<超かいき★くえすと>くえすたぁず

 

第十八話:加賀壬さん敵対す

 

von:秋澤 弘

第一章

 うむむむむぅ・・・。
 元帥は既に数分、身動き出来ずに凍っていた。
 冷や汗がたらりと流れる。
 「参った・・・」
 ついに降参の声がその太い喉から出た。
 手にしていたシャープペンが転げ落ち、元帥は机に突っ伏してしまった。
 「だめだぁ、ぜんっぜん、分かんねー!」
 呆れた目つきでその巨大な五分刈りの後頭部を見下ろすのは朝臣こと宮原である。
 「問1ですでに降参? そりゃまずいよ元帥」
 「・・・・すまん・・・」
 くぐもったその声に答えたのはテーブルの反対側に座っていたシュン、篠木原俊之である。
 「仕方ないな、もう一回やろう。朝臣の方はできたのか?」
 「うん。でも、あってるかどうかは・・・」
 朝臣の前にあったノートをサーこと三沢弘展がひょいっと手にして採点を始めた。
 「じゃ元帥、一章前からもう一度だ」
 「すまん、頼む・・・」
 元帥が情けない台詞を絞り出すのと同時に「失礼」という声がかけられて襖が開き、ワンピース姿でショートカットの女子が入ってきた。
 「どう?」
 短い質問にちょっと困った風の笑いを浮かべるシュン。それを見て軽く肩をすくめたのはアキこと雅菊子(みやびあきこ)。シュンのフィアンセである。
 「ん、やるじゃないか、全問正解だ」
 サーにそう言われ、朝臣はほっとため息をついた。
 「じゃアキちゃん、物理の方頼むよ。僕はシュンと元帥のバックアップに入るから」
 「OK、じゃ朝臣、こっちこっち」
 「はぁ。お手柔らかに・・・」
 ゴールデンウィークの日曜日。篠木原隊は昨夜アタックがあるはずだったのだが、勝城隊と佐伯隊の活躍でその出番はなくなった。降って沸いた本当の「休日」である。遊びに行こうと誘った宮原に、普段遅れがちの学業を優先しようと、チームリーダー、篠木原が冷たく言いきった。
 かくして泊まり込みの勉強会がスタートしたのである。
 シュンと元帥は幼稚園時代からの幼なじみである。それはそのままシュンの隣家に住むアキとも、という事だ。中学になり、帰国してきたサーと級友になった。朝臣がこのメンバーに加わったのは中二になってからだ。この五人に朝臣の恋人美成子の六人で中三時代にはいろいろとバカをやったものである。本の虫で図書館と暗室に入り浸っていたシュン。将来道場を次ぐ柔道バカ一直線の元帥。帰国組でかつ野球部のエースと、女生徒の人気の的だったサー。著名な日本画家を祖父に持ち、画号を継ぐ予定のアキ。こういった目立つメンツの中で朝臣と美成子は平凡を絵に描いたようなカップルだったが、文化祭にせよ夏休みの学力強化合宿にせよ、何か事があれば六人で常に騒ぎの中心にいた。不思議とウマがあったのだ。
 中学を卒業した時、美成子が実家の事情で新潟に引っ越し、アキが東京の美術系学校に遠距離通学となった。残った四人は特に何も話し合っていなかったにも関わらず、同じ高校に進学したのだ。
 成績から言うとシュンにとっては低すぎ、サーに低め、朝臣は五分五分というレベルの学校。元帥にとっては玉砕覚悟のチャレンジだった。
 全員が受かったと知り、当時の担任はシュンに対しては滑り止めは保険だからと言い切り、サーと朝臣には「おめでとう」と告げ、元帥に向かって万歳三唱したという逸話がある。それ程に彼らの学力は幅があった。そこで時々、使っていない部屋の多いシュンの家に集まって勉強会を開いていたのだ。
 今日はアキも都合がついたので一緒に講師役である。彼女とシュンは秀才カップルだったのだ。

 お昼過ぎ。紅茶党で有名なシュンがいれたヌワラエリアで一息付いていた。
 「あいつら、どうしてっかなぁ」
 元帥のつぶやき。
 「買い物とかプールとか、休日を楽しむみたいな話だったよ」
 朝臣は佐伯隊のことだと思ってそう言った。
 「あ? 違う、あいつらだ」
 「? みゆみと姫?」
 「違う! あいつらだって」
 「元帥。固有名詞もしくは個人名を挙げてくれ」とサーが静かに告げる。
 「勝城や前嶋だ」
 元帥の心配が伝わった。
 シュンとサーは共に副会長である。朝臣は書記。故に彼らは勝城隊に課せられた命題をよく知っていた。一人話の外に取り残されているアキにシュンが語る。
 「勝城と前嶋はね、美咲会長からチーム再編の構想を提出するって難題を与えられたんだ」
 「再編?」
 アキはワイルドストロベリーのカップをソーサーに置きながら尋ねた。
 「勝城さんって開田さんの副隊長さんよね。この前、リーダーになってチームを組んだんじゃなくって?」
 「前回のはテスト的だったんだ。んでさ、再帰組含めて総計14人を2チームにするってのが目標なんだ。でも・・・ね」
 勝城たちの心情を思いながら、朝臣がつぶやくようにそう言った。
 「何か問題があるの?」
 「うん。大問題がね・・・」
 シュンの言葉に三人が頷いた。
 沈黙したその中でNYフィルによるブルックナーの交響曲第六番が静かに流れていた。


 喫茶店の中は丁度BGMが途切れていた。テーブルを拭いていた無愛想なウェイトレスがCDを入れ替えにカウンターに戻った。
 「うーん・・・」
 開田はそのかすかな足音を耳にしながらうめいた。
 その前に置かれたグラスは、氷の溶けた水にほんの少し褐色が混じった状態だったが、開田は無意識のうちにそれをストローでかき混ぜていた。
 新入生の最初のチャレンジ、緑苑学院高等部での後遺症が大きすぎた。もちろんそのチャレンジは完遂したし、その時に佐伯隊の基礎が出来たのは間違いない。そういう意味では次期エース隊を生み出したという成功例に入る。
 しかし、そこでの被害はとても重かった。再帰組はみなそこで倒れたのだ。遠藤、野田、榎本、佐々木、皆瀬樹。この第三波五人は全員病院送りだったし、他にも第一波の金居など怪我人が多すぎた。
 新たに流れ始めたキース・ジャレットのピアノを聞くとはなしに聞きながら、開田はジャケットのポケットから手帳と携帯電話を取りだした。アンテナが二本立っているのを確認し、手帳の後ろに付いているアドレス張を見ながら次々とコールしていった。
 問い合わせをしたかった四人の内、サッカー部の本橋はつかまらなかったが、放送部の小出、新聞部部長の関根、ハンドボール部のマネージャー仁科にはつながった。次いで第二候補のサッカー部マネージャー恩浄寺にかけると、サッカー部は対抗試合のため試合場の控え室に集まっているらしい。
 「じゃ佐々木の方は・・・。そうか。
 試合中にすまなかった・・・。緒戦頑張れと本橋にも伝えてくれ。じゃ」
 これで希望していた個人情報は集まった。
 朝臣の記すデータと個人情報を簡単に集めた限り、特筆すべきは三名。ハンドボール部の小野。バイタリティの固まりで、なおかつ根性もある。そして関根の期待を一身に集めているという才女、皆瀬樹恵那。たくさんの情報をまとめ、簡潔に記事にまとめる天才だそうだ。もう一人が病欠した先輩の穴埋めDJを見事にこなしたという放送部の早川。即席で立てた企画の立案も先生が舌を巻くほどだったらしい。他にも数名未知数の生徒がいたが、帰宅部では情報の集めようがなかった。
 開田はしばらく眉間に皺を寄せて悩んでいたが、今度は両手で頬杖を付き、見た目ぼーっと外のビルを見ている様な感じになった。
 渡瀬は開田の構想が最終段階に来たことを知った。結構長いつき合いだ、それは見れば分かったのだ。勝城と前嶋にとって開田はかつてのチームリーダーである。戦場で困難な選択肢を選ぶ隊長を見守ることも数多くあった。それ故、彼らにもそれは分かった。
 勝城は遂に死刑宣告のカウントダウンが迫ったことを知った。諦めていた前嶋はただじっとそれを待つことにした。
 ジャズピアノの旋律が流れる中。開田はぼーっと窓の外を眺めていた。


