<超かいき★くえすと>くえすたぁず

 

第十四話:加賀壬さん合流す

 

von:秋澤 弘

第一章

 かすかに話し声が聞こえる。
 加賀壬宏子は目を開けようとしたが、まぶたの開け方を忘れてしまった様な気がした。それほど瞼を重く感じたのだ。
 「くぅ・・・」と、自分の喉からわずかに声がもれるのが、音ではなく振動で伝わった。
 誰かが加賀壬に呼びかけていた。それは分かったのだが、彼女は全身に走るしびれの様な違和感と、焼ける様な喉の痛みに襲われており、意識を周囲に向けることが出来なかった。

 ああ、嫌な感じ・・・
 そうか・・・。この感触・・・。霊水だ・・・

 そう理解した加賀壬はじっと耐えた。

 十分程して。
 加賀壬が前原に支えられながら上体を起こした時、既に全員の治療が終了していた。加賀壬だけではなく北村と山崎、そして昆までもが霊水の効果対象となっていたのである。全員が回復したのはいいが、霊水も救急箱も尽きた。巨大うつぼかずらの「根穴」から行方不明になっていた夜警さんが半死半生の状態で見付かったが、HP回復の手段がもう残っていなかった。
 「このまま隠しておくしかないだろう」と佐伯がつぶやいた。朝を呼び戻し、バックアップ組に回収してもらうしかなさそうだった。夜警さんは生気をぬき取られたかのようにやせ細り、意識も回復しそうにない。他に手段はなかった。
 「ご迷惑をおかけしました」
 夜警さんの応急手当を終えた昆が佐伯に頭を下げた。彼女は救急要員である。その彼女が治癒してもらったのでは申し訳ない。そう思っているようだった。しかし、それは後方待機のはずの救急要員が戦闘に巻き込まれた結果である。そのままHP戦要員である佐伯たちの不手際と言えよう。
 すみません、と佐伯が謝り掛けた時、その言葉を北村が先に口にした。昆が瀕死の重傷を負ったのは倒れた北村を守ってのことだったのだから。
 三人が自分が悪かったと口々に言い合っている脇で、山崎はもう普段どおりに周囲警戒を始めていた。だが、その胴着は既にぼろぼろであり、さっきまでの激戦を物語っていた。前原は山崎程に服装の乱れはない。しかし、袴姿のあちこちに出来た亀裂や血痕が、治癒前の姿を十分に物語っていた。紺系の剣道着よりも白の巫女服の方が、裂け目や血染みをより痛々しく加賀壬の目に映していた。
 「前原さん、大丈夫?」
 やっと舌が動くのを確認して、加賀壬がそう問いかけた。すると、前原は顔面一杯に笑みを浮かべて答えた。
 「無事だ。加賀壬宏子、お前こそ、もう大丈夫なのだな?」
 うんと頷く加賀壬。前原は霊水というのはすごいものだな、としきりに頷いていた。さっきまでのうろたえと恐怖はどこへやら。放り出され、非常階段の下敷きになった加賀壬の姿を見て、この世の終わりの様に泣き叫んだというのに。回復する加賀壬を見て、もうそんな記憶もすっかり消え去っていたのである。
 「見事だった、加賀壬宏子」
 加賀壬はびっくりした。前原はあの巨大かづらに気が付いていたのだろうか、と。
 「お前の初弾が飛来するのを感じたのだ。風が起きたのでな。弱いが、強い意志を伴う風が。それでお前に気が付いた。そして、お前が狙っている、我らの頭上の影にも。
 二発目はど真ん中だったみたいだな。一撃で、そう、あのしつこい鞭の親玉が一撃で倒れたのだから。
 見事だった、加賀壬宏子。
 でも私は・・・」
 加賀壬は前原の表情が曇るのも見て、先を悟り、先手を打って彼女の震える右手を両手で握った。
 「前原さんこそ。ありがとう、茉利ちゃんを守ってくれて。わたしを何度も助けてくれた大事な友達なの、茉莉ちゃんは。だからありがとう」
 「いや、守るだなど、そんな・・・」と首を振る前原に、加賀壬はもう一度笑顔を向けた。
 「ね、みんなで頑張れば、何とかなるもんでしょ?」
 瞬時きょとんとなる前原だったが、結局加賀壬につられて微笑んだ。
 「全くだ。間一髪というところだったが、終わりよければ総て良し、という奴だな」
 前原は加賀壬の血色が戻ったのを確認し、その小柄な体を支えながら立たせた。
 「うーん、実は・・・まだ、終わってないんだけどね」と加賀壬。前原は今度はぎょっとした。
 「終わって・・・ない?」
 「うん。まだ、始まったばかりだよ、きっと」と、ぽつりとつぶやく加賀壬。前原は混乱した。今の敵が魔性ではないのか? 魔性を倒せば結界が一時的に緩むと聞いていた彼女は、これで本体と合流できると信じていたのだ。しかし、加賀壬は気づいていた。夜空に雲一つないのにも関わらず、星一つもないことを。

 結界は緩んでいなかった。


第二章

 おかしい。
 勝城と前嶋はかすかに頷き合った。
 おかしい。結界が消滅しない。
 二人は超常研二年の中でもベテランに数えられる。去年新入生だった時から先輩と組んでいたのだ。三年生ほぼ全員が事実上引退した今、固定パーティこそ組んではいないが、その出撃回数ならエース、篠木原隊に勝るとも劣らない。その彼らの経験からしても異常だった。

 体育館は惨憺たる状況だった。ここではMP体とHP体、双方の被害が確認されていたが、それもそのはず、この場を制していた魔性はアベックだったのである。
 黒い衝撃が校門を貫いて。美咲はただちに<アタックチーム1>の出撃を指示した。予定通り、体育館を制圧せよ、と。手順はズレたがチーム2との同時侵攻という形態をとったのである。
 混成であるチーム1を率いる二年生、勝城正典は体育館に到着する前に異常を感じ取っていた。妨害者がいないのである。八名の新入会員たちには気づかれぬようにしながらも、勝城の緊張はいやが上でも高まっていた。そして体育館での激戦。先陣切って突っ込んだ勝城が罠にかかりかけたのを救ったのは、相棒、前嶋祐吾が放つ清めの塩玉・三点バーストだった。HP体を囮にMP体の伏兵という仕掛けだったのだ。
 新入生はよく戦った。一度魔性に破れた者がほとんどで、中には病院帰りもいたのだが、彼らはその恐怖を乗り越え、戦い続けた。それはチーム唯一の三年生、渡瀬あいから見れば勝城たちの陣頭指揮の賜だった。先輩の志気が新入会員たちを引きつけ続けた結果である。
 しかし。今、勝城は悩んでいた。魔性を二体も同時に倒したのである。彼は即席の部下たちに惜しみない賞賛を与えた。だが、その後で結界が消滅していないことを知ったのだ。
 あれは魔性ではなかったのか? そんな疑問がよぎる。まさか、あれで妨害者クラス? だとしたらここの魔性は一体どんなものであろうか。ましてやゲートキーパー、そして魔王の強さは・・・。
 体育館の入り口に戻り、空を見上げる勝城の表情が曇るのを見て、前嶋はすかさず新入生に声を掛けた。
 「よおし、みんな、後はここで待機だ。あいつ等が沈んだ今、アタックチーム2が必ず残りの魔性を沈めてくれる。それまで待機だ。いいね」
 新入生は傷だらけだ。なにしろ救急箱や精神安定剤といった「戦利品」を持っていたのは二年の二人だけだったのだから。元天使隊の渡瀬の努力で全員立ってはいるが、もう一戦行う事は出来ないだろう。しかし、彼らは成し遂げたという充実感に瞳を輝かせていた。先輩の言葉は彼らの胸に染み渡り、自信を生み出していたのである。皆、充実感と、自分でもできるんだというわき起こる誇りに満ちていた。ただ一人を除いては。
 その女生徒、皆瀬樹は気づいていた。魔性を倒した以上、結界が薄れるはずなのに、と。
 前嶋はその後輩が疑問を口にするよりも早く、再び新入生に語りかけた。
 「この学校は確かに異常だ。これまでのパターンとは違う。
 でもね、アタックチーム2が残りの魔性を倒してくれたら、篠木原隊が出撃する。強いぞ、あいつ等は。第六の魔性、すなわちゲートキーパーを退け、第七の、つまり最後の怪異。異界の門の奥に潜む魔王を必ず倒してくれる。
 僕たちは魔性を二体も退けた。後はアタックチーム2、そして篠木原隊がそれを継いでくれる。なぁ、勝城!」
 振り向いた勝城は、いつもの自信溢れる笑顔を見せた。相棒の意図することに気づいたのだ。
 「ああ、シュンのとこは常勝だからな。でも、オレたちもあいつ等に胸を張れるだけの事をした。よくやったぞ、お前等。
 さぁ、後は待とう。朝を。お前たちは安め。前嶋、渡瀬先輩も休んでください。小野、見張りにつき合え。お前は頑丈みたいだからな。まだ妨害者がうろついている可能性がある。お前はそっちの入り口を見張れ。左はオレが見張る」
 勝城はそう指示を出しながらも、内心の不安を必死に押さえていた。期待の星とはいえ、新入生揃いのチーム2は無事だろうか? この異様な結界の中で、果たして無事でいてくれるであろうか?
 おかしい。ここはおかしい。

