Von:秋澤 弘
その四 ユミの場合
ユミは自分の名前に誇りをもっていた。国内有数の呪者の家系、美咲家の現当主、美咲ユミ。彼女は「見前由見」という意味を持つ自分の名に、見合う人生を送ろうと常日頃心に任じてきた。その名は時に巨大な壁となり彼女に重くのしかかったが、常に誇りを持ち、それを切り抜けてきたのである。もちろん、それは先祖伝来の一族の結集あってこそだった。その頂点にいるユミは自分の地位が下位の者に支えられていることを知っており、それ故、あくまで自分をさらに高くしようと精進していたのである。
気の早い一番鶏が鳴いた時。ユミはすでに半ば眠りから覚めていた。彼女程の術者ともなれば自分の睡眠を操るなど意識することでもなかったから。
ユミは着替えるといつもどおりに物見やぐらに登った。戦争中に使用されたのを最後に、その本来の役目は終え、今は当主の朝の視察という新たなる役目を任じられていた。途中の踊り場に置かれている、丁寧に手入れはされているが、古ぼけた小さな半鐘が昔の名残を留めてはいたが。
ユミは梯子の代わりに付けられた階段をゆっくりと上り、まずは屋敷の背後に聳える山を見た。その変わらぬ姿を確認してから屋敷を、そして街を見た。この国にいつもどおりの朝が訪れようとしていた。美咲家が室町時代から守っているこの国に。
美咲家。この書き方は仮初めのもの。本来は見前(みさき)家と書く。今ある姿だけではなく、「前」、つまりそこに至るまでの経緯を「見る」者の一族という意味だ。江戸時代のある事件以来この表記になったが、今でもその意味は変わってはいない。見前家はかつて朝廷に仕えた呪術師の一族、御崎一党の傍流として産まれた。本来御崎一党は朝敵から呪術で都を守る任を帯びていたが、仏教伝播以来、占いをその本業に移していった。表向きには、である。実際には朝敵を呪術で滅するという危ない仕事も受けていたようだが、それが成功したのかどうかは記録にはない。
どうせ女御たちの鬱憤晴らしに、ときめきたもう者をターゲットに術の一つもかけるだけで法外な富を得ていたに違いない。呪術で人を殺すことの困難さを知っているユミはそう思っていたが。
後に権力者の交代に合わせ、将軍家に近づいていった本家、御崎一党に対し、基本的に政ごとのような大きなものよりも、器物や場所などの「前」を読み占うことを主とするため中立を守ったのが見前の一族だった。権力者の望むのは今と明日。「見前」の技はどちらかというと政治よりも文化に似合っていた。そのため朝廷からも、そして将軍家からも依頼さえあれば占いをしていたらしい。といっても見るものは茶腕だったり壺だったりという「宝物」が本物かどうかを調べるという、今なら骨董品屋の店主が得意とするようなものだったようだ。
戦国時代になってのんびりと贅をこらす余裕が無くなった頃、見前の技は軍事に利用されるようになった。地の利、時の利を知るための貴重な情報源であったからだ。特に城を建てる際、見前の術法は土地探しに、そして緊急時の水源探しに引く手あまたであった。茶の湯に向く美しい湧き水を探す見前の技が、難攻不落の築城のために戦争の道具として利用されるようになった。曲がった棒を持って歩く、ダウジング師とやらのお仲間。ユミはそう思っていた。
この戦国時代も末期に至り、見前一族は大きな変化を強いられる。未だ都に固執していた本家、御崎一党は都を守るべく土地の守護者と組み、都を目指して登ってくる「不埒者」を術殺するという任を受けていた。成功したかどうかは知らぬが、それはやがて戦国の覇者たちの耳に知れ、哀れにも御崎の屋敷は一夜にして灰塵と化した。一族の長以下、主だった者たちは皆、河原にその首をさらしながら御崎一党の最期を見届けることになった。
御崎は滅亡した。しかし、その家に仕えていた術師たち、特に本当に力のある術者たちは難を逃れた。彼らは危機を読みとった見前の時の当主、「弓」が放った「言霊の八方矢」で急変を知り、身を潜めていたのである。御崎一党の本家に、弓の放った言葉を読みとれるだけの術者が一人でもいれば一族郎党揃って助かったかもしれないが、皮肉なことに権力者に近づく技以外、本家のお偉いさんたちは本来の技を忘れて久しかったようだ。ユミの御崎一党に対する考察は辛辣だ。
生き残った者たちは当然のごとく弓の元に集っていった。「由見」の力は過去を見るだけではない。その流れそのものを見るのである。その力にこそ、仕えるべき新たなる光明を見いだした術者たちはこぞって見前家の配下になった。弓はその鋭い眼光が、矢を放つ寸前の弓のように緊迫した気を発していたのでそう呼ばれたと伝えられている。さらに妖しの棲む異界だけでなく、その奥にある三界、四界、そして五界までも見て取ったという。だが、それよりもこの世界、現界をこそ良く見る人だったのだろう。同じ音の名を継ぐ現当主ユミはそう思っていた。
事実、弓の下で術者たちは新たな使命を受け、それを着実に全うしていった。世の乱れに乗じ異界から現れる妖しが通る「門」、つまりゲートを見いだし、それをつぶすという仕事を。これこそが見前一族の真の家業であった。門には異界との壁が薄れるという現象が必ず発生する。理(ことわり)が乱れるのだ。弓とその後継者たちは前を見るという力でそのおおよその場所を知り、配下の術者をそこに送り込んで妖しから現界を守り続けた。関東守護職たる上杉家からも依頼があったと一族の記録には記されているが事実は分かったものではない。一族を誇りに思いながらも、まず総てを疑ってかかるユミはそう思っていた。もちろん口にしたことは一度もないが。
やがて世が安定し、刀と刀で切り結ぶよりも人の心と心が切り結ぶようになると、見前一族は諸大名といった権力者たちから闇狩りの依頼を受けるようになった。戦乱の傷の残る現世では様々な異形のものが跋扈していたのである。それに乗じ、己の利を得ようとする者は後を絶たなかった。そのため、妖しの付け入る隙はどこにでもあった。見前の技と御崎の技は目と腕として日毎に経験を身につけ着実に妖しを消し去っていった。さらに天下太平の時代を迎えはしたが、常にどこかで妖しの進入、あるいはごく一部であったが、人間が力を求め異界に入るという事件は続いた。