第二章

 加賀壬の目は魔性の中心で回転を続ける女子を見つめていた。両腕を真横に伸ばし、ぐるぐる回る。その回転によって水がばしゃばしゃと弾かれ、魔性の周囲に飛び散っている。そして加賀壬の見守る中、飛び散った水の分だけ、確実に魔性が痩せていった。
 Y字カットの大胆な水着を着た、口と性根の悪い女。歳は加賀壬とタメくらい。そして両足が義足。
 加賀壬は既に得ていた情報を確認し、そこにさらに付け加える言葉を探した。
 魔性の出した水流攻撃は見た目と違いMP攻撃だった。それに貫ぬかれていたはずの山崎に外傷が見えないからだ。つまり魔性は水を操っているのではなく、水そのものなのだ。水妖と呼ばれる淀んだ水の精霊であろう。
 その中に潜り込み、なおかつその力をこそぎ落としている以上、彼女はMPを削る力を有している。山崎の左肩からの出血がない事もそれを裏付けていた。ところが、である。その山崎がMP体であるはずの彼女を引き吊り出していたのだ。しかもその時に山崎は異常を察知していた形跡がない。彼女の攻撃に全くの無防備だったのだ。あの瞬間まで、山崎は彼女を要救助者と認識していた。その腕を実際に掴んだ山崎が、である。
 HPとほぼ同じMP体。そう考えるしかなかった。
 まず浮かんだのが生き霊だ。二年の前嶋先輩たちが以前小学生の生き霊と闘ったという。その姿は20代の若者だったというが、それは自分の理想像だったのだ。それとのギャップが生んだ魔性だという話しだった。その時にあたかも実体があるかのようだった。そう前嶋は語った。
 「ノクト・プラズマ・ビジョンでMPだと分かったから、塩玉を撃ったんだ。そしたらさ、塩は効果してるんだけど、それよりも先に目を抑えて叫んで大騒ぎだった。塩が目に入ったってそう思ったらしいんだな。もちろんMP体だからそんなはずないのにさ。痛いいたいって涙ぼろぼろ流して。
 その上最後は病院のベランダから落っこちて、気絶。そこでその姿が消えて生き霊だとはっきりしたんだ。同じ時刻にナースコールした小学生がいてね、それで特定できたんだ」
 その小学生は最初は夢の中の出来事だと信じていたらしい。そういう事例であれば、あの女性の行動も説明できた。しかし、加賀壬はもう一つの可能性を思いついていた。MP体に侵入し、水中で息継ぎもしないですむ者。加賀壬は彼女のクロールがどこかおかしいと感じた理由も理解していた。息継ぎが形だけだったのだ。あの角度では開田同様、水面に顔が出ているはずがなかったから。
 加賀壬はポシェット型の防水ポーチを開け、ハンカチを出した。眼鏡をもう一度丁寧に拭う。
 はっきりとした視界を得た時、魔性の最期は間近だった。
 もう彼女の全身を包むことも出来ないほど、魔性は力を失していた。加賀壬は足早に脱衣所に向かった。魔性も女子も自分に気が向いていない事を確認し、開いてくれと祈るような気持ちで自動ドアの前に立った。それは杞憂に終わり、がーっと何事もなく開くドア。加賀壬は更衣室に飛び込み、念のためVIP室へのドアの前にも立ったが、そちらの自動ドアは全く反応しなかった。すぐにきびすを返し、荷物を入れてある無料ロッカーを開けた。焦っていたのでデイバックの蓋を開けるに指を切ってしまったが、これくらいは絆創膏レベルの問題だ。山崎の苦しみに比べれば何でもない。加賀壬はすぐにミッフィーの化粧ポーチを引き出した。そこから買ったばかりの精神安定剤を一個、そして清めの塩の入った貴重な小袋二つを防水ポーチに移し替えた。最後にもう一つの精神安定剤を右手に握りしめた。これでポーチは空になった。装備というにはあまりに貧弱なものだった。
 みゆみ先輩の薦めのとおり、塩玉ガスガンを買っておけばよかったのかもしれない。先輩は言っていた。携帯用の小さいのにしておけば、オフタイムでも安心だ、と。
 加賀壬はマイナス思考に向かっているのを感じて気を引き締めた。開田や鮎川。友達を守るんだ。
 よし、行くぞ!
 気を奮い立たせて自動ドアを開けた。

 既に魔性は女性の腰程度になっていた。そこに至り、彼女は回転を止めたようだ。
 「それー、それー」
 なにか子供の遊びの様な陽気さで、両手を腰にあて、足で残った水をけり出していたのである。そのポーズはまるでラインダンスだった。彼女の危ない水着もその感を強めていた。だが幼さの残るその体躯では、やはり子供の水遊びという表現の方が似合っていたが。
 加賀壬はその姿から目を離さないようにしながら、タイルを乗り越え、プールの底に降りた。そして山崎に近寄って、手にしていた瓶を手渡した。
 「大丈夫? 動ける?」
 「なんとか、な。仕掛けるのか?」
 加賀壬は水遊びに熱中している姿を見ながら答えた。
 「向こうさん次第かな。山崎君、バックアップ、お願い」
 「俺も・・・」
 その言葉を遮り、加賀壬が言う。
 「HPに見えるけど、まず間違いなくMP体よ、あの子。だから任せて。ただ、HPだと思って仕掛けないとダメだけど。
 じゃ、行ってくる」
 山崎は唇を噛み、数秒沈黙していた。
 「あかねちんたちをお願いね」
 「・・・。分かった」
 加賀壬は山崎に手を貸して、二人でプールサイドに上がった。
 ゆっくりと魔性に近付く加賀壬。5メートル程の所で歩みを止め、そのまま水遊びを見つめていた。
 Y字カットの水着に身を包んだ義足の女性はきゃっきゃっと騒ぎながら遊んでいたが、やがて魔性からの手応えが無くなったことに気が付いたのか、蹴るのをやめた。
 「おーい、おーい」と魔性に問いかけながらぱしゃぱしゃと義足で二、三度踏んづける。ほとんどの力を失していた魔性は粘りけのあるだけの水と化していたようだ。
 「なぁーんだ、つまんなーい。もう終わり? つまんなーい!」
 両手を首の後ろで組み、彼女はぶーたれながら魔性から離れた。そしてプールをのぞき込み、プールが単なるまだらな水たまりの集合になっているのに気が付いた。
 「あー、うっそーっ。誰よ栓抜いたの!」
 全く見当違いの怒りを燃やし、それでもそこに飛び降りてみる女性。その飛び方はあからさまに幽体の、重力を全く無視したものだった。
 「待ちなさいよ!」
 遂に加賀壬が声を掛けた。
 「? なーんだ、かなづちか。何よ、何か用?」
 彼女はぺたんとプールの底に腰を降ろし、わずかな水を手の平でぱしゃぱしゃと叩きながら言った。いかにも面倒くさそうに。
 「こいつどーすんのよ! このまま放っておいたら、また再生するわよ!」
 こいつ呼ばわりされた魔性は人語を解する知性があったので、むっとしていた。と同時に、自分の事はそっとしておいてくれと願ってもいた。再生には時間がかかり、その間にあの女がまた来たら、今度こそまずいからだ。
 「なんとかしなさいよ! そうしないと、ここにずっと閉じこめられたままだよ」
 女性は無視することにきめたようだ。そしてプールの底にごろん、と横になり、甲羅干しを始めた。だが、日差しは差していないので意味がなかったが。
 「外見てごらんよ、太陽も雲も無し。あっちのガラスの向こうなんか見てみなさい、だーれもこっちの騒ぎに気が付いてないよ。
 分かる? ここは結界の中!」
 山崎はそう言われて初めて気が付いた。空は明るい。だがそれはまるで青い天井のように雲も太陽もなかったのだ。開田は十数メートル下にある一般用プールを見た。そこではアベックたちが楽しそうにはしゃいでいる。そして、そこにはちゃんと影もあった。こっちのプールには照明の影しかないのに。ぞくっと恐怖を感じる開田。ぽん、とその肩に手を乗せ、鮎川が言った。
 「かきのんがおる。山崎君もおんねん、な」
 開田は紫織と腕をからませて頷いた。
 「うん。なんとかするってかきのん言ってたね」

