
von:秋澤 弘
第一章
午後になり、今度は開田と鮎川が、まずバタ足から教わり始めた。とりあえず泳げる加賀壬とは違い、彼女たちはぜんっぜん、まったく、これっぽっちも進めなかったからである。その反面沈むのはあっという間だったが。その間、加賀壬の方は一人で練習を続けていた。とはいえ加賀壬も「クロールもどき」を脱した程度に過ぎなかったが。
お昼過ぎに一度込んできたが、それでも全部で20名を越すことはなかった。加賀壬たちを入れてである。大半の客は30分程も泳ぐとのんびりと過ごし、一時間も経たずに去っていった。お昼のお弁当を食べてふと周りを見ると、ほとんどの客が入れ替わっている程である。
「一日券なのに、勿体ないねぇ」と語っていたのは開田だったろうか。
鮎川が食事のゴミを捨てに行った帰りに、ゴミ箱の側にあった張り紙で「年会員」という文字を見つけてきて一騒ぎになった。そうでもなければ一、二時間で帰るはずはないというのだ。
「毎日来られるんよ、ええなぁ」
「でもそんなのはマジで大金持ちだけじゃない? 普通、ちょっと無理でしょう」
加賀壬は頭の中で暗算してみた。一日券の値段をとりあえず週末のみということで百倍してみたのである。気が遠くなった。
「年会費なんて払えるの、本条先輩くらいじゃない?」
「なーる。あのお嬢様なら持ってるね、絶対」
開田は断言したが、残念、本条百合恵は持っていなかった。そんな物はいらなかったのである。ここは本条家が出資した子会社の経営だから。しかしながら百合恵がここに来たのはオープニングセレモニーだけである。プールに入ったことはない。なにしろ、ここは本条家の系列ではあっても最大のライバル、一条家のものだったからだ。まぁ、そうでなかったとしてもお嬢様はここには来ないであろう。本邸のプールの方がセキュリティも安全だし、設備も立派だったのだから。
加賀壬にしては夢のように立派なこのプールで。彼女は競泳用を兼ねた直線コースをへろへろと泳いでいた。さっきまでここで泳いでいた紫の競泳水着の女性のフォームを思い出しながら。泳ぎだしてしばらく旋回していたかと思うとすぐに上がり、飛び込んで10本コースを泳ぎ、来たとき同様に早足で帰っていったその女性。綺麗なフォームだったので山崎に参考にするといい、と言われたのだ。
しっかりと見ていた加賀壬であったが、もし今あの女性がここにいて、あなたの真似してますと言われたら怒り狂ったに違いない。加賀壬のクロールはその程度だった。
やっと一往復し、はぁはぁ言いながらコース端に寄りかかる加賀壬。その彼女の頭上を不意に影が通り過ぎた。
ばしゃーん。水音と共に誰かが飛び込んだのだ。水をかぶりながらびっくりする加賀壬。アブナイじゃないと怒鳴ろうかとも思ったが、注目を浴びたくはないのでその人物を睨むだけにしておいた。浮いてきたその人物はどうやら若い女性の様だった。Y字カットの大胆な水着をお尻から眺める格好になった加賀壬はすぐに睨むのを止めたが。
一度プールサイドに上がり、彼女が戻るのを待った。綺麗なターンを見せ、その女性はこっちに戻ってくる。その泳ぎはクロールなのだが随分とテンポが違った。もちろん加賀壬のへろへろクロールではなく、さっきの紫の女性のに比べて、である。
加賀壬の目の前に来て、プールの底に立ったその女性は若かった。多分加賀壬並であろう。大胆な水着に比べるとその体躯はまだ発展途上の感じだった。
「あのー」
と声を掛ける加賀壬。振り向くその顔はやはり若い。
「飛び込む時には気を付けてください。私、そこにいたんです」
一言だけ注意すればいいや、と思っていた加賀壬はその返事に考えを変えた。
彼女はこう言ったのである。「ばっかじゃない? 避けられない程下手ならコースなんか泳がなきゃいーじゃん」と。
むっとした加賀壬はつい反射的に応えてしまった。
「下手で悪いですか? 下手だから練習に来てるんです!」
犯罪すれすれのビキニを直しながら彼女は明らかに軽蔑した眼差しを向けた。
「下行きなよ、邪魔ジャン、それじゃ」
これだから金持ちは! 加賀壬はその女を睨み付けた。だが、彼女はまるで意に介することもなく、今度は帽子の乱れを直すとまた競泳コースを泳ぎ始めた。
なんだあの小娘・・・。くっそう。
見た目は同じ小娘たる加賀壬は燃えさかる怒りを静めるのに必死だった。
これが生涯のライバルとの出会いとは、この時の加賀壬宏子には知る由もなかった。
第二章
カランカランとドアの鐘が鳴る。
「いらっしゃいませ・・・」
無愛想な店員の反射的な声のすぐ後で、いかにも体育会系という感じの低い声が細長い喫茶店にこだました。
「あ、隊長、ここです!」
呼ばれて開田陽一は軽く手を挙げた。春夏用の薄手のジャケットにスラックスという軽装であったが、今日は結構暑い。店内を歩きながら冷房に感謝する程である。開田はカウンターを迂回し、隅のテーブル席に向かった。
「どうもお忙しい時期にお呼びだてしてすみません」
ぼろっちいソファーから飛び上がるように立ち上がり、Tシャツにジーンズというラフな格好の超常研2年、勝城正典が最敬礼をする。隣の前嶋祐吾もそれを真似た。寒がりの前嶋らしく、彼はフード付きのパーカーを着込んでいた。彼らに向かい合って座っていた天使隊の、いや元天使隊の三年生、渡瀬あいは、男ならつい胸元に目がいってしまうような大胆カットのシャツを着込み、ボトムはコーデュロイ地のミニらしかった。渡瀬は薄くルージュを引いた唇で軽く微笑むと手を振った。
開田は三人に笑顔を向けると、無言のまま空いていた渡瀬の隣に座った。彼女が休日によく付けているコロンの香りがほんのりと漂っていた。何というのかは知らないが、開田愛用のエゴイストにもよく似合う香りで気に入っていた。勝城たちも座り直す。開田の後を追うように付いてきていた無愛想なウェイトレスが水の入ったコップを置いた。
「アイスコーヒー」
開田の注文におざなりに頷いたウェイトレスが去っていった後で、勝城がもう一度頭を下げた。
