
von:秋澤 弘
第一章
ここは? 一体、どこ?
加賀壬は目をきょときょとと動かした。どうやら暗闇の中にいるらしい。そこに仰向けに倒れていたのである。
右足と肩がずきずきと痛む。どこかにぶつけたかひねったかしたらしかった。
加賀壬はなんとか上体を起こし、周囲を見るが側には誰もいない。ついさっきまでそこにいた前原さえも。
「どーゆーこと、これ?」
そうつぶやくが、それに答えるのは沈黙。
周囲には木が鬱蒼と茂っており、すぐに視界は途切れてしまう。天を振り仰ぐと、ちらりと見える空はまるで空虚。それを見た瞬間、加賀壬は理解した。そう、結界の中なのだ、ここは。そして仲間ともはぐれてしまった。
理解した途端、加賀壬は心底の恐怖に襲われた。
顔を両手で覆い地面に突っ伏す。体ががくがくと震え、装備がかちゃかちゃと音を立てた。暗闇の中でその音がやけに大きく響いていた。
やがて最初のショックが過ぎると、加賀壬はようやく身を起こした。とりあえずすぐ側にあった大木の根本に身を寄せる。夜露にしっとりと湿った感覚が気持ち悪かったが、せめて背後だけでも壁があった方が安心できるような気がしたので、彼女は身を小さく縮込めてその巨木の根本に隠れた。周囲をそっとうかがうが、何も近づく気配はない。とりあえず今は。
何? 何があったの? ううん、それよりも、どうしよう。どうしたらいいんだろう。
加賀壬の目が必死で周囲を確かめる中、その心は千々に乱れていた。恐怖が、不安が、そして焦燥感が入り交じって彼女の精神を揺さぶっていたのである。
ふと耳障りな金属音が聞こえた。いや、さっきまでずっと聞こえていたのに、理解していなかっただけなのだが。
それは背中に背負った装備がたてる音だった。
音。
こんな静かな森の中で起きている金属音。すなわち異音。それが「何か」を呼び寄せるのに怯え、加賀壬は装備の詰まったミレーのバックパックを外そうとしてもがいた。右の肩ひもはすぐに外れたのだが、左がなかなかうまく行かない。刺してあるナイフの柄がひっかかっているのにも気付かずに、彼女は懸命に引っ張った。ぐっという感じで外れかけた時、左肩に痛みが走る。
「いたぁ!」
思わず声を出した加賀壬はまた恐怖にかられて動きを止めて周囲に視線を送った。どうやら何もいないようだ。
「いったぁい・・・」
加賀壬は左肩を見て、初めてナイフに気がついた。あのまま引っ張ったら肩が抜けていたかもしれない。そんな事をふと思い、自分が慌てていたことに、今更ながらに気がついた。いつ襲いくるかも知れぬ巨大な恐怖よりも、今感じた痛みの方に気が向いたのだと理解した。自分の楽天的というか、現実的な性格に呆れそうになる加賀壬。
「ふー・・・」
深呼吸。
森の息吹はすがすがしいとは言えない。魔性の波動までは凡人たる加賀壬には感じられないが、何か、恐怖の臭いの様なものが混じっているのは分かっていたから。それは加賀壬自身の心がもたらす幻なのかもしれないが。
「ふー・・・」
もう一度深呼吸。
今度はよじれた肩ひもを直し、ちゃんとバックを降ろした。その重さの大半は言うまでもなくフレアである。その仰々しい姿になったヘルメットを見て、加賀壬の心にほんの少しだが希望が戻った。そう、これがあればMP体を発見できるのだ。しかし、発見するだけでは意味がない。先手が打てるというだけなのだから戦闘にはやはり武器が必要だ。そこで加賀壬は自分の身を守るための装備を確認し始めた。
まずはマチェットナイフ。佐伯に教わったとおり逆手に抜いてみて、順手に握り直した。別に意味がある行為ではなかったが、その感触を確認したかったのだ。にぶく光る刀身。その抜き身の刃を見たかったのだ。漆黒の森、とは言うものの、慣れてくるとそれなりに光源はある。鈍く光る刃に自分の顔を映してみて、加賀壬は己を見つめようとした。
ぼんやりとした輪郭だけだが、ちょっとだけ明るく顔が映されている。その表情は強張っているだろう。そう感じ、恐怖と不安の中に、冷静な自分がいることを強く意識しようとした。第三者の目で己を見ようと。自己暗示。それは分かっていたが、今はどんなものにもすがりたい気分だ。
「頑張れ、宏子!」
つぶやいてウィンクしてみる。よし、私はまだ元気だ。そう心に思うと、「次!」と自分に命じて刃を下げ、今度は空洞になっている柄を持って回し、中にある水の浄化錠剤と裁縫道具、消毒液を確認した。そう、まだ装備は無事だ。まだだ。諦めるにはまだ早い。まだやることがある。いや、やれることがある。
ナイフの先端に付いているコンパスは北を指している。魔性の影響下では本当に北かどうかは分からないが、少なくとも近くに魔性の巣がないことは確かだ。
次はピッケル。バックパックの脇にベルクロで止めてあるままだ。一旦外し、両手でしっかりと握ってみた。握りの堅い感触を右手に、金属の冷たい感触を左の手のひらに感じ、また元の場所に戻してベルクロで止め直した。しっかりと。
このピッケルはいかにも攻撃的&凶悪なので加賀壬は嫌いだったが、これが今まで自分の命を守ってくれたことには変わりはない。さっきのナイフも加賀壬は毛嫌いしてはいたが、今は好き嫌い云々を述べている状況でないことは分かっていた。特にこんな視界の利かない森の中では射撃武器よりもこういった接近戦用武器の方が有利なのも確かなのだから。
次いで新兵器、スタッフスリング。今はスタッフの形のままだ。森では不利とはいえ、加賀壬には一番安心感をもたらす武器だった。それを両手に抱え、スリングに伸ばしてみる。ばちんという感じで展開する姿は正直滑稽だが、今はその変形が頼り甲斐のあるものに見えた。超常のまっただ中でも作動する仕掛け。すなわち常識。加賀壬はまたそれを折り畳み、今度は弾を確認し出す。通常の重い金属球は六発。あまりに重いので今回はそれだけしか持ってきていない。
