<超かいき★くえすと>くえすたぁず

 

第十六話:加賀壬さん水泳す

 

von:秋澤 弘

第一章

 「あ、まだ早い、入れちゃダメーっ!」
 加賀壬の制止は間に合わなかった。
 「え? え?」
 空のお皿を片手に掴んだ状態で開田茜がパニクる。
 「・・・。あかねちん、さっきも言ったけど冷蔵庫から出したばっかだと冷たいでしょ? 常温に戻してからじゃないと・・・」
 「そ、そっか。わりぃ。やっちった」
 茜は舌をぺろっと出した。悪びれもしない様な態度のようだが、その実、すさまじく動揺しているのがはっきりと分かる。加賀壬は抗議するのを諦め、鍋を鮎川に任せてフライパンに向かった。
 「あかねちんはニンジンの方お願いね」
 言われた開田は慌ててお皿をテーブルに戻した。
 ちっくしょぅ、鮎川め、料理できるならできるってちゃんと言っておけよな!
 茜はパニクりながらも「友」であると信じていた鮎川紫織の背をこっそり睨んだ。
 これじゃあたしだけ親不孝者みたいじゃん! 鮎川の裏切りもの〜っ!

 日曜日早朝。加賀壬は昨夜から開田の家にお泊まりだ。鮎川紫織もやって来て三人でおしゃべりに花を咲かせた。
 もともとお弁当を一緒に作ろうと誘ったのは開田である。加賀壬を中心にして四人分のお昼を作ろうという口実で、母のいない山崎に加賀壬の手弁当を食べさせて惚れさせようというのが本音。
 「男手一つで育てられてきた山崎君に、女の手料理でポイントアップ作戦」と命名されていた計画である。
 当初は加賀壬の家で集まろうとも思ったのだが、どうせならバス停に一番近い開田の家にお泊まりしよう。そういう話しに自然となった。
 今日の目的地、昭和新町にほど近い幸町に住む山崎はチャリなので10時に現地集合である。それなら開田の家を9時半くらいに出れば大丈夫、余裕を見て15分頃にしようか、などと言っていたのは昨夜の事だ。朝ゆっくりだから弁当造りには十分な時間があるはずだった。そう、はずだった、のである。
 鮎川紫織はもう開田の家には慣れっこになっている。「勝手」知ったる他人の家、というわけで、お勝手でおたまやらアルミホイルなど、加賀壬に言われた物を「はいな」と出しているのは紫織である。一方、この家に住むこと16年。総て知ったる自分の家のはずの開田茜は「え? え?」を朝から何回連発したであろうか。
 中学の頃、家庭部にいた程加賀壬は料理が好きだ。休日は母と二人でエプロン姿で台所に立つことが多い。母は繰り返し繰り返し続く食事という難問に苦労していたので、休日は娘にほとんどお任せであった。「ああ、女の子でよかった」と口には出さずにつぶやきながら。しかし、レシピを見ながらそのとうりに作る娘の料理に、つい経験上の追加修正を加えてしまい、カタカナ表記だった料理が、出来てみたら和風醤油あえだったりしたが。
 休日の夕方。加賀壬母子はこのままでいい、いやこの方が早いとぎゃーぎゃーもめながら、もめていない時には二人別々に鼻歌を歌いながら台所に立つ。その時間帯。折角の休日をのんびりと過ごしたい父がその騒音に悩まされていたのは秘密だ。
 加賀壬は毎日考えねばならない料理は母に任せ、好きに考えることが出来る菓子作りの方がしたい、というごく当たり前の女子高生である。焼き菓子作りが一番好きなのだが台所を長く占領するわけにもいかないし、おいしく作るには、出来る量が三人家族には多すぎた。なにより許せなかったのは家のオーブン。あまりに火力が弱かったのだ。大型トースターと彼女は侮蔑を込めて呼んでいたが。
 鮎川は別段料理好きというわけではない。ただ、鮎川家は89才の曾祖母から小学校三年生までの大家族である。その人数の食事となるともう戦争だ。味、栄養、レパートリー。その三要素よりもボリューム、日持ち、鍋の数の三要素が重要だった。紫織も中学に入った頃から、女という性別だけで台所勤務を拝命していた。歳の近い姉と組み、鮎川家晩ご飯当番編成に戦力として組み込まれていたというわけだ。だが、高校に入った今でも、実は一人で献立を考え、買い出しし、台所に立つ、などやったことはない。大抵姉が主戦力であり、紫織は中距離支援が担当だったから。
 というわけで今、鮎川は加賀壬の支援に徹していた。自然とそうなっていたのである。その間、開田茜はうろちょろし、へまをやらかしていた。自然とそうなっていたのである。
 「あー! どうして輪切りにしちゃったの! スティックにするって言ったのに・・・」
 「え? あ、そっか。えーと、どうしよう・・・」
 台所の外で。そこの主である開田母は寝間着のまま扉の影にそっと立っていた。今また聞こえたその声に、身を縮めるしかなかった。あまりの娘のふがいなさに彼女は涙していたのである。