「本当にすみません。受験勉強の邪魔しちゃって・・・」
開田は軽く首を振った。
「折角の連休だ。一日にくらい自由にしたい」
言いながら少し体の向きを変えると渡瀬の成熟した胸元が目に入る。シャツのV字カットから覗く谷間と全体のふくよかなラインに一瞬見とれてしまうが、その持ち主が渡瀬である事に気づき、すぐに目線を上げる。すると彼女は視線に気づいていたらしくぷっと頬を膨らませていた。その目は笑っていたが。開田は無言のまま謝った。ごめん、つい、と。
そんな二人に気づきもせず、後輩二人、勝城と前城は瞬時に蒼くなっていた。
「そ、そんな大事な日を・・・」
この二人は熱血系とおたく系の印象があるが、その成長の過程はともかく、本質はとても近い。真面目人間なのだ。開田はこの場を楽しんでしまった事を心の中で彼らに詫びた。彼らの顔を見るまでもない、困って、かつてのチームリーダーを頼ってきたのだ。
ちょっと慌てて、だがそれを表には出さずに手を振り、前嶋の言葉を塞ぐ開田。
「元気そうで安心したよ、勝城、前嶋。渡瀬も怪我なくなによりだ。
安心したよ。これが一番のストレス解消さ」
勝城は言葉に詰まった。
「隊長・・・。俺・・・」
「初戦突破おめでとう。これからもシュンと佐伯を支えてくれ」
開田は明るく言って手を差し出した。勝城は涙を浮かべながらその手を握った。握手する新旧のチームリーダー二人。
「んもぅ副会長にはかなわないわね、ね、前嶋君?」
「ええ。やっぱり隊長はすごいです」
前嶋は昨日から何とかして勝城の気持ちを上向きにしようと苦労していた。それを開田はいともたやすくやってのけたのだ。
「実はね副会長。相談に乗って欲しいのよ」
渡瀬は半分程になったテ・オレのグラスを手で弄びながら超常研元副会長、開田陽一に話し出した。
「この前のパーティは特別編成だったんでね、私たちの他に一年生が八人もいたの。全部で11人の大所帯!
もう11人いるって感じ」
コミック通の渡瀬が付け加えた言葉を、開田はSFファンなので理解したが、勝城には意味不明だった。
「でね、その他に三人再帰組がいるの。計14名。さすがに多すぎるでしょ?
で、2パーティにすることになってるのよ・・・」
渡瀬の言葉はウェイトレスがグラスを置いた音で遮られた。
「おまちどーさま・・・」
無愛想な彼女が立ち去ってから、言葉を継いだのは前嶋だった。
「単純に計算すれば七人ずつなんですが、そのパーティ分けについて意見を求められてるんです。多分、意見というよりも俺たちにやれって事だと思うんですよ」
「これが一年全部のメンバー表ね」
渡瀬が開田の前に生徒手帳を広げて見せた。渡瀬のちびっちゃい字で名前が書き込まれており、その脇にHP、MPの区分と○などの評価、そして寸評がかっちりとした活字の様な文字で記されていた。宮原だな。開田はその字に見覚えがあった。
開田がじっと見つめている間、渡瀬はまたグラスを回しながら待っていた。前嶋はじっと開田を見ている。勝城はというと、まるで死刑宣告を待つかのような青ざめた表情で、もう中身のなくなっているコーヒーカップをのぞき込んでいた。
1−A
遠藤二郎 未定/HP戦要員◎/一回/サッカー部/初戦で重傷。再帰組/なし
小野 治 未定/HP戦要員◎/二回/ハンドボール部/再帰組。右足がまだ完治せず。要注意/なし
北村茉莉香 佐伯隊/MP戦要員○/四回/写真部/明るいムードメーカー。治療も行う/ストロボ、警棒、救急箱、精神安定剤
塩尻秀作 未定/戦闘要員○/二回/帰宅部/焦り出すと混乱しやすい。つぶやきだしたら注意/なし
1−B
加賀壬宏子 佐伯隊/MP戦要員◎/四回/帰宅部/頑張りっこ/スリング、ピッケル、ライト、救急箱×2、精神安定剤
金居健太郎 未定/MP戦要員△/一回/帰宅部/再帰組。元帥を尊敬している模様/なし
山崎昌男 佐伯隊/HP戦要員◎/四回/剣道部/寡黙で慎重。守りの要/木刀、救急箱、精神安定剤×2
1−C・・・・・・
A組からE組まで、クラス順に並んだ一年のリストをじっと見つめた後でストローに手を伸ばし、袋から出した。ミルクピッチャーもガムシロも脇にどけ、開田は右肘を付いた姿勢でコーヒーをすすった。この姿勢だと三人の反応を見ながら考えることができるためである。
本当に新人ばかりだ。もう一月経っているというのに。開田は喉を潤しながら考え込んでいた。
アイテムもほとんどなし、経験もなし・・・。<佐伯隊>と<篠木原隊>。この二隊だけで4月の戦績を上げていたことになる。
チームリーダーの佐伯に対するコメントは「全員の意見をまとめ牽引する」とあった。人に聞いていた噂もその印象を裏付けていた。聞く耳を持ち、かつひっぱる力を持つ。こういう新人生が来たのは大層心強い。開田は心からそう思った。
加賀壬宏子はそのコメントが「頑張りっこ」だけだ。これだけで意味を成すというほど、その存在が大きいのだろう。事実去年のリストでは美由美は「ガンフリーク」、大田原が「元帥」、真由美も「姫」。それしか書いていなかった。
その佐伯隊はざっと見ただけだがバランスの取れた編成に見えた。HP◎二人、MP◎と○、治癒兼通信一人。そこで開田は最後の一人に不思議な記述を見つけて首を傾げた。1−D、前原静音である。
前原静音 佐伯隊/H・MP戦要員◎/一回/弓道部/拳法家。真面目で意志が強い。加賀壬宏子に従う/弓、救急箱、精神安定剤
「従う」という単語や、弓道部で拳法家というのもなにかひっかっかりを感じたが、一番の「?」は「H・MP戦要員」という記載方法だ。特に得手不得手がなく、特徴がないのが特徴、という場合、単に「戦闘要員」と記載していたはずだ。事実A組の塩尻は今もそう記されている。宮原が書いた以上、法則性に乗っ取っているはずである。
開田は指先でその名を示した。
見守っていた前嶋が勘違いをして答える。
「そうです、前原主将の親類で確か従姉妹です。親御さんが亡くなったので主将の家に引き取られたそうです」
「・・・H・MPってのは何だ?」