 「おかしい」
 階段を降りながら、アタックチーム2のリーダー、佐伯はそうつぶやいた。
 「そうですわね、もう随分降りてますけど・・・」
 昆ののんびりした声が後に続く。しかし、事態はのんびりどころではなかった。
 中庭を制圧し、彼らは第二目標たるこの旧校舎の階段に来ているのだが、もうかれこれ五分は下がっているのに、地下室に着かないのである。
 何個目かの踊り場で佐伯は停止を指示した。今はいつもどおり加賀壬のザイルでつながっている彼らは、その順番通りに止まり、結果最後尾の山崎は踊り場の数段上で立ち止まった。
 「どうする? 一回戻るか?」
 そう問う佐伯であったが、彼も既に理解していた。無限階段。その中にいるのだということを。
 「まぁ、こういう時RPGじゃ、ループが常識なんだけどね。なんかマークでも付けとく?」
 そう言いながら北村は肩に下げていたドンケのバックを引っ張った。今日はいつもの生成のF2ではなく、ネービーブルーに染められた薄いF803型だ。ここのカジュアル風のカメラバックは珍しいので通販で買ったのだが、薄い割に広がるので結構使いやすい。ベルトが底を一周して止められているのも丈夫な感じで安心感がある。今回は長期戦を予想してなるべく軽装で挑みたかったのでこれにしたのだ。
 北村はF803の脇に止めてある別売のポケットから太い色鉛筆を出した。誰も止めないので、彼女は木床に大きな丸を描いた。色は濃い青。
 「もっとかわいい色はないんですか? その色鉛筆」
 昆の言うかわいいというのは明るいという意味だろう。濃い青ではあまり目立たなかったからである。
 「この色しかないんですよ、昆さん。これ、ポジシートに指定を書き込む鉛筆で・・・」
 そう説明されても、写真といえば使い捨てカメラかデジカメしか思い浮かばない昆には首を傾げるだけしかできない。
 「えっと、ガラスや金属に書けるんです。でもこれ一本しか持ってなくって」
 北村はごめんと頭を下げた。
 「ま、こんだけしっかり書いてあれば大丈夫だろう。場所も分かっているし。さ、じゃ進もう」
 佐伯が再び階段を降り始めた。
 「あ、踏んじゃだめよ、その丸!」
 北村に注意を促されるまでもなく、みな、回り込んで佐伯に続いた。

 数分後。もうさらに四回踊り場を過ぎているが、まだ階段は終わらない。
 さらに五回。
 「よし、戻るぞ!」
 佐伯はいきなりそう告げると、くるりときびすを返して登り始めた。ザイルにつながっているメンバーは折り返し地点のごとくにその後に付いて行くしかない。山崎だけはザイルのたるみを利用してその場に立ち止まり、再び最後尾を歩みだした。

 「・・・・・」
 彼らは踊り場で立ちすくんでいた。そこはさっき北村が丸を付けたはずの場所。昆すらも指を数えて確認していた程、皆無言のまま踊り場の数を数えていたのである。間違えようもない。
 「なんで、ないわけ・・・?」
 加賀壬が全員の思いを代表してつぶやく。
 「ってことは、ループっていうより・・・無限生産?」
 北村がその形の良い眉を寄せて考えていた。
 「通るたんびに毎回新規で生成するの。まぁ、ランダムダンジョンみたいなのね」
 彼女の告げる意味がなんとなく分かる程度の佐伯が尋ねた。
 「だとしたら、どうしたらいいんだ?」
 「・・・。さあ?」
 北村は片手を広げてお手上げのジェスチャーを見せた。佐伯はため息を付いたが、すぐに加賀壬を見た。こういう瞬間、彼女が何かしでかすのが身に染みて分かっていたからだ。事実、そのとおり。加賀壬は背中のバックを下ろし、なにやらごそごそやっている。
 「これが重くってさ、精進先輩なんか、この他にデータ収集用のキットを持たせようとしたのよ。もう歩くどころか立ち上がることも出来なかったわ。だから断っちゃったんだけど。なんか悲しそうな顔されちゃって。
 でもどうして全部私に持たせようとするのかなぁ、あの人たち・・・」
 加賀壬はぼやきながらもごそごそとミレーのバックを漁っていた。彼女は自分が精進一派の「赤二重丸付き研究対象」に指定されていることにまだ気が付いていない。
 「どうしたのだ加賀壬宏子。灯りがいるか?」と前原が問う。
 「ううん、大丈夫・・・。よし、動いてるな。えっと、まずアクセスランプ・・・、あ、ついてるついてる。で、三秒したらファンが自動的に回り出して・・、うわ、すごい振動!」
 昆と北村、そして前原が見つめる中、加賀壬は愛用の手帳に書き写したアンチョコを見ながら、指さし確認をしている。山崎が後方、つまり下方を警戒しているのを見て、佐伯も前方に注意を戻した。この階段での被害はMP体だ。ならばMP要員である加賀壬たちに任せよう。そう考えたのである。実は無限階段ではどうしていいのか分からず、途方に暮れていたと言えなくもない。