 早朝から地域限定で突発的に発生した台風は9時50分過ぎに去っていった。
 緊急警報解除された開田家のダイニングでは開田兄と父が遅めの朝食をもくもくと摂っていた。母は台所の後かたづけで手一杯である。
 なにやら今朝のママは決意に燃えている。それが一体何なのかは夫、権三には分からなかったが、波風の予感を感じ、新聞に顔を埋めていた。息子との世間話で気を紛らわせようかと話しかけたのは食後のお茶をすすっている時だった。
 「昨夜はやけににぎやかだと思ったが、紫織ちゃん並に元気な子だったなぁ、あの眼鏡の子。なぁ」
 「加賀壬。加賀壬宏子」
 開田兄は父が広げている新聞の反対側にあるTV覧を覗き込みながら答えた。父は驚いた。普段自分から口を開くこともない息子が、ただ頷くだけでなく言葉を発した事に。名前を覚えている事よりも先に、である。いつもどうりに一方的に話しかけるつもりだった父は五秒ほど口を開いたままだったが、やっと息子が昨夜泊まっていったボブカットの女の子の名前を知っていた事実に気が付いた。
 「なんだ、知り合いか陽一。同じ学校の子か?」
 「うちの新入り。もうベテランに近いけど」
 父はしまった、という顔を隠しもせず、台所を見た。娘の教育に対する新たな決意に燃えていた開田母は、父子の会話を耳にしてはいなかったようだ。幸いとばかりに父は口をつぐみ、新聞のスポーツ欄に沈黙したまま見入ることにした。
 開田茜の兄、陽一は三年B組。佐伯や山崎のいる剣道部の部長、相原と同級生だ。去年まで陽一は超常現象研究会にいた。超常研が出来た時、彼は一年だったが、殿下の演説に自分にも何かが出来るのではと思い入会した。すなわち会創設時からのメンバーである。一年の頃は精進&香坂という文系の先輩と組むことが多かったが、二年になり、新規にチーム編成が成された時にはリーダーとして開田隊を率いていた。殿下と共に卒業した書道部部長雄崎や、今二年の勝城、前嶋ら当時の一年生がチームメンバーだった。
 開田は肉体も健全だが、どちらかといえば頭で闘う、いわばMP戦要員である。ただ、この頃の超常研はHP戦要員、MP戦要員といった区分けが今ほど出来てはいなかったので開田はその両方をこなしていた。それは現在でも篠木原隊に色濃く残っている。HP戦要員のサーが持つ金属バットには悪霊退散の札が張ってあるし、MP戦要員の美由美のガスガンにも対HP戦用に.46の重実体弾が用意されていたのだ。己の肉体だけを武器にしてきた元帥も、去年のクリスマス騒動で、美咲の御神酒を頭から被り、MP体の魔性を巴投げで結界に引きずり込み、仕留めた事で有名である。
 開田はリーダーであり、HP、MP双方の補助員としても活躍していたが、その黙々と任務をこなす実績を高く評価されていた。その結果実働隊長としてだけではなく、殿下会長の下、美咲由美と二人で副会長という職務にも就いていた。だが、去年のクリスマス騒動を機に受験のため引退する決心をした。それには超常研参加に断固として反対する母への配慮が大きかったのだが。
 彼は妹、茜が自分と同じ高校に進むと聞いて正直びっくりした。学区編成がない今、電車通学でどこか不穏さのない市の高校に行くものとばかり思っていたからである。中学時代の後輩はほとんどがその道を選んだのだから。わざわざ危険なこの近隣にいる必要はないのだから。ましてや茜は普段から陽一と街で出合ったりするのを毛嫌いしていた。かっこいい兄なら友達に自慢できるのになぁ、といつもぼやいている。それのになぜ同じ学校に?
 茶の間で妹と二人でいた時、陽一は問いかけた。なぜ俺の学校に来るのか、と。茜は逆に不思議そうにこう答えた。兄貴が守ってるとこだから、守る価値のあるいい高校なんでしょ、と。鮎川も行くって。どこに行ったっていつ飛び火するか分からないでしょ、だったら兄貴たちがいる学校が、一番安全だって言ってたよ、とも付け加えた。兄の短い問いかけの十倍ほどの長さがあるいつもの妹の返事であったが、陽一はその言葉に感動してしまった。以来、引退してからも仲間に現状を問い合わせていたのは妹の、そしてその友人の身を案じてである。
 妹たちが超常研に入らなかったのには心底安心した。その危険さは彼が一番よく知っていたからである。
 仲間からの情報で、特に剣道部がらみの情報で、超常研の新メンバー「佐伯隊」についてはいろいろ聞いていたので、話題の中心、「頑張りっこ」にも興味があった。既に無数の伝説が生まれていたのである。殿下会長が真っ先にあだ名を付けた新入生。それだけで十分「特殊」な存在である。ましてや精進部長まで注目しているという。本条会長が目を付けた、という情報は心の隅に鍵を掛けてしまっておいたが。どういう女生徒だろうか。美由美と仲がよく、おかっぱ頭で小柄で華奢。そういう情報から、真由美の外見に美由美の中身を想像したが、その想像図はイメージとしてすら集束不可能だったのである。

 そして昨夜。
 茜が級友として紹介したその本人を目の当たりにして、彼は世間の狭さを痛感した。しかしそれと同時にこの全く目立たない後輩に驚いていた。同姓同名かと最初は思った。名前を漢字ではなく、音として聞いていたので、近い名前の別の子かとも想像したのだが、彼女は挨拶に続いてこう言った。
 「フェイズ2隊長だった先輩ですね! F2Bのおかげで助かった事があるんです、私のチーム。本当にありがとうございました」
 <F2B:フェイズ2ボム>ときた。去年の今頃行われた作戦だけで一回だけ使われた、対「S」用試作兵器の名称だ。一般の新入生が知るはずの無い言葉である。間違いない、本人だ。
 この子がそうか。陽一はこの眼鏡の女生徒を何度か見たことがあった。自販機の前で茜を待っているところ。茜と紫織と一緒に仲良くお昼を食べているところ。渡り廊下を走っていて田部先生にこづかれていたところ。体育で跳び箱をクリアできずに何度もやり直しさせらていたところ・・・。茜の友人として認識していた子。この子があの頑張りっこだったか。そう再認識し、同時に驚愕もしていた。
 見た目だけでは分からないものだ。陽一はそう思いながら加賀壬を見た。おかっぱというよりはボブ、小柄で華奢というよりは一言、「やせ」の方がしっくりくる。顔は・・・、人並みというか、大きな眼鏡とそれに比例する大きな瞳くらいしか印象に残らない、普通の女の子だ。実は本条会長が目を付けたと聞き、かわいらしい系の美人を期待していたのでがっかりしたという説もある。
 にこやかに挨拶するその表情は単純そうで、いや失礼、純粋そのもので、美由美のからかい相手なのだろうと瞬時に納得した。これだから噂というものは・・・そう思った時である。加賀壬がお辞儀を終えて顔を上げた瞬間、ほんの一瞬だけ先輩の顔を見つめた。正確には目を、である。頑張ります。その声が聞こえた気がした。
 こうして開田は殿下のどべたな名付けセンスが、ごーくごく稀にその本質を掴んでいるという説に同意したのだった。

 開田家の食卓で新聞を広げたままの父を残し、陽一は出かける支度のため立ち上がった。
 「あの子が茜の友達で嬉しいよ」と言い残して。
 父はきょとんとして、ダイニングを立ち去る息子の背を見送った。