前嶋は一瞬きょとんとした。先に渡瀬が理解し、答える。
「あ、小前原ね、巌位神社の子なんですって。で武闘はできるし、弓も打てるってわけ。さらに実家が実家だけに破魔矢を射るわ、お祓いまでしちゃうわっていう話よ」
「初挑戦でMP体のゲートキーパーを浄化し、拳で魔王にとどめを刺したそうです。それで朝臣が新規にそういう書き方を決めたんですよ」
前嶋も渡瀬も自分のことの様に嬉しげだったのが開田にも伝わった。別のチームでも仲間である。その輪を感じ、開田は微笑んだ。
つまりH・MP戦要員というのはHP戦要員兼MP戦要員の略で両方得意だという意味らしい。霊実両用という事だろう。そう思い、ふと見るとアイテムの覧がさみしく思えた理由が分かった。ずらっと並ぶメンバーのアイテムを見るが、見慣れた文字がないのだ。
「札がないな」
開田の言う札とはいざという時の切り札たる「爆裂破」、いわゆる殿下のお札と、MP体にもバットや竹刀を効果させるための「悪霊退散」の護符の事である。特に前者は腕力のない文化部系に、後者は力勝負の体育会系に必須のアイテムだった。佐伯隊はずいぶん魔性を滅しているはずだ。ノクトプラズマビジョンやガスガンが無理だったとしても、お札と護符は買えるはずだろう。開田はそう思ったのだ。それを理解していた前嶋だったが、その口調は暗かった。
「その・・・。今、お札は正式戦力になってないんです」
「?」
「殿下会長も雄崎さんも卒業しちゃったので・・・」
なるほど、そうか。開田は険しい表情になった。殿下のお札はその名の通り殿下会長の秘技であり一枚一枚が手作りだ。そして悪霊退散の護符は去年の書道部部長、雄崎優の達筆をして成さしめたものだった。
「佐倉井部長や精進部長も卒業しちゃったけどさ、機械と材料があれば清めの塩玉も塩玉用ノズルブロックも量産できるでしょ。で、お姉様が指示しておいてくださったので条斉製薬から救急箱なんかはそのまま入ってきてるわ。
でも、お札はね、もう書ける人がいないのよ」
「殿下会長に探査中出合うとお札をこっそり売ってくれてるみたいですけど。シュンのとこはそれで補充してますし。でも雄崎さんが大阪に行っちゃったので悪霊退散の護符は、ちょともう無理です」
開田は首を下げ、顎を乗せていた右手を広げて額にあてた。これは結構つらい。あの護符がなければ運動部員はMP戦で何もできまい。そしていざという時に勝機を生み出す殿下のお札もない。あの札で何度危機を逃れてきたかを開田はチームリーダーとしてよく知っていた。
補助手段がない以上、HP戦要員はMP戦ではほぼ無力だ。その逆もしかり。防戦一方になるだろう。ましてやもしそのどちらかがみな倒れてしまったら・・・。開田はその恐ろしい考えに身を震わせた。
開田は気を取り直すと、メンバー14名をパズルの様に組み合わせ、パーティ編成を考えてみた。まず同戦力とおぼしき者を二名でペアにする。これが七組できれば簡単なのだが、そうは問屋が卸さない。なにしろ経験者の勝城と前嶋がHP要員、MP要員と別れているのだ。どう組み合わせてもHP向きとMP向きができる。ならば配下の一年生をHP寄り、MP寄りで分けるとして・・・。渡瀬が問題か。彼女と連れ合う新入生などいるはずがないのだから。
渡瀬あい。彼女は元天使隊のメンバーだ。<佐伯隊>に入った昆愛姫に触発され、天使隊からアタックチームに入った。渡瀬もまた天使隊の活動の限界を感じていたのだ。事前防止策を行い、さらに最も効果的にファーストエイドが出来るのはアタックチームに同行することである。だが、天使隊のカリスマ、本条百合恵はそれを決して認めなかった。彼女にとって天使隊は大切な子の集まりである。私設ファンクラブだったのだから。彼女は自分の目の届かぬ所に隊員を行かせなかった。本条は友人はもちろん、取り巻きも魔性の被害に遭うのを極端に恐れていた。かつて大事な命を失っていたからである。
その結果アタックチームに入るのを渡瀬は諦めていた。しかし、本条が卒業すると程なく昆が天使隊を辞め、佐伯隊に入った。渡瀬は昆のその度胸に度肝を抜かれた。あの「ほんわかさん」に先を越された、そう思った。と同時に渡瀬も昆の真剣さを理解していたので祝福する気にもなった。
昆からアタックチームとしての初挑戦の話しを聞いた時、渡瀬あいも決心した。重荷になるかもしれないという不安はあったが、それをぬぐい去ったのは相談した相手、つまり開田である。
「後輩たちを頼む」
彼は渡瀬にそう告げた。彼が望んで超常研を抜けたのではないことを知っていた渡瀬は決意も新たに頷いた。それはついこの前の事である。
渡瀬あいは天使隊の頃には相羽妹とコンビを組んでいた。気の弱い相羽とはっきりとした物言いの渡瀬。なかなかにいいコンビだ。今でも親友で、この二人がばらばらでトイレに行くのを開田は見たことがなかった。
去年の春。開田の親友、野木が相羽妹と付きあいだした。その結果、連れ合い同士なので結構普段から四人仲もいい。特に休日のデートとなると相羽は照れて渡瀬を誘うし、野木は野木でここぞという時の意気地がなく、開田を拝み倒して連れてきていた。保護者同伴のデートである。一部ではダブルデートと思われ、渡瀬が開田の彼女と言われている程だった。
「なかなか難問でしょ?」
渡瀬あいが氷をカランと揺らしながら言った。もちろん開田の返事は期待していまい。おそらく自分の事がポイントになっていると察したのだろう。渡瀬はカンの鋭い女だから。
開田は渡瀬の読みの鋭さには舌を巻いたことがある。野木の彼女相羽のり子は「相羽妹」とも呼ばれている。彼らの一年上、殿下の同学年にその姉、相羽幸がいたためだ。つまり相羽といえば幸のことだったのである。相羽幸は女子バレー部の主将として活躍していたが、超常研の良きサポーターとして、臨時の助っ人としても有名だった。去年、開田は相羽先輩にチャレンジし、呆気なく玉砕した。渡瀬はそれをささいな言葉から見抜いたのだ。
