<超かいき★くえすと>くえすたぁず

 

第二十三話:加賀壬さん号泣す

 

von:秋澤 弘

第一章

 深夜。エレベーターを降りた北村はそのドアに向かいながら考えていた。チャイム鳴らさずに、ノックだけで気づいてくれるといいんだけど、と。しかし、それは杞憂に過ぎなかった。彼女の足音を聞きつけ、玄関で待機していた中野がひょこっと顔を出したのだ。
 「こばん」
 「い、いらっしゃい」
 軽く挨拶を交わし、北村は中野宅におじゃました。
 玄関は記憶にあったとおりだ。靴箱の上に乗った木彫りの熊もそのまま。靴を脱いで「おじゃまします」と声を掛けると、奥から中野のお母さんが姿を現した。
 「夜遅く、ごめんなさいね。この子ったらこんな時間によそ様の娘さん、歩かせるなんて」
 「あ、この時間指定したの私ですから、その、準備してたので。すみません」 
 「えと、お父さん寝てるから。こっちで」と、恵子はダイニングを手で示した。
 中野の家は夫婦に娘の恵子、三人で暮らしている。以前おじゃました頃にはまだ恵子の兄とお祖母さんとの五人暮らしだった。兄は東京に就職、祖母はこの春亡くなったという。ダイニングで席を勧められながらその話を聞いて、北村は恵子のお祖母さんを思いだした。すごく小柄で、いつもにこにこ笑っていたその姿を。
 「もう本当に最期まで子供みたいだった。最後の言葉なんか、公園行きたかった、だもん」
 「そうだったんだ。知らなかった。あ、お焼香・・・いいですか?」
 中野母がちょっと困った顔になった。
 「あ、仏壇のある部屋で寝てるのお父さん」と、恵子が説明する。寝ている父を気にしてか、その声はいつもよりもさらに小さい。
 「ああ、そなんだ。じゃ、その、今度で」
 席につく三人。恵子が煎れたお茶を一口すする北村。中野母は暗い表情を隠し切れていない。自分の夫の奇行を他人に見せたくないからか。あるいは看病疲れからか。とりあえず一番心配していたノイローゼという事態はないようなので、ほっとする北村。
 会話の発端を探していた中野は、北村が隣に、父の椅子に置いた大きなカメラを話題にした。
 「でもキタさん、相変わらずだね大っきなカメラ。っていうか、スケールアップしてない?」
 「えへへ。いいでしょ。買ったばっかりなんで、持ち歩いてるの。見せびらかしてるって言ってもいいかも」
 中野が話題を求めているのを感じ、北村も明るく答えた。
 「高校でも、やっぱ写真部?」
 「うん。もう速攻で入部しちった。それと、超常現象研究会に。そこが仕事人のとこ」
 北村は笑顔のまま中野母に向き合った。
 「私たちは主に学校内で起きる、常識では説明できない事象を研究してます。まぁ大抵は単なる噂だったり、人の話に尾ひれが付いたりですけど。他にも思い違い、見間違いはもちろん、勘違い、あるいは偶然が重なって、別のものに思えたりって事がほとんどです」
 本題に入ったことに気づき、中野母娘は黙って聞いていた。
 「でもごく一部、本当に一部ですけど。超常現象も確かにあります。まだ入会したてですけど。この目で幾つも見てきました」
 中野家が引っ越してきた以上、美咲の一族に関してはあまり深く知らないだろう。北村はそう考えた。地元民なら美咲がらみで話を進めれば簡単なのだが。しかし、超常現象について、何も知らない人に説明するよりは楽だろう。北村や中野が通っていた中学。あそこで起きた事件をその親が知らないはずはないのだから。そこで中野母の信頼を得るために、仕事人がらみで話すことにした。それが北村の結論だった。
 「西中の、あの嫌な出来事。あれもそういった超常現象の一つでした。そして、それを解決したのがうちの会の先輩たちです。あの頃、私たちは仕事人と呼んでましたけど」
 北村の言葉に無言で頷く恵子。母はクッキーの入った皿を娘たちの方に寄せながら、黙って話を聞いていた。
 「私は、えっと、私たち新入生は今先輩たちから超常現象への対処方法をいろいろ教わってるところです。実際に幾つかの事例に立ち会い、その解決の場にいたこともあります。あ、私が解決したわけじゃないですけど。会員の協力で、みんなで解決してきました。
 そんな中で分かったんですけど。他の人から見たら常識外の行動でも、本人からすればごく自然な行動だってこと、多いんです。当人は何かの思いこみ、暗示、そういったもので、その行動が正しいって信じてるんです。その結果、誰も気が付かないうちに事態は進行しちゃうんです。ほんのささいな出来事が大きな災厄を招くこともあります。本人がその行動に不安を持っていないから、そこから巻き起こる混乱に思いつきもしていないからです。
 でも、なんというか単にストレス性の行動、ノイローゼとかですね、そういう場合ももちろんあるわけです。
 大事なことは本人の自覚がない以上、周囲の人がその行動をよく見ることだと思います。常識外の行動をする人に必要なのは休息なのか、医者なのか、あるいは仕事人なのかを知るために」
 北村が言葉を切っても、中野母娘は黙したままだった。とりあえず、沈黙は了承。そう考え、北村は事件のそもそもの始まりから話をもう一度聞くことにした。

 やがて深夜2時まであと10分という頃になった。三人は小声で話を続けている。
 「うーん・・・本人にその記憶がないのが一番気になりますね・・・」
 時間限定の憑依かもしれない。しかし、今それをここで言い出すのはまずかろう。北村は推測を飲み込んだ。
 「夢遊病か一時的な二重人格症状だって。先生がいうには」
 恵子の言う先生とは医者のことだろう。確かに精神症状の可能性も高い。自分の職場に向かうのだから脅迫概念に至るほどの症状なのかも。しかし、北村には最初に中野父が発見された場所も気になっていた。
 ダイニングテーブルには青地図が広げられている。そこは町はずれの河川敷のそば。確かに彼の担当区域であるが、職場の同僚の話だと、まだレールも仮設状態なので、視察にいった程度だという。彼らは手分けして歩いたため、その日彼がどういったコースを歩いたかは分かるが、そこで何か起きたのか、それは同僚にも分からなかった。とにかく、視察に行った夜、正確には翌早朝、彼は寝間着のまま現場に赴き、進入を関知した警備員に発見されたのだ。その時、中野父は仮設されたレールの脇に正座姿で座り込み、ぼーっとしていたという。警備員に肩をゆらずられ、そのまま崩れ落ちたため救急車、という事態になったようだ。そして目覚めた彼は自室で寝ていた以降、何の記憶もなかったという。
 北村は操られた生徒たちを思い浮かべた。彼らもきっとそうなのだろう。さらに、自分自身が中学での事件の際、なぜか登校しなくてはならない、そういう気持ちになっていたことを思いだした。
 これはまずいかも。
 北村はそう思い、姿勢を正すと中野母に真剣な表情でこう告げた。
 「少しですが。心当たりがあります。やはり会の先輩に相談してみたほうがよさそうです」
 青ざめる母。俯く恵子。その時、奥で物音がした。続いてドアの開く音が。ぎょっとする三人。恵子が立ち上がり、母が机上の地図を手早く畳んだ。北村はゆっくりと振り返った。のれんをひょいっとどかして姿を現したのは話題の中心、中野雄哉だった。
 「お?」と客を見つけて驚く彼。
 北村はすぐ隣にいる恵子がほっと胸をなでおろすのを見た。どうやら例の症状ではないらしい。
 「あ、おじゃましてます」
 立ち上がり、ぺこりと頭を下げる北村。
 「いや、こりゃ失礼、こんな格好で」とパジャマ姿で頭を掻きながら赤くなる中野父。
 「何か食べます?」と母がエプロンをつけながら聞くが父は首を振った。
 「いや、トイレに・・・」と照れ隠しの笑みを浮かべる。
 「お父さん覚えてる? 中学の時一緒だった・・・」
 恵子が言い出すのに合わせてまたお辞儀をし、自己紹介する北村。
 「北村です」
 明日から連休だ、今日はお泊まりに来ていることにすればいい。そう考えながら顔を上げた彼女は、ひっという短い悲鳴に動きを止めた。次の瞬間、別の声がした。
 「き、きぃ・・た・・むぅ・・・るぁ・・。きぃたぁむるぁぁぁぁぁぁあああああああ!」
 それは絶叫だった。見上げた中野雄哉の顔。そこにあるのは先ほどの恥ずかしさでも、怒りでも狂気でもない。それは、そう歓喜。一面の歓喜だった。
 「きぃたあむうるぁぁぁ!」
 叫ぶ父に、母が飛びかかる。真横に動く父の腕。壁に頭から叩きつけられる母。走りだす父。母に駆け寄る娘。一瞬だった。
 「おかぁさん!!」
 娘に抱きかかえられ、額からどくどく血を流しながらも、母は父の走り去った方、開け放たれた玄関に向けて手を伸ばす。その苦悶の表情を見て我に返った北村はバッグとカメラをかつぐと、玄関に走った。