第二章

 この辺りは江戸中期から栄え始めたにしては神社仏閣が数多く存在していることで名高い。その中で、市民から巌位(いわい)神社と呼ばれるものは二つある。街近郊にある小高い丘。こんもりとした森に囲まれた、通称下巌位神社の方が有名だ。初詣や休日の市民の憩いで名高い場所である。もう一つは零上(れかみ)川の源流に程近い山奥にある社。鬱蒼とした原生林の中にぽつんとあるその神社は真先賢中り厳源社(まさきけんあたりげんげのやしろ)と言う。江戸の昔から上巌位で通っている。こちらの方が山奥にあり、霊験あらたかな印象があるため、市民は上巌位が本社で、下巌位は神様の別荘かなにかであると信じていた。しかし、その実、全くの逆である。元々美咲家に仕える武者や修験者が近在のあちこちに、己が信ずる神に捧げ、必勝祈願の小さな社を建てまくった。その一つが今の下巌位のおこりだ。後になり滝ごもりを主とした修行場の近くに立てた春宮が今の上巌位のおこりなのだ。しかし、大戦中全焼した下巌位からご神体を移した折から、今では上巌位が本社となっていた。結局庶民の見立て通りになったのである。
 上巌位までは駅前からバスが通っており、結構身近な場所である。だが、バスからもちらりと見える、階段の異様な長さによって、市民からは縁遠い場所と思われていた。全く持ってばちあたりなことである。
 殿下呼ぶところの「モノホン巫女」、前原静音は今、その社務所の奥で神主長たる祖父、照正と向かい合って座っていた。一昨日の金曜から土曜朝にかけて、前原は初めて魔性狩りに参加した。彼女はその報告と謝意を述べに来ていたのである。
 本当は平日の放課後に寄るつもりであった。連休の日曜日、ましてやゴールデンウィークともなれば社もそれなりに忙しいだろうと思っていたからである。そのため昨夜呼び出しを受けた時には正直面食らった。
 祖父は事細かに伝えることを要求した後、みじろぎ一つせずに孫娘の語る闇狩りを聞いていた。初めての探索、うつぼかずらに無限階段。騎馬の侍の談になると涙を隠せなかったがなんとか話し続けた。突入前に出合った殿下の事、そして魔王。かろうじてそれを滅し、加賀壬の意識が戻った事などなど。
 魔性。戦い。そして仲間たち。
 御前燈明を授かり、境内で清めの場を貸してもらった事に礼を述べ、前原の長い説明は終わった。

 祖父は話が終わった後もしばしの間沈黙を守った。普段は静寂に満ちた時間だが、今日は本殿の方から玉砂利を踏みしめる音がずっと響いている。連休中は終日そうなることであろう。単にお賽銭を入れて柏手を打って祈願するために来ているのではなく、祈祷の順を待つ人も廊下を埋め尽くしているであろう。魔性による被害が広がりつつある中、やはり人がまず頼るのは神なのだから。今、祖父が孫と差し向かいで座っている時間を作るのもどれほど苦心したのかはおして知るべし。祖父照正にとって、この会合は何を置いてでも優先する事項であったのだ。
 語るべき事を告げ終えた静音は、祖父が語り出すのを待っていた。
 静音をしばらく見るとはなしに観察していた照正は、なるほど、とかすかにつぶやくと手を伸ばして茶碗を持った。冷めたお茶を一口すすり、ふっと孫娘を見る。
 「静音、鍛錬は進んでいるかな」
 言葉を受けて、身を縮める静音。鈴音の気遣いで始めた和弓の練習は続けていたが、体術の修行は師であった父の死後、止まっているも同然である。
 巌位に伝わる自己鍛錬の道、厳源(げんげ)流体術。突きを主体としたこの流派は紹介されている写真を見ると、空手の一種に見えるだろう。しかし、実態は空手というよりも合気道に近い。定められた型に沿い、動くことで己の心技体を一つにする、精神修養の道である。春と秋に行われる奉納手合いも、その型をどれだけ己に具現化しているかを競い合うもので、向かい合って闘う形式ながら、拳が相手に触れることは一切無い。その流れるような型は太極拳を連想させるが、もちろん手合いでは拳法としか言いようがないほどの速度とパワーを発揮する。
 スピードとパワー。そのどちらにも片寄ってはならない。相手の動きを読み、それを流し、かつ一点集中で突く拳によって相手の総てを止める。静と動、攻と防が瞬時に入れ替わり続けるその手合いは、素人目にはどちらが勝ったかすら分からない程である。
 静音の長身と長いリーチは生まれながらの素質もあったが、この鍛錬の結果でもある。筋肉が十分に付きながらもひきしまった彼女の体躯は厳源流の具現そのものと言えよう。事実使い手として十分な力を有していたのである。だが、精神の安定なくしては全く意味を成さないのは当然。父を失ったのみならず、その復讐心に捕らわれていた暗い時間。それはあまりに長すぎた。加賀壬に従意の誓いをたててからは毎日基礎鍛錬を行なってはいたが、肉親を失ってからの心の迷いと体の衰えは重すぎた。さして長い時間ではない。だが、一度昇った場所から転げ落ちるには十分な長さだったのである。
 今回の探索でも最後の魔王戦で己の技量が落ちていることをイヤという程思い知らされたばかりだ。懐に踏み込んで突きを打ち出さんとしたが、思い描いた速度では体が付いていってくれなかった。かろうじて突き込んだその拳も、思い描いたパワーを生まなかった。魔性ならばなんとか抗する事も出来たが、圧倒的な魔王相手では一度心技体の統一を失っている前原静音では勝機はなかったのである。
 魔王戦の最後はほぼ前原の独り舞台であった。決着は一対一の勝負で、である。そこまでに魔王を追いつめた仲間の存在、そして加賀壬の想いが前原の未熟を補い、その拳で魔王を駆逐せしめた。ではあるが、己の未熟さを眼前に突き出されたという結果は動かし様のない事実だった。
 身動き一つできない静音の瞳から涙があふれ出た。その滴が手に落ち、我に返った彼女は祖父の前に拝した。
 「は、初めから・・・、やり直しを・・・」
 喉が震えてそれだけを絞り出すのがやっとだった。
 「無駄だな」
 祖父の声。何の感情も込められていないその声に、畳に突いていた前原の手のひらが握りしめられてゆく。拳になり、震えていたかと思うと、拝していた彼女の上体が崩れ落ちた。
 「静音。聞きなさい。幾たび鍛錬を積んだとしても、今の状態になるのが限界だ。心も技も肉体もお前にしかない唯一のもの。己の総てを一つにする道である以上、己が変わらぬ限り、幾たび昇っても、今の高さで止まってしまう。それが道理なのだから。
 一度失ったのならば、やり直しは利かないものなのだよ、静音」
 前原は泣き続けた。己の愚かさが導いた事実に。


