ・・・]
「・・・・」
[は、はわわ、どうしよう、えっと、とにかく謝っちゃえ。す、すみません]
[こんな時にくだらん切り返しするのは、もうお前の特技だな]
[う・・・。えと、あの先生こそ何で?]
[お前。私が誰から金を貰っているのか、理解していないのか?]
[え? えと学校の先生でしょ、教育委員会? 県? 文部・・]
[おろか・・・もの・・・]
[はわわ、この状況は私、めっさ不利っすよ先生、考えたこと全部ばればれじゃ・・・
あ、そか! 先生は本条先輩に雇われた術者だったっけ。そか、本条のおうちのお仕事で監視・・・か・・・]
[で、ひっかかったのがお前とはな・・・]
[ど、どうしよう、何て言おう。えっと、わ、わたし、私はですねぇ、えと学校に行こうとして。いつもと違う道歩いてみようかな〜って。んでそしたら変なとこ歩いてて、そんで・・・
って、考えてることバレてたら意味無いですね、このいいわけ]
[・・・]
[うぅ・・・]
[よく分かった。お前はショックのあまりふらふら街を彷徨っていたのだな。で、私が呆れかえって声をかけたのだ。そうだな]
[は? は・・・はい・・・。
えと先生? あ、あの・・・私・・・]
<それ以上考えるな!>
突き刺さるほどに厳しい思念。今までの声のない会話とは全く別種の強い意志が加賀壬の脳に直接触れた。思わず立ち止まる加賀壬。足だけではない、思考も凍り付いた。
<今の私は本条側の者だ。本条に、その目的に敵対する者は排除する。そうせねばならない。私に見せるな、聞かせるな!
知った以上、知ってしまった以上、私は行動を起こさねばならん。知らせるな加賀壬、意志を深く沈めろ。表層に浮かべるものと分けろ。私とこれまで共に過ごした時間。その間にお前はその方法を知っている、いや覚えている。意志を静め、鎮め、沈めろ加賀壬>
[覚えている? 私の・・・]
加賀壬の思考は静かに沈んだ。香土岐の結界が影響するより深くに。図書室での講義とおしゃべり。その間、加賀壬の心はだだもれだったが、美咲と香土岐は「会話」を成していた。つまり「思考」を静かに行い、その一部を「会話」として表層に出していた。そう、それは知らなければ決して出来る事ではないのだが、知っていれば簡単に出来た。表層に会話として出す意志。そして沈めて成す思考。その二つの相違。キーポイント。それは・・・
<言霊の有無>
<よし、お前にしては上出来だ>
加賀壬の思考がそれを理解した。自分の頭の中で思考する。それは言霊をそのまま並べる行動だった。対して表層にだすものは言葉。言霊の有無。それを加賀壬は理解した。いや、ずっと前から理解していたのかもしれない。今まで気づかなかっただけだ。図書室での異様な「会話」、そして前原との「二にして一」の時のあの高揚感。それを経て、加賀壬は今それを意識的に成し遂げていた。
再び歩き出しながら加賀壬は錬った言霊から対応する言葉を選び、思い浮かべてみた。自然とそれは普通の会話の呈をなしていた。
[こんにちは]
[・・・]
[今日は暑いですね]
[・・・二の句が継げん、とはこの事だな]
[あはは。いや、まぁご挨拶がまだだったな、と]
加賀壬は言葉を浮かべるという練習を終え、聞きたかった質問を発した。
[先生は事件の真相をご存じですか?]
