<超かいき★くえすと>くえすたぁず

 

第二十話:加賀壬さん茶会す

 

von:秋澤 弘

第一章

 先行車は小型のベンツでほぼ市販品のままである。本条家のお抱え運転手桜田は無表情で夜の市街地を見つめていた。その隣り、助手席には偵察役のOB、田内勇気が開け放った窓から大口径のノクト・プラズマ・ビジョンを突き出し、前方、上空とせわしなく動かし続けていた。彼は在校中バスケ部の名センターで鳴らした男である。体育系の大学に入学し、まだ1年ながらも期待されている新人だ。
 その巨体の影に隠れるようにして、後部座席に正座した状態なのは同じくOBの箕輪裕太。清めの塩を開発したのは彼だ。今は精進の通う零峰大学の系列である零峰医科歯科大の学生である。見た目に何の特徴もない彼は強いて言えば猫背の小男という所か? 高校時代、部活でも三年をヒラで通したし、その天才的な調合センスが無ければ誰も名前も顔も覚えてはいなかったであろう。

 その箕輪が手渡した清めの塩をバックに入れておこうとして、彼らの後方、リムジンの車内にいる加賀壬は袋越しにもそのサラサラした感触に「?」を浮かべた。
 加賀壬の正面で、彼女に向かって座っている本条が声を掛けた。
 「結晶が細かいのですね? それは箕輪が自分で調合したものでしょう。それを物理部の前部長、精進が組み立てた機械で量産化したのが通常の物です。量産品の単結晶式とは比較にならない程純度が高い、本物の清めの塩ですわ。日持ちしないのが欠点なのですけれどもね」
 そうか、あれが「天才薬剤師」が枕詞になってる箕輪先輩か。そう思った加賀壬はそれを手渡した猫背のOBを思い出してみたが、あまりはっきりと覚えていなかった。本当に目立たない人物だったのだ。
 本条の隣りでは美雪が腕を組み後部の窓から背後を警戒していた。先行車とは違い、こっちは特注のリムジンであり、防弾の他に防霊のための鉛も埋め込んである。ガラス部分も札を張り付けてあり、車内は対霊体用の小型要塞だった。前部座席には運転手と本条のボディガードである本間が乗り込んでいた。本間は筋骨たくましい30代の男。MP体相手ではその筋肉はあまり意味がないが、その意志も肉体同様に強靱だ。お嬢様の盾となり幽霊にでも向かってゆくであろう。
 今、彼の目はダッシュボードと天井に設えられている四台のモニターにせわしなく向けられていた。
 輸送隊の最後の一人、前原は加賀壬の隣りにじっと座ったまま、目をつむって動かなかった。両手は膝の上で重ねられている。しかし、一度動き出したのならばそのナックルの力を遺憾なく発揮するであろうという事を、真向かいに座る美雪は察していた。同じ拳で闘う者同士、その細身の肢体から発する闘気ともいうべきものを見抜いていたのである。
 加賀壬はバックの中を入れ直し、なるべく薄くなるように調節した。その後で同席しているのが全員女性であるので、「失礼します」と言い訳をしながら中腰になり、キュロットのボタンを外した。
 前原が鞘を固定したのは背面ではなく前面だった。車に乗ることを考慮してである。懐刀はダガーというよりはナイフというところだ。加賀壬がチャレンジに持って行っているマチェットの鞘とあまり大差ない。しかし、それでも小柄な加賀壬にはでかいシロモノだ。右腹と左足の付け根にぎゅうぎゅうと押しつけられており、なかなかに痛かったのだ。
 紐を指先で掴むと、腰に沿って回すようにして位置をずらす。右腰の骨盤に当たって痛かったが、少し上にずらすとさっきよりはマシになった。
 キュロットは失敗だったかなぁ。そうは思うが、もしスカートだったなら布で抑えることもできない。布地の厚さではデニムのジーンズもかなりの丈夫さだが、逆に体のラインを明白にするので、隠し持つには不利だろう。そう思うとコーデュロイ風でだぶっとした感じのこのキュロットでよかったのかもしれない。美由美がスカートの下にガスガンを隠し持っているのを見たことがある加賀壬は、彼女が太股に巻いていたレッグホルスターの購入を真剣に考え始めた。ただ、シャワールームの更衣室でそれを付けているのを見た限りでは随分大仰なシロモノだったし、自分の短い足で止められるのかどうかが不安だったが。

 その時だ。先行車が急に右折し、リムジンもそれを追って交差点を曲がった。中腰だった加賀壬は勢いで倒れ掛けるが、前原がその腰を支えてくれた。
 「どうしましたか!」
 本条の鋭い問いかけに本間と箕輪の返事が同時にスピーカーから響いた。
 「先行車がコースを外れました」
 「前方上空に飛空物体!」
 「箕輪、詳細を!」
 先行車の後部座席で箕輪は左右の窓に目を走らせながら答えた。
 「空の一角が一瞬赤く光った。10時、今だと7時アルファ。田内の指示で曲がった。距離も高度もよく分からなかった。多分百メートルくらいだと思う」
 本条も慌てて窓の外に視線を送る。方位は時計指示式で8時。前を12時、真後ろを6時として時計の文字盤に合わせている。発見当時10時、左前方だったが、コースを変えた今は7時。左ななめ後方。時間に続くアルファは高度Aの意味だ。Aは上空、Bは低空、Cが地上、Dは地中近く、Eが地中深く。敵位置は7時A。逆向きに座っている本条からすると右前方上空だ。彼女の位置からではほとんど見えないし、赤く光った以上MP体、しかもブランクアウト中であろう。先導車がうまくノクトビジョンをあててくれない限り見えないに違いない。それでも首を回して目を向けながら同時に付近の道路図を頭に浮かべ、本条が指示を出した。
 「昭和通りは避け、久留米東交差点で北に向かいなさい!」
 「お嬢様、本日は新幸橋まで地下鉄工事の車両通行止めでございます」
 スピーカーから桜田の声がすかさず返ってくる。そうか、一条電鉄の工事は車両の少ない連休深夜に集中していた。思い出した本条は先行車のドライバー、桜田に一任した。
 「任せます。見晴らしの良い道を避け、なおかつ付近になるべく人家のない道を探して美咲屋敷に向かいなさい」
 「はいお嬢様」
 目標は自分の姿が赤く染まったのに気づいているはずだ。つまり、こちらの戦闘態勢に気が付いたという事でもある。
 加賀壬は開田から借りたG17.5を握りしめた。グリップに巻き付けてあるスイッチが入り、ノクト・プラズマ・ビジョンの目に見えぬ光が伸びる。それを窓の外に向ける加賀壬。
 「加賀壬、止めときな。電池、そんなに持たないんだよ、そのタイプのは」
 美雪の言葉に驚く加賀壬。そうか、こんなに小さいんだ、電池も小さいのか。納得してまたガスガンをバックにしまった。
 ガスガンに付いているのとは十倍以上の容積がある大口径ノクトを持つ先行車の田内は、全身に冷や汗が流れるのを感じていた。プレッシャー。必死に上空を、そして前方を照らすが、さっき一瞬見えた赤い物の姿は見えない。だが。近い。すぐそばだ。田内は手の震えを抑えきれなかった。
 プレッシャー。それはリムジンに乗る美雪と前原も感じていた。
 いる。すぐそばに。
 疾駆する二台の車。その速度に追いつく何かが。
 桜田が選んだのは高架に沿う道路だった。右側は鉄柵の奥に一条電鉄の私有地、左は倉庫街だ。零上川とほぼ並行して進むこの高架は南北に走る。彼らの進路の先、北に向かうと美咲山の麓で大きく右折する。そこを直進すれば美咲家の私有地に入り、そこからなら美咲屋敷まではすぐだ。
 「うわぁっ!」
 スピーカーが叫び声を伝えたのと、フロントウィンドウから見えていた先行車のテールランプとブレーキランプが軌跡を残して真横に流れたのは同時だった。
 ハンドルが右に切られ、速度を落とした先行車が鉄柵を吹き飛ばし、資材置き場らしいプレハブ小屋につっこんだ時、それはリムジンのほぼ真横だった。
 加賀壬たちは見た。助手席に座る者が必死に身を動かした刹那、ドライバーと重なって深紅の発光体が浮かんだのを。そして次の瞬間、助手席のドアが弾け飛んだのを。
 本条はリアウィンドウに消えてゆく先行車を見つめながら、美咲に知らせようと車載電話を手にした。本間もまた、別の回線の電話を握った。
 美雪は中腰になると左手で窓上部に付けられている細いロールバーを握り、彼女の右、つまり進行方向左側に鋭い眼光を放った。それを見た前原は加賀壬のきゃしゃな体をぐいっと持ち上げて自分と位置を変えると進行方向右側を睨み付けた。
 ガン、という大きなショックがリムジンを揺らしたのはその瞬間だった。
 悲鳴がわき起こる暇もなく。続けてさらに大きな衝撃が床下から起こりリムジンの巨体を宙に浮かせたのだ。そのまま大きく車体は傾き、車止めを乗り越え、鉄柵を引き倒し、高架の支柱に直進した。助手席で額から鮮血を流す本間は運転手が昏倒しているのを知り、エアバックに抑えられていた右腕を跳ね上げてハンドルを右に切った。支柱ぎりぎりでそれを避け、彼の右腕は今度はシフトバーに向かうが、運転手の体とエアバックでそれは遮られていた。一度体を戻し、きしむ背骨を無視してシートベルトを外すと再び車を止めようとチャレンジに向かう。だが、その時、都合三枚目の柵であった金属板を車体が弾き飛ばし、フロントウィンドウ一杯に視界が広がった。その先は零上川だった。
 再び大きく車体が跳ね、本間は数秒先に待つ事態を悟った。この車両はあらゆる事故に備え万全の防備を施してある。催涙ガス程度であればベンチレーターが効果し、三時間は浄化し続ける。車内にいれば安全だ。しかしそれは車外に空気があればの話。今、このリムジンは最後の抵抗を乗り越え、一直線に零上川に向かっている。河川敷を越えたら3メートル程下の水面に落ちる。車内の空気だけではこの重装備車両を浮かせることは出来まい。沈む。間違いなく!
 本間は理解すると一瞬の躊躇もなく、ハンドルの根本にある緊急用のレバーを引き絞った。各ドアを固定しているボルトが一気に外れ、火薬が総てのドアを外に弾いた。と同時にシートが回転し、エアバックもろとも搭乗者を外に投げ出した。だが衝撃で歪んでいるのか、前部座席は回転が途中で止まってしまった。目の端で河川敷の草むらに投げ出される主人を見ながらも、本間は昏倒した運転手の安全ベルトを外すべく腕を伸ばした。
 その瞬間。数度目かの衝撃にリムジンが大きく揺れ、水面に落下した。

