
Von:秋澤 弘/イラスト:平井 久司
その三 真由美の場合
真由美は自分の名前が大好きだった。特に「ゆみ」という音が。本来、美咲家の力に関する言葉ではあるが、真由美はそれについてはあまり気にしていなかった。「ゆみ」という音は母と由美、そして美由美という、大好きな三人と共通の音である。それで十分だった。名前が似ている。それだけでとても近くに感じられるのだ。だからこの名が大好きだった。名付けてくれた母に心から感謝していた。
でも、美咲の一族にとってこの音は特殊な意義を持っていたので、「真由美ちゃん」とか「真由美さん」と呼んでくれないのがさみしくもあった。当初一族の者は皆彼女を「次期様」と呼んでいた。真由美の産まれるずーっと昔からそうだったらしい。でも、みゆみが「姫」と呼び出してから、最近は「姫様」と呼ぶ者も多くなった。
この呼び方には、真由美のおっとりとした(お間抜けとも言うが)性格をあざ笑う意味も時々見えたが、真由美は全然気にしてなかった。なにしろ今までの「次期様」という言葉には畏れの言霊が付いて回ったからである。それはとてもとても古いもので、それだけでも美咲家の暗い面を思い出させるのに十分だった。一方、「姫」には明らかに自分だけを差す意味が見えていた。だから、この方がいらぬものが見えなくて良いのだ。
見える。これが真由美の最大の特徴である。妖しの世界であり異界と呼び慣わされている二界、闇のものの棲む三界。これらは常日頃から見えていた。そして時にはその先にある四、五界までも見て取ることもあった。夕暮れの電車の中で外の景色を見ているとき、外の夜景と、ガラスに映った車内の光景がだぶって見えることがある。そんな感じだった。それが大抵複数、真由美には常に見えていたのである。実際、初めて真由美が「見た」ものはこの世界、現界ではなく、異界であった。母の胎内にいた頃から。母もそれを感じ、娘の生誕前にその驚異的な「由見」の力を知っていたという。
日曜日の早朝。真由美は布団の中でまどろみながら、鈴がずらりと並ぶ部屋を見ていた。美咲家の退魔師の証、美咲の鈴がたくさん、たくさん並んでいた。鈴自体は2センチ程の大きさの土鈴。外見は総て一緒に見える。だがその紐にはさまざまな色のものがある。その中で黒い紐の鈴が二つ。並んだその鈴たちが共鳴しながら、からころ、からころと鳴っているのだ。黒は美咲本家を示す。本家の者が由見の力を使っているのだ。鈴の内側に彫り込んであるその名が、表からは決して見えぬ筈の名が真由美には見て取れた。
みゆみ
平仮名でそう印された土鈴が二つ、からころからころと鳴っている。ああ、おかぁさんが由見の力を使っているんだ。まどろみの中、真由美はそう思った。どうしてそう思ったのかは本人にも分からなかったが。
美咲の鈴は退魔師として任命された時に自らの血と名を封じて造る唯一絶対のもの。それを退魔師は肌身離さず身に付けている。しかし、本当は美咲の鈴は一つではない。「影」があるのだ。土鈴を焼く前に術法でその形を写し取り、その影を造っておくのである。それには鈴を鳴らすための玉が入っていない。鳴らない鈴。それは御主(みす)と長老のみの知る秘密であった。闇狩りに向かった退魔師が音信を絶った時。その安否を知るために御主は移し身の術を唱えてこのミサキの影を振る。音が鳴れば、その主は無事。鳴らなければ・・・。
この影鈴の事は極秘であったが、真由美の目にはどんな隠し事もできるものではなかった。
からころと鈴が鳴る。その持ち主が力を使っているので共鳴しているのだ。影と表の二つの鈴が、からころと。
どうして二つあるんだろう。ここには影鈴しかないはずなのに。真由美はふと不思議に思ったが、すぐに鈴の音を聞くことに反射的に意識を集中し出した。もともとこの鈴の音は精神集中の修行にも使われるのだ。その音に心を奪われていると、何かが見えてくる。世界だ。多元世界の有様がそこに映し出されようとしていた。母は世界の有様を見ようとしているのだ。まるで水に広がる波紋のように世界を感じようとしている。中心に自分がいて、その周囲に波紋のように多元世界を置こうとしている。しかし。
しかし、それは真由美の内にあるものとは違っていた。
違うよぉおかぁさん。世界はね、外に広がるんじゃないの。異界はね、この世界の中にあるんだよ。三界はさらにその中。そうやってどんどん世界の中心に向かうの。中心に行けば行くほど世界が重なって、存在の力が大きくなるから、異界にいる生き物の方があたしたち人間よりも意志が強いの。三界はもっと強いよ。そういった重なった場所でも自分たちの世界の中にあるから、見えるんだよ。中心はね、存在そのものなの。そこには全部の世界があるから、存在の力が強すぎて、何もないの。不安定でないと、変化がないと誰も生きられないから。でも、そこもこの世界の一部だからね、そこから来る何かが私たちにも分かるの。それが時間なの。波紋みたいなのは世界じゃなくてね、時なの。中心に行けば行くほど時間が早いんだよ。だから中心は凝縮されすぎて、時間がなくなっちゃうの。だって間がないから。時しかないんだよ。そこにはね。