重そうにその弾を持つ加賀壬を見かね、代わりに持とうかと前原が言ってくれたのはついさっきのことだった。渡さなくてよかった。そう加賀壬は思った。別にこんな事態を予測していたわけではない。慣れなくては、と思ってした判断だった。結果、それが正解だった。しかし、それでほっとしたところで重みは変わりはしない。ベルトポーチはそれだけで今にも千切れそうな状態なのだ。カチン、と堅い金属音がして加賀壬はあわてて手で押さえた。だが、その音は同時に安心感を与えてくれた。これだけの質量なら敵の戦意を削ぐには十分な気がして。
ついで制服のポケットに入れてある布袋を開ける。清めの塩玉の巨大なもの。美由美が科学部の先輩に頼んで三発だけ試作してくれた大塩弾がガシャ玉のケースに入っている。それを開け、確認してからまた元に戻した。ポケットは再び目一杯膨らんだ。
武器の確認が終わると今度は防御だ。といっても別に甲冑を着込んでいるわけでもないので、確かめるのはバックパックの下に保温シートと一緒にゆわいてある救急箱と精神安定剤、そして最後の頼みの綱、ベルトの後ろに止めた霊水一本。命を守るのはこれだけだ。もちろん一撃で致命傷を受けてしまってはどうしようもないが、ファーストエイドもうまく出来ず、抜群の反射神経があるわけでもない彼女には他に頼る術がない。霊水の入った小瓶を掌に感じて加賀壬は思った。生きて帰らなきゃ。
ミレーのバックは見回し君、ことフレアでほとんど占拠されているが、外ポケットには小物が入れてある。姫さんにもらったたれぱんだ模様の救急バンや、非常用のチョコレートにスポーツ飲料のミニペットボトル。そして殺菌効果のある紙おしぼりの筒。ちり紙。そして美由美先輩がくれたシェアファイアの6Pライトに予備のデュラセル電池。
まぁ、こんだけあったら重いのは当然だな。
加賀壬はまるで人事の様にそうつぶやいた。だが、一番重いのはやはりこの効果未知数の固まりだ。もしこれで役にたたなかったら本当に屑鉄にしてやる。それもあの陰険ちびの目の前でだ。どんな顔するかな、あいつ。
そんな物騒な想像に口元を歪めて笑う加賀壬。と、不意に今の状況を思い出し、真顔に戻った。そうだ、まずは生還しなきゃ。全てはその後だ。
バックパックを再び背負い、立て膝の姿勢になった時、腰に下げている金具に目が向いた。その先には、いつもならザイルがつながっている。それを思い出して孤独感をかみしめる加賀壬。しかし、不運ばかりではない。ザイル以外の装備はみんな身につけていたので助かった。装備なしだったらと考え、不幸中の幸いという言葉を思い出す。
「俺達の出番はまだだけど、とりあえずいつでも出れるようにしとこうぜ」
佐伯の言葉が耳に蘇る。ありがとう佐伯君。なんとか頑張ってみるね、あたし。そうつぶやいて重いヘルメットをかぶり、眼鏡の内側にシートを固定した。
立ち上がり、巨木の周囲をそっと一周してみたが、周囲は木、樹、木。完全に森のまっただ中にいるようだ。校内地図と裏門で見ていた光景を思い出してみた。これだけの鬱蒼とした森だから、おそらくここは北の外れだろう。多分南に行けば第三校庭があるはず。でも、魔性の結界の中って方位も狂うって言うしな。さてどうしよう。
加賀壬は異常に重いヘルメットをかぶりながら考えた。みんなと合流した方がいい。それは確かだが、一体どこにいるんだろうか、仲間たちは。それに何人がここに放り込まれたのだろう。アタックチーム2は多分全員だ。チーム1も、もしかしたらバックアップのみんなも、天使隊の先輩たちもそうかもしれない。どうしよう。適当に歩き回るのは避けたいけど・・・。
ここはとりあえず安全だろう。今まで何の気配もなかったし。だったら、ここでじっとしているのが一番かも。結界の中に入っちゃったなら、そのまま出れるはずないし。でも、もしかしてひょっとしてずっとこのまま・・・。
その恐ろしい考えにぶんぶんと首を振って否定する加賀壬。ずっしりとしたヘルメットで首が痛くなったのですぐに振るのは止めたが、恐ろしい思いだけは振り払えたようだ。
大丈夫。だって会長もいるし、姫さんたちのパーティもいたし。それにもうすぐ殿下先輩や本条先輩たちも集まるって言ってたし。うん、きっと誰かが結界を崩してくれる。それまでここにじっとしていよう。それが一番安全だ。私はみんなみたいに戦闘できるわけじゃない。お手伝い程度しか出来ないもの。一人で何かしようとしたって、出来るわけないもんね。だから今は邪魔にならないように身を守るのが一番だ。
加賀壬はそう決めて大木に寄りかかった。空を見上げる。星も月も、何もない虚無の闇。今はそうでも、空を見ていれば結界が揺らげばきっと分かる。そうしたら脱出しよう。一番外れにあるここからなら北に進めばすぐに校外に出られるから。うん、それまでここで待ってるのが一番!
山崎君、佐伯君。茉莉ちゃん。信じてるからね。先輩たち、お願いしますね。
その時。加賀壬は自分の考えにぎょっとした。しばしの硬直の後、はっとしてコンパスを見る。南はあっちか。彼女は胸のL字ライトを外して点灯させないまま左手に持ち、右手には抜き身のマチェットナイフを握りしめてその方向に歩き始めた。明かりのない森の中。転びかけながらも一歩一歩進む加賀壬。
何考えていたんだろう、私。自分の事ばかり考えて。みんなに頼ってばかりで。
みんながバラバラだったら。もしそうなら、昆先輩はどうなるの? 武器もないんだよ。
それにもしバラバラなら。前原さん、絶対探してる。必死になって探してる。私のこと。絶対そうだ。
私ってば自分の事ばっか考えてて。ごめん、みんな。
探さなきゃ。合流しなきゃ。絶対!