 魔性はじりじりと後退していた。既にここから消えるだけの魔力はない。だがこの施設にはあちこちに水脈がある。基本的に閉じた水流系であるが、そのうちの数本が外界に伸びていることも魔性は感じることが出来ていた。まずは移動できるだけの力を回復する。それが魔性の今の望みだ。じりっじりっと下がり、その途中にこぼれた自分の体を合成していく。
 「どうすんのって聞いてるでしょ! 聞こえないの?
 結界があるんだよ!」
 彼女は心底うざったいという感じで加賀壬を見た。その長髪は既に乾いており、どうやら水遊びにも飽きてきたらしいことを加賀壬に伝えていた。
 「けっかい? なーにそれ。あたしには関係ないもーン。こんな程度のじゃぜーんぜん意味ないもーン」
 魔性はそれを聞いて哀しくなった。
 加賀壬はそれを聞いて生き霊ではないと判断した。生き霊も霊である。故に魔性の結界に封じることができるはずなのだから。こんな程度。そう彼女は言った。それは少なくとも結界が作用はするという意味だ。しかし、ここの結界では力が足りないのであろう。魔性よりもさらに「力」が強いということだ。そんな生き霊がいるはずがない。だとしたら。加賀壬の知識では彼女の存在を理由づけるのは一つしかなかった。
 加賀壬はその判断を裏付ける方法を考えた。判断を確信にする方法を。
 と、その時である。魔性が壁際に設けられていた排水溝に到着し、そこにずるっと逃げ込んだのだ。
 「ばかめ、ここまで来れるか? ぐっふっふ・・・」
 あいつしゃべれたのか。加賀壬は逃がした事よりも知性を有していた事に驚いた。
 「ぶぁかめ・・・」
 その声は足元を横断するように移動してゆく。
 「力を蓄え、今度こそ貴様等ちび共を・・・」
 その声がプールの底から響いた。もともと底に寝そべっていた義足の女性にとってはすぐ下で。
 「ちびぃ? あんたそれあたしのこと!」
 言葉と一緒に彼女の右腕がぐいっと上に持ち上げられた。一瞬の停止の後。
 「ばかにしないで!」
 声と共にその腕が一気に底を叩いた。いや、そう見えたのだが、腕は床の中に吸い込まれた。二の腕はおろか、肩の付け根までずっぽりと。
 「ぼぐぇぇぇぇ・・・ぇぇ」
 間抜けた声が響き渡る。どうやら床下でクリーンヒットをくらった様だ。右に左にとその苦しげな、かつ笑える悲鳴が逃げまどい、ついには最初に侵入した排水溝に逃げ戻った。
 「はぁ・・・」
 加賀壬はため息を一つついた。魔性にほんのちょびっと同情したのだ。ほーんのちょびっとである。なにしろあの魔性は山崎を傷つけたにっくき相手なのだから。
 加賀壬はすたすたと排水溝に近付いた。うめき声がその真下から聞こえるのを確認する。そこには幅2センチ、長さ15センチ程の溝が幾本か刻まれたその蓋があった。左右に取り外し用らしい窪みがあったので、そこに指を突っ込んでよっこいしょっと開けた。
 中は暗くよく見えなかったが、随分下に水面らしい反射があった。プールの底よりも下に配水管があるのだろう。加賀壬がそこからのぞき込んでいるのに気づいたのか、その水面が急に持ち上がってきたのが見えた。
 「ぐぞー、ぐぞー・・・」
 不気味な声が響く中、加賀壬はポーチを開けて小袋を一つ手に持った。二、三歩下がり、奴を待つ。すぐに魔性は配水管から、盛り上がる水として姿を現した。加賀壬はさらに一歩下がる。そして魔性が配水管から出たとたん、清めの塩をひとつまみばらまいた。奴の後方、排水溝への道を塞いだのだ。退路を失い、ぎょっとする魔性。加賀壬は魔性が縮み上がった瞬間を狙い、すかさず腕をぐるりと回した。手のひらにのせた清めの塩を巻きながら魔性の周囲に即席結界を生んだのだ。そして左手を伸ばし、持っていた小袋をひっくり返した。残っていたのは半分も無かったが、それから身をかわす物理的な余地は既に結界内には無かった。
 「ぐ、ぐ、ぐぁぁぁぁ・・・」
 断末魔。魔性は苦悶の中、消えていった。
 「なめくじか、おまえ・・・」
 加賀壬はちょっと呆れたが、すぐにサンルーフを振り仰いだ。見つめる加賀壬の目に、まるで映画のフェードインの様にゆっくりと、本当にゆっくりと太陽らしき光源が姿を現しつつあるのが認められた。結界が破られたのだ。しかし、校内のようにはっきりと限定した境界内で行われた結界とは違い、その消滅には随分時間がかかる。それを知らない加賀壬はそののんびりさがさっきのなめくじのトロさから発しているのだろうと思っていたが。

 さて。
 加賀壬は袋を捨てると気を引き締め、第二の目標にロック・オンを行った。


第三章

 不意に。まさしく唐突という感じで開田兄がかつての副官、勝城を見た。
 「どう分ける?」
 勝城は蒼白と言って良い顔を開田に向けた。そして震える手で折り畳んだレポート用紙をテーブルに広げた。
 開田は姿勢を直し、頬杖を止めて自分に向けられたその表を見た。