逆にね、この世界の外にもずーっと無数の世界が続いているんだけど、そこは外にあるから見えないの。外に行けば行くほどどんどん存在の力が薄れて、世界の意味そのものも薄れていって、無にとっても近くなっちゃうから、消えていくのと同じなの。最後はねぇ、世界があるんだけど、何もないのと同じ所なんだよ。あるのは、ここに世界があるんだっていうことわりだけになっちゃうの。あまりに不安定すぎて、生き物はいないんだよ。だって時が止まっているのと同じだから。永遠の一瞬だから。一番外はね、時が波紋みたいに今もどんどん広がっているだけど、すごく遅いから、そこで世界は終わっているようにしか見えないの。
時の流れは端っこだけじゃなんて、全部の世界で動いてるの。だから、私たちの世界も、異界も、ぜーんぶ、いずれは時に塗り替えられちゃうんだよ。時の波紋が来て始まって、次の波紋が来るまでの命。それが世界なの。でもことわりを認めなくて、その上力のある生き物は外の世界へ行こうとするの。そこもいずれは飲み込まれてしまうけど、そこは元の世界より随分時間が遅いから、それでたくさん生きられると思って、外へ外へ出ようとするの。それが時を早めることになるのも知らずに。
おかぁさん、それが世界なの。時こそが世界なんだよ。
真由美はそう言おうとするが、声が出ない。どうやら自分は眠っているようだ。それに気づいた時、不意に目が覚めた。
むっくりと布団から身を起こす。手の甲で目をこする。まだ眠たい。
夢を見てたのかな。でも何の夢だっけ? うーん。
真由美はもうすっかり忘れていた。自分が多元界の真理を見ていたことを。だが、今の真由美にはそれよりもずっと鳴っていたらしい目覚ましを止める方が大事だった。真由美は知っていた。きっと今の夢はいつか自分が理解することなんだと。今はまだ分からないことなんだと。でもいつか分かるから、その影が由見の力で見えたんだと。それを何故か知っているから、夢のことはいつも全然気にしなかった。彼女には夢見とか予知夢といった概念はない。なぜなら目を開けている時こそ、常にその状態だったから。
今日は日曜日。うれしいっ!
真由美はまた布団に潜り込みながら思った。二度寝しようというのではない。布団のぬくもりを確かめたかったのだ。じっとしていると、自分が今までどんなに幸せだったかが体に伝わってくる。軽い眠気とぬくもりによって。しばらくそうしていたが、やがてもっそりと起き出した。もう起きなければならないからだ。この幸せはまた今夜味わおう。毎日楽しめるなんて、なんてお布団ってすごいんだろう。布団を畳みながら真由美は毎朝布団屋さんに感謝していた。
顔を洗いに行くにはまず着替えなければならない。真由美の部屋は屋敷の一番奥の翼にあるが、廊下は既に一族のものである。美咲家内での「公」の場なのだ。そんな所にくまさんプリントのパジャマで出ていったら、後で母にどれだけしかられるか分かったものではない。夜中トイレに行くのも同様。母などはいちいち夜専用に用意した服に着替えてから出てくる。もちろん和服である。
時々お泊まりに行くみゆみの家はそんなことはない。みゆみの寝間着を借りて(これがだぶだぶなのだが)二人で夜遅くまで居間でTVを見ていても、「早く寝なさいよ」とは言われるが、「はしたない」とは言われない。
「一軒家っていいなぁ」と真由美はいつも思っていた。
真由美は今日はお気に入りのくまさんで寝れたので幸せだった。これはみゆみが選んでくれたものだ。他にもみゆみが見立ててくれたものがいろいろある。どうも真由美は買い物が苦手であった。人込み、騒音、そして無数の商品。その総てが真由美に様々な姿を見せるため、視界総てがぼんやりとしてしまうのだ。それで大抵みゆみにつき合ってもらう。
「これかーいーじゃん、姫、どう?」
そう言ってみゆみが見せるもの。そこで初めてその商品に意識が集中し、そのはっきりとした姿が見えるのだ。極度の乱視か近視の人が、注視しようとして眼鏡をかけた時のようにはっきりと。由見の力というものも難儀なものだった。
パジャマを脱いで、枕元に用意しておいた私服に着替える。真由美はかわいい服が好きだったが、本当はもうそろそろ大人っぽい服も欲しかった。みゆみにそう言うと、姫は綺麗ってよりかわいいとか元気って方が似合ってるじゃん、と言い切られた。ちょっと哀しかった。母に至っては服が欲しいと言うと出入りの呉服屋を呼ぼうとするので、最近は口にしないようにしている。和服はあまり好きではないから。どんな振り袖を着ても、真由美のお子さま体型では浴衣と変わらないから。