 「うわぁ、なんかぴりぴりする・・・」
 加賀壬はそうつぶやいた。
 「ろ、漏電とか!?」
 「あ、それはないと思うよ、茉莉ちゃん。ぴりぴりっていうかじんじんっていうか。このモーターがさ」
 加賀壬はヘルメットの後部につけられた奇怪な機械を指さした。
 「動いてるって感じ。なんか変・・・。
 よし、これでOK!」
 加賀壬は今度はヘルメットの顎紐をいじり、眼鏡の位置を調節し始めた。眼鏡の上に被さっている棒状のパーツが、ガラスの内側に張られたシートを通し、彼女の虹彩の移動を感知するのである。
 「で、それがあるとどうなるのだ?」
 異様な装備に頭部を包む加賀壬を気遣ってか、前原の声は心配げだ。
 「これはフレアって言ってね、簡単にいえば目に見えないMP体を見えるようにする光線を発射するの。
 ここは多分幻影だと思うんだ。だとしたらどこかにあたしたちの入った場所があるはず。そこも多分幻影で隠されてるのよ。もしかしたらね、このフレアの光線で見抜けないかなぁって、そう思って」
 加賀壬はそう言い終わると右目の端にちらりと光るLEDを確認した。センサーのアクセスランプだ。そこでゆっくりと三回まばたきをすれば、彼女の瞳孔の動きに合わせてフレアをコントロールするセンサーが、まぶたで遮られた反射光でそれを察知し、「見回し君」のメインスイッチを入る仕組みである。
 「いーち、にーい、さーん!」
 まばたきを終えて目を開けた加賀壬は突如高速回転を開始したミラーボールからの耳鳴りにびっくりしたが、その驚きは目に入った光景によって瞬時に駆逐された。
 「え!」
 「何よこれ!」
 加賀壬たちに背を向けていた佐伯も山崎もそれぞれ眼前の光景に息を飲んだ。
 アタックチーム2、その全員が見たものは。
 それは深紅の世界だった。
 「赤外線か?」
 前原はきょとんとしてその真っ赤な光景に見入った。
 「そうですねぇ、まるで、おこたの中みたいですね」
 もう一人、事態を認識していない昆がそうのんびりと付け加える。しかし、残りの全員は驚愕から目覚めるとすぐに武器を構えて陣を組んだ。
 「どうした? 何が起きているのだ加賀壬宏子?」
 加賀壬は素早くスリングを展開しながらも周囲全体を見回し、全周を確認してゆく。
 虹彩に向けられたセンサーは瞳の向く方向と、左右の瞳の移動幅から三角測量の要領で距離を割り出し、3D換算を行うための物である。ミラーボールで拡散され、レンズで集束されるフレアの光はそこを中心に照らす仕組みになっているのだ。さらに使用者が瞳をきょろきょろと動かすと広範囲索敵用に光線を拡散し、一点を見つめると集束してより対象をくっきりと見せる仕掛けにもなっている。
 ノクト・プラズマ・ビジョンの光線はMP体のどこか一ケ所にでも当たればMP体内部で拡散し、その全体を「現す」事ができる。しかし、高速移動するMP体を追尾する機能までは備わっていないので、このような拡散・集束センサーが採用されていたのである。精進のアイディアをつばさが具現化した技術の結晶なのだが、今はその必要すらない。拡散されていても、集束していても、視野一杯に広がる赤、赤、赤。
 加賀壬は射撃姿勢に入りながらも頭部は天井、床と隙間なく動き、総てが均一な赤であることを確認した。
 「赤はね、MP体だってこと」
 加賀壬は制服のポケットからガシャ玉を取り出しつつ、そう告げた。昆はやっと気が付いたらしい。この「見回し君」の発しているのがノクト・プラズマ・ビジョンを束にした様なものなのだ、と。彼女は天使隊の一員として参加した作戦で、この光線に染まった深紅の幽体を見たことを思い出したのだ。幽鬼さながらのその姿が真っ赤に輝くのを。そしてその姿は普通のライトのように一部を見せるのではなく、全体を現すのだということを。今、この階段は加賀壬の前面だけでなく、全周が赤く光っている。自分が立っている床までも・・・。
 「そ、それじゃ、まさか!」
 昆は口を片手で覆い、恐怖に見開いた目であたりをせわしなく見た。
 「そう。全部MP体。わたしたち、幽体の中にいるのよ!」
 ストロボの後部パネルをいじりながら、まるで暗室の安全燈に照らされたように赤く染まる北村が緊迫した口調でそう言った。
 その言葉に昆の恐怖はさらに高まったが、一方、前原は覚悟を決めたようだ。背中に背負っていた和弓を袋から取り出し、腰に下げた方の矢筒の覆いを外した。背中に背負った矢筒とは違い、そこには純白の矢羽根が覗いている。破魔矢である。
 山崎は北村から棒状のライトを受け取り、ゆっくりと周囲を確認し出した。佐伯は右手に新装備ヴェノムナイフ改を持ちながら、左手で木刀を握りしめ、同軸に仕込まれているライトで同様に警戒態勢だ。
 「いい? 初手はあたしが行くね」
 北村は左手でストロボのグリップ、右手でカメラを構えた。ストロボには28mm用のワイドパネルが仕込まれている。別にその必要はないのだが、レンズも28mmf2.8に換装済みだ。まずは一の太刀、f8のオートでカメラを流すようにしながらコンティニアス・ローで三回連射した。
 「反応無し、か」
 今度は天井、床、階段の先とあちこちに光を放ってみるが、ただまぶしいだけであった。
 「やっぱ目はないよね、胃の中に」とぼやきながら北村はフィルムを交換すべく二個のリワインドバーをいじった。
 「胃・・・」
 昆がシェアファイアの灯りを下げ、心細げに足下を見た。まるで胃液が沸き出してくるのを光で抑えるかのように。
 「そんなら二番手、行くね」
 今度は加賀壬だ。だが、その彼女の前に、前原が右手を差し出した。
 「三発しかないのだろう、塩玉は。ならば私が先に試そう。破魔矢は六本あるからな」
 だが、加賀壬はその提案を既に検討していたようだ。首を振ろうとして、ヘルメットの重さを思い出し、言葉で否定する。
 「ううん、今はわたしの方から試した方がいいと思う。わたしは動く標的、まだ狙えないもの。だから移動する霊体には無意味なんだよ、塩玉取って置いても。ね?」
 なるほど、と皆が頷いたのを見て、前原もこの場は加賀壬に譲るかのようだった。しかし、彼女は取り出し掛けた破魔矢を戻すと、足を開き、左手に弓を構えた。
 「わかった。なら矢も弾も使わずに、試してみたい事がある」
 彼女は加賀壬が狙おうとしていた壁にきっと目線を据えた。その迫力に思わず昆と加賀壬が後ずさる。
 「えっと・・・、何するの?」
 北村も緊迫感に脅えたように、フィルム装填を手早く終えるとカメラのグリップをきゅっと握りしめた。
 「いざや大君、御力を現し賜へ。祓い賜へ・・・」
 声と共に前原の右手が動き、弓の弦を引き絞った。
 「清め賜へ!」
 右手の指が弦を放し、びぃん、という弓弦の音が響き渡る。その瞬間、加賀壬が見ている壁が、いや、フレアで赤に染まっている世界全体が歪んだ。
 「うわぁ!」
 「きゃぁぁ」
 悲鳴が交錯する。床がぐらりと、いや、ぐにゃりと歪んだのだ。しかし、昆の持つシェアファイアはもちろん、他のメンバーの持つ灯りでは全く床も壁も動いてはいない。しかし、通常の光が当たっていない部分は総て、波打ち、のたうつのを見せていた。弓弦を再び鳴らす前原。今度は確信を持ち、なおかつ払うべき対象を見据えての行為だ。先ほどの揺れとは比べものにならない衝撃が彼らを襲った。
 「あ、ああっ!」
 足下の床が沈む。昆は自分の足がくるぶしまで木床に溶けているのを見て恐怖に顔をひきつらせた。それは留まることを知らず、見る見るうちにソックスを飲み込んでゆく。自分が落下している感覚はない。木床が上がってきている感覚もない。目で見ているその光景は超常そのものだった。
 前原は三たび弓弦を打ち鳴らして止めた。自分の成した結果が予想外の進展を生んでいるためだ。しかし、咄嗟に加賀壬が叫んだ。
 「続けて! もっと強く!」
 前原は即座に応じ、さらに念を込めて弓弦を鳴らした。
 「ち、ちょっと、やばいって!」
 北村と昆はそれぞれ佐伯と山崎に抱きつくように支えられながらも、自分の足が木床に飲み込まれてゆく光景から目が離せないでいた。
 「せいっ!」
 そこに響いた掛け声は加賀壬だ。仲間が見つめる足下に、ばっと白煙が舞い上がった。と、その煙が散らばった途端、彼らの足はしっかりと床に立っていたのである。今さっきまで見えていた床は白煙と共に消え去ったかの様に。
 「そこが安地! みんな、固まって!」
 「・・・Anti・・・?」
 加賀壬の声に昆が首をひねる。
 「安全地帯の略です、先輩、さ、ここに!」
 なるほど、と頷きながら昆が腕を引く佐伯に引っ張られて移動したのを見て、加賀壬が再びスリングを構えた。
 「さぁ、前原さん、がんがんやっちゃって!」
 結界を強化すべく清めの塩玉の第二弾を前原の足下に叩き込み、さらに第三弾をガシャ弾から取り出す加賀壬。
 「うむ。
 祓はせ賜へ・・・」
 前原は一層大きく言葉を響かせ、そのうねりに合わせたなめらかな動作で弓弦をつまんだ。