 外に出ると階段を駆け下りる音がする。北村はエレベーターに走りながらドンケのバックから携帯を取り出した。焦る指でボタンを押す。エレベーターで一階に下りると郵便受けで中野家の部屋番号を確認し、建物から走り出して振り返り、マンションの名前を携帯に叫ぶ。
 携帯をまたバッグに押し込み、北村は大通りに走った。母親の方はこれでよし。救急車に任せればいい。なら、次は父親だ。
 こうなると望遠レンズのついた愛機は単なる荷物だ。重い事この上ないし、片手で押さえていなければならない。しまった、やっぱサンニッパはまずかったか。そう思う北村だったが、この貴重品を投げ捨てて走るなんて事はできるわけもない。
 大通りの角に来た。そこに北村は幸運を発見した。丁度タクシーからOL風の乗客が降りたところだったのだ。
 「タクシー! 待って!」
 道の反対側から叫ぶ北村。駆け寄り、OLを押しのけるように空いたままのドアに飛び込む。
 「栄通り、御爺橋のとこの交差点!」
 深夜2時すぎ。飛び込んできた女学生。運転手はあからさまに不信の顔だ。指定場所もこの時刻、人気のある場所ではない。
 「お客さん・・・」
 乗車拒否。北村はその言葉を先読みして瞬時呆気にとられた。考えていなかったのだ。運転手の冷たい視線が大きなカメラに向けられ、さらに眉が潜められる。それを見た北村は必死に懇願した。
 「お願い、急いで! 集合時間2時で、もう遅れてるし。天体観測始まっちゃう! また先輩に怒鳴られる! 急いで」
 座席にしっかりと座りこみ、運転手が聞く耳持った表情になったのを見てさらにお願い、と畳みかける北村茉莉香。
 「あたし天文部の新入生なの。先月の観測にも遅刻しちゃったから、今度したらやばいの、お願い!」
 あぁ、今日の天気どうだったっけ? これで曇ってたら洒落にならん! そう北村が祈る中、運転手は無造作にドアを閉めた。
 「地下鉄工事の資材倉庫の辺?」
 「は、はい、その先の河川敷なので」
 運転手はうなづくと車を発進させた。満天の星空に煌々と輝く半月がその姿を照らしていた。



第二章


 ホテルのベッドで。ビール腹の見本の様に丸い腹を揺らして寝返りをうった茂木(もてぎ)は顔を上げ、ナイトテーブルを見た。
 02:12。
 まだそんな時間か。
 つぶやきながらもそもそと起きあがる。喫茶店 > ファミレス > 居酒屋 > ラーメン屋台とおきまりのコースを進んだ彼がホテルに戻ってきたのは1時近くだった。ぼりぼりと腹をかき、寝苦しさに空調を少し強くしてみた。

 あそこにはなんかあるよ。
 ふと吉田の声が蘇る。かすかにうなった後、ベッドの脇に移動させていたサイドテーブルに手を伸ばす。その上に乗った厚地の帆布鞄から駅の売店で買ったゆずりんご飴という奇怪な菓子を取り出した。試しに買ったのだが、まずい。だが今はこれしかないので小箱から一つ取り出して口に放り込んだ。
 「なんかあるんだろうけどなぁ。やるきになんねぇなぁ・・・」
 茂木は上半身を起こしたまま目をつむった。
 茂木は真声ネットの社員ではない。いわゆる一匹狼である。ネタ、特に証拠写真の買い取り先の一つが真声ネット社長の吉田。今回の様に吉田からの依頼で取材する事も過去に何度かあったが、ネタが出ないのなら必要経費の領収書しか吉田は受け取らない。成功報酬というやつだ。
 そういうわけなので今回の依頼、一条電鉄へのインタビューをこなした以上、この先仕事を受ける必要も責任もない。これで依頼が吉田からでなかったのなら今夜の電車で東京に帰っているところであろう。そう、吉田は特別な依頼主なのだ。
 茂木にとって吉田はある意味かつての戦友だった。以前茂木が新聞社のチームと組んで大物政治家のスキャンダルを暴こうとしていた時、上からの強力な圧力がかかった。社員は一人、二人と調査から離れたが、チームの班長だった吉田は編集局長からの厳命に背き、最後まで取材を続けた。茂木と吉田の二人でねばり続け、遂に証拠を掴んだが、吉田の勤めていた新聞社からは流せなかった。つまり二人で煮え湯を飲まされたのだ。結局吉田は退社し、茂木が別ルートから発表した。そんな経緯からか、吉田は茂木にとって多少特殊な依頼主なのだ。それは戦友としか言いようのないものだった。
 吉田も同じ意識を持っているらしく、茂木を普段の取材で使うことはない。大ネタの尻尾を掴んだ時だけ茂木を呼びだした。小ネタの取材にわざわざ茂木を使うこともないと言わんばかりに。二人は共通の庭である渋谷で出会っても挨拶する程度だが、仕事で組んだとなればそれは大ネタが絡んでいると言えた。今回、茂木を招集したのは一条に本腰で喧嘩を売る覚悟の現れである。
 茂木はそれが分かっているだけに複雑な心境だった。あの吉田がここまで熱意を入れている以上、そこにあるのは特ダネだろう。しかし、取材した一条電鉄、特に工事責任者たる専務に対し、どうも本気になれなかった。暴くべき何かを隠している「わけあり」なのは分かる。すご腕の広報マンだと茂木が分析した専務。彼には秘密の臭いと隠された敵意はあるが、悪意がなかった。まるで医者が患者の守秘義務を主張するかのごとく。
 「なんか燃えねぇんだよなぁ、ああいうのは」
 ぼやきながら彼はどさりとベッドを揺らして倒れ込んだ。