[美咲と同程度だ。原因については知らん。私も術者だからな]
美咲と同じ。その言葉から加賀壬は連想したものがあった。ふっとそれが表層に浮かびかけ、慌てて手で口を押さえる加賀壬。
[愚か者・・・]
そうその行動は愚かそのものだった。口に出していたわけでもないのに口をふさいだのだから。しかし、その印象には近いものがあった。考えを思わず口に出す。思考が表層に出かかるというのはそんな感じに似ていた。
[だんだん、分かってきた]
そう表層に出しながら、加賀壬はさっきの連想を思考した。今の香土岐の状況。不審者を排除すると言い、加賀壬がその不審者になることを邪魔した。いや、救った。「知らせるな」。その言葉。美咲の今朝の言葉。阻止する。だが「敵にさせないで」。それは香土岐と同じ意味だったのではないだろうか。まぁ香土岐と美咲では「敵対者への阻止行動」の意味というか、危険度がまるで違うのは薄々分かっているが、ポジションとしては同じなのだろう。そう加賀壬は理解した。
つまり。香土岐も妨害者なのだ。加賀壬がこの道を選んだ以上。だが、彼女も本当は「敵」にはなりたくないのだ。「妨害」と「敵対」の隙間。その糸のような道を歩まねばならない。それを悟り言葉も思考も沈黙する加賀壬。
ぴーちゃんが狭いポーチの中で首をくるっと180度回した。寝る時にそのポーズになる事も多いのだが、今は違った。背中の羽づくろいを始めたのだ。
[暇だな・・・
うむ、一つ話をしてやろう。私がまだ師匠について間もない頃だ。師匠が弟子たちに命題を出した。元がどんなものかは知らないが、私たちには
「法と混沌と王家の墓」という名で知られているものだ]
暑さにうだる道をとぼとぼと、駅前方向にまた歩きながら加賀壬は香土岐の話を聞いていた。
[王家の墓は大きな森だ。縄が柵として張られており、王族しか入ってはならない禁断の森。その脇を犬の散歩をする親子が歩いていた。母とまだ幼い少年。突然犬が森に飛び込んだ。ウサギを見付けて追いかけたのだ。母はその禁断の柵で足を止めたが、息子はそれを越え、犬を追っていった。時刻は夕刻。母は声を限りに息子を呼んだが、犬の声も息子の声も帰っては来ない。もうまもなく夜になる。
お前はその母だ。お前ならばどうする?]
加賀壬は歩きながら考え込んだ。この命題の名は法と混沌と言っていた。それはつまり、息子を助けに柵を越えるのが混沌、そして王族に助けを求めに走るのが法、ということだろうか。その母も王国の民なのだろう。ならば組織の規則・決定に逆らうか否か、であろう。それは加賀壬の今の立場にあまりに即しすぎていた。
しばしの混乱。だが、そこで加賀壬は今覚えたばかりの方法でその混乱と思考を分断してみた。今、加賀壬は自分の姿にその母をだぶらせている。それを表層に押し上げ、母そのものになりきる。それを静かに考えてみた。
見つからなければ万事OK、そういう声も聞こえた。王族に助けを求めても、禁を犯した息子は処罰される。なら見つからなければ・・・
しばらくそのまま歩き続ける加賀壬。その表層に浮かんでは消える断片で、思考の道を予想する香土岐。
3ブロックも歩いた頃。徐々に町中の喧噪が戻りつつある中で、加賀壬はやっと答えを示した。自分の選んだ答えを。
それを聞き、[ふっ。お前らしいな]と語る香土岐の声には笑みがあった。
[覚えているか? 最初に会った時。図書室の前でお前に与えられた選択]
[当然ですよ、あれは私にとっては究極の二択でしたもの]
[だがお前は第三をとった。お前らしいな、実に]
[褒められてるのかけなされてるのか微妙ですよ・・・
あ、もうこんな所?]