 勝城隊
 隊長 勝城正典 HP戦◎2−A
 HP戦要員 遠藤二郎 ◎1−A/西田まこと △1−D
 MP戦要員 早川春樹 ◎1−C/皆瀬樹恵那 ◎1−E
 戦闘要員 塩尻秀作 ○1−A
 MP戦要員兼通信要員 榎本美津紀 △1−C

 前嶋隊
 隊長兼通信要員 前嶋祐吾 MP戦◎2−E
 HP戦要員 小野治 ◎1−A/佐々木俊太郎 ○1−D/本居正文 △1−E
 MP戦要員 金居健太郎 △1−B/野田絵実 ○1−C/
 救急要員 皆瀬あい ◎3−A

 三人で話し合って決めたであろうそのメンバー表を眺め、開田は得ていた個人情報を重ねていった。お札のない現在の超常研で、HP、MPを均等配布するのは基本中の基本であろう。この構成は両方のチームにHP、MP共に戦力を分散させている事が見て取れる。渡瀬が前嶋の隊に入り若干弱い戦力を回復で強化し、一方の勝城は予備戦力で粘るつもりなのだろう。いかにも二人らしい布陣だ。
 開田はしばらく見つめていた後で、三人の顔を順番に見てからこう言った。
 「俺のする事は?」
 勝城は何も言わない。渡瀬は勝城たちに任せるつもりなのか沈黙を守っている。前嶋は自分にその任務が迫った事を悟った。
 「隊長の、その、意見を、その・・・」
 「いいんじゃないか」
 一言。きっぱりとその一言を発する開田。勝城の拳が握られた。彼の目はゆっくりと閉じられた。前嶋は何か言いたいのに何を言っていいのか分からず、からからに乾いた舌を動かすのが精一杯だった。
 開田はそのまま待った。しかし、後輩二人は浮上してこなかった。
 「はぁ。んもう、情けないなぁ。副会長も副会長だよ、もう少し声掛けてやってもいいんじゃない?」
 渡瀬が遂に我慢しきれずにキレた。元々我慢などというのは彼女には向いていないのだ。
 「勝城君たちがこんなに落ち込んでるのに、その理由が・・・」
 「お前が言う事じゃない」
 開田は静かながらはっきりとした言い方で渡瀬の言葉を遮った。
 「・・・」
 渡瀬の目が見開かれ、その肩が怒りに震えだした。その時だ。前嶋が震える口で声を出した。
 「あ、あいちゃん先輩、ぼ、僕が・・・」
 渡瀬に何か告げようとするのだが声が出ない。
 「隊長・・・」
 勝城の声。
 「ん?」と、開田が間髪を入れずに答える。
 勝城は一回呼吸を整え、そしてゆっくりと頭を下げた。
 「お、教えてください。
 俺は、俺たちはずっと一緒に闘ってきました。俺と前嶋は入った時から隊長の隊で、た、隊長や雄崎先輩に助けられながら何とか、何とかやってきました。お、俺は!」
 開田は無言のまま言葉を待った。
 「俺は・・・。前嶋がいないと・・・ダメです・・・。俺だけじゃ、ダメなんです・・・」
 開田は勝城の相棒、前嶋祐吾を見た。彼はその視線を受けて、がばっと机に額がぶつかるほどの勢いで頭を下げた。渡瀬が慌てて倒れそうになったグラスを抑えた程。
 「隊長、僕は一人でどうしたらいいんでしょう・・・? 教えてください、隊長・・・」
 開田は突如開けた視界の奥で、無愛想なウェイトレスが興味津々という感じでこっちを見ているのを知った。彼女の方も視線に気づいたらしいが全く意に介した様子がなかった。開田は超常研時代からよくここで、コーヒー一杯で粘っていたが、彼女の感情のある表情を初めて見た気がした。
 ふっと別の視線を感じて隣を見る。渡瀬が真剣な眼差しで開田を見ていた。いや、もうそれは睨んでいるという状態だ。
 ああ、お願いしてるのが女の子二人だったらなぁ。ふっと不謹慎な考えが過ぎるが、渡瀬のことだ、それを察したに違いない。その目に怒りのオーラが燃えるのが見えたような気がした。
 開田は気にせずに渡瀬を見返すと、不意にウィンクを送った。きょとんとなる渡瀬。そのとても珍しい表情を見てちょっと満足した開田陽一は、まぁこれが代償だ。そう思うことにした。渡瀬のあの顔は滅多に見られるものではなかったから。
 開田は未だに頭を下げている後輩に向き直った。
 「どうしたい?」
 二人はそのままじっとしていたが、口を開いたのは前嶋の方だった。
 「か、かつ・・・勝城とばらけるのは、嫌です!」
 彼は顔を上げて開田を見る。その顔は泣き出しそうだった。
 「隊長は知ってますよね、勝城ががんがん引っ張ってってくれないと、僕、僕だけじゃ・・・」
 「お、俺も一人じゃ、一人じゃぜってぇ無理っす・・・」
 勝城は頭を下げたままの状態だ。
 「俺は頭悪いから、俺だけじゃ・・・」
 開田はゆっくりと告げた。
 「勝城正典、前嶋祐吾。
 新しいパートナーを見つけ、戦力を倍加する。これは良いチャンスだ。俺たちは若い。これからの出会いは大事だ。それは良いことだよ」
 渡瀬も後輩二人も息まで止めたかのように静かにその言葉を聞いた。
 「どうだ、勝城」
 勝城は即座に首を横に振った。
 「だ、だめっす・・・。た、隊長がいなくなって、その上前嶋まで・・・。俺は、俺は・・・」
 言葉は途切れた。
 「前嶋は?」
 その声に彼は途方に暮れた。涙があふれ出そうとしている。
 「ふぅ」
 ゆっくりとしたため息は開田。いつのまにか俯きかけていた渡瀬は、はっとして顔を上げた。開田がいつものペースになった事を悟ったのだ。
 「湿っぽいのは勘弁。梅雨はまだ先だぞ」
 その声の明るさに、後輩たちもはっとして開田を見る。かすかな期待をその瞳に浮かべて。
 なんか捨てられた小犬って奴? 開田はふっとそう思った。あぁ、本当にこれがかわいい女の子だったらなぁ。悔しがる心情とは裏腹に、開田は口元に笑みを浮かべた。
 「お前たちが大事だと思うもの。それが縁だ。美咲なら<えにし>って呼ぶがな。
 仲間。友人、そして相棒。その大事さが分かっているのなら、どうして彼らの縁を大事にしてやらないんだ?」
 開田はぽん、とレポート用紙を叩いた。
 顔に大きく「?」を付け、後輩が条件反射的にそのリストを見る。
 「OBの頑張りっこ伝説はミミックに不意打ちを仕掛けた事から始まるんじゃない。
 最初の編成時、昭和東中の男子五人、西中の女子四人がいた。遠距離通学の頑張りっこは一人。サーと美由美が彼女をどちらかに入れようとした時、彼女はHPとMPの平均化が必要だと言ったそうだ。それがいたく美由美の気に入ったらしい。それが伝説その1だよ。
 そして美由美が取り仕切り、その3グループを平均化し、第三波と第四波を作った。
 チャレンジが始まり、真っ先に到着した第三波が不意打ちに遭い壊滅。次いで来た第四波は倒れた友人に我を忘れた。だが、そこに自分を失しなかったのがいた。頑張りっこだ。第三波の倒れた状況から魔性の位置を予測し、ミミックタイプに不意打ちを仕掛けた。
 この時、もし先に着いたのが第四波だったら? 頑張りっこが頑張る間も無く不意打ちで壊滅していたろう。次いでやってきた第三波も友人の姿に駆け寄ったところで壊滅しただろう」
 後輩二人は断片的に知っている情報からそれに頷いた。渡瀬はきょとん、どころか唖然としていた。開田がこれだけ一気に話すのは記憶になかった。
 「組み合わせ。偶然。必然。第四波の佐伯たちが勝利し、第三波の遠藤たちが病院送りになった。だけど、佐伯たちと遠藤たちに特別な戦力差があったわけじゃない。そうだろ? どっちが先に着いたか。それだけの差さ。どんなにうまく平均化したところで偶発的要素にまでは勝てない。
 だったら、その偶発に対抗できると自分たちの信じる方法で、なんとかするしかないんだ。なにが一番大事か、で。
 俺がお前たちなら、この編成はしない」
 開田はレポートを指さした。
 「佐伯たちの仲間だった東中の遠藤・佐々木はコンビだ。激写娘の友人、西中の女の子三人も分けちゃダメだ。彼らは皆、同じ苦痛を乗り越えて再起した仲間なんだ」
 彼は渡瀬の生徒手帳に付いていた小さなシャープペンを手にし、レポート用紙の裏側に書き始めた。