 水柱が上がったのを見て、白石春香は路上で飛び上がって大喜びだ。
 「すっごーい、ばちゃーん、だって、すっごーいィ! 映画みたいだぁ!」
 その足元には既に原型を止めていない、金属棒が落ちている。持ったまま地表下を高速移動し、車体床下から突っ込んで手を放したバールだ。いきなり実体化したバールはそれはすごい事になっていた。リムジンの方はもっとすごかったが。


第二章

 「大丈夫か、加賀壬宏子!」
 受け身を取って衝撃を流しはしたものの、左腕をひねった激痛に顔を歪める前原が加賀壬に駆け寄った。加賀壬は恐怖に顔をひきつらせていたが、速度が落ちていたとはいえ、走行中の車両から投げ飛ばされたとは思えないほど軽傷だった。座席から立ち上がっていた美雪が、咄嗟にエアバックごと加賀壬を抱きかかえ、自分をクッションにしたのだ。その分、美雪の受けた衝撃は大きかったが、彼女は根性で立ち上がった。
 「あ、あの二人は! まだ車内に!」
 水辺に駆け出そうとする美雪を制したのは本条だった。
 「ほ、本間が、本間がいます! 彼に任せなさい」
 きしむ肺から無理矢理声を絞り出す本条は四つん這いの状態だった。腰に受けた衝撃で立てなかったのである。だが、頭脳は既にフル回転をしていた。脳裏に浮かべた地図でこの場所を推測し、周囲の景色からその確信を得た本条の震える声が加賀壬に向けて掛けられた。
 「生徒会室の、キーは・・・ありますか?」
 「え、は、はい!」
 加賀壬は生徒会室の奇妙なスティック状のキーを思い出した。おうちの鍵と一緒にキーケースにしまってある。それは開田に借りたバックの底にさっき押し込んだばっかりだ。
 美雪に支えられ、本条百合恵は加賀壬の側に来た。
 「三番ロッカー。対MP体用の・・・シェルターです。そ、そのキーで・・・開きます。
 な、中に入って内側から閉めれば、外からは・・・開きま・・・せん・・」
 本条は咳き込んだかと思うと、不意にぐったりと美雪の腕の中に崩れた。気を失ったのである。
 「先輩! 先輩!」
 「あいつがすぐに来る。行け、加賀壬!」
 だが美雪の声は加賀壬には聞こえていない様だった。崩れ落ちた本条に必死で呼びかけ続けている。
 「せ、先輩、先輩ィいい!」
 「加賀壬!
 ・・・。
 前原、頼む!」
 美雪の声に答え、前原が力強く頷いた。加賀壬を右腕で抱え、痛みの走る左手でその口を押さえた。視線を交わす仲田野と前原。
 加賀壬を抱えながら前原が走り出した。前方に見える橋を左折すればすぐに彼らの母校である。生徒会室にあるというシェルターに最後の希望を灯し、前原は河川敷を去った。

 「さぁて、と」
 美雪はつなぎの大きなポケットから美咲の御神酒とっくりを取りだした。これは一昨日、探索に出る前に美咲から貰ったのだが、使わなかったので残っていたのだ。肩掛け鞄にいれておかなくて正解だった。そこにあったのなら、携帯と一緒にリムジンの座席脇にある荷物入れに入ったまま、今頃水中だったろうから。
 それはどう見ても単なる陶器なのに、先程の衝撃にもびくともしていない。細長い首なんか簡単に折れそうなのに。前に一度三階から落ちるのを見たことがあったが、コンクリの上で二回バウンドしてもヒビ一つ入っていなかった。一緒にはね飛ばされた持ち主本人も風の精霊を呼んだとかでふわりと降り立ったが。
 「まぁ美咲ンだからなぁ」
 たいがいの不思議はそれで納得してしまう仲田野美雪。だがその仲田野家自身が美咲家の傍流であると、彼女はまだ知らない。知ったとしても生まれつき全く術力の無い彼女には美咲の呪法は全然関係ないことだった。しかし、彼女の体に、薄いながらも確かに流れる美咲の血と、かつて誇り高い戦士であったその力強い魂があってこそ、仲田野美雪だった。彼女の鋭い感覚と戦闘技能は血と魂から受け継いだものなのだから。
 酒飛沫を両手の拳ごとナックルに吹きかけ、美雪は仁王立ちで待ち受けた。その視線の先には河川敷の草むらをなめらかに滑り降りてくる女高生がいる。
 「なーんだよー、あんたか。ん? それ、お嬢? 本人乗ってたんだ。へぇー」
 「ああ。お前にやられたんだよ、白石」
 「えー、知らないわよそんなの。夜中にあんな長い車ぎゅんぎゅん走らせてちゃ、何かあるって思うのが人情でしょ?」
 美雪は冷たい口調で揚げ足を取った。
 「お前に人情を語る口はないよ。霊情、の間違いだろ?」
 「ふぅ。どうやら痛い目に遭わないと、その口の悪さは直んないみたいね。でもさぁ、お嬢は寝てるし山口いないじゃん」
 そう言って白石は美雪のすぐ側まで来ると大げさに目の上に手をかざし、左右をきょろきょろと探して見せた。
 「あんた一人でどーすんのよ? 山口の腰巾着がさぁ、ふふふ」
 そう言って笑い始めたその腹部に。美雪の拳が突き刺さった。MP体の魔性すら撃破するその衝撃に、咄嗟に真後ろにジャンプし、さらに上空5メートル程まで跳ね上がる白石。
 「ぐぅっ・・・。いったぁ・・・。やったなぁ!」
 深夜の河原。長い鉢巻きを締め、戦闘服である白のつなぎに身を固めた拳神、美雪が敵を睨み付ける。その敵。三年前の同級生は当時の学生服姿のまま、上空に漂う。美雪は落下のショックでまだ足腰が鈍っているのが一目瞭然だ。しかし、美雪の根性と上空にまで跳ね上がってくる跳躍力の怖さを白石春香はよく知っていた。あれはものすごく痛かった、と。彼女は間合いぎりぎりから一気に詰め寄るため、空中をにじり寄っていった。