加賀壬はまなざしをこらしながら足場の悪い森の中を進んだ。
鬱蒼とした雑木林。そうは言うがやはり校内にある程度の大きさだ。数分歩いた頃、前方がちらりと開けて見えた。
灯り。水銀灯の輝き。白線がぼんやりと光る校庭。
木々の間にちらりと見えたその光景は加賀壬の心にも灯火をともした。見えた光景を地図に置き換えてみる加賀壬。
だめだ、このまま進むと排水施設のフェンスにぶつかる。
自分の地点を把握した彼女は右に迂回し始めた。
再び樹木の陰が不気味に広がるだけの世界に戻る。木の根っこがあちこち伸びている上に、しっかりとした地面だと思って踏みしめると、ずずっと沈み込む様な場所が多い。最初は周囲の警戒も怠らなかった加賀壬だが、もう今は次の一歩の事だけで必死だ。それに、時折何かに見つめられているような異様な感覚も立ちこめる。
怖い。
足を止めかけたのは何度目だろうか。それでも加賀壬は無理矢理に足を前に出し続けた。
こんな場所で不意打ち受けたらどうしようもない。けど、もし敵がいるのが分かってもここじゃ逃げられないよ。
だったら。だったら一秒でも早く開けた所へ行こう。戦闘ができない私にはそれしかないもん。
そう覚悟を決めた加賀壬は一歩一歩、進んでゆく。
やがて、待ちに待った空間が前方に見えた時、すでに加賀壬はへとへとになっていた。慣れない山道。重い装備。緊張。焦り。そしてなによりじんわりと周囲ににじむ恐怖。もう全部忘れてばったりと寝込みたい気分だった。
開けた部分は小道だ。北の外れの門と第三校庭を結ぶ通用路に間違いない。まずそっと周囲を確認し、耳を澄ましてみる。異常を感じなかった彼女は小道に立った。ここを右に折れれば五分程で北門。左が校庭だ。
だが、彼女は躊躇なく左に進んだ。もう目的地は決まっていたからだ。
そう、目標はそこしかない。みんな、あそこに集まってるだろう、きっと。ううん、絶対だ!
第二章
校舎の外れにある生物室の外周を回り込み、佐伯は一度足を止めて周囲を確認した。芝生の向こうに無人の校庭が見える。校舎の陰に身を寄せて左右だけでなく、上下にも視線を送る佐伯。だが、その視線には無人の光景が広がるばかりだ。
不意に訪れる孤独感。狭く見えるくせに馬鹿みたいに広い校内。その中でたった一人取り残されたような気持ち。だが一瞬で佐伯はその迷いを振りほどいた。
山崎。どこにいる? たとえどこにいても、お前なら俺と同じ選択をする。そうだよな、山崎。
今、同じ目標に向かっているに違いない友の姿を想い、佐伯は自分を奮い立たせた。
よし、行くぞ。自分にそう告げて足を踏み出した時。校舎から金属のきしむような音が響いた。佐伯は反射的に身を反らして植え込みの陰に潜み、身を小さくしてじっと息をこらしながらも目だけは葉の陰から校舎から出てきた「何か」を追った。
一方、その「何か」は鉄扉をバタンとしめると、ふぅとため息をもらしている。
「ここの扉ってどうしてこうも重いんでしょうね」
肩をすくめて扉を見返した後で、「何か」は芝生を踏みしめて立ち止まった。
「ええと・・・。そこが第二特殊教科棟ですよね。じゃ、やっぱりこっちですね」
独り言をつぶやきながら歩き出す、見慣れた制服。即座に佐伯は立ち上がった。
「先輩!」
声をかけるなりすっと歩み寄り、昆を校舎の陰に引き戻す。
「きゃぁ・・・。あら、佐伯さん、こんばんわ」
その予想外ではあるが、予想してしかるべきだった言葉に、力が抜ける佐伯。
「先輩、何を堂々と歩いてるんですか! 校舎からも校庭からも丸見えです!」
佐伯は警戒のために面を外していた。だが、いつでも臨戦態勢に臨める様に手ぬぐいで髪を覆った状態のままである。まるで姉さんかぶりのような滑稽な姿に反し、その眉はキッと寄せられていた。
「ここがどんな場所かは分かっているはずです! 物陰に潜むくらいは・・・」
小声のままだが低く響く佐伯の声を遮って、昆が普段と同じ穏やかな口調で言葉を返した。
「あら、それでは見えないでしょ?」
「見えなくっていいんです! もし見つかったら・・・」
そこまで言って佐伯は気が付いた。彼女が意識的にいつもどうりに歩いていた事に。いや、むしろ目立つ道を選んできたのかもしれない。見つかるためではなく、見つけてもらうために。
「よく、無事で・・・」
佐伯はもう言葉が継げなかった。
「ええ、本当に心配で。皆さんより先に魔性に見つかったらどうしましょうと。
でも、やっぱり先に見つけてくださいましたね、佐伯さん」
そう言って昆はいつもの笑顔を隊長に向けた。
この笑顔。この信頼に応えねば。そう思って佐伯は気を引き締めた。
「あら、怖い顔・・・。どうなさいました?」
込めた気合いが瞬時に四散する。
山崎。やっぱ、俺、この人苦手だ・・・
佐伯は力無く笑った。
しばらくして。
二人は物陰に潜みながらも旧男子校の校舎群を抜け、中央校舎群に近づいていた。
「この向こう側ですわね」
後ろからかかる声に佐伯は頷いた。次の瞬間、佐伯は気が付いた。どこに向かうのかを昆が知っていることに。何もそれについては語っていない。佐伯がいつもどおりに先に進み、昆はただ付いてきているだけだと思っていたのに。
彼女が同じ目標に進んでいたことが分かって佐伯は希望を感じた。やはり仲間だ。そう思い、昆を振り返る佐伯。さすがに今は昆も佐伯を真似て身を隠そうとしている。だが、彼女には忍者の血は一滴も流れていないようだった。今も自分では木の陰にいるつもりらしいが、その実、陰にあるのは頭だけで、胴体は丸ごと見えていることに気が付いていないらしい。佐伯は昆の右手を引いて身を寄せさせた。
「あ・・・」