第三章

 約束は10時。正門脇のチケット売り場前。
 テーマパークブームに乗り、新設されたばかりのこのプールはその一日券の高額さから、手頃な家族サービスの場というよりもアベックの新たなデートスポットとして有名だった。売り場に並ぶ若者の大半が「大人二枚」とピンクの制服姿のおねえさんに告げているのだ。ゴールデンウィークの日曜日。平年よりも随分暑くなりそうな陽気の中、自転車の不法駐輪対策に張り巡らされているガードレール状の物体に腰をかけ、山崎昌男は黙していた。スポーツマンらしい短い髪。生真面目を絵に描いたような表情。身長185を越す長身。それに似合っただけの肩幅。がっしりした足腰はジーンズ地越しにもくっきりと筋肉を浮かべている。
 まるで電柱の様に不動の存在。今の山崎はそれだった。だが、せわしなげに動く彼の目が、初デートの待ち合わせだろうと周囲に断言させていた。真新しいポロシャツがその想像をさらに容易にしていた。

 ピンク一色に塗られた建物。その屋上にある時計台が10時15分を告げた。山崎は黙している。

 10時半になった。30分おきに仕掛けられているグロッケンシュピールが始まり、居並ぶアベックはかわいらしい天使たちがちょこまかと動きながら鐘を突く姿に歓声を挙げ、最後に出てきた小太りの天使が、わっかではなく浮き輪を付けているのに爆笑した。だが山崎は黙している。なぜか定刻よりも随分早く付いてしまった彼は、あの浮き輪天使を見るのが今日三度目だったからだ。

 10時42分。出発が遅れた上に車の混みようを計算に入れていなかった三人娘は、こうして開口一番から謝り続けるしかなかった。

 チケット売り場に並ぶ列を横目に彼らは正面の入り口に向かった。鮎川が代表して差し出したチケットを見て、ピンクのコスチュームに身を包んだ係員がこう言った。
 「特別ご招待券ですね」
 その声に、側に立つピンクに彩られた四人のねーちゃんが集まり、一斉に頭を下げる。
 「ごゆっくりおくつろぎください」
 彼らはねーちゃんの一人に案内され、ふかふかの絨毯をこわごわ踏みながら二階に向かった。次々と入場してくるアベックたちが更衣室とラウンジがある地下に降りて行きながらその背中を好奇の目でみつめていた。
 「こちらがVIP室になります。では当施設のご利用方法をご説明いたします」
 ピンクのねーちゃんはたっぷり五分は話してから出ていった。
 「・・・・。一体、なにごと?」
 開田が鮎川に聞くが、彼女もちーとも分からない。と、その手にするチケットの半券を見て開田が叫んだ。
 「特株主様御招待専用!?」
 「株主ぃ?」
 みんながその半券を見ると、確かに小さく白文字でそう書かれている。持ってきた鮎川自身が一番びっくりした。
 「うちがこうたんちゃうで。せやからよう知らんで。うちとこのねーちゃんが会社でなぁ・・・」
 そう言いかけて、一番上の姉が務めているのが広告代理店であることに思い至った。
 「はぁ、かすみねーちゃん、またどっかからがめてきよったな・・・。困るで、ほんま」