見前の者たちは別に妖しに恨みがあるわけではない。ただ、理(ことわり)を乱すことを根絶やしにする方法として門を封印し、それを邪魔するものを滅し続けてきただけである。そのため、自ら異界に向かおうという愚かな人間も見前の敵であった。一方、力を欲する為政者によって現界に引きずり込まれ、封印によって無理矢理力を吸い取られていた妖しを救出し、異界へと無事に返してやることもまた見前の仕事であった。人と妖し。それぞれが己の領域で満足すること。それが理である。
元禄時代。再び見前家は大きな転機を迎える。
それまでのものとは比べものにならぬ程、大きなうねりが現界を襲おうとしていた。戦国時代、歴戦のつわものを有していた軍もなく、人々の心自体に危機感の薄れた時、それは突然現れた。美咲家の記録では「闇のもの」とされている大いなる侵入者は妖しの棲む異界のさらに奥、三界から直接門を開いて現界に来た。一つの世界をまるごと飛び越えて現れるもの。その強大な力に、時の権力者が放った軍も術者もことごとく屍をさらした。この時、見前家の当主は「由深」。もちろん「ゆみ」と読む。深いという字とは反し、皮肉にも彼女は歴代の当主の中でも最も「由見」の力が薄かったことで知られている。だが、同時に最も戦略家であったことでも。
将軍家から内々で事の収束を依頼された由深はさまざまな知略を巡らし、闇のもの討伐の総指揮官に収まった。もののふ、僧、神官、修験者、陰陽道師、そして数は少ないが諸大名から派遣された肝が座った名だたる侍たち。およそそれまでの常識では考えられない混成軍であったが、由深の手腕はそれを成し遂げたのである。そしてその指揮官に収まるにあたり、かねてより見前家を快く思っていなかった者たちの手前、自ら美咲家と改名し、あらゆる力の結束を目指した。現界を美しく咲かせるの意である。このままでは散ってしまう。その危機感を煽るための命名であろうとユミは思っていた。
こうして国最大の混成軍を仮初めにも組み上げながら、一方で由深は一族の中で由見の力のある者を集め、索敵に余念がなかった。だが、どんな手法をもってしても、その門は見いだせなかった。これほど強大なものが現れる以上、場の歪みはとてつもなく強いはずだ。ところが、一族の調査にも関わらず、どこにもその痕跡はなかった。
由深自身は護符の力がなければ異界を見るのが精一杯だったらしい。その代わりであろうか、この時美咲家には、微力ながら由見の力を持つ者が非常にたくさん存在していた。一方で彼らは特に「器物よせ」つまり「力」を一時的ながらモノに遷し込む能力に秀でていたのである。こうしてこの時期、かつてなかった程由見の力を仮初めの器に宿すための術法、霊器の開発が進んだ。そのため、術力さえあれば、本来見る力のないものにも、鈴の共鳴とか、札の揺れ方とかで理(ことわり)の「ゆらぎ」を知らせる技が出来ていった。
他家の力ある術者や将軍家の間者たちにその器を与え、美咲家は物量作戦ともいえる門の調査活動を開始した。一時はその人数、実に千人にも及んだという。そして四年後ついに「闇のもの」の門を見いだした。発見された時、美咲家のだれもが唖然として言葉もなかったという。いにしえの古墳の眠る山。その大きな山そのものがゲートだったのだ。空間の歪みもここまで大きくては緩やかすぎて、どんなに力のある術者でも見つけられるものではなかった。由深の徹底的な絨毯爆撃とでもいえる調査の末、複数の者が残した記録に不統一が発見され、そこからかろうじて見いだせたのである。
発見がなされた以上、後は封印である。由深の軍構成の采配は見事であった。敵もこの四年、十分に準備をしていると踏んだ彼女は軍を平地戦軍、森林戦軍、古墳戦軍に分けた。平地戦軍は敵の各個包囲殲滅を目指し、近隣の諸大名の軍勢も借り出した。もののふたちを中心に東西南北四軍を編成し数で勝負。森林戦軍は僧兵や修験者、そして将軍家御用達忍者による腕・術両用の少人数多部隊編成。そして古墳戦軍には対幽体戦を想定し、切り札ともいえる美咲家に連なる術者、古神道の巫女や神官、陰陽道師に僧といった術戦部隊を組んだ。
こうして長雨のあがった六月初頭、夜襲をかけ、ついに決戦が始まった。
緒戦は突入した森林戦軍が敵を引きつけ、平地に誘い出して各個撃破という作戦で成功を収めたかのように見えた。だが、魔性の操る死霊の軍勢が大挙して現れ、闇に慣れぬ上に指揮系統がばらばらの平地戦軍が混乱のるつぼに放り込まれ、瞬く間に形勢は逆転。かろうじて術と刀の双方を有する森林戦軍が拠点を守るのみという状況に陥った。しかし、これこそ由深の狙いだったのである。秘密裏に平地戦部隊に混ざっていた美咲家の一党たちが、合図のほら貝に答え、たいまつに鏡を結んでその前に玉をくくりつけたような杖を天にかざした。その時美咲家の秘術、深光灯が一斉に放たれた。周囲を鏡で覆い、昼は太陽の光を浴びせ、夜は鏡を閉じて夜闇から封印されていた深紅の玉。四年の間込められた陽光が一斉に周囲を照らす。そして時を同じくして美咲家の長老たちが呪を唱えながら二つに割った鏡を元に合わせる。奥義「幻円鏡」。一党が掲げる親指程の大きさの鏡は元々大きな鏡を割った破片。今、長老たちの命を賭けた奥義によって、総ての破片がそれぞれの本来の姿に戻り、光を反射する。その様を映し出した他の鏡がその中から幻の鏡を生み出す。さらにそれらが一つにまとまり、その様を映した鏡がまた幻を生み続け・・・。
そして、天をも覆わんばかりの鏡の幻が完成した。その中心にまばゆいばかりの幻光を発しながら。