呆気なくバランスを崩して佐伯の腕の中に転がり込む昆。降り仰ごうとして揺らした彼女の髪が佐伯の顔にばさりとかかる。
「えっと、えっと・・・。どうしましょう・・・」
パニックを起こしてなお、昆愛姫の言動はのんびりしている。佐伯は途方にくれたい気分を押さえて視界を遮る髪の毛をどかした。すぐ目の前に昆の顔がある。と、彼女がじっと見入っているのに気が付く佐伯。
「?」
「あら・・・佐伯さんって・・・」
「???」
「お美しかったんですね」
ひっくり返りそうになるのを佐伯はぐっとこらえ、彼女の軽い上体をそっと起こし、自分の隣に跪く形で降ろした。
山崎。俺、この人と意志の疎通、できんかもしれん・・・
「こんな時に何言ってるんですか、先輩!」と佐伯が小声でたしなめる。
「また・・・」
「????? また?」
「・・・・・・」。無言の昆。
「何か・・・?」
「昆、でいいですわ、佐伯さん」
「・・・・・・」
その会話はより親しい関係を求めるものなのか、それともいつもどうりに自分が超常研では後輩であると言いたいのか。佐伯には皆目検討が付かなかった。中学時代からたくさんの「彼女」希望者に囲まれ、プレイボーイと噂されていた佐伯だ。女性慣れしていると自他共に認める佐伯だったのだが、昆の言動は全く読めない。
山崎。助けてくれ・・・
第三章
生け垣の中にある大木に身を寄せ、じっと立ちつくすその山崎の隣で。前原は苛立ちの限界を迎えようとしていた。山崎は両腕を下げて木刀に手をかけ、身じろぎ一つしないまま立っている。すぐ側にいる前原も腕組みしたまま同様に立ってはいるのだが、せわしなく左右に視線を送り続けているために、その長い髪がゆらゆらとかすかに揺れているのに本人は気が付いていないようだった。
「本当に・・・」
そう小さくつぶやきかけた前原を制するように、ほんのかすかなうなずきで答える山崎。もう何度目だろうか。前原は続く言葉を発するのを諦め、緊張よりも焦燥のまなざしで周囲を見回した。
左手は運動場に続く道。正面と背後には校舎。右には木立が植えられた空間。ここは中庭の入り口にあたる場所だ。中央棟と呼んでもよい、メインにあたる校舎群の真ん中に配置されたこの中庭は、意図的に森林を模して設計されていた。以前はすっかり木立に埋もれていたらしいが、十年程前に小さな噴水が中央に追加され、森というよりも公園のような雰囲気になっていた。本来ならば「癒し」効果のありそうな場所なのだが、時、場、共にそれを拒絶している感がある。深夜、しかも魔性の結界内だ。当然であろう。
中庭の小さな「森」は普段見えない暗部をさらけだしたかのごとく、暗く、深く、そして不気味だった。
ここに二人が着いたのは十分程前だ。あの「嵐」の後、校舎の脇に出現した前原は、初めての「跳躍」に呆気にとられた。続いて周囲に山崎しかおらず、加賀壬の姿がないことを認識した瞬間パニックに陥った。しかし、山崎の確固たる表情にひきずられるように、この中庭にやってきたのである。
「目的地はここだ。必ずここに集合する。間違いない」
そう山崎は言った。それから二人で待つことしばし。だが、誰も姿を現さない。全くの静寂。そよともそよがぬ無風の今、葉のすれる音一つない。だが山崎は全く動じずにじっと立ちつくしている。時が過ぎるに合わせ、前原の焦燥と不安は募っていった。そして限界に達しようとしていたのが現時点である。
確かにここに向かっているのかもしれない。前原は考えていた。でも、ここまでで「妨害者」とやらに加賀美宏子が出会っていたら・・・。いや、もしかしたら中からは出られないような場所に出現してたら・・・。もし、もしも出現したのが魔性の正面だったなら・・・。
周囲に向いていた前原の視線が泳ぎ、じっと足下を見つめだした事に気付いた山崎も焦っていた。
みんながここを目指しているのは間違いない。それは推理というよりも確信だった。だが・・・。
言葉を語ること自体が苦手とされる山崎に、どうやって前原を説得しろというのか。実は山崎自身は会話が苦手だと思ったことはほとんどない。意見がないのなら話す必要を感じないだけだった。しかし、今は「饒舌の巻物」でもあれば読みたいところだ。自分には確信なのだが、それをどうやって彼女に伝えていいのかが皆目検討がつかない状態だったから。
「前原」と山崎はぼそっと言った。
「信じろ、仲間を」
その言葉は前原には「加賀壬を」と聞こえたが、彼女の焦燥はもはや言葉ではどうにもならない。
「こ、ここに、手をこまねいてこのまま居るよりは・・・」
何かしないと。前原の発していない言葉を聞き取って山崎が答える。
「何も出来ない。待つ以外」
「しかし!」
そう前原が怒鳴りかけたとき、山崎がはっとして森の奥を見た。つられて素早く視線を送る前原の目にも動く何かが映った。人影だ。噴水のそばに人影があった。側の木立から姿を現したらしい。その陰が噴水に一歩近づいた瞬間、脇に立つ水銀灯の明かりが人影を北村に変えた。
「来た!」
懐中電灯を照らしてこっちの場所を教えようとした山崎が視線を手元にそらしたその時だ。前原が叫んだ。
「危ない!」
声と共に疾風のごとくダッシュする。山崎がぎょっとして見たものは。
噴水に気をとられている北村の背後に迫る触手だった。
山崎もダッシュする。すでに数歩先を行く前原だったが、彼女の俊足でも間に合わなかった。
北村は背後から迫る何かに気づき、咄嗟に手にした警棒で初撃を防いだ。しかし、鞭の様に素早く、蛇の様にしなやかに迫る触手はそのまま警棒にからみつき、彼女の手からもぎ取ろうとする。北村は必死で警棒から伸びたL字型の握りを掴み、引き戻そうとした。しかし、両手が塞がったその瞬間、彼女の真横から強烈な衝撃が襲い、北村は目をむいた。触手は一本ではなかったのだ。