 山崎と別れてからVIP専用の広い女子更衣室の片隅でなぜかこそこそと水着に着替え、プールの自動ドアの向こうに立った時、鮎川の嘆きはすぐにかき消された。
 「うっわー・・・」
 そこは通常ならば三階か四階の位置にある二階プールだった。市民プールをかっこよくした物を想像していた三人娘は呆気なくどぎもを抜かれた。この高い場所よりもさらに高いサンルーフからの日差し。そしてそれを遮るように林立するやしの木らしき樹木。プールは半円形をしており、そこに斜めに直線の水路が加わっている。泳いでいるのは三人。泳いでいないのは四、五人というところか。ある者はデッキチェアに座り、ある者はビーチマットの上で甲羅干しし、またある者はピンクのパラソルの下でのんびりと過ごしている。まだ午前ゆえか静けさがそこには満ちていた。小鳥のさえずりが聞こえるがこれはどこかに隠されたスピーカーからだろう。そのプールサイドはわずかに傾斜があり、砂浜を模したのであろう細かな凹凸が滑り止めも兼ねて一面に埋め込まれていた。競泳もできるらしい直線水路の部分にはアーカイック風の彫像が中央に立つ橋までかかっている。
 「な、なんかどっかの豪邸のプールって感じ・・・」
 きょときょと、おっかなびっくり辺りを見回す庶民三人。
 しかし、目に映る光景で一番驚いたのは彼女たちの右手側、ガラスに仕切られた先の光景だ。
 「うっわー、すっごい人!」
 見下ろした加賀壬が思わずつぶやいた声に大きく頷く二人。そのガラスの向こう。十数メートル下に一般用のプールが広がっていた。手前に流水のプールがあり、その中央にスライダーがしつらえてある。左手側には人口波が絶え間なく打ち上げられる四角いプールがあり、その奥のひょうたん型は子供用であろう。そして、その至る所に人が満ちていた。加賀壬は高所が怖いので離れていたが、鮎川と開田はガラスに思わずべったりひっついてしまった程の光景。
 「な、なんかさー、偉くなったよーな気が・・・」
 開田の言葉に今度は加賀壬が大きく頷いた。
 「でもさぁ、なんかすごい人。どこからこんなに来るのかって感じだよね」
 「まぁしゃあないんちゃう? 県内で泳ぐにはここが一番でかいそうやからね」
 この辺は内陸なので海はない。河川はあるが水泳できるものではないので、県内各地から集まるのも当然かもしれなかった。建物の脇にある巨大な駐車場もそれを見越してのものだったのであろう。
 「でも、ほんとアベックばっかり・・・」
 と、つぶやいたその時である。自分たちだけで来たのではないことを加賀壬は思い出した。自動ドアをくぐるまではものすごく緊張していた相手。あまりの光景に呆気にとられ、その相手を忘れていたのだ。
 「あ、あれ? 山崎君は?」
 「は? あ、そやなー、なーにどんくさい事やっとるんやろうなぁ」と更衣室の方を見る鮎川。その後頭部をこづくのは開田だった。
 「ばーか、男の方が着替え早いに決まってるでしょ? もうどっかに・・・あ、いた、もう泳いでる!」
 開田が指さしたのは直線コースをゆっくりと、しかし力強いフォームで遠ざかってゆく筋肉質の男だった。
 「あ、あれ? 違うかな・・・」
 開田が二秒前に自信を持って指さした、その手が下がる。
 「ちゃうやろ、山崎君、あないにガタイよくはないで」
 「そ、そだよね、んーと、じゃどこにいんのかなあ」
 開田と鮎川がきょろきょろと見始めるが加賀壬はその泳ぐ姿を見つめていた。
 「あの人・・・、山崎君で合ってるよ」
 加賀壬の小さな声に、再び泳ぐ姿を見る二人。と、丁度泳ぎ切り、橋の向こう側にある手すりに体を寄せ、その男がプールサイドに立った。
 「げぇっ、ほ、ほんまや」
 山崎は周囲を見回し、連れがやっと来たことに気が付いた。そのまますたすたと疑似砂浜を横切ってやってきた。
 「遅かったな。先に泳いでいた。あまりに暑いから」
 なにやら外国語がみっしりとプリントされた水着の山崎は、そう言うとゴーグルを外し、斜めに切り落とされた一面ガラス張りの天井を振り仰ぐ。
 外はくっきりとした雲が浮かび、日差しは夏の様に見えていた。室内気温が高いためか。やしの木のせいかもしれないな。そう山崎は思ったが、ここに北村がいたならこう言っただろう。ガラスがスカイライトやの役をしているからだ、と。それを理解するのは同じ写真部の篠木原くらいだろうが。
 加賀壬と鮎川にとって山崎は30センチ以上背が高い。162センチある開田にとっても天を振り仰いだ姿勢の山崎はまるで巨人の様な印象だった。
 真っ赤になっている加賀壬はもちろん、開田も鮎川も絶句してしまった。強い照明と明るい空をバックにした山崎が、普段とは別人に見えたから。加賀壬を後押しするために来た開田たちまでもが、まるで初デートしている相手を見ているような気になった。
 「ラジオ体操はしたか?」
 ふっと姿勢を戻し、そう告げる山崎は一瞬でいつもの級友に戻った。呪縛が解けたように息をする開田。鮎川は照れ隠しに笑い出した。
 「ラジオちゃう! 準備体操やろ!」
 「そ、そうか。そうだ準備体操だ」
 いつもの焦る山崎の口調に吹き出す開田。だが、そこで本日の主役、加賀壬が後ろに隠れていることに気が付いた。
 「ほら、今日はかきのんが教えてもらうんでしょ、はい、一番手! 宜しくね山崎君!」
 腕を引かれ無理矢理押し出される加賀壬。一泳ぎして涼しい気分になっていた山崎がピタリと動きを止めた。見る見る耳まで赤くなって行く。開田も鮎川もほくそ笑みを噛み殺すのに必死だった。

 去年の水着で行く。そう言った加賀壬に折角高校生になったんだから新調しようと、無理矢理駅前まで誘ったのは大成功だった。
 今日、鮎川はお気に入りのビキニではなく黄色いワンピースのを選んだ。制服を着ていると結構分からないのだが、鮎川はウェストが細く、昔で言うトランジスタグラマーだった。脱ぐとすごい、というか、ものすごいプロポーション。中学の頃、毎年プールでは大騒ぎを巻き起こしていた。今回、主役の加賀壬より目立っちゃ悪いからと開田には言っていたが、クラスの男子の前だと思うと恥ずかしかったのも理由だった。
 開田は薄いグレーというシックな色ながら、パレオがかわいいデザインの水着だ。これと学校指定水着しかなかったのだが、凹凸の少ない彼女にとって付属物のおかげでなんとなしにボリュームがあるように見えるので好きだった。
 だが、一緒に水着を選びにつき合った開田は、加賀壬が凹凸のなさでは自分以上、いやこの場合、自分以下だという事に仰天し、同情を隠せなかった。一緒に選んでくれた店員もスレンダーだったが、加賀壬を見て子供用で高級感溢れる今期の新作を勧めようかと真剣に考えたほどである。
 あーでもないこーでもない、と店員も巻き込んでの大騒ぎをして決めたのは・・・。薄紅色のスクール水着と言ってもよいものだった。背中は腰から上、丸見せで紐が交差するだけでセクシーなのだが、前から見たら単なる色違いのスクール水着である。ただ胸元に大きな花を模したリボンがあり、それでなんとか大型パットをごまかしている状態だった。
 「う、うーん。ええんやない? 剥き出しの肩からうなじがせくしーやで」
 そういいつつも、鮎川自身、加賀壬のそこが、まるで少年のようで、と言いかけるところだった。
 「うん、なんか清楚な少女って感じでいいよ、かきのん」
 と言ってのけたのは開田。鮎川がバカっと小声で言ったがもう間に合わない。少女=子供、という図式を瞬間的に理解した加賀壬はさらに落ち込んでしまった。
 「い、いいや、今回は諦める・・・」
 泣き出しそうな表情の加賀壬。店員はなんとかフォローするきっかけを探して問いかけた。
 「お客様、今はどんなのをお持ちですか?」
 加賀壬がうつむいたままなので鮎川もフォローに回った。
 「去年の水着って、どんなん? 色は?」
 その問いに帰ってきた答えはその場の三人を凍り付かせるのに十分だった。
 「紺色」
 「・・・・・」
 「あ、あのなぁ、かきのん、紺色って・・・」
 「そ、それって学校の・・・」
 頷く加賀壬。
 次の瞬間、開田、鮎川に店員の三人は一斉にこの薄紅色の水着を勧めた。もうこれっきゃないって、と。口々に勧めるその言葉の中に、どうしてそれがいいのかという理由と「よくお似合いです」の一言は一度も入っていなかったが。
 結果、三人の情熱に押し流され、加賀壬はその水着を買った。折角母がお金をくれたのだし。入学して一月。部活や生徒会、そしてなんとかいう先生のロシア語講習にファーストエイドの講習会。とんでもなく忙しくなった娘には息抜きが必要だと思った親心だった。父も二つ返事で同意した。折角高校に入ったんだからなぁ、と。父はこのところ頻繁に電話をくれる二人のクラスメートに素直に感謝していた。彼女は中学時代、交友関係が狭いと先生にも言われていた。本にしか興味がない様にも思えた。マニアなのは血筋としても、交友関係云々と書かれては親として気にしない方が無理だった。ところが高校に入ってすぐにこんなに親しい友達ができた。頑張って入学した高校でもある。父も水着くらい買ってやろうという気になったのだ。しかし、もし男子が一緒だと知ったのなら、あれだけ乗り気で賛成してくれたかどうかは謎である。
 こうして手渡されていた予算が余っていたのでお揃いの水泳帽も一緒に買ったが、それはさっき更衣室で開田に取られてしまった。こんなの学校以外じゃしてないって、と言われて。少しでも体を隠したかった加賀壬は悲しかったのだが。

