吾妻貞男さん(福島県在住)から当サイトに寄せられた体験記を紹介します。
吾妻貞男さん(福島県在住)から当サイトに寄せられた体験記を紹介します。
夢の中で、自分が真暗闇の中をどこまでも、どこまでも真逆様に落ちて行く、そして、もうだめだ!!と叫んだ瞬間に目が覚めて、ああ夢でよかったとホッとする…。そんな恐怖体験を味わった事がある方は、結構いらっしゃるのではないでしょうか。
私はその恐怖体験を、夜ではなく昼に、夢ではなく現実に味わう事になりました。もう4年も前の事になりますが、あの時の恐怖は今でも忘れる事はできません。それでも歳月と共に少しずつ、少しずつ過去のものとなりつつあり、ようやく自分の意志であの頃を振り返るだけの心の余裕を持つ事ができるようになりました。
当時私は、デパートやスーパーへ浅漬を専門に卸す食品会社の工場長をしていました。浅漬屋という商売は、どんなに寒い冬の日でも朝早くから仕込みがあります。仕入れた原料の野菜を水洗いし、刻み、調味料を加えて袋詰をする仕事です。私は工場長とは言っても規模はさほど大きくない会社でしたから、朝早くから夜遅くまで、時には現場に出て作業をする、そんな多忙な日を送る毎日でした。
平成8年の正月が終わり、またいつもの忙しい日が戻ってきました。その時も人手が足らず、現場で仕込みの作業を手伝っていました。当時は私も54歳で体力に自信もあったのですが、何せ作業台もコンクリートの床も冷たい水で一面がびしょ濡れの状態、その上野菜の鮮度を落とさないために暖房は無きに等しい、そんな環境ですから骨の髄まで凍みる作業でした。
そのような現場作業が数日続いた後、何となく体がだるくなり、熱を計ると37度ありました。風邪でもひいたのかなと思い、風邪薬を買って飲んでいたのですが、いつまでたっても良くなりません。かといって熱がそれ以上上がるわけでもないし、体が少々だるい程度でしたので、毎日会社へ行き、人手が足りなければ現場を手伝う日々を過ごしていました。ただ、その頃になると時々空咳が出るようになっていたと思います。
体調が戻らぬまま2月に入り2度目の休日、しばらくぶりにゆっくりと朝寝してから起き、のんびりとテレビを見ていた時でした。喉に痰がからまり、かたわらにあったティッシュペーパーを取って痰を吐き出すと、そこには牡丹色をした痰がありました。
頭はまだ半分寝ていた状態でしたから、しばしの間これは何だろうと呆然として見ていたように思います。見ているうちに「もしかしてこれは血痰ではないか!?」と思った瞬間、目はすっかり覚め、同時に背中に氷柱をドーンと当てられたような衝撃と共に、ゾーという寒気と心臓が空回りするような訳の分らない感覚に襲われました。しばらくして幾分気持ちが落ち着き、心臓の鼓動も寒気も薄らいではきたのですが、今自分が何をしなければならないのかが、全く思い浮かばず、テーブルの上に置かれたティッシュペーパーの中の血痰をじっと見つめていました。
どの位経ってからでしょう。私の頭の中に、「肺癌」という文字が浮かんできました。その文字を意識した時、私を襲った訳の分らない感覚が、「血痰=肺癌」と瞬間に思い、パニックに陥ったのだとようやく理解できました。私はそれまで1日40本以上のタバコを吸っていましたし、父も祖父も肝臓癌で亡くし癌家系である事を常に意識していましたから、内心いつも肺癌を気にしていたのです。
あの日すぐに病院へ行って診てもらうはずだったのですが、実際に病院へ行ったのはそれから1週間後の2月20日頃でした。もし最悪の結果が出たらどうしようかとか、ずっと風邪ぎみだったし咳も出ていたからそれで血痰が出たのかもしれないから少し様子をみようとか、勝手な理屈を作って不安を紛らわせようとしたり、堂々巡りをしていました。結局は時たま出てくる血痰に病院行きを決意させられました。
自宅から5kmほど離れたところにある、福島市では一番大きな私立のO総合病院で受診しました。消化器内科のO先生が担当となり、型通りの診察の後、胸部レントゲン撮影と血液検査をされました。その時点で肺炎の疑いは消え、血液検査の結果を待たないと判断はできないが、レントゲンを見る限り結核でもないようだと言われ、C.Tスキャンで血痰の原因を探る事になり、検査入院を余儀なくされました。