 遠藤・佐々木

 野田・榎本・皆瀬樹

 そしてその2グループをそれぞれ○で囲んだ。
 「<えにし>」
 開田はその○をシャープペンの先で指して言った。
 後輩二人はじっとその円で囲まれた名前を見ていた。
 「お前たちが何よりもそれが大事だというのなら、それでいこう。今ある<えにし>を守り、新しい<えにし>を作る。
 まず今ある<えにし>。このメンバーはそのまま全滅した第三波だ。この五人に不足しているのは知識と経験。それを入れる」
 開田はそこに渡瀬の名を書き込んだ。そしてその六人を大きな丸で囲んだ。
 その後で勝城、前嶋、小野、西田、早川、塩尻、本居、金居と書き込み、この八人をまた別の輪で囲んだ。
 「第一隊はバランスも縁もあり、かつ渡瀬の存在でムードメーキング、知識、経験、回復がある。新人としてはベストな編成だ。
 一方第二隊は小野、早川には期待だが、それ以外はほぼ予備戦力向けだ。寄せ集めに過ぎない。だが、それを補うものがある。
 お前たちだ」
 勝城と前嶋は真剣に話を聞いていた。既にその瞳には期待ではなく、決意が芽生えていた。
 「お前たちはHP・MPそれぞれの中核。勝城は小野を、前嶋は早川を育てろ。そしてこの新入生同士で<えにし>を生ませるんだ。コンビ、相棒。最初は大変だろう。でも、お前等が自分たちの<えにし>を信じれば道はある。
 第一隊は即戦力を目指す。対して第二隊はいわば<教導>」
 「共同?」
 「教導。教えて導く。実地訓練だよ。敵の力をどう削り、味方をどう守るか。戦い方のABCを一から教えるんだ。実戦でな。
 勝城。お前はオーソドックスなHP戦要員だ。粘り、志気を鼓舞する。俺が少尉だったらお前は鬼軍曹ってとこだったろ? 
 権田先輩や大田原の真似はフツーできないぞ。でもお前の真似ならできる。お前を手本にするのはHP戦要員にはすごくいいと思うよ、俺は。
 前嶋の狙撃は美由美くらいしか対抗馬がないから真似できない。だが、お前の判断力、どう闘うか、いつ退くべきかってのは新人にいい手本になる。
 な?」
 いきなり話を振られた渡瀬だが、反射的に頷いていた。素直にその意見に賛成だったのだ。彼女は前回の探索行だけで勝城と前嶋の牽引力を認めていた。
 「さてお二人さん、ここで俺から質問だ。
 第一隊六人、いや、渡瀬は指揮官向きじゃないから除いて、この五人の新兵さんたち。指揮官向きはいるかい?」
 その問いに二人は口々に同じ人物を上げた。
 「できます、皆瀬樹なら」
 「皆瀬樹、ですかね?」
 開田は即答を受けてちょっと面くらった。そこに渡瀬が同意を示した。
 「えっちゃんね。あの子すごく飲み込み早くってね、堅く言えば認識力がある、平たく言っちゃえば冴えてるのよ。
 あの子なら私も推薦するよ」
 そこまでの子がいるのか。なら話は早い。彼はそう思った、この布陣で最大の難関が突破できたのだから。
 「もしこの編成になったら、第一隊はまずリーダーの教育。第二隊は基礎体力造り。
 みなせぎ? その子には前嶋がこれまでの参考例と指揮官のあり方を叩き込む。できれば副官も見いだせ。で第二隊は勝城が陣頭指揮、マラソンからだ。そして渡瀬が本居か金居、塩尻でもいい、第二隊予備戦力で沈着そうな奴に救急措置のいろはを伝授する。
 そして実戦を重ね、第二隊の小野・早川コンビが完成したら教導卒業。彼らに第二隊を任す。お前たちはその間にスカウトした新規会員で第三隊を結成し、また一から育てるんだ。
 <えにし>を作れ。お前たちがそれを一番大事だと思うなら」
 開田はそう言うとシャープペンの芯をしまい、手帳に戻した。その行動の間にざっと今までの会話を思い出し、言い忘れたことがないかを確認した。
 「以上」
 開田陽一はいつもながらの短い声でそう締めくくった。
 「ありがとうございました!」
 勝城と前嶋の声がはもった。


