<超かいき★くえすと>くえすたぁず


緋色の刃、朱鷺色の翼
其の壱・心

von:秋澤 弘

 第一章

 まだ朝霧の立ちこめる早朝。美咲の屋敷は既に目覚めていた。屋敷内はもちろん、隣接する修練場の術者や下屋敷の長老たちも広間に集まり、それぞれに現状を報告し、御主(みす)からの指示を受けていた。
 早朝の御前会議、早く言えば朝礼である。かつては毎日行われていたそうだが、戦時中に集合が困難になって途絶えた。戦後になってから再開したが数日に一度になり、最近は何か全員に通達することがある時に限り、集合がかけられていた。FAXやNETが発達した結果である。また、以前は参加できなかった分美咲家の代表者が出席するようになっていたのは交通網の発達によるものであろう。
 今日の議題は先日の鳴綾学園での事件以来、急速に深まっていた「真白き光の担い手教団」との関係についてであった。教団の目指す世界観と美咲の守らんとする理(ことわり)とは本来雲泥の差があり、互いに無視し合っていたのだが、あの一件以来、そうも行かなくなっているのが事実である。なにしろあれから三日と置かずに教団の術者や霊性会のメンバーが美咲の修練場を訪れていたのだ。かくいう今日も柳たち三名のメンバーが美由美の修行のため、修練場を訪れることになっている。柳本人はその目的が端から見てもはっきりしていたので疑問視はされていなかった。多分その目的に気づいていないのは美由美だけだったであろう。しかし、教団がそれを利用して何らかの行動を成さぬとは限らない。そういう仮定的な問題以外でも、教団からの正式な質問、通知も膨大な量になっていた。
 ここ数年、現界に起きている歪みの増大。教団もその意味をずっと模索していたのだ。理が大いに揺らぐその日。その予兆はそこかしこにあるのだから、今後も同様の疑問をぶつけて来る団体が増えるであろう。特に術者の家系ならばともかく、戦後に生まれた宗教法人とは全くつき合いがない。それらへの対処についてのテストケースとも言える教団への対応。もちろんこの会議のみで決まることではなかったが、問題提議を一族全員に示すことが必要と判断されたのである。
 その後で各自からの質疑応答や報告になった。分美咲家の一つ、尼崎の三咲家からは兵庫で起きた大規模な闇狩りについての報告が、修練場からは来年度募集する一般門下生数についての提案が、そして長老たちからは由美の新しい修行に必要な霊器使用の許可申請が成された。次いでその由美本人から、逗留している時の術者、筧啓介に神刀、もしくは霊刀を貸し出されたいという願いが出された。現在、彼は由美の懐刀を使用している。しかし、本来彼が得意とするのは長剣である。そのため美咲家の家宝にある刀のいずれかを貸してほしいという要望だ。今、それがこの公の席で出されたのは、先の一件で実際に闇狩りに出たことが理由である。由美の実質上のパートナーになった者への協力に対し一族としての回答が必要になったのだ。
 それまでは滞りなく進んでいた御前会議であったが、ここで意見が賛否まっぷたつに割れた。他家に手渡してよいものかと難色を示す者、縁戚でもある筧家の術者ならば別格ではという者、何らかの代償を筧家に求められないかと提案する者、筧家から出させるべきだとあくまで主張する者、由美の身を守る盾である以上、彼への協力が由美の命を守ることになると断言する者。種々様々な意見が出た後、御主はこう言った。
 「刃に選ばせよ」と。
 精霊を寄り付かせる神刀にせよ、術で練り上げた霊刀にせよ、己の意志があるかのように、その使い手を選ぶ。もしも啓介の腰に帯びられる事を望む刀があるならば貸し出そうというのだ。常時ではなく、あくまで由美と共同で事に当たる時のみという条件付きではあったが。結果、早急に宝物殿の鍵を開ける事になった。
 議題が出尽くし、最後にユミが終了を宣言すればお開きである。しかし、ユミは何か心に残るものがあるらしく、しばらくその手にある扇子を弄んでいた。やがて膝の上にそれを置き、ゆっくりと口を開いた。
 「件の一件は他家との関連という問題を出したのみにあらず。当家にも新たなる波が起こっている。次期御主である真由美が一件以後、己の壁に気づいた。あれが御主になるには必ず越えねばならぬ壁に。今後、あれへの対応は細心の注意をもってなされたい。
 以上だ」
 一族の者は深く礼をし、決められた順番どおりに退席した。由美と洋次朗を除いて。二人は残るように告げられていたからである。
 由美は真由美の筆頭知恵者になることに決まっている。本人が強くそれを望んでいたのだ。そして洋次朗は真由美の父である。ユミはこの二人には己の決断を告げて置かねばならぬと思ったのだ。
 「真由美は壁を越えられないかしれません」
 広い部屋にポツンと座っている二人に向けて、ユミは御主の声ではなく、己の言葉で語った。
 「なにしろ早すぎました。あの子の由見の技を育てることに注視しすぎた私の過ちです。もっと御主として、指導者としての教育を行うべきでした。せめて己の身を守る程度は術者としても。
 あの子はとても素直な子。きっとつらい思いをするだろう。だから自分の道を歩ませるのはせめて己の技を会得してから。そう思った母としての私の判断が過ちを導きました。
 私たちはあの子を失うかもしれません」
 ユミはすぐ側に座る由美と、遠く廊下の付近の末席に座る洋次朗に語りかけた。
 「しかし、それでも時が来てしまいました。あの子自身が乗り越えねばならぬ時が。私はその間、母としてあの子に接することはできません。現御主として次期御主を育てねばならないからです。あの子はきっとあなた方二人を頼ることでしょう。しかし、決して甘えさせないで下さい。羽根を休ませる事はかまいません。多分あなた方だけがあの子の支えになるでしょうから。しかし、あの子が自分で見いだした問題解決の決意を揺るがすことだけはしないでください」
 ユミは再び二人を見た。そして、穏やかな声で後を続けた。
 「二人だけには言っておきます。その日は間近です。今回、あの子が乗り切れなかった場合、それは美咲家の目的が失敗に終わることを意味しています。二度目の機会は来ないのです。なぜなら、その日は待ってはくれないからです。そして・・・
 その日、私は既にこの世にありません」
 二人は驚いて御主を見つめた。真由美の事だけを考えていた二人である。ユミの宣言は彼等の思考を止めるのに十分だった。
 「どの様にして私が死ぬのかまでは分かりません。しかし、見えたのです。その日、私はもういないことが。
 理が大いに揺らぐ日。真由美が御主としてこの美咲家を決戦に導くことになります。それはとてもつらい戦さになるでしょう。しかし、あの子自身が御主としての成長を遂げない限り、その戦さに美咲家が参戦することすらできないのです。
 もう間近です。それまでにあの子は乗り越えねばなりません。
 そして、その日。あなた方にあの子をお任せせねばなりません。あの子がなんとか越えたとしても、その日に至るまでのわずかな時で、あの子は母と師と御主を一度に失います。父として、知恵者として、どうかあの子をお願いします。私は母として、御主として僅かなことしかあの子にしてあげられませんでした。ただ、師としてのみ、あの子の由見の力を可能な限りの高みに導くのが精一杯だったのです。私の力の及ばぬ事を棚に上げてのお願いですが、どうか宜しくお願いいたします」
 ユミは御座から降り、床に跪いて二人に深く頭を垂れた。

 会議が長引く可能性を考えていた由美は制服で参加していたので、そのまま洋次朗の車で街まで送ってもらった。その間、二人は無言のままだった。それぞれに思うところが多すぎたのだ。校門の手前で車が停まり、由美は助手席から降りながら、車内で初めて口を開いた。
 「私にできることは少ないでしょう。でも、あの子には仲間がいます。きっと彼等の存在が教えてくれると思います。
 私はあの子を信じます」
 洋次朗は無言で頷いた。


 第二章

 授業中、真由美はずっと俯いていた。先日三日続けて学校を休み、出てきてからずっとこうだった。あれ程の大怪我をしながらも外見上は完治していたのだが、その実、ほころびをつくろった程度なので体のあちこちが痛んだ。特にペンを握ると右手が激痛を発したのがつらかった。しかしなにより、真由美を悲しませていたのはあの事件の記憶だった。
 病院から自分の部屋に帰った時には、幸せが一杯詰まったお部屋に戻れたのがうれしくて、うきうきしていた。その気持ちが沈んできたのは夜、日記を書いている時だった。あの日から付けていなかったので、都合四日分をまとめて書こうとした真由美は、真実に気づいたのである。書けたのはたった一行だったのだ。