 びぃぃん。辺りを揺るがすその音が波動の様に広がるのが見えたほどだ。それ程大きな衝撃が走った直後である。前原は気配を察して振り向いた。瞬時遅れてフレアの直接照射が踊り場の左手隅を照らす。深紅の中に脈動する何かが現れた。水柱の様に突出する何か。ただそれは水柱の様に垂直ではなく、水平方向に伸びていた。まっすぐ真横に前原を狙って盛り上がるそれが迫る光景は、彼女の心を凍らせた。しかし、鍛えられた体が瞬時に反応し、足を踏み出して右の拳で迎え撃つ姿勢をとったのである。
 「だめっ!」
 MP体に直接接触する危険を知る加賀壬の制止。だが、間に合わない。もとより前原が意志をもって成さんとした行為ではない。反射神経レベルの行動で、前原の体が動き、幾万回となく繰り返した型に沿って動いてしまったのだ。突き進むそれ、今や醜悪な人の顔の姿になった、おぞましいMPの水柱に前原は真っ直ぐに突きを入れた。いや、入れようとした。しかしそれよりも一瞬早く、周囲に真っ白な光が炸裂したのだ。
 「目さえあればぁーっ!」
 北村である。コンティニアス・ハイ、つまり秒間5コマの高速連写に入ったレリースはその度毎に強烈な閃光を浴びせ続けた。スパイラルケーブルでつながったバッテリーの電圧が、光に姿を変えて次々に襲いかかったのである。
 声は無かった。しかし、その純白に覆われた顔は苦悶の表情を示し、苦痛の叫びを発したかに見えた。そして長く伸ばした首を壁に戻しだしたのだ。その壁に強烈な一撃。加賀壬の塩玉だった。
 今度は絶叫が響いた。アタックチーム2全員の心の底で。思わずスリングを手放して、無駄とも知らず耳を覆う加賀壬。崩れ掛けた昆を抱える佐伯。その時、太く、腹に響くほど力強い弓弦の音がその絶叫をかき消した。北村が必死で放ち続ける発光の中、それよりもさらに白い、切り裂くような線を描き、破魔矢が魔性の額に突き刺さり、その顔を叩き割ったのである。

 戦いは終わった。

 彼らは未だ踊り場に立っていた。正確に言えば座り込んでいたのだが。彼らは辺りに積もる塩を払いのけ、助け合って立ち上がった。昆などはか弱い笑みを凍り付けたように浮かべ、佐伯に持ち上げて貰った状態である。
 「みんな無事?」
 加賀壬が仲間を確認した。フレアは未だ作動中であるが、MP体が消え去った今、紅の世界は消えている。同軸に仕込まれているライトの灯りが仲間たちを照らし出しているだけだ。
 山崎は北村から渡されたライトで下方を照らし、立て膝状態ながら既に警戒を始めていた。前原は緊張が途切れた途端に、体を支えている糸も切れたかのようにぺたんと床に座り込んでいたが、加賀壬の問いかけに、やや力無く顔を上げた。目線でうなずき返した加賀壬は今度は北村を見た。彼女はカメラを構えたまま、階段の手すりに寄りかかっていた。その表情はまだ蒼い。
 「茉莉ちゃん、大丈夫?」
 その声に目だけを向ける北村茉利香。けれどもその体は動かない。加賀壬は不安にかられた。しかし、北村の表情は、蒼白から次第に朱色に転じた。みるみるうちに血色が戻り、さらに興奮のあまりか、頬を赤く染めていったのだ。そして何より興奮を如実に示すのはその瞳。
 「と、とれた・・・」
 「え? 取れた・・・? 何が? 」
 北村は不意に体を起こし、カメラ背面に付いているリワインドレバーをA、B共に入れた。ウィイイインというかすかな音が彼らの荒い息の中で響いたが音はすぐに止んだ。
 「撮れた。撮れたよ・・・。た、多分、全部、撮れてる。これに映ってる!」
 北村が高く差し伸べる手の先。そこに握られたフィルムのパトローネ。加賀壬はやっと理解した。MP体は向こうが意図的に姿を見せようとしていない限り、あるいは撮影者に霊感が無い限り、フィルム面に記録されることはない。いつも、北村が取った写真にはHP体は映っているが、MP体は痕跡一つ残していないのだ。彼女が仕上がった巻きフィルムを見ながら残念がっている姿が加賀壬の脳裏に蘇った。
 しかし、あの魔性の顔が突進してきた時、フレアが深紅にその姿を染めていたのである。ノクト・プラズマ・ビジョンの効果はビデオカメラにもくっきりと収められるのだ。それなら、先ほどの魔性の最期はしっかりとフィルム面に納められているに違いなかった。専用の長尺フィルムでない限り、最多記録数の36枚撮りでも、毎秒五枚の高速連写では七秒程度しか納めることは出来ない。しかし、この七秒は決定的な七秒だったのである。魔性が消滅する瞬間という七秒なのだ。
 「やっと、撮れた・・・」
 北村はそのフィルムを大事そうにバッグにしまおうとした。その時である。突如伸びてきた腕がそのパトローネをもぎとった。
 「ちょ、ちょっと、返して!」
 北村茉利香はパトローネを奪い去った前原に向かって叫んだ。加賀壬も慌てて前に飛び出そうとした。しかし、前原は落ち着いた声でこう答えたのである。
 「しばし待て」
 その声はいつもの前原のものだった。加賀壬はすぐに落ち着きを取り戻し、前原に詰め寄ろうとしていた北村の肩を引き寄せた。
 「茉莉ちゃん、ちょっと待って! 前原さん、何かあるの?!」
 前原は無言のまま、懐から白いものを出した。なにやら純白の紙を折った物のようだ。手の上にそれを置き、パトローネを乗せると口の中でなにかつぶやきながらその紙を持つ指先を動かし、紙でパトローネを包み込んでゆく。
 「ん、もう大丈夫だろう。穢れはない」
 北村は前原が差し出すパトローネをおっかなびっくりという感じで受け取った。そう、彼女も気が付いたのだ。断末魔を写したフィルムに、魔性の思念が残留していたかもしれないことに。
 「大丈夫だ。少し濁りがあったが、大したものではない。大君の御手に祓われた。安心しろ。害はない」
 そう言われてもやはりこわごわという感じでパトローネを見ていた北村だったが、佐伯に肩をどん、と叩かれてびっくりした。
 「良かったな、こういう奴がいて」
 「そ、そうね・・・。そういえばそうよね。巫女の知り合いなんて滅多にいないわ。
 ありがと、前原さん」
 「お前は加賀壬宏子の大事な友人だというからな」
 前原はそうつぶやくと、衣を整え、弓袋を畳んで帯に挿した。そして弓を左手に握ったまま、すっくと立ち上がった。その姿は再び臨戦態勢そのものである。彼女は今度は理解していた。結界とやらが未だに作用していることを。前原にとって言えばかすかな耳鳴り。全身に感じる粘り着くような圧迫感。そう感じるなにかが神経を逆立たせている。これが魔性の印象なのだろう。前原静音は二戦目にしてそう理解していたのである。
 「よし、みんな、もうひとふんばりだ」
 またへたりかけていた昆を佐伯が立たせながらそう告げた。昆は己を失した事に恥じらいの表情を浮かべていたがちゃんと自立し、佐伯に笑顔を見せた。まだぎこちないものではあったが先ほどまでの凍り付いた微笑みよりは笑顔に近いものだ。北村はすでにフィルム装填を終え、レンズをいつもの35〜135に直していた。みんなの準備が整ったのを確認して、加賀壬はスリングを再び握り直し、山崎の姿を見た。下方を睨む彼は、既に地下倉庫への扉と思しき鉄扉を見いだしていたのである。