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朝早く家を出て、病院へ向かう。空がよく晴れ渡り空気がピンと張り詰めたとても寒い朝で、病院に向かう道端にずっと続いている桃畑の向かうに吾妻山がくっきりと見え印象的。
7:30、O総合病院着。すぐに入院手続き。午前中問診の後、前回の検査の結果は、肺炎、結核共にシロ、C.Tスキャンの結果を待つと説明される。血液検査の結果は報告なし。15:00より、C.Tスキャン検査。この時点で循環器内科のM先生を紹介され、バトンタッチ。
M先生より家内が呼び出され、昨日のC.T検査の結果報告を受ける。私には何の連絡もなく、家内が病室へ来て初めてその事を知る。その時家内が話してくれた事は、
「精密検査の結果を見ないとはっきりした事は言えないが、そう心配する事はない。」とM先生が言っていたと家内は言ったが、家内の顔色、ぎこちない振舞から、これは最悪の事態かも知れない。
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この時の私は、「これで私の人生も終わりか!!」と感じていました。家内が帰った後1人残った病室で、仕事の事、家のローンの事、まだ高校に通っている娘と息子の事、そして妻の事など、これから私はどうすべきかを必死で考えようとしていたように思います。父の時も祖父の時も亡くなった後の大変さは身に染みていましたから、その轍を踏まないようにと考えていたのだと今にして思います。
後日談ですが、家内はあの日M先生からフィルムを見せられながら、「これが腫瘍で、くっきりと写っているのがおよそ2cmぐらい、まわりの薄い膜のようなものが4cmぐらいです。これがもし悪性なら、かなり深刻な事態です。」と説明されたそうです。それから脳にあった粒状のものは、以前日赤病院で脊椎の検査をした時の造影剤の残留物でした。
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この状況を知って、家内の兄がカナダで昔から癌の民間療法として使われているハーブ・ティー「エイジアック」の資料と、日本に初めて「エイジアック」を紹介した桐島洋子さんの本「見えない海に漕ぎ出して」を届けてくれました。
私と同世代の人々は多分ほとんどの人がそうだと思いますが、「科学的に立証されたもの」でないと、なかなか信用しないところがあります。第2次世界大戦が終わり、教育が軍国主義教育から民主主義教育へと大変換を図った時の世代が私達ですので、何事も科学的に合理的にと常に教えられ、それが身に付いているからなのでしょう。
私も御多分にもれず「唯物論」的な人間になっていましたから、「インディアンの秘薬」という文字が目に飛び込んできただけで、こんな非科学的なものが癌に効くはずがない、インディアンの呪術師が呪文を唱え訳の分らない薬草を飲ませただけで癌が治るなら、今頃世界中から癌が無くなっているはずではないかと言って、資料には目を通そうともしませんでした。
しかし、同室の患者さんは老人ばかりで話が合わず、テレビを付けてもどのチャンネルもつまらないワイドショーばかりで見る気にもなりません。家内は仕事を持っているので日中は病院に来れませんから、ベッドに横になっている私は、不安と恐怖に繋がるような事ばかりが頭に浮かんできます。仕方なしにサイドテーブルの上にあった「エイジアック」の資料をパラパラとめくり始めました。(常にサイドテーブルの上にエイジアックの資料を置いておいたのは、家内の作戦だったようです。)
読み進むうちに、「エイジアック」がハーブ・ティーとして健康食品店の店頭に並ぶまでの60年近い期間、ボランティアでエイジアック療法を続けるリーン・ケイスの後ろで、医師達が常に医薬品にしようとカナダの厚生省に何度も何度も挑戦をし続けてきた歴史を知りました。日本医科大学の丸山博士が開発した丸山ワクチンを医薬品とする戦いとどこか共通するものがあり、いつの間にか私は資料を真剣に読んでいました。