「幻円鏡」はほんの数分しか持たなかったらしい。長老たちの命の灯火そのものだった天の鏡は彼らの寿命を吸い尽くすと共に燃え尽きてしまった。しかし、それまでに合戦の勝敗は決まっていた。陽光を浴び、闇のものの軍勢はそのほとんどが焼失していたのだ。数による各個撃破とは見せかけ。夜の闇に安堵し、一気に勝負をかけんとする敵の軍勢を、木陰のない平地におびき出す囮だったのだ。鏡は消滅しても、深光灯はそのまま一晩中光り続け、かろうじて存在を保った死霊たちを囲んでその闇の力を相殺し続けた。かくして平地軍は再び士気と秩序、そして数による優位を取り戻した。そしてその間に森林戦軍に紛れて最初から突入し終えていた古墳戦軍は、森林戦軍が命を盾に守った拠点から出撃、手にする幻光の松明を煌々と照らしながら、門の中心部、地下の古墳に突入した。
だが、さすがに闇のものの配下は強敵だった。防衛に残っていたのは少数ではあったが、魔性レベルの術力の持ち主ばかり。人の術者たちは己の命を削って術を練り上げるが、闇の結界の中にいる魔性たちは瞬く間に回復してしまう。その上、奴等には光は動きを鈍らせる程度の効果しかない。ついに追いつめられる突入部隊。魔性たちが周囲を囲む。だが、その時、闇の結界が破壊された。突入部隊、古墳戦軍もまた、囮だったのだ。彼らの後を追うようにひっそりと進入した真の部隊、由深自身の率いる切り込み隊は古墳戦軍が掲げる幻光の影に紛れて散会し、時を待っていたのだ。光を通していたため、魔性たちにはその向こうの闇は見えなかった。光の壁に遮られていたのである。そしてお山から派遣された高僧たちが結界を張り、気配すら消して魔性が一点に、囮たる古墳戦軍に集中するのを待った。そして一気に門の脇に駆けつけ、巫女の清めの術法によって結界を成す呪界を破壊したのである。力の源を失った魔性は混乱した。古墳戦軍は士気を盛り返し、魔性に挑んだ。
その間にも切り込み隊は門の中、現界と三界の間、妖しの棲む二界のすぐ外に作られた仮想空間に突入していった。
ここの敵は総て闇のものたちであった。円陣を組んだ一騎当千の侍達が盾になりながら、そして守られた術者たちも術を放ちながら駆け続ける。目指すは闇の王。しかし、その王の配下はまるでわき出るかのごとく現れた。なにしろ、この空間の向こう側は敵の世界、三界である。その数は無限ともいえよう。
この戦さは絶望的にも見えた。せめて一矢報いて死のうという特攻のように王には見えていたであろう。侍はそれぞれに美咲家が四年の間術を込めて練り続けた護符を胸に、そして神官たちが息吹を込め続けた霊刀を手に果敢に戦った。由深が自ら選び抜いた九名の術者もいずれ手練れの者ばかりであった。彼らの奮闘で、ついに闇の王の玉座とも言える深淵に到着したのである。
この時、すでに切り込み隊は半数を割っていた。王は配下の者を下がらせ、自らが漆黒の剣を抜き、ゆっくりと歩み寄ってきた。ここまで来た者へ、王なりの礼を示したのか。あるいは血の臭いに誘われ自らその中に踏み込みたかったのか。それは誰にも分からない。その姿は神々しい程の威圧感であり、かつ心底の恐怖を呼び覚ますに十分なものであった。しかし切り込み隊の者たちはかろうじて踏みとどまった。彼らのみには由深が総てを告げていたのだ。彼女にはまだ奥の手がある。本当に最後の切り札が。それを知っていた彼らはその希望にすがって耐え抜いた。
闇の王が彼らの目の前で立ち止まり、その剣を振り上げた時、由深は懐の壺を取り出し、王の足下に投げつけた。すかさず、侍たちの主格たる大男が飛び出す。代々伊達家に仕えていたこの剣の達人は、陰陽呪符を巻き付けた太刀でそれを叩き割った。
飛び散る壺の破片の数だけ、力を逆転させる呪符が引き裂かれ破片に飛びつく。破片が広がって出来た即席の結界内で空間が一瞬にして歪み、いきなり門が現れた。そして、そこから今か今かとしびれを切らしていた妖しの軍勢が鬨の声を上げ一斉に飛び出して来たのである。
これが由深の奥の手であった。三界のものに現界を占領されたなら、次は二界が挟撃を受けるのは必至である。妖しも知性を持つ以上、闇のものに恐怖しているはずだ。そう信じた由深は自ら禁を犯して異界に入り、一時的とはいえ妖し達と同盟を結んだのだ。そして本来、歪んだ空間を封印するために使用する夢幻の壺の力を呪付で逆転し、ここに門を作ったのである。その門はごく一時的なものだった。しかし、この空間自体が二界に肉薄していた以上、短時間とはいえ、十分な数の妖しを呼び込んだ。飛び退いて下がりながらも驚愕に目を見張る闇の王。現れた妖し達が王の配下に突撃して行った刹那、由深たちも鬨の声を上げ王に最後の勝負を挑んだ。
戦いが終わり、静まり返る山の麓に集った遠征軍の生存者総てを前にして、由深は自らの喉を小柄で貫き、禁を犯し、味方を欺いた罪を購った。この後、美咲家はこの山を領地とし、未来永劫、その地下にある「門」を封じ続けることになった。こうして一時ではあったが初めて歴史の表舞台に出た美咲家は、この戦いの記録が消されると共にまた歴史から消えていったのである。永い永い歳月の間。術者のみが知る名として。
毎朝、雪の日でも嵐の日でも、ユミは山を見つめてきた。ここに現界最大級の門がある以上、このあたりに歪みが生じているのは押さえようがない。いつかはこの門の封印が破られるかもしれぬ。「ゆみ」たち、美咲家の当主はその時に備え、術者を鍛え続けてきた。だが今、あの時のように主君のため命をも投げ出す侍はいない。刀ならば術で強化できるが、鉛玉はそれが鉛である以上、術を込めることは不可能だった。しろがねの玉でも大量に用意せぬ限り、軍隊では闇のものに対抗できない。今、美咲家にはもう切り札などなかった。あの時でさえ、禁忌を犯してやっと封印したこの門。今ひとたび開いたのならば、その時・・・
