”塚越仁慈 油彩画”



さだまさしの「日本が聞こえる」1998/08/24 毎日新聞夕刊記事より

【あげんきゃーぶりはすかん】長崎弁


俺の作った「精霊流し」の歌と、実際とがイメージの違うて言う人は昔からあった。

実際全国的に行われよる「灯篭流し」とは違うて「精霊流し」は中国の影響の強か。

具体的に言うたら、小さか灯篭ば水辺に流すて言う感じじゃなか。

今は、新盆の家だけは精霊船ば作って港に流す。

大きか船は長さ20〜30メートルにもなるもんもあり、

勿論一人で担ぐほど小さかもんもある。

大きか船は沢山の人(親類だけじゃなく、友人、知人ていう縁者の集まる)で担ぐ。

爆竹ば焚き、花火ば打つ。

『長崎くんち』の引き物の山車ば真似して、大きか精霊船ば道路上でぐるぐる回す

全くの勘違いな輩の出てきて久しか。危険極まりなか。

酒も入る、爆竹も鳴るで盛り上がるとは解るばつてん、「送り盆の行事」であって

「祭り」じゃなかていうことを、老人達がきちんと申し送りばせんかったツケの

ここにもある。


とある古か書物に

「喪主が紋付袴にぶら提灯で先をゆく、そのあとに印灯篭、次に鉦(かね)、

そして遺族家族の後ろに《精霊船》さらに後ろに交代要員の若っかもん、

最後に女性子供」ってある。

爆竹、花火は焚くバッテン本来粛々とゆく。


近年は変わった。

八月十五日親友の一家ば案内しながら実にがっかりした。

無頼か、博徒の一団かて見まごう船の多かった。

『格好の良さ』は本来『腹ん中』。

なんも<酔うて騒いで>見すっもんじゃなか。

お陰で警察も意地になって規制ばする、普通ん者は迷惑し、「男気取り」はますます

暴れて『お精霊様』は、情けんなかて泣きよんなるばい。

芯から大事な人ん船なら心ばこめて送ろうで。

あげんきゃーぶり(気取り方)は すかん。



さださん、同感、同感、

いつも 楽しみに「日本が聞こえる」 毎日新聞夕刊記事を拝読していますが 昨日の

この長崎弁のご意見には、『そうそう、そうそう、そうよねーー、うんうん ひどすぎる』

と 共感しきりです。

去年、長崎の親戚の初盆と友人の初盆だったので主人と二人で八月十五日に帰りました。

十五年ぶりくらいの「精霊流し」の日の里帰りでした。

が、が、がー 思案橋で見た 精霊流しの有様には 驚きました。

耳をつんざく 爆竹のすごさ、「異常だ」 と思った。

私は 長崎離れて三十二年ですが 変わりましたねーー。

この変わり方を 長崎に住んでいる人たちは 自然に受け入れているのですね

長崎の母や妹、友達に 聞くと 

『お墓参りには行くけど家に帰って テレビで精霊流しは見るとさー、

あんげんやかましかとこには 行かん。』

『ひどかやろ・・・爆竹、一年分が一日で売れて 終わるとさ』

『耳栓していかんば、行くときは。耳栓は必需品ばい。』

ほんとに、ほんとに しみじみした話なんて 何にもできない。

度を越した音で

耳が 聞こえない。

長崎の声が聞こえない。

なんか、がっかり して帰ってきました。


さださんの 『精霊流し』は 子供のころ、 青春を過ごした長崎の景色と共に本来の

精霊流しの姿、亡くなった人への思いがしみじみと伝わってきますね。

私の思いでの『精霊流し』と 心情は ぴったり一致しています。

次回も「日本が聞こえる」を楽しみにしていまーーす。

【私の宝物】の中から新聞の切り抜きを二つ、取り出してきました。

長崎出身の方々の長崎へ対する思いがしみじみ伝わってきます。

1998/08/25(向日葵) 




不意打ち(野呂 邦暢)