 山崎は目の前に立つ加賀壬を見ていた。この建物は全体がピンクで統一されていたが、二階プールは白が基調になっている。しかし、壁やしつらえ物はピンクで塗られていたので、加賀壬の薄紅色の水着は周囲に溶け込んでいる感じだった。その中でオックスフォードブルーの縁取りが成された朱色とパークグリーンの、花を模した飾りは一際映えて見えていた。加賀壬は眼鏡をしたままである。これがないとあっけなく転ぶからだ。山崎の視線を感じた加賀壬は後方に下がろうとしたが、右を開田、左を鮎川にがっしりとブロックされていた。仕方ないので早く水中に隠れてしまおうと決心し、眼鏡を外し、思うとおりに動かない指先で防水ポシェットの二重のジップを閉じた。
 「あ、あの、そ、それじゃ宜しく・・・」
 加賀壬はやっとそう言うと水泳の臨時講師である山崎を振り仰いだ。さすがにこの距離ならその人影が山崎だとは分かるが、その表情までは分からない。はっきり言って、見えていない。眼鏡をとった加賀壬は近眼もなかなか捨てた物ではないと思った。この状態なら安心して微笑みを浮かべることが出来たからだ。
 哀れなのは山崎だ。彼は加賀壬の素顔を初めて見た。これまでに何度か泣く彼女が眼鏡をとるのを見かけたことはあったが、そういう時には山崎自身も目に涙を浮かべていたか、苦痛でうめいていたかである。
 加賀壬の顔は顎が細く、脂肪分の少ない、少年の様な顔立ちだ。その中で、目だけが大きく、女性であることを強調している。加賀壬のまつ毛がすこし巻き気味だと山崎は初めて知った。いつもはほとんど見えない眉毛がとても細い事にも今気が付いた。そして視点のはっきりと定まらない、極度の近眼特有の潤んだような瞳から目が離せなかった。
 開田と鮎川はちらりと目を合わせ、にんまりと笑みあった。