「きゃぁぁ、うぐっ!」
北村の悲鳴が瞬時響き、すぐに消えた。走り寄る前原の目には、その姿は地面に倒れるまでしか見えなかった。腰程の高さがある茂みに埋もれてしまったのだ。前原は狂気に取り憑かれたかのように猛ダッシュをかけた。その長い髪を小刻みに揺らしながら疾駆する。元々足が速い上に山崎の様に重装備なわけでもない。二人の差は瞬く間についた。遅れた山崎は茂みを跳躍して前原の姿が消えるのを見た。するとすぐにその右手にある木々が激しく揺れる。山崎は必死に走った。
前原は二度の突きを繰り出し、倒れた北村をひきづる綱のようなものにヒットさせていた。だが、その綱はぐにゃりと伸びるだけでほとんど効果がない。北村は二重三重に綱にからまれたままひきづられるがままになっていた。まくれたスカートから伸びる白い足が無造作に揺れるのが闇の中でくっきりと浮かんで見える。その動きから意識がとうにないのが分かる。いやもしかすると既に・・・
「待て!」
前原は攻撃を諦め、飛びついて北村の腰にしがみつこうとした。だが、跳躍した瞬間、向かってくる新たな綱状の触手に気付き、体をひねって受け身をとった。空中で迎え撃とうとしていたらしい触手は彼女から数センチずれた地面に突き刺さった。ぐさり、と。その光景を見た前原の心が恐怖に凍るよりも先に、その体が動いた。右肘から先をバネのようにして自分の体を跳ね上げ、同時に目前にある縄のような触手の先端に左手を走らせた。一旦伸びきった触手が戻ろうとしたところでがっしとつかむ前原。彼女の体はぐんという衝撃と共に触手の根本の方向へ、つまり前に弾け飛んだ。
「せいっ!」
短いかけ声と共に再び身を躍らせ、今や真下を走る北村の体に飛び降りる。と同時に前原の右手が上がって背中に回ったかと思うと、力一杯それを振り下ろした。
ビクンという強烈な手応え。どさりと落ちる衝撃に耐えかねて前原の長身が苦しげに地面を転がる。だが、すかさず受け身をとって立ち上がる彼女は、北村をひきづっていた「縄」が千切れ、悶えるかのごとく滅茶苦茶に蠢く様を見た。拳が効かぬ触手であったが、体重丸ごとかけた鏑矢の矢尻の一撃に耐えられなかったのである。前原は折れた矢を投げ捨てるとすぐに次の矢を右手に構えながら立ち上がった。
「北村!」
呼びかけるがやはり身じろぎ一つしない。駆け寄りながら前原は、地面に転がった仲間の腕がありえない方向に向いているのを認識して気が遠くなるのを感じた。ところがそれと同時に、また縄が走り寄るのを視野の隅にとらえ、彼女の意識はすぐさま一つの確固たる意志に収束した。
許せん。
そこから先は無我夢中だった。というよりも心がたった一つに集中し、記憶すらしている暇がなかったのかもしれない。襲いくる縄というか綱というか、不気味な蛇のようなものを叩き返し、鏑矢の矢尻で迎え撃った。どうやら触手は前原のみを獲物と認識しているようだ。いや、獲物、というよりも「敵」だろうか。無防備の北村に向かう触手はない。周囲全ての縄が前原に迫っていた。北村は後でどうにでもなるという事だろう。
「ならば!」
前原は前に進んだ。といっても敵の位置が分散している以上、あくまで北村が引きづられていた方向を前として、だが。
触手を北村から引き離す。
前原は10メートル程進んだところで少し開けている場所を見つけ、そこを戦場に決めた。立ち止まった彼女は両足を肩幅に開くと、大きく息を吐いて身構えた。触手たちは前原の行動に瞬時とまどったようだが、すぐに猛攻を開始した。前から来る触手をスウェーで避けたが、左下方からアッパーカットのように突き上げてきた一本を交わしきれなかった。ずん、という重い衝撃で吹き飛ばされながらも絡め取ろうと動く蛇を切り裂く。その触手が狂ったように森の闇に引き込まれてゆく。しかし、その間、前原に迫る触手はない。一呼吸おいて、右後方から、続いて再び左下方から迫る新たな鞭。
触手の猛攻は執拗を極めたが、冷静に立ち向かってみると、攻撃のパターンは単調だった。胴に突きを当てて気絶させ、からめとって引きづろうという形。ならば突きをかわしさえすればよい。それができねば、からめかけたところで矢尻を突き刺せばよい。
しかし、それが分かっていても、数え切れぬほどの蛇があちこちから襲ってくるのだ。前原は一つ一つ蛇との距離を目測しながら順時迎え撃っていたが、常人にはまず真似のできないことだろう。周囲から迫る鞭たちは全てが無秩序に蠢いているように見えたが、必ず数本が一組で攻撃してくる。その間、残りはフェイントを担当しているのだ。前原は攻撃してくるセットの方向を捕らえ、迎え撃っていた。何度も、何度も。
だが何本切り捨てても触手は無限かのように湧き出てくる。二本セットで来た触手を前に踏んだステップで交わし、矢尻を突き立てた時、腕の筋がビクンと震え、指の力が瞬時抜けるのを感じた。体を鍛えてあるとはいえ、今のような急激、かつタイミングの特定できない戦闘では体の限界が早い。疲労を感じ、前原は焦った。と、突然彼女は左側に大きな気配を察し、身を反らした。その途端、迫り来る風圧を感じ、身を屈めたその上を蛇のような触手が弾き返されるのを視線の端で捕らえた。
「下がれ!」と声が飛ぶ。前原はその声に応え、ほぼ真上から迫る蛇を交わして、右足にからまろうとしていた奴を蹴り飛ばしながら旋回し、素早く後方に飛ぶ。長い髪を一匹がとらえたが、からめとる前に髪がすり抜けてしまい、蛇は自重でそのままずるりと地に落ちた。