ブラジャーのフロントホックを止める。真由美は不器用なので、背中にあると時々途方に暮れることがある。そのため、最近はフロントばかりになった。飾り気のないとてもシンプルなブラだ。彼女のカップではかっこいい下着はほとんどなかった。それもちょっと悲しかった。
みゆみくらいプロポーションがよければいいのに。そうすればみゆみみたいにかっこいい服が着れるのにな。そうぽつりとつぶやいて袖を通す。今日は淡いピンクのブラウスだ。胸も腰もボリュームがあるのに、ウェストと首がきゅっとしまったみゆみの裸体を思い出す。お泊まりに行って一緒にお風呂に入る時、最近、哀しくなるのだ。自分は同じ歳なのに、どうしてこうなんだろうな。それを思い出してまたちょっと哀しくなったが、仕方ないことだ。でも由美ねぇさんもかっこいい。そう言えば和嘉子姉様も美紀子姉様も、若い頃のおかぁさんも、みーんなプロポーションがいい。またちょっと哀しくなった。それに身長だって、みんな170前後だ。どうして自分だけ145なんだろう。そう思うと、ちょっとが集まって、随分哀しいになってくる。
とぼとぼと洗面所に行く。部屋に戻ってきてからブラッシング。これも実は真由美の数少ない「哀しい」の素。由美ねぇさんはストレートですっごく綺麗な髪。和嘉子姉様にそっくりだ。みゆみと美紀子姉様は茶色っぽい髪がふんわりとしてて、カールもすごくくるくるっとしてて、かっこいい。どうして自分だけこんなにくせっ毛なんだろう。中学の頃、由美ねぇさんに憧れて伸ばしてみたが、どうしても髪型が綺麗にまとまらず、三つ編みにしてさえおかしかった。それでばっさりと切ってしまった。切った直後はボブどころか、短いおかっぱになってしまったのでショックだったのに、みゆみに「似合うーっ! その髪型、すっごく似合うわー、ははははははははは」と思い切り笑われた。後で思うと、あれはあれでみゆみなりに元気づけようとしてくれていたのに違いない。少なくとも「すっごく似合うわー」までは。その後の「ははははは」には許せないものがあったが。
なんだか今日は待ちに待った日曜日なのに、朝から哀しくなってきた。とりあえず「うれしい」を探して部屋を見回す。母も子供の頃使ったというこの4畳半は学習机と本棚、そして戸棚で一杯になってしまう。冬はコタツを片づけないとお布団も敷けない。でも、くるっと見回して、幸せが全部見えるこの部屋が真由美は大好きだった。
昔、級友にもらった雑誌のおまけポスターをセロテープで壁に貼ったら母に怒られた。折角もらってうれしかったのに、その分悲しくなって泣いていたら和嘉子姉様が来て、お買い物に連れていってくれた。掛居に掛けるタイプのポスター用のパネルを三枚も買ってくれたのだ。それを使ったら母も何も言わなかった。セロテープがいけなかったらしい。今もそのパネルは使っている。うれしかった想いが詰まっているから。京都の町並みが写った去年のカレンダーも下がっている。旅行に行けない真由美に友達がおみやげとして買ってきてくれたものだ。その綺麗な紅葉を見ていると、みんなと一緒に行けた様な気になってうれしくなる。
戸棚にはいろんな小物が詰まっている。特にゲーセンで取ってきたぬいぐるみがたくさんあって、みんな真由美を見てくれていてうれしい。最初はみゆみが取ってくれた。ゲーセンでみゆみが遊んでいる間ずっと待っていると、帰りがけに取ってくれるのだ。最近は師匠に教わりながら、自分でチャレンジしている。おもいがけず百円でとれたりするとすっごくうれしい。そんな「うれしい」が戸棚には一杯詰まっている。真由美はお部屋を一周、ぐるりと見回すだけでもうご機嫌になっていた。
お部屋の真ん中にぺたんと座り込み、真由美はお気に入りのスヌーピーのクッションを抱きしめた。あんまりに幸せだったのでその大きなクッションに顔を埋めてみる。ここは美咲の結界の中心近く。ここなら嫌なものが見えたりしないので安心して目をつむれる。
「幸せ」。そうつぶやいてみた。私には怖いけど優しいおかぁさんがいる。みゆみも由美ねぇさんも。なかなか会えないけどお父さんもいるし。超常研の副会長、シュンの婚約者の雅(みやび)さんにはお母さんしかいない。そのお母さんも仕事でヘルシンキに行ったきりだ。今はシュンの家に一緒に住んでいるけど、好きな人と一緒に住んでいるけど、やっぱり両親がいないのはさみしいだろうな。雅さんはいつも微笑んでいる。でも、その奥にある意志の強さと感性の繊細さも同時に見えている真由美は彼女を尊敬していた。シュンとの結婚式には呼んで欲しいな。きっと綺麗な花嫁さんになるんだろうな。
そんな事をぼーっと考えていた。幸せだった。
不幸になった。
時間が経つのを忘れていたのだ。朝食に遅れて、大慌てで走っている真由美。ぱたぱたとスリッパが鳴る。ぱたぱたぱたぱた、ぱたぱたぱたぱた、どてっ!