加賀壬は前方に見覚えのある文房具屋を見付け驚いた。かなり長いこと考え込んでいたらしい。
[あれ四丁目の交差点ですね。えと、私はショックのあまり、ふらふらと街を彷徨っていたんですよね。でもここからなら知ってます]
立ち止まった加賀壬は表層に言葉を浮かべながら、そこに思いを注いだ。<ありがとう>。そして<ごめんなさい>。
言葉に別の言霊を込める術(すべ)。それを加賀壬が得た事を知り、香土岐の結界がふっと優しげな色に染まった。
[お前は本当に出来の悪い生徒だ。だが私の講義を受けている以上、お前は私の弟子だ。師として、迷うお前に言葉を贈ろう。
いいか、万物全ての物は単独で存在しているのではない。1,2,3と並ぶ数字があるとしよう。その2が12になったなら。それは即座に波及する。11,12,13になるのだ。お前の行動が周囲に及ぼす影響を考えろ。軽率な行動はするな。考えろ、お前が投げかけるその波紋を]
ベルトポーチからぴーちゃんがもそっと顔を出した。そのまま羽を広げ、パタパタと音を立てて舞い上がった。早くも夏色に染まった青空をバックにその姿が一瞬金色に変わり、そして消えた。
加賀壬は受け取っていた。香土岐が語らずに伝えた意味を。自分の行動で波紋が起きる。しかし、それは起きるだけではない。起こせるのだ。自分の行動で、他者を動かすこともできるのだ。その危険性、その責任。それを背負う覚悟なしで、「2」である自分が「12」になろうはずもない。香土岐の言霊を加賀壬は自分の言霊に置き換えた。
<望む波紋を起こす、その責任・・・>
第五章
東地区管理センター。地下三階にある小ホールで、茂木は田村課長とのインタビューを進めていた。
「そうです、ここもいずれは取り壊される事になりまして。列車運行は統合管理センターが行いますからね。まぁいわば縁の下の力持ちですよ、ははは」
「二年後ですよね? 運行開始から1年以上存続するのは、やはり初動の危機回避ですか?」と聞き手の茂木は妙に愛想がいい。取材用の笑顔も浮かべている。こうしているとただの下請けライターだ。
「はい、それもあります。ただ、それよりも地下モール街の建造は進行してますので、そちらの方に仕事が切り替わっていくんですよ。それで二年後にお役目終了、ということになっています」
二本の環状線。それを結ぶ地下通路に大規模なショッピングセンター、緑地帯、そして実験的ながら地下農場も予定されている。用地買収が遅れたため、全ての同時完成は机上の空論になって久しかった。
課長の田村は広報課の説明係だ。そのにこやかな口調には淀みが無く、茂木としては職業上よく見るタイプの男だ。元々東地区管理部に取材を申し入れたのに、あてがわれたのは一条電鉄本社勤務のこの男だ。今朝の事件で対応が慎重になったのか、あるいは真声ネットがやばいと感じたのか。
「そう言えばモールの駐車場、立ち退きで何かあったようですね」
茂木は軽くジャブをかけた。元々吉田が目を付けたのは用地買収がらみだったからだ。
「先祖伝来の土地を離れるのはやはり大変な決意なのでしょう。円満解決を迎えられて大変嬉しく思います」
「かなり苦労されたようですねぇ。初期同意組と最後まで反対した三軒。その同意額の格差がかなりあったと聞いていますが。結局は粘り勝ち、ですかねえ」
「その間に四年もありますからね。地価も物価も生き物ですから。その実情に合わせた結果、額面としては差が出た、ということですので」
笑みを浮かべながら軽く流す田村。その地価の高騰自体、一条の作為的な物ではないかと吉田は睨んでいるようだが、今はまだ口に出す段階ではない。茂木はそのまま話題を用地買収に絞って質問を続けていった。
吉田が取材を申し入れたのは一月以上前だ。粘った結果、一週間だけだがプレスIDを入手した。今朝の事故のために、IDが停止になっているのではと不安もあったが、取材自体は全く予定変更無く行われている。そこに一条の余裕を見、茂木は憎らしく思った。人が二人重体である。しかしそんな些末事は大事業の前になんらかげりを落としてはいなかった。
