彼女の日常Von:秋澤 弘/イラスト:平井 久司
その一 由美の場合
由美は自分の名前が嫌いだった。もっと言えば、自分という存在自体が嫌いだった。できれば消えてしまえばいい。何度布団の中でそう思って泣いたことか。
美咲家にとって、「ゆみ」という音は特別な意味を持つ。それは「当主」を意味するものだった。由美とは本来「由見」と書く。今ある現状だけでなく、過去の発端から現在に至るまで、その由、つまり流れを見て取る力を持つ者の称号だったのだ。それ故、美咲家の当主になった者はお披露目の際にその名を継ぐことになっていた。いわゆる襲名式である。近年になりその風習は消えたが、その名前の持つ言霊自体は消えてはいない。事実、現在の当主、つまり御主(みす)は由美の祖母だが、彼女の名は美咲ユミという。由美は由見の力をユミから受け継ぐはずだったのだ。その期待を込めて命名されていた。一族の者が彼女の名を口にする時には畏敬の念を起こさずにはいられない。権力の証としての名前のはずだった。
しかし、実際にはどうであろうか。今、彼女の名前に尊敬の念を込めて呼ぶ者などいない。むしろあざ笑うかのように呼ぶ者ばかりだ。由美には全く「由見」の力が現れなかったのだ。術力は一族の長い歴史の中でもトップに近い。しかし、肝心の異界を見る才能、「見鬼」の力がなかったのである。少しは遠慮というものを知っている親族は彼女の名前を決して口にしなかった。だが、その親切は由美にとっては針のむしろ。その名が、しいては彼女の存在自体が禁忌であると親族が認識しているのだと感じざるをえなかった。
消えてしまえばいい。私なんて誰にも知られず、そっと消えてしまえばいい。
このまま、ただ小さく小さくなってゆけばいい。そうすれば・・・。
不意に何かが頬に落ちた。涙だ。自分のものではない、誰かの。
誰の? そう思った時、自分がいつのまにか誰かに抱きしめられていることに気づいた。その誰かがずっと自分に語りかけ続けていたことに気が付いた。
「ありがとう。ありがとう。あなたがいてくれて良かった・・・。ありがとう・・・」
すすり泣きながら告げられる言葉。その言葉が由美の中にしみ通ってゆく。ゆっくりと。そして優しく。
いて、よかった? 私がいて、よかった?
由美の全霊にその言霊が満ちてゆく。
そうだったの。私は、ここに、いても、よかったんだ・・・
由美はすすり泣き続ける昔の同級生を、そっと抱き返した。
そうか。私はいて良かったんだ・・・
あの時のことを久しぶりに夢に見た由美は、目覚めた後もベッドでじっとしたままだった。まだ起きるには早い時間のはず。気の早い鳥がひとしきり鳴いたので夢から抜けたらしい。
その目は閉じたままだが、耳は聴力を回復していたようだ。ゆっくりと起きあがり、枕元の時計を見る。やっぱりまだ早い。でも、もう眠れそうになかった。
由美はそう判断すると着替えることにした。まず寝具を整え、寝間着を脱いだ。ブラジャーを付けてから制服のブラウスを取ろうとして手を伸ばす。そこに服が用意されていないことで、やっと完全に目が覚めた。そう、今日は日曜日なのだ。
クローゼットを開けてとりあえず当たり障りのないワンピースに袖を通しながら、由美は考えていた。さて、何をしようか。何の予定もない日は珍しい。本来、昨夜は隣町にある商業高校に向かうパーティのサポートで徹夜のはずだった。しかし、そこに棲み着いていた妖したちは金曜日深夜の初チャレンジで一掃されてしまったのだ。まだ魔性が揃っていない状態だったのが幸いした。妖しの存在を確信するや、速やかに由美たちに救援を求めてきた、あの小柄な生徒会長の英断に敬意を表そう。新入生たちはさすがに疲労の色は隠せないものの、喜びと充実感でとても良い表情だった。その上気絶者なし。まるで殿下の幸運が乗り移ったような成果だった。
というわけで、何の予定もない、本当の休日が久しぶりに振ってわいたのである。