痛かった。でも頑張って走る。ぱたぱたぱたぱたぱたぱた。
やっと食堂に着いた。いつもより随分遅れてしまった。そこで立ち止まって息を整える。ふー。深呼吸。
もう大丈夫。走ってきたことがばれないようにそっと食堂に入る。一族の朝食は奥の間で摂っている。その入り口の角に来ると、母と由美ねぇさんが正座しているのが見えた。挨拶して座ると、まだみゆみは来ていないという。よかった。助かった。遅れたので今日はビリかと思っていた真由美は安堵した。
その時、母が言った。
「廊下は走らない」
びっくりした。食堂の入り口でちゃんと止まったのに。走っていた事がばれていて、真由美は困ってしまった。
困っているとみゆみが飛び込んでくる。
「うぉっとぉ!」
彼女は勢い込んでこけそうになったが、すらりとした脚を大きく振り上げてすぐにバランスを取り、ぴたりと停止する。
いいなぁ。多分みゆみなら走っても転んだりしないんだろうな。まだ痛いお尻をこっそりとさすって、真由美は思った。
朝食が始まった。
お茶碗を手にする。お箸で最初の一口をすくい出す。ご飯のてっぺん近くのちょっと下の辺。この辺が一番取りやすいし、空気に触れていないところがすくえるから、湯気がふわっと広がってうれしい。その湯気の中、蒔さんの炊いたご飯は粒が一つ一つ光っていてとっても綺麗。真由美のその視界には蒔さんがお米を研いでいる姿がだぶって映っている。なぜか今日はそばに由美ねぇさんがお新香を切っている姿もあった。ちょっと不思議に思ったが、すぐにその不思議は幸せに染まって消えてしまう。ありがとう。そう口の中でつぶやいてから、ぱくっ。
熱くって思わず口を開き、はふはふと冷ます。噛んでみる。おいしいっ! 噛むと幸せがあふれ出てくる。蒔さんの姿とお米を作った人のらしい手がぼんやりと見えている。ありがとう。真由美は心の底から感謝した。
最初の一口ですっかり幸せになった真由美は二口目をとる。うん、やっぱりおいしい。うれしい。
そうやってお米を堪能してからおかずを味わうのがいつもの食事だった。
真由美はパンもパスタも、およそ食べ物全部が大好きだったが、特にお米を愛していた。見える物がとても単純ではっきりしているような気がしていたから。その分、おいしさが幸せに結びつくから。でも、カップ麺やコンビニのおにぎりはさみしかった。造った人の姿が見えないからだ。
幸せはすぐに終わってしまう。でも幸せだった余韻はずっと続く。お茶を飲みながら真由美はうれしさを感じていたが、やがてお尻の痛さをふっと思い出した。そう言えばみゆみも走ってきた。どうして怒られないのかな。一番後に来たのはみゆみなのに。それに気が付くと、折角のしあわせが消えてしまう気がした。こういう時はすぐに口に出してしまうに限る。悩んでいるとしあわせの印象がどこかに行ってしまうから。
おかぁさん、みゆみはどうして怒られないの。走ってきたのに。
むくれながらそう言うと、母に切り替えされてしまった。走ったことをごまかそうとするからだと。困った。そうだったのか。つい怒られると思って隠してしまった。でもおかぁさんは知っていた。うーん、やっぱりおかぁさんはすごい。どうしてだがは分からないが、すごいことは分かる。
「廊下は走らない」
母の言葉を心の中に刻んでから、またさっきのご飯を思い出す。うん、やっぱり幸せだ、わたし。
昨日はテストが返ってきた。68点だった。いい点ではないけど、クラスで最高得点が80点だったから、いい方かもしれない。そう言うと由美ねぇさんが口を開く。
「暮橋先生だったわね」
由美は去年先生のクラスにいたので、小テストなら50点以上とれば問題ないと教えてくれた。
「最高が80なら、多分平均は40点程度だと思うわ」
「そうなんだ。じゃ、大丈夫かなぁ。低い人には宿題を出すって言ってたの」
「その点ならまず心配ないと思うわよ。暮橋先生はいつも一問だけ、とても高度な問題を混ぜておく人だから。解釈次第でどうともとれる問題をね。あの人はテスト中に生徒が暇にならないように、結論を導くのにとても時間のかかる問題を用意するのよ。一つだけだけどね。職員会議でも、先生の受け持ちだけ極端に平均が下がるから、小テストだけにするように言われているそうよ」
「えー、テストで暇になるの? 回答全部し終えちゃうからかなぁ」
「そう。確認も全部し終えて、ただじっと座っているだけの生徒がいると、先生は困るみたいね」
そのテストの光景がふと目に浮かび真由美にはその生徒が誰だったのか良く分かった。去年、小テストで百点をとり続けるのがどんなに大変だったか、いろんな本を読んでいるその生徒の姿も一緒に見えた。
その後でおかぁさんに、今の真由美の成績で大学に行けるのかと言われてちょっと困ってしまう。正直言って、授業中でも先生の言葉に集中するのは大変だから。ふと何かが見えてしまい、意識が薄れたり、集中しすぎて先生の言葉から言霊を拾い出してしまったり。学校は「場」なので、真由美はとても苦労していた。でも、そんなことを言ったら、きっと転校させられてしまう。一族の者で一般の共学校に通っているのは本家の三人だけだったから。本当は術者やエージェントなど裏家業の者が通う学校に行くはずだったから。
真由美は頑張って大学にも行きたかった。みゆみと一緒に。由美ねぇさんと同じ大学に行くのはとっくに諦めていたけど。平均前後をうろちょろしている自分の成績で、学年トップのねぇさんと並べるはずもない。みゆみはもっと下だったけど、体育の成績はすごいし、マラソン大会では男子に混ざって三位に入っちゃうから、総てに平均前後という自分がちょっとさみしい。
何か得意な分野があればなぁ。いつもそう思う。そうすれば、きっとその授業がある日はしあわせだし、ない日でも次の授業を楽しみにしていられるから。