第三章

 橋を左折したあたりから加賀壬も自走していたが、もとより彼女は走りが遅い。この前の百メートル走ではクラスでペケから数えて二番目。いわゆるブービーである。そのため前原に腕を引っ張られ、それに引きづられているというのが正解だった。時折すっ転びそうになると前原がぐいっと持ち上げるため、打ち身で既に痛んでいた右肩は抜けそうなほどだった。
 裏門に到着し、加賀壬は荒い息を整えながらずれてしまった眼鏡を戻した。開田母が包帯を調節して眼鏡を留めてくれたのだが、それがなければとっくに振り落としていたであろう。加賀壬が開田のおばさんに感謝した途端、左腕が引っ張られた。鉄扉によじ登った前原がその上から加賀壬を引っ張ったのだ。視界がぐるんと回転するその感覚に硬直する加賀壬。その腰がさらに持ち上げられ、気が付くと校庭の端に立っていた。そのすぐ脇にすとん、と着地する前原。
 「さぁ、早く!」
 きょとんとしていた加賀壬はせかされてまた走り出した。
 この時、普通校舎の陰、校門の方が明るいのに二人は気が付かなかった。もし校門の方から来たのであれば、右奥に消防車を白く塗った様な見慣れぬ大型車両が止まっていたのに気が付いたであろうに。

 精進が在学中に作り上げたプラズマ分離式発電器は記念講堂の地下に設置されている。セキュリティーカードを差し込み、制御室の鍵を開け、中に入った香坂はすぐに電源を入れた。卒業してまだ一月程。この部屋はほとんど精進が見慣れた姿のままだったが、右端に真新しい折り畳み机とその上に並ぶ二台のノートパソコンがあった。神宮司つばさが持ち込んだ私物だ。それを目にして立ち止まる精進に香坂が声を掛ける。
 「さぁ室長、急ぎましょう!」
 「あ、ああ」
 既に黒田のチームが講堂基部に設置されている奈落状の穴からケーブルを通したらしく、電源は供給準備終了していた。安全のためにまだ接続はせず、二人は分離器にくみちゃん3号を接続する準備を先に始めた。精進が基幹ソフトを、香坂がVer.5用の最新パッチあてを担当しキーボードを叩き続けた。
 スタッフ二名に黒田たちも手を貸し、トランクケースに入った「くみちゃん3号Ver.5」を苦労して降ろしてきた時には総ての準備が整っていた。
 Ver.5は基本的にたった二人で操作できる。探知した波動を測定、記録、演算するためのメインオペレーターと、装置のハード面を制御するサブオペレーターである。後者はコパイロットに習ってコオペと呼ばれていた。
 「香坂君、コ、コオペを」
 香坂麻妃はケーブルを確認すると無言でうなづき、トランクの短辺側に立った。長辺側の一方に精進が立ち、プログラムを起動している。
 「じゃ、まず初期設定を最遠にしないと・・・」
 「はい室長」
 香坂はプログラムが立ち上がると、安定するのを待ち、受信部と増幅部のバーに手を掛けた。このくみちゃん3号は対魔性戦用に準備されており、初期設定では魔性の結界内でその本体を見いだすのに便利なようにクローズアップになっているのだ。それをキロ単位に修正するのはこれまでならキーボードからの指示で良かったのだが、このVer.5は小型化のため、手動で受信部を増幅部から離す構造だったのである。
 「90%・・・」
 香坂が増幅器の安定を示す波状のオシログラフ画面を見ながらもうすぐだと考えた時、精進の動きが止まったのが見えた。
 「室長?」
 返事はない。牛乳瓶底と称される精進の眼鏡が半分ずれ落ちていた。そこから見えた目は大きく見開いている。
 はっとして身を翻し、精進の前にあるメインモニタを見る香坂。今、デフォルトの初期設定のまま、くみちゃん3号は高校の敷地全体という程度のスケールで周囲の高位空間を示している。そこに。等高線を模したラインに大きく浮かび出る、異常なほど強力な波動が示されていた。ここからほんの百メートル程の所に。そしてその上に自動識別プログラムが書き込む文字と照合正否確率が浮かんでいる。
 「 <S>  99%」と。
 5秒ごとのサーチ結果によって走査線が上下に走り、最新情報に書き替えられてゆくモニタ画面。そのSと描かれた波動はすごい速度で進んでいる。しかもその波動の強さは尋常ではない。間違いない、戦闘態勢だ。
 それを認識した精進と香坂。二人は次の瞬間全く別の行動を起こした。
 すぐにメニューバーからデータ保存を選択し、さらに足りない容量を補うべく、サブのHDの接続を急ぐ精進。
 携帯を手に取り、美咲の番号を短縮で掛けながら、はしごに向かう香坂。
 脇にいたスタッフたちは唖然としたまま、そのモニタに食い入るように見入っていた。これはテストではないのだ。実際に、このすぐ側にランク・トリプルSクラスの幽体がいるのである。彼らはその事実に恐怖するよりも先に茫然自失としていた。