一方の開田も知っていた。当時渡瀬は天使隊にいたので、そっちの趣味だと思われていたが、彼女が本条会長に抱いていたのは、ああなりたいという憧れであり、恋心ではないという事を。実は渡瀬が惚れていたのは野木だということも悟っていた。彼女は他人のこととなるといろいろとお節介を焼くくせに、自分の事は全く後手後手だった。結果、親友である相羽妹への恋文をその野木本人から託されてしまったのである。運の悪いことにその場に開田は居合わせてしまった。
ほぼ同時に失恋した二人はその夜、駅前の公園のブランコを並んで鳴らし続けた。きーこきーこ。きーこきーこと遅くまで。
開田は昔を思い出して少し暗くなった。今でも相羽幸に対する気持ちは変わっていなかったから。
その時、渡瀬が足を組み直しておもむろに座り直した。古ぼけたソファーがきしみ、隣りの開田に揺れが伝える無言の言葉に、彼は気分を切り替えねばならない事を知った。
意識を意図的にメンバー表に向ける開田は架空の2パーティ構築に没頭していったのである。
第三章
こちらは開田妹。彼女は息継ぎに没頭していた。肩を固定して貰っている状態ならちゃんと息が吸える。しかし、自分一人でやろうとすると、同じ角度に曲げているはずなのに、開いた口に入るのは水ばかり。
「げ、げほっ!」
むせる開田妹。
「背骨が曲がってる。肩が反対に沈んでるからだ」
山崎にそう言われるが、どうしていいのか分からない。
「せやからぁ・・・」
鮎川がプールの底を蹴り、巨乳を揺らしながら開田に背中から飛びついた。
「こうや、こう!」
脇の下から腕を回し、ぐいっと肩を引き上げる。
「げ、げほ、げほ・・」
開田は体を折ってさらにむせ返った。
山崎は途方に暮れていた。
ふっと加賀壬を見る。彼女は何があったのか不機嫌そうな顔である。もっと言えばあからさまに怒っているようだ。泳ぐのは止めたのか、眼鏡をしているのだが、短いながらに前髪だけは顎より長い加賀壬の髪型では大きな眼鏡の半分が水分を含んで重くなった髪の毛に隠れていた。
その奇怪な顔の中、瞳は怒りに燃えているようだ。
その視線を追う山崎。プールの反対側から丁度プールサイドに上がろうとしている女性の姿があった。客もまばらなので、間違いなく加賀壬の視線を浴びているのは彼女である。
ざばっと水からその姿が現れた。その途端、山崎はぎょっとして目を逸らした。ビキニと呼ぶには布地が少なすぎる水着だったからだ。加賀壬を見直す山崎は、その目に困惑の色を見た。気になり反対側に目を戻す山崎。すぐにその理由が分かった。その女性は肌色の細いブーツを履いたままに見えたのだ。だが、直ぐにそれはブーツではないと分かった。
義足? 両足が義足か?
山崎は彼女がぎこちなく歩いて座ったビーチマットの側に車椅子も松葉杖もない事からリハビリではないと察した。加賀壬もどうやら同じ結論に達したらしい。不機嫌そうな顔ながら、半ば諦めの色が伺えたから。
何があったのかは山崎には分からなかったが、加賀壬が義足の女性に怒りを覚え、実は体が不自由だと知って仕方ないと納得したのだと思った。泳いでいてぶつかったか何かしたのであろう。どうするか、加賀壬に一言かけるか。そう思った時である。
「きゃああ!」
悲鳴は加賀壬のものだった。振り向こうとする山崎の目に白い壁が見えた。はっとそれを見る。壁はプールの中にあった。それは巨大な波だったのである。その壁は見る見るふくらみプールサイドを飲み込んでゆく。義足の女性が壁に気づき、立ち上がろうとしたが、あっという間にその中に巻き込まれた。助けに行こうとした山崎だが、その壁がすぐにここにも来ることを察し、咄嗟に向きを180度かえ、ジャンプして開田と鮎川に飛びついた。二人を抱え込み、再び底を蹴った。さすがに水の抵抗もあり、一気に端に接触することはできなかったが、我に返った加賀壬が駆け寄り、開田の腕を引っ張った。彼女は加賀壬に任せ、鮎川を思いきり持ち上げ、プールサイドに投げ上げようとした。その時、波が彼らを飲み込んだ。
泳げる山崎も、鮎川をなんとかしようと必死だったため、息継ぎする余裕がなかった。加賀壬と開田に至っては元々それができるだけの技能もない。ただ、鮎川は投げられかけた時に思いきり悲鳴を上げようと、丁度息を吸った時だったのが幸いした。
波は巨大でいつ果てるともないかのようであった。水面に上がろうとする山崎。だが、その努力は天井に手が触れた段階で無駄と知った。
加賀壬はもう何が何だか分からなかったが、とにかく開田をプールから引き出すことに専念した。丁度水位が一気に上昇したこともあり、開田を引き上げるのは問題ないことだったが、今度は息が続かない。開田は既に気絶したのか、全く動こうとせずに波の流れに手足を揺らすばかり。
く、くるしぃ、もう・・・ダメ・・・
加賀壬の目がくらみかけた時。やっと波が引いた。
むせ返りながら開田を見る。大きく一度咳き込み、開田の体がびくん、とよじれた。
「ぶ、無事か!」
山崎のせっぱ詰まった声。加賀壬は焼け付くような肺の痛みをこらえながらも、左に体の向きを変えた。山崎が鮎川の背に手を回し、上体を起こしているところだった。その表情までは眼鏡に付いた水滴で良く分からないが、紫織の物とおぼしき苦しげな喘ぎで息があると悟った。
「あか・・ね! ・・・かね!」
加賀壬は開田ににじりよるとその名を何度も叫んだ。加賀壬自身の心臓も肺も悲鳴を上げていたが、開田の声を聞くまでは必死に呼びかけるしかなかった。
「ひ・・ひろ・・・」
やっと開田の喉が吐瀉物と水から解放され、かすかながら声が出る。加賀壬は眼鏡を外し、茜の体の向きを直し、気道を確保すべく首を持ち上げた。
「だ、大丈・・・、すぐに・・・。息が・・・なるから」
加賀壬のあえぎながらの言葉に開田は苦しげに頷いた。
「鮎川は無事だ・・・。開田も・・・、何とか大丈夫か。
加賀壬、お前は?」
山崎も苦しそうだ。加賀壬は声を出すのを諦め、うんうんと頷いて見せた。
「他の客は・・・。!」