第四章

 加賀壬の目は「そいつ」に釘付けだった。彼女は結界が消えても全く意に介していないようだ。このまま捨て置くか。そう思う反面、山崎に怪我を負わせた、この高慢ちきな奴に一言謝らせなければ気が済まないとも感じていたのだ。
 その間に結界が緩んだのを見て取った山崎が、まず太った男を抱えるようにし、よろけながらも開田と鮎川を引き連れてプールサイドを用心深く移動した。更衣室に消える四人。すぐに山崎がまた姿を現し、ふらつき青ざめた顔ながら中年夫婦に話しかけた。なんとか説得に成功したらしく、三人は女性をはさんで肩を貸しながらプールサイドを歩んでくる。
 加賀壬はじっと第二の目標の動きを観察していた。彼女はプールの底に俯せで寝そべったまま、なにやら鼻歌を歌っていた。
 無事に済みそうだ。加賀壬がそう思った時、女性が足を滑らせて、「ひっ」というかすかな悲鳴を上げた。ばしゃんという水音がそれに続く。
 「ん?」
 プールの底にいた危ない水着、いや中身も相当アブナイ彼女が顔を上げた。そのまま、うつぶせで寝そべっていた姿勢のまま上空に浮かぶ。
 なんとかここまで恐怖を抑えてきた女性だったが、プールから文字通り浮かび上がる姿に、ついに自分を抑えきれずに叫んだ。
 「お、おばけーっ!」
 彼女の前に立ちはだかる山崎。妻らしき女性を抱きしめその口元を抑える男。加賀壬から浮かぶ女の顔は見えなかったが、その髪の毛が触手の様に逆立つのは見えた。
 「なんですってー、この化粧お化けが!」
 寝そべったままだったその体の腰を中心に、逆上がりの様に立ち上がる姿。既にその右手は前を指し示していた。さっき山崎を襲ったのと同じ様に。
 加賀壬は咄嗟に叫んだ。
 「おばけーーーー・・・」と語尾を伸ばし、宙に浮く女性がくるっと回転を速めたのを見た途端、言葉をつなげた。
 「・・・そっくりよね、あの顔。もう歌舞伎役者って感じ? いやだぁー、ははははは」
 左手で腹を押さえ、右手で中年女性を指し示し、加賀壬は苦しそうに笑った。
 「いやー、くるしー、やめてー、ははははは・・・」
 浮く女含め、全員が呆気にとられた。だが真っ先にパラライズから解放された山崎が女性を無理矢理背負って走り出した。驚きの中でも加賀壬の行動を察し、中年男も走り出す。
 加賀壬のひきつった甲高い笑いに足音もかき消され、自動ドアの開く音だけが浮く女の耳に届いた。
 「あ、逃げた!」
 「あっはっは。そりゃそうでしょ、あの顔じゃ恥ずかしくって人前に晒せないわよ!」
 加賀壬は浮く女が追跡しようとしたのを遮るように叫んだ。
 「まぁね。そりゃそうか。
 しっかし何、あんたかなづちのくせに良く生きてたわねぇ」
 浮く女は今やプールに残ったただ一つの存在、加賀壬に向き直った。ただし、上下逆さの状態だったが。その目は新しいおもちゃを見つけてわくわくと輝いていた。動けない鼠を見つめる猫の目、といえば良いだろうか。
 加賀壬は恐怖を感じながらも、腹に付けて隠していた左手をそっと背中に回し、右手もそれに沿えるとまるで応援団員の様な姿ですっくと背を伸ばした。 
 「で、あんた。美咲家の人?」
 加賀壬が言ったその言葉。美咲家に力を入れた発音だ。
 こちらに近付いていた逆立ち女にとって、美咲と言えば三人の顔が浮かぶ。おまぬけ、曲芸師、つり目のねーさん。しかし、今加賀壬が投げかけた言葉に思い浮かんだのはつり目のねーさんただ一人だった。「美咲」ではなく「美咲家」と家系で指定され、見事に加賀壬の言霊をキャッチしてしまったのだ。釣られたとも言うが。
 「やめてよー、あーんなくら〜い奴と一緒にしないで!」
 いかにもいやそうに手を振る女性。
 「あいつったら○○○○だしィ、△△△△を■■■■■■しちゃうし、もうサイッテー!!!」
 さらにここに美咲由美がいたら美咲流練術合技法の究極奥義、<七魂斬振べ>必至という暴言を立て続けに吐いた。
 加賀壬は確信した。美咲を知っている。その事象で。
 魔法講義の中、実例として美咲の呪法について簡単な説明を受けていた加賀壬は「気抜け」というのを聞いていた。気が抜ける。別に炭酸飲料の話しでも、疲れるギャグの話しでもない。要は幽体離脱だ。
 「だが美咲のは特殊だ。その状態でも呪文が使えるし、精霊の召喚まで出来る」と、呆れ顔の香土岐が言っていた。
 「気抜けは美咲流結界術の基本ですが。最初に習うものの一つです」と、なんの感情も示さずに答えるのは美咲由美。
 「美咲ではな。
 いいか加賀壬、幽体離脱系は数多くの種類がある。だがなぁ、こいつのとこのは本当に特殊だぞ。服や装備、身につけているそういった物を構成する精霊を伴って幽体化し、移動する。簡単に言えばフル装備のままで幽体になるのだ。剣は振るうし鍵も開けるし、幽体の携帯端末でパソコン通信までこなす。ポケットに入っていた携帯で電話すら受ける。携帯は幽体状態なのに電池を消耗する。さらにその辺にある実体の充電器で充電までこなす。むちゃくちゃだぞ、他の魔法体系から見たら。
 加賀壬、分かるか? 美咲の<気抜け>は実体同様の幽体を作り出すのだ。もう実体として考えた方が早い。分身だな。しかも装備一式持ったまま、さらに本人の意志一つで幽体として壁抜けまでやってのける、超常の一言という分身だ。
 魔法使いや超能力者だと思った方が早いな。宇宙人とかスーパーマンと同列だ。人間業ではない」
 「・・・。美咲から正式に抗議させていただいて宜しいでしょうか、香土岐先生」
 美咲と香土岐。二人の先生の言葉を一つ一つ思い出す加賀壬。いらない部分もかなり混じっていたが。
 先生たちはその幽体はほぼ実体と同じだと言った。幽体離脱しても呪法を用いると。そして幽体の携帯電話を破壊したら、本体の持つ携帯も壊れると。つまり幽体への攻撃は本体に直接ダメージを与えるのだと。
 となれば。要は幽体にいつでも変化できる本体だと思えば早い。
 加賀壬はそう確信した。加賀壬はこの逆立ち女が美咲ゆかりの術者であると、正確にはその<気抜け>した幽体であると確信したのだった。全くの勘違いだったのだが、思いこみというのは恐ろしい。加賀壬はもうこの女性に恐怖心を持つことはなくなったのだ。これっぽっちも。
 無知というのは本当に恐ろしいものである。
 その間に女性は目前まで接近していた。
 その目に無邪気な喜びを浮かべて。子供特有の残酷さも秘めて。
 「残念だったねぇ、水なくなっちゃってさ。練習できなくなったねぇ」
 くっくっくという含み笑い。加賀壬は背中に回した両手を動かしていた。
 「なーんか面白いこと、ない?」と言いながら彼女は今度は時計回りに回転し、加賀壬と向きを揃えた。そのまま近付く女。
 その間に加賀壬は背中に隠していた右手を素早く突っ込んだ。
 「聞いてんの?」
 「謝んなさいよ!」
 加賀壬は全く臆せずにそう言ったが、その意味は彼女には通じなかった。
 「はぁ?」
 「あんたさっき山崎君をぶったでしょ!」
 あれをぶったというのかどうかは別として。加賀壬の言葉に彼女も言いたいことを理解したようだ。
 「あぁ、あの男の子? あれは向こうが悪いんじゃないの! あたしの遊びの邪魔する奴は、誰でも・・・こうだ!」
 不意にその右手の指だけが伸び、加賀壬の腹を突いた。
 「ぐふぅ」
 うめいて体を折る加賀壬。だがその攻撃は衝撃はあったが大した威力はない。いきなり倒してしまっては面白くないからだ。手加減されている。そう知った加賀壬は怒りに身を震わせた。
 「何すんのよ!」
 加賀壬も右手を上げ、彼女の肩をどん、と叩いた。こんなに早く反撃が来るとは思わず、油断していた彼女は押されてバランスを崩した。びっくりして加賀壬を見る。油断していただけではない。その衝撃はまるでバットで殴りつけられたかのように重かったのだ。生身であったなら肩の骨が折れたほどに。ただし、本当に生身ならぺちん、程度の威力なのだが。
 「やったわね!」
 右手を大きく振りかざし、加賀壬の頬に平手打ちを繰り出した。しかし、その手前で、ガードする加賀壬の左腕にがっしりと遮られた。
 「ぎゃっ!」
 「うっ!」
 二人の悲鳴が重なる。女性はまるで壁を思い切り叩いたような激痛を手首に受けていた。加賀壬の方も張り手をくらったような衝撃を左腕に受けていた。加賀壬がこっそりと袋を開け、両手にすりつけていた塩の結界が作用したのである。反発し弾いたのだ。
 二人の目と目が合う。痛かった。許せない。同じ思考をする二人。
 「くっそう!」
 二人の声が息ぴったりに重なった。