 管理棟の脇にある外階段。二階まで駆け上がったのが加賀壬の限界だったらしい。彼女は前原に抱えられながら、何とか足を持ち上げるのが精一杯だ。三階に向かう踊り場を過ぎると、もう足を上げることもできなくなった。
 「はぁ、はぁ、す、少し・・・」
 休ませてという声を出す余裕もなく、加賀壬は前原の左肩に担ぎ上げられる格好になっていた。引っ張られている右肩がずきずきと痛むし、押しつけられた脇腹も、そして背骨もみしみし言うほどだった。加賀壬は声も無いまま外階段の天辺に着いたことを知った。
 鞄のフラップを開け、腕を突っ込もうとするが右手が言うことを聞かない。左手を代わりに突っ込み、携帯用の250mlガスボンベの下敷きになっていたキーケースを引っ張り出した。だが、片手、しかも左手ではケースを開けることもままならない。前原がすぐにケースを受け取り、ホックを開けた。
 「どれだ? これか?」
 「ううん、一番左の!」
 加賀壬は指示を出しながらも、前原の手も震えているのに気が付いていた。彼女の筋肉も既に限界に来ているのだろう。そう思った。実際には前原は車から投げ出されたときに左肘を痛めており、少し動かすだけで激痛が走る状態だったのだが。
 がち、がち、と前原が鍵を鍵穴に差し込もうとして数度ミスったが、なんとか開けることが出来た。すかさずキーを引っこ抜くと重い鉄扉を開く。と、同時に警備会社のアラームが鳴りだしたが、それは二人には分からない。転がるように管理棟に入る加賀壬。その脇をすり抜け、生徒会室と立て札がかかっている部屋の扉に飛びつく前原。
 「ここはどれだ!」
 だが振り返って見た加賀壬は声を発すべく息を整えようとしてはいるのだが、今は呼吸するのがやっとだ。仕方なく前原は薄明かりの中で鍵穴を見た。それは通常の縦長ではなく、7ミリ程の正方形だった。
 キーケースに入っている細長い棒状の物に目星をつけて差し込む。しかし、回る構造でもないし、押し込んでもドアノブは空回りだ。
 違うのか? 前原はすぐに抜き取り、別のを探そうとしたが、加賀壬が左手を伸ばしてキーケースの外側に出ている今のスティックキーを掴んだ。
 「じ、上下が・・・」
 加賀壬の咳き込むような呼吸の間にそれだけ聞き取ると、前原はそのキーをよく見た。棒の付け根、平たい握りの部分の片側に三角形が彫り込んである。これか! 前原は鍵穴を見たが、自分の陰でよく見えない。すぐ脇にどくが加賀壬の陰にもなっていると悟り、上だろうと見当を付けて差し込む。するとさっきは根本から数ミリの所が入らなかったキーが、がつん、と最後まで差し込まれた。
 すぐにノブに手を掛け、開きながら、痛む左手で何とかキーを引き出した。
 「ど、どこだ!?」
 生徒会室は校則通りにカーテンが畳まれた状態だった。外にある水銀灯の明かりが天井に反射し、室内は結構明るかった。Sを呼び寄せるのを恐れ、蛍光灯をつけるのを躊躇った加賀壬だが、この明るさなら十分に歩ける。すぐに左手壁に並ぶロッカーに向かった。
 それは保管庫であり、一番窓側が本条の言った三番だった。先週、書記の宮乃に頼まれて書類整理を手伝った時、その下側は開けなくていいとも言われていた。そこ以外、一杯であることを知っていた加賀壬はすぐにその下側のロッカーに駆け寄った。いや、駆け寄ろうとした。
 ぐいっと前原が加賀壬の左腕を後方に引っ張ったのと、顔の寸前で風が起こったのはほぼ同時だった。
 「あー、避けられたぁ」
 加賀壬の思考が停止した。彼女の右のつま先。そのすぐ先から、ゆっくりと上昇してきたのはもちろんSだった。
 「やーっと見つけたわよ、眼鏡!」
 白石の両手が加賀壬の肩に伸びた。それを目にした前原は加賀壬を引き倒し、右に回り込んだ。すぐに長身を生かし、白石の頭上から拳を叩き込む。
 「ハァッ!」
 あまりの素早い動きに白石は瞬時立ちつくし、つむじからその一撃をまともに受けた。たかが拳であると甘く見ていたわけではない。本当に避けられなかったのだ。
 「ぎゃぁっ!」
 短い悲鳴を残し、彼女の上昇しつつあったその体は真下にめり込み、腹部まで床に沈んだ。
 痛い。ものすごく。敵はすぐに後方にステップを取り、第二撃を目指している。
 「あっち行っちゃえーっ!」
 白石は左足を思いっきり伸ばすと真横に蹴り込んだ。それは床下を突っ走り、前原の足元をなぎった。避けるどころか床下からのその攻撃を目で見ることもできなかった前原は下半身を左に払われ、会議テーブルに右手を付いて、かろうじて倒れるのを防いだ。そこに白石の二撃目。
 前原も、その後方で立ち上がり掛けていた加賀壬もその衝撃に室外にはじき出された。白石の右腕が2メートルは伸び、前原の胴に命中したままさらに2メートル伸びたのだ。女子とはいえ、人間二人分の体重を吹き飛ばした以上、白石も後方に弾かれているのが道理だが、腕のみHP、胴はMPという奇怪な状態で、白石の位置は全く変わっていなかった。
 ふわりと床から全身を、いや、存在しない膝下以外の全身を現し、白石は廊下に向かった。直撃を受けた前原はうめきながらも立っていたが、廊下の窓際の壁に叩きつけられた加賀壬は半分気絶状態だ。
 その加賀壬を庇い、前原が肩幅に足を揃えて型に入った。
 「参る」
 短い宣言。とん、という軽い感じでつま先を蹴った前原はいきなり三連撃を放った。だが白石は既に理解していた。怖いのは右手だけだと。そこに鈍く光るナックルがやばいのだと。前原が突き出す左の拳も、牽制に振り上げられた足も無視して迎え撃つと、白石は左腕を蛇の様になめらかに旋回させ、前原が付きだした右腕が戻る前にからめとろうとした。しかし、速度では前原に分がある。すり抜けると右足を軸にして回転し、遠心力も加えて再び右拳を打ち込んだ。白石は避けられないと悟ると咄嗟に集められるだけの気力を集中させ、右腕でカバーした。
 「ハッ!」
 「えいっ!」
 気合いと共に打ち出された精霊銀のナックルはまるで鋼鉄の壁にぶつかったかの様な衝撃を生み出した。その威力は白石の右腕を二の腕から四散させた。拳はそこまでで停止したにも関わらず、そのまま衝撃が、いや、拳撃がナックルから打ち出され、白石の左胸に突き刺さった。昨年度書道部部長、雄崎が自分の隊の隊長専用にと、精魂込めてしたためたその札には光だけでなく、合唱隊が歌い上げた風の精霊を呼ぶ真言も封じてあったのだ。木の葉のように舞いながら生徒会室の扉をすり抜けて消える白石。
 しかし、前原の方もその衝撃に腕の骨がへし折れ、反動で真後ろに飛ばされた。その先。やっと立ち上がった加賀壬の姿を認めた前原は右足を振り上げ、床のタイルにかかと落としを掛けた。ぐしゃっという嫌な音が響き、方向が変わった彼女の体は加賀壬のすぐ隣りの壁に叩きつけられた。
 「ま、前原さん!」
 「に、逃げろ、かがみ、ひ・・・」
 前原の声は苦しげなうめき声になった。前原に飛びつこうとした加賀壬は目の端に動きを察し、慌てて飛び退いた。そこに壁を貫通して伸びる白石の左腕。そして壁から現れるその本体。
 さっき吹き飛ばされたはずの腕も胸も元通りだった。だが白石の意識が成す技か、制服の右肩からは布地がなく、その胸もシミーズとブラジャーの破片が覗く大穴が開いて皮膚を見せていた。
 加賀壬は悟った。効いている。間違いない、効果はあるのだ。その再生力で見た目は戻っているものの、その実、上辺だけの補修であろう。そうでなければ、ダメージを感じていなければ、服も戻っているはずだから。
 加賀壬は自分を守って倒れた前原を、今度は自分が守る番だと理解した。その理解で冷静さを取り戻すと同時にガスガンを持ち、打ち込んだ。目をつむっていても当たる至近距離である。その白煙が腹のど真ん中にあたったのを見た加賀壬は銃口を右上に上げ、一気にトゥリガーを引き絞った。たかが塩玉。そうなめていた白石は突き刺す痛みに身をよじり、己の判断の甘さを呪うことになった。このガスガンは単射式のGタイプ17をベースに連射式のGタイプ18に近い機構を組み込んだ、通称G17.5と呼ばれる物だ。これもまた時の超常研のエース、開田隊隊長の為にワンオフで作られたスペシャル仕様である。精進が耐久度ぎりぎりのMAXパワーに合わせ、自分で旋盤とヤスリで組み立て、さらに美由美が微調整していたフルオートシアーが叩き込む弾は通常の比ではない初速を有する。連射になった途端、塩弾はその衝撃で粉砕され、粉と化した。それが高速故に針のごとくに叩き出される。ニードルガン化したG17.5の残弾は総てが、まだ再生の終わっていない左胸に吸い込まれたのだ。
 衝撃に気力で耐え、カッと目を見開き、白石が目にも留まらぬ早さで左に回り込む。Magチェンジする暇もない。幽体特有の速度で移動し、なおかつ慣性0で方向を変えて加賀壬に真っ直ぐに向かう白石。
 「めぇーがぁーねェええー!」
 電光の様に。加賀壬に向かう白石に前原がきしみを上げる右足を振り上げて迎撃したが、激痛を感じ、硬直したのは前原の方だった。MP体に直接触してしまったのだ。加賀壬の名を叫ぼうとしたが足から来る、痛覚を越えたその刺激に指一本動かせず、声一つだせない前原。その彼女の脇で。加賀壬が投げたガスガンをその身に素通りさせてSが突っ込んだ。左腕を前に伸ばし、全身を槍の様にして。
 ドン、という腹に響く重い衝撃。キリと化した白石の先端が加賀壬の腰にぶち当たったのだ。
 加賀壬は両足を床から浮かせ、吹き飛ぶ。その体を串刺しにせんとそのまま突破をかける白石。だが、数メートル押されたにも関わらず、加賀壬の体は力無く、くの字に曲がったまま、串刺しにも引き裂かれもしなかった。
 左手の伸ばした指先。その先端に抵抗を感じていた白石は気力を集め、一点突破を掛けた。
 「死んじゃえーっ!」
 廊下中の空気がそこに集中したかのような密集度で、白石の力が加賀壬の腰に炸裂した。
 「加賀壬宏子ぉーっ!」
 前原の、己が命を絞り出すかのような絶叫。
 その時、Sの指先はショルダーバックの中にあり、ここまで抵抗していた箕輪の努力の結晶、清めの塩の結界を遂に突き破った。そこでかなりの気力を吸い取られはしたが、勝利を確信した白石はにまっと笑むと思いきり指を伸ばした。ぐんと中に食い込む感触。精神安定剤の瓶が砕け、ガス缶が破裂する。その指先は、ガス缶が気化熱を奪い、瞬時に凍り付く加賀壬の肌に食い込んだ。と、その指先に肌ではない堅い物が触れたが、白石はそれごと指を加賀壬の内蔵に食い込ませようと突き刺した。
 「ぎやぁぁぁ!」
 廊下を震わす悲鳴。その主は白石だった。
 凍り付くように空中で動きを止めている二人。前原の目にはその二人の間に立ちふさがる者が見えた。
 「いざや大君! 打ち出し彼の敵を、祓はせ賜へ!」
 白装束の前原照正がその両手を差し出したかと思うと真っ白な閃光が輝いた。光は一瞬でかき消えた。照正の姿と共に。
 次の瞬間。二人はカタパルトに打ち出されたように飛んだ。加賀壬は廊下の奥に。白石は正反対、前原の頭上を通過し、鉄扉の向こうに消えた。
 前原は肘の痛みをこらえながら左腕一本で体を跳ね上げると左足を床に着け、思い切り飛んだ。そのまま空中で回転し、また左腕を地に付け、再び飛び上がった。片腕と片足だけで回転しながら廊下の奥に迫る。しかしそこに加賀壬の姿はなかった。
 この奥か! 目前に迫る扉に体当たりを掛けた前原。しかし、その両開きのドアはあたかもコンクリの壁の如くに前原の体を弾いた。床に叩きつけられる前原。激痛に顔をしかめながらも周囲を見るが求める姿はない。生徒会室のドアからここまでは他に扉がなかった。なら、必ずこの奥に!
 前原は全く感触のない右足を扉に押しつけて体を支えると左足で立ち上がり、ドアノブを掴むが扉は開かなかった。いや、このノブは壁に直接埋め込まれているかのようにまるで動く気配がない。前原は左腕を振りかざし、扉を思い切り叩いた。どんどん、という音が空しく響く。
 その間に白石は舞い戻っていた。窓際の壁から姿を現す。今度は制服も元通りだ。しかし、その顔色は真っ青だった。白石は幽霊なのだが、普段その顔色は血色が良く、健康優良児に見える。昼間、プールにいた時にもその健康的な肌を惜しげもなく見せていた程だ。しかし、今やその皮膚は病的に白く、透けているようだった。
 ゆらり、ゆぅらり・・・。歩く真似ももうしていない。その幽鬼のごとき姿で廊下の奥に迫る白石、いやS。
 前原はその気配に気づきもせず、懸命にドアを叩いていた。涙がこぼれ落ちる。
 「か・・・かが・・・み・・・」
 前原の唇が歪み、声が絞り出される。会いたい、今すぐに会いたい人物の名を。
 前原は右腕の下腕部が折れているのも気にせずに左右の拳を重ね、ドアを叩いた。
 「かがみひろこぉぉぉ!」
 叫び。
 その時。Sが冷たい瞳で見つめる中で。扉がまるで自動ドアの様にすっと開き、支えを失った前原がその中、漆黒の闇の中に転げ込んだ。すかさず音速に迫る速度になり、その中に飛び込もうとするS。しかし、その目の前で扉は閉まった。驚愕するS。あの距離なら1/10秒もあれば中に飛び込めるはずだったのだから。しかしその戸はゆっくりと動き、まるで何事も無かったかのように完全に閉じていたのである。