第三章

 「なるほどな。これは見たことないなぁ」
 裏門の前で。
 超常研創設者、現OB会会長、<殿下>はいつもながらの飄々とした口振りでそう言った。しかし、その左手に光る、抜き身の護身刀が緊急事態を示していた。彼がその一族に伝わる破邪の刃、通称<殿下の宝刀>を抜くことは滅多になかったのだから。
 彼の一族は、かつては美咲家と同様、退魔行を生業としていた。しかし、江戸初期を最後に、その一族も血が薄れ只人となった。しかし、この宝刀のみは嫡子に面々と受け継がれてきたのである。彼ら一族の住む地を守る、貴重な守り刀として。
 その地を捨て、家出同然に池袋で遊び呆けていた不良中学生が、遠く離れた美咲郷に住み着き、高校に入学したのには偶然と必然が複雑に絡み合った長い経緯があるのだが、当の殿下はそれを口にすることもなかった。その経緯の結果、かの邦を守護すべき宝刀は、今、遠く離れたこの地で殿下個人の守り刀になっているのである。曖昧ながら事実を知っている殿下の相棒、仲田野美雪は彼をこう呼んでいた。「殿下の宝刀息子」と。
 「こんだけ混沌としてるってことは、ペンタクルも形を成してないだろうな。ふーん」
 宝刀息子はその鋭い眼差しを静まりかえる校舎に向けながら続けた。
 「ただ一つ分かるのは、魔王がとんでもない規模の力を持ってるってことだな。こんだけ混沌としてるのを集束してるのは魔王のパワーそのものだろうからなぁ。こりゃすげぇ。
 腐った槍に矢尻かぁ。単純に考えりゃ落ち武者なんだがなぁ。
 おい、ここにあった城ってのは、なんか合戦に負けたとか記録あるのか?」
 誰とはなしに問われた質問だが、殿下の後方で、チームメイトと共に立っていた篠木原はそれが自分へのものだと悟った。
 「倉柿の山城は、まぁ城というより砦ですが、野本勢が送り込んだ手勢に滅ぼされたそうです。美咲が送った増援がかろうじて若君を救出したんですが、将軍家からのおとがめで倉柿家はお家断絶。若君も徳川の命で自害しました。ただ、明治初期に民間の集めた伝説では、死んだのは影武者で、若君の血筋は美咲が守ったとか。維新の折りに野本を討ったのはその復讐だとか言われてますけど、美咲家にはそういう記録はないそうです」
 「地元の伝説か。ずいぶんローカルな話だなぁ。
 で、どうする?」
 今度の問いかけには篠木原は答えなかった。それは彼に告げられたものではなく、テントに立つ殿下の元参謀に向けられたものである。その場にいた全員がそれを理解していたが。
 「あと30分、正確には27分待ちます。進展が無ければ第三波、事実上第二波になるのですが、それを出します」
 その声を聞いて、美咲美由美が脇に抱えたMG42型ガスマシンガンのグリップを握りしめながらかすかにつぶやいた。
 「出番まで27分、か・・・」
 篠木原隊は今日は出撃の予定が無かった。しかし、万一に備えてフル装備を持ち込んでいたのである。そして、今がその万一だった。
 リーダーの篠木原俊之は今日はチーム1のバックアップの予定であった。しかし、緊急事態に入り、その任を宮原に任せ、チームリーダーとして装備を固めて裏門とテントの中間に立っていた。彼はチームメイト、美由美のつぶやきを耳にすると、そのかすかなつぶやきよりもさらに小さな声でささやいた。違うと。しかしその声は誰にも聞こえなかった。もう一人、美由美の言葉に否定を示した者がいた。彼女の年下の叔母、美咲真由美である。真由美の短いおかっぱ状の髪がかすかに揺れたのを見ていた者はいなかったが。