真由美の成績が良かったのは日本史と古文・漢文だ。美咲家当主としての修行はこれらの分野と密接に関連している。古文などは原典を小学生の頃から読み解いていたので、テストの成績はとても良かった。しかし、授業中はそれらの知識がマイナスに作用する。先生の言葉や黒板に書かれた文字がきっかけとなり、呆気なく意識が現界から離脱してしまうのだ。「古墳」、「侍大将」、「幕府」等々。現代人にとっては「知識」に過ぎぬ言葉が、真由美にとってはそのまま何かを見るキーワードになってしまう。彼女がこれらの授業を好きになれなかったのは当然である。なにしろ意識を留めるだけで疲れてしまうのだから。ましてや運悪く質問をあてられたりするとパニックである。
芸術の選択授業もそうだった。音楽にせよ、書道にせよ、宗教なり呪術なりと密接な関係にあったので、真由美はずっと美術を選ぶことにした。美術史だとちょっとヤバいのだが、絵を描くとか、粘土で何かを造るというのはあまり怖くなかった。実は真由美に美術の才能がなかったため、キーワードたりえなかっただけなのだが。そのおかげで成績はちょっとヤバかった。
真由美はどんな授業も別段好きではないが、大嫌いというわけでもない。学校のみんなと一緒にいられるには仕方がないことだと分かっていたからだ。
小、中学と、ずっと「特別扱い」されてきた真由美は、高校が好きだった。中学まではこの街の子供ばかりだったので、皆「美咲」のみに目を奪われ、「真由美」を見てくれなかった。先生までも、ほとんどがそうだった。しかし、この高校に入ってから、あちこちの街の生徒と一緒になった。半分くらいはこの近所の子だが、電車通学の生徒は「美咲」を知らない。そのうち知ったとしても、ミュータント扱いするわけではなかった。せいぜい、「美咲んちって、金持ちなんだって?」という程度だ。それが真由美には嬉しかった。クラスメイト以外でも友達ができた。シュンたちがそうだ。入学してすぐ、ひょんな事からみゆみとまず仲良くなった彼らは、みゆみの親類というかオプションパーツというか、とにかくいつも側にいる真由美とも友達になってくれた。後に美咲の力を知っても、彼らはほとんど気にしていない。彼らだけではない。超常研のメンバーは先輩も含め、大抵そうだ。
「この世ならざるもの」を知った彼らにとって、真由美や由美は「特殊能力はあっても、やっぱり同じ人間」なのだ。「友達」。「仲間」。そういう人間関係に初めて参加できた。だから真由美は学校に通い続けたかったのである。
しかし、学校はそれ自体が「場」である。なんとなく行きたくない場所も多かったし、どうしても近寄りたくない場所すらあった。その一方、そこにいると安らげる場所もあったが。特に自分の教室や、お昼時にパン屋さんが来る中央廊下、普通校舎の屋上などがそうだ。お昼休みになるとパン屋さんのコーヒー牛乳を買って、屋上のベンチでのんびりお弁当を食べるのが好きだった。そこでなら、うとうとお昼寝しても大丈夫な程安心できた。そういうお気に入りの場所があったから、嫌な場所の存在もうち消すことが出来たのである。実は彼女が入学すると決まってから、由美が毎日のように校内の数カ所に美咲の結界をはり続けている事を真由美は知らなかった。でも、お気に入りの場所での安心感はなぜかそのまま由美に感謝する気持ちを生み続けてはいたが。
今日は日曜日である。当然学校はないので、朝食が終わってからは自由なはずなのだが、今朝は来客がある。真由美は今日はなにか嬉しいことがあるような気がしたので、お部屋に帰ってから一生懸命髪の毛と格闘し、服もお気に入りのに着替えて、9時ちょっと前に東二の間でちょこんとソファーに座って客を待っていた。彼女の前にはいつもながら地味な、それでいて高価な仕立ての和服に身を包んだ母が座っている。そこは以前はうちうちの会合に使用されていた8畳程度の部屋だったが、現御主(みす)の代になってから洋間に改造され、ソファーやテーブル、ステレオといった調度が揃えられていた。科学が地球を狭くした結果、海外からの来客も増えたため、こういう部屋が必要になったのだ。
といっても、今日の客は二人とも日本人だ。客の一人は仙台から、もう一人は東京から来ており、昨日の内に街に到着して、昨夜は美咲家が用意したホテルに泊まったはずだ。八時ちょと過ぎに迎えの車が下屋敷を出発したという連絡があったので、そろそろここに到着する頃だろう。もう何度も来ている客だから特に緊張する必要はないはずなのだが、母に何かを感じ、真由美はずいぶんどきどきしていた。
しかし、客は呆気なく登場し、呆気なく母と挨拶を交わした。特に何かあるわけでもなかった。あれ? 変だな。そう真由美は思って小首を傾げた。今日は何かあると思っていたのだが。案内してきた運転手の山内さんが深々と頭を下げて退出すると、給仕役の小林さんが入れ替わりにやって来てお茶が出され、その香りが室内を満たした。退魔師でもある小林さんが首に下げている美咲の鈴が、地味な和服をすかしてちらりと見えた時、真由美は何かを思い出しかけたが、何事もない不思議感がすぐにまた意識を占領した。
おかしいなぁ。真由美が考えている間、二人は母と会話していた。やがて社交辞令的な話題が途切れた頃、母は前回の続きから初めてくださいと客人に告げた。真由美がやっと我に返ったからである。
多分、何かあると思ったのは今度か、その次ぎあたりの予兆だったのだろう。そういうことは良くある。そう思って、真由美はやっと二人に意識を集中し出した。