第四章

 加賀壬は背中に受けたショックで再び意識を失い掛けた。彼女を覚醒させたのは頭上から振ってきた本やファイルの束がどさどさと落ちてきた衝撃だった。危ない、後少しずれていたら頭に直撃だった。ぼんやりとながらそれに気が付くと、自分がまだ生きているのを理解した。
 痛む首に顔をしかめると今度は頬の傷がうずく。なんとか周囲を確認してみるが、うすぼんやりとした暗がりの中で周囲に本やら段ボールやらが散らばっているのが見えた。ここ、どこ? 正常に反応しない頭にいらつく加賀壬。その脳に霧のようにかかっていたショックが薄れてくると思考が徐々に復活してくる。と、左手のすぐ側に小さな瓶が落ちているのに気が付いた。小さめの化粧水の様な瓶。その天辺はお札で包まれている。開田に渡された霊水だ。ショルダーバックに入れて置いた物だった。バックは腰に止められたままだが、直径10センチ程のまん丸い穴が開いているのが見えた。ぎょっとする加賀壬。自分のお腹に開いているように見えたからだ。
 戦闘中に霊水を飲むのは自殺行為とも言われている。効果するまでの数分間、全身がしびれて動けなくなるからだ。だが、今は躊躇している暇はない。右手は思うとおりに動かなかったので左手で霊水を掴んだ。ガラス製の冷たい感触はなく、それは暖かくさえ感じた。口でお札ごとコルクらしい栓を噛み、引っこ抜いた。乾ききった口元に栓がくっついたのをぺっとはじき飛ばし、貴重な液体を喉に流し込んだ。
 き、来たっ! くー、この感触・・・。気持ち悪りー・・・。
 加賀壬は全身が爆発するかの様な衝撃と、正座してしびれた様な、どうしようもないむずがゆさを感じた。Sがこの間に来ないことを祈って。しかし、その願いも空しく、飲み込んでほんの数秒というところで。周囲が不意に明るくなり、瞬時絶望が加賀壬の心を掴んだ。しかし、開いた扉から転がり込んできたのは前原だった。
 彼女の体はすごい勢いで室内に飛び込んで来た。テーブルの脇を滑り抜けるがその勢いは止まらずにごろごろ、っという感じで資料棚に体当たりをした。棚はその衝撃に向きを変え、どさどさっとファイルやビデオテープが棚板から転げ落ち、力無く崩れ落ちている前原を埋め尽くすかの様に降り注いだ。加賀壬は体を無理矢理動かした。霊水が既に効果し始めている。動くのなら今しかない! 二回転がって前原の側に来るとまるで他人の腕の如く、思い通りに動かない手をバックの穴に突っ込んだ。幸い、こぼれ落ちたのは一つだけだったようだ、そこにはもう一つの霊水が見えていたのである。がちがちと歯に瓶がぶつかるが痛みは感じない。もう霊水の影響が出ているのだ。だとすると、いつ動けなくなるか・・・。
 前原は半分口を開けていたので何とか栓を開けた霊水をその喉に押し込んだ。呼吸器官に入らない様に上体を起こしてから入れるべきなのだが、今はもう加賀壬の体がついてこなかった。
 なんとか飲ませ終わったが、同時に加賀壬の動きも総て停止した。だが、まだ思考だけはほんの少し動いている。
 どうしよう、どうしたらいいんだろう・・・。
 加賀壬は既に後の祭り状態だと知りながらも解決策を必至で探していた。
 さっき前原が飛び込んできた時に開いた観音開きのドア。そしてその時に見えた室内の様子。加賀壬はここがどこなのかを理解していた。ここはこの学校で一番魔性を近ずけてはいけない場所。そう、図書室だった。
 ここはかつて魔性の巣であり、ゲートであった。魔性たちの残滓を、残留思念を香土岐先生が封印し続けている場所だ。もしここでSが暴れたら・・・。かつてここは香土岐によって核爆弾の保管庫になぞらえたことがある。それだけのものたちが封じられているのだ。
 霊水が全身に染み渡り、加賀壬の思考速度が鈍っていった。そして、ついにその速度は停止に至った。
 ああ、どうしよう・・・。どう・・・しよ・・・う・・・

 目の前で扉が閉じたことでSはカッとなった。このやろーと口の中でつぶやくと体当たりをかける。だが、この弾かれ方はとても尋常ではない。とても尋常ではないSでさえ全く隙が見えないのだ。
 扉からの潜入は一旦諦め、天井に上がり、屋上からの侵入を試みたが無駄だった。やけになり周囲全周を飛び回ったがどこにも隙がない。結局再び扉の前に立った。入り口が一カ所なのが分かった以上、ここから侵入すれば袋の鼠なのだと理解して。
 Sは目の前にある見たことのない結界にチャレンジし始めた。今までにも幾つもの結界を突破してきた彼女は自信たっぷりだった。未だに鉛板だけは通過できなかったが、その対応策はもう考えてあったのだ。鉛の部分だけ、何か道具で壊してしまえばいいのである。自分では鉛に直接触れることが出来なかったが、ハサミやさっきのバールの様なもので一カ所でも穴が開けばこっちのものだ。HPとMPを瞬時に入れ換えられる彼女ならではの方法だった。
 最初の結界はどうやら合い言葉の様だ。パズルのようなものだろう。なら簡単だ。パズルゲームは得意だから。そう理解し、精神を集中したSだったが、二秒後には降参するしかなかった。見知らぬ文字ばかりだったのだ。英語かとも思ったが違う。こんなくねくねしたのやら、ただ線が引かれているのやらという文字は見たこともなかった。
 「きーっ、許せない!」
 彼女はキレた。力でその封印をねじ伏せ、引きちぎったのだ。両腕がまた消し飛んだが、すぐに再生する。その分どんどん希薄になっていっているのは分かるが、今の彼女には疲労も痛みも感じられなかった。その意志はただ一つ、眼鏡をぶちのめすことしか考えていなかったのだ。