 チーム1と2、双方のバックアップを行っている宮原が定期的に無線機に語りかける声と、それに答える単なるノイズがスピーカーから流れる以外にあたりに物音はない。遠くにときおり車のエンジン音が聞こえるだけで、犬の遠吠えも猫の喧噪も、虫の音一つないこの場所。
 そうして12分が過ぎた時、超常研二代目会長、美咲由美が告げた。
 「第三波出撃15分前。指揮権を移行します。ただ今より超常研全指揮権は、その所属する生徒会の近藤会長に引き継ぎます。各員は彼の指揮下に入ってください」
 ほんの一部を除く、全員が目を見張った。あまりの驚きに近藤だけでなく、皆が口をぽかんと開けて注視する中、由美は椅子から立ち上がり、ショルダーバックを肩に掛け、裏門に向けて歩みだしたのである。
 「近藤会長、出撃後一時間待って。その間に動きがなかったら私が強制送還させますので。
 篠木原隊はベースの直営を頼みます。あの黒い波動が再突出する可能性があります。危険と見たらベース放棄も許可します」
 それだけの指示を付け加え、美咲は殿下の隣に立った。
 「うーん、そうだなぁ・・。どこ跳ぶか分かんねぇが、美咲、お前一応担当は左な。俺は右にするわ」
 「西の方が込み入っているからですね。校庭の方は私の揺らし気で対応できますし、広い方が私向きのようですね。了解です。東はお任せ下さい」
 二人の短い会話で全員がやっと認識した。第三波とは篠木原隊ではなかった。新旧会長二人が突入するのである。この場所はそれ程までに異様なのだ。
 「んじゃ、あたしゃ北かな」
 不意に右手から掛けられた声。
 「狭いとこの方が得意だからね、ブン回す柄物がないからさ。
 気になって来てみたんだけど。正解だったね、美咲」
 街灯の光の中に歩み寄って来たのは真緑に髪を染め上げた、今時珍しいヤンキー風の出で立ち。白のつなぎに同じく白のたすきを鉢巻きにして巻いているその姿。仲田野美雪だ。
 「来たか」
 殿下は予期せぬ相棒の到着に右手を上げた。いや、美雪ならきっと来ると分かっていたのかもしれないが。美雪は肩から下げるバックに沿えていた右腕を天に上げて応えた。その手には既にメリケンサックがはまっている。
 「なーんか寝付けなくってね。今夜は露払いで、あたしらがバックアップする突入は明日。そりゃ分かってたんだけどさ、んーんと、胸騒ぎって奴? 多分・・・みんなそうじゃないかな」
 にやりと笑みながら仲田野美雪は殿下のすぐ脇に立った。腕組みし、戦場を睨み付けるその姿は篠木原たちの記憶に焼き付いている、拳神そのままだった。左肘に下げたコンビニの白いビニール袋がちょっと情けなかったが。
 仲田野家は元を正せば美咲家の傍流である。しかしながら血が薄れているため、彼女には美咲の術法は全く目覚めなかった。幽体を見抜く力もない。しかし、古の血からか、気配を察するのだけは得意だった。彼女はそれを虫の知らせとか、胸騒ぎとかのなんと言うこともない言葉で解釈していたが。
 彼女の登場で随分状況が変わった。第三波に余力ありと判断した美咲は左手に八方離心輪を持った。結界の中にいる仲間の意志を読みとる装置だが、元々は美咲家に伝わる世界のうねり、理(ことわり)を読むための八角形の理真輪である。今、美咲はその離心と理真、双方を掛け合わせ、理心と呼ばれる状態にして使用していた。
 「チーム1は戦闘終了したままです。全員無事です。MP・HP共に随分疲労しているようですが周囲にひずみはないようです」
 「場所は」
 「おそらく当初の目的地、体育館だと思われます。
 チーム2ははっきりしません。うねり、流れています。おそらく戦闘中と思われます」
 美雪の登場で生じた安心感がさっと脱ぎ払われた。現役会員たちは遠くに見える校舎を見つめた。見えない仲間にエールを贈るべく。
 「ん。じゃ美雪、俺は体育館に先行するから、お前右の校舎の方頼むわ。
 おい眼鏡!」
 呼ばれたメガネ、こと副会長のシュンは振り向きもしていない殿下の後頭部を見つめた。その視線を感じたか、そのままの姿勢で語る殿下。
 「伝言頼まれてくれ。他に誰か来るかもしんないからな、来たら俺たちがどこに行ったか伝えてくれ。んで、目標は後輩達の支援だってな。
 ここの混沌はすごいが、奴らが魔性をスィープしたら間違いない、結界も歪み、単なる黒い波動になる。魔王の力そのもののな。んで、そうなったら後輩たちを一回脱出させる。それが目標だって、そう伝えてくれ。いいな、お前たちは出るんじゃないぞ。まだ出番じゃない。少なくとも状況をオレたちが確認してくるまでは、だ」
 「はい、会長・・、いえ、殿下先輩」
 篠木原は短くそうとだけ答えた。
 「第三波、出撃5分前!」
 宮原の声が響く。美咲がバックから御神酒とっくりを一つ、美雪に手渡してそれで彼らの準備は総て整った。彼らの代はチームプレイなど存在しない。各自の裁量で動くのだ。相談も打ち合わせも簡単、というよりほとんどない。それが殿下の代の超常研だった。


第四章

 「右にもいる!」
 その声に、振り向きざまに佐伯の胴払いが亡霊をなぎった。確かな手応え。亡者の姿はかき消え、甲冑が地に落ちた。
 「山崎、前原、集まれ!」
 佐伯の声に集結しようにも簡単にはいかない。亡者の群は漆黒の中から矢ぶすままで送り込んで来るのだ。北村の連写が走り、その隙を突いてチーム2がやっと集結したのは数分後だった。
 「こ、こいつら、一体何よ! MP? HP?」
 砦の残骸と思しき陰に隠れながら、北村の荒い声が彼らの疑問を代弁した。
 「HPを着たMP体だろう」
 答えたのは山崎だった。それは皆が感じていたものであったが、口に出せなかった答えである。
 「全く、非常識な・・・」
 佐伯は頭上を飛ぶ矢に視線を瞬時送ってからそうつぶやいた。