 タクシーを降り、深夜割り増し料金に内心舌をうちながら支払いを済ます。北村はそのまま資材置き場の方に駆け出した。周囲には全く人気がない。通りも時折車が走る程度だ。フェンスの脇を走りながら、北村は進入口を探した。しかし、フェンスは異常に高く、見つけた入り口も鍵だけでなく、鎖で止めた錠前まで付いている。そして大きなプレート。

 一条電鉄私有地。中は大変危険です。許可無き立ち入りを禁じます

 日本語に続いて英語、多分中国語、そしてその他、北村には分からない言語が記されている。アラビア語らしい文字もあった。
 中野の父が向かっていったのは間違いなく最初に発見された場所だろう。北村は確信していた。地図から見る限り、このフェンスを越えた真下というところだ。月明かりに照らされた敷地を睨むと大きなテント状の資材置き場の奥に建物がある。プレハブではなく、事務所の様な外観だ。あそこからなら地下に入れるのだろう。しかし、それにはまずフェンスを何とかしなくてはならない。
 超常研の探索であれば梯子が用意されているだろう。しかし、緊急時の今、先輩やOBの協力は何もない。フェンスを確認してみる。つかんでゆすってみるが、がっしりとした感じだ。北村は左右を見回した。一面身を隠す場所もない。木陰すらもない。さっきは幸運を感謝した月明かりだが、今は困りものだ。
 覚悟を決めた北村は、右肩からバッグ、左肩から超望遠付きのカメラを袈裟懸けに背負った。両方の荷物を背中に回すと、レンズの先端をバッグに挟み、ひじで押さえてみる。よし、これなら行けそうだ。周囲を見た限りでは分からないが、扉に向けて監視カメラがあるかもしれない。そう思い、右側に進む。
 体重にカメラ資材の重量が加わる。かなりの重さだろう。フェンスがてっぺん付近できしんだら怖いので、北村は支柱のすぐ隣を選んだ。まず右足を出来るだけ高いところにかけてみる。フェンスは菱形の格子状のものだ。その菱形に靴の先しか入らないのが不安をあおったが、入っただけいいだろう。手だけで支えるより何倍もましである。ついで左手で支柱を持ち、右足に体重を掛けて体を持ち上げ、右手を精一杯のばして格子を掴んだ。これならいける。北村は荷物が前にこないよう、慎重に登っていった。
 フェンスの高さは彼女の身長の倍以上あった。ぎし、ぎしときしむそれを踏みつけながら、なんとか頂上に手がかかる。問題はここからだ。踊り場にあたる幅がないため、一息にこれを乗り越えなければならない。いつもの探索時と違い、今日は私服、それもジーンズだ。その点ひっかかる布がないのでラッキーなのだが、それでも重心が背中に大きくずれている今の状況で、フェンスの頂上を乗り越えるのはちとやっかいだ。なにせ、すでにそこは3メートル程も地面から離れている。その認識が身をちぢこませたが、なんとか左足を伸ばしててっぺんに腹這い状態になった。
 ここまでくれば。そう思った北村だったが、下りの方がもっと厄介な事にすぐに気づいた。なにしろ格子が見えていない。足先しかはまらないので、もしすべったら一気に地面まで真っ逆様、ってことにもなりうる。引きつった顔で動き続ける北村。なんとか向こう側に足が着いた時、彼女はもう泣き出しそうだった。

 ちょっと休憩したかったが、ここでは見通しがよすぎる。北村はこそこそ背をかがめて走り出し、資材テントの影に入った。はぁはぁと息を整えてからバックを右肩に、カメラを左肩に下げ直す。こっそりとテントの裏から事務所の様子をうかがうと、灯りがついているのは二階だけで、一階は暗いようだ。入ってみようか。そう思った時、その事務所のドアの上に四角い物があり、それが左右に首を振っているのに気が付いた。はっとしてテントの影に戻る。
 やばい、監視カメラだ。ここが最短距離のはずなのに。
 悔しさを噛みしめる。だが、そうしていても時が刻々と流れるだけだ。そこでテントからテントへ迂回し、事務所の裏手に回ろうと考えた。しかし、監視カメラの視角がどこまでかが分からない。首を振っていた以上、かなり広いだろう。だが距離はさほど写らないのではないか。解像度が低い事を祈りながら、北村は二個目のテントを回り込んだ。と、その時。足下に風を感じた。立ち止まってみる。どうやらテントから来る隙間風だ。ちょっと気になった彼女はしゃがみこみ、テントの端をのぞいてみた。中には裸電球らしき灯りが灯っている。そして、なんとその灯りの真下にリフトらしいものが見えた。
 幸運にどきどきしながらテントの中を確認する北村。監視カメラらしきものはない。もちろん人影も。北村はテントの短辺側に向かった。扉はアルミサッシのような作りのものが支柱に付いている。そこにも進入禁止のプレートがかかっていた。この鍵を壊すのならテントを切り裂いた方が早そうだ。そう思いながら、念のためドアノブを見てみると、それが歪んでいることに気が付いた。奇妙に思い、それをつかむ。回してみると、簡単にドアが開いた。
 開きかけたドアの側面を見て、彼女はぎょっとした。歪んでいるのはドア板そのものなのだ。軽金属とはいえ、金属板だ。よほどの力が込められない限り、こうはならない。通常の人力でできることではない。通常なら、だが。
 北村はテントの中に入りながら、ここが中野雄哉の進んだ道だと理解した。最短距離を選んだのは正しかったのだ。しかし、ただ喜んではいられない。あのドアの壊れよう。間違いない、魔性に操られて筋肉の限界を超えて力を出しているに違いない。急がなきゃ。北村はリフトに駆け寄った。
 シャフトの真上にある電球で、10メートルは下になる地下がうっすらと見えていた。リフトそのものは地下にある。支柱に固定されているスイッチを見ながら、北村は躊躇した。スイッチの構造は簡単だ。上と下、それぞれに三角が描かれた大きな丸ボタン。そして電源らしいレバー。それだけだ。しかし、この動作には多分騒音が伴うだろう。警備員がすっ飛んでくるのでは・・・。
 中野父がこれを先に動かしていたのであれば、再度動かしても問題なかろう。だが、魔性に操られた状態であれば、飛び降りたとしても不思議はない。一方、通常の人間である北村には飛び降りるのはもちろん、支柱を掴みながら降りるのも無理そうだった。覚悟を決めた彼女は上のボタンを押した。ガコン、という音と共に、ウィーンとモーターが響き、リフトが上がりだした。早く、早く! 北村は焦りながら到着を待つ。すぐに乗り込み、今度はリフトの手すりに下がっていたスイッチボックスを掴むと即座に下ボタンを押した。ゆっくり、ゆっくり降りてゆくリフト。到着まで数分もかかったように北村には思えた。
 地下は通路になっており、その幅は思ったより広かった。そこから東に通路は延びているのだが、すぐ先でフェンスがあり、そこで通行止めになるらしい。大きな錠前の付いた扉があるが、今、それは無意味なものに成り下がってた。フェンスそのものが引き裂かれていたからである。天井まで埋め込まれていた格子は縦に引き裂かれ、そこに人がらくらく通れる隙間ができていた。そして。その光景よりも北村の心を凍らせたもの。それは引き裂かれたフェンスにべったりとつく血糊。それに気づいた途端、血の臭いが鼻を襲った。吐き気を催し膝を着いた北村だったが、気力を振り起こして立ち上がった。
 急がないと、急がないと!
 フェンスを越えると道はT字になっている。しかし、中野父の向かった先は明らかだった。点々と続く血まみれの足跡、そして血痕そのもので。