 遠く駅前のマンションで。風呂上がりの香土岐亮子は、やれやれという気分で机の上に山になった解答用紙を見つめた。面倒くさくて後回しにしていた結果、持ち帰るしか無くなったものである。今夜中に採点しなくてはならないのだが、その量がすごい。平均点が40を割るだろうという予測も気分を暗くしていた。また教頭から小言の一つも頂戴するだろう。結構教員というのも激務だ。はぁとため息をついたその時。ずきん、という痛みを胸に感じた。彼女の張った六重結界の最初の一つが破られたのだ。
 「ぴーちゃん!」
 声に応じ、小さな影が窓をすり抜けて舞い上がった。
 「結界を、私の結界を破るとは!」
 香土岐は最悪の事態に備え、呪殺用の式服を取りにワードローブに向かった。

 二枚目の封印もどうやらまた合い言葉式の様だ。どうやら数字だ。コードブレーカーなら山口にはかなわなかったが、それでも結構自信はある。Sはその封印をしっかと見据えた。見つめようとした。だがそれが見えた瞬間、彼女は気が遠くなるのを感じた。

 0100110011110110101001100010101100100110111011111100101001001101001100100100111011・・・

 無限に連なるかのような0と1の羅列。それはうねりながらこの部屋全体を囲み尽くしていた。Sは、いや、今やショックですっかり白石春香に戻っていた彼女は頭を抱えた。
 「うっわー、こんな長い数字ぃ、見たくない〜っ!」
 彼女の数学の成績は言うまでもないだろう。ちなみに美咲真由美も同じ理由で、あまりこの部屋を見ようとはしていなかったのだが。

 ここに神宮司つばさや精進徹が幽体離脱して立っていたのなら彼等はこの二進法をにらみ、その意味する数を出そうとしたに違いない。しかし、動いてゆくこの数字を変換するには高速な処理が必要である。MP体のパソコンを持っていない彼らも途方に暮れたであろう。
 ここに愛用のサブノートPCを持ったまま幽体化した美咲由美がいたのなら。彼女も数字を打ち込みながら時間切れになったに違いない。なにしろ、MPとコネクトするUSBもIEEE1394もないのだから、インターフェイスは目と手だけなのだ。美咲につばさ並の入力速度があれば何とかなったかもしれない。しかし、ハイフンもカンマもコロンもないその数字から意味を出すのはほぼ不可能だった。ましてやそれはもう一回12進法で変換しなくてはならないのだし。
 そこまで出来たとしても、そこに意味を見いだすのは美咲には不可能だろう。彼女は術者として優秀すぎるのだ。術の組み合わせを幾ら考えても無駄なのだから。そこに隠された真実に気が付く可能性があるのは加賀壬ぐらいである。彼女ならばキーワードを探そうとし、香土岐に思い至るに違いない。まぁ、実際加賀壬では第一段階から先に行くことが不可能なのだが。
 香土岐は教諭である。しかし、彼女は数学や物理担当ではない。彼女の専攻は世界史なのだ。そう、それはワーテルローやアジンクールの戦いといった年号を羅列してあるのだ。香土岐は以前加賀壬への魔術講義で自らこう言った。自分は物理法則と数字で「場」を作ると。そう、彼女はマスマジック、つまり数字魔法の使い手だったのである。

 この結界に白石は接触すら出来ずにいた。苦手意識がさらに結界を強めていたのだ。
 白石がうめいていた頃、その扉の奥で、加賀壬は何かの物音にはっとして目覚めた。霊水が誘う深い眠りの中で、まるで夢の中かのようなぼーっとした意識がその物音の方に向いた。目は開いていたのだが、今までその瞳が写す物は脳に伝達されていなかった。それが回線が一つ、また一つとつながったかのように見ている物が脳に伝わりだしたのである。
 前原が寄りかかった棚の二段目。彼女が体当たりした衝撃で、かろうじてという感じで棚板に引っかかっていたファイルがばさっと音を立てて落ちたのだ。と、落ちはしなかったが傾いた残りのファイルがその脇にある小さな箱を少し押した。加賀壬の見守る中。またファイルが傾いてその小箱がずれた。5ミリ程度だろうか。そしてまた。ついにバランスを崩し、ファイルごとその小箱が落ちた。
 箱は角から落下し、その衝撃でパカン、と蓋を開いた。と、そこにまた次のファイルが落下する。弾かれた小箱の中身、布で包まれた物がくるくるっと回転したかと思うと、その途中で包んでいた布がほどけ、ぎらりと輝く何かが床に落ちた。その細長い物はカランカラン、という音を立てて転がり、前原が力無く差し出していた左の手のひらの中に乗った。すとん、という感じで。加賀壬はそれを見届けると再び夢の世界に戻っていった。


第五章

 轟々と。漆黒の炎が燃えさかる。轟々と。
 何者か、いや、何モノかのおぞましい意志がほとばしる。加賀壬は夢と知りつつも恐怖に身をすくませた。怨念。それが姿をとったらこういうものになるのだと知った。炎が燃えさかる。それに抗する者たちが、愛する世界を守ろうという者たちが立ち向かうが、炎は燃え続けた。人々の意志を踏みにじり、悪意に染め尽くしながら。
 加賀壬は自分が筋骨たくましい男の姿であるのを知った。差し出したその腕で。愛する妻に呼びかけるその声で。加賀壬は屈強な男だった。同時に絶望に取り付かれた男だった。
 炎の中、愛しい妻子の亡骸を抱きしめる男。
 憎悪の炎に取り付かれ、総てを破壊する力を呼び起こし掛けた瞬間、それを成せば亡骸も消し飛ぶと知り、耐えた男。
 愛する者を守れなかった後悔と、一人残った娘への思いがせめぎ合いながら生きた男。
 プールで見たのとは桁外れにでかい水妖に立ち向かい、死力を尽くし二人の子供の命を守り抜いた男。
 水妖の腕に心臓をえぐられる衝撃、だがそこに出現した光輝く刃が水妖を切り裂き四散させる。呆然とそれを見つめる男。
 浄化された水の中、水底にゆっくり沈みながら、川面に立つ愛娘を見ていた男。娘は真新しい幼稚園の制服姿だったが、すぐにだぶだぶの稽古着姿になった。つらい修行に泣きわめく姿。中学の入学式、セーラー服ではにかむ顔。巫女服で祖父の側に控える姿。そして、東の御大将の正装に身を包み、力強く、そして静かな瞳でこちらを見る姿。涙が水に溶け込み、その姿がかき消えたかと思うと、最後に一瞬、真っ白な光景になった。白無垢の花嫁衣装で笑顔を見せる娘に。