 何もできなかった。

 それが真由美の心を暗く染めていた。あの事件で彼女が覚えている事はごく少ない。門に入った途端に見えた、時の結界。そしてその中心にある怖ろしくねじくれたモノの視線。自分の中にあった由美の「私に任せて。眠りなさい」という言葉。それだけである。意識が回復した時には病院のベッドの上だった。目の前にある美由美の泣き顔。そこまでの記憶がほとんどない。
 何もできなかった。
 助かったのは由美が自分と一緒にいてくれたからだ。美由美たちが懸命に探してくれたからだ。そうでなければ、自分は、いや、大事なお友達も皆、今頃生け贄になっていただろう。真由美はそれが悲しかった。怖ろしい前に悔しかった。
 実際にはあの「場」の異常性に真っ先に気づいたのは真由美自身である。由美は真由美の希望に添い、心を注ぎ込んだのだから。故にあの事件解決には真由美が必要不可欠だった。しかし、彼女自身はそうは思っていなかったのである。
 何もできなかった。
 思えばいつもそうだ。由美のいる超常研に自然と入会してから、これまでの事を思い返してみる。結局、自分がして来たのは救急箱の輸送係だ。療術が使えるわけでもないし、「天使隊」の女の子みたいに包帯の巻き方や応急処置がうまいわけでもない。いや、間違いなく下手な方だ。そんな自分を探索に連れていってくれるのには、たった一つの理由しか浮かばない。自分が美由美のおまけだからだ。
 真由美は美由美が大好きだ。由美も。だから二人と一緒にいたかった。できれば二人のためになりたかった。
 でも・・・。でも・・・。
 何もできない。それよりも、足を引っ張っているだけだ。だったら、大好きな二人に迷惑をかけるより、いっそ・・・。
 「退会届」
 夜、泣きながら書いたその封筒が真由美の鞄にある。それを出していなかったのは会室に顔を出す勇気がなかったからだ。美由美はあれ以来、柳たち霊性会のメンバーといつも一緒だ。だから美由美にも話せなかった。霊性会のメンバーはそのまま真由美にあの事件をまざまざと思い出させたからである。
 会室にもよらず、まっすぐに家に帰ってからはずっと部屋に閉じこもっていた。ずっと。
 クラスメイトたちは明るいはずの真由美の変化にいろんな噂を流していた。特に真実味を持って伝えられていたのが失恋説。いつも一緒だった隣のクラスの美由美が最近男子校の生徒とつき合いだした。生徒会同士が共同でイベントを行う事になっており、放課後、ちょくちょくその打ち合わせに来る青い制服の生徒たち。その中でもかっこいいと噂の三年生が何度も美由美を誘いに来ていたのだ。そしてその制服を見ると、真由美はあからさまに落ち込んだ。
 どうやら美由美がつき合いだした先輩に惚れていたらしい。
 そんな噂が級友たちに誠しやかに流れていた。真由美に親しい者は同情し、男を奪った冷血な親類を罵った。そうでない者はどろどろの三角関係を面白がった。しかし、そのどちらも真由美の心を悲しませるだけだった。
 美由美は姫の落胆に気づいてはいた。しかし、それが霊性会の生徒に恨まれていると勘違いしているからだと思っていたので、それを払拭するためにも事ある毎に霊性会のメンバーを誘い、友達だという事を示そうとした。結局勘違いしているのは彼女の方だったのだが。
 由美は総てを見抜いていた。しかし、彼女も真由美に言葉をかけることは控えていた。自分で見つけねばならない事だと思っていたからである。結果、真由美はあれからほとんど誰とも会話していなかった。

 授業後、掃除を終えた真由美は早々に鞄を持って靴を履き替えた。残っていると必ず誰かが誘いに来てくれるからだ。特に最近、シュンが真っ先にやってくる。彼は真由美の落ち込みに随分気を使っていた。それがまた落ち込む原因になったのだが。

 校門を出て大通りをとぼとぼと歩いていると、ばったりと雅菊子に出会った。みやび・あきこ。シュンの婚約者である。彼女は他校の生徒だが、当然鳴綾学園での事件をシュンから詳しく聞いていたので、暗い顔で歩いている真由美を放っておけなかった。祖父の面会時間にはまだ余裕があったことだし。真由美は自分の夢にまっすぐに進む菊子を常々尊敬していたので、無下に誘いを断れなかった。結果、十分後、二人は喫茶店で向かい合っていた。
 雅が一方的に語る話の話題は近づく夏休みの事だ。久しぶりに母が海外出張から帰ってくる。その前に大掃除をしておかないと。そう言って彼女は微笑んだ。祖父が入院してから、どんどん荒れ放題だから、と。
 雅は何も聞いては来なかった。それが真由美にはつらかった。むしろなじってほしかった。
 あなたの大切なシュンを傷つけたのは私なの。
 真由美は自分でも気づかぬ内に涙をこぼしていた。雅は彼女の顔を見て、唇を噛んだ。
 「もし、もしも私でよければ・・・。わけを教えてくれない?」
 事件以後、初めて真由美はそう問われた。雅の顔を見ることはできなかったが、由見たる真由美にはその想いが見えた。それは同情でも情けでもない。真摯な質問だった。どうしてそんなに落ち込んでいるの? どうして悲しいの? どうして抵抗しないの? どうして己の信じる道をつかみ取らないの?
 「雅さんには・・・。分からない・・・」
 真由美は震える喉から、かろうじてそう声を出した。
 「お願いだから決めつけないで。本当にそうかもしれない。でも分かるかもしれないわ」
 そう雅は静かに言うと、じっと待った。
 15分程経って、ウェイトレスが水を入れ替えに来た後、真由美はようやく口を開いた。
 「わたし、いてもしょうがないもの」
 「教えてくれる? どこにいてもしょうがないの?」
 雅はまた静かに言った。その言葉に、構わないでと叫びたくなったが、相手が雅なのでそれもできなかった。真由美は由美や母同様、彼女の生き方をも尊敬していたからだ。
 「会に・・・」
 「どうして? みんなに迷惑をかけたから?」
 真由美はふるふると首を振った。
 「役立たずだから・・・」
 そう言うとまた大粒の涙がこぼれてきた。嗚咽も始まる。雅はじっと待った。その姿は真由美の目に母を思い出させた。いつも反省させる時には母はそうして見守っていた。
 でも、もう反省してもどうしようもないことなの、おかぁさん。わたしは役立たずだから。
 そう思ってまた涙が溢れ掛けた時、さっきの雅の言葉を思い出した。