 その道の先に、ロープが張られていた。その真ん中に「仮設地域:危険。許可無く立ち入りを禁ず」と書かれたプラスチック製の札がかかっている。それをよいしょっと乗り越えた時。正確には乗り越えた足を向こう側に付けようとした時。ふっと記憶が蘇った。
 駅前の工事現場。ロープを越えてガードマンに見つかった時。加賀壬はあの後で何と言った? 自分は何を約束した?
 背筋が凍る北村。しかし、その間に自重をかけた左足が向こう側の地面に付いた。付いてしまった。
 越えてしまった。ロープをまたいだ状態で自分の行動に驚愕する北村。しかし。中野雄哉は、今、命に関わる状態なのだ。
 「ごめん宏子!」
 北村は完全にロープの向こう側に立った。さっきまでは向こうだった場所に立ち、さっきまでこちらだった方を見つめる。だがためらいは一瞬だった。カメラの肩ひもをしょい直すと、北村は「向こう側」の闇に走りだしたのである。



第三章

 暗い道。ところどころにある蛍光灯で照らされているし、舗装自体はしっかりとしているので走るのに支障はない。だが、床におちた血糊が北村の足をとり、二回派手に転んでしまった。腰をぶつけたが、カメラとバックは両手で上に掲げたので無事のはずだ。というか、それで両手がふさがったので腰を叩きつけたと言えよう。
 二度目に転んだすぐ先で。北村ははっとして足を止めた。あたりにサイレンが鳴り響いたのだ。間違いない警報だ。見つかったか。そう思ったがここまで来たら走るしかない。作業員が二人近づいて来たので道脇に高く積んである木箱の影に隠れてやりすごした。そこまで来ると中野の足跡もほとんど分からなくなっていたが、北村の来た道を逆に進む以上、作業員が血糊をみつけるのは時間の問題だろう。
 通路から出ると本道に沿って進む側坑に出た。大きな柱が何本も何本も左右に立っており、地下鉄の通る予定の本道とを遮っている。柱には一本一本に数字が刻印されたプレートがあり、それぞれの上に小さなランプまでついていた。
 今北村の目の前にあるのはE2-1286とあった。右を見るとそっちは1287だ。北村は中野の家でみた青地図を思い出してみるが正確な地区番号までは覚えていなかった。だが、確かクリスマスみたいと思った記憶がぼんやりとある。1224か1225だろう。そう見当をつけ、左に進む。すぐにその判断が正しかったことが分かった。本道の中央に分岐が見えたのだ。このすぐ西だ。北村は地図を思い浮かべながら進んだ。
 1239、1238・・・もうすぐだ。そう思った時だ。足音が聞こえた。それも一人や二人ではない。まずい。北村は側抗から離れ、支柱の影に隠れようとして思わずぎょっとした。影になっていて見えなかったのだが、支柱はさらに深い位置から延びていたのだ。側抗と本道の間には幅3メートル、深さ4メートルはある溝が掘られていた。支柱はその溝の真ん中から立っていたのである。北村からはその溝は深淵に見えたが、目を凝らしてみると途中にネットが張られてるのが分かった。しかし、その格子は大層粗く、手足がひっかかって無様に助けを求めることになりそうだ。これでは到底本道側には行けそうにない。彼女がネットを渡れる蜘蛛の化身か、あるいは魔性に操られ3メートルくらい軽くジャンプできる者でないかぎり。
 北村は身を隠す場所を求めて左右に素早く視線を送った。少し左手になにか青いカバーがかけられた装置のようなものが見えた。足音をこらし、そこに向かう。近付く近づくとかなり大きなそのカバーは小型のブルドーザーの様な物を包んでいると分かった。それは溝のすぐ側に置かれているので、その影に完全に隠れる場所はない。カバーをめくる北村。キャタピラとキャタピラの間ならなんとか潜り込めそうだ。躊躇している暇はない。鞄をまず下ろし、カメラを前に差し出す格好でそこに潜り込んだ。膝に擦り傷を作ったようだが今はそれを気にしている暇はない。車体の下に潜り込み、鞄を引っ張ってカバーの中に隠す。小型ではあったが、悪路用に接地面からボディまで、高めに設計してあったので助かった。北村はごそごそと匍匐(ほふく)前進し、車体の前方に付くと、そっとカバーをめくった。ここからなら、うまくすれば支柱の間から先が見えるのでは。その目論見どおり。視界がかすむぎりぎりの所に座り込む人影が見えた。
 中野のおじさん! 北村は叫びたくなるのを堪えた。定期的に響くサイレンの間で、足音はあたり一面から響く様に増え、厳しい口調の話し声まで聞こえていた。今ここを出たらつかまる。北村は泣きそうな思いで中野雄哉を見た。ここまで来たのに、助けられないのか・・・。
 ここからだと中野の斜め後方から見ていることになる。そのパジャマに赤黒い染みがあるのを知った北村は胸が締め付けられる思いだった。カメラを前に付きだし、その300ミリという望遠で顔色を確認しようと思い立つ北村。だが手が震え、がちがちとコンクリにレンズ下部をぶつけてしまった。すぐに鞄を引っ張る。今日のはドンケのカジュアル用にもなる薄型だ。これをレンズの下に敷いて固定しよう。北村は狭い空間でなんとか鞄を自分の前に出し、腹這い状態で望遠レンズを構えた。オートフォーカスを切り、マニュアルにし、ピントを合わせる。
 北村のカメラは35ミリフィルムを使用する普通のフィルムカメラだ。それ様の換算では人の目の視角は50ミリレンズの画角程度と言われている。50ミリレンズが標準レンズと呼ばれるのはそのせいだ。今北村が覗くサンニッパ、つまり300ミリf2.8レンズはその名のとおり300ミリの焦点距離を持つ。標準50ミリとは比較にならない望遠レンズだ。バック、両腕の肘、そして顔面と可能な限りの支点で支えたその望遠レンズが中野の姿を大写しに現した。その左腕が手首あたりからねじれているのに気が付き、北村は己の無力さに涙がこぼれそうになった。
 とその時である。ファインダー内の中野が動いた。北村が閉じていた左目を開け、肉眼で確認すると、彼は膝をついた状態で膝から上をまっすぐに伸ばし、右手を振りだしたのだ。まるでその先に旧友がいるかのように、嬉しげに。
 何かいる! 北村は確信した。あのぼんやりと見える本道の先に、何かが!
 カメラを左にうごかし、鞄の留め金を外した。中かからXレイ・セーフティ・バックをつかみだし、フィルムを一つ取りだした。カメラ背面にあるデータパックのLCDを灯し、その反射光でフィルムを確認する。違う、これじゃない。次に出した物が目的の物だった。不自由な体勢でフィルム交換を行い、ISO感度を最大に上げた。いつも使用しているのは結構感度の高い400だ。その8倍もの高感度フィルムを入れ、さらに増感で二倍、合わせて16倍の感度にしようというのである。カメラを元の位置に戻し、レリースがシングルになっているのを確認し、再びファインダーを覗いた。
 まず中野の顔を捉えてAEロック、その後で中野の前方も視野を入れ、ピントもずらした。何もない中空に合わせることになるわけだし、いくら高感度フィルムを入れたところでファインダーの中が明るくなる訳ではない。暗さに慣れた目でもファインダーを通して見ては闇にしか見えなかった。こうなると感が勝負である。
 四人の警備員が北村のすぐ脇を足早に通り抜けていった。しかし、北村は微動だにせず、その瞬間を待った。右目ではファインダー左側にある闇の虚空をにらみ、左目では肉眼で中野の動きを見つめる。警備員が彼を見つけたらしいのが叫びで分かった。すぐに側抗中に声と光、そして足音が満ちる。もっと左手に本道とを結ぶ道があり、そこに向けて警備員が走り出した時だ。中野が叫んだ。
 「お〜〜〜〜い! お〜〜〜〜〜い!」
 折れた左手がぶらぶらするのを気にもとめず、彼は両手を振り回した。闇の向こうにいる「友人」に向かって。その表情。斜め後方からでははっきりとは見えないが、彼はにこやかに笑っているように見えた。ダイニングで叫んだ時、その顔に浮かんでいた歓喜を思い出し、レンズを少し右にずらす。微調整し、その顔をファインダーに納めた時、北村ははっきりとその歓喜を見た。心の底から喜ぶその顔を。
 しかし、それを確認した時。北村自身が口元に笑みを浮かべたのを本人は意識していなかった。すっとレンズを左にずらし、再び闇を覗く。しかし、そこは既に闇ではなかった。少なくとも中野と北村の目には。二人には近づく彼らが見えるのだ。
 あぁ、やっと、やっと来た。北村と中野は同時にそうつぶやいた。彼らが目の前に来る。中野の両手はもうちぎれんばかりに振られている。北村はレリーズを切り、その感動的な光景をフィルムに収めた。右手の中指と人差し指でモードセレクタを回し、手探りで遅速連写に切り替える。その状態でレリーズボタンを押し続ける北村。動き続けるミラーにシャッター。鈍いモードラ音。ファインダーに写る中野の笑顔に合わせ、北村の笑い声が響く。
 遅れて走っていた警備員がそれを聞きつけ、ぎょっとしながら誰何の声を張り上げたが、北村は気づかなかった。いや、気づくはずもなかったのだ。