美咲由美は受験生だ。普通なら部活は引退している時期なのだが、とてもフツーとは言えない超常研では去年、三年生だった殿下が会長を卒業まで続けていた。その結果、由美が会長に就任したのは二年も後二週間で終わるという時期だったのだ。学業と受験。そして部活。これを総てこなすのは並大抵の努力では済まない。ましてや由美には美咲家の退魔師としての修行もある。当分恋はできそうにもなかった。せっかくの休日なのに、デートの相手もいない。携帯で誘い合う友達もいない。となればやはり受験勉強だろう。
「さみしいジョシコーセーだね、あなたは」
髪に軽くブラッシングをかけながら、鏡の中の自分につぶやく。
朝食にもまだ早すぎる。だが、その支度には早すぎるという程ではない。
母屋の渡り廊下を過ぎ、食堂の裏手に回る。角を曲がった時、蒔(まき)に出会った。
「蒔さんおはよう」
「あらまぁお嬢様、おはようございます。今日はお早いですね。すみません、今お湯、沸かしますので」
食事一切を担う蒔も、もちろん一族の人間だ。傍系ではあるが御主たるユミの信頼が厚く、この大任をずっと任されている。彼女は由美のことをずっとお嬢様と呼んでいた。「由見」の言霊云々という理由ではなく、単に御主様の血を直接引く者の名を呼ぶなど失礼だ。ただそれだけの理由での「お嬢様」だった。蒔にとって由美も真由美も美由美も皆「お嬢様」だった。由美の母、和嘉子ですらも「お嬢様」。御主様の近親者は上級どころか最上級に当たる。そしてその最上級では差が出ようはずもなかった。美咲家の常識に従い、そして世間の常識にも縛られている蒔は自分を「凡人」と認識していた。だが実はその点こそが当主ユミの信頼を得ている理由だったのだが。
40代というより、もうすぐ50に届こうという彼女は毎日の食事の中でも、いつも同じ準備でよい朝食にこそ力を注いでいた。品書きは毎日同じ。しかし、朝食こそ一日の総てを左右するという確固たる信念を持つ彼女は、常に余裕を持って朝早くから調房に入る。そんな時間に由美が現れたのだ。驚かないはずはない。しかし、蒔も一応美咲家に名を連ねる以上、どんなこともありうることを理解していた。と同時に自分の役割こそ、美咲本家の人々の健康を守る要であるとも理解していた。その結果、どんな事件が起きたとしても、全く変わらず食事の用意をし続けてきた。毎日のその継続こそ御主一族の健康を守ってきたと信じる彼女は、単に思い込みが激しいおばさんなのかもしれないが。
「いいの。蒔さん気にしないで。ちょっと早く起きちゃったものだから。手伝うわ」
「えっ! そんな、そういうわけには参りません。席でお待ちくださいな、すぐに・・・」
由美はドアのノブをつかんだ蒔の背中にいつもの確固たる姿を見て取り、それ以上の口論はムダと悟った。しかし、言葉では抵抗しなかったが、蒔の後に続いて調房に入り、勝手に支度を始めた。
昔、自分の存在を否定していた頃も、由美は蒔には懐いていた。自分の気持ちを抑えきれず、さりとて総てを投げ出して泣くこともできぬ難儀なこの幼女にとって、薪の何があっても変化のない確固たる生き方は理想とも思えた。もちろん、自分には真似ができないことも分かっていたが。
成長してからも、時折由美は蒔と会話するためだけに、早朝にここを訪れた。久しぶりにそのつもりで来たのだろうか。何か困ったことになったのだろうか? ふと蒔はそう思ったが、すぐにその考えを忘れることにした。お嬢様の行動を予想することなど自分に許されるものではない。成すべき事を確実に成す。それが蒔の仕事なのだ。
いつもどおりの用意が早めに済むと、蒔はお茶を由美に差し出した。ワンピースは失敗だったな、と思いながら袖まくりを戻していた由美は蒔に礼を言って受け取った。
「今朝はね、何だか早く目が覚めちゃって。予定が変わったの。だから今日は何もすることがないのよ」
由美の言葉に蒔はその小さい目を少し見開いた。
「まぁ、そうでしたか。それはようございました。それでお嬢様は今日一日何をなさるおつもりですか?」
「うん、受験勉強をね。少しでも進めておこうかと思って」
その答えを聞いて、蒔はさらに目を開いた。
「それはいけません!」
驚いて今度は由美が目を見開いた。
「そういう日はのんびりするものです。折角神が与えてくれた大事な一日ですよ、お嬢様」
薪は真面目な顔で由美にそう言った。