 久しぶりにお母さんがヘルシンキから帰ってくるの。今度は一週間日本にいるのよ。でもうちに泊まるのは一日だけなの。

 雅には父がいない。母も海外に行ったきりだ。おじいさんが入院してからは隣家であるシュンの家に居候している。恋人がいれば、悲しいとき、辛いとき、我慢できるのだろうか? 頑張れるのだろうか?
 「雅さん・・・。自分が嫌いになったこと、ある?」
 真由美の問いに雅は素直に答えた。ゆっくりと静かな声で。
 「よくあるわ。そうね、絵がうまく描けない時なんかにね。でも描けないから嫌いになるんじゃないの。そういう時にシュンにやつあたりしちゃったりするのよ。自分の責任なのに。そんな時は最悪ね。もっと描けなくなる。
 逆に構想に夢中になったりしている時もそうね。シュンが私の事を気遣って食事とか用意してくれるのに、放っておいて、って怒鳴っちゃった事があるの。あの時はその後何日もシュンに顔を合わせられなかったわ、自分が情けなくて恥ずかしくて。
 姫ちゃん。自分を嫌いになるのは誰にでもあると思うわ。きっとね」
 そうなんだ。雅さんはいつでも自分に自信があると思ってたのに。
 「そんな時、雅さんはどうするの?」
 うーん、と雅は少し考え込んだ。短く切った前髪が揺れる。真由美はボブっぽい髪型だが、雅は体育会系のようなショートカットだ。しかし、ふっくらと柔らかい表情の顔がそのスポーティな髪型と合いまって歳より大人びた知的な姿に見せていた。雅は自分が太っていると思っている。真由美は健康そうな体型程度だと思っていたが。その柔らかいが長い指が伸びてテーブルのコップをつかみ、雅は中の水を一口飲んだ。カランと氷の鳴る音がBGMの中でかすかに響く。
 「そうね、決まった方法はないわね。その時々で理由が違うから。でも、大体は考えてみることにしてるわ。
 どうして自分は今、ここに生きているのかってね」
 真由美は雅の顔をまっすぐに見た。
 「それで?」
 「結局人は自分の意志で生まれたわけじゃないでしょ? でも、生きているからにはきっとその理由があると思うの。私はね、祖父の画号を受け継ぐために生まれたようなものなの。三代目になるためにね。でも、それも生まれる前に決まっていたこと。
 じゃ、私が今いる理由って何だろう。それを考えてみるの。
 で、大抵はシュンを幸せにしてあげるため、って事に落ち着いちゃうのよね。ああ、ごめん、のろけになっちゃったかな?」
 雅は照れくさそうに微笑んだ。
 それがとっても自然で、とっても似合っていたので真由美もしばらくぶりに微笑んだ。
 「いいなぁ。そういう人がいて。それでその人も好きでいてくれて」
 「うーん、実はね、私とシュンっていつの間にかつきあってたでしょ? よく言うような恋のときめきっていうの、それが全然なかったのよね。だから、友達が一生懸命にラブレターを渡そうとしてたり、バレンタインのチョコを買いに行くのにつき合ったりしてると、ちょっとさみしくなるのよ。贅沢な悩みって分かっているけどね。でもやっぱりそんなときめき、してみたかった。
 それにね、私思うの。もしも私達の恋が終わってしまったら、きっと二人とも二度と恋ができないなって。人生、先のことなんて分からないでしょ? だから何が起きても満足していられるように、今を大事にしようって。
 もしも、もしもシュンが死んでしまったら。私は泣くわ。でもきっとその後で思うの。それでもシュンに会えて幸せだったって。そう思える様に毎日頑張ろうって。さっきの話に戻るけどね、自分が嫌いになった時、落ち込んだせいで大切な時間を無駄にしてしまったかもしれないって思うの。だから、私はこんなに自分勝手だけど、それでもシュンといられる時間を大事にするために、今、精一杯何かしようって。そう思うとね、落ち込んでいるのが勿体なくなるの。
 結局、私ってすごくわがままなのよね」
 「わがまま?」
 「そうよ。自分が嫌いになるのは欠点が見つかったからでしょ? それを解決しようともせずに、できる事だけやっちゃおう、なんて、わがままそのものじゃない?
 でも、それしかできないもの。もちろん直せる悪い癖とかは直すわ。シュンに嫌われたくないから。シュンに似合う女になりたいから。でも、直せないこともあるでしょ? そういうのを放っておいて、他の事で頑張ろうなんて、わがままよ」
 雅はいつもそう思っていた。そのわがままを見守ってくれるシュンに後ろめたい気持ちがあったのだ。
 「それでいいのかな」と真由美。雅は少し肩をすくめた。
 「他にしようがないもの。私は自分で絵を描くことに決めたの。祖父の画号を受け継ぐかどうかは、本当は二の次なのよ。洋画もやってみたいしね。シュンの暗室行くたびに、写真もやってみたいな、なんて思うし。でもとりあえず、日本画を学んできたから、やれるだけやってみるつもり。その後でどうなるかはその時考えるわ。
 だからね、姫ちゃん」
 雅は真由美の手を握った。
 「一番大事なのはね、自分ができることを頑張ってやってみることだと思うわ。一生懸命にね」
 「でも・・・。何もできないもの、わたし」
 「そんなことないわ。だって姫ちゃんの笑顔を見ると、私、自分も幸せになろうって思うもの」
 「幸せ?」
 「そう。あなたの笑顔は、なんていうのかな、幸せの本質っていうのかしら、コアっていうのかしら、これがあるから幸せなんだっていう何かを私に見せてくれるの」
 言霊。真由美の心にその言葉が浮かんだ。
 「精霊みたいなの?」
 「そう! 幸せの精霊! それがあなたの笑顔の中にあるの。私、いつかあなたの笑顔を描いてみたい。今の私では無理だけど。内包している本質を見ることはできても生かすだけの画力がないから」
 見ることはできても、それを生かすことができない。その言葉は真由美の心に突き刺さった。
 「どうすればいいの? どぉしたら生かせるの? どぉしたら見たことを役に立てるの?」
 真由美の真剣な表情に、雅は真相に触れたことを察した。慎重に言葉を選ぶが、よい言葉が浮かばない。しかし、相手はあの姫である。きっと言葉を飾っても意味がないだろう。そう思った雅は思ったとおりを口にした。
 「もっとよく見ること。そしてそれを伝える技術を磨くこと。そして、やっぱり何度もチャレンジしてみることね。
 祖父はね、鶏の絵で何度も賞をもらったわ。正直言って画家って儲からないの。売れるものを作るまでの絵の具代も出ないかも知れないほどたくさん習作を描くから。でも賞を取って有名になるといろいろと絵に関する依頼のお話が来てね、それでなんとか生活できるのよ。
 祖父のアトリエを改装する時にね、もうものすごい数の鶏の絵が出てきたわ。その中にね、鶏の本質があるの。初めの頃のスケッチはその本質がすごく荒削りで、もう魂そのものみたいにあるのよ。でもそれが強烈すぎて絵にはなっていないの。それがいろんな試行錯誤の末にね、いろんな方法で本質を現そうとしているのが分かるの。で、完成した絵、といってもその段階で完成した絵なんだけど、なにせ今も描いてるからね、病院で。今段階で一番最後の絵を見るとね、本質は隠れているのよ。そう、本当はそういうものなの。最初に形が見える。そして姿が。最後に本質が見える。それが祖父の絵ね。私のはまだまだよ。本質を伝えることすらできないから。だからね、今はよく見ることにしているわ。いろんなものをね。もっともっとよく見ることができるように」
 「もっとよく見ること・・・。
 じゃ、それを伝えることができたら、それでいいの? 本当はそれを使って何か出来るのに、私にはそれが出来ないの」
 「うーん。それを使って、ねぇ。
 私には良く分からないけど、それは周りの人に任せて良いんじゃないかしら。本質ってね、一つだけど、姿は一つじゃないの。カットされたダイヤモンドみたいにね、たくさんの面があるのよ。だから百人の画家が富士山を描けば百の富士山ができるの。でもそれら全部にそれぞれの本質の面があるのよ。だから、それをどう受け止めるか。それは鑑賞者に、というか、画家が伝えた人に任せていいんじゃないかしら。
 姫ちゃん、あなたは<見る>人なんでしょ? だったら見たものを伝えることだけにまずは専念してみたら? それが出来るようになってから、次はそれを利用する方法を考えればいいんじゃない? あるいは、そうね、それを使う人を捜したら? そうすればあなたは見る事に、そして伝えることに専念できるわよ、画家みたいにね。
 私はね、あなたが羨ましいの。だって本質が見えるんですもの。でも、見えているのにそれを伝えることができない。それは利き腕を失った画家のようなものなのかもしれないわね。
 でもね、姫ちゃん。本当に本質をしっかりと見れば、必ず伝える方法はあるわ。例えばね、自分では描けなくても、弟子を育てることはできるもの。そうでしょ? 絶対に方法はあるわ」
 そう言って雅は真由美の手を握る掌に力を込めた。 
 病院の面会時間に間に合うように雅は去っていった。真由美は雅の言葉を考えながら駅前を歩いていた。
 見ることに専念する。
 それができるようになったら、自分は役にたてるのだろうか? 落ち込んでいる真由美には分からなかった。


第三章

 その頃、美咲の屋敷に隣接する修練場で美由美は基礎体力作りに汗だくだった。最初は棒術を習うはずだったのだが、二回目の稽古から柳が棒術の亜流だという蹴撃術の得意な後輩を連れて来るようになり、今では彼等を師とした基礎訓練が行われていた。
 柳は正当派の棒使いである。しかし、他にも棒を主力にしながら拳でも牽制したり、あるいは相手の得物を掴んだりと言った事を同時に行う流派があった。彼自身は棒のみで闘い、守る。それが基本だったのだが、別に亜流を蔑視していたわけではない。会の闘士たちはみな筋肉の付き方も背格好も違う。それぞれに向いた戦い方がある。神の意に添いながら己の技量を最高に出す事。それが適うのならばどの流派でも差別するつもりはなかった。
 最初に美由美に基礎を教えたとき、既に柳は気づいていた。彼女は脚技を覚えるべきだと。美由美の卓越した跳躍力、そしてバランス感覚。これは天性のもので柳にはない。棒術を用いながら脚での攻撃、跳躍を同時に行う蹴撃術こそ、彼女の才能を開花できると気づいたのだ。だからこそ、わざわざ選んだ後輩を連れて訪れるようになった。
 修練場は週に三日、剣道の道場として稽古が行われている。街の少年剣士(一部は少女剣士もまじっていたが)たちに剣道を教えていたのだ。しかし今日は稽古がないため、道場は貸し切り状態だった。
 「もっと早く! 踏み込みが浅い!」
 ジャージ姿の美由美の動作に指示を出しているのは二年の緑坂だ。現在の霊性会で一番の蹴撃術の使い手である。彼は最初先輩の頼みをしぶしぶ聞いてここへ来た。なにしろ一番の使い手とはいえ、自分はまだまだ修行中の身。それが「師」の真似事など出来るはずもない。生真面目な性格であった彼はなんとかその頼みを断れないかと思ったが、総長である柳の頼みを無視することもできない。仕方がないので一度だけなら行ってみようと決めた。そして彼もまた美由美の脚力に唖然とし、美由美が女であることを心底残念がった。彼等の流派には女流闘士は存在しないからである。
 もしもいたとしても、実戦において美由美には致命的な欠点がある。一撃の重さがないのだ。それを生み出す筋力が足りない。特に爆発的な破壊力がないのだ。しかし、試合にあってそれは克服できる。その瞬発力と圧倒的な手業の数において。彼女の試合が見てみたい。できれば手合いをしてみたい。そう真剣に思った。だが、それは叶わぬ夢だ。いつかは女性の部門ができるかもしれないが、今は無理だ。しかし、この逸材を見逃すことはできない。正規で入門はできないが私的にならできる。ましてや己の我欲ではなく、総長からの指示なのだ。この脚力がどこまで跳ぶのか、それを見せてもらおう。そう決心するのに時間はかからなかった。以後は自分の事の様に彼女の上達ぶりを喜んでいたのである。
 「切り返しが遅い!」
 怒鳴られている美由美は普段ならこんな汗くさい事はしない主義だったのだが、やってみると結構面白い。自分の思い道理に体が動かなくて悔しい時の方が多いのだが、びしっと決まった時の着地感は爽快そのものだった。
 脚を主体にした武術を教えることにする。そう初日の終わりに柳に言われたとき、美由美は自分に棒術の才能が無かったのかとがっかりした。しかし、その夜の内に美由美のやる気は芽生えていた。風呂でぼーっと考え込んでいる内に。
 脚が主体なら手は空いている。棒でバランスを取りながら闘うのだから。なら短いが重いMGを抱えたままでのHP戦も可能かも。もしそれができるならすごいのではないか、と。
 やる気の出た美由美は、戦闘速度にまで至った超ドレッドノート級戦艦のようなものだ。ちっとやそっとでは向きすら変えられない。ましてや誰にも止められない。
 「よっしゃ。やってやるぜ」
 湯船から立ち上がり、超弩級娘がガッツポーズを取る。
 その叫びを聞き、階下で父がちょっと考え込んだ。今度は一体何をやるんだろうか、と。

