☆ 死について考える事 ☆ 戻る
つい最近、大学時代の友人が亡くなった。通学時間が長かったためにサークルに入らなかった私の、数少ない雀友のうちの一人である。ちなみに、大学卒業後3年ほどで既に一人亡くなっており、今回で2人目になる。卓を囲んでいたのは5〜6人であるので、そのうち2人とは相当の確率である。この文章を書いたことも、気持ちを整理したかったからであるが、はっきり言って書いたから整理できたわけではない。
今、生きている自分が死んだ後のことはあまり想像が付かない。しかし、生まれる前の世界は歴史として実在している。どちらもたいして変わりはないと思うが、具体的に死ぬことはあまり考えたくない。でも、どんなに長生きしたとしても100年以内に私は死に、その後の世界は今と大差なく存在することであろう。自分の意識というものは生きているうちだけしか存在しないが、世界はその前後にも存在する。死んだ後、自分の意識はどうなるのであろう。
日本の交通事故の死亡者は年間約一万人くらいだという。約12000分の1の確率で1年以内に交通事故で死亡することになる。年末ジャンボ宝くじを10枚買って1等に当たる確率が200万分の1程度であることを考えれば、かなり高い確率である。私自身は死亡の危険がある程の事故を起こしたことはないが、死亡事故に立ち会ったことはある。横転したバンの運転手が自分の車に頭を挟まれた状況で、周りの人達と救助にあたったが、次の日に同じ所に花が置いてあったことから「死亡したんだ」と実感させられた。また、某峠道で前を走っていた車がコントロールを失いガードレールに当たる事故を起こし、その救助中に周りを見渡すと別の車の部品(グリルやドライブシャフト)が散乱していて、歩道には真っ赤な血が付いていた。後で警察官に「2時間前にここで1人死んでいる」ということを聞いた。年間3万キロ近く運転している私にとって死亡事故そのものは非現実的なことではない。自分が事故で死にそう、という場面に直面したことがない故、自分自身の危険と考えられないだけのことである。
数年前に祖父が亡くなる直前、「お迎えが来た」などと口走っていた。食生活の節制などで、亡くなる1年ほど前までは車の運転もしていて、死後も有効な免許を持っていたくらい元気な老人であった。アルツハイマーなどの症状は全くなく、亡くなる前に意識を失うまでは正常な精神状態を保っていたと思われる。正常な精神状態で死に向かうということを自分に当てはめてみるとどうだろう。今、突然「あと数分で死ぬ」という状況に立たされたとしたら、その数分で何を考えるのだろう。
インターネットが発達して、これを規制する完全な世界共通の法律が存在しない中で、スナッフ動画や死体の画像などを見る機会があった。ちなみにスナッフ(snuff)とは元々はsnuff outで単に死ぬという意味らしいが、快楽的殺人を撮影したものをスナッフ動画としてネットで公開しているサイトがある。中には演技である物も含まれているであろうが、かなりグロい画像も簡単に見ることができる。これらのものは、2ちゃんねるあたりでそのURLを探すことができる。ここは以前、某少年が犯罪予告をしたことで有名になった無記名巨大掲示板群であり、適切な情報の取捨選択能力とブラウザクラッシャ[※1]などに対する知識を持っていればかなり有用なサイトであるが、私が死体画像をネットで見るきっかけになったのも実はここである。グロいとはいえ生きていた人が死に、その現実を見せつけられたことで、「死」に対する意識が高まったのも事実である。こういった物を見て「他人の死に対する免疫」を身につけてしまった若者が、簡単に殺人事件などを起こして社会問題になっている。彼らは、他人の死と自分の死を同価に考えられないのであろう。
以上のような事が原因となり、最近は死亡した後の事を考えることがよくある。この世界の歴史は実は虚実で、自分が生まれたときに既に持っていた記憶だけなんではないか、また自分の死亡とともに世界はすべて無くなるのではないか。他人を含めて世界はすべて自分の意識の中だけに存在するのではないか。そんな事はないというのは百も承知である。しかし、自分が死んだ後に自分の意識はどこへ行くのだろうか。幽霊というものが存在するのなら、是非コンタクトを取りたいと思う。肉体が死んだ後にも意識が存在できるという確信を持てるということで、幽霊の存在を期待したい。
こんな事を考えるのは人間という、「知性」を持ち合わせてしまった生物に生まれたからであろう。今までに私はいくつの命を消したのだろうか。私が一番嫌いなのは蚊という生物で、アレルギー体質の私は刺されると滅茶苦茶腫れて痒くなるので、見つけ次第殺している。蚊の意識を覗いたことがないので確実な話ではないが、おそらく「殺される恐怖」を感じる知性は無いであろう。他にも、直接ではないにしろ生きていく上で食べているものは、すべて元は生きていたものである。これらの生物たちも、殺される恐怖を感じなかったのだろうか。
人間は色々な事に対して、自己防衛する機能を持ち合わせている。尖った物に触ると反射的に離れる方に身体が動くし、熱い物に触ったときも然りである。アルツハイマーは、知能が高くなり死の恐怖を知ってしまった人間が、その恐怖から逃れるために起こす自己防衛なのではないか。交通事故などで痛みのために死ぬ前に意識がなくなるのも同様ではないか。宗教はすべて死の恐怖をぬぐい去るために考え出されたものなのだろうか。
死について考えたことを思いつくままに記述してみたが、結論など出るはずはない。結論が出るのは実際に死ぬときか、何らかの宗教に帰依して、意識そのものまで浸かったときであろう。亡くなった大学時代の友人2人は、現在どこにいるのだろう・・・。
※1:ブラウザクラッシャ:ブラクラなどと略される。ここをクリックすると、疑似ブラクラが開きます。極端にメモリが少なく、リソース不足と戦いながらこの文章を読んでいる方以外はフリーズする危険はありませんので一度開いてみて下さい。