第四章


 ホテルのベッドで。浅い眠りから覚め、ぼーっとしていた茂木は水でも飲もうかと思いつき、スリッパに足を下ろした。洗面所に向かい、飲料用と書かれた蛇口を押し、歯磨き用らしいコップをその下に置く。無造作に一杯目を飲み干し、二杯目を注いだ。それも一気に飲み干し、茂木は目の前の鏡に写った自分の顔をじっと見つめた。
 彼は元々記者ではない。新聞社と契約していたカメラマンだったのだが、いつのまにかフリーライターの様な商売になっていた。写真屋を自認していた頃には「写真は体力だ」とばかりに体を鍛えていたものだが、この数年ジム通いもジョギングもご無沙汰である。幾つかの特ダネを暴いた結果、食うには困らない程度の仕事が来るし、なにより撮影現場が雪山でも海外でもなく、ほぼ東京固定になった影響が大きい。ファインダーに納めるものも猛禽類でも鞍馬に駆け寄る選手でもなくなった。政治家やアイドル、そして大企業の経営者。せいぜい歩いている程度の、動体予測などとはおこがましい被写体ばかりである。その結果何キロ太っただろうか。鏡の中の自分の顔は中年親父の色が浮き出ているような気もする。まだ生え際の後退は始まっていないが頬や顎は十年前の面影もない。顎をなでるその指も丸まっちくなった。
 彼は自分の顔を見ながら、その無気力な瞳に熱意の欠けらもないことを改めて確認した。
 「いいじゃん、気にすんなって。やる気が起きないんじゃ仕方ないって」
 そう自分に言い聞かせ、コップを洗面台の上に置いた。ぼりぼりと、でっぷりと太りだした腹を掻き、ふと何時だろうかと周りを見回す。朝は6時に起きねばならない。現在時刻によっては無理して寝ずに、起きてたほうがいいかもしれない。そう思いながら洗面所に時計を期待するのを諦め、バスを遮るカーテンレールにかけておいたハンガーからスーツの上着を取った。湿気の中に上着をかけておき、シワを伸ばすのは彼の癖のようなものだった。今夜はシャワーすら浴びていないので、全く無意味な行動だったが。
 帰室した時、出すのも面倒だったのでそのままだった無線の盗聴器をポケットから取りだし、スイッチを入れる。小さく細長いディスプレイには周波数と感度、そして時刻がデジタル表示された。03:38。寝付いて4時。寝られて二時間。ま、寝ておくか。そう思いながら垂れ下がるイヤフォンを耳に向けたのも、彼の癖がなさせしめた行動だった。
 声が耳に入った瞬間。茂木は上着を掴んだまま洗面所を飛び出し、部屋の奥に向けて走り出した。カーテンを力任せに開き、窓を開ける。落下防止用に少ししか開かないのは確認済みであったが、とにかく室内よりはいいだろう。そう思い、むっとする夜気が入ってくる隙間からアンテナを差し出した。窓枠に盗聴器を置き、落ちないのを確認すると手をベッドに伸ばした。だが狭い部屋ながら、窓際からではもうちょっとで届かない。ついで左足に体重をかけ、右足を伸ばした。部屋に帰ってからいつもどうりにズボンをマットレスの上に敷いて置いた。自分の体重で寝ながらプレスするためなのだが、無造作にやった結果、その裾がはみ出ている。あれさえ掴めれば。もうちょっとだった。今度は右足に履いたままだった靴下を脱ぎ捨てる。勢い込んで脱いだのでバランスを崩し、あやうく盗聴器を窓の外に落とし掛けたがかろうじて窓枠に引っかかった。今度は慎重に右足を伸ばす。裾を足の指先で掴むと、そのまま引っこ抜く。簡単に思えたのだが、夏掛けとはいえ、布団にはさまれたズボンは結構抵抗をみせた。
 なんとかズボンを引き寄せ、履き終えた時、茂木の耳はあらかたの必要情報を聞き終えていた。警察無線の盗聴器を左手に持ったまま、椅子に投げかけてあったネクタイをとって洗面所に逆戻り。よれよれのワイシャツの襟首を直し、ボタンをはめ、その地味で厚手のネクタイをしめた。顔を洗い、ディップで髪をおさえつける。すぐにサイドテーブルに向かい、携帯、デジカメ、ICレコーダー、PDAをそれぞれの充電器から引っこ抜き、ICレコーダー以外をバックに放り込んだ。上着を着て内ポケットにICレコーダーを入れ、マイクを手にする。ワイシャツの脇腹に開けてある穴にそれを差し込み、前に回すと厚地のネクタイの裏にピンで留めた。盗聴器もポケットにしまうがイヤホンはつけたままだ。
 バイブルサイズのシステム手帳をバックから引っこ抜き、差し込んであった地図を確認するとバックと部屋のキーをひっつかみ、靴をはいた。その時、右足が靴下をはいてない事に気が付いた。「ちくしょう!」とつぶやくと窓辺で投げ捨てたそれをはいてから、靴がひっつめ状態のままで部屋を飛び出した。