 やってやる、の意気はそのままずっと持続していた。やる以上、必ず会得してやる。それまでは頑張るぜ!
 反復横飛び。三往復毎に一回飛び上がる。次いで軸足のみでの横飛び。
 「そこで蹴り上げる! よし、もう一度! 高く! 早く! 右に跳ぶ。停まる!
 よーし、OKだ。今日はここまで!」
 緑坂はタオルを投げてよこした。
 すぐに相棒の大沼が美由美に上着を掛け、脚のマッサージに入る。
 「左の、うん、そこが随分張っているだろう。美咲、夜、風呂でもよくマッサージしておけよ」
 「あいよー・・・」
 元気が枕言葉の美由美でも流石に疲労は隠せない。力のこもらぬ返事を返すくらいしか元気は残っていないのだ。大沼に脚を預けたまま、美由美はふと道場の奥を見た。柳と啓介が見合ったまま動かないでいる。手合いのはずだが、まるで見つめ合ってるみたいだ。そう思った美由美は笑い出しそうになるのを懸命にこらえた。無精ひげだらけの啓介と生真面目一直線の柳。この二人で熱烈恋愛感情というのはあまりに笑かしてくれる想像だったからだ。やおい娘と自他共に認めるクラスメートの愛ちゃんは「かけ算なら粗野×真面目のカップルがサイコー。真面目が眼鏡ならその逆もおっけー」とか言っていたが。美由美にはお笑いにしかならない想像だった。
 不意にその込み上げていた笑いが消える。ぞくっとするほどの気迫。大沼も緑坂も手を止め、その瞬間を見た。
 動いたのは柳だった。左から回り込み、啓介の脇に払いを入れる。身をかわすまでもなく向きを変えるだけで流す啓介。戻る棒の反対側で牽制を掛け、体を回して啓介に詰め寄る柳。その軸足が回転した瞬間、啓介の刀が鞘走った。全力を込めていた棒撃が切っ先だけで逸らされる。瞬きする間もないうちに啓介の体は柳の真横にいた。その剣先を柳のみぞうちに付けて。
 「参りました」
 柳の完敗である。これで今日までの五回、全敗だった。
 柳はこれまで刀相手に負けたことはなかった。間合いを取りつつ、剣撃を弾くだけのスピードと、重い六角丈を軽々と動かす筋肉の動きで勝ち続けてきたのだ、啓介に出会うまでは。その技は彼の居合いには及ばなかったのである。切り結ぶのであれば二人はほぼ互角の勝負なのだが、距離があっては柳に勝ち目はなかった。通例は棒術が有利なはずなのだが。これまで訓練で闘って来た相手が剣術ではさほど腕前のある者ではなかったのか。そう柳は思うほどだった。
 「ま、防戦ならお前が有利なんだがな」
 そう言って啓介は試合刀の背で自分の肩をぽんぽんと叩いた。
 「お前の構えを切り崩すのは難しいからなぁ。だが、それじゃ勝てない。分かったろ、お前の決定打の間合いは俺の居合いの間合いより狭いんだよ」
 柳は俯いた。そのとおりだ。渾身の一撃を決めるための距離に入り込んだ時にはもう啓介の剣が鞘走っている。どうしてもそれを見切れなかった。
 「お前の攻撃は一本槍なんだ。全身のバネで殴ろうとする。だから簡単に読めちゃうんだよ。全身ばらばらに動かしながら、一点で、狙い済ました一点で全部がかみ合うようにしないとな」
 「無理です。自分にはそんな器用なこと・・・」
 柳は悔しいというより、恥ずかしかった。負け勝負を美由美にみられていたからではない。自分は強いと思っていた事が恥ずかしかったのだ。
 「そうか。できねぇか。だったらよ、道は一つだ」
 啓介の言葉にふっと顔を上げる柳。
 「一つ?」
 「読まれようが防御されようが、相手をぶんのめすだけ、その技を磨け。返し技をくらおうが、そのままぶっつぶせるくらいになるまでな。そうなってこそ、必殺技だ」
 「この前の奴にも言われました。必ず倒す技こそが必殺技だと。
 そうですね、その方が自分に向いているようです。
 ありがとうございました」
 頭を垂れる柳に、啓介は片手をひらひら振って立ち去り掛けた。
 「ま、いい汗かけたぜ。それによ、やな坊。俺がお前さんの歳の頃だったら、まず文句なしでお前の勝ちだ。俺はあの頃は突っ込むことしか能がなかったからな。人間は成長するんだぜ。本当によ。俺だってちったぁ成長したんだからな。はっはっは。ま、そういうことだ。んじゃな。またな」
 啓介が出ていった後で、柳は美由美に近づいてきた。
 「またあしらわれてしまった。本当に勝ち目がない。困ったものだな、ははは」
 そう言う柳は全く困った様子がなかった。そうか、こいつ、誰かに似てると思ったら、殿下先輩に似てるんだ。美由美は発見した。性格は正反対のようだが、困難にぶつかった時のこの顔。そう、殿下そっくりだったのである。
 「成る程ね。ジンさん、いつか、ぜってー勝つって思ってるっしょ」
 「当然だ」
 やっぱ似てるわ。そう思って美由美はけらけら笑った。


 第四章
 
 啓介は屋敷の門をくぐり、あてがわれている西側の離れの方へ歩いていった。離れと言っても名ばかりで、渡り廊下で結ばれてはいるが、一応小さいなりに玄関もあり、室内には狭いながらトイレ込みのユニットバスに調理場も付いている。規模は小さいが2DKにバス付きのマンションという感じだ。同じ造りのものが五つ並んでおり、啓介の部屋が一番奥だが、今ここを使っているのは彼だけだ。
 いい汗をかいた。しかし、啓介はおもいきり喜べる状態ではない。刀だからこそ、棒使いとも戦えるのだ。いつぞやの<闇の姫君>戦で愛刀を失った啓介は美咲の懐刀を借りている。術力を込めることで十メートル以上も刃を伸ばす、霊刀である。あれはあれですごいものだ。攻撃力にかけては文句がない。しかし、防御には心許なかった。相手が棒や刀ならともかく、妖し共の操る思念の鞭のように自在に動くモノから身を守るには懐刀は短すぎた。それに刃が伸びるとはいえ、それは実体ではない。飛んでくる矢などの物体を弾くことも適わないのだ。一度本家に帰り、あの石頭共に頭を下げてもう一本もらうか。でもなぁ。そんな思いが彼の足取りを乱していた。
 玄関を開けて部屋に入る。鍵など無論かけていない。すぐ右にあるバスに直行してシャワーを浴びた。熱いのが最高なのだが、今の時期には出てから茹で蛸になる。そこで仕上げに冷たいのを全身に浴び、すっきりするのが最近の好みだ。ばばっと浴びると体から熱が消え、すっかりと心地よくなった。屋敷の中は基本的に禁酒なのでビールはないが、冷蔵庫にアクエリアスレモンが入っている。その一口を待ちきれず、タオルを腰に巻いてバスを出た。
 出て目の前にキッチンがある。冷蔵庫を開けて缶を取ると、足で冷蔵庫を閉め鼻歌混じりでドアを開けて室内に入った。
 目の前に美咲がいた。一瞬動きを止める、タオル一丁の啓介。見つめる和服姿の由美。
 「えっちー!」
 叫んだのは由美ではない。啓介だ。
 「上機嫌だな、啓介」
 由美は不機嫌そうだ。啓介はパニックを抑え、かろうじて口を開いた。
 「お、お前、どっから・・・」
 「玄関」
 「いや、そうじゃなくて、人の部屋に勝手にだな・・・」
 「ここは私の屋敷だが」
 啓介は抗議を諦めた。口でかなう相手ではないのだ。
 「なんの用だ、急に・・・」
 「そう、急だ。すぐにそれに着替えろ。御主様がお待ちかねだ」
 「御主ぅ?」
 啓介は由美が指さした机の上を見た。そこに見覚えのある家紋の印された箱がある。三日月剣花菱。筧家の家紋である。
 「? おい、そりゃ、俺の・・・」
 「そうだ。岩槻の筧家から送られていたお前の紋付きだ。早く着替えろ。広間で待つ」
 「何だ、誰か来たのか?」
 「いや。
 啓介。これが何だか分かるか?」
 謎めいた微笑みと共に由美が見せたのはプラスチック製のカードだった。
 「テレカ?」
 「愚か者。これは倉のセキュリティーカードだ」
 「倉?」
 「美咲家代々の重宝が眠る倉だ。いにしえの退魔師や御崎一党が使った矛や太刀、それに刀も随分ある」
 啓介は目を見開いた。
 「かたなぁ? おいおい、そりゃ、つまり、こういうことか・・・」
 「お前が説明すると時間がかかる。私が言う。黙って聞け。お前は私のパートナーだ。前回の様に美咲の退魔業に出ることもありうる。その時のみ、剣の貸し出しを許可すると御主様が決定なさった。ただし、神矛にせよ霊刀にせよ、お前が持てれば、の話だ。
 分かったらさっさと着替えろ。御主様たちがお待ちかねだ」
 そう言い切ると由美は半裸の啓介の脇をすり抜けて、出行った。
 