ユミは街を見た。彼女の目には街からけがれが薄い煙のようにたなびいているのが見える。既に人の界は汚れてる。しかし。それでもユミは街を愛していた。街に住む人々が懸命に生きようとしているのを知っていたから。彼女は覚えていた。忘れられるはずもない。幼かったあの夜、銀色の無数の機体が落とす爆撃で燃え上がったこの町を。黒々とした煙に覆われた町を。アメリカにも美咲と目的を同じくする術者や宗教家たちがいる。彼等がペンタゴンに働きかけた結果、今だ不安定なゲート、つまり美咲の屋敷は意図的に爆撃対象から外されていた。それ故、人々はこの屋敷の側に集ってその夜を過ごした。それから。
人々は街を立て直した。物と者の燃えかすからただよう煙に覆われていた町に、自炊の煙が上るようになったかと思うと、瞬く間に人々は町を、いや、街を築いていった。彼女はその力強い人々を尊敬していたのである。
今、新たなる煙が街を覆おうとしている。それは現界と異界との両方に流れているように彼女の目には見えた。ユミは重伝の霊器の助けを借りればさらに奥の三界も見て取れる。しかし、真由美はさらにその奥を・・・。なんの助けも借りずに五界までも見る真由美。いや五界どころか、しかるべき霊器をしかるべき場で用いれば、一体どこまで見ることが出来るのか誰にも分からない。もちろん真由美自身にも。
自分が真由美を産んだのはいかなる必然からか。そしてあの子の見るこれらの界はどのように重なっているのであろうか。きれいに並んでいるはずもない。ある場所では三界でも、この山の地下では二界よりも近くにある。混沌の中にあるのか、あるいは術法によって並べ方を変えられるのであろうか。この現界を中心に外側に並んで行くという見方が一番理にかなっているようにも思えるが、現界が多界の中心のように特殊なはずはない。ならばこの現界もその中に別界を内包しているのであろうか?
ユミは汚れた街を眺めながら、多界の有様に思いを巡らしていた。
いつもより永くなった朝の視察を終えると、もう朝食の時間になっていたのでユミはそのまま食堂に向かった。昭和初期に改装されたこの一角は洋風のパーティも可能なように設計されていたが、普段は畳を敷き、大きな広間のようになっている。しかしながら入り口には「食堂」という古い札がかかっているので、ユミもずっとそう呼び慣わしていた。
扉はいつも開いている。誰であれ、屋敷に住む者、そして客人はここでティーサービスを受けられるようになっていた。
しかし、毎日、朝のこの時間だけはここを通る者はごく一部だ。由美、真由美、美由美、そしてユミ自身である。
すでにユミの初孫である由美が奥の間で待っていた。挨拶を交わす祖母と孫。
由美の母、和嘉子は美咲家当主、ユミの長女として生まれた。生まれながらに病弱だった彼女は美咲の力を全く有してはいなかった。退魔師としての「血」が現れなかったのである。次に生まれた次女美紀子も同様に力を持たなかった。彼女の場合、それは和嘉子以上だった。一般の人でも少しは持つはずの術力の源そのものが完全に欠けていたのだ。美紀子が生まれてすぐに当主の夫君が亡くなった。こうして端から見れば、室町時代から続く美咲本家の真の意味での血筋は絶えたかのように見えた。だがユミは動じなかった。ユミだけではない、親族の主だった者も、次代についてなんの不安も感じていなかった。なぜなら、長女和嘉子には眠っている力があるのがはっきりと見て取れたからである。
今なら美咲家のDNAを色濃く有する、とでも言うのであろうか。当時は「血が眠っている」。そう表現した。和嘉子の娘は必ず次代の担い手になる。ユミはそう信じて疑わなかった。そう信じていたからこそ、手腕の総てを費やし、同じく強力な眠れる血を有する親族の男を婿養子に迎えたのだ。男は一族の末席に家名を連ねる者だった。しかし、女系家族である美咲家にとっては「夫君」に過ぎぬ。時代の変化に沿い、有力な力を有する、他の呪術者一族から選ぶべきではと言う反対意見を押し切り、ユミは二人を結婚させた。
和嘉子は祝言の日に初めて自分の夫となる男を見た。それまでに二回手紙をやりとりはしていたが、その目で見たのは初めてだった。母の決めたこの結婚に何の疑問も抱かず、素直に祝言の日を迎えたのである。自分には美咲の血が目覚めなかった。そんな自分に出来ることは、新たなる当主を五体満足に身ごもることだ。彼女はそう信じていた。立場こそ違え、似たような境遇で育った夫君もそう信じていた。生まれる娘の能力を育てることは自分たちにはできない。だが、それならせめて親として娘を愛していこう。それが自分たちの生まれた意義だ。若い夫婦は心を一つにして娘を待った。授かった娘の命名式。「由美」と書かれた紙を前にして、その夜二人は号泣した。嬉しかった。生まれて初めて美咲家のためになったのだ。
しかし、事実は冷酷だった。
由美に「由見」の力がないと知れたのは生まれてすぐだった。自分の後継者として、そして初孫として目を細めて赤ん坊を抱いていたユミがまずそれに気づいてしまった。偶然目の前をよぎった長老の使い魔に、赤子はなんの反応も示さなかったのである。ユミは驚愕に身を震わしながらもその認めたくない事実を無理矢理飲み込んだ。
「この子は見えん」
それだけ言うと、側にいた和嘉子に孫を渡し、広間に向かった。孫を思わず投げだしそうになった事がユミの心を揺さぶっていた。事実を知った瞬間、あれほど愛しいと思っていた孫が重石のように思えたのだ。投げ捨てなかったのは病弱な体に鞭打って、その子を産んだ自分の娘へのせめてもの親心だった。だが、娘が生んだのは次期当主はおろか美咲の術者ですらない。すでにそう認識していたのも事実である。ユミは広間に着くと一族の主だった者に召集をかけた。三日後、親族で知らぬ者はいなかった。由美の目は見えないと。
物理的に見えないわけではない。その時赤子は目も開いてさえいなかったが、今はちゃんと見えてはいる。しかし、妖しの棲む場、異界を垣間見る力が全く欠けていたのである。美咲家の力を継ぐ者として「見鬼」の力に欠けることは致命的であった。それがあってこその「見前」家なのだから。その力あってこそ、他家からも別格視され続けているのだから。ユミは一族を前に命名の撤回を宣言した。あんなものに「由見」の称号を与えるわけにはいかなかった。