 ホテルから現場まではかなり距離がありそうだ。タクシーを探しながら走るが、こういう時に限ってなかなか見つからない。やっと捕まえたのは3ブロック走ってからだった。
 「栄通り、御爺橋西交差点まで。急いでくれ、公務だ」
 威圧的にそう言いつけ、茂木はわざとらしくイヤフォンを手で押さえた。運転手は一瞬嫌そうな顔を浮かべたが、無言のまま発進させた。
 連休初日の早朝。買い付けのトラックも少なく、車は飛ぶように目的地に向かう。しかし二つ手前の信号あたりから路上駐車が増えだし、騒がしさが目立つようになった。やがてタクシーは救急車やらパトカー、黒塗りのセダンなどが所狭しと止まった路肩近くに停止した。
 支払いを終え、領収書を慌ただしげに受け取ると、茂木は急ぎ足で人ごみの中に歩み寄る。まだ野次馬の数はさほど多くはない。肩と肩の間を縫うように茂木は最前列のすぐ手前にまで身を寄せた。左右を目だけで見回す茂木。気弱そうな警官がいたらいつもの手で中に入ろうと思っていたのだが、この現場はちょっと異常だった。警官が好奇心旺盛なよそ者を押しとどめているのはいいとして。ロープの中にいる警官たちにただ立ちつくしている感があったのだ。建物の入り口、フェンスの扉。要所と思われる場所に立つのは警官ではない。黒服のガタイのいい男たちだ。私服警官にも見えない。一条のガードマンか? 茂木はそう察した。どうやら現場を制しているのは国家権力ではなく、営利企業であった。
 むっとする思いを飲み込み、茂木は周囲を見た。首を動かさず、目だけを左右に走らせて。救急車はまだ後部ハッチが開いたままであり、その位置から見て左のドアから搬入するとふんだ茂木は、一旦群衆から離れ、目星をつけたあたりからもぐりこんだ。
 ロープの最前列、その一歩手前まで踏み込む茂木。最前列に出てしまうと警官から丸見えになる。そこで人一人の背後から観察するのがいつもながらの方法だ。外見から攻撃的な印象のある精悍さは消えたが、太り気味のこの体はこういう時にはやくにたつ。目立たない野次馬程度に見えるからだ。その位置につくと、すぐに左のドアが開き、負傷者が運び出されてくる。白衣の男が押すその折り畳み式ベッドは全体にシーツがかけられており、その上、周囲をぐるっと取り囲むように黒スーツの男たちがひしめいていた。これでは全く怪我人の姿は見えない。しかし、そのシーツの盛り上がりから身長を予想し、茂木はやせ形の成人男性、白衣の男の顔からして重傷だろうとアタリをつけた。撮影しておきたいところだが、ここでカメラを出しては注目される。キャンデットフォトは得意だが、鞄から出したところで、目ざとい公務員がいたなら職質確定だ。なにしろ彼らは自分たちの仕事を横取りされて怒っているはずだから、八つ当たり必至である。仕方なく目と耳で記録することにする茂木。
 すぐに二台目のベッドが来た。今度はさらに異様だった。シーツは三枚もかけられており、担架状のベッドからかなり前に伸びている。巨体かとも思ったが横幅がそれを否定した。なんだ? 茂木は目をこらし、その物体をにらんだ。こちらも黒スーツの男たちが周囲を取り囲んでいたが、その隙間から茂木の鋭い視線が差し込まれた。救急車の後部ハッチに前輪を上げた時、段差を乗り越えた簡易ベッドが左に少し傾いた。そこを丁度横切ろうとしていた黒スーツの肘がシーツにかかり、シーツとシーツの隙間がちらりと見えた。それは一瞬。だが茂木の目ははっきりと見て取った。怪我人は両腕を持ち上げた状態なのだ。いや、怪我人ではなく、既に死後硬直なのかもしれない。そう冷静に予想をしながらも、茂木の目はそれが細い、小柄な女の腕だとアタリをつけていた。
 だが、一番彼の目に焼き付いたのはその右手だった。何か太い物を掴むように硬直しているその指。人差し指と中指の角度。しっかりと掴むように曲がった親指の第一関節。それは彼の目に強烈な印象を残した。それが何故なのかは分からなかったのだが。
 驚愕から覚めると既にベッドは救急車の中だった。と、そのすぐ後に制服の警官が私服の男と並んで近づいているのに気が付いた。右手に紙袋を提げている。多分あの中にベッドの上に横たわる者の私物が入っているのであろう。既にビニール袋に個別包装され、ナンバーの書かれたタグをつけて。それを重そうに運ぶ警官は左肩にショルダーバックを下げている。そのバッグが黒スーツの隙間からちらりと見えた。そのタグがついた肩ひもは幅広くバックの底面を覆って輪を成していた。
 そのバックを見た時。茂木の頭の中に光が走った。あの指。あのバック。茂木はよろけるように人ごみから抜け、空気を求めるように荒い息をついた。
 あれはドンケのカメラバック、F800シリーズだ。そしてあの指は。間違いない、レリーズボタンを押し続けた指だ・・・。茂木は女が腹這いになり、レリーズを切り続けた姿をくっきりと目に浮かべることが出来た。その光景に、またあえぐ。ふらふらとしながらも人目を引くのを恐れ、茂木は車道脇の影の中を歩き出した。

 ホテルに戻る茂木。帰りはずっと歩いてきた。あの光景が目からしばらく離れなかった。
 マイクとイヤフォンを外し、上着を椅子に投げるとベッドにぼふんと背中から倒れ込んだ。しばらく天井をにらみつけていたが、一度まぶたを閉じる。ゆっくりと開くと身を起こし、携帯を手にした。
 十数回のコールの後。眠たげな相手の苦情を無視し、茂木はこう言った。
 「一条の件、俺やるわ。必要経費宜しく」




第五章


 一条からの至急報を受け、本条百合恵は目の前が真っ暗になるのを感じた。まさかこのタイミングで。最悪だ。すぐに本条家の重鎮の一人、大嶋に電話をつなげた。彼は情報操作、早く言えば裏工作の責任者だった。既に関連各所に手配を整えていた大嶋の言によると、状況は百合恵が予想した程悪くはないようだ。
 「中野主任は社命で休養を取っていました。彼のIDは停止されていますし、診断結果が出るまで現場には立ち寄らないように上司から厳命も出ています。口頭勧告ではなく、文書にてです。これは一条の指示でしたが。以上から関東中央軌道、並びに一条電鉄の人事管理上の問題は起こらないでしょう。労災に関しては一条側が関東中央軌道に指示する予定です。
 一方、管理上ですが。進入者は3.2メートルの高さのフェンスを乗り越え、扉の鍵を壊し、金属柵を破壊し、進入禁止柵を乗り越えています。その間に文字による警告が三回。一条電鉄側からの危険告知は十分であったと認知され、また進入防止策も必要十分であったと県警からの報告が出る予定です。さらに警備員増員、監視カメラ増強という今後の対応策を発表、実施することで、管理面での社会的問題は回避可能と思われます」
 「模倣犯抑制の意味もあります。即刻実施なさい。臨時で本家のガードマン、今派遣している者を使いなさい」
 「はい、では沼津警備保障と東郷セキュリティを一条側に組み込むように専務に指示を送ります。正午までには書面にて決定事項をお送りいたします」
 「マスコミはどうですか?」
 「はっ、残念ながら初動が救急要請であったため、事件の完全隠蔽は不可能でした。関係省庁とは既に下記にて了解済みです。
 本日未明、精神不安定状態にあり社命により自宅静養と通院を行っていた中野主任が、家族の制止を振り切り家を出ました。この際夫人が頭部に4針縫う重傷を負い、現在病院にて治療中です。中野主任の長女が夫人を介抱する間、遊びに来ていた長女の友人が救急連絡を行い、中野主任を追跡しました。
 主任は工事現場のフェンスを乗り越え、鍵を工具にて破壊し進入。地下鉄工事現場にて彼を止めようとする長女の友人ともみあい、深さ4メートルのパイルバンカーの溝に落ちました。友人の方は、途中に張られていた危険防止用のネットにからまったため、擦り傷程度の軽傷でしたが、その前に中野主任に頭部を強打されたらしく意識不明の重体です。一方中野主任は工具でネットを切って落下。左腕骨折、右腕と肩にも裂傷を負い、意識不明の重体。
 以上が朝刊に掲載される内容となります。個人名称は公表されますが、友人の肩書きは県立高校生徒とし、校名は掲載されないように手配しております」
 「侵入の理由に関してはどうしましたか?」
 「まだ動機に関して公式発表の段階ではありませんので根回しのみです。精神鑑定を行っていた担当医から診断結果が県警に回される手はずです。職務熱心さ故の潔癖症となり、作業工程の遅延に恐怖心を持っていたというこの内容は、報道関連には発表されませんが、リークされます。社内の同僚からは全く違和感がなく、信じられないという程度のコメントしか出ないのを確認済みです。これはマスコミを装った調査員が確認いたしました」
 本条は電話を一回切ると今度は他の部下に2、3の指示を出した。
 その後、美咲の番号を回したのだった。

