科学の世界にいたためか、私は代替療法に関する勉強を全然したことがありませんでしたので、初めは代替療法に懐疑的でした。しかし、それを受けることはいといませんでした。最初の診断(肺癌の4期)から放射線と化学療法までの時期は、ほんの2週間ぐらいでしたから、化学療法の結果がどのようになるかを見るために、いかなる代替療法も受けないことに決めていました。それは、もし結果が良ければ、その結果が何のせいで良かったのかがわからないし、代替療法と医学療法との両方とも続けなければならないかもしれないという思いでした。この時点で化学療法の見通しが暗いとわかっていれば、代替療法を先に始めていたかも知れません。そこで、その効果を見るということでは、私の治療はひとつの実験だった訳です。この考えの背景には、私の主治医が化学療法の効果は40%の確率で現れると説明したこと、そして私は、この救い難い私の症状からすれば、かなり良い確率ではないかと判断したからでした。しかし、私の主治医の説明した効果とは、ただ症状を安定させるか、最高でも取るに足らない程の腫瘍の後退を意味することが程なくわかりました。
化学療法のみが実施された12週の期間には、原癌に何の変化もなく、その後6週間試みた化学療法に代替療法を加えた治療では、原癌が50%に縮小したのです。3ヶ月後、私の体には何の症状もなくなっていました。
潰瘍遺伝子学者の主治医は、私に治りましたと告げました。ただ、まだ見つけられない癌細胞があるかも知れないと注意し、もし一千個の癌細胞が残っていたとすれば、45日から90日位の割りで倍加する肺癌の場合は、癌として発見されるまでに何年もかかるはずだと話してくれました。(現在の医学では癌と診断される癌の大きさは、細胞数でいえば数千億の個数になった時)ということは、もちろんもうこれ以上いかなる治療もないということなのです。そこで私は残りの人生のために、ビタミン剤とCoQ-10、そして、エイジアックをしっかり服用することにしたのです。
ここで私の履歴を簡単に述べます。私はイリノイ州のウォーケガンで生まれ育ちました。私はアメリカ育英奨学生の有資格者で、G.M.(ジェネラルモータース)の奨学金を4年間受け、イリノイ工科大学に通い、理学士になりました。それ以降、1967年に徴兵されて軍に入隊するまでの1年半は、アリゾナ大学に通い生化学の勉強をしました。軍隊では、マサチューセッツ州ナティックにある軍の調査研究所にいました。
1969年の秋に、UCLAの糖尿病調査研究室にいる以前の軍の責任者の求めで働くために、初めてカリフォルニアへやってきました。私は10年間UCLAで研究室長を務め、そしてもう16年間は調査費用が打ち切られる1995年までスィーダーズサイナイ医療センターにいました。その後は、小さなベンチャー企業のハイテクファームであるシルバーレイク・リサーチ・コーポレーションで研究室長をしていました。
私はカリフォルニアに移った直後に結婚し、そして双子の息子の義理の父親となりましたが、1985年に離婚しました。この息子の1人が、私が化学療法を受けた直後に代替療法の潜在力について、私が納得いくよう力を尽くしてくれました。
私はアウトドアスポーツを楽しみます。最高の気晴らしは、釣やスキーです。船外機付きのボートをサンタモニカ湾に出したり、チャネル諸島(イギリス海峡にある英国領の諸島)まで釣の旅をしたりするのが好きです。スキーは今もスラロームに挑戦したり、学内行事で他のスキークラブに対抗して大回転を互角に競って楽しんでいます。
その他に熱中しているものは、倉庫に保管されている持主がいなくなった品物のオークションへ出掛け、未開封の箱を買い、その後にeBay(eBay:イーベイはオンライン個人間売買のコミュニティ)上で私の掘出し物をオークションにかけることです。
1999年、Webページを開くためコンピューターを習得し、自分の肺癌に関する詳細な情報を広く発信しようとしましたが、時間だけが多くかかる結果となりました。私のWebページは、「Essiac Information Page」サイトを開いているアン・ハリスによって制作され、維持されています。アンは「私は正確に記述することや文書を調べるのは非常におっくうな性分なので、ボブ(Bob:ロバート・カージャラさんの愛称)が提供する資料を活用してこのWebページを作るのがとても楽しみだ」と言ってくれます。
私の望みは、私が4期の肺癌と闘って得た知識が、皆様のお役に立つかも知れないということです。
ご幸運とご健康を祈ります。
ボブ・カージャラ
1999年8月24日
"From http://essiac-info.org, permission granted"