第四章

 前原静音は再び正座の姿勢になっていた。己を懸命に抑え、かろうじて、という風ではあったが。
 孫がなんとか平静を取り戻したのを見て、祖父はゆっくりと語りだした。
 「毎週水曜日に鍛錬場に来なさい。芦野君に頼んで置いた。これで少なくとも今より後退することはないだろう」
 前原は体の震えを沈めることが出来ぬままで聞いていた。
 「技を磨くがよい。体を鍛えるがよい。問題は心だ。
 静音。お前がかつての力を取り戻せないのには理由がある。師を失ったからだ」
 静音の瞳から、こらえきれずに涙がまた溢れだした。
 「芦野君か萩岡君であればお前を導くことはできただろうが。
 いいか静音、よく聞きなさい。
 お前がかつていた場所は照兼のすぐそばだった。ほぼ並ばんとする位置だった。そして照兼亡き後、お前はそこから落ちるしかなかった。だが、周りの者たちの支えもあり、お前は何とか立ち直った。そして新たなる者に誓いを捧げ、やっと心の平穏を得た。これで再び心・技・体の統一を得た。有していたものを失し、そして新たなるものを得たことで。
 分かるな、静音」
 前原は頷いた。かつて彼女の心の中心に父、照兼がいた。幼くして母と兄を亡くした彼女にはただ一人の家族。そして師匠だった。
 そして今。その場所に立つのは彼女。加賀壬宏子である。
 「お前が以前の高みに登れぬ理由はそこだ」
 祖父の言葉に思わず目を見張る。なぜ? なぜだ?
 「お前はその女性と戦えるか? うち負かすことが出来るか?」
 「な、何を・・・」
 静音の声はかすれて消えた。加賀壬宏子をうち負かす? 何故だ、そんな事が出来るわけがない。その意志は瞳だけで祖父に伝わっていた。
 「いいか、静音。照兼はお前を順調に成長させていた。そしてお前は父の期待に応え、ついに父に並ぶところまで来ていた。照兼はお前をその先に進める用意をしていた。
 その先。分かるな?」
 前原は再び目を見張った。師匠と弟子が並ぶ。弟子にとってのその先。それはたった一つだ。
 「この春の奉納の儀で、お前は照兼と手合いをする事になっていたのだ。あの日も照兼は打ち合わせに来ていたのだ」
 雷に打たれたかのごとく前原はびくんと身を震わせた。総身の毛が逆立つのが祖父には見えた。
 「て・・・あ・・い・・・」
 「照兼が西の御大将。お前が東(ひんがし)の御大将。その予定であった。照兼が言ったのだ、沈むべき者は西が必定、と。
 だが、あいつもただ負けるつもりなどあるはずもない。全力でお前を倒さんと望むつもりだった。それは間違いない。儂もそうだったからな」
 照正は遠いその日の事を想った。師範格であった長子照代も達し得なかった高みに迫る三男照兼。総身を掛けて父は我が子に手合いを挑んだ。そして子は父に勝ったのである。その遠い日、照兼が流した涙は何であったのか。
 「お前が心の拠り所とした者が芦野君であったのなら。程なくしてお前は芦野君の立つ地に及び、彼と競う事になったであろう。そうであれば良かった。お前には先があったからだ。
 だが、お前が選んだのは我が社の者ではなかった。せめて修験者であればお前の先はあったであろうに。
 しかしお前が選んだのは師にはなれぬ者だ」
 照正はその言葉が孫の中に落ち着くのを待った。
 静音は理解した。自分が厳源流の使い手として誤った選択をしたことに。従意の誓いを間違った相手に立ててしまったことに。
 「分かったようだな、静音」
 前原は目をつむり、黙ったまま考えていた。
 一刻も経ったであろうか。前原はすっとまぶたを開いた。そのまま、澄んだ瞳で祖父を見た。もう涙はなかった。
 「これにて失礼させていただきます。父に伝えねばならぬ故。
 父が望み、導いた高みへの道を、私が自ら閉ざしてしまったことを詫びて参ります。そして、私が選んだ新たな道を、どうか・・・。祝福してもらえるように頼んで参ります」
 祖父に一礼し、立ち上がろうとした彼女に照正が声を掛けた。
 「静音。厳源流は、どうする?」
 彼女は改めて座り直した。
 「お許しが有れば学ばせていただきたい。使い手として先を失した自分ですが、今より下がる事は出来ませぬ。なにより、技と体を鍛えるには、私には厳源流しかありませんので。
 心は、私の心は別の道で鍛えたいと存じます」
 「弓か。鈴音と道を同じくするのか?」
 「いえ、違います。
 御祖父様は我が心をさらに高めるにはすでに道がない、そうおっしゃられた。加賀壬宏子が私を導けない以上は、と。
 ならば、そう、私は加賀壬宏子と道を同じくしたい。二人で共に歩み、その先を、加賀壬宏子が見いだす先を見てみたいのです。
 加賀壬宏子が一歩進むならば、私も一歩進むことができる。師と弟子としてではなく、心を一つに歩みたい。
 私には・・・。
 私には加賀壬宏子に従意を誓った事が、誤りであったとは露程も思えませんので」
 きっぱりと静音はそう告げた。澄んだ瞳で。
 祖父は小さく唸った。
 「うーむ・・・」
 側にある急須を取り、ポットからお湯を注いだ。ゆっくりと煎茶を茶碗に注ぎ、その湯気をみつめ、一口すする。そしてまたゆっくりともう一口。
 「よかろう。思うとおりにしてみなさい、静音。
 新しい道を進むのならば道しるべはない。迷うだろう。悩むだろう。ならば大いに悩みなさい、静音。迷い、悩んだならここに来て己の心を静めなさい。
 お前が選んだ道は儂の知らぬ道。助言はできないが、お前は儂の孫。儂の一番弟子、照兼の子。家族として、先達として言葉はかけることはできだろう。
 静音。いつでもここに来なさい」
 前原静音は祖父に深々と頭を垂れた。
 祖父は静音にも茶を入れ、静けさが訪れた。静音は何事かが待ち受けていることを悟り、静かに茶を飲んでいた。
 やがて、祖父はしばし待てと告げ、一度退席した。戻ってきた時、彼は護符の張られた細い木箱を手にしていた。
 「開けてみなさい」
 祖父に促され、封印を決められた作法どおり左手で押さえ、右手薬指と中指を揃えて切る。木箱の蓋を開けると中には細長い巻物の様なものがあった。また作法に従って右手でなぞり、左手を沿えて上方から少し持ち上げ、左手に換えて捧げ持つ。それは軽い筒のようなものだった。
 包みを開ける前原。その目に朱に漆塗りされた棒状の物が見えた。
 それは鞘だった。中にあるべき刃はない。
 「静音。お前の母と兄が死した理由を告げねばならないようだ」
 前原は鞘を手にしたまま身を凍らせた。母と兄? 交通事故で亡くなったと・・・
 まさか、まさか母たちも魔性に・・・
 「心して聞きなさい、静音」
 祖父は15年前の忌まわしい事件を語りだした。



