ワールドカップというと、頭に浮かぶのは(ワタクシの場合)どうしてもサッカーだが、バレーボールとラグビーも現在進行中である。
バレーボールの方は、連日日本戦がテレビ中継されていたが、試合時間が伸びたりもするので、録画していた筈の「白い巨塔」を帰宅後見ようとして綾戸智絵が何のおかずから食べるかという番組に遭遇してしまったりした。迷惑なこと甚だしい。まあ、予告されていることではあるので、その分余裕を見てタイマーをセットしていないワタクシが悪いのだが。
ところで、昔々(といっても30年くらい)、「サッカー入門」みたいな少年向けの本にだったか、野球一色に塗りつぶされているスポーツ中継だが、サッカーは試合の長さも決まっているので、よりテレビ向けである。必ずや将来、野球をしのぐ量のサッカー放送が行われる日が来るに違いない、なんてことが書いてあった。
たしかに、Jリーグは延長戦が無くなったので、90分+ハーフタイム+ロスタイムで、まあ、2時間みておけばまず大丈夫である。理屈から言えば、ロスタイムの上限は決まっていない(多分)わけだが、まあ、バレーボールや野球に比べれば、試合時間の伸縮度合いは小さいことは間違いない。予言が当たったような昨今の隆盛ぶりはご同慶の至りである。
が、よく考えるとサッカーだって、試合時間はよく分からない。ここでいうのは、キックオフから終了までの時間のことではなく、実質的な試合時間のことである。競技場でもテレビ画面でも試合中経過時間を知らせる時計は動いているが、あれは、選手が倒れて中断している間だってお構いなしに進んでいく。だから、あの時計通りには試合は終わらない。主審が自分の判断で(というか主審は独自に時計を持って実質の試合時間を計っているのだが)、ロスタイムを決めているわけだ。ロスタイムが何分というのは電光掲示板によって示されるというのが普通の光景になっているが、あれが始まったのは最近のことではないだろうか。それまでは、ロスタイムどのくらいなのか、と思いながらハラハラしてみていたというわけだ(この辺り、史実と違っていたらすみません)。でも、それにしたって、3分と表示されたって、カウントダウンできるような3分というわけではない。3分から4分の間、と言うことだし、大体、その間だって試合は止まる。
これが、バスケットボールやアイスホッケーだったらどうだろう。インプレーでない時間には時計が止まりますね。残りの試合時間を知っているのは審判だけではない。会場全体が(そしてテレビの前の観客も)知っている。サッカーのような不明瞭さはないわけだ。
逆に言えば、サッカーのレフェリーは、試合時間をも支配する存在であり、バスケットボールの審判はもっと、何というか、一部分の権能しか有していないということなのだろう。権力者というものは、時に関することを統べていたことを思い起こさせるとか、古代の祭政一致の残滓がサッカーには見られる、とかいうと、話は雄大だが、流石に大げさか。
ラグビーの話が全然でてこなかったので、最後に1つだけ。ニュージーランドの代表チームがオール・ブラックス、というのは知っていたが、豪州のそれは、今回初めて知った。「ワラビーズ」なのだそうだ。何だかあんまり強そうじゃありませんね。まあ、「コアラズ」よりは良いかもしれないけれど。('03.11.16)
「輝く日の宮」の余勢を駆って、最新のエッセー?集である「絵具屋の女房」、ずいぶん放っておいた「思考のレッスン」と、丸谷才一を続けて読む。
前者は「オール讀物」への連載を本にしたもので、もう3冊か4冊出ている。「男もの、女もの」とか。で、このシリーズは一貫して和田誠の装幀画なのだが、途中から同じ単行本でもソフトカバー(と言うらしい)になっているんですね。「絵具屋の女房」をしまいに行って気が付いた。
後者は既に昨年文庫化されていることを、読み終えてから知った。読む前に知らずに良かったと思う。経験のある人は分かると思うが、買ってきて積んで置いた本がいつしか文庫本化されてしまうと、読むインセンティブが一気に下がるものだから。
逆のケースは、読んでいない岩波文庫(でなくても良いのだが)が、ある日絶版になっているのに気が付く場合。読む気が起きる。ただ、だからといって、読み終えるかどうかは分からないし、実のところは読み出すとも限らないのだが。。。('03.11.10)