「彼女は!」と前原は短く問いかけながらまた身構えた。左手前方にいる山崎はそれには答えずに蛇の群に立ち向かっていた。壁のように。そう、まさしく壁のように。波のごとく襲いくる鞭を弾き返しながら、山崎はその位置を変えない。前原の目前で二本の鞭が山崎に突進した。一本は胴具に弾かれたが、もう一本は間違いなく胴と面垂の隙間にクリーンヒットした。
しかし。
その衝撃でぐらりと揺れはしたが、山崎はすぐさま姿勢を戻した。前原が、その強靱さと足腰の強さに唖然とした瞬間、既に山崎の両手が翻り、その鞭に渾身の一撃を加えた。ばしゅっと音を立て、黄緑色の気味悪い液体が飛び散り、触手が真っ二つに飛び散った。刃物で切った様な鋭い印象は無い。切ったというより、力任せに叩き割ったようだ。他の触手はそれでもひるむことなくまた山崎に迫る。だが、山崎の、元から長い腕は柄物によって倍加したも同然で、そのほとんどが空中で迎え撃たれた。大地をしっかと踏みしめ、上段下段と縦横に刀を振るうその姿はまさしく仁王のようだった。決してその場を動かない砦のような姿だ。
その行動の意味するところを汲んだ前原は咄嗟に後方を見た。ブッシュとよんでもよい茂みしか見えなかったが、視界の及ぶ端に足らしい白いものが見えた。
「すぐ戻る!」
そう叫ぶと前原は飛び出した。疲労の限界に来ている筋肉が悲鳴を上げ、一瞬着地にしくじりそうになったが、そのまま前転し、北村を抱き抱えるとまた走り出す。背後では距離があるにも関わらず、激闘の殺気が感じられたが、振り向くことなく走る。
水銀灯がちらりと見えた時、噴水のあたりで動きを察した。ぎょっとしたのも刹那、走り寄る者を見て、さらに跳躍を早める前原。
「敵は!」
「向こう!」
佐伯と前原が交差しながら交わす言葉。
二人はそれぞれの方向に走り続ける。
水銀灯のすぐそばまで来た前原は髪を振り乱し、ぜーぜーと荒い息を吐く昆と合流した。
脇にあったベンチの上に抱えてきた北村を降ろさせると、昆は前原との間に割り込み、額からしたたり落ちる汗をぬぐいもせずに制服を引き裂き出した。
前原はその時、初めて北村の顔を見た。水銀灯の無機質な光と陰が北村の顔を支配している。そしてその表情は・・・。恐怖が一瞬にして前原の全身を捕らえ、膝ががくりと揺れて倒れかかる。咄嗟に水銀灯の柱を掴み、身を保ったが、全身から血の毛が抜けてゆくのが自分でも分かった。サーッと、なんて生やさしい感じではなかった。ズズッと全身の血が一気に足の裏から地の底に引き抜かれたような感じだった。だめだ、倒れる。そう思った。
その時。
「あなたは無事?」
昆の声。
「無事なの?」
昆は北村の右肩を持ち、ねじれた腕に添え木をあてながら、また問う。その声には緊迫感はあるが、パニックの気配はない。いやそれどころか、その声の落ち着きは気絶寸前だった前原に意識を取り戻させるのに十分だった。
「ぶ、無事だ」と答える前原。しかし、彼女の耳には自分の声が荒い息にまぎれて途切れて聞こえた。乾ききった喉が声を出すことを拒んでいるかのようだった。
「ここは任せて」
添え木を固定しながら、昆は前原を見上げた。元々長身の前原だ。かがみこんではいても、ベンチに覆い被さるような状態の彼女にはずいぶん上にその顔があった。その蒼白な顔に向け、笑顔を見せる昆。
「間に合ったわよ。大丈夫。ね?」
微笑みを浮かべながら見つめる昆には、それが前原の心にあっというまに染み渡るのが分かった。
・・・大丈夫・・・
・・・間に合った・・・
微笑みに照らされた前原の心の隅々に、言葉が広がる。言霊が染みこむ。
そうか。間に合ったのか。この人になら大丈夫なんだ。任せても・・・
すっくと立ち上がる前原。衣の前を直し、袴を整えると、額垂れを一度外し、目にかかっていた前髪をどかしてしっかりと締め直した。
「お願いします!」
一言そう告げると返事も待たずに、前原は飛び出した。
微笑み。そう、昆は本当に・・
天使だ。
前原はそう思った。昔、自分がそうなりたかった姿を彼女に見た。綺麗な女の子になりたかったあの頃。修行ばかりの父を呪ってしまったあの頃。天使になりたかったあの頃。
今、本物の天使を見た。自分では決してなれないと諦めたその姿。だが、それは綺麗なだけではなかった。強く、真摯に強く。そう、あの頃のあこがれなど超越して強く・・・。
よし、決めた! 私もなるぞ、天使に。加賀壬宏子を守る、いくさ巫女。戦天使、ヴァルキリーに!
その足はさらに早く走り出した。戦場へと。
第四章
うーん、困ったなぁ。
加賀壬は途方に暮れていた。校内地図ではこの道が一番早かったはずだ。ここを抜ければ目的地まではすぐだ。そのはずだった。閉まった防火用扉を乗り越えることができたら、の話だが。
どう見ても鍵がかかる構造ではない。よしんば向こう側から閂がかかっていたとしても、脇にある小さな扉は開くのが当たり前だ。防火用なのだ、避難に使えないはずがないのだから。でも、現実は厳しかった。
「くっそー、わざわざ危険を承知で校舎の中にまで入ったってのによ〜、なめてんじゃね〜よ、おまえよぉ!」
およそ16の乙女らしからぬ言葉を吐き、加賀壬は防火扉を蹴った。
ごーんという音が校舎に響く。
しまった! そう思うと咄嗟に階段に身を隠した。
やっばー。つい蹴っちゃった。反省!
加賀壬はこそこそと二階へと上がり出す。向かい側の校舎から見えない様に、四つん這いでこそこそと。
目的地に着くにはもう一つ道がある。あまり使いたくない道だったが、一階を塞がれていては他に方法がない。まぁ、中央棟の一画をぐるりと迂回することを考えればましだ。そう自分に言い聞かせながら、通りたくなかった道へと向かう加賀壬。
迂回するとなるとどうしても校庭を通る。どうも校庭にはイヤなのがいそうだ。それよりは、まし。きっと、まし。たぶん・・・
でもやっぱり、やぁだぁ!