 彼らが開けた門の中。<跳んだ>先は漆黒の闇だった。
 そこは戦場だった。
 手に手にかざした灯りで周囲を見ると、真正面少し右手に砦があった。いや、砦の跡というべきか。火を放たれたのか周囲には灰と焼け落ちた塀の残骸が転がり、足下を照らしていないと一歩進むのも危険な状態だった。彼らが周囲を確認すべく、ザイルをほどいた途端、ホラ貝の音が鳴り響いた。合戦だ。侵入者を退けるべく、彼らに迫る騎馬武者の姿が漆黒の中にくっきりと浮かんで見えた。光を放つのではなく、さらに暗い闇を纏っていることで。その姿を見て、最も衝撃を受けたのは誰あろう前原であった。初挑戦とはいえ、ここまでを毅然とした態度で通してきた彼女が取り乱すとは思っていなかったメンバーは、咄嗟の対応ができなかった。結果、あやうく各個撃破されかけたのである。
 前原の恐怖は収まりはしたが、とにかく彼女は敵の姿を見据えることができないままだった。他のメンバーには黒い騎馬武者にしか見えないその姿。だが、前原には怨念そのものに見えていたのである。美咲真由美の様に常日頃念の姿が見えているわけではない前原にとって、それは初めて見る怨念の結晶だったのだ。魂を鷲掴みされるかのような恐怖。彼女は今、己をつなぎ止めるのが精一杯だったのである。
 「右はどうだ!」
 佐伯の声に山崎が短く答える。
 「囲まれた」
 「畜生、一体何体いるんだ、ここのサムライ・ゴースト共は!」
 舌打ちする佐伯に答えたのは今度は北村だった。
 「結構大した数いなかったりして。ただ、倒れても復活してるんじゃない?」
 彼女は警備用の棒状ライトで照らした先を顎でしゃくって見せた。その光が描く円には瓦礫しかない。
 「成る程」
 佐伯も気が付いた。そこには先ほど彼自身が斬り倒した、騎馬武者の鎧が落ちていたはずなのだ。
 「どうする? やみくもに動くわけにはいかんぞ。今のところここなら防御はできるが」
 「時間の問題」
 加賀壬がきっぱりと言い切った。ここの敵は純粋なMP体ではなく、フレアも効果がない。しかし捨てるわけにもいかず、加賀壬はずっと背負って走っていた。そのため少ない体力を使いきったかのように、窪みに跪きながらの姿勢ではあったが、加賀壬の瞳は未だ強い意志を示していた。
 「前原さん」
 名を呼ばれぎょっとする前原静音。引きつった顔を加賀壬に向けるのがやっとというところだ。
 「何が分かるの?」
 加賀壬の問いに前原はきょとんとなった。その表情に今度は加賀壬がきょとんとした。
 一瞬の間。
 「そっか、比較できないから分かるわけないか。
 えっと、それじゃ前原さん、私には馬に乗った黒いお侍が見えるんだけど。走っている馬の音はしないけど、槍や矢が飛んでくる風の音は聞こえる。えーと・・・、臭いは土っぽい嫌な臭い、で湿り気とか乾燥したって感じはないわ。ここが燃えたのはそんなに前じゃないみたいだけど、焦げた様な臭いはしない。そんなとこかな。
 あなたはどう?」
 前原は少しとまどいながら考えた。なにしろ質問しているのはあの加賀壬宏子である。しかも、いつもどうりの口調はともかく、その目は真剣そのものだ。
 前原は呼吸を意識して整え、精神統一の要領でなんとか気を静めた。
 「侍・・・。そう、侍なのだが・・。おぞましい形相の顔が一緒に見える。それがお前の感知しているものとの違いのようだ。
 お前にはあの顔が見えないのか、加賀壬宏子」
 前原の「あの顔」という時の表情から、加賀壬は「おぞましい形相」というのが随分つつましい言い方なのだろうと理解した。
 顔、か。
 加賀壬は跪いたまま唇を噛み、記憶をたどった。今までの読書量の中からインスピレーションを得られなかった彼女は記憶のスキャンを授業に切り替えた。学校の正規の授業ではない。香土岐からの講義である。
 「わ、やばい!」
 その声は佐伯だ。窪みに隠れた状態の彼らに対し、サムライ・ゴーストの攻撃方法が変わったのだ。
 敵の矢が間接射撃に切り替わり、頭上から雨のごとくに迫る。北村と昆を山崎が抱えるようにして引っ張り、突出した砦の土台だったらしい大岩の下に潜り込んだのと、第一波が飛来したのは同時だった。間一髪、山崎の足下をかすめただけで終わったが、続けて第二波が迫る。佐伯と前原が加賀壬を引きづり、脇に出っ張った建物の残骸に隠れたが、まだ加賀壬は「検索中」のままだった。
 第四波が来て、矢の雨は終わったようだ。すぐに佐伯が飛び出し、接近する敵を捜す。雨が止まったのは騎兵の突入を意味するのだと考えたのだ。
 しかし、山崎と佐伯が武器を上段に構えて待ち受けているのに気づいた騎馬隊は奇襲失敗を悟り、すぐに弧を描いて流れるように去った。
 ふぅ、と安堵のため息をつく佐伯はすぐに気を引き締めた。しかし、一瞬にしてその気を崩す様な情けない声が後ろからした。その声の主はもちろん加賀壬である。
 「うにゃ〜思い出せにゃ〜・・・」
 「宏子さん?」と、昆が声を掛けても加賀壬には聞こえていないようだ。
 「な〜んだったかなぁ〜、なぁ〜んか先生が言っていたんだよなぁ・・・」
 「先生、ですか?」
 今度の昆の声は耳に入ったらしい。加賀壬は香土岐先生、と答えかけて、口を半開きにしたまま凍り付いた。思い出したのだ。幾度かの講義には先生が二人いたことを。
 最初の美咲の講義だ。姿を消すという話し。あの時、加賀壬はふっとチェシャ猫を思い浮かべていた。最後に残る笑顔。そこに記憶がつながり、加賀壬は思わず立ち上がった。
 「ひずみ!」
 その声を挙げた瞬間、間髪を入れず、北村が彼女のスカートを思いっきり引っ張って引き倒した。
 「いたい!」
 「痛いじゃないわよ、宏子! 矢が来たらそんなんじゃすまないわよ!」
 北村の怒りの籠もった声に押され、ごめん、と謝る加賀壬。だが、すぐに真顔になって前原を見た。
 「前原さん、さっきの弓を引くの、やって!」
 「弓鳴りを?」
 「私には分からないし、フレアも効果無し。でも、前原さんは気が付いてるのよ、この場の歪みに。だからあなたがやれば分かるはず。この場を歪ませている核の場所が!」
 加賀壬の言うことが理解できず、途方に暮れるような前原。そこに佐伯が加賀壬の後押しをするかのように力強く言い放った。
 「よし、それで行こう。俺たちにも何かできるか、加賀壬、前原」
 もちろん佐伯も加賀壬の発想を理解しているわけではない。それどころか「ちんぷんかんぷん」という死語とも言うべき単語が佐伯の頭の周りを飛んでいるかのような状態だった。しかし手詰まりの現状、何かしないことには「時間の問題」は解決できない。佐伯はそう悟り、作戦実行を支持したのだ。アタックチーム2のリーダーとして。

 三分後、即席で立てた作戦を実行に移すアタックチーム2。50メートル程離れた場所に見えるもう一つの大岩。そこにダッシュで移動するのだ。作戦などとはおこがましい単純なものだが、あくまで敵の目を引きつける陽動である。もちろん安全を確認していない第二の窪みには行かず、すぐにこの場に戻るのだが、その間、矢の雨は移動する彼らを狙うだろう。どこにいるのか今は分からない騎馬隊も引き寄せられるかもしれない。
 その間前原はこの窪みに残り、陽動隊が行動開始後、立ち上がって弓を構え、弓弦を鳴らすことになっていた。
 「私は・・・。私には、その・・・」
 周囲の歪みに心を乱されている前原は心細げに口を開くが、加賀壬がそれを許さない。
 「私たちは完全に魔法にかかっちゃってるの。あなただけがかかりきってない状態よ、前原さん。
 多分あいつらの念より、あなたの意志が強いからか、あるいは純粋だから念の共振に染まりきってないか、だわ」
 前原は加賀壬を見た。悲しげな目で。
 「そうだろうか。私には・・・。私は奴らの念に、私の心の底にある悪しき復讐心が呼応しているのかもしれないと・・・」
 前原の瞳にさす暗さに、加賀壬は笑みで答えた。
 「それでもOK! <悪しき>復讐心ね。悪いことだって分かってるならOK! 大丈夫!
 言ったじゃない前原さん。私を信じるって。
 断言するわ、前原さん。あなたなら念なんかに飲み込まれたりしないわ。最悪、一時操られるかもしれないけど、それは一時期。最後には絶対大丈夫! 私、あなたの信念見たもの。あんなに強い意志持っているなら、絶対OK!」
 加賀壬の言葉が終わるや否や、佐伯が言葉をつなげる。
 「操られたら俺が真っ正面から斬り込んでやるさ。お前じゃない前原には負けん!」
 「そうなったら私、耳元でお名前連呼して差し上げますわ」
 続けて発せられた昆の声に、北村がげっという表情になる。それはイヤだなぁ、と。
 前原は気弱な色の残る目を仲間に向けた。そしてまたふっと目を閉じ、口を開く。
 「怖いのだ。この場が。あの顔が私の中にある何かに呼びかけてくるのが。
 だから、逃げてしまった。逃げようとしてしまった。
 そうだ。私の中にあるものから逃げられるはずはないな。愚かな判断だった。いや、行動だった。
 分かった。やってみよう、加賀壬宏子。私はお前を信じる。お前が正しい道に真っ直ぐに顔を向けていると信じている。故に私は恐れない。お前の指示した事を実行するのに、なんの恐れがあるものか」
 前原は顔を振り上げ、凛とした表情で瓦礫の向こう側、最初に顔を見た方向を見据えた。
 その目は何も見ず、総てを写していた。佐伯と山崎はその瞳に、試合前、蹲踞(そんきょ)から立ち上がった瞬間の剣士の顔を見た。
 一方、加賀壬はというと、自分へのあまりの信頼ぶりに困った表情を浮かべかけたのだが、茉利香に無言のまま尻をつねられて慌てて真面目を装った。とってつけた様な表情ではあったが。