山崎はプールを見て言葉を失した。プールの水、その半分ほどが無くなっている。水位が膝くらいにまで減っているのだ。減った分の水。それは一点に、まるで水柱の様に集まっていた。直線コースの一番向こう、丁度山崎たちの反対側に。更衣室に向かう入り口の真ん前に。ぎょっとして周囲を見る。パラソルやらマットやらが散乱する中で三人の水着姿が倒れているのが見えた。立ち上がるがぐらりとバランスを崩し掛け、山崎は側に倒れていたやしの木につかまり、かろうじて倒れずに済んだ。加賀壬もふらつく足で立ち上がろうとしたが、すぐにあきらめ、四つん這いのまま近寄った。
「な、なにが・・・」
「分からん・・・。ま、まず、あの人たちを・・・」
二人は支え合って、プールサイドに倒れた人々に近寄っていった。
その三人はみなひどい有様だったが、そのうちの二人は少なくとも溺れてはいなかった。苦しげに咳き込む中年の紳士、そして覚めやらぬ恐怖にがたがたと震える連れらしき中年女性。しかし、残った一人は息がない。加賀壬の指示の元、山崎と二人、懸命にその呼吸と心音を呼び覚ました。加賀壬は夢中だったが、苦しい意識の片隅で屋上での昆の救命措置の講義を懸命に思い起こしていた。
「もっと上に・・。うん、そう」
三人目の気道を確保し、マットを丸めた物を後頭部に差し込んでとりあえずの措置は終了した。仰向けに横たわり、荒い息でその肥満した腹を激しく上下させる太った男。加賀壬は額の汗を拭うのも束の間、彼を山崎に任せて夫婦らしいカップルに近寄った。
「大丈夫ですか?」
「ど、どうなってるんだ、あの渦巻きは、何があったんだ?」
加賀壬は男性を落ち着けようとしてしゃがみこんだ。
「分かりません。何が起きているのか」
女性は目をしっかりと閉じたまま震えているが、肉体的には損傷がないようだ。だがその顔は水を浴び、泣いたことでもう大変な事になっていた。目の周りはパンダ、皮膚はまだらで、右の耳元まで唇が伸びている。厚化粧という言葉では済まない姿だったらしい。しかし、その体には打ち身や出血はなかった。ここに昆さんがいたら。そうは思うがいないものはどうしようもない。
「奥のレストハウスの方が多分安全です。なるべく水面から離れた方がいいです」
そうは言うが、加賀壬自身、その女性が今動かせる状態ではないと察していた。
「動けるようになったら、ですけど・・・」
そう付け加えるしかない。加賀壬は山崎を見た。太った男の方も動かせないだろうと思いながら。
「お、お前は・・・。いや失敬、君は大丈夫なのかね? 無事なら係員を呼べ、いや、119番の方が早いか、内線電話があったはずだが」
加賀壬は中年男が自意識を取り戻した事に気がついた。その口調から、かしづかれるのに慣れているという事にも気がついたが。
電話を探し、販売コーナーを見るが、そこにあった自販機は四台ともなぎ倒されていた。水を防ぐための簡単な覆いしかなかった二台の電話は支柱を残して姿を消していた。
だめだと告げようとした加賀壬は、その男性も同じ光景を目にしたのを知った。さらに、それだけのパワーのある水に巻き込まれかけていたという事実に紫に腫れ上がった唇がわななくのを見て取った。
「なんとか更衣室に行けば連絡が出来ます。ですから、奥さんが動けるようになったらレストハウスに」
男が不安の籠もった目で背後の東屋を見たのを確認してから加賀壬は山崎の元に戻った。開田と鮎川が上体を起こし、こちらを見ているのに気がついた。加賀壬がそちらに行こうとしたその時だ。
「い、いない! どこだ?!」
義足の女性がいない事に山崎が気づいたのだ。加賀壬もすぐに察した。さっきのタカビー女がいないことに。眼鏡を慌てて拭き直し、プールの水底、やしの影と見回す加賀壬。その時、加賀壬は目にしたガラスの向こうの光景に驚き、釘付けになった。結果、女性を先に見つけたのは山崎だった。
「まだ中に!」
彼が指さしたのは。入り口を塞ぐ水柱。渦の如く、竜巻の如くに旋回するその中に、髪の毛らしい黒や、体の一部と思しき肌色が浮かんでは消えていた。加賀壬はその体がバラバラなのかと思い背筋が凍り付いた。しかし、どうやら急速に流れる水のせいでぐるぐるとその体も回っているのだと理解した。
「この人たちを頼む!」
山崎はそう告げるとプールサイドを走った。水柱に向かって。
「や、山崎君、だめ! 危ない!」
加賀壬の制止の声を振り切って走る山崎。
「だめーっ!」
加賀壬の悲鳴がこだました。
第四章
「儂には兄がおった。兄は己の才能に溺れ、それを伸ばす鍛錬を怠った、よくある愚か者だった」
前原は祖父の言葉に驚いた。その人物のことは初めて聞いたのである。家系図にも祖父は長男とあったはずだ。
「兄は愚かだった。だが、それでも皆に好かれておった。一族のもの皆が愛しておった。しかし、その心は兄には届かなかったのだよ。儂がまだ若い頃、丁度静音、お前くらいの頃。兄は禁忌に触れた。決して見てはならぬ物を見、言ってはならぬ言葉をつむぎ、そして呼んではならぬモノを呼んだ。人たる者が身に降ろしてはならぬモノを寄りつかせたのだ。
結果、忌まわしき霊穴が開き、兄はその邪悪に取り込まれた。事は一族だけの問題ではなくなった。このみさき郷が、ひいてはお国の一大事になるところだった」
祖父はその忌まわしさに心を乱されたかのように言葉を切った。
「それを滅するには美咲の一族に頼るしかなかった。最強の退魔士に率いられた軍勢が出立した。しかし、儂等厳源の者は誰一人として同行は許されなかったのだ。血縁は兄の残滓を宿すやもしれぬとされてな。
戦いは熾烈極まりないものだったという。兄であった闇の者は滅せられたが、美咲の手勢も館に帰ってきたのはごく一部であったと言う。以来、我が一族で兄の痕跡は消え去った。消し去られたのだ。完全に。
皆がそう思っていた。しかし、違ったのだ」
静音は美咲という言葉に想いをはせた。鈴音の家に来て以来、「みさき」の名を何度聞いたことであろうか。それ程までにこの地の歴史と血に色濃く影を落としていたのかと。
「兄の痕跡を見つけたのが儂の長子、照代だった。この名も知るまい。本来ならお前の叔母にあたるはずだった者だ。