 老夫婦をなんとか運び出し、落ち着かせようとベンチに座らせた時だ。開田がピンクのねーさんや作業着姿の従業員を引き連れてきた。結界が消え、更衣室から出られるようになった途端、開田が飛び出し、鮎川が内線をつなげたのだった。
 「どうしました?」
 「大丈夫ですか?」
 すぐに鮎川が警備員を連れて合流した。
 大慌てで自動ドアを開け、彼らは惨憺たる状況を見た。引きちぎられた椰子の木、歪んだベンチ、吹っ飛んだデッキチェア。
 骨組みだけになったパラソルを踏み越えて駆けつけた警備員たちが、足を止めた。
 「お、おい・・。まさか・・・」
 引きつった表情でお互いに顔を見合わせる。自分の目が見た物が信じられなかったのだ。
 山崎はその脇に立ち、唖然としていた。
 プールサイドの左端。先ほど義足の女性がいたあたりに転げ回る姿があった。相手の髪をかきむしり、平手をくらわしあい、ひっかきあっている二人の女の子。とっくみあいである。しかし、その一方は既に義足をしていなかった。夢中になり、もうそれを固定することすら忘れていた彼女は義足が外れ、人魂の尾の様に膝から下が消えている本性を現していたのである。
 「ゆ・・・。ゆう・・・」
 「れい・・・」
 警備員の声は理解を超越したものに出合ったことへの後悔に満ちみちていた。
 ゴールデンウィークの日曜日。この季節にしては強い日差しがさんさんと降る中で、幽霊と人間。二人の女の子が壮絶なひっかきあいを演じていたのである。山崎は戦いを予想はしていた。しかし、どう見てもMP体である対象に、殴るわ噛みつくわの事態は全く理解を超えていた。超常現象研究会アタックチーム、山崎にとっても異常過ぎだったのだ。
 「なにすんのやー!」
 「やめなさいよ!」
 男たちの硬直を断ち切ったのは後方から発せられた少女の金切り声だった。開田と鮎川がダッシュし、加賀壬に加勢に向かったのだ。
 「危ない」
 「止めなさい!」
 警備員は脇をすり抜けようとする女子高生たちをあわてて止めた。こっちは生身の女の子なので安心したのか。あるいは守るべき存在を認識し、やっと使命感を取り戻したのかもしれない。二人の警備員が「やめろー」と叫びながら今だもみあう加賀壬たちに駆け寄った。
 「ちっ、面倒なことに。
 おぼえてなふぁいよ!」
 彼女は腫れて端から血の流れる口をおさえ、不明瞭な発音で捨てぜりふを告げると、すっと舞い上がり、サンルーフを何事もなくすり抜けてパっと姿を消した。
 天を見上げ、ぎゃーすか喚き散らす加賀壬に駆け寄ってその傷を確かめる開田&鮎川。真っ青な顔で天井に目を見張りながら立ちつくす警備員たち、そして頭を抱える山崎。こうしてプール騒動は集結した。
 加賀壬はぺっと口内の血を吐き出した。その顔はひどい有様だったが、眼鏡で目だけは守られていた。ただ、そのフレームは歪んでいたが。
 「あんのアマぁ、今度会ったらただじゃおかねぇ! ぜってぇぶちのめす!」
 加賀壬の決意に燃える低い声が響いた。