 美咲家にはまだ事件の情報は伝わっていなかった。暗い面もちのまま本条からの通知を聞く由美。彼女は和服がどうも好きになれなかったので夜着は普通のパジャマだ。その姿のまま椅子に座り、あいづちを打つこともなく、黙って本条の語る事件を聞いた。
 「中野雄哉の状況からして魔性の関連が予想されるのだけど。念のためもう一度確認をお願い。これは本条からの正式依頼。
 東二区ならば<くみちゃん3号>の測定範囲内なのに、反応がないのは確認済みよ。だからそちらでも無反応だとは思うのだけど、念のため」
 「了解しました会長」
 美咲がようやく声を発した。正確には元生徒会長なのだが、もう美咲も本条も慣れてしまっていた。その声は既にいつもの平坦なものだった。それを知り、本条が次の話題に入る。
 「もう一つ問題があるの。それも、火急」
 「真声ネット、ですか?」
 「もう耳に入ってる? なら話は早いわね」
 昨日のうちに美咲は下位術者から報告を受けていた。地下工事現場で霊障の噂のある四地域を調べ回っていた男がいる。本条と一条からの依頼で結界を張っていたのは当然ながら美咲家の一党だ。魔性の残滓は無かったものの、万一に備え、結界が準備されていたのである。しかしながら中野の事件の起きた東2区では具体的な事象がなかったため、指定はされていなかった。
 「真声ネットワークの社員、樅塚という男性が結界に侵入し、当家の術者にマークされました。熱心に心霊現象に関する聞き込みを行っていたようです。連休明けに報告予定でした」
 本条は一条から送られていた資料をめくった。
 「もみつか・・・ね。いたわ。ふっ最低・・・。
 樅塚正和、26歳。万練情報大学卒後、真声ネットワーク入社。現在は同社のネットサービス、「突撃! これが心霊スポットだ」担当。
 ふぅ。コメントも出ないわね、こういう輩(やから)には」
 本条は見たくもない、とファイルを机に放り投げた。
 「雑魚は泳がせておいて。問題は社長の吉田が懇意にしている記者。茂木健造。脅迫も買収も効かないタイプよ。さらに悪いことに、どうやら隠蔽暴露の天才。大学学長の死因解明事件では拝み屋と正面切って大喧嘩してるわ。その呪詛に対して別の拝み屋を雇ってる。術的な脅迫も効きそうにない。困った男。
 脅迫がだめならば。最悪の場合、香土岐を使います」
 術殺。美咲はその言葉を思い描き、唇をかんだ。
 学長の事件というのは八州薬科大の事だろう。美咲はそう思い眉を潜めた。それは術者たちの間でも有名な出来事だった。そうか、そんな人物が絡んできたのか。
 「吉田はうちと一条との関係をネタにしたいらしいわ。ま、それはいいの。うちくらいの規模になると、時々はニュースの供給源になっておかないとね。まぁサービスの一環と認識しているわ。けどそれにも限度があるの。サービスの範疇を越えそうならば法規制、金銭供与、銀行融資停止による強制破産、その他、どんな方法ででも黙らせます。吉田はそれでいいわ。でも、茂木には効果がない。彼の狙いがなんなのかは分からないけど、ああいう手合いが出てくるとなると対応が必要」
 「同感です。我々の行動はまだ公表できる段階ではありません。出来れば公表することもなく、それ以前にむだな行動になってくれてほしいものですが」
 「そうね。あれだけは封じておかないと。あれだけは・・・」
 本条がゲートに思いを寄せた事に気づき、美咲はすぐに話題を変えた。例え百合恵ほどの意志を持つ者でも、魔性が付け入る隙を与えてはならないのだ。本来、本条はそんな隙を見せる女ではない。美咲は本条が疲れている事を直感した。
 「合宿はどうなさいますか?」
 その声に本条はすぐに思考を切り替えた。自分があの暗い闇のモノを考えていたことを美咲に読まれた。その思いがこもった自虐的な笑みをひっそりと口元に浮かべてから、本条は窓にかかったブラインドの隙間に指を差し込み、隙間を作った。既に季節は夏。山脈に囲まれた高原であるこの一帯の朝は早い。川面に立ちこめている霧も朝日を受けて消えるまでもう少しの命だろう。
 見降ろすと合同合宿のメンバーと思しき人影がちらほらとグラウンドに見えている。朝の4時から早朝練習とは。本条はその一直線さをちょっと羨ましくさえ思った。夢を描き、汗を流す彼らのためにも。いや、今安眠している全ての人のためにも。秘密は守らねばならない。
 「生徒から重傷者が出たわけですが。学校行事中でも登下校中でもないため学校側の責任はありません。また犯罪を起こしたのではなく、抑止しようとした結果ですので自粛の必要もありません。合宿は継続します。生徒会としては彼女の所属していた一年A組、並びに写真部に通達し、生徒会共々お見舞いを予定することになるでしょう。まぁそれは近藤の仕事ですが」
 「所属していた一年A組と写真部、ですね」
 「そうです」
 過去形である。この短い会話で北村茉莉香と超常現象研究会との「糸」が断たれた事を美咲は確認した。
 それほどまでの存在なのか、茂木健造。北村の意志を、これまでの功績を認めることすら出来なくなる程の危険な存在なのか。
 あの、まっすぐで明るい娘の笑顔を思い出し、由美は悔しさにぐっと拳を握りしめたが、言葉は発さなかった。
 「学校側の対応はまだ未定ですが。おそらく生徒会連絡網を通じ、まだ昏睡状態のため、自宅や病院へ行くことを自粛する旨を通達するでしょう。意識が回復次第、合同で行くことになると思います」
 意識回復。超常現象であった以上、果たしてそれは起こるであろうか。茂木の目と耳を盗み、呪法を使えればいいのだが。しかし、話の内容からすれば、それは難しそうだ。ほとぼりが冷めてから、ということになるだろう。それまで。それまで命の灯火は持つであろうか・・・
 「昏睡の状況も気になります。看護免状を持つ由見の療術者を看護士に紛れさせ、数メートル程度に近づけることができればよいのですが。<見る>だけなら一瞬ですので。如何でしょうか?」
 「よい意見です。採用しましょう。しかし、接触をつかまれないように、誰か個人の雇った看護士とし、その雇い主の診断に同行した、という程度のカモフラージュは必要ですね。それはすぐに実行しましょう」
 「了解しました。療術者を派遣するように手配します。
 他に私に出来ることはありますか? 公人、私人双方ですが」
 「私人たるあなたには別にありません」
 一瞬の間。本条の意図する事を美咲は理解した。と同時にその苦労を思い肩をすくめた。ここまでの会話で、言外に成された指示を、あの彼女が納得するはずがないのだから。あの頑固者が。
 「公人として、つまり美咲の者としてですが。慎重にお願いします。東2区への<由見>ですか、美咲のわざの使用も一条側でカモフラージュを行います。茂木を工作で排除出来ない以上、本条と美咲、あるいは事件と美咲の関連を徹底的に隠蔽せねばなりません。以後の連絡も盗聴防止のため、この番号のみになさい、美咲」
 「了解しました」
 美咲の平坦な返事を聞き、本条はふと悲しみを覚えた。どうしてこんな事を言わねばならないのだろう。正しいことをしているはずなのに。なぜ正しいことをした仲間を切り捨て、正しいことをしようとしている仲間に冷たい指示を出さねばならないのだろう・・・
 その次の瞬間。本条は、キッとその細い眉を引き締めた。また美咲に読まれる。そう悟って。
 「こちらから質問です。術者として意見を聞きたいのです」
 「個人としての範囲でしたら。なんなりと」
 その言葉に皮肉を感じた本条だが、逆にその事で美咲が平常心であることが分かった。思い詰めた美咲由美ならば一切の感情を示さなくなるからだ。
 「地下鉄工事の件です。魔性の影響ではない。なら、何です?」
 工事が始まって以来、あまりに多数の事象が起きている。外界からの侵入の気配もなく、魔性の残滓もない。しかし、偶発の超常現象にしては多すぎるし、密度が濃すぎる。
 「何の意見も持たないと告げざるを終えません、美咲の者としましては。
 個人的には何かの歪みではないかと予想しています。あくまで直感ですが」
 「歪み?」
 「はい。何か大きな事象が進行している。それを隠すために理(ことわり)が歪められている。その歪みが重なっているのではないか、と」
 本条は考え込んだ。今作っている魔封陣がその理由だとしたなら、美咲は既に対策を用意しているだろう。その逆で魔封陣完成を阻止しようという行動であっても同じだ。となると、別種の影響? 地下鉄工事とは関係のない場所で進行している何かの影響?
 「大きな事象、ですか」
 「私も気になって調べだした所ですので。まだご報告できるものではないのですが。
 かつて、零上川はもっと西を流れていました。ミサキ郷が生まれた時にはほぼ現在の位置ですが。かつての川底を軸にしますと竜脈もずれていた事が予想されます。
 一連の事件は数百年前、当時、竜脈のあった上に並んでいる可能性があります」
 本条は言葉もなかった。
 「あくまで可能性です。美咲屋敷は江戸中期に出来ましたのでそれ以前の当地の記録はありません。幕府にも関東守護家にも、国分にも全くと言っていいほど残っていませんでした。また、もしそれが関連しているのだとしたら、現界の出来事であり、あまりに古いため我ら由見のわざでは分かりません。今、美咲と血のつながりを有する星見の一族に見立てを依頼していますが星の並びの都合上、まだ先になりそうです。
 以上、現段階での私の私見によるものですので、ご了承ください」
 また考えることが増えてしまった。減らす為に問いかけたのに。本条は肩をすくめ、美咲に聞いた。
 「現在の計画はそのまま進行してよろしい?」
 「無論です」
 「分かりました。新しい報告に期待します。では美咲、くれぐれも行動は慎重に」
 「了解しました、会長」
 本条は携帯をポケットにしまうと、ため息を着いた。偶然、それは電話の子機を机に置いた由美のため息と同時であった。そして二人は同じことを思った。長い一日になりそうだ、と。