 美咲の倉は四層に別れている。それぞれに入る作法があるのだが、今回入るのはその一番奥。つまり一番作法が面倒くさい場所だ。長老三人と御主、そして知恵者二人が先行し、由美と啓介が共に正装でそれに続いていた。と言っても礼服にあたる服装の無い美咲家である。紋付き袴姿の隣に立つ由美は質素な黒い振り袖姿だ。
 やっとの事で武器庫にあたる「矢倉」に付いたとき、もう啓介は退屈しきっていた。
 「あくびをこらえろ! すぐに涎を垂らす事になるのだ、少しは我慢しろ」
 さして背丈の変わらぬ由美に耳元でそうささやかれ、啓介はあわてて口を閉じた。
 そして、着いた先でその口をあんぐりと開けた。
 筧本家にも宝物殿がある。その一角、検非違物処と呼ばれる武器庫にもぎっしりと名刀があった。美咲家は見る家系である。故に戦闘向きではないので、スケール的に検非違物処を狭くした倉庫のような場所を想像していた啓介は、その博物館の様なガラスケースだらけの大きな地下室に仰天した。
 御主たちは室内に入ると脇へどいた。二人はそのまま中に進み、保湿ケースに眠るいにしえの銘刀に見入っていた。
 数は筧の数割にも満たないだろう。しかし、その質は・・・
 「ど、ど、ど・・・」
 「どうしてこんな物が美咲にあるのか、というのか?」
 こくこくと頷く啓介。その目はそこかしこにある銘刀に目移り状態だ。
 「美咲家は退魔師の家系だ。しかしその主力は術者。彼女たちが見込んだもののふを婿に迎え、子を成して来た。しかし、美咲家には女子しか生まれない。昔からな。故にその子はまた術者になる。そのため、刀が子に伝わることはないのだよ。その時その時で最高レベルの剣士の腰に下がっていた刀は、剣士の死と共にここに眠る事になるのだ。
 代々子孫に伝わり、さしもの銘刀も折れ、欠けて摩耗するのが定めであったお前の家とは違うのだ。そのままの形でここに眠るのだよ。ちなみにお前が使っている守り刀は戦国時代に作られた霊刀だ。銘は白令笙・白露という。私の前には明治時代後期に使用されたことがあるだけだった」
 由美の説明を聞きながらも、啓介は勿体ないとつぶやくだけで、目を皿の様にして刀身に見入っていた。ほとんどが刀身のみで、柄はない。ただし、鍔が一緒に並んでいるものもあったし、いかにもという造りの鞘が刀と共に置かれているものも幾つかはあったが。
 そのうち、彼は一本の太刀に目を留めた。これは業物だ。しかし、何かおかしい。照り返しを確認する。美しい。だが何かおかしい。
 「触っていいか?」
 由美は無言でケースの下にあるレバーを外した。羽織を脱ぎ、そっとガラスをどかし、その太刀を手にする啓介。ずっしりと重い。随分と手入れもよく、鞘にもすんなり収まった。しかし。啓介はまた口の中でその言葉を発した。向きを変え、通路に向けて抜く。よい感触だ。しかし・・・。
 「なんか変だな、この太刀。刃が、そのぅ、無いみたいっていうか、まるで中が空洞みたいっていうか」
 「? 軽いのか?」
 「いや、重さは十分にある。でも・・・」
 「気が宿っていないのだ」
 後ろから掛けられた声に振り向く二人。御主が側に来ていた。
 「その太刀は妖しを宿していたそうだ。持ち主に忠実に仕え、自在に変幻する妖しを。しかし、戦さで持ち主を失い、妖しも主人と共に死を選んだそうな。以来、その刃には気が籠もった事はない。妖しは余程大物だったのだろう、容量があまりに大きく、収めるだけの気を集めることができないのだ。主を守りきれなかった妖しの思いがそれを許さないのだとも言われている。
 死した主が血筋の最後の者。彼の死を看取った美咲の術者が託され、当家で預かったのだ」
 啓介は再び刀身を見た。そうか。それで物足りないのか。
 「いい剣なんだがな。確かにそれじゃ霊は切れんな」
 再び鞘に納める。啓介は刀が本業だが、もちろん矛も太刀も小柄の技も修得している。平安どころか奈良の都にまで遡る歴史を誇る筧家の霊器には刀以外の物が多かったからだ。
 「ふんっ」
 気合いと共に居合いの様に抜刀する。
 「惜しい、これで中身がありゃ最高の刃なのに。ちくしょう、中身さえありゃな」
 二度程空を切り、ケースに戻した。
 「手応えがない。だめだな、こりゃ」
 しまうのは長老たちに任せ、二人は他の剣を捜した。
 すぐ側に見事な直ぐ刃があった。細く小振りだが、儀式刀ではなく、間違いなく実戦用だ。
 「こりゃすげぇ」
 啓介が目を見張ると、隣で由美もうなづく。
 「うむ。霊力もかなりのものだ」
 だが、ユミが首を振った。
 「それはお前には使えぬ。陰気の刃だからな。女性(にょしょう)にしか従わんよ」
 「陰気?」
 啓介は何かを思いだしかけて、考え込む。やがてぽん、と手を叩いた。
 「こりゃ、月時雨だ! うちの御座主の陽気の刃、轟時雨と対になってた奴だ! 確かとうの昔に、御座主を守って持ち主もろとも吹っ飛んだって教わったが。なんでこれがお前のとこにあるんだ? 本物か、これ!?」
 由美はきょとんとして目を丸くする。孫の後ろからユミが代わりに答えた。先ほどまでと違い、他家の者に語る礼を持った口振りで。
 「筧と美咲、両家の間にまだ血縁が無かった頃、不幸な出来事がありました。それはその時の謝罪の証として筧から美咲に密かに贈られたもの。両家が血によって結ばれた今となっては謂われを知るは両家の当主のみ。啓介殿は筧の一族。深く問わぬ方が良いでしょう。恥はもうすすがれました。とうの昔に。美咲も水に流すことにして久しいのです。今更蒸し返さぬが両家のためです」
 そう言われてしまっては啓介も畏まって「はっ」と短く答えるしかなかった。見なかった事にしよう。そう思った。
 気を取り直して他のケースを見て回る。いづれ曰く付きの銘刀ばかりだ。二代目弧張路。本嶺。これはユミに解説してもらうまでもなく知っていた。たった三本しか鍛えられなかった幻の刃だ。まだ現存していたと知ったら筧の剣術師範が滂沱するだろう。しかし、いかなる銘刀であろうとも、霊体を捉えられなければ意味がない。炎と土、そして水の力で鍛えられた日本刀である以上、当然攻撃はできるが、通常の造りでは駆逐するのが精一杯だ。使い手が剣の銘に見合う剣豪であれば気合いでなんとかなるのだが。刀が現存していても、今やかつての剣豪の方が残ってはいないのだ。
 逆に対霊体戦専用の拵えの物も啓介には向かない。見たことのない造りの古代刀があった。銘ももちろん無い。啓介の目からも霊力を十分に宿せることが明らかだ。しかし、刃は堅すぎ、人を切るなどできないだろう。これはもう霊刀と言うよりは霊器だ。
 「すごいんだろうがなぁ。簡単に折れちまうよな」
 啓介が諦めきれずにその刀に見入っている間に、由美がなかなか良い造りの刀を見つけた。乱れ刃も見事な刀身だ。
 「そんじゃ早速・・・」
 そう言って手を伸ばした啓介は動きを止めた。指先にちりちりと痛みが走る。なるほど。さすがは神刀だ。そう啓介は納得し、それを諦めた。
 「だめだ。俺じゃ似合わねぇってさ」
 苦笑して他の剣を探す。柳刃の美しいこしらえの物に心惹かれたが、ケースを開けるまでもなく、御主が言った。
 「それは雪月。それも女にしか振るえぬ」
 「済まぬな、啓介。普通の拵えならともかく、霊刀はほとんどが女性用だ。なにせ美咲だからな」と由美。
 「いっそ女にでもなるか、ははは・・・」
 啓介は力無く笑ってから頭を掻いて他のを探した。
 こうしてもうほとんど見てしまった。名だたる銘刀である程に主人を選ぶ。突くよりも斬るよりも、居合いに重きを成す啓介の剣術に添うものはほとんどなかった。
 と、壁にずらりと並んでいる刀の一本が目に入った。朱塗りの鞘のままなので状態は分からないがなかなか良さそうだ。
 「ここのはなんだ? 未整理品か?」
 由美がロックを開けている内に御主がその問いに答えた。
 「矢倉の剣は実戦に備えていつでも使えるように手入れしている。その棚に並ぶのは実戦向きでない物や、あまりに特殊故、帯びる者がない物だ。故にあまり手入れされておらぬ」
 「開いたぞ」
 由美の言葉に朱塗りの鞘に手を伸ばす。しかし、その寸前、啓介の手は止まった。
 「駄目か、それも」と由美が言う。
 「いや、そうじゃねぇ。なんか、こっちが・・・」
 啓介は朱塗りの隣にあるなんの飾りもないが鞘だけは黒漆の上等な造りの方に手を伸ばした。全く目立たない剣だった。周囲の剣に溶け込んでいるかの様に。目の前に来るまで見えてすらいなかった様に。
 啓介は戸惑いながらそれに手を触れた。何か眠っている力を感じた。鍔を見ると札を寄って造ったこよりのような物で封がしてある。御主を振り返ると彼女は無言で頷いた。そこでそれを破った啓介はまずは鞘ごと掴んでみる。とりあえず袴の帯に差してみる。
 沈黙している啓介を皆が見守っていた。その剣の素性を知っている御主と長老は緊張した面もちでそれを見ていた。不意に啓介の手が動く。瞬時に鞘走り、剣は啓介の視線の高さでぴたりと止まった。巻き起こった突風に思わず顔をかばう長老たち。
 「な、なにが?」と、普段冷静な由美さえ驚きの声を挙げた。
 啓介はそのまま空を数回斬る。左手に持ち替えてまた二度振る。ついで両手で正眼の構えに入る。しばらくそのままだったが、すっと鞘に刃を納めた。
 「なるほどな。こいつは相当修羅場をこなしてきたみたいだな」
 「どうやらすごそうだな。しかし手入れがいるのではないか? ここの棚のは現状保管という状態だったからな」
 「いや、簡単なので十分だ。これはいいぜ。なんせ持ち主が皆俺と同じ剣の使い方だったらしいからな。間近の敵に必殺の居合いって奴だ。こりゃいいぜ。良い品だ。
 なぁ、こいつに術を仕込めるか?」
 由美が良く見ようとした時、御主が首を振った。
 「その必要はない。それは霊刀ではない。神刀だ。術力を込めるのではなく、寄り付かせる方だ。しかも、どうやらさっきの抜刀ですでに寄り付いておる。お主が呼んだのは風の精霊だな、それは」
 啓介はちょっと考え込んだ。
 「風以外を寄り付かせることは可能ですか、御主様。その、例えば<時>を」
 啓介が敬語を使いユミに問うた。
 「無論。神刀として最高位の容量を持つからな。だが、その力の深さ故にそれを使いこなすのはお主には無理だろう。誰も用いる者がおらぬのでそこにあったのだからな」
 「無理ですか。それは残念です」
 啓介は心底残念そうだった。
 「お主一人ではな。しかし由美となら使えるかもしれぬ。その剣はな、術と剣の双方を極めた者にしか使いこなせぬ。かつて幕末期に御主であった諭壬が退魔師時代に使っていた剣だからな」
 諭壬(ゆみ)。その名を聞いて由美は凍り付いた。剣豪であった父に手ほどきを受けた希代の剣士であり、また歴代御主の中でも術者としての高い実力で有名な祖先。美咲の一族にとって知らぬ者のいない名だ。しかし、由美にとってはさらに身近な存在だ。間接的な師と呼んでも良いだろう。諭壬こそ、美咲の練術法を現在の形にまとめた本人なのだ。そして、さらに二人には切っても切れない縁があった。
 「御主様、で、では、これが・・・」
 「<七つの剣>」とユミはその名を告げた。
 由美は呆然としてその古びた刀を見つめた。由美の切り札でもある七剣(ななのへのつるぎ)。その名は諭壬の剣から来ていたのだから。
 「しかし、それは・・・」
 諭壬と共に墓に眠ったはず。そう言いかけた孫娘に御主が答えた。
 「七つの剣自体、古代の矛を江戸時代に打ち直した物。それを当時の主力であった七人の退魔師にそれぞれ一振り、合計七振り造ったことが名の起こり。しかし、結局五本しか実戦には出なかった。そしてそれぞれの主と共に墓に入り、二振りが残った。幕末期、諭壬はその二振りを腰に帯びて合戦に、そして魔性狩りに出ておった。彼女にしか使えなかったのでな。大抵一本は結界を造るのに使っていたらしいが。動乱の時期が過ぎ明治の新時代になり、廃刀令が出た。諭壬はそれを時代の流れと尊重し、諭壬と共に一振りが眠りに就き、最後の一振りだけが残った。
 私が現役であった頃、退魔師として名を同じくする剣士の力を借りて私が帯びていた。ただし剣としてではなく練術結界を生む核としてな。彼女の最期と共に、私だけでは使えなくなった。それ以来ここで眠っていたのだ」
 ユミは万感の思いを込めてその剣を見つめた。
 「私はその剣の助けを借りて七とせの術をかろうじて会得した。お主が一人で成した事をな。我らはこの剣の力を出し切る事はできなんだ。だが、この剣を練術結界の核としてではなく、刃としてお前たち二人の意志で振ることができれば、諭壬の手にあるかのように実力を存分に発揮できるであろう。幕末期に一度だけ成したという真なる力をな」
 そう言い、ユミは懐から小さな包みを出し、由美に手渡した。それを開けると一つの鈴があった。
 「諭壬が退魔師であった頃、身に付けておった鈴を姿写しの術法で真似た物だ。御主になると共に長老に返し、下屋敷でずっと保管しておったもののコピーだ。もちろんその名は諭壬。それがお主たち二人の仲立ちをしてくれるであろう」
 振るえる手の中に静かに眠る鈴を見る由美。
 「で、では、御主様、最初から<七つの剣>を・・・」
 「うむ。それを選ぶであろうと分かっておった。私も由見だからな。来るべき戦さに向け、かつての我等が剣、七つの剣の最後の一振りが再び世に出る事は分かっておったよ。私が、私たちが出せなかった真の姿でな」