茂木はその事件については一切口にせず、当初申し込んでいた取材内容のみに絞ってインタビューを総て終えた。予想通り何も得る物はない。だが、茂木にとって今日の取材はこの東地区に入る、それが一番の目的だった。
そろそろ昼食時だ。食堂で耳を澄ますのも取材の一つ。そういう言い逃れを用意して、茂木はエレベーターでさらに地下に下りた。現場にいる以上、本社でいつでも面会できる管理センターの事務屋の噂を聞くよりも、第一線で労働する男たちの中に入るべき。またそういう言い逃れを用意し、東二地区に向かう通路を歩いた。
プレスパスにはIDが埋め込まれている。紫のラインの入ったそのパスでは同じ色のマークの付いたブロック、施設しか利用できない。今歩いている通路には赤青白茶緑紫に黄桃色と多彩なマークが並ぶプレートが下がっていた。つまりは一番重要でない、ということだ。
ところどころ、脇道やドアに赤青白だけのプレートが付いている。そっちに入ったら即通報、警備員とご対面、ということ。茂木としてはここから放り出されることは避けねばならない。強攻策で得られる物よりも失うものの方が多い。今はそういう段階だ。
二区に入った。さすがに今朝の影響だろう、あちこちに警備員が立っている。黒スーツが固めている大きなドアもあった。そのプレートは赤白のみ。E2第四動力制御室とあったので、どちらかといえばテロ対策なのかもしれない。こういう重要設備がなんの変哲もない通路に直接つながっているのは工事現場の醍醐味だ。その混沌は茂木には心地よい。
食堂を探しながら周囲と頭に入れてある地図とを組み合わせ、自分なりの地図を書き込んでいく。このパスでは五時には退出しなくてはならない。それまでに何か見つかるだろうか。茂木は歩き続けた。
大きな自動ドアを越え、加賀壬はインターフォンの前に立った。部屋番号を押すビル共有のものではなく、入居者それぞれに専用のインターフォンがずらりと並んでいる。その一つを押した。チャイム音が響く。しばらくして。声がスピーカーから流れた。
「今行くね」
やがて現れた神宮司しずくはかわいらしいデザインでピンク色のシャツに水色のデニムボトムだ。彼女に迎えられ、エレベーターに入る加賀壬。
思い悩んだ末、加賀壬が訪れたのはつばさの家。その相手当人は半分寝こけていたらしく、よだれの後もある。しずくに連れられてリビングらしき部屋に入ってきた加賀壬を見て、意味ありげな冷笑を浮かべるところはいつもの彼女だったが。
こぢんまりとしたテーブルに座る白衣のつばさ。正面に座る加賀壬。二人は言葉もなく睨みあっている。しずくがほうじ茶を運んできた。まず加賀壬に、ついでつばさ、そして自分。お茶が置かれてから三人がテーブルに着いた。
沈黙。それを破ったのは加賀壬だった。
「北村さんの事件、知ってるよね?」
返事も待たず、加賀壬は語り続ける。
「地下鉄工事現場で超常現象に遭遇して、今入院。魔性の痕跡がないので超常研としては行動なし。さらにマスコミが集まってるので、魔性侵入の実態を暴かれないようにと、会員に勧告が出たわ。軽はずみな行動したら除名だって。地下鉄工事現場に入るとか、依頼者たる中野恵子さんから事情を聞くとかだろうね」
加賀壬は湯飲みを手にした。室内はひんやりとしていたが、まだ体の熱気は抜けていない。そこに熱いお茶。ふーふー息を吹きかけ、一口すする。ほうじ茶は久しぶりだった。いい香りだ。もう一口。その後でこう言った。
「工事現場入る方法、なんか浮かばない? それと中野恵子って子の携帯番号知る方法。なんか知らない?」
しずくは何も言わずお茶をすすっている。つばさも一口すすってから、加賀壬の質問には答えずに別の問いを発した。
「脱会届けでも出してきた? おば研の後ろ盾なしじゃ何も出来ないあんたが、友達救えるの?」