照代が見いだしたのは魔落としの刃だった。霊刀として名高い白令笙の一振り。兄はその霊刀が陰気の刃であることを利用し、血によって汚してそこに己の望みを掛けおった。兄の死後、いや、死滅後、長い間そのままに倉で眠っておった。女性(にょしょう)にしか持てぬ刃なので、誰も身につける者がいなかったからだ。それを呼び覚ましたのが照代。
あの子は文武両道をよく納めた子であった。祈祷は照唯に次ぐ地位を、厳源流の使い手としても照兼に次ぐ者であった。だが、そのどちらでも弟に敵わなかったのだ。照唯はあのとおり病弱。お前の父照兼は知ってのとおり神官の道を全く省みもせなんだ。照代はその両方をこなした。なのに、両方で第二の使い手とされるのを悔やんでおったのだ。儂はそれを知りつつもいつかは弟たちをまとめる身になってくれると信じておった。儂の愚かな判断が、照代と闇をつなげるのを見逃してしまったのだ。血に汚された霊刀という予期せぬ媒体をもってそれは成されてしまった。
あの夜。お前がまだ数えで二つの時だ。
照代がその身に闇のものを降ろした時、その周囲が歪み、大音響と共に吹き飛んだ。そしてあたり一面が燃えた。まるでB−29が町に降らせた焼夷弾のように。
幸いなことに照代はそこまでの儀式で力を使い切ったも同然だった。用意周到に綿密な計画を立てておった兄とは違い、霊刀に宿った曇りに、瞬時に惑わされたのであろう。
駆けつけた儂と当時の師範代中村とでその闇の力を抑えつけた。だが、照代の体が崩れ掛けているにも関わらず、それでも闇の波動は濃く、照代を、いや、照代であったモノを完全に止めることはできなんだ。門弟たちが波になって仕掛けたが倒すことはできなんだ。
そこに照兼が現れた。その腕に妻と息子の骸を抱いて。
かな子さんはその時、一照を風呂に入れていたのだ。そして、運悪く当時の風呂場は照代が儀式に選んだ句連の社のすぐ裏手にあった。照兼が爆発を知って妻子を捜し、その亡骸を見いだしたのだ。
あの時の照兼の形相は忘れられはしない。かな子さんを、そしてまだ四つになったばかりだった一照をそっと横たえ、照兼は構えに入った。かえせと一言叫び、闇のものに立ち向かったのだ」
祖父は孫が落ち着くのを待った。母と兄の死。その時の父の思い。思わず知らずに静音は手にしたままだった鞘を握りしめていた。
「照兼は姉を救った。体は崩れ去っておったが、まだ飲み込まれきっていなかった照代の魂はかろうじて浄化が間にあったのだ。それには由見の力で危機を察し、手勢を繰り出した美咲の方々の尽力あってこそだったが。
だが、その夜のうちに照兼はお前を連れて山を降りた。姉である照代を手に掛けた事と大事な二人を守りきれなかった事。その二つが照兼の心を濁らせてしまったのだ。
こうしてお前たち親子は市に下った。儂も直ぐに様子を見に行ったがな、山を降りたときには失意の底にあった照兼がどうだろう、夜が明けるやすぐに立ち直っておった。他でもない、お前がいたからだ。かな子さんが残してくれたお前がな」
前原の記憶には母の姿はない。一番昔の記憶をたどっても、そこには父照兼の笑顔だけがあった。その笑顔の裏にあった事実。父が山を降りた理由。前原はただ呆然と聞き入っていた。それしか出来なかったのだ。
祖父は再び煎茶を入れた。静音の側にも新しい湯気が立った。その湯気越しに祖父はさらに過酷な事実を告げ始めた。
「美咲家を束ねる頭領を御主(みす)と呼ぶ。照代の事件の折、御主殿自らが手の者を連れて駆けつけた。
美咲とはかつては<さき>、つまり前を<見る>、と書いた。彼らの血には過去を見る力があったのだ。正確に言えば縁(えにし)を見て取る力が。それを由見と呼ぶ。由(ゆえ)を見るのだ。
あの夜、御主殿はかつての我が兄、闇の者と縁(えにし)をつなぐ何かの存在が目覚めるのを悟り、真っ直ぐに手勢を引き連れてここに至った。
だが、彼らの呪法、そしてその由見の力を持ってしても霊刀を見いだすことは出来なんだ。彼らが見つけたのはその鞘のみだった」
前原はぎょっとして自分が握りしめていた鞘を放り出すところだった。そうしなかったのはその鞘に汚れが全く感じられず、代えって神聖な気を感じていたからだった。
「元々が破邪の刃だ、穢れさえ雪げばなんの曇りもない。
美咲の方々は鞘を清めることを勧めた。そしてその鞘で刃を呼び寄せ、封印せんとしたのだ。だが、鞘の雪ぎは成されたが、刃はようとして見付からなかった。
それが見いだされたのはこの二月。照兼の最期の時であった。
溺れた子供を、己が命を賭けて救った照兼。あやつが闘ったのがあやかしであったのか、あるいは自然現象であったのかは分からぬ。美咲の方々の由見をもってしても、照兼の意志が、その念が強すぎて全く分からなかった。その強い念の意味を解くのは儂にも造作のないことだった。照兼は、あやつは目の前で散ろうとしていた命二つに、かな子さんと一照の影を見たのだ。二度と死なせない。その意志はあやつの死に顔にも残っておった。静音、残されたお前には酷な話しであろうが、あやつは守れなかったお前の母と兄を救うために命をなげうったのだろう。あの事件以来、照兼は命を守ることに総てを賭けていたのだからな。照兼の意志。それはお前が一番良く知っているだろう。
白令笙の最初の一振り、破邪の刃、朝霧が見付かったのはその河原でだ。あやかしの仕業ではと調査を行っていた学生がそれを見いだしたという。その訪は美咲家に届けられ、儂がこの目で確認した。それは間違いなく、あの晩消えた朝霧だった」
学生という言葉に前原は超常研の事を思った。美咲会長ではと予測したのである。その想像は当たらずと言えど遠からず。それを見つけたのは会長は会長でも時の会長、殿下である。
その前の週にあった「氷の校舎事件」の後、殿下は引退と卒業を控え、結構暇だった。そこで新聞に載っていた水死事故に興味を抱いたのである。なにしろ零上川付近では冬に入り立て続けで事件が起きていた。殿下は零上川というキーワードに引かれたのだ。