目の前に広がる空間。向かいの校舎が丸見えだ。逆に言えば向こうからも・・・
足下は鉄板。滑り止めがついているごく普通の鉄板。その下には・・・
恐怖を振り払おうと頭をぶんぶん振る加賀壬。だが、一振りだけでフレアの重さで首がもげそうになってやめた。ああ、慣性って本当にあるんだ。一つ、利口になったな。
ついさっき同じ事をした自分の学習能力の無さに気づきもせず、加賀壬はその道へと足を踏み出した。四階から直接地上に降りる棟外の非常階段に。
高所恐怖症。加賀壬はその言葉はかっこ悪いと思ってはいたがあまり気にしていなかった。普段では、である。しかし、今は気にならないはずがない。足の下に空間がある。それが分かってしまっただけでも身がすくむ思いなのに、壁は校舎の壁一枚。つまり三方にも空間がある。六方向のうち、固定体、ソリッド体は一方のみ。そうなればそこに足を付けたいところだが、セミでもない哀れな人間にその真似はできない。
ああ、せめてこれが宇宙船だったらなぁ。磁石の付いた靴でぺたぺた壁を歩けるのに・・・
そんな事を考えながら歩く加賀壬は、その宇宙船こそ、周囲全体が空間であることに気が付いていないようだ。いつか本当にそれに乗ったら、愚かな想像の結末を知ることもあるだろうが、現時点ではその可能性は皆無である。
恐怖に足をひきつらせ、ついでに顔もひきつらせながら、手すりにしがみついて非常階段を降りる加賀壬。一歩一歩慎重に歩む姿は端から見ればへっぴりごしの滑稽そのものに見えるだろう。それも本人は気づいていないようだが。
と、その時だ。声が響いた。
加賀壬はぎょっとして足をすくませ、ぺたんと座り込んでしまった。お昼時、階段に腰を下ろしてパンをかじる生徒のようにぺたりと。スカートがめくりあがったのか、お尻にひやりとした鉄板を直に感じた。
その時また聞こえた。気合いのこもった叫び声。雄叫びといってもいい。
「山崎君!?」
その声の主に気づき、加賀壬は弾かれたように飛び出して数段を一気に降り、踊り場の手すりに飛びついた。眼下に中庭が広がる。少し左側に噴水を中心にした空間があり、そこで動きがあった。激しい動きが。
山崎がいた。佐伯も。二人は背中合わせに立ち、木立の中から迫りくる何か素早いものを相手に戦っていた。そのすぐ後ろに弓を引き絞る前原も見えた。
やっぱり! みんな最初の指示どおりに中庭の制圧に来てた! やっぱりみんな同じ事考えたんだ! 心が躍るのもつかの間、加賀壬の目はさらに身近、加賀壬にとっては足下にある光景を見て凍り付いた。
北村が寝かされている。頭上にある水銀灯に照らされたその表情は加賀壬の視力ではよく見えないが、真っ白だった。まるで置物のように。全く血の気がないように・・・そして昆がその前に立ちはだかるように両手を広げて・・・
「まりちゃん!」
手を伸ばし、駆け寄ろうとして自分のいる場所に気づくと、びくっと身をすくめ、あわてて手すりから離れた。恐怖に鷲掴みにされるのを感じ、咄嗟に目をつむりかけたが、再び聞こえた気合いに我に返った。
みんな戦っている。私も行かなきゃ、すぐに!
加賀壬は駆け下りようとしたが、強張った足がそれを許さない。初めの一歩で足がもつれて倒れ込み、踊り場に叩きつけられてしまった。足がすくんでいたのだ。まるで筋がつったかのように痛かった。ぶつけた膝も痛かったが、階段の端に正面衝突したおでこの衝撃が一番きつかった。眼鏡が割れるかと思うほどの衝突だった。だが、彼女の心は痛みよりももっとつらいものに捕らえられていた。失意である。
どうして、どうして私、こんなに役立たずなの!
外的苦痛よりも内的苦痛に苦悶の表情を浮かべだ彼女は泣きたくなった。目の回りに熱いものがこみ上げてくるのが分かる。周囲がゆがんで見える・・・
え?
歪む視界に写った異様なもの。
加賀壬は肘で体重を支えながら左手で眼鏡を外し、右手でごしごしと目をこすった。その後でまた眼鏡をしっかりと掛け、もう一度今見たものを確かめた。
それは・・
中庭の奥にある森のような木立。彼女のいる4階と3階の間の踊り場からだと少し下くらいにまで伸びている木々の梢。その上に、それはあった。
「うつぼ・・かずら?」
加賀壬の知識ではそう認識するしかないもの。茶色の斑の入った毒々しい緑の物体。加賀壬は踊り場の端にはいずって、手すりを支える細い鉄柱の間に顔を押しつけたが、眼鏡が歪んだので顔を横に向け、しっかりとその異様な姿を見た。
それは木々の間から身を乗り出しているように見えた。
でかい。もう、思いっきりバカみたいにでかい。笑っちゃうくらいに。
次の瞬間、山崎たちが立ち向かう方向の先にソレがあるのに気づき、全てを理解した。
あれだ。あのオードリー2というか、うつぼかずらというか、あいつが本体だ。
「恐怖! 食人植物の逆襲」
ふいにそんなタイトルが浮かんだ。いや、今はそんなことを考えている暇はない。そんなことより、観察だ!
あいつには「目」がない。魔法的存在にも見えない。およそセンスというもののかけらもないその姿が魔法生物という印象からは対局にいるように思えたのだ。だとするとセンサーはなに? 二酸化炭素? 臭い? その可能性を考えようとした時、佐伯が蛇の様な触手をはたき落とすのが見えた。触手。いや、違う。根だ。そうか、中庭中に張り巡らせた「根」で振動を感じ、攻撃しているんだ。
だとしたら。ここからなら。外周とはいえ、建物にいる私の振動はほとんど感知できないはず・・・
うん、間違いない。もし視認しているのなら、あいつ、とっくに私に気づいているもの。
加賀壬は身を隠す必要がないことを悟り、すっくと立ち上がった。手すりを掴み、その目は梢の上で揺らぐ「かづら」を見つめた。
距離。18メートル強。角度。俯角5度ちょい。風速。0!
よし、いける。直接照準は無理でも仰角を付けた弾道でなら届く距離だ。結界の中に風がないのは好都合! これなら!
スリングスタッフをぱちん、と開く。その表面は何かツヤ消しの塗料を吹き付けしてあるので、むき出しの鋼のように冷たい感触ではない。だが、かといって、もちろん暖かいはずもない。金属特有の冷たい感触を内部に秘めたこの感じ。
頼むよ、相棒!