その夜。ユミは泣いた。泣き続けた。夜明けが近くなった時、彼女は自分が今なすべきことを悟り、夜着を羽織るとまだ暗い中をそっと娘の寝所に向かって歩いていた。一族の前では彼女は「美咲ユミ」であった。美咲ユミであり続けねばならなかったのだ。朝日が差した時。彼女は美咲家当主として立派にこの危機を乗り越える算段をせねばならない。まだ夜の翼がうっすらと残る今しかないのだ。母として娘に声を掛けてあげられるのは。
美咲家を出るしかない。そうしないと、初孫は期待が大きかった分、哀れな一生を過ごすしかなくなってしまうだろう。自分があの時感じたように、孫は美咲家とは無関係な存在だとみなが思うはずだから。幸い財産はある。世に出て普通の生活を始めるならなんとかなるだろう。夫婦仲も悪くない。美咲家を出る。それ以外、哀れな娘に道はないのだ。
ユミは母として娘に別れを告げに行くため、廊下を歩んだ。
だが、娘の寝所は空だった。夫君も孫の姿もなかった。
和嘉子はすでにユミと同じ結論に達していたのだ。総てを家に捧げるつもりだった若夫婦には、事態はあまりに過酷すぎた。そして手のひらを返すような母の仕打ちも。
置き手紙があった。
「あなたの孫でなくなったとしても、由美は私たちの娘です」
ユミは全身から力が抜けて行くのを感じた。修行によって培ってきた術力が大気と大地に帰ってゆくのを感じた。
「由美」の文字を見て。
命名の撤回を自分が宣言したことで、この問題は解決したと思っていた。しかし、夫婦は生まれて初めて当主の命に逆らったのだ。
あの赤子と自分が同じ名。そう認識した途端、彼女が幼い頃から修行で集めてきた術力が薄まった。言霊が汚されたと認識してしまったのだ。自分のその判断に、なんということを、と思った時には遅かった。
こうして長年にわたり美咲家を支配していたユミは一夜にして年老いた。
あの世間知らずの若夫婦にここまでの思い切った行為ができるはずはない。ましてや出産後の母に赤子を連れて出ていったのだ。屋敷を出た後の足跡を全く残さずに消えることなどありうることではい。美咲家が総力を挙げても三人の行方が掴めない以上、必ず協力者がいるはずである。一族の会議ではそう結論がなされた。当然疑われたのは夫君の家である。しかし、大騒ぎの家捜しや一族の目となっている探偵を雇っての捜索にも関わらず、三人の逃亡を助けた形跡はなかった。
仕方なく、一族は正規の手順を踏み、孫の名前を改名すべく役所に働きかけた。しかし、あまりに騒ぎすぎたため、新聞が動き出したこともあり結局一ケ月を待たずして手詰まりとなった。
実は逃亡を助けたのは次女の美紀子夫婦だった。一族からなんの期待も寄せられていなかった彼女は、旧家の娘にしては比較的自由に育ち、自由に恋愛し、自由に決めた相手を婿にして美咲家に迎えていた。夫の一族は美咲家と旧知の仲だし、戦争中は家長がこの地の連隊長を務め、現在でも政治家を何人も出しているという名門だ。本条総本家が戦争中に当地に疎開してくるまでは疑いなくこの地での最有力者だった。「血」にこだわる必要のなかった美紀子は、家柄では申し分ないという理由で他家との結婚を許されていたのである。
美紀子は自分とは正反対に「家」に仕えているような姉夫婦の生き方に否定的だった。と同時にそういう姉がいるからこそ、自分たちが幸せに暮らしているという後ろめたい気持ちもあった。だからこそ、家を出ると泣きながら飛び込んできた姉に、心からの涙を流したのだった。
義父が警察や外務省に影響力を持っているのも幸いし、美紀子夫妻は姉たちをすぐさまジャカルタ行きの飛行機に乗せることができた。外交官特権まで付けてである。さらにユミとは常日頃意見をぶつけていた大叔母に相談を持ちかけ、ユミには秘密裏に一族の主立った面々に内々の受諾をとりつけることまでやってのけた。ユミの術力が目に見えて薄れた今、最後の希望はあの赤子、由美だけである。赤子本人に見鬼の力はない。よって美咲の術者ではない。しかし、生まれた時から膨大な術力を有していることは誰の目にも明らかだった。だからこそ、疑いもなく長を意味する「由美」の名をつけたのだ。となれば、由美の娘こそ、真に「由見」たりえるやもしれぬ。そう信じる以外にはなかった。それ以外、一族に希望の灯火はないのだ。
その事実を折を見て当主に認識させよう。それまでは波風立てぬ方がよい。一族はそう結論したのだ。だがその時、既にユミが違う結論に達していたとは誰も気づかなかったが。
結局一年程で和嘉子夫婦は由美を連れて美咲家の敷居をまたいだ。新たなる次期当主が誕生したからだった。ユミが電撃再婚と高齢出産という離れ業を立て続けにやってのけ、三女が産まれていたのだ。
再会した母はやつれていた。和嘉子の記憶にあった、恐ろしいまでに気高かったその姿は、小さく、細くなっていた。だが、その声には再び自信と術力がみちみちていたのである。
「この子が次期当主になる。名は真由美と付けた。お前の娘と力を合わせ、美咲を栄えさせることになろう」
母は手慣れた手付きであやしながら赤子を見せた。歳の離れた妹を母と一緒にあやしながら和嘉子は微笑んだ。
食堂で座っていた由美にあの時の和嘉子の面影を見ていたユミは密かにため息をついた。昔を懐かしむなど、まるで老人ではないか。確かに歳はとったが、ユミには当主としての責任がある。常に心を平静に保たねばならない。そうしないと感情によって「由」の読みを違えてしまうかもしれないのだ。
ユミが上座に座ってからしばらくすると廊下からぱたぱた音がした。その軽い音は聞き違えようもない。ユミの三女、真由美である。音は入り口のすぐ側で止まった。しんとしている。ユミには、そして由美にも、扉の影で息を整えている真由美の姿がありありと浮かんだ。案の定、彼女はつとめてゆっくりと、しずしずと入ってきたらしい。さっきとはうって変わった足音が近づき、やがてその主が現れた。