第五章

 翌日の放課後。真由美は例のようにそそくさと学校を出た。今日は霊性会のメンバーが学校に来る事になっていたからだ。
 しかし、まっすぐに帰ると時間を持て余してしまう。お部屋に閉じこもっているのがつらい。でも街を歩いていてはまた誰かに会うかも知れない。仕方ないので公園に行くことにした。
 美咲の山の麓近い市民公園の方が静かで好きだった。しかし、あそこは一族の誰かがいるかもしれない。そこで駅前の繁華街にある公園に行った。このあたりは夜にはネオン街になる。昼間は当然無人状態で廃墟の様な一角だ。澱みも多く、濁りも多い。だから真由美はここが嫌いだった。しかしここには知り合いが来る可能性がない。だからここしかない。そう決心して重い足取りで中に入る。
 狭い公園では思いの他たくさんの市民が憩っていた。営業帰りだろうかサラリーマンがベンチに寝そべりながらスポーツ新聞を読んでいる。犬の散歩に来ているお爺さんが手綱を持ったまま芝生で眠っている。手綱の先にいる老犬も丸まって眠っていた。駅前のビル街のOLたちだろうか、制服姿の女性が数人、ブランコに乗って噂話に盛り上がっているようだ。真由美の目には種々雑多なものが写っていたが、覚悟していたほど悪い物は見えなかった。やはり夏が近づいて陽が長くなっているからだろうか。まだ黄昏には程遠い明るさだった。怪しい街並みの方を見なければここにいても大丈夫そうだった。
 真由美はシーソーの側にあったベンチに座った。ふうとため息を付く。こんなのは自分らしくない。それは分かっていた。しかし、これまでの自分が嫌になった今の真由美には、自分らしい、という考え自体が嫌いになっていた。