目はかづらをしっかりと見据えながらそう心につぶやくと、手探りのまま一発の弾を、というか「玉」を取り出た。冷たく、そしてずしりと重いこの感触。今まで汗まみれになり、腰がぎしぎしいうのを無理して持ってきた甲斐を見せる時だ。いよいよ初登場、秘密兵器の登場である。
加賀壬は梢の上で揺らぐ、かづらの中心を睨み付けた。そしてゴムを手に取ると遠距離を考慮した仰角を付けて素早く打ち込んだ。
ばしん!
強い衝撃。加賀壬は瞬時目をつむりそうになったが、堪えてその行方を見た。
しかし。
玉は呆気なくかづらの下方、木々の間に消えていった。
はずれ!
がーん・・・・
期待。これまでの苦労。それが大きかっただけに、「はずれ」の衝撃も大きかった。
ああ、だめだ、また私空回りしちゃった・・ああ、どうしよう・・
ぱにくる加賀壬の心。一気に様々な感情がわき上がり、様々な言葉が頭をかすめる。外した。あんなに下の方に・・・
その中で。一つの声がかすかに聞こえた。
上下のズレは・・・・だよ。
はっとする加賀壬。今の声。えっと、今のは・・・
わき上がっている様々な感情を抑え、もう一度さっきの声の印象を捕らえようとする加賀壬。その途端、まるで波うつ海面から飛び上がるイルカの様に、その声がはっきりと蘇った。
<上下のズレは気にするな。距離の問題だよ。だけど左右はダメ! 余計な力が入ってる証拠だよ>
加賀壬はその言葉を聞いた時を思い出していた。倉知の声だ。目をつむった加賀壬には両手を腰に当てて偉そうに立つ、怖い先輩の姿が浮かんだ。そうだ、あれはまだ実射を初めて間もない頃。的の足下に着弾しちゃった時だ。
<上下のズレは初弾じゃしょうがない。あんたにゃ距離を読むのはまだ無理だ。次弾で着点修正するんだよ。ただ左右のズレは絶対ダメだからね! まっすぐ飛んでない証拠だ>
先輩。大丈夫です。まっすぐ飛びました。でも落ちちゃいましたけど。
<ホームランしちゃったら下げればいい。ショートなら上げればいい、狙点をね。それでもダメなら柄を持つ場所を半こぶしだけ上げ下げして握り直すんだよ>
「はい、先輩!」
加賀壬は次弾を手にした。ずれた距離はずいぶんあった。玉の重さは練習の時と変わっていない。なら、変わっているのは自分のフォーム、あるいは筋力だろう。ここまでの疲労が大きく影響しているのかもしれない。加賀壬は距離から出した狙点をさらに調節した。かづらの頭(?)一つ分上に。何もない空間にもう一匹かづらがいるかのように想像してみた。倉知の声を思い出しながら。そして彼女の手拍子を思い出しながら。
<音を良く聞く。自分にリズムをしみ込ませる。頭の中で浮かべてみな、動作を。
いい、視点を外に置きな。自分を見るんだ。音に合わせて繰り返し繰り返し動く自分を>
軸足の向きを確認してから目をつむる。音に集中して。眼下の喧噪が気になるが、それを敢えて無視し、聞こえてくる手拍子に意識を集中させた。じっと身動きもせずに。じっと・・・
と。
その手拍子が聞こえているのではなく、振動しているようかのように感じ始めた。ぱん・・・ぱん・・・ぱん・・・。
規則正しいその音。
そうか・・・
加賀壬は集中している心のどこかで気が付いた。
これって、あたしの心臓の音だ・・・
とくん・・・とくん・・・とくん・・・・・
それを理解したとき、もう手拍子は加賀壬の全身に行き渡っていた。すっと目を開き、虚空のかづらに狙いをつける。左腕を下げ、右手を後ろに引き、そして放った。
ひゅん!
短い風音。
次の瞬間、加賀壬が想像した虚空のかづらはたちどころに消え失せ、その下にあった本体のど真ん中に大きな衝撃が走った。加賀壬はその威力に唖然としてしまった。貫通したのだ。加賀壬の頭程の大きさで穴を開けて。
げっ、あれって、紙? はりぼて?
そんな考えはさらに次の瞬間に消え失せた。あたりを揺らがせるように衝撃が、中庭全体に走ったのだ。
ふしゅうぅぅぅぅううう!
何かすさまじい風音が響いたかと思うと、あたり一面で木がなぎ倒された。階段にいる加賀壬にすらその衝撃は大きく、手すりがさければ間違いなく虚空に放り出されていただろう。
その衝撃は地上にいた佐伯たちにはM7クラスの直下型地震同然だった。加賀壬が必死で手すりにつかまったその真下で、仲間たちはなぎ倒され、噴水に大きな亀裂が走った。
轟音。
佐伯たちには何が起きたのかも分からなかったが、加賀壬の目だけはそれを見ていた。
中庭全部の地表が盛り上がるかのように蠢き、よじれ、地面から無数のみみずのような物が飛び出してはねじくれてゆくのを。
「根?」
加賀壬は恐怖を飛び越え、驚愕した。かづらは、あの笑っちゃうほど大きなうつぼかづらは中庭そのものだったのだ。
氷山の一角。
ふと加賀壬はその例えを思い出した。だが、そんな思いも束の間、彼女はさらに大きな衝撃で弾け飛ばされそうになった。建物の土台をからめるように伸びていた太い根が地面を割って持ち上がった瞬間、非常階段の下半分程があめ細工のようにねじくれ、歪んだのだ。
地面に背中から叩きつられた山崎の目に、今まで対峙していた敵の本体が写った。引き裂かれるように飛び散った大木の頭上で、強大な何かが暴れていた。そして数え切れないほどの触手が地上と言わず、空中と言わず、全方位で蠢くのを山崎は見た。
そのそばで。前原は見た。彼女を。下からひしゃげてゆく非常階段。そこから投げ出されようとしているその姿を。
「加賀壬宏子ぉぉ!」
辺りを引き裂く轟音の中、前原の声はかき消される。だが、かまわず前原は叫び続けた。加賀壬の名を。飛び散る土や木っ端が顔を叩くのも気づかずに。
「加賀壬宏子おぉ・・・!」
つづく
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