 「行くぞ!」
 佐伯の声と共に彼らは走り出した。まるでそれを待っていたかのように間髪を入れずに注ぐ矢。しかし初めから一直線には向かわず、窪みをつたわってジグザグに進む進路を取っていた彼らには直撃はなかった。三つ目の岩陰を抜けた途端、先頭を走る佐伯は目標にしていた大岩のすぐ側でゆらりとうごめく何かを見て取った。
 「やばっ!」
 急には立ち止まれず、彼は瞬時動きを止めた形になった。続いていた仲間たちにはその何かは見えなかったので、佐伯の行動に驚いた。その刹那、風を切り、今まででの比ではない数の矢が飛び込んできたのである。佐伯が数本をたたき落としたが、残りが後ろに続く仲間に刺さらなかったのは偶然の賜だった。重い荷物を必死になって背負っていた加賀壬が、立ち止まろうとして呆気なくすっころび、目前でかろうじてバランスをとっていた北村と昆を道連れにしたのだ。三人の女生徒がみっともなくばたりと地に伏したのと、その頭上を矢が飛び去ったのとはほぼ同時だった。
 「みぎゃっ!?」
 北村がとろい加賀壬の下敷きとなり、地面に顔を打ち付けた瞬間に妙な声を発したが、それが断末魔の絶叫でなかったのは、そのとろい奴のおかげだった。
 「戻れ!」と佐伯が声を発したが、今後方はそれどころではなかった。山崎までもが、倒れかけてわらをも掴むといった風の昆に袴を掴まれて、跪いている状態だったのである。その手をふりほどいていいものかどうか、山崎は瞬時ためらって、勢いを殺しつつ、昆を気遣い、跪くしかなかったのである。昆が立ち上がるのに手を貸そうとしたその時だ、山崎の耳が風を切る音を察知したのは。
 「りゃっ!」
 振り向きざまに彼の得物が弧を描く。迫る槍はそれに弾かれた。
 しかし、すかさず第二陣、二本の槍が迫り、山崎はそれを避けるべく右に跳んだ。いや、跳ぼうとしてよろけた。そう、彼の袴には今、大きな重しが付いていたのである。
 「あ、あ、あぁぁぁぁ」
 引きずられながらあわててその手を袴から放した昆が驚愕に目を見張る。今まさに彼女の目の前に穂先が突き立てられようとしていた。
 「先輩!」
 佐伯と北村の悲鳴に近い声を耳にしながら、昆は目前に迫った槍を目で追っていた。しかし、槍の穂先は彼女の鼻から2センチの所で急に方向を変えたのである。穂先が闇の中に消えるのを見届けた昆は、自分の上体を支えていた腕ががくりとゆらぐのに気づきもしなかった。
 「ああ・・・」
 くにゃりと崩れる昆。しかし、それが槍の激突による激しいものではなく、どうみてもただ力が抜けただけだと気づき、佐伯は昆の先を見た。二本の槍を左右、両脇に挟んだまま地面に倒れ込んだ姿の主はもちろん山崎である。
 「山崎ぃ!」
 叫びと共に佐伯は無防備となった戦友をかばうべく飛び出した。北村が立ち上がりかけて危うくその肩に体当たりを掛けそうになったが、間一髪のところで身を逸らした。へたったままの昆を飛び越え、山崎のすぐ横に至った佐伯は、真正面にかちのサムライを見た。
 完全に読まれていた。先ほどの矢の量からして騎馬武者までもが雑兵に混じって弓を放っていたのであろう。そして同時に退路を断つべく、別働隊が遊撃していたのだ。
 佐伯は目の端で山崎が起きあがろうとするのを見た。無事か。安堵するのも束の間、彼が今素手であるのを知り、時間をかせぐ必要があることを悟った。しかし、その時間をかせぐ手段すら、今の佐伯にはなかったのである。
 「きゃあぁっ!」
 北村の悲鳴と共に白光がきらめき、佐伯の影を前方に伸ばした。後方からも白兵戦を挑まれたのだ。山崎が飛び起きるのを見た佐伯は後方を彼に任せ、光に立ちすくんだ目前の敵に飛びかかった。その数は三体。手近な敵の足下を薙ぎ払い、返す刀で真ん中の影を袈裟懸けにした。鎧をかすったのか腕にずどんという感じの衝撃が走るが、かろうじてかわしきった。右足を伸ばしながらその先が平らであることを祈りつつ、体勢を入れ替えて左手だけで思い切り薙ぎ払う佐伯。目標は既に光のショックから立ち直り槍を彼に向けようとしていたので、片手で振り回す事でリーチを補うしかなかったのだ。だが、敵は本職の戦士である。佐伯の必死の牽制にも動じず、冷静にその背後に回り込もうとした。
 囲まれる。
 一か八か、仲間の方へジャンプするしかない。そう判断した時である。突如地面が揺らいだ。
 しまった! ぬかるみに足を取られた!
 佐伯は咄嗟に踏ん張ろうとして腰に力を入れたが、それは意味を成さなかった。地面全体が波打っていたのである。バランスを取るのに精一杯の状態だが、木刀に縛り付けられたマグライトを左右にかざし、敵を見た佐伯の目に、骨のような両腕をだらんとたらし、揺さぶられるがままで立ちつくす雑兵の姿が映った。
 なんだ、一体何がどうなったんだ? 
 困惑しかける佐伯の脳裏に浮かんだ顔は加賀壬だったが、すぐに別の顔に思い至った。
 「前原か!」
 佐伯はこの事態を起こしたのが前原静音であると瞬時に判断した。先ほどの階段全体が歪んだ弓鳴を思い出したのだ。振り向いて前原を確認したかったが、今は敵が動きを止めた貴重な時間である。佐伯は大波のように揺れる地面に翻弄されかけながら昆の脇に駆け寄った。
 四つん這い状態の昆の腹の下に右手を差し込み、起こしながらも佐伯の目は、山崎らしき人影が武者を蹴り倒したのを見つけていた。北村と加賀壬は手にしているライトとヘルメットの光でそれと分かった。良かった。皆生きている。その感動が体を駆けめぐった時、思わず力が抜けそうになるが、揺らぐ大地と闘うべく、再び気力を振り絞った。
 「先輩、立てますか! 怪我はないですか!」
 ぐいっと持ち上げた昆の体は、疲れ切っている今の佐伯にとってさえ軽く感じられた。一体何キロなんだろう。ふとそう思う佐伯だが、抱え込んだ昆のつぶやきに意識を戻した。
 「ち、違います・・・」と彼女は告げたようだ。
 「え?」
 佐伯は抱き上げた昆の足がよろめきながらも自立しようとしているのを確認し、次いで自分の胸元にあるその顔を見た。
 「だ、大丈夫ですか先輩。どこか怪我を?」
 「わたし・・・。私、先輩じゃないですって言ってますのに・・・」
 昆の顔は不満に溢れていた。それを目で認めながら、佐伯は気を失いかける自分に与える、はげましの言葉を知らなかった。

 山崎・・・。助けてくれ・・・。頼む・・・。 



つづく