 自分には何もできない。
 その思いは変わってはいなかった。雅さんの様に強くないから。自分に自信なんて持てないから。
 見る力なんか無ければ良かった。そうすれば余計な思いをしなくていい。美咲の家に生まれたこと自体も悔やんだが、そうしたら母にも由美ねぇさんにもみゆみにも会えなかった。だったら力がなければよかったのだ。美佐子姉様みたいに自信に満ちた生き方はできなかっただろうけど、和嘉子姉様のように、力が無いなら無いなりに事務職で美咲家に尽くすこともできたのだから。そして母が決めてくれた相手を愛し、暮らしていけたら良かったのに。
 どうしてこんな力があるんだろう。何にも役に立たないのに。
 そんな事をぼーっと思っていた時、急に声がかけられた。
 「おー、ぼけっ子、何たそがれてんのよ」
 振り向くまでもなかった。言魂と共に真由美にはその姿も表情も見えたから。
 「・・・」
 無言の真由美に、その声の主は困惑した。
 「ちょっと、姫ちゃん、大丈夫? どこか痛いの?」
 昼夜かまわず出没する節操の無い<成仏しない娘さん>こと白石春香は真由美の前に周ってしゃがみこみ、俯いている顔をのぞき込んだ。心配そうな顔。そしてその表情どおりに心配している心が見えた。素直な人なんだな。真由美は思った。素直というより純粋なのだろう。その純粋さが彼女の特殊な存在を形成しているのだ。そこまで一目で見えてしまった真由美はまた悲しくなった。そんな事が分かっても何にもならないのに。
 「誰か呼んでこようか? つり目のねーさん? 柔道男?」
 その言葉がそのまま会のメンバーを思い出させた。真由美の目に涙が溢れる。
 白石は気になったが、泣いているのを見ているのも何だなと思い、隣に座った。組んだ足をぶらぶらさせながら何て話しかけようかと考え込む白石。
 「あ、あのさぁ、さっき変なの見なかった? なんか赤いキューピーみたいの」
 真由美は無言で首を振った。
 「なんかふらふら飛んでたんだよね。怪しいお兄さんたちに追っかけられててさ。事件かと思って来てみたんだけど。こっちに来たと思ったんだけどなぁ」
 沈黙が嫌いな白石はそのまま話し続けた。
 「ほら、何て言うの、天使? グラマーですっぽんぽんのおねーさんに羽根が生えてる方じゃなくてさ、キューピーさんみたいな小さいの。あんなのがよたよた飛んでたのよ。でも小悪魔の方かな? よく見えなかったから分かんないけど、とにかく小さくて羽根が生えてるのがね、追っかけられてたんだ」
 真由美は顔を上げた。天使? 小悪魔? 一体何のことだろう? ぼっこ系かと思ったが羽根が生えているという。ぼっこ系は羽根なんか使わない。何だろう。このあたりに棲むものたちは大抵見たことがあるのに。
 「なーんかやばそうなお兄さんでさ、追ってるのが。面白そうってより、怖そうだったんでさ、ちょっと離れて付いてきたら、見失っちゃった。んであんたがいたからさ、聞いてみようと思ったんだけど」
 そう言って白石はまた脚をぶらぶらさせた。真由美はふっとそれを見つめた。制服には似合わないけど、膝のすぐ下まである随分長くてかっこいいブーツだった。
 「ブーツ買ったの?」と真由美。
 「う、うん。まぁね」
 山口ならともかく、この真面目そうな子にブランクアウトしてガメてきたとは言えない白石は言葉を濁した。鉛が絶縁体の様な役割をするのを知った白石は釣具屋で買ってきた板鉛をブーツの内側に止めて履いていた。急に走ったり浮いたりすると落ちてしまうが、歩いている分には脚がないのがばれないからだ。
 「でもおかしいなぁ。こっちに来なかったって事は、えっち街に入ったのかなぁ。
 あ!」
 声につられてついそっちを見てしまう真由美。その目にいやらしい澱みが見えたが、それと同時に何か、飛ぶものが見えた。真由美の目には深紅の影に見えた。カラスくらいの大きさだろうか。でも確かに手足がある。それは異界にも、三界にも、その外にも見えた。
 一体何? 真由美はそんな存在を見たことがなかった。見える範囲のあらゆる界にある影。ぞっとした瞬間、その思いが見える。

 <主様、主様、いずこに? 主様! 助けて>
 

 と、不意に何か伸びるのが見えた。術だ。なにかの封印系の術がその影をとらえた。と、その途端、羽根が動きを止め、落下する。
 「きゃあ!」
 真由美は立ち上がり悲鳴を挙げた。それはけばけばしいピンクのビルの屋上に落ちた。その途端、その屋上全体の空間が閉じられた。結界だ。
 「なーんかヤバイみたいね。いかなくて良かった」と白石が語った時、真由美は弾かれたように走り出した。
 「ちょっと姫ちゃん! やめときなって!」
 制止する白石をそこに残し、真由美は一直線に走っていく。
 「あーあ。知ーらないっと。あんたみたいなお嬢さんに、えっち街はきついんじゃないかなぁ」
 白石はそうつぶやくと、ゲーセンに向かって歩いて(?)行った。