岩井克人が小林秀雄賞というものを受賞したとのことである。「これから会社はどうなるのか」という著作に対してのものだそうで、そっちの方面に疎いワタクシは、こんな本が出ていたことも知らなかったが(でも、この本はこの本で面白そう)、それを伝える記事で、目を引いたのはこの経済学者の奥さんが水村美苗だということ。知らなかった。
水村美苗といえば「続明暗」である。出版当時、話題となったこの作品、買いはしたものの読んでおらず、そうこうするうちに文庫入りしたのもはるか昔のこと。それにつけてもハードカバーで買った本が読まないうちに文庫化されるのは、とても寂しいものだ(もちろん読んでいないこっちが悪い)。
というようなことを言いたいわけではなく、ふと思ったのは、下の「輝く日の宮」の主人公のモデルは水村美苗ではないかということ。モデルというと言い過ぎかもしれないが。一つのヒントになっているのではないか。未完に終わった過去の名作の「補作」というべき創作をする日本文学の研究者でパートナーが社会の別の分野で名を成している人、という、書いてみるとそれだけのことで、何の証拠もないけれど。
でも、考えてみれば「本格小説」も丸谷の好みさうな作品と言ふやうに感じられますね。などと、突然旧仮名づかひになつたりするのであるが、実はこの作品に対する彼の評価は全然知らないのであつた。しかし、確かでない話を書くときには小説の形にする必要があるのでせうね。もつとも、この「断想」だって別に論文といふわけぢゃあなし、別にかまはないか。
ところで、関西弁に自動変換してくれるソフトがあると読んだ記憶がある(話が突如変わって申し訳ない)が、現代仮名遣いで入力したら旧仮名に変換されるFEP(と言って良いものやら)があったら結構良いのに。もしかしたら既にあるのかも。そもそも、ワ行のイ段とエ段の字の出し方が分からない。('03.10.1)
遅ればせながら丸谷才一の「輝く日の宮」を読んだ。文学論あり、戯曲仕立てあり、作者自身が顔を出すエッセイ風の部分あり、劇中劇ならぬ作中作ありである。藝の見本帖みたいな感もあるが、それは、読者へのサーヴィスであると同時に小説の世界と現実世界をないまぜにする仕掛けなのである。作品世界の中でのいくつかの層の間での照応というか比喩というか、そういった要素もふんだんにあり、これも小説の世界が我々の生きる現実へ染み出してくる、というか、我々が引き込まれていく、というか、ともかくそうした機能を果たしている。思えば、「本歌どり」という手法にはそういう側面があるのではないだろうか。
もう一つ。この「輝く日の宮」は「ユリシーズ」(実は読んでいないが)へのオマージュではあるまいか。集英社文庫に新訳も入ったことだし、一つここは挑戦してみようかなどと思ったりした。「源氏物語」はおろか「おくの細道」も読んでいないことに気が付かされてしまったのだが。
('03.9.21)
セブンイレブンの発芽玄米弁当を久しぶりに食べた。ごく少量多種のおかずと発芽玄米ご飯という基本構成は変わっていなかったのだが、ご飯がひじきご飯になっていた。これは悪くない。が、あのコンビニ弁当にしては珍しい独特の二段重ね容器が平板なコンビニ弁当と同様のものとなっていたのにショックを受けた。あの、ランチボックスみたいな容器が非常によかったのに。。。('03.9.21)
8月下旬から出張が続いていた。岐阜、福島、秋田、茨城である。前三者はみな新幹線に乗っていったのだが、茨城だけは「フレッシュひたち」である。それも、目的地の土浦まではわずか40分強乗るだけ。しかし、新幹線の開通で秋田も近くなった。乗り継ぎや待ち時間を考えれば飛行機と大差なく、天候の影響などを考えれば断然新幹線である。もっとも、秋田に行くのは初めてである。出張を繰り返し、気が付いてみると未踏県が3つとなってから久しかったのだが、今回めでたくそれを2とすることが出来た。残りは宮崎と沖縄である。
おっと、本題は上野駅だった。
東京から長距離列車が出るのは、東京、新宿、上野の3駅であるが、前2者と上野駅はまったく違う。それは、上野駅が、人混みの中に故郷の訛を聞きに行く場所だからでも、集団就職のメッカ(?)だったからでも、西郷さんの銅像やパンダがいるからでも、偽造テレカを西アジア方面の出身とおぼしき人が売っているから(今でも売っているのだろうか)でもない。無論、美術館、博物館、音楽会場があるからでもないし、大連駅がこの駅のコピーであるからでもない。この駅は「終着駅」なのだ。東京や新宿は、そこで線路が終わらない。新宿駅のあずさ号のホームは、通過点に過ぎない。東京駅の新幹線だって同じことである。しかし、上野駅は線路が「終わって」いる。ここの点が他の両駅と違うところである。