美咲に名を連ねる者にとって「神」とは天国にいて世界を守る者のことではない。神殿に集い、人々の日常にさまざまに干渉してくる者たちのことでもない。この世界の理(ことわり)そのものを示す言葉だった。偶然と必然。この二つは見る者の立場によって変わるだけで、一つのものを示している。変化。動き。連続。それら総てを「神」と呼んでいた。
美咲の者にとって「神」とは崇めるものではない。なぜなら神に意志はない。無限の一瞬。永遠の変化。その動きである神とは、むしろ感じるものであった。「見る」力のない由美でも感じることはできた。その神が与えた一日。その必然性と偶然性の連なりは何を意味するのか。
「神が与えた一日・・・」
由美が無意識のうちにそうつぶやいた時、薪はうなづいて言葉を続けた。
「そうですよ。そういう日に、急いでいることや明日やろうと思っていたことをしてはいけません。折角の贈り物ですよ。何もせず、一日がどんなに長いかを感じるのが一番です。本当にそういう日には時間がゆっくり流れるものですよ。
一日は長いんです。いつかとても忙しい時にそれを思い出せばきっといいことがありますよ。そういうものです」
由美はただじっとしていた。薪の言葉が自分の体にしみ込んでいくのを感じていたのだ。美咲家の世界では七つの大いなる精霊族がある。その六つまでは実感できる。しかし七つ目の精霊だけは人が理解できるものではない。そこにあることは分かっていても、ただそれだけのもの。
七つ目の精霊。その名は時。
蒔の口から出た言葉はそのまま言霊となって由美の全身に満ちていった。「時」。その精霊の姿が見えたような気さえした。言霊が、いや、もうこれは真言といっていいだろう。その真なる言葉が由美という存在の中に溶け込み終えた時。彼女は微笑み、薪のしなびた、しかし力強い掌に手を添えた。
「うん。分かったわ」
本当に一日は長かった。午前中という時間がこんなに長いとは知らなかった。どうも何もしないというのは由美の性格に合わないようだ。とりあえず、十分に時の長さを実感した彼女は午後から部屋の模様替えを始めた。机を少しどかしてみる。明かりがもっと差し込む場所にしようと思ったのだ。すると、学校で無くしたと思っていたお気に入りのシャープペンが出てきた。
「神の与えたもうたもの、ね」
由美はそう言って笑いながらペンを筆箱にしまうと今度は衣装棚を動かしてみた。ちょっと向きを変えただけだが、部屋の印象がずいぶん変わった。最後に本棚を反対側の壁に付けることにした。多分これで部屋が広く見えるはずだ。そうは思ったものの、なにしろ由美は読書家で有名だ。膨大な本によって、紙の束がどんなに重いのか身を持って知ることになった。
「うーん、まず全部どかさないとだめね」
そう決心すると戻しやすいようにブロックごとに分けて本を床に置き出した。なるべく高く積まないと、すぐに床が埋もれてしまう。しかし積みすぎて崩れたら元の黙阿弥だ。全体の総量を暗算し、本の底面積から床に並ぶ列数を割り出した。本棚を旋回させるスペースと移動する道は残さねばならない。彼女は計算を繰り返した。一度廊下に出そうなどという考えは端から浮かばなかった。部屋は部屋、廊下は廊下という認識が染みついていたのである。もちろん誰かに手伝ってもらおうという考えも浮かばなかった。由美はそういう子だったのだ。
作業をてきぱきと進め、最近参考書に埋もれていた奥の列に達した時、茶色の薄い本に気が付いた。そうか。これを見つけたかったんだ。由美はその本を机の上に置き、改めて作業を再開した。ずいぶんと手間はかかったが、思ったとうりの効果を上げた。由美はふすまの外に立ち、部屋をながめて満足げに笑った。
「さて、と」
次は掃除だった。
総てが終わり、一息入れた由美は机に向かい、さっき見つけた卒業アルバムを広げる。三、四年の時一緒だった彼女。六年の時には確か三組だったはず。そのページはすぐに見つかった。
くりっとした瞳で短めのお下げの娘。彼女だ。
あなたがいてくれて良かった・・・。ありがとう・・・
「ありがとうって言うのは私の方。
なんて名前だったかしらね。あの子、元気でやっているかしら」
由美はそうつぶやくとそのまま目をつむる。
本当に一日は長かった。
彼女の日常 その一 由美の場合 Ende