時間はたっぷりとありましたから、「エイジアック」の資料も、桐島洋子さんの本もじっくりと読みました。そして、一考の価値はあると思えるようになったのですが、まだカナダから取り寄せてまで使う、そこまでの踏ん切りはついていませんでした。
最終的に私に「エイジアック」を服用するよう決心させたのは、家内が未だかつて見せた事がない態度でこれを飲むよう迫った事で、それは有無を言わせない気迫のこもったものでした。それともう1つは、身近なところで「エイジアック」の効果を確認できたからでした。悪性脳腫瘍で手術をした義兄の知人が、手術で取り切れなかった悪性脳腫瘍を「エイジアック」を服用して1ヶ月で消失させたというものでした。
私は病院には内緒で、「エイジアック」と「万田酵素」という植物活性酵素を摂り始めたのです。それは、C.T検査の結果を聞いて4、5日後の事です。
規定量を1日3回服用。朝起き掛けに1回、夜就寝前に1回、そして、昼食後2時間を目途に1回。退院後は、昼は小さな茶色の小瓶(リポビタンDが入っているような)に入れ、ランチジャーに氷のキューブを1個入れて会社に持参し、14:00頃に服用。
エイジアックとは別にやはり義兄の勧めで、「万田酵素」というペースト状の酵素を1日5〜6回(添付のスプーンで)摂取。
気管支鏡による精密検査。
胃カメラは数度経験していたが、気管支鏡は初めてなので不安。咳止めのために吸引マスクを10分程口に当てられた後、咽頭麻酔を肩に注射。呼吸は通常より少し苦しい程度、声は出ない。
思ったほど苦しい検査ではなかったが、先端が腫瘍部になかなか届かず、何度も試みる。「ワイヤーが届かないから、一番近いところの細胞を取ろう」と言っている先生の声がぼんやりと聞こえる。どうやら、腫瘍の細胞は取る事ができず、付近の細胞を取った様子。
検査後、担当のM先生から「結果は10日後に報告します。」と言われる。
気管支鏡の検査から10日過ぎてもM先生からは何の報告もない。入院中とは言っても治療を受けているわけでもなく、ただ病室にいるだけで気が滅入るだけ。消化器内科のO先生の所に遊びに行く。雑談している間に、特別治療もなく入院しているなら、ちょうどよい機会だから消化器の検査をしようという事になる。
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O先生は、自宅の近くにあるO医院の息子さんで、子供の頃から互いによく知っている仲であり、私が胃腸があまり丈夫でない事を知っていたため、検査を勧めてくれたのでした。
胃カメラで食道から胃、幽門まで検査。異状なし。大腸鏡の検査で思いもよらなかったポリープが2ヶ発見される。O先生の判断では、すぐにどうという事ではないがいずれ癌になる可能性があるから、O先生のスケジュールに合わせ手術をする事にする。
3週間目に入り、ようやくM先生から結果報告を受ける。
病理検査の結果は良性と報告を受けても、腫瘍から直接細胞を採取していない事は分っているから、それでホッとする心境ではないし、MRIの検査をしなければならないとは、やはり悪性の確率が高いのではないか。そうでなければ、わざわざ医大まで検査を受けに行かせるはずはない。
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私にとってM先生からの報告は、とてもショッキングでした。いくら覚悟をしているとは言え、人は心のどこかでひょっとしたらこれは何かの間違いかもしれないと思っているものです。大学病院でさらにMRIの検査をしなければと言われた時は、淡い期待も打ち砕かれた気分でした。
しかし気分は最悪だったものの、エイジアック療法を始めて約1ヶ月後、福島医大でMRI検査を受けるその頃には、最初にあっただるさ、微熱、空咳、偏頭痛はいつの間にか治まり、血痰もでなくなっていました。
MRI受診のため、家内の車でO総合病院を出発、福島医科大学病院へ行く。検査終了後、担当の医師から結果はM先生へ報告すると言われ、そのままO総合病院へ戻る。
M先生から家内と一緒に診察室へ来るよう呼び出し。家内を職場から呼び寄せ診察室へ。M先生より医大病院での検査結果について次のような報告と、今後の方針について説明を受けた。