ヨーロッパの町の多くの駅(ここでいうのはメトロなどの都市内交通の駅を意味しない)は、町から外への出口であり入り口であるという認識が強いと思う。それは言葉の意味通りの「ターミナル」なのだ。例えば、パリには北駅、東駅、サン・ラザール駅、リヨン駅、モンパルナス駅というそれぞれ行き先方面(イギリスとかドイツとかノルマンディの方とかイタリアとか南仏とか)事に異なった長距離列車のターミナルがあり、それは、それぞれの方面に向かってのパリからの出発点なのだ。そして、それぞれの駅同士はつながっていない(くどいようだが、メトロなどで結ばれているということはある)。良く知らないがロンドンだって同じことだろう。
もちろん、長距離列車がその都市を経由していくということはある。しかし、例えば、ミュンヘン駅はやはり線路が「終わって」おり、ウィーン発パリ行きの列車は「Y」の字にたとえると右上から入って下でミュンヘン駅に立ち寄り、左上に出ていくのである。
上野駅で、駅正面からコンコースを通って中央改札を入ってホーム方面へ歩く。そうすると長距離列車の線路の末端に着く(これが線路が「終わって」いる駅の基本的な構造)というのは趣のあるものだ。旅に(といっても今回45分ほどだったが)出るという感じがする。山手線やらからホーム途中の階段を使ってしまうとこれは味わえないのだが。
東北新幹線に東京から乗ることが出来るのは、特に、例えば名古屋から福島に向かう乗客にとっては、確かに便利なことである。これを、山手線を使って乗り換えれば良いと断じるのは、あるいは、東京への一極集中主義を省みない奢った考えなのかもしれない。もっとも、将来、中央新幹線のようなものが仮に出来たとしたら、始発は新宿ではなくて、きっと東京になることだろう。あるいは成田かもしれないが。
しかし、生活圏の中での移動とそこから外へ出ていく入ってくる、ということには別の感覚があった方が良くはないか。「エントロピーの増大」とか「宇宙の熱的な死」とかそんな言葉が頭を去来してしまうが、まあ、そこまで行かなくても、やはり、メリハリを利かせた方が生きていくためにも色々と良いのではなかろうか、と。この点で、鉄道を町の中心まで入れなかった先人の知恵は、何も治安とか防衛とか煙で洗濯物が汚れるとかニワトリが卵を産まなくなる(っていうのは「町」の話ではないが)だけではなかったのだろう。('03.9.6)
吉祥寺駅北口のアーケード街、サンロードの屋根が外されている。屋根をかけ替えて、一部は開閉可能なものにするのだそうだ。1971年にここに屋根がかかって以来このような工事は初めてだから、この通りの空が見えるのは30年ぶりである。この風景が非常に郷愁をそそるのだ。
別に智恵子を気取るわけではないが、空が見えるというのは良いものだ。もちろん、近所の運動公園のようなところを通ったり、最近は全然行かないが競馬場に出かけたり、砂浜だっていい、高い建物の少ない町を訪れたり、車窓から水田地帯など見れば、当然そういうときには、空は見える。空が視界の一定量以上を占めるという状態を経験できる。しかしやはりポイントは、日常生活の中で+普段見えない事態で、空が見えるということだろう。これは、なかなか心動かされるものがある。
30年以上前の風景を思い起こさせるのか(もちろん、一所懸命思い出そうとしてもその時の風景などくっきりと思い浮かべることは出来ない)、それとも、単に自分で無意識のうちに心の中に作り上げている「懐かしい風景」とシンクロするのか、そこのところは、よく分からない。が、とにかくそそるのだ。
風景は思い浮かべられないが、このサンロードをバスが通っていた光景は覚えている。吉祥寺北口駅前に着くバスは一種の循環経路で、バスがすれ違うということはなかったのだが、しかし、一方通行であったとしても、歩道などというもののないしかもかなり狭い商店街を行くバス、今から思えば、いや当時のリアルタイムですら、よく事故が起きないものだ、と思ったものである。車内から、人にぶつかりはしないか人を轢きはしないかとハラハラして見守っていた、その映像を覚えているのだ。