ふぅ、と一呼吸入れて。加賀壬が答える。
「脱会はしないよ。あたしとしては超常研の活動も今やろうとしてるのも同じ事だもん。ま、クビになったら仕方ないけどね。んで超常研のバックアップないからさ、一人じゃ無理っぽいから」
「夕べこっちからの提案、それも譲歩しまくったのを蹴って置いて。今日はそっちから? あんたにこそ、身の程知らずってレッテル、返すわよ」
二人は互いを見ることもなく、何気なくテーブルに視線を置きながらお茶をすすっている。また沈黙が下りた。湯飲みが半分ほど軽くなったところで、加賀壬がそれをことん、と置いた。両手を膝に乗せる。
「お願い」
頭は下げなかった。しかし、その目はつばさを見つめた。視線を感じて顔を上げ、その目を見つめ返すつばさ。眉が寄せられ、複雑な表情になった後、目を逸らせたのはつばさだった。
「そう来たか」
吐き捨てるようにつぶやき、自嘲の表情になるつばさ。あんな事書くんじゃなかった。そう思っているのがありありと見える。
「これでおあいこだよ。こっちだって、あれにはどびっくり〜〜って感じだったんだから」
加賀壬は目をそらし、またお茶をすすった。つばさは、しずくとお揃いの湯飲みを置き、目を逸らしたまま告げる。
「ギブ&テイクなんてのはね、対等な相手とするもんよ普通。ま、でもこの一件終わらせないと私のMk.IV、出番が遅れるからね。
じゃ、ちゃっちゃと終わらせちゃいましょ」
加賀壬はうなづいた。そこで、それまで黙っていたしずくが口を開く。
「全部は無理だけど、加賀壬さんが潜入してる場所の監視システム寝かせるのはできるよ、GPSで位置測定して。あそこなら本条精機経由で簡単にもぐれるから。直通回線あるもの。
携帯番号は契約者データ見るのが確実だけど、会社もどこだか分からないでしょ? ハッキングは時間かかるし足跡残すと危険。それよりも、北村さん? その子の携帯の着信履歴かメモリ見た方が早いよね」
加賀壬もつばさもきょとん、としてしずくを見た。彼女は残り少なくなったお茶を飲み干すと、妹に質問する。
「つーちゃんとこも学校のサーバー、個人領域使って授業してる?」
「うん、してるよ」
「じゃ北村さんだっけ、その子のデータ、アクセスしてみたら? つーちゃんの学校は知らないけど、うちのクラスの子、携帯買換用や壊れちゃった時のためにバックアップ、入れてるよ、普通」
途端に怪訝そうな顔になるつばさ。
「学校みたいにセキュリティーLv低いとこに、個人情報なんか入れないでしょ?」
その言葉を聞き、それをしている加賀壬はびっくりした。
「そ、そうなの? パスワードあるけど、それでも危ないの?」
今度びっくりしたのはつばさだった。一回こいつの領域のある部分、全部0処理化してやろうか。ふとそう思った。
「はいはい、じゃそれやってみるか。その子があんたくらいボンクラだったらいいんだけどね」
つばさのその言葉を聞き、むっとした加賀壬がさっと手を伸ばし、つばさの白衣の襟元を掴んだ。
「お前なんか、お前なんか茉莉ちゃん知らないくせに、悪口・・・」と、言いかけた言葉はしずくの声に遮られた。
「家にパソコンない子はそこしかないでしょ? それにあっても念のため、入れてるんじゃない? 学校帰りに使えないと困るから」
つばさと加賀壬は、またきょとんとしずくを見た。彼女は立ち上がり、妹に声を掛けて立ち去った。
「工事現場入る準備、するね。つーちゃんはまず学校のサーバ」
「う、うん。分かった、くーちゃん」
毒気を抜かれた二人はしずくの去ったドアを見つめていた。
「なんか、似てないね、あんたら」
加賀壬が手を離す。白衣の襟をぴっと直してつばさが怒りの口調を発する。
「くーちゃんの事知らないくせに勝手な想像しないで」
言ってから、しまったと思ったのがまたありありと顔に出る。つい先刻、北村の事で逆に言われたばかりだったのにと。だが加賀壬は別につっこまなかった。今はやるべきことがあるからだ。
つづく