「おはようございまぁす、おかぁさん。おはようございまぁす、由美ねぇさん」
ぺこりと、短い髪を揺らして真由美が頭を下げる。小柄な彼女は座っている由美とあまり頭部の高さが変わらない程だ。二人の挨拶を受けてから、真由美はちょこんと自分の場所に座った。
「あれ、まだみゆみ、来てないの?」
「ええ」
由美の返事を受けて、真由美の顔が輝いた。よかったぁ、ビリかと思ってた。助かっちゃったぁ。そんな声がはっきりと聞こえたような気がした。
「真由美さん」
「はい、おかぁさん」
「廊下は走らない」
そうすっぱりと言われ、真由美は眼を白黒させた。なんでぇ、どーしてわかっちゃうのかなぁ。すごぉい。今度はそんな声がしたような気がする。
由美は表情は崩さなかったが、笑っているのはすぐに分かる。ああ、どうしてこの賢い孫に由見の力がなく、このお間抜けな子にあるのだろう。しかもそのお間抜けは私の娘・・・。次期当主・・・。
美咲家現当主も表情こそ変えなかったが、悲痛な思いは隠せなかった。
やがて美由美がいつもながらに遅れてやってきて、全員が揃った。蒔が膳を持ってくる。いつもの朝食が始まった。
食事中は誰も会話をしない。美由美は何やら考え込みながら箸を運んでいた。まぁ、あの表情なら別段大した悩みではないようだ。食事を続けながらもユミはそう判断した。それよりもご飯に茶をかけてかきこむのは何とかしてほしい。美由美の母、美紀子のおおらかさにも困ったものだ。一方真由美は・・・。三女はうれしそうに、本当にうれしそうにご飯を食べている。いつもながら、その様は知性という領域以外のものに見えた。まぁ、いつもどうりなら良し。ユミはそう判断した。最後の由美は静かにいつもどうりの順番で食事を続けている。果たしてこの賢い孫娘は何を思いながら食事をしているのであろうか。今朝の彼女はなにかが違って見えた。どうという変化があるわけではないが、由見の力が、食事を続ける孫娘の中に、新しい何かが芽生えているのを見て取った。昨夜のうちに新しい精霊の組み合わせでも身につけたのであろうか。
食事が終わり、膳が片づけられ、四人はお茶を飲んでいた。
会話をしている由美の表情から、祖母ははっきりと認識した。この子には新しいなにかがある。
「今朝は何かうれしそうね」
そう切り出してみた。
「ええ。早起きしたものですから。今日は予定が変わったので、何もすることがないのです」
することがない? 由美は真由美と違う。暇を喜ばず、もてあましてしまうタイプのはずだ。その時、自分で浮かべた「暇」という言葉に何かひっかかるものを感じた祖母は今一つ突っこんでみることにした。
「そう。で今日は一体なにを?」
「はい。一日、時間を感じてみることにします」
そう言って由美は笑った。
一番敏感な真由美がいつもの態度である以上、由美の変化が悪質なものでないことは当主にも悟れたが、まさか、身につけた言霊の示す精霊が「時」とは・・・。
第七にして最大最後の大精霊。時。由美は既にそこまでに達していたのか。
時は理に内包されているとする美咲家の技では、その修行は難しかろう。真由美は他の精霊同様、自然にその存在を感じているようだが、由見の力では時に対して単独で接することはできない。あくまで変化の中にしか感じられないのだから。ユミは早急に京の筧家と連絡を取らねばと思った。八卦が主であるが傍系の「星見」の一族が綿々と己が技を守っているはずだ。星を読んで予兆を得る技だが、その中に「時見」の技もある。ユミには接点すら見いだせぬ領域であったが、この子ならば時見の技も糧として新たなる世界を開くであろう。幸い筧家には重鎮に身内が嫁いでいる。渡りを付けてもらうようすぐに書を送ろう。ユミはそう決意した。
「なにそれ? 時間って不明な領域なんじゃなかったっけ?」と美由美。それに答えて真由美が言った。
「そんなことないよぉ。見ようとして見えるものじゃないけどぉ、向こうから見せてくれる時もあるもん」
「そうね。今日はきっとそういう時なの。私にとって」と笑みながら由美が二人に語る。
祖母は茶器を持つ手を止め、由美の笑顔に見入った。ほんの数年前まで、この孫娘には欠如しているのかと思われていた感情だった。
由美が自分の出生にまつわる事柄を知ったのは小学生の時だった。それまでにも親族が自分に向ける目に奇妙なものを感じてはいたが、それが何であるのかを知ることはなかったのである。
だが、自分が期待に応えられなかったこと、そして望まれて育ったわけではないことをうすうす感づいていた由美は、自らの存在を呪わざるをえなかった。一方で両親の愛の深さも知った幼い彼女には、自分の心を深く、深く沈める以外に思いつかなかったのである。その様子はユミの心を痛めた。しかし、その由美を真っ先に切り捨てたのは他ならぬユミ自身だった。救いの手など差し出せるはずもない。あれは当主として当然の行為だった。しかし、祖母として、いや、人としてなしてはならぬ行為だったのか。ユミは悩んだが、事態は好転のきざしすら見せなかった。
その間にも、真由美はその恐るべき「由見」の力の片鱗を見せ始めていた。一族の歴史を紐解いても、手助けなしで、いや、修行すらなしで五つもの界を見通せる者は二人しか見いだせぬ。当然ユミが師匠として導ける範囲は狭いものだった。すぐに真由美はユミですら未知の界を見つめるようになっていた。だが幸い、ユミには豊富な経験と、忠誠を誓う一族の知恵者たちがあった。確かにその助けを借りても、力の劣るユミが真由美を育てることは難しかろう。が、不可能なことではなかった。どんなに才能があっても、最後は経験がものを言うはずだ。ユミはそう信じ、三女の教育に全心を傾けていた。そのせいで由美のことは後手後手に回ってしまったが。