実は、この映像は、自分の中ではプレイバックされることは少なくはない。しかし、この(あの)アーケード街をバスが通っていたなんてなぁ、という思いがその光景に対する決まったリアクションだったのである。しかし、アーケードが外されたサンロードにあっては、その感慨は微妙に違うものとなるのだった。少ぉしリアルなものとなる、と言うか。大げさにいうと、ちょっとしたタイムスリップの感覚である。
もう一つ。アーケードの下からは、両側の建物のアーケードより高い部分というのは、当然のことながら見えない。しかし、アーケードの一時的な撤去によって、これが白日の下に(大げさか)曝されてしまうのであった。「見えない部分に無駄な投資はしない」ということがこれほど明らかになることもない。しかし、それぞれのお店によって、見えない部分の顔が見えるということは、「違い」を見せてくれて(「投資」の違いではない。建物の趣味というか様式というか)、これはこれで安心させてもらった。アーケードによって水平に切り取られた部分の下の店屋の光景は不思議に均一なものなのだ。('03.9.2)
ラタトゥーユでなく、ラタトゥイユではないかと思うが、それはともかく、マクドナルドの新メニューである。マクドナルドには年に一度くらいしか行かないので本来何が出ようと興味はないが、よりによって「世界のマクドナルド」がラタトゥイユなんてチャレンジしなくても良かろうに、と思ってしまうのだ。
そもそも、昔は、マクドナルドは全世界統一メニューで、確か「てりやきマックバーガー」を出したのがその殻を破ったものであった筈だ。マクドナルドには、これからもグローバリゼーションの権化として君臨していただきたいのに。それなのに、このニュー・テイストとかいうシリーズのラインナップは相当に恥ずかしい。県によって微妙に違うが、この「ラタトゥーユ」の他に「ベジコロバーガー」「スモークドビーフサンド」「オムサラダマフィン」、そして「よもぎあんこ巻き」である。「よもぎあんこ巻き」はいくら何でもないのではないか。マクドナルドのアイデンティティを失う行為として断罪したい。
しかし、ここで、マクドナルドも、「正しいのはアメリカだけじゃないですぅ」と体質の変化を装うというのだろうか。イラク攻撃と何かの関係があるのかなどと勘ぐってしまうのが、そもそもこのメニューは日本国内だけのものなのかもしれない。まさかフランスのマクドナルドでこれを売る勇気はあるまい。
そもそも、フランスとマクドナルドの確執は深い。フランスではジョゼ・ボヴェのマクドナルド解体行動が結構支持を集めていたりするし(ちなみに、ワタクシも彼の行動には理がある、と思っていたりする)。
話を戻して、ラタトゥーユサンド、もちろん食べてみたいとはさらさら思わないのだが、食べずに文句を言うのもフェアではないような気がするので、一度食べてみなければなるまい。しかし、以下の売り文句といい、ハンバーガーのパテにラタトゥイユらしきものが乗っかっている写真を見るにつけても、その気力の減退する今日この頃である。
「肉のうまみに、トマトの酸味がすっきりとした味わいのラタトゥーユをプラス!ダブルミートのボリュームがありながらも、さっぱりと食べられるヘルシーなサンドイッチです。」('03.8.23)
伊藤園の生ハーブティが、最近のお気に入りである。職場の同僚にはこれを人の飲むものではないと言わんばかりに酷評する向きもあるが、支持者も少なくはない。確かにハーブティ独特の味と香りが、温かいハーブティよりもある意味ストレートにくるので、好き嫌いはあろう。やはり、孤高の位置を保つものなのか、職場近くのコンビニ(複数)ではほとんどその姿を見なくなってしまった。幸い近くに設置されている伊藤園の自販機で買うことは出来るのだが、150円と高いのが悩みの種だった。ところが、思わぬことに、office24という文房具や?で、なぜか売っているのを発見。しかも120円と安いのでここでまとめ買いをするのを吉としている。
ところで、このように入手に困難を極める生ハーブティであるが、い〜ちゃ便り(伊藤園のメルマガで月2回発行)第74号によると、い〜ちゃSHOPというネット通販コーナーではここのところ人気第一位なのだそうだ。もっとも、これは、それだけコンビニでは売っていないということなのかもしれないが。('03.8.21)