 強く、清く、優しくあれ・・・。静音・・・

 「しず・・・ね・・・?」
 「父さん・・・」
 二人はほぼ同時に目を覚ました。
 「あの水妖は?・・・あの子達たちは!」
 加賀壬の緊張した声に前原は理解した。彼女も同じ夢を見ていたのだと。
 「あれは・・・。二月の出来事だ。もう終わった事だ・・・。奪い取った心臓だと思っていたもの。飲み込んだその刃の力で浄化されて魔性は消えた。父を殺した魔性はもういない。父は・・・今度こそ守り抜いたのだ。
 あの子たちは無事救出されたよ、加賀壬宏子」
 前原の声はしっかりとしていた。霊水で癒されたばかりとはとても思えぬほど。
 そこで加賀壬も理解した。今見ていた夢は前原のものだったのだと。
 「ま、前原さん、無事?」
 「うむ、お前が助けてくれたのだな、加賀壬宏子。霊水か?」
 「うん、そう」
 「そうか、すまん。しかし、真っ暗だな、お前がどこにいるのかも・・・」
 加賀壬はぎょっとして前原を見た。彼女の目は周囲に向けられているが、まるで加賀壬の姿が見えていないかのように素通りしたのだ。
 目をやられた・・・。加賀壬はそう認識し、声を押し殺して両手で口を押さえた。
 「ん? そっちか・・・」
 気配を察し、前原が上体を起こす。加賀壬は彼女の目から視線を外せなかった。霊水で治癒した以上、総て直っているはずなのに。目が見えていない。それはつまり、霊水の効果以上の何か、Sの呪いか術とかしか理由が浮かばなかった。
 加賀壬は声もなく前原を見ていた。彼女は自分の足を確認し、腕を軽く振った。その後ですっくと立ち上がった。
 「立てるか、加賀壬宏子。お前はどうなんだ、無事なのだろうな?」
 前原は先程の加賀壬の声で彼女も回復していると悟っていた。しかし、何故か返事がない。
 「加賀壬宏子?」
 一歩前に出ようとして、足にファイルがひっかかり、彼女は動きを止めた。
 「灯りはないのか?」
 前原が天井を見上げた。その視線を追った加賀壬は、天井の蛍光灯が消えたままなのに気が付いた。
 あれ?
 加賀壬は周囲を見渡した。そういえば・・・どこにも光源がない。
 ぱちくり。
 加賀壬はゆっくりとまばたきをした。しかし、目をつむったにも関わらず、周囲はそのままぼんやりした薄暗がりという感じで見えていた。
 やっと分かった。ここは漆黒の暗闇であり、何も見えないのが普通なのだ。自分は香土岐先生の結界とのつながりで見えている様な気になっているだけなのだと。
 すっくと立ち上がった加賀壬はバックから落ちかけたMagを慌てて抑えた。
 「わ、わーっ」
 「ど、どうした?」
 「ふー、あ、大丈夫。バックから弾倉が落ちかけたの。あーあ、大穴だなぁ・・・」
 加賀壬はバックを手で押さえながら前原に近寄った。その腕に寄り添う様に隣りに立つ。
 「無事なのだな、加賀壬宏子」と前原が腕を回し、加賀壬の首をかかえるようにして抱き留めた。
 「良かった、本当に・・・。ん? どうした」
 前原は加賀壬が何かごそごそと動いているのに気が付いた。
 「あ、んーと、ちょっとさっき貰った鞘が脚に当たって痛くって・・・って、あれ?」
 「!」
 前原は闇の中、くっきりと見えるその物体に目を見張った。自分のすぐ前。腹の辺りに突如それは出現したように見えた。
 「こ、これって・・・」
 前原の視界がゆっくりと広がってゆく。加賀壬は彼女のすぐ側で、懐刀の鞘を手にしていた。いや、今は鞘だけではない。そこに柄もあった。それが中心となって周囲が見えているのだ。加賀壬は鞘を垂直に両手で持っていたが、その鞘の上に細長い鍔があり、白紐で飾られた柄があったのだ。
 「どうして・・・」
 前原は震える声でそうつぶやくと、その柄を握った。
 どくん、という感じで光が輝きを増し、二人を照らした。向き合った二人の真正面から。
 「いいか、加賀壬宏子・・・」
 「うん・・・」
 加賀壬は鞘を持つ手に力を込めた。前原は逆手のまま、その刃を抜きはなった。煌々とした輝きが辺りに満ちる。差し上げられたその直ぐ刃に厳しい顔立ちながら瞳だけは優しげな男の横顔が浮かんだ。刹那だけ。二人は黙したままその直ぐ刃を見つめていた。加賀壬が見つめる刃の先で。前原がつぶやいた。
 「はくれい・・・しょう・・・。あさ・・・ぎり・・・」
 「あさぎり・・・」
 前原は目をつむり、その刃から伝わる鼓動を感じていた。ふと気が付くと加賀壬がその脇に立っていた。その手を前原の手に重ねて。目を開ける前原。だが加賀壬は先程と同じ場所に、目の前に立っていた。そして加賀壬の方も驚いたように目を開けた。
 「分かるか・・・」
 「うん。変だね、前原さん、そこにいるのに。ここにもいるみたい」
 「二度目だな。黒い門の奥を射抜けと私に命じたお前も、こんな感じで隣りにいたんだ」
 「うん、覚えてる。あの時と同じだね」
 彼らはふと、今の会話が言葉で発せられた物ではないことに気が付いた。口を開いてはいなかったのである。
 二人は、いや四人で一人の彼らは微笑みあった。
 「さぁ、行こう!」
 「決着付けないとね! あいつとさ」
 彼らは扉に向かった。前原が右、加賀壬が左。観音開きの扉の前に来ると、ドアは大きく左右に開いた。


第六章

 不意に扉が開き、途方に暮れつつあった白石春香は驚喜し、すぐに床下に姿を隠す。
 いやぁ、向こうから来てくれるなんて。ラッキー!
 出てきた二人は扉の直ぐ側で立ち止まった。白石はその二人が回復しているのを見て、ずるいと睨み付けた。
 眼鏡の方は左手に何か赤いバトンの様なものを持っていた。右手には丸くて小さい、ピンク色の物を握っている。もう一人、のっぽの方はナックルを左手に嵌め換えており、右手にはナイフを逆手で構えている。
 なぁーんか持ち出して来やがったなぁ!
 白石は不意打ちのタイミングを計って待ちかまえた。