由美はこうして自己表現のほとんどない、存在の薄い子として成長した。術者としての才能は有り余るほどにあった。しかし、本人の意思無くしてその発芽はありえない。それは最新のCPUを持ったパソコンに、電源が入っていないのと同じ。起動しさえすれば素晴らしい性能を発揮することが分かっているのに、誰も電源の入れ方が分からないのだ。もちろん自力で入れられるはずもなし。
両親は娘の心をなんとか開いてやろうと手を尽くしたが、逆に由美に気遣わせるばかりであった。一族の集う場ではそっと存在を消すかのごとく、消え入る様に座っていたし、歳の近い真由美や美由美とも距離を置いていた。特に太陽のように明るく目立つ真由美の前では、あたかも静かな三日月のごとく、真由美の問いかけに過不足なく答えている、隠者のような存在だった。真由美という太陽が側にいるからこそかろうじてそこに見えている。そんな印象だった。一方で成績はずば抜けて優秀で、中学でも常に学年トップを通し続けた。自分を生んだことは誤りではなかった。そう両親に思ってもらうというただそれだけのために必死で勉学に励んだのである。だが、自分自身がそう思ってはいないことは祖母の目には明らかだった。
自分の存在を否定し続けることが由美のたった一つの存在理由。祖母はその態度を気がかりに思いながらも機会を待ち、初孫の生き方に関しては沈黙を守った。長くその機会は巡ってはこなかった。しかし、ユミはそれがいつか訪れることを知っていた。もしも彼女がその思惑を成し、消えるのなら、真由美がこれほどなつくはずがない。その先に悲しみしかないのなら、無意識のうちに真由美は接触を避けるはずである。真由美は本当に由美が好きだった。当主になった後も、由美は知恵者として真由美を支えてくれる存在に必ずなる。ユミは娘が年上の姪に向ける笑顔に未来を見て、そう信じていた。
当主が沈黙を守る理由を知らぬ和嘉子夫妻は娘を救えるのは自分たちだけだ思っていた。なんとか世間並みの幸せを娘に感じてもらいたい。人生もそれほど悪くはない。そう思って欲しいと努力を続けた。良き母、良き父たらんとし続けた。だが、両親が思っていた以上に賢い子であった由美はさらに存在を薄くして行くだけだった。
結局由美の心を開いたのはユミだった。待っていた機会がついに訪れたのである。
由美の小学校時代の同級生が通う中学で妖しが出た。ほんの小物である。本来美咲家が出向くほどのことではない。下に連なる家の退魔師で済む規模だった。しかし、ユミは引退している身ながら自身が出向くことにし、因り童として由美を同行させたのだ。昔の知人の難儀を見て見ぬふりでは人の道に反する。そう当主に言われては由美はもちろん和嘉子にも反対はできなかった。異例である決定に、必ず反対するはずのご意見番、大叔母も何も言わなかった。彼女も由見だったからだ。
妖しは予想以上に小物だった。相手の力すら読めぬ小物だった。ユミが器のキャパシティに合わせて力を押さえていることにも気づかず、勝てると信じてその影たる因り童に全力で戦いを挑んでくるほどに。だが、由美の方は初めて見る異界のモノに恐怖し、死を自分の背中のすぐ先に感じた。待ち望んでいた死のはずだった。しかし、真にそれが側に来たとき、由美は思った。これはいやだ、と。
妖しがもっと高位のものであったなら、当時の由美を食らうことなど造作もなかっただろう。しかし、この妖しは恐怖を与えることのみしか知らず、死の甘美さで誘うなどという行為はそのすべになかったのである。妖しが恐怖を与えれば与えるほど、由美は生きたいと望んだ。その神経が幼い彼女にとって張りつめすぎ、意識が薄れた時、由美は自分の中にある力が集められ、一点に、右手の掌に集うのを感じた。まるで他人の体のように、由美の意志とは無関係でその右手が掲げられ、光を放った。閃光一閃。妖しは消えていた。総ては一瞬だったのであろう。しかし、由美は自分の奥底にある力が集まる様と、それを解放する術、そしてまるで掌で握りつぶしたかのように妖しを消し去る時の吐き気を伴う感覚を克明に記憶していた。彼女はその場で気絶しかけたが、祖母の平手打ちで我に返った。頬が熱かった。しかし、不思議と痛みはなかった。
その中学校を去る時、さして親しいとは言えなかったかつてのクラスメイトが涙を流しながら由美に抱きついてきた。祖母は黙したまま、後ろに下がって抱き合う二人の娘を見守っていた。由美は昔の同級生が感謝の言葉を告げるのを聞きながら、自分のあるべき姿に、そして美咲家での自分の居場所に気づいていた。屋敷に戻るリムジンの中で翌日から早朝稽古を始めるとユミが告げた時、由美は何の抵抗もなく了解していた。それが自分の道であると分かっていたから。
由美が己の道を見つけた頃から真由美の修行内容が変化していった。それまでは異界より深く「見る」ことは極力避け、一族にとっての知識と常識を伝授し、新当主へと導くことに重きをなしていたが、徐々に真由美自身の望みに応じて、自由に異界を覗かせることが増えていった。そんな折、ユミは知恵者と一族に伝わる霊器の力を借りて、真由美の行動に危険が及ばぬよう、支援することに徹していた。真由美がこれほどまで突出した力を得、今、この世界で生を受けたことの必然性。必ずそれがあるはずだ。となれば、当主としての、術者としての教育よりも、その驚くべき「由見」の力を伸ばしておくことが、先において役にたつ。ユミは一族の主だった者たちにそう告げ、真由美の力を伸ばすことで一族の理解を得た。真由美の力が育ちきっていなければ美咲家そのものが消えるほどの大きな波が来る。それも近いうちに。その思いはユミだけではなく、少しでも由見の力を持つ者ならば誰でも感じることだったので、一族の者は無言で当主の言葉に従った。大叔母でさえ異を唱えなかった。