この二人は以前から真由美について調査している大学の教授である。一人は連続時空体、つまり美咲風に言う多元界について調査していた。もう一人は呪術の専門家で、特にこれも異界とのゲートに関して長年調査を続けていた。二人はそれぞれの分野では研究熱心であり、共に好奇心旺盛な性格だったが、美咲家内部のしきたりなどの特殊性ついての個人的見解は口に出さないことにしていた。出入り禁止は回避したかったし、なにより、その閉鎖性によって、自分の研究に有意義な、特殊な条件が維持されていることも知っていたからだ。
そのため、真由美のぼーっとした先ほどまでの態度には触れず、すぐに口答調査を兼ねた会話が始まった。
「時間と空間が世界を示す。それが時空。様々な時空が重なり合っているが、通例、自分の時空しか認識できない。でも君にはここ以外も見えるんだよね、真由美君」
客の一人、若い(といっても40近いが)方の中設楽(なかしたら)教授がまず真由美にとって当たり前の事から話し始めた。
「だから知っていると思うけど、時空はそこにいる者にとっては動かない。地球が回ってるなんて信じられないようにね。でも、他の時空にいる者にとってはある時は激しく、またある時はゆっくりと、時空そのものが動いているのが分かるんだよ。月が夜空を周りながら、欠けたり満ちたりするみたいにね。外からならそれが分かるんだ。
しかも、時空だからそれは空間だけじゃない。時間も同じく動いている。だから、君がずっと同じ場所で見ていても、見えている別の時空はその二軸、時間と空間共に移動しているので、流れているように見えるんだ。時間とは一定の方向、つまり未来に一定のスピードで動いている。でも、君が見ているのは別の時空。そこでは空間と同じく、早かったり遅かったり、それどころか場合によっては逆の方向だったりするんだ。だからね、自分の望む時空を見るというのはとても大変なことなんだ」
先生はノートにいろいろと図を描いて真由美に教えてくれた。なんとなく分かったような気がした。何か見えた次の瞬間、いきなり違う場面が見えるのはそのせいなのか。でも、先生自身も、どうやってそれを立証するのかは分からないとも言った。だから研究するんだよ、と。真由美は難しい用語を分かりやすい言葉で、いつもゆっくりと話してくれる、この髭もじゃの先生がわりと好きだった。
中設楽先生より年長の城之崎(きのさき)先生は長身痩躯ではげかけた白髪頭の紳士だった。彼からは専門分野の術力についての質問が多かったが、由美ならともかく、真由美はあまり術については分からないので、同席する母がそれに付いては担当していた。
中設楽と城之崎。この二人はいつも一緒に真由美に会いに来た。友達なのだろうと真由美は思っていたが、実は二人はそれまで全く面識が無く、美咲の屋敷で初めて自己紹介し合った程だ。二人ともそれぞれの学会では著名な人物であったが、ジャンルが極端に違うので仕方ないことかも知れない。二人とも別のつてで美咲家を訪れたが、その紹介者は共に旧知の仲だったので、当主ユミは協力することにやぶさかではなかった。時代は変わっていく。過去のように美咲家という結界の中だけに隠せるものではないことが多いのだ。信頼できる紹介者からなら協力しよう。しかし、母としてのユミはそれが娘の精神に圧迫を与えることを案じ、二人同時に招き、自分も同席していた。そのため、なかなか教授たちの希望どおりに時間がとれなかったが、ユミは必ず同席する事に決めていた。その中で、真由美の修行について何か得るものがあると悟っていたからである。
「かように非常に曖昧な中から、特定の時空を選択し、尚且つそれを持続するには理(ことわり)が多大なる影響力を持っております」
城之崎先生はいつも大学で講義しているような口調で話すので、ちょっと真由美には付いていけないことがある。意味を考えているうちにどんどん先に行ってしまうのだ。
「先生、それは、理が時空の特定に効果があるということですね」
中設楽教授の言葉にうなづく城之崎。これなら真由美にもなんとなく分かった。というよりも知っていることだ。理だけが別時空を特定する術であると。
「理を完全に理解することは我々人間には不可能な事であります。しかしながら、幾つかの条件下におきましては、それは人にも分かることがあります」
「それは理が特殊な条件下にあれば認識可能ということですか」
「そうとは限りません、中設楽先生。どちらかと言いますと特殊な状況によってそこの理が揺るぐことにより、すなわち薄れることでそれが分かると言えましょう」
「おぼれて初めて酸素の存在が分かる、という感じですか」
「うーむ。水中にも酸素はあります。しかし、それは人間にとって利用できるものではない。つまりそれは人にとりまして、無いと同じ事を意味します。そうですな、どちらかと申しますと高い山に登って空気が薄くなり、初めてその存在を知る、と言った方が良い例えになりましょう。理が薄れ、初めてそこに特殊なものがあると分かるのです。
えー、理に何らかの影響を与えるものの筆頭に、場があります。通例これは特定の場所を示しますが、場合によってはさらに特定の時間など、条件があることもあり、場所のみに固定することは大変危険な解釈です」
「場とは空間のように物理的存在ではないということですね」
「そのとうりです、先生。場はどちらかと言えば人の精神的な、特定の場所の認識方法が、そこを際だてている現象と言えるのです」
「ある人にはそこが場であっても、他の人にはそうではないこともあるのですね」
こんな感じで、中設楽教授は真由美にも分かりやすいように、城之崎教授の説明に注釈を加えてくれていた。中設楽にとっては自分も学生に戻ったようで、自分が知らなかった術に関する講義を受けている気分で興味津々だった。
「そうです。その場を構成する術さえ理論だっておれば、実験的に場を生み出すことも可能です。それができるのであれば、それを複数組み上げ、同一の界を見るという方法で、さらに界へのアプローチの手段も判明します。それぞれの場にそれぞれ特定の要素を当てはめ、その結果どのように異界への認識に影響を及ぼすかを調査できれれば、さらに多元界のあり方を明らかにできるでありましょう」