 「居るね」
 「うむ。近いな」
 口に出さずに意志を伝え合う二人。ゆっくりと歩む加賀壬はその握った鞘がかすかに震えるのを感じていた。下だ。
 「床下みたい」
 前原は逆手に持った朝霧の刃を傾けた。その刃に床が映るように。直ぐ刃に映る影がくっきりと見える。まるで鞘が耳となり、刃が目となったかの様に。
 「火災報知器のすぐ先だ」
 「私が引きつけるから、お願い」
 「うむ」
 無言のまま会話を続け歩む。加賀壬はさらに速度を落とし、前原の後ろに隠れる様になった。消火栓の脇を過ぎた途端、その背中に迫る白石。
 白石は両手を思い切り振り上げてその頭上から貫くべく振り下ろした。完全に不意打ちのはずなのに加賀壬が振り向いた。だがそれでも攻撃はヒットするはずだ。思い切りしかける白石。
 しかし。白石に手応え成し。間違いなくクリーンヒットしたはずなのに!
 「鏡返し!」
 加賀壬の声と共に。握っていたコンパクトがぎらりと輝き、白石は脳天から激痛を受けた。
 あ、あれか! しまった!
 昔、美咲由美にこれでひどい目にあっていた白石は、攻撃を跳ね返す謎の鏡を思い出した。厄介なものを持ち出しやがって! そう思った白石は術を込めているだけなので鏡が一回しか使えない事を知らない。
 なら内側から! 即座に体の構成を換え、腕を長く伸ばし、加賀壬の肩から内部に侵入しようとする白石春香。だが、MP体のその腕は加賀壬が振り上げていたバトンの様な物体にがっしりと防がれた。その感触。まずい! これがさっき自分を弾き飛ばしたのだと悟った白石は真横に回転して反動を避けた。その時を前原は待っていた。
 「破っ!」
 白い光が真横に煌めいた。それは白石の胴をまっぷたつに払い、同時に祓った。
 「うわぁぁ!」
 下半身、いや、胸から下を瞬時に失って白石が飛び退く。既に切り離された半身は四散している。
 「ち、ちょっと、何よそれ! 反則よ!」
 自分の事を棚に上げるのは彼女の生前からの特技である。
 白石は一旦天井をすり抜け、屋上に隠れた。
 加賀壬はまた鞘を握りしめ、今度は右上だと悟った。
 言葉ではない会話が成され、前原は朝霧の刃に映るその姿を見いだした。
 右に眼鏡。その両手は赤いバトンを握りしめ、真っ直ぐに白石に向けている。左にのっぽ。肩幅に広げた両足をしっかと構え、左手にナックル、右手にあのナイフを煌めかせている。白石は悟った。あのナイフとバトンはちょーヤバイ。あのナックル程度なら何とかなるが、バトンとナイフは、殿下の宝刀や、美咲の鈴並にちょ〜ヤバイものだと。そして。あの二人の目は間違いなく、天井を透かして自分を見ている事もマジヤバス。
 背筋に悪寒が走る。体が再構成されて元のかわいらしい自分の姿になってはみたが、その希薄さは激ヤバ状態だった。これは遊びじゃすまないかも。そう思い始めた白石。
 あの眼鏡め! 卑怯もん!
 白石の腹の底から怒りが煮えくりかえった。真っ直ぐに下に降り、二人から3メートル程の所に着地した白石は怒りの形相で怒鳴りつける。
 「卑怯者っ! お嬢とか、みゆりんとか、そのノッポとかに守ってもらわなきゃ喧嘩もできないの!」
 「卑怯ものぉ? 天井から出てくるような奴にそっくりその言葉返すわよ! 誰よ、ミユリンって?」
 「みゆりんはみゆりんでしょ? 美雪ちんよ!」
 「美雪? 仲田野先輩のこと?」
 「そ。知らないの? 1年の頃はそう呼ばれてたのよ。あの頃はあんな格好してなかったしね」
 話が逸れたな。前原はそう思った。
 加賀壬も同感だったが、こいつの言うとおり、自分がみんなに助けて貰っているのは事実である。事実であるが故に腹が立つ。ましてやそれを指摘したのがこいつなので、やっぱり腹の底から怒りが煮えくりかえった。
 「あんたが空飛んだり、いきなり幽体になったりしないなら、あたしだって先輩に助けて貰ったりしないよ! 全部あんたが悪いんじゃないの!」
 決めつけた。
 「あたし? このかーいーあたしが悪いっての、メガネブス!」
 言った。とうとう言ってしまった。
 メガネだけならば個人識別の一種と思えないこともない。しかし、その後は言ってはいけない言葉だ。
 他人の身体的欠点を口にするのは人として最低の行為である。白石の場合「人」とは言えないが、とにかく言ってはいけない言葉なのだ。
 加賀壬が凍り付いたのを見て、白石がさらに言葉を投げかける。
 「洗濯板! 平面! 凹凸無し! 性格ブス!」
 最後のは本来は容姿はまずますだが、性格がまずい、という意味を示す言葉である。すなわち先程のメガネ・・・と相反する言葉なのだが、今の加賀壬も白石も理解していない。
 「性格ブスはてめーだぁ!」
 その加賀壬の叫びは、即ち白石が中身はともかく、外面はけっこういい線行っているYO! という意味だ。それに二人とも気が付いていなかったが。
 言葉は正確に。そう前原が加賀壬に伝えようとしたが、既に二人のリンクは途絶していた。
 キレた加賀壬は鞘で殴りかかった。前原が止める暇もなく。
 その鞘は霊体を四散させるだけの霊力に満ちているのだが、その使用者が完全に、まーったく、すーっかりと気を散らしている状態では発現するはずもない。
 げしっという音を立て、眉間にバトンを叩きつけられた白石はすかさず加賀壬の頬に平手をお見舞いした。しかし、その衝撃は包帯と湿布薬にうち消されてしまう。そう、白石も既に我を忘れていたのだ。MP体化すればいいことを。
 こうしてとっくみ合いが再び始まった。
 「うるせーんだよ、おめーよー!」
 髪を引っ張る加賀壬。
 「てめーこそ、うざいんだよ!」
 首筋に爪を立てる白石。
 「や、やめろ、二人とも! やめろっ! 痛っ!」
 前原は白石に噛みつかれた。手におえない。前原は何かショックを与える物がないかと周囲を見ようとした。その時、ドンという短い爆音と共に周囲に煙が満ちた。
 「きゃぁ!」
 悲鳴。三人は煙を思い切り吸い込んでしまい、むせながら空気を求めて鉄扉の方に転げ出た。と煙の向こうに人影が見えた。
 「室長! あれほど直撃はだめだと!」
 「あ、あれ? おかしいなぁ・・・」
 そこにいたのは白衣の面々。
 「げほっげほっ!」
 むせ返る三人。
 「だ、大丈夫?」
 声と共にワンピースの裾を翻して小柄な女性が駆け寄った。慌てて白衣の連中も駆け寄ってくる。精進だけは自分が打ち出した弾道のどこが違っていたのかをぶつぶつと考えていた。
 煙はすぐに消えていったが、彼らは外階段の方に待避していた。加賀壬と前原は三十路の男に介抱されており、ど真ん中にしゃがみこんだ白石は白衣とワンピースの二人の女性に背中をさすって貰っていた。
 「うげぇ、吸い込んじゃったよぉ。喉ががらがらするよぉ」
 白石は大の字に寝転がった。
 「苦しいよぉ」
 「あ、紅茶ならあるよ」とワンピースの女性。
 「おくれ! くれ! ちょーだい、かなちゃん!」
 すぐに階段脇にあったバスケットを持って戻ってくる井山加奈子。
 「熱いからね、気を付けて」
 その言葉は既に遅かった。
 「ふぎゃっ!」
 白石春香は舌を犬のように出しながら喘ぐ。
 「だから言ったのに・・・。貴方たちもどうぞ。お砂糖とミルクいる?」
 家から持ってきたプラカップに紅茶を注ぎ、加賀壬たちを招く。
 「そ、そひつらにまであげなくてひーよー!」とクレームらしい言葉を言う白石だが、バスケットから大きな包みを出していた香坂の言葉に動きを止めた。
 「そんな事言ってると、かなちゃん特製シュトゥルーデル、あげないよ、るかちゃん!」
 「へ? んないひはふいはなひで、まひひゃん、おふれ、おふれよー!」
 香坂麻妃は、はいはい、と昔の級友をなだめながら包みを開けた。

 アラームを受けて急行した警備員。香坂の連絡で駆けつけた篠木原隊と美咲由美率いる撃手。本間からの通報で開田隊に救助されたOBたち。
 彼らは校庭に立ちつくし、管理棟外階段の天辺で行われているらしい深夜のお茶会を見上げていた。
 その上空にも小さな翼をはためかせる、目には見えないものがお茶会を見つめている。その姿を見抜いたのは篠木原隊の美咲真由美だけだった。しかし、彼女は図書室の上空を舞う香土岐の使い魔という存在に、何ら違和感を覚えなかったので気に止めていなかったが。
 駅前のマンション。14階のベランダで北方を向いて立っている主人は使い魔からの情報を「見て」いた。
 「もういいわ、ぴーちゃん。後は美咲に任せておきましょう。戻っておいで」
 「ヤーヴォール! マイネ マイステリン!」
 思念が応え、ぴーちゃんはその金色の蝙蝠の様な翼をはためかせた。
 ベランダの手すりにもたれながら香土岐は図書室の整理を面倒くさげに考えていた。
 「まぁ、あのダガーがあの子のとこに行くのは分かってたけど、滅茶苦茶してくれたわねぇ。面倒ねぇ。はぁ。
 そうだわ、あの子が乱したんだから自分でやらせるのが筋ね。そうしましょ」
 結構投げやりな術者である。


 水曜日。ゴールデンウィークの中日である今日は平日なので学校だ。放課後になり佐伯隊は姫と一緒にガンショップにお買い物である。
 加賀壬はスリングショットの弾を、山崎はかねて希望のノクトプラズマビジョンを購入する予定だが、昆は後学のためにという感じだ。他はお付き合いと言いつつも、何か面白いものがないかと思っているらしい。前原は加賀壬が行くから付いてきているだけだったが。
 駅前の大通りを抜け、南口のガード下を歩いている時、前原が加賀壬に合図を送った。ふっと前方を見る加賀壬。と、ゲーセンの前にあるキャッチャーにへばり付いている女生徒が目に入った。白石である。その脚はロングブーツで隠されているが、加賀壬には見間違えようのない存在だった。
 げげっ!
 加賀壬の心の声。
 どうやら白石は店内の様子をこっそりとうかがっているようだ。近付く彼ら。何をしているんだ? そう思った加賀壬の目の前で。白石が右手だけをMP体化し、ガラス越しに中にあったクッションらしい景品を掴んだ。それを引っこ抜こうとした瞬間、彼女の肩がぽん、と叩かれた。
 ひっと短い悲鳴を上げて飛び上がる白石春香。その耳元で。
 「あー、万引きだぁ」
 低い一言。白石は咄嗟にブランクアウトして消えたが、掛けられた声に聞き覚えがあると知るやすぐに姿を現した。
 「こ、この、めがねっ!」
 何事もなかったかの様に悠々と立ち去る学生たち。その背に叫ぶ白石。
 加賀壬はくるっと向きを変えると、眼鏡の下に指を突っ込み、思いっきりあっかんべーをした。
 「きー! 覚えてなさいよ!」
 白石の叫び。ちょっと遅れてしまった加賀壬はげらげら笑いながら慌てて仲間の中に飛び込んでいった。
 





加賀壬さん、頑張る。第三部:完



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