まだ雪が残るその河原で。殿下は「事故」の翌日、学校に向かう足を伸ばし、その現場に立っていた。捧げられた花束と無数の足跡によって消された雪がその場所をくっきりと示していた。彼がその刀を見つけたのはほとんど偶然の様なものである。調べていて疲れたので座ろうとした。側にあった岩の雪を足で蹴り落としたその時、金属音がしたのだ。
「あぁ? なんだぁ?」
殿下はハンカチで包んで拾い上げたその刃が一点の曇りもなく、濁りもない事を見て取った。
「んーんと・・・。なんだ美咲のか」
殿下はそう決めつけた。美咲由美がスカートの内側に隠している懐刀。この落ちていた刃はそれにそっくりだったのだ。殿下はその剣を良く知っていた。刃を交えた事もあったし、一度は首筋に突きつけられた事もあったのだから。「事故」が美咲がらみだったとなれば、蒸し返すのは得策ではない。だがそれなら事は簡単だ、美咲に聞けばいい。
殿下はそう思い、その懐刀と思しき刃全体をハンカチできっちりくるみ、ほとんど何も入っていない学生鞄を開け、無造作に放り込んだ。
だが超常研の会長室で美咲由美はその事を否定し、ふわりとスカートを翻したかと思うと自分の懐刀を引き抜いて見せた。これには殿下もびっくりした。二本の造りはそっくりだったが、並べてみると結構違っていた。由美が柄を外して見たその銘は白令笙とあった。
「私のは白令笙白露と言います。間違えありません。姉妹ですね。驚きました。まだ白令笙の一振りが残っていたとは・・・」
「銘刀だろうな、こりゃ。美咲、お前これ調べてくれ。こんだけのモンだ、すぐ持ち主が分かるだろう。例の水死事故な、あれの裏に魔性がいたかどうか、ちょっと気になってな」
「会長。確認しておきたいのですが。この刃に触れられましたか?」
「うんにゃ。お前のだと思ったからなぁ。ハンカチで刃を持って、そのまま突っ込んでた」
その事実を確認し、美咲は胸をなで下ろした。
「正解です。この白令笙は総て陰気の刃。試し振りでもされていたなら大変な事になっていたでしょう。今なら、私が側にいれば縁(えにし)に乗せて術力を流せますが、会長お一人の折でしたら、術力を、いえ会長の場合気力を吸われていたでしょう。他の男性が手にしていたらもっと危ないところでした。吸われるものが命そのものになりますから。
さすがは強運の二文字を背負う方ですね、会長」
そういう美咲は本当に殿下の強運を喜んでいるようだった。
「んー、それくらい俺にも分かるぞ。プラスかマイナスかくらいならな。だから触らなかった」
「え・・・!?」
美咲は唖然とした。陰と陽。その力が起こっているときに見間違えるはずもないが、この刃には今何の呪(しゅ)もかかってはいなかった。その段階で分かるというのか?
「簡単だ。こいつが反応したのさ」
そう言い、殿下は冬だというのにだらしなくボタンを全開にしているガクランをめくった。左の肩に下がっているのは先祖伝来の「鬼斬りの刃」、通称「殿下の宝刀」である。
「こいつが惹かれた。男がチャームされるのは女って決まってるだろ?」
「これを見いだした段階でその守り刀をお持ちだった。それだけでやはり強運です、会長」
「んー、そうだなぁ、すごい幸運ではあったな。ハンカチ持ってたんだもんなぁ、この俺がさ。
あ、これ、昨日お前が貸してくれた奴だ。返すわ、サンクス」
「・・・・・」
美咲は昨日殿下の腕を冷やすために使ったそのハンカチを見た。殿下の「予定調和」に自分自身が巻き込まれていた事を知り、ため息をつく美咲由美。彼女は殿下の強運は既に必然のレベルなのだと悟った。
こうして白令笙の銘を持つ最初の一振り、朝霧は再びその姿を現したのだ。一番最後に現存を確認された故、最後の一振りと言っていいのだが。
「美咲の御主殿の見立てでは、朝霧が潜んでおったのは照兼の中であったらしい。照代を倒した時、まだ悪しき波動に満ちていた朝霧は、照兼の中に燃える、復讐の心に自らを潜ませたのだ。しかし、照兼はその悪しき炎をその夜のうちに沈め、そのまま二度とくすぶらせることはなかった。あやつは残されたお前を正しく導き、そして人を守りながら生きた。最期まで。一度たりと朝霧を目覚めさせることなく。
美咲の御主殿はこう申された。朝霧には既に全く濁りがない、と。お前の父が、その生涯をかけて浄化したのだ。その身に黒き波動をやつしながら、照兼はそれを乗り越え、あまつさえ消し去ったのだ・・・。
あやつは・・・そういう子だった・・・」
前原は鞘を見つめていた。父の中にあったという暗き炎。それは加賀壬たちに会うまで、静音の中にもあったのだ。父は一人でそれを乗り越えた。いや、違う、父は私のためにそれを封じ続け、浄化したのだ・・・。
前原は再び涙を溢れさせていた。
「我が兄の件も、照代の一件も美咲家では総てを封じてくれた。朝霧も同じく、儂は美咲に処遇を任せた。既に厳源を離れたものであったからだ。こうしてその鞘だけがここに残った。
朝霧は照兼がその身に封じ続けていた。分かるか静音。お前の父は、その鞘であったのだ」
静音はその鞘の汚れのない印象を理解した。それは父そのものだったのだと。
「照兼は朝霧を納め清め続けた。鞘の代わりにな。その鞘はお前に譲る。これからは鞘が父に代わってお前を、そしてお前が選んだ唯一人の者を守り、清めてくれるであろう。その鞘には儂がかけた願が込められておる。照兼が鞘に代わってその願を成就してくれた。今からはその鞘が照兼に代わってその願を成してくれるであろう。
暗きを祓い、汚れを清め全き道をなす事を」
祖父は静音のうつむきかけたままの顔を見た。そして穏やかな口調でこう告げ足たした。
「いいね静音。お前の選んだその人に渡しなさい。お守りだからとね。お前と同じく大君の加護がその人にも与えられるように」
「・・・。はい・・・」
静音は小さくそう答えた。
第五章
山崎はごうごうと時計回りに回転する水柱に駆け寄り、その渦のまっただ中で人形の様に回る女性をひきずりだそうと身構えた。回転しながら水柱の外に腕が瞬間的に出たところを掴もうとしたのだ。