一方で、由美には最初から奥義クラスの術を伝授し始めた。力はあってもその制御方法を知らず、ましてやまだ体が出来上がっていない由美にとって、それは過酷な修行であったが、彼女自身もその困難な壁に挑むことを望んだ。半年経たずして、由美は退魔法で美咲流皆伝の名を得た。退魔師としての第一歩、「ミサキの鈴」造りも終わり、後は実習を兼ね、招きに応じて妖し退治に出向けるようになった。由美はすでに起動したスーパーコンピューターであった。しかし、実戦に出すにはまだ無理がある。そう当主は判断した。なぜなら由美には「見鬼」の欠如という致命的欠点があったからだ。誘導装置なしのICBM。あるいはネットにつながっていない、スタンドアローン・スーパーコンピュータ。それが今の由美だった。
そこで御主(みす)はそのまま由美の修行を続けた。今度は器物を操り、それが持つ精霊の力を意のままに移すことが修行の目的だった。まず初めは蝋燭の蝋をすり付けた札を隣室に置き、手にした蝋燭に火を付けることで、その札も燃やすという、器物写しの呪法からだった。次は部屋中に並べた107の鈴を、手にする「ミサキの鈴」を振ることで一斉に成らす修行。それ等を皮切りに、「関連付けの魔法」とか「類似の魔法」とも呼ばれているこのジャンルを一通り教え込んだ御主は、次には既存の精霊を移すのではなく直接精霊の力を借りる、真言の呪法を叩き込んだ。通例、ここまで至るには十年の修行を要する。しかし、自分の存在価値を望んでいた少女は、この呪法すら、落ちた滴を吸い込む乾いた砂のように瞬く間に吸収し、中学を卒業する頃にはすでに六精霊の総てをマスターしていた。
ここに至り、御主は初孫にも真由美同様、自由に望む修行をさせ、自らはその支援に徹するようになった。すでにユミだけでは手に負えない域に達していたこともあり、由美の修行は東山にある練術場に場を移した。さらに彼女の修行には術に長けた長老たちや御主直属の結界術師が常に付き添う決まりも出来た。やがて、存在は知られていたが一族の誰もが未だ接触する道を見い出せずにいた荒ぶる精霊、雷の精霊を呼ぶ、全く新しい呪の組み合わせを開発した頃には、その長老たちでさえ、由美の術の組み上げ方を記憶するのが精一杯という状態になっていた。以後は由美の術を高めるための「場」作りという、本来下位の者がすべき仕事に長老たちは喜んで従事していた。美咲家伝来の呪法を元に、由美が見せてくれる新しい世界は、長老たちの頑なな心を若返らせるに十分なほど刺激的だったである。
こうしてユミの目論見どおり、二人はその才能を開花させていった。由美には絶対的な術力がある。口寄せで一つの精霊を呼ぶのが通例で、より高位の力を得るには複数の術者による陣形術法が基本である。しかし、由美は複数の精霊を予め器物に遷しておくことで一気に呼び寄せ、己のみでそれらの力を複合することでさらに高位の力を及ばせることができるのだ。そして真由美には途方もない感知力がある。五つの世界を見るだけではない。それぞれの「壁」を越えて成される事柄、本来、人間には決して感知できぬはずの流れ。複数界を巻き込む「陰由」(いんゆ)をも見ることができるのだ。
この二つの力が同時に美咲家に現れた。
無数の偶然が重なって形となった、「由美と真由美」という必然。嵐は近い。それは美咲家のみならず、この国を、いや、現界と異界という連なりそのものを飲み込む大きなうねりとなろう。自分の生あるうちにそれは来るのか? もしそうだとしても、その時、自分には何もできまい。ならばその時のために、この二人に自分の総てを、美咲家伝来の総てを伝えねばならない。
それでも・・・
もしかすると、この二人でもその嵐を沈めるには力が及ばぬかも知れない。最後の最後で、後一歩というところで。
その考えにとりつかれ、ユミは心を凍らせた。総てが無に帰すが有の定め。それでも、それでも人は力の及ぶ限り戦わねばならない。生ある限り。無に帰す為に生きねばならない。
ユミは茶碗を握りしめながら、涙があふれそうになるのを感じた。総てが無。それでも・・・、それでも・・・。
「おいおい、まだモーロクするには早いよ」
その言葉に、はっとして威勢のいい孫娘を見る。
「朝から昼寝? まだぼけるには早いっしょ。せめてあたしたちが自活できるようになってから、ね」
美由美がけらけら笑っていた。みゆみ・・・。美有ミ・・・。その刹那、ユミは、彼女の側に無数の人の姿を見た。強固な意志、生を信じる心。たくさんの、本当にたくさんの人の想いが一つに混じり合って美由美のすぐ後ろに、彼女を支えるようにあるのが見えた。その中に美有佳の姿も。
そうか。そうだったのか。
もしかすると。
その時にこそ、未由たる、この美由美が足りぬ一歩を埋めてくれるのでは。力を持たぬはずの、「只人」こそが嵐を沈める本当の「力」を持っているのでは・・・。
「お前たちの将来を考えると、気が遠くもなる。由美は進学するとして、真由美とお前はこれから一体どうするのかねぇ。本当に大学に行く気かい、あの成績で・・・。ふぅ。先を思うと気が重い」
今見えた予兆にあふれそうになる涙を押さえ、ユミが呆れたようにつぶやく。
「言ってなさい! あたしたちだって、やる時ゃやるよ。受験?! 任せなさいって。ね、姫」
「うん。そうだよね。みゆみが一緒なら、どんなとこでもきっと大丈夫。由美ねぇさまも教えてね、勉強」
「そうね。出来る限り手伝うわ。頑張ろうね」
「おおーっし、三人よればなんとやらってね。三人で力を合わせガンバローっ!」
「そうかいそうかい。暖かい家族愛だねぇ」
三人の会話に別の意味を読み取り、また涙ぐみそうになったユミは、そうとぼけると震える手で茶腕を置いた。その時揺れる水面に何かが見えた。そう遠くない、その日が。
そうか。その時、もう私はいないのか。
そうか。
ならば。
願わくば
我が先人たる総ての由見よ
力をお貸しあれ
事が終わったあと
愛するこの三人が
再びまた笑い合えるよう
願わくば
彼女の日常 その四 ユミの場合 Ende
彼女の日常四部作 完
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