第五章

 お昼である。プールサイドの木陰に陣取った四人はお弁当を広げていた。山崎が三つ目の握り飯にかじりつく。ぴりっと塩の利いた昆布は噛むごとに甘みを伝え、彼は元々細い目をさらに細めた。
 「何だった?」という開田の問いに、麦茶を一口飲んでから答える山崎。
 「昆布。
 うまい」
 いつもながらの短い返事だったが、予期していなかった二言目は開田に笑みを浮かばせるに十分だった。次に聞こうとしていた質問の答えだったのだから。
 「こぶはあかん・・・、シャケのが・・・うまいで!」
 おにぎりを頬張りながら鮎川が反論する。おにぎり用にと昆布の味付けに手を加えた加賀壬を誉める方向に持っていこうとしていた開田は、頭を抱えたくなった。しゃけは味付け済みの切り身を焼いただけなのだから。鮎川を睨む開田。だが全く気づきもしない。今、海藻類が嫌いな鮎川紫織はすっかり食事に夢中になり、当初の目的を忘れていた。
 「んでもってこの玉子焼き、絶品や!」
 鮎川の心からの賛辞。開田の顔がぱっと明るくなる。
 よし、よく言った! 
 それは加賀壬の自信作だから食べてみて、と言おうとした矢先である。山崎が箸を伸ばした。煮だしに凝った厚焼き風の玉子を一切れつまみ、ひょいっという感じで口に入れる。
 「うむ」
 と、口を動かしながらのかすかな同意の声。
 「それはねぇ、か・・・」
 言いかけた開田の台詞をかき消す鮎川の甲高い声。
 「この煮染めもまたすごいでぇ!」
 開田はまた鮎川を睨む。効果無し。気づいていないのだから当然だ。このバカ! 開田の心の叫びが響く。
 広げられたランチシートがあちこち空になって来た頃、山崎はほとんど一人で食べてしまった事に気が付いた。
 「あ・・・悪い、どんどん食べちまって」
 「気にしないで山崎君、元々君に・・・」
 「そや、ええねんええねん、うまいもんは早い者勝ちや! トロイんがあほや!」
 つくねの最後の一つを箸で器用につまみ、鮎川がにまっと笑った。その言葉で開田の声を封じたことにも気づかずに。はり倒してやろうかと思った開田だが、懸命にこらえた。
 和やかな雰囲気、和やかな雰囲気・・・。そう開田は呪文の様に唱えながら凍り付いた微笑をなんとか浮かべ続ける。
 そんな相方などすっかり無視し、食べ進める鮎川。あらかた尽きたところで彼女はプラカップを加賀壬にぬっと差し出した。
 「いやぁ食ったで・・・かきのん、お茶くれへん?」
 「あ、う、うん」
 加賀壬は一瞬とまどったが、素直に魔法瓶の蓋を開け、まだ湯気のたつ麦茶を差し出されたカップに注いだ。
 「おおきに」
 茶にふーふーと息をふきかけながら、鮎川はふと加賀壬を見た。
 「あれ? せや、かきのんあんま食わへんかったんちゃう?」
 「え、えと、そんなことない、食べたよ」
 加賀壬は焦って手を振るが、最初に各自に配ったおにぎり一つしか食べていないのを開田は知っている。というか、それを食べ終わる頃にはもうほとんど残っていなかったというのが本当である。緊張の余り、いつもよりさらにペースが落ちていたからだ。
 「ほんま小食やなぁ、そないな事じゃ、育たへんで」
 こんのどアホー! 開田は鮎川を叩きのめしたくなった。水着売り場での凍った雰囲気を蒸し返すつもりかー! そう燃え立った開田に、右に座る加賀壬からのショックのオーラが伝わり、絶望を感じた。もうだめだ・・・。
 しかし、鮎川は自分が口にしてしまった爆弾発言に気づきもしないで先を続ける。
 「うちとこは大人数やからな、食卓は戦場や。気ィ抜いとったら何もとれん。食う分はとっとと確保せなあかんねん。うち下から数えた方が早いやろ? でかい奴等に対抗するにはスピードや! そやろ?」
 話を振られた山崎は考え込んだ。
 「な?」
 無理矢理同意を求める鮎川。しかし、山崎はかぶりを振った。
 「ウチは三人だからな、分からない」
 「三人か、えぇな。そんなんやったら・・・」
 麦茶を飲み干してから続ける鮎川。
 「平和やろなぁ・・・。あ、かきのんとこも三人やったな?」
 俯いたままで頷くが、ほんの少し髪が揺れただけだ。それでも同意をみてとった鮎川が続ける。あるいは同意を得る必要自体なかったのかもしれないが。
 「一人っ子やもんなぁ。うらやましいわ。小遣い、全員分独占やろ、えっと・・・六倍か! えぇな!」
 んなわけあるかよ。開田はもう疲れ切っていた。
 「家族も少ないからこないな手の込んだんが作れるんやろなぁ。おかんからワンオンワンで教われるんやし。こんだけ出来るんやからおかんも楽やろ。えぇなぁ、かきのん、週二日くらいうちとこに来てほしいで、ほんま」
 「?」
 山崎はいつもながら話が読めなかった。
 「あ、このべんとな、うちも手伝うことは手伝うたんやけどな、みんなかきのんが作ったも同然でな。茜なんか、もう邪魔しくさっとっただけや!」
 開田はその言葉に鮎川をぶちのめすべきか誉めるべきか悩んだ。だが、心は悩んだが、それより先に手が伸びていた。
 「いらんこと言うな!」
 アッパーをくらい後ろに倒れる鮎川。その足がランチシートにひっかかり、三人は自分のお茶をあわてて手にした。
 「卑怯や、不意打ちとは・・・」
 「黙れ!」
 開田はついに怒るべき理由を見いだした。手にしている冷めかけのお茶をぐいっと飲み干し、カップを加賀壬に渡した。
 「そうよ、最初からこうしておけば良かったんだ」
 山崎には謎の言葉を発し、開田は立ち上がった鮎川に張り手をくらわせた。
 「お前の、お前の考え無しのせいで!」
 「な、何しよるんや、許さへんで!」
 赤コーナー、グレーの怒れる旋風、茜。青コーナー、黄色のダイナマイツバディ紫織。Ready Fight!
 二人は転がるようにプールに落ち、まるで子供のようにばしゃばしゃと水を掛け合った。殴り合う漢気も、泳ぐ技術もない二人が闘うにはこれしかなかったのだが、あまりに低次元の戦いだ。心配して立ち上がり駆けた山崎も、仲裁に入ろうと思った加賀壬も、その「戦い」を見て笑顔になった。呆れたとも言う。
 「にぎやかだな、二人とも」
 ぽつりと告げる山崎の声に加賀壬が答える。
 「っていうか、元気って感じ、かな?」
 加賀壬はその言葉を口にしたとき、山崎の事がふと心配になった。魔王戦の後。倒れていた加賀壬は霊水で復活していたが、山崎のMPへの負傷も大きかったという事を聞いていたからである。だが、振り仰ぐその顔に疲労の色はなかった。
 「ねぇ山崎君こそ元気? 大丈夫?」
 山崎は仔猫の様にじゃれあうクラスメートを見ながら、静かに答えた。
 「うむ。寝不足だが、疲れてはいない。
 お前はどうだ?」
 心配されていた事に思い当たり、加賀壬は精一杯の笑みを浮かべた。
 「ごめん、迷惑かけちゃって。今は、元気!」
 山崎は首を傾けて加賀壬を見た。ゲートの前、あの廊下に力無く転がった、加賀壬の土気色の顔が一瞬脳裏をよぎったが、すぐにそれはぬぐい去られた。加賀壬の笑顔にはそれだけの力が十分にあったから。
 「・・・。お前が無事でよかった」
 山崎は加賀壬のか細い肩にぽん、と手を乗せた。二度とあんな光景は再現させない。そう誓いながら。
 「うん・・・」
 加賀壬は俯いたままそう告げると、左手を上げ、自分の右肩に置かれた大きな手のひらに乗せた。
 「ありがと・・・」
 「礼を言うのは俺だ。
 メシ、うまかった。元気になった」
 「・・・・」
 山崎は加賀壬の震え出した肩をそっと支えた。
 「開田たちが、みんながああやっていられるのを、俺たちが守ろう。みんなで守り合おう」
 頷く加賀壬は濡れた頬を、大きくて頼りがいのある大切な手に沿わした。
 「うん」



つづく