「少しづつ異なる複数の場を作り、その差を調べるのですね。なるほど」
中設楽は理論派である。一方の城之崎は資料を足で集めてゆく実践派。中設楽は可能な限りの仮説を立て、その中から矛盾するものを削り、最後に残ったものを検証する。城之崎は集めた膨大な資料からたった一つだけの仮説をうち立てる。全く逆のアプローチであったが、二人は同じ仮説に至った。
由見の能力は見るという受動のみではなく、能動的に、そして物理的にも多元界に作用できると。そして共にその立証のためには真由美の協力が必要だった。そのため大体月に二、三度という間隔で二人の来訪は続いていた。
母から美咲家の当主となる教育を受けていた真由美はこの二人の会話に参加しながら、分かる限りは答え、それ以外では一生懸命考えていた。母ユミは大抵黙って聞いているだけだ。特に城之崎教授の質問が、真由美の知識を越える場合に限り、発言することにしていた。
真由美は「場」について考えていた。当主が発言せず、なおかつ真由美が黙している時は教授たちも黙して待つことにしていた。真由美が考えている時、その表情はとても分かりやすいのですぐに分かったが。
この子は自分の意志を表現するのが苦手だ。しかし、それは通常の人間とは比較にならない程の情報を常に受け続けている彼女にとって、人の言葉で自分の感覚、意識を現すのが非常に困難なためである。そう理解していた二人はじっと真由美の思考の推移を待った。
目を開いている時には現界が主に見えているのだが、まばたきした瞬間などに、異界や三界だけがはっきり見える時がある。一瞬だが、はっきりと。そういう時にじっと目をつむって意識を集中すると、その光景がまた見える。必ずそうなるとは限らないが、見えた時にはしばらく、その光景だけが自分の周囲にあり、あたかもそこにいるかのように全周が見渡せる。
一方、何かが視界に入った瞬間、別の世界が見え出すこともある。そういう時には自分の意志で周囲を見たりは出来ない。ある特定の光景を見続けるだけだ。
母や知恵者は真由美にこう教えてくれた。自分の意志で視点を変えられるのは「場」に居る時。そして自分の意志に関わりなく見えるときは「記憶」を見ている時。基本的に「場」は場所や時間、周囲にいる人々といった複数の要素が重なって発生する。そのため大抵その世界との接触は一度きりだ。一方、「記憶」は人の意志、念と呼ばれるほどになった意識が何かに収束した「源」があり、それに触れさえすれば基本的に何度でも同じものを見ることが出来る。
「場」をもう一度組み上げるには理(ことわり)の流れを同じにすればよい。実際には理は人の意志程度で変化するものではないので、その状況になると自己暗示をかけるといった方がいいだろう。それが見えた時と同じ条件を再現しているかのように組み立てて行くことで流れが同じだと思い込むのである。
前回、城之崎先生は、それは「場」を再生するというよりも、その場にいた時の自分の状態を再生することで理に作用し、再現するのだと言っていた。真由美は良く分からなかったが、「見た」光景は見た瞬間に、理解した以上の情報を脳に送っているということだった。それを再生することで、一度しか見えない光景を、もう一度見たような感覚になる。しかし、それはすで脳にある情報なのだと。より多くの理解を得る事が「再現」になるのだと。とにかく、「場」の再生がとても複雑であることだけは全員に一致した意見だった。
一方、「記憶」を再生するのは簡単だ。その源を見いだせばよい。だが、簡単だからこそ怖ろしい。記憶はその再現を強制するからだ。喜びの記憶は見る者に喜びの感情を強要する。悲しみの記憶はもちろん悲しみを。そして記憶を残した者がその時、命を落としていた場合。最悪の場合、記憶を見た者に死を強制することもありうるのだ。念が怨念になった場合がそれである。そのために由見の力を持つ者は特に感受性が豊かな幼年期に総じて精神に異常をきたしやすく、若くしてこの世を去ることも多い。
だが、美咲家の一族は由見の力に長けているだけでなく、術力にも長けていた。彼らにとって術とは理を求め、歪みをなくそうとする力である。この応用で精霊に作用し、さまざまな現象を及ぼすこともできるが、それらは理を正すために使ってこそ効果を発揮する。逆に歪ませる方向に力を及ばそうとすると、どんなに技に長けた者でも思いどおりにはならないのだ。
この術力で「場」を再生したり、「記憶」から自分を守る術。それが美咲の技と呼ばれるものだ。
真由美は生まれつき由見の力のみが異常に発達しており、術力の才能は薄かった。
「見える」のには集中力はいらない。しかし、意識を一つの世界に集めていないと、ただぼんやりと流れて行くだけだ。「見る」には大変な集中を要求するのだった。
特定の時空を見るには意識が必要なのだ。それも場となりうる程の強力な。もしくは記憶を物に刻むほど強力な。美咲家では念と呼ぶ人の意志がその場なり物なりに封印され、それを読みとることでその時の時空の連なりを再現し、それを見せるらしい。では、その場を意図的に作成できるのだろうか。それができれば、由見の力が無いものでも、術力さえあればその時空を感じることが出来るはずだ。そのデータを元に多元宇宙の連なりを模式化できる。
確かにそうかもしれない。でも。きっとそれは無理だ。
数分の沈黙の後、真由美は口を開いた。
「でもそれだと、ことわりに反しますよぉ。ことわりはお水みたいに、薄いところへどんどん流れていって埋めちゃうから、逆に由は見えなくなると思うの。意図的に見ようとすればするほど、見えなくなっちゃうの。きっとそうなりますよ」