 第六章

 スナックやあやしいお店がたくさん入っている雑居ビル。本来は閉まっていたのであろうシャッターは破壊されていた。真由美はそのピンクのビルに飛び込んだ。エレベーターがある。しかし、電気が来ていないようだ。壊れているのではない。壊されたのだ。それが分かり、恐怖に包まれたが、あの影の発した心の記憶が真由美を突き動かした。階段を走る。四階あたりで走るというよりは登るになり、七階あたりで這い上がるになった。ぜぇぜぇ息を切らしながら最後の踊り場に至る。そこに結界が見えた。知らない結界だったらどうしようかとも思っていたが、間近で見ると単なる術法結界だ。これなら簡単にほころびを見出せる。一般人はもちろん術者ですら入れない結界ではあるのだが、全体を完全に閉じるためには魔法陣などの準備が必要だ。この結界は影が落ちた場所に不意にできた。なら、必ずほころびがある。真由美はしっかりと見据えた。数日前、この踊り場で行われたらしいえっちな光景など、いらないものも見えたが、それを無視し、結界の組み方のみに専念する。はっと気づく。やっぱり簡単な八方陣だ。単純故に強力な結界。キーワードを知らぬ者はまず突破できないというものだ。だが、そのキーワードそのものも術に練り込められている以上、真由美の目には隠せる物ではない。
 「西。遙けき西」
 ぜーはーぜーはーという荒い息を深呼吸で整えてからその言葉を唱え、中に入る。球体の結界は階段の途中から覆っていたので、その中に入ってもまだ階段がある。体ががくがくで立っていることもつらい。しかし、懸命に屋上に出る扉に近寄ると鍵が壊されている鉄扉を開けた。
 学校の屋上とは比べ物にならぬほど狭く汚れたそこには三人の男がいた。全員30代前半だろうか、白石の言葉ではないが、いかにもあやしいお兄さんだ。その内の灰色のシャツを着た痩身の男が手に術を練り上げ、今にも放とうとしていた。その先に目を向ける真由美。そこには片羽根をもがれ、のたうち回る見るも無惨なあの深紅の影が見えた。
 「だめー!」
 すでに体は限界を超えていたが、気力が全身に満ち、無理矢理筋肉を動かした。爆発的に。一瞬で真由美はその影に飛びついた。
 ずぅん、という鈍い衝撃。真由美のまだ癒えていない体はその直撃によって一気に傷口を開いた。と同時にその衝撃波は真由美を屋上のフェンスに叩きつけた。ずるっと落ちたかと思うと、そのまま小柄な体はその下の30センチ程の隙間から転がり出た。影をしっかり抱いたまま。
 「な、なんだ!? 人間?」
 「まずい、落ちるぞ!」
 「大丈夫だ、結界で・・・」
 三人が口々に叫ぶのが聞こえた。しかし、その時、既に真由美の下にコンクリは無かった。
 落下はごうという風の音がそれを教えた。結界に触れはしたが、すでに一度それを解いている真由美の体は、胸にしっかりと抱いている影もろとも、何事も起きずにそれをすり抜けた。
 落ちる。
 真由美はそれを感じながら、影に謝った。
 ごめんなさい。やっぱり、私何もできなかった。助けたかったのに。ごめんなさい。
 背中に衝撃が来た。ああ、私は何もできずに死んじゃうんだ。せめて、せめてこの影は助けたかった。ごめんなさい。許して。そう祈った。背中にぶつかったアスファルトは柔らかかった。ああ、もう・・・。その時、アスファルトが動いた。あれ? 真由美はふと我に返った。
 目の前に白石の顔があった。
 「バッカじゃね〜本当に。飛ぶどころか浮かぶこともできないくせに、なにスカイダイビングなんかしてるかね、このオマヌケさんは」
 白石はそう言いながら真由美を抱きかかえ、宙を降りていた。
 「まったくもう。ブーツなくしちゃったよ。弁償だかんね!」
 ゆっくりと地面に舞い降りた白石が手を離すと真由美はどすんと落ちた。
 「い・・・」
 言葉も出なかった。たった数十センチだったのに、全身に激痛が走った。その時、ビルの中で足音がした。
 「やっばー!」という声と共に白石はブランクアウトした。
 真由美は立ち上がり、走り出した。制服のあちこちに血がにじみ出る。さっき感じた痛みは綺麗さっぱり忘れていた。折れていた膝のせいでバランスを失いかけるが必死の真由美には分からない。
 助けるんだ、絶対!
 真由美は細い路地に飛び込んで走り続けた。しかし、このあたりに詳しくない彼女はすぐに道が突き当たっているのを見て驚愕した。このビルの向こうは駅前なのに。誰かに助けを求められるのに! しかし無造作に開発されたこの付近はまっすぐに通じる道の方が少ないのだった。
 走ってくる足跡が聞こえた。真由美は振り返る。三人がその姿を認め、歩みを緩めた。真由美は血だらけだった。片脚は折れてつま先が反対側に向き、左肩は外れてだらりと垂れている。制服のブラウスはあちこちからの出血でまだらだった。三人の男は悟った。これは尋常ではない。あの高さから落ちて生きているはずがない。この体で立ってられるはずもない。そして何より、彼等のターゲットはその胸に抱えられている。間違いない。こいつも魔物だ。
 そう決断した三人は殺気を漲らせて近寄ってくる。リーダー格らしい男が両手に一本づつ、怪しげな小柄を握って立ち止まった。残り二人の男が近づいてくる。右の太り気味の男は大きな札を手にしている。左にはさっきの痩身の男が再び呪を練りながら近づいてくる。
 札は火炎系だ。しかし精霊術法ではない。発火自体は何か別のもので行い、それを爆発的に増すものだ。その発火の源はすぐに見えた。痩せた男が練っている呪文。それがファイアースターターのものだと見えた。なら、あの炎を起こさなければ良い。ファイアースターターは人体の燐分を発火させるものだ。波動でそれを燃やすのだが、波動である以上、その波を崩せばよい。一瞬で彼女はそこまで見て取った。術など基本しか教わっていないが、その総てが見えたのだ。真由美はその波をしっかりと見据えた。簡単な波動だ。どうやらあの男の術力は大した事はない。多分二撃目までの精神統一に時間がかかるはずだ。波動を見切った真由美は右の男を見た。そのポケットに同じ札が二枚見えた。同じものなら無視してよい。だが、その太り気味の男の素性は多分戦士だ。瞬発力はすごいだろう。すり抜けるとしたら左だ。でもその後は? 後方に控えている男は手練れだ。無数の魂を背負っている。何体滅ぼしたのか分からないほどだ。
 でもやるしかない。必ず助ける!
 真由美は影の脚をむりやりスカートに差し込んだ。普段より随分下に下がっている左手でしっかりと影を抱え込む。3メートル程の処で着火の波動が飛んだ。真由美はその目標が自分の頭と見て取ると少し左に逸らし、ついで首をすくめた。そこに札が飛んでくるが波動を逸らした今、その札は簡単に真由美に受け止められてしまった。
 今だ! ぼろぼろの体が再び無理矢理動き、術が不発と知って呆然とする痩身の男に迫る。彼は咄嗟に身をかばう。その隙をついて壁と男の隙間を通り抜けた。太った男がすごい勢いでジャンプしてきたが、身を挺して仲間をかばおうとしていたため、二人はぶつかって体勢を崩した。真由美はそのまま小柄二刀流の男に迫る。瞬時の出来事に唖然としたが、男はすぐさま我に返り、その魔物を返り討ちにすべく身構えた。そこに札が飛んだ。はっとしてそれを避ける。だが、それが仲間の放った物と知り、すぐに身を翻し、脇を疾駆する魔物に斬りつけた。ばっと血しぶきが飛ぶ。手応えあった。しかし、その魔物はぐらりと揺れただけでそのまま走り去ろうとする。
 「阻止!」
 男は叫んだ。その途端、真由美の前に細身の術者が立ちふさがった。四人も。まだいたのか! 真由美は突破が不可能な事を悟った。中央の二人は大したことはない。しかし両脇のはさっきのとは違う。十分な術力がある。しかも、修行を積んだのであろう、精霊術もほとんどが使用できるし、なにより瞬時に結界を張れるだけの気が既に漲っているのが見えた。
 もうだめだ。真由美はそう悟って立ち止まった。後ろの三人が近づいてくる足音がする。
 「どぉして、どぉしてこの子を殺そうとするの! 何もしてないのに!」
 振り返った真由美は叫んだ。肩から外れた左腕と折れている右手で、それでもしっかりと影を抱えながら。
 「どぉして!」
 「魔物を滅するのに理由がいるか?」
 リーダー格の男が冷たく言った。
 「この世に居てはならぬもの。故に滅する」
 その声に真由美は怒りを露わにした。
 「誰がそんなことを決めたの! この子はこの世界で生きていいって言われているのにぃ!」
 「愚かな。それこそ誰が決めたのだ?」
 5メートル程手前で立ち止まり、身構えたまま男が問い返した。真由美はきっとその男を見返した。
 「精霊が! 世界が! 理が! 
 この子を形作るのは異界の精霊じゃぁない。現界の精霊! あなたにはそれが見えないの? 確かにこの子は現界の生まれじゃない。でも多分何百年もここにいるの。だからもうその存在自体が現界の精霊によって成されているの! この子は理の一部なの! 私達と同じにぃ! だから、だからこの子を殺すのは許さない!」
 破れかけて悲鳴をあげている肺を無視し、真由美は叫んだ。溢れる涙を拭おうともせずに。 
 次の瞬間、真由美の周囲で風が揺れた。いつの間にか、逃げ道を塞いでいた四人が真由美の前にいた。それぞれに術を唱えながら身構えていた。彼女に背を向けて。
 「何のつもりだ!」
 事態の変化に付いて行けなかったのは真由美だけではない。二刀流の男は目を見張り、真由美との間に立ちふさがる四人を睨む。
 「契約者の命に従わぬつもりか!」
 その怒声に、四人は全く動じなかった。
 「契約? お忘れか、そこには我らの掟に背かぬ限り、という一文があったことを」
 四人の一番右。多分リーダーなのだろう。低い声の女がそう言い返した。
 「ふん、人殺しは請け負わぬというのか? その娘が人だとでも? 
 ふっ、そんな人間がいるものか!」
 男は吐き捨てるように言った。しかし女は冷静だが殺気に満ちた声で告げた。
 「見えぬ者とは哀れだな。立ち去れ。さすれば命までは奪わぬ。だが、次期様への雑言、二度とは許さぬ!」
 急に自分の名が呼ばれ、真由美はびっくりした。はっとして前で盾になる四人を見る。全員が共通の意志を発していた。
 <次期様の御心のままに>
 驚いたが、懸命に残った意識を集め、現界のみに集中すると四人の外観がやっと見えた。それは美咲の呪着(まじないぎ)だった。帯の色は浅黄。大宮の美崎家の退魔師だ。
 
 双方共に睨み合った時、素っ頓狂な声が通りの方からした。
 「きゃー、人殺しー! 誰かー!」
 全員が大通りを見る。制服姿の女子高生が走り去るのが見えた。その制服はここにいる血だらけの娘と同じだった。それを見て取った二刀流の男は舌打ちするときびすを返し、部下二人を引き連れてこの場を脱した。
 真由美はかろうじて立っていた。分美咲の一つ、美崎家の術者には療術者がおり、すぐに結界を張り真由美の命を救おうとした。
 「待って、この子を、この子を先に!」
 「しかし、次期様!」
 「早く!」
 「御意・・・」
 術が練り上げられ、影に注がれる。現界の精霊によって造られているその身は術を自然に受け入れ、封印されていた羽根もすぐに伸びてきた。全身の自由が戻り、力が蘇ったと悟ると、その深紅の影は透き通るように美しい淡いピンク色の翼をそっと広げた。
 「もう大丈夫だね。ちゃんと主人の処へ帰るんだよ」
 真由美は込み上げてくる己の血に咽せ返りながらもそう言った。影は不意に飛び上がり、あっという間に夕暮れ空に溶けこんだ。
 「ふーん、丈夫なんだね」
 いつの間にか白石が隣に立っていた。真由美の鞄を抱いたまま。
 「ありがとう白石さん。二度も助けてもらった・・・」
 「同じ制服の奴を見捨てられるかってね。これ、山口の口癖だけどさ」
 「ありが・・・とう」
 そう言って真由美はぐらりと崩れた。術者がすぐに支え、身を横たわせると背中に背負っていた包みから小さな湯たんぽの様な金属でできた枕を出した。亀の形を真似たその物体は亀が現す力、すなわち大地の長寿力をもって治癒を促す重伝の霊器である。真由美への療術効果を飛躍的に促進してくれるはずだ。さらに二人が結界を強化し、残りが警戒に入った。
 「ちょっとは機転を効かせなさいって。真っ正面からぶつかるだけじゃ、人生つらいよ!」
 亀の上でうっすらと瞼を開けている真由美に、しゃがんで膝を抱きかかえた状態で宙に浮かぶ白石が言った。
 「でも、他に浮かばなかったの。これしか・・・」
 「はぁ。本当に難儀な子ね。じゃ、せめてうまく仲間を使いなよ」
 「使う?」
 急速な眠気に襲われながら真由美は聞き返した。
 「そだよ。別に命令しなくてもいいじゃん。一生懸命何かしてれば、きっとみんな自分から手伝ってくれるよ。だって仲間なんだからさ。自分でどうしようもないって分かってる事だったら、頼んじゃえばいいじゃん。きっと誰かができるって。みんなでやればきっとだよ」
 白石の語る言魂を心の奥深くに抱きしめて真由美の意識は沈んでいった。



つづく


 

 
 
<超かいき★くえすと>くえすたぁず