第五章


 自室で夏掛けのタオルを腹だけに乗せ、寝込んでいた加賀壬宏子は目覚ましの音に気が付いた。うーんと唸りながら目覚ましのスイッチを叩く。しかし、その音は鳴りやまない。あれ? 不思議に思った加賀壬はそれが携帯のコール音だということに気が付いた。
 まぶたをこすりながら手を伸ばす。寝付く前に前原と電話していたので、それは枕元に置いてあった。手に取り、受信ボタンを押しながら、ディスプレイに出ている発信元非通知の文字に一瞬顔をしかめたが、そのすぐ上に出ている時刻を見て口をあんぐりと開けた。05:29。はぁ?
 「おはよう、加賀壬さん」
 その声には聞き覚えがある。はて、誰だっけ・・・と、突然その相手の姿が脳裏に浮かんだ。ぎょっとしてベッドから跳ね上がり、携帯を落としてしまった。布団の上に落ちたそれを即座につかみ、直立不動の状態で耳元に当てる加賀壬。
 「お、お、おはようございます、会長!」
 電話の向こう。美咲由美はうつむいて目を閉じたまま口を開いた。
 「窓を開けて」
 「は?」と反射的に答えながら、加賀壬は窓を見た。正確にはカーテンを、だが。すぐに窓辺に歩み寄り、片手でカーテンをスライドさせる。外は明るかった。ベランダの向こうはすぐ隣家だ。何か見えるのかと思って机の上に載せていた眼鏡をかける加賀壬であったが、窓の外に特に注意をひくものはない。携帯を片手で耳元に寄せ、もう片手でサッシのロックを外す。からからと開きながら加賀壬は答えた。
 「あ、開けましたが・・・」
 その時、一陣の風が舞った。カーテンがふわっと翻り、加賀壬が思わず目を閉じる。そして再び開けた時。目の前に美咲がいた。
 驚くことも忘れ、加賀壬はきょとん、と目を丸くした。
 「座って、加賀壬さん」
 由美は窓辺に立ったまま加賀壬にそう告げた。反射的に後ろに下がり、ベッドに腰掛ける。朝日を背に受けた美咲はその瞳を加賀壬の目に向けたままだった。彼女が驚愕から立ち直ったのを見てとり、美咲は本題に入った。
 「北村茉莉香さんが事故に遭いました。意識不明の重体です」
 優に十秒はかかった。美咲の言葉を加賀壬が理解するまでに。眼鏡の中の大きな瞳が凍り付いたように動かなくなり、その肩は骨が外れたかの様にがくりと下がった。
 「一条電鉄の地下鉄工事現場でです。友人の父親が超常現象に出会ったかも知れない。昨夜その相談を友人から受けた北村さんは今朝未明に友人宅を訪れました。2時頃にその父親の様子がおかしくなり、家を出て工事現場に不法侵入しました。北村さんは彼を追い二人共に事故にあったようです。詳細はまだ分かりません。ただし、これだけは確実です。魔性の痕跡はありません。異界からの進入の痕跡もありません。よってこの事故に対し、超常現象研究会が調査を行う事もありません」
 加賀壬の目がゆっくりと瞬きした。と同時に涙があふれ出す。口元が歪み、わずかに開いたその唇から声が絞り出される。
 「ま り ちゃんは・・・ 」
 「医学的には昏睡状態です」
 「だい じょうぶ ですよ  ね?」
 「当家の術者が由見のわざにて確認しました。北村さんの魂は既に現界にはありません。彼女の精神は、その肉体を離れました」
 美咲の声は淡々としていた。なんの意志も感情も示さないその声。その言葉が加賀壬の胸に落ち着くまでまた数秒。
 「うそ・・・」
 両手がゆっくりと持ち上がり、顔を覆った。己の頭をつかむように。眼鏡のフレームがぎしっと音を立てるほど、強く。
 「うそだー!」
 絶叫。そして加賀壬は号泣した。


つづく