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腫瘍が半分に縮小した事は、不安な日々を過ごしていた私にとって、何事にも変え難い福音でした。その日に退院の許可がおり、久しぶりに自宅に戻って、ゆっくりと風呂につかりました。
O病院でC.Tスキャン。M先生の診察室前で、検査結果を聞くために待つ。私の前の人が呼び出しを受け入室、しばらくして退室。いよいよ私の番、検査結果はどうなのか、今は体調がとても良いのだから、多分前回より腫瘍は小さくなっているはずだと期待し呼び出しを待つ。5分、10分、20分…まだ呼び出しがない。30分経過、期待が徐々に不安に変わる。35分、もうだめなのか!!動悸と寒気で足がガタガタふるえる。40分、かすかに自分を呼ぶ声が聞こえるが、立ち上がる事ができない。看護婦さんがドアから顔を出し、呼ばれてようやく診察室に入る。
M先生の第一声は、「腫瘍が無くなっているんだ。何度見ても無いから、C.Tの撮影技師に機械が故障していないかどうか確認をとっていたので時間がかかった。機械は正常だと今返事が来た。」だった。
「吾妻さん、何故かは知らんが、あなたの腫瘍はきれいさっぱり消えてしまったんだよ。治ったんだよ!!」と笑顔で言われ、しばし呆然!!診察室から出て、ようやく我に帰る。地獄から天国へのリフトの乗り心地は、残念ながら茫然自失のままで分らずじまいだったが、病院から自宅へ戻る道の両側の桃畑には、桃の実が真っ赤に化粧をしてたわわに下がっているのが映り、無事生還を祝ってくれているようだった。
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ここまでお読みいただいてお分りのように、私は癌と宣告された訳ではありません。私の肺にできた腫瘍は、悪性だったのか、良性だったのかも分りません。その結論が出る前に、腫瘍は私の肺から消えてくれたのです。
あれから4年が経ち、今振り返ってみると、あの時は色々な歯車が偶然噛み合う幸運に恵まれたから、最高の帰結を得られたのだと感謝しています。すなわち、『検査の途中であったから、化学療法も放射線も治療は一切受けていない事』、『エイジアックと万田酵素が私の体質に良く合い、タイミング良く服用を始めた事』、そして『主治医のM先生が治療を急がず様子を見る勇気を持ってくれた事』 などです。
お蔭様で私は今年59歳になりました。とても元気で毎日を過ごしています。前に勤めていた会社は、体の事を考え早期に退職させていただきました。今はストレスもなく肉体的にも無理のない仕事を自分でしています。
入院中発見された2ヶの直腸のポリープは、O先生から手術日を指定された日は私の趣味の狩猟で使う鉄砲の検査日とぶつかり都合がつかず、手術せぬまま退院していました。肺にあった腫瘍も消え、肺を手術したつもりになれば内視鏡でポリープを取る事など何の事はないと、退院後O先生に連絡をとり、手術する事にしました。ところが、手術に入り内視鏡でポリープのあった所をいくら見てもポリープが見つからず、O先生から「胸の腫瘍と一緒に直腸のポリープも消えてしまったようだね。」と、驚かれてしまいました。
そして今は、O総合病院を退職し父親の医院を継いだO先生には、ホームドクターとして親しくお付き合いさせていただいています。時にはあの時の事が話題になりますが、O先生は「今こうして吾妻さんと話ができる事など、あの時は考えられなかった。」と嬉しそうに話してくださいます。
私の体内で一度は腫瘍が作られたのですから、ある条件下ではまた腫瘍ができる可能性はあると常に考えています。M先生の診察室の前で味わった、あの40分間の恐怖は二度と御免です。あれ以来「エイジアック」は欠かさず服用を続けています。そして、年1回C.Tスキャンも忘れずに受けています。今年も異状無しの結果報告をいただきました。すべての事に感謝の気持ちでいっぱいです。
平成12年8月16日
吾妻 貞男
(福島県在住)
【2005年8月1日版】
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