スレートの屋根瓦が二枚だけ他と色が違っていた。

諌早駅のプラットホームにかかる屋根である。

昭和二十年の春、グラマンの機銃掃射を受けた名残だという。

そこも今は他と区別ができかねるようになった。

三十三年という歳月は、戦争の痕をほとんど色あせさせてしまう。

私が長崎から諫早に疎開してきて経った時間でもある。

戦争が終わったらすぐにでも長崎に帰るつもりだった。

諫早への道すがら、鉄道線路の両側に穴をあけた爆弾の痕を数えたのを覚えている。

毎日のように空襲があった。

隣町大村には海軍の飛行場があり、名うての戦闘機乗りがいるということだった。

ここは初めて中国大陸へ渡洋爆撃を行った飛行場でもある。

三月のある日、珍しく空中戦があった。

泣かず飛ばずのわが戦闘機部隊がその日は珍しくアメリカの艦載機に挑戦したのである。

前触れはなかった。

まったくの不意打ちで、けたたましく鳴らされる半鐘の音でそれと知った。

私達兄弟はちょうどそのとき親が留守なのをさいわいに出来たばかりの甘酒をこっそりと

飲んでいた所だった。

酔っ払っていい気持ちでいるとき、頭上で撃ち合いが始まった。

近所のおじさんがあわてふためいて家へ駆けこんだといっては笑い、機関砲弾の薬莢が

トタン屋根に降ってきて騒々しい音をたてるといっては笑った。

何から何までおかしくて笑いころげたものだ。

もの心ついてから戦争は日常の一部になっていた。

冬の真夜中に空襲でたたき起こされて防空壕へ急ぐのもさほど苦痛ではなかった。

人生とはそんなものだと小学二年生の子供は思いこんでいたらしい。

しかし、八月九日に諫早のある丘から南西の方角に立ちのぼった黒い煙を見たとき、

私はもう笑わなかった。

高く上がった煙の下には私の生まれた長崎の町があった。



海がなくなった(山本 健吉)


あの頃長崎の子供たちには、泳ぎに行く鼠島という小さな無人島が、港の口に

ありました。私たちは大波止で団平船に乗って、島まで小蒸気船で曳航されるのですが

この時の思い出をあなた(佐多 稲子)が書かれたのを覚えています。

はじき豆(固く干して煎ったそら豆)を入れた小さな木綿袋にヒモをつけ、海中に

ぶら下げながらひかれて行くと、島に着くまでに豆はやわらかくなり、
塩味がしみてきます。

そんなものがどうしておいしかったのだろうと不思議ですが、子供たちはそんな

工夫が得意だったのです。

その鼠島の水泳場が、数年前に閉鎖されたと聞きました。

海水汚染が原因だそうです。

長崎港外はいくつも小島が散在していて、多島海のような景観ですが、その一つ

香焼島と対岸の深堀とのあいだを埋め立てて、大型の造船所を作ったため、

潮の流れをせき止めてしまい、海水の自浄作用を低下させたためと想像されます。

あの島の水泳道場で、もう長い間、長崎の少年たちは泳ぎを覚えてきたのです。

それが閉鎖されたということは、長崎の少年少女にとって、島がなくなり、

海がなくなったということでしょう。

あたらかけがえのないものを、長崎市民は失ってしまったと残念です。

大型タンカーを作るためには、狭い港内の長崎造船所では、進水式をやれば

船が対岸にぶつかる形で、どうにもならなかったのでしょう。

けれども長崎市民に大きな犠牲を強いたその新造船所が、今は船舶界不況で操業停止状態

だと聞くと、くやしい思いがこみあげます。

ろくに反対運動も起こらなかったのは、今の少年たちはね海で泳げなくても、プールで

泳げば満足だというのでしょうか。

そういえば、東京や横浜で、泳げる海やなぎさが姿を消していく一方、やたらにプールが

作られるようです。

それだけ今の少年たちからは、「自然」が次々に遠ざけられて行くのですね

以上【双点】より





この続きをどうぞ精霊流しメッセージへ
表紙へ
【長崎】想い出のページ集へ
リンクの輪へ