真由美の言葉に、二人の学者はうなった。どうすれば理を揺るがすことなく、多元時空を調査できるのか。
「多分いろんな場を作って調査しても結果は出ないと思うの。だってどんどん変化してるもの」
「変化?」
「ことわりは一つの状態じゃないの。どんどん、どんどん変わるの。その変わることをことわりって言うの。その変わり方が自然に変化するのがことわりの本当の姿でぇ、無理にそれを固定しようとしたりとか、早くしようとすると歪むの。歪むと大変なの」
「どのような事態が起こるのですかな? 自動修復しようとするのですか?」
「それもあるけど、それより先に、他の界とこの界を分けている壁が薄くなって、行き来するものたちが出て来ちゃうの。それはいけないことなの」
「じゃ真由美君、そういった時空を行き来した事例を調べて行けば、どうして理が歪んだかは分かるのかな?」
真由美は首を横に振る。
「どうなったか、は分かるけど、どうしてそれが出来たのかは分からないの。だってそれを成功させて生きている人はいないし、生きていても、もうそれは人じゃなくなっちゃっているから。だから人にはその由が、たとえ見えても理解できないものになっちゃっているの」
学者たちはさらに困惑した。どうやら場を意図的に作る方法は無理らしい。彼らの目標が達成されるにはまだまだ研究の余地がありそうだった。
あっという間に二人に許されている時間が経ってしまった。二人の教授は眉間にしわを寄せながら、資料をまとめ、マイクロコーダーをしまった。真由美は今日はちょっと申し訳無いことをしたと、そう思った。折角来てくれたのに、彼らの望みの答えに至らず、逆に困惑を与えてしまったような気がしていたからだ。その間に母が内線電話で客人の退出を伝えた。
やがて廊下に人の気配がした。その瞬間、うつむいていた真由美ははっとした。母を見る。無表情に娘を見つめてはいたが、その目は真由美の驚きを知っていたようだ。ドアがノックされ、声がする。
「お客様をお迎えに参りました」
その声を聞いて確信した。そうだったのか。真由美はドアに向かって飛び出したいのを一生懸命我慢した。しかし、その目を興奮に輝かせるのは押さえきれなかったが。真由美の表情に驚いて、鞄を持とうとしていた手を止める教授たち。
「お入りなさい」
母の声に応え、扉を開き当主に一礼をする黒服の男。真由美はその姿に息を止めた。
「先生、今日は別の用事がありまして、いつもの運転手は先ほどから隣町へ出ております。お帰りはこの者がお送りいたします」
当主はそう言って、戸口に立つ男を示した。客人に一礼する男。その時、真由美は我慢しきれずに声を出してした。
「おとうさん!」
父は答えなかったが、目は一瞬真由美を見た。その間に客人は事態を察していた。
初めて迎えに来た運転手。彼が当主の夫君なのか。二人は何年も前からこの屋敷を訪れていたのでおおまかながらその話は聞いていた。夫君は下屋敷に住み、長老たちの補佐をしていると。語学が堪能なので、通訳として、そして翻訳担当として働いていると。しかし、長老会に所属する以上、許可無くこの屋敷には来れないという事も。そのために真由美が父に会うのは年にほんの数回、それも遠くから見るだけだという事も。
教授たちはあえて何も知らぬふりをして真由美と当主に別れを告げ、戸口に向かい、運転手にお願いしますと声を掛けた。その客人に再び頭を下げる父、洋次朗。真由美は父を引き留めたかった。元気そうだ。でも少し痩せた。何か言いたかった。お話ししたかった。おとうさん、真由美は、真由美は・・・。
「洋次朗さん」
立ち去ろうとする背に声を掛けたのは母だった。その声は柔らかく、いつものきびきびとした御主のものではなかった。
「はい、御主様」と振り向く父。
「山内さんの都合がつかず、呼び出してすみませんでした。用事がおありだったのではありませんか?」
父は母に笑顔を向けた。
「いえ、兄に代わってもらいましたから。ご心配ありがとうございます、御主様」
「そう言えば洋次朗さん、真由美は大学に行くと言っているのですよ。でもそれには成績がもっと上がる必要があります。洋次朗さんが何か良い書物をお持ちなら、今度貸してやってください」
真由美は声も出なかった。父が見つめてくれて、そして笑ってくれたから。
「分かりました御主様。英語でしたらお任せ下さい。では次期様、今度私が学んだ本の中から、幾つかお持ちします」
「待ってる・・・」
それだけ言うのが精一杯だった。でもそれでも父はまた笑ってくれた。その姿に、たくさんの父の想いが見えた。とてもたくさんの伝えたい言葉と想いが。真由美はそれを総て受け取った。父の想い総てを。
客人は真由美の方には意図的に声をかけないまま、大学にはぜひ行かせるべきだ、人生の友と呼べる仲間がきっとできると当主にひとしきり進学を勧めてから部屋を出ていった。父も再びお辞儀をすると去っていった。真由美は閉ざされた扉を前にじっとしていた。涙で歪む視野の端に、母の姿があった。そこに母の父への想いも写っていた。涙がぽろぽろ流れ出した。そのまま涙が止まらなかった。
部屋で着替えている間、真由美は誰かに一緒にいてほしかった。別段何かしたいわけでもない。おしゃべりもしなくともよい。ただ、今日は誰かに一緒にいてほしかった。
古い柱時計が鳴った。お昼だ。
真由美は一番側にいてほしい、その姿を求めて、部屋から出ていった。
ぱたんという音と共にふすまが閉まる。ぱた、ぱたというスリッパの音が廊下に響く。ぱた、ぱた、ぱた・・・。
やがてそれも静まり返り、部屋を静寂が支配した。しあわせが一杯詰まっているこの部屋は、一番のしあわせである主がいなくなってちょっと寂しそうだった。
彼女の日常 その三 真由美の場合 Ende