「避けて!」
加賀壬の声がかすかに聞こえた。はっとして咄嗟にバックステップを踏んだ山崎は、水柱から水流が弾丸の様に射出されたのを見た。はたき落とすための柄物のない彼は身をよじって避けるしかなかった。だが、その水流は二つ三つと襲いかかってくる。山崎は後方に下がりながらその光景をしっかりと見つめていた。
水流はかなりの速度で突進してきているが、それが発生する場所には必ず瘤の様なものがぬっと浮き出ることに気が付いた。その正面に水流が伸びるのである。その効果がどんなものかは分からないが試しに触れてみよう、などとは夢にも思わない。
加賀壬は懸命に前に進もうとしていた。ふらつく足になんとか力を込め、走り出そうとして倒れ込んでしまう。
「や、やまざ・・」
息苦しさにその声も途切れてしまう。
山崎が瘤の膨らみ方を確認しながら、すり足でゆっくりと移動し、ばっと飛び退く。今やプールの水はくるぶし程度までしかない。それ以外は水柱に吸収されているのだ。山崎の足は水をはね飛ばしながら数度接近、待避を行い、間合いを知った。よし。山崎は一旦数メートル後方に下がり、一気に右隅に向かって駆けだした。現れた瘤は三つ。その最初の一つが開く寸前に左に飛び、水柱の真正面に出た。空しく宙をきる水流。思い切って腕を突っ込んだ山崎はそのすさまじい渦の流れに、肘が途切れるかという程の激痛をくらった。反射的に水柱の流れる方向、つまり左にジャンプしながら右手に触れたものを掴み、流れに沿って左回転で引き抜いた。
「せりゃーっ!」
ばしゃーん。気合いと水音と共に水柱から飛び出し、プールサイドに叩きつけられる女の子。そこでバランスを崩した山崎の太股に、新たに伸びた水流が直撃した。
「!」
山崎はうめき声一つ出せなかった。倒れ込みながらも腕で回転し、次の水流から身を守る。
加賀壬はプールの中に飛び降りるのを諦め、プールサイドを走っていた。山崎に走り寄りたかったが、加賀壬が成すべき事は彼が救った女性を守ることである。彼女が伏せたすぐ先が更衣室のドアだ。まず女性の安全を確保して、それから・・・
そう思っていた加賀壬は、その女性が立ち上がるのを目にして驚愕した。立ち上がると言うよりは跳ね起きたのだ。まるで操り人形が操者によってふいに起こされたように。
加賀壬の歩が止まった。何が起きたのか理解できなかったのだ。
「ンもう、なにすんのよぉ! くるくるしてて面白かったのに! 邪魔しないでよね!」
立ち上がったその若い娘が右手を伸ばした。その指先からにゅっと何かが伸びた。その先にいたのは。
「危ない!」
加賀壬の悲鳴がごうごうたる水柱の音にぶつかったその時。かろうじて片足で立ち上がっていた山崎の左肩にその伸びた先が食い込んだ。
「ぐわぁ!」
今、水柱は巨大な人型をとりつつあった。その頭部らしき所から向かってくる二本の水流を見据え、身を守ろうとしていた彼は左からの攻撃に完全に不意を付かれ身をよじった。次の瞬間、その腹に、そして腰に。二本の水流が突き刺さる。
山崎はそのまま力無く崩れ落ちた。
加賀壬は立ちすくむ。あまりの光景に。
「あ、あれ? ちょっと、大丈夫?」
ばたりと倒れてしまった男の子に声をかけたのは先ほどの女性だ。加賀壬の耳には入っていなかったが。
今、彼女の視界は倒れた山崎しか映っていない。そしてその耳は何も聞いてはいなかったから。
どくん、どくん・・・。
耳ではなく体で自分の心音を聞く。その鼓動が頭痛を呼び、激痛となり加賀壬は両手で頭を抑えたままへたりこんだ。
「あ・・。う・・」
意味を成さない声が彼女の喉からわき出る。
「いやーっ!」
不意にほとばしった悲鳴と共に加賀壬は突っ伏した。
「あぶない、逃げろっ!」と後方から中年紳士が叫んだ。その声は更衣室前に立つ女性に向けられていた。そして次の瞬間。彼女は襲い来る水流に貫かれていた。頭部に、右胸に、そして左足に。完全に貫通した水流は勢いを失い、そのままぱしゃりと砂浜を模したタイルに落ちて弾けた。
「何すんのよ。痛いじゃないの!」
むくれて頬を膨らませ、彼女は両手を腰に立っていた。水柱は、いや、今やその本体になろうとしている妖しは水流の効果がないと悟ると、直径2メートルはある奇怪な両腕を伸ばし、彼女を押さえつけようとした。両手をあわせ、その中央に女性を飲み込むと、そのまま吸収しようと力を込める妖かし。だが。彼女は全く意に介していなかった。
「んもう、つまんない! もっと面白い事ないの?」
その心底つまらなそうな声が、まるで危機感のない声が加賀壬の意識を戻した。
一体全体、何?
顔を上げずれかけた眼鏡を戻し、目に入る光景を認識した加賀壬は文字通り目が点になった。
女性は魔性の腕の中を、まるで廊下の様に何事もなく進んでいた。仰天していたのは加賀壬や見守る紳士たちだけではない。妖しもパニクった。自分に溶けず、取り込まれずに進むその違和感に。巨大な注射針の様な感じであろうか。
女性は魔性の中心と思われる太い胴体の真ん中に来ると、両手を左右に大きく突きだした。
「やぼちんはあっち行っちゃえーっ!」
そのままぐるぐると、まるでコマのように回転を始める。
「な、なんだ・・・?!」
プールの底から聞こえたその声。加賀壬がはっとしてみると、山崎だ。彼は腕でなんとか上体を起こしながら、その異様な光景に目を見張っていた。
よかった。無事だった・・・。
その認識は加賀壬を一気にクールダウンさせた。
到底無事とは言えないのだが、この場合命があった、という意味であろう。
その大きな瞳はまず周囲を確認した。
「しおやん、あかねちん、その人たちをもっと奥へ!」
加賀壬は後方にいる二人に指示を出した。まずは人命の確保が優先だからだ。
二人はおっかなびっくりという風に支え合いながら、はいずるように三人の元に近付いた。
「大丈夫。なんとかするから」
加賀壬は自分に言い聞かせるようにそう言った。
「絶対なんとかするから」
加賀壬は魔性と、どう見てもフツーじゃない娘の観察を開始した。
つづく