第五章

 質問責めに合っている開田たちの元へ、治療を終えた加賀壬がやって来た。
 「大丈夫?」
 「痛いやろ、かきのん・・・」
 友達がかける言葉に「うん」とだけ答え、加賀壬は奥に座っている老夫婦の前に立った。
 「すみませんでした・・・」
 声が上手く出せない加賀壬。その顔の右半分を覆い尽くす湿布薬。左も絆創膏だらけで、耳も包帯で隠れている。眼鏡はできないので加賀壬には相手の表情は見えない。
 「そ、その、咄嗟にあんな事言っちゃって」
 紳士はその謝罪の意味が咄嗟に理解できなかったが、すぐに妻が立ち上がっていた。
 「こちらこそ、お恥ずかしいところを・・・。あ、お顔じゃなくて、取り乱してしまった事よ、ほほほ」
 既に冷静さを取り戻していたその<化粧おばけ>は、念入りに直した化粧同様に余裕ある奥様の仮面も付け終えていた。
 「すみません・・・」
 「こちらこそ助かりましたわ学生さん。お世話をおかけしまして」
 すっかり主導権を握り、妻が軽く女子高生をあしらうのを見て、夫はほっと息をついた。これ以上の事件はスキャンダルに直結するからだ。
 「あ、加賀壬さん、こちらに」
 誂え物の三揃えを着込んだ偉そうな40代の男が空いている開田の隣を示した。
 「大体の所は山崎さんたちからお聞きしました。
 えー、貴方にお聞きしたいのは姿を消した八人目のお客様についてなのですが。入場者記録では七名のお客様がご来場中だったのですが、そこにもう一人、その、特殊な方がいらしたという事なのですが」
 加賀壬に問いかける男は慎重に言葉を選びながら問いかけている。その表情はにこやかな商売用笑顔だ。その脇にいる30代半ばと思われる人物があからさまに緊張しているのとは好対照に。
 加賀壬はこの場の雰囲気に合わせるか否か悩んだ。老夫婦の方はとっくに「日常」を演じている。太った男はものすごく偉そうな態度で、これまた太い足を組み、憮然たる表情だ。鮎川たちは不満の色もあるが、恐怖から解放された喜びの方が大きいようだ。山崎は無表情で座っている。しかし、その目は加賀壬から動かなかった。
 また心配させちゃった。ううん、私の方も一杯心配したしな。
 加賀壬が黙っているので三揃えの男が先を続ける。
 「ですが、防犯用のビデオにはですね、今回のあらましが記録されていたのですが、七名のお客様しか映っていないのですよ。
 ご覧頂ければご理解いただけると思うのですが・・・」
 男はそう言いつつ、テーブルからリモコンらしい細長い物を手に取った。鮎川が壁にかかっている薄型のTVを見上げたのを見て、そこに映像が流れるのだろうと察した加賀壬は首を振った。
 「映像はいいです。映っていないのは予想していましたし」
 「ああ、そうでしたか。なら話が早いですね。私たちの見解では・・・」
 「客は七名しかいなかった。もう一人いたと思ったのは錯覚か、錯乱時に見た幻影。もしくは光線の加減で水面に映った私自身」
 加賀壬の言葉に三揃えはにっこりと笑んだ。一方、山崎は緊張を高めた。加賀壬の声があまりに平坦だったから。爆発寸前であることを察していたのだ。
 「そのとうりですよ、加賀壬さん。ご理解頂けて感謝しております」
 加賀壬はテーブルの上に置いてある、施設の模型を見ていた。地下二階、地下一階、一階、二階、そして管理用の三階に屋上。各階毎にフロアの模型が並んでいる。模型の装飾された土台にはここを運営する会社と関係企業名が書かれていた。その模型の二階部分の一角を指し示す加賀壬。
 「スタート地点はここ。この位置にある排水溝。そしてこの下に配水管があるはずです。排水溝からこの配水管を通って行ける場所に魔性の本拠地があるはずです」
 加賀壬の声が室温を一気に5度は下げた。
 「この配水管を、貴方がたの言う存在しなかった八人目に塞がれ、魔性はあちこちうろついた挙げ句、排水溝に戻ってきました。つまり、この排水溝からはこの配水管を通らない限り行けなかった場所。そこが魔性の目標です。配水管の配置図を確認してください」
 「いや、何をおっしゃっているのやら・・・」
 加賀壬は冷たい瞳で三揃えを見た。
 「今、私はショックで錯乱しているんです。戯れ言です。とりあえず気の済むまでしゃべらせておけば、言いたいことを言い終えたら黙ります。いいですね?
 私も詳しいわけではないですけど、あの魔性はおそらく水妖と呼ばれるものです。淀んだ水の精霊。大抵、この水妖はかつて神や竜神であったものがほとんどです。この建物内に結界を張り、なおかつこの建物内の人工的な水脈を道にしていることから、魔性のベースがこの建物の周囲であるのは間違いありません。わざわざ人工的な水路を通るのは魔性にはマイナスですから。
 元々神であった程です。その体を失なったからといってそれで終わりにはなりません。何度でも復活する可能性があります。
 ここの工事前、ここに沼とか川とか、何か水に関するものがあったはずです。祠、社。あるいは単なる重ねた石かもしれません。何か水を祭るものがあり、その封印が破られたのでしょう。もしかしたら古井戸かもしれません。水妖は古い存在です。この建物の工事中に発生したという可能性はほぼ0でしょう。なにしろ、今、私たち人間は水の神を素直に崇めてはいませんから。
 魔性の痕跡を完全に消すか、あるいは再び封印を施さない限り、同様の事故、そう、貴方たちの言う事故がまた起きます。
 対策として美咲家に調査と除霊を依頼してください。お金はすごくかかるかもしれませんが、人命がかかっています。
 ここ、一条の関連施設だったんですね。なら話は早いです。本条総本家に報告すれば確実な対策が得られます。ただし、最大漏らさず、全てを報告してください。例え幻覚だったとしても、です。本条百合恵先輩が必ず完全な処置をしてくれるでしょう」
 本条の名を出され、三揃えは硬直した。
 加賀壬は息を継ぐとすぐにまた話し出した。治療を受けながら考えていた対策を告げるために。そのために湿布薬の絆創膏が剥がれたが気づいてはいなかった。
 「第二の問題です。貴方たちの言う、いなかった八人目です。
 あいつは消える前にこう言いました。面倒なことに、と。やってきた警備員さんが対幽体戦用の用意をしていない限り、警備員をうち倒すだけの力をあいつは持っていました。しかし、そこで騒ぎが大きくなるのを恐れ、撤退した。おそらく、身元を知られるのを恐れたか何かでしょう。
 そこであいつへの対策です。あいつのキーワードは遊ぶ、です。あいつは魔性とも遊んでいました。ここをあいつの遊び場にさせなければいいんです。
 警備員さんがあいつを見ているはずです。似顔絵、モンタージュですか、それを作り、張ってください。お客さんに見えなくてもいいです。従業員さんたちの目に付くところでいいです。従業員用の通路とか、事務所とか。とにかくべたべたと。そして、見かけたら内線の何番に、という様に大書きします。
 あいつは面倒なこと、目立つことを嫌います。大騒ぎは大好きみたいですが、そこで遊べなくなるのは嫌みたいです。ですから、あいつに注意しているぞと、今度見付けたらこっちにも用意があるぞと、そういう印象を与えるのです。
 連絡先も、警備員室とかじゃなくって、そう、事務局とか、社長室とか、何か偉そうな威厳ありそうなのがいいんですが・・・」
 「危機管理局、とか?・・・」
 そう言ったのは、まだ硬直したままの三揃えの脇に立っていた、吊しの背広を着込んだ三十男だ。加賀壬は頷いた。
 「いいですね、それ。そういう威圧的なのがいいです。
 こういう言い方は変ですけど、万引きの常習犯みたいに考えてください。んーんと、痴漢でもいいかな?
 とにかく注意している、出てきたらすぐに大騒ぎにしてやる。そういう雰囲気を作ってください。多分それだけであいつはここに来なくなります。来ても静かにしているでしょう」
 「それで済むんですか? もうこんな事が起きないようになるんですか?」
 背広の言葉に加賀壬は湿布の下にちらりと見える眉を潜めた。
 「多分、としか今は言えません。特に水妖の問題があります。美咲家に依頼してください。私の様な素人ではなく、プロの助言を得てください。とりあえず、私に言えるのはそれだけです」
 加賀壬はそう言い終わると開田の隣りに座り込んだ。
 吊し背広も三揃えも黙り込んでいた。そこに中年紳士が声を掛ける。相手は加賀壬だ。
 「あー、君。君の言うその戯れ言、だけどね、戯れついでにもう一声聞きたいのだが。
 君はその、あの神とやらが復活すると言ったね? 私たちはその、何だ、祟りとかは・・・」
 ぎょっとする化粧おばさん、そして太った男。わななく口が開かれる前に加賀壬が先を征した。
 「ありません。そこまでの力を有していません。復活と言いましたが、正確には転生です。新しく魔性が誕生しても、過去の記憶はないはずです。ですから皆さんに祟るということはないです。
 可能性があるのは残留思念、つまり強い思いが、呪いとなることですが、魔性が本性を現した後で接触したのは八番目の客だけです。私も注意して触れずにいました。ですから呪われるとしたら、この場所、もしくはあいつです。でも、まぁあいつじゃ一瞬で跳ね返すでしょうけど。
 気になるようでしたら美咲家に相談するといいです。見て貰えますから」
 「そうか。分かった。助言感謝する。
 えーと、カナミさんだったかな?」
 「カガミです。昭和高校超常現象研究会所属、加賀壬宏子です」
 「私は楡という。カガミ君、君はどうやら慣れているようだが、こういった事は他にもあるのかね?」
 だが、その言葉に応えたのは楡夫人だった。
 「それについては戻ってからお話ししましょう。ね、あなた」
 「? いや、しかし・・・」
 「後でゆっくりとお話ししますから。あなたがご存じない、この町のお話しを。
 加賀壬さん、私、幸町の生まれですの。美咲家の事は存じておりますわ。主人には私から話しておきます。
 お世話になりました。でも、お互いに今日のことはもう・・・」
 「忘れます」
 加賀壬がそう言うと、夫人はその真っ赤な唇で微笑んだ。

 こうして最初は質問責め、次いで他言無きようにと拝み倒された高校生たちは夜も迫る頃にやっと解放された。新聞記者も集まってきていたが、事故にあった客の中に有名な漫画家、あの太った男がいたことから、彼への質問に夢中だ。おかげで加賀壬たちはほとんど簡単なコメントを求められただけだった。

 水量調節弁を制御するコンピューターの人的操作ミス。
 予備タンク内圧上昇による圧壊の危険を察知したコンピューターが、予防措置として緊急排水を行なったため、水が第七プール内に逆流した。
 事故発生当時第七プールの利用客は七名おり、うち高校生一名が軽傷を負った。
 責任者である管理課長は引責辞任。部長以下担当職員四名が減給。再発防止に務めると共に、他部署での安全性確認も含め、新規で危機管理部門を設置する、と代表者が記者会見で語った。

 それが今回の騒ぎの正式な報告になった。
 しかし、それは新たな騒動の発端に過ぎなかったのである。



つづく