エイジアック・ガイド - エイジアック、フロー・エッセンスの基本情報 -
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2. エイジアックの歴史

このページでは、エイジアックの歴史を紹介します。エイジアックの歴史は、エイジアックを世に出したリーン・ケイスの半生記でもあります。

このページは、エイジアックに関する出版物「見えない海に漕ぎ出して」の著者 桐島洋子さんと、出版社である海竜社のご好意により転載許可をいただいて作成しています。第1幕・第2幕は、「見えない海に漕ぎ出して」第5章「インディアンの秘薬の物語」の193ページ4行目から204ページ3行目までを転載しています。

■第1幕 エイジアック誕生

看護婦長時代のリーン・ケイス

カナダのオンタリオ州にあるシスター・オブ・プロビデンス病院で婦長をつとめていたリーン・ケイスが、1922年の或る日に1人の老婦人の看護に当たったことから、この物語は始まる。

老婦人が20年前に鉱山技師の妻として住んでいた北オンタリオで乳癌にかかったとき、原住民であるオジブア族の呪術医によって奇跡的に救われたということを聞き、リーンはその治療法に興味をそそられた。呪術医は先祖代々伝えられて来た「身体を浄化し、大自然の精霊と人体の調和を取り戻す神聖な飲み物」である薬草茶の飲用を指示して、その薬草の採取と調合の方法まで教えてくれたというのである。

リーンが老女から聞き出して記録した処方を実際に活用する機会が2年後にやって来た。リーンの叔母が末期の胃癌と肝臓癌だと診断されたのである。リーンは現代医学のめざましい進歩も勿論承知していたが、当時画期的といわれていたラジウム療法が、生体組織をむごたらしく焼き潰し、多くの患者を地獄の苦しみで苛みながら結局は助けられずに終る例をいやというほど見せつけられてもいた。

そこでリーンは叔母の主治医のフィッシャー医師に、ラジウムの代わりにインディアンの療法を試みていいかと思い切って申し出た。フィッシャー医師はそんなお呪いじみた療法には当然懐疑的だったが、どうせもう打つ手のない絶望的な段階に達していたので、駄目でもともとということで、リーンの提案に同意した。ところが、その薬草茶を毎日飲み始めて2ヵ月ほど経った頃から、めきめきと容体が好転し、叔母はそれから20年も元気に生きて天寿を全うすることになる。

予想外の展開に驚いたフィッシャー医師は、他の末期癌患者にも薬草茶を試みて、多くの患者にやはりめざましい効果を認めることができた。噂はたちまち広がって、他の医師たちも回復の見込みのない患者をリーンのところへ回して来るようになった。

飲用より注射の方がさらに効果があるのではないかと考えた医師が、咽喉癌と舌癌に冒された患者の舌にハーブ・エキスを直接注射したら、患者が物凄い震えを起こし、呼吸困難になるほど舌が肥大するという恐ろしい経験もあった。慌てて注射は中止して、結局は経口投与だけでこの患者の癌の進行を止めることができたが、なおも注射という方法を諦めなかったリーンとフィッシャー医師は、ハツカネズミで実験を重ね、悪性細胞を破壊する注射と、血液の浄化を促す飲用液とを併用する治療法を開発し、リーンの姓である「CAISSE」を逆さにして「ESSIAC(エイジアック)」と名づけた。

その頃、自分の手に余った患者がエイジアック療法によって続々と回復していくのを見た医師たちが、9人で連署してオンタリオ厚生省に送った請願書がある。
「以下に署名した私たちは、リーン・ケイス看護婦が行う癌の治療法が人体に無害であり、痛みを緩和し、腫瘍を小さくする効果があると信じうる結果を得ました。私たちが知る限り、ケイス看護婦が治療する患者は、現代医学の範囲で可能な治療をすべて施してもその効果が見られなかった患者ですが、そのような末期症状に達しているにもかかわらず、彼女の治療法は注目すべき効果をあげているのです。この治療を大規模に実施し、その効果を世に証明する機会を彼女に与えて頂きたいというのが、私たちの希望です。なお、私たちが知る限り、彼女はこの治療を過去2年間にわたって無償で施しております」

この請願を受けた厚生省の反応は決して温かいものではなく、正式な逮捕権まで持った2人の調査医を送りつけて来たが、はじめは疑り深かった調査医たちも、事実を目の当たりにしてすっかり感心し、逮捕するどころか彼女の実験に協力する研究所まで紹介してくれた。



こうして最初は勝利に終ったとはいえ、これが生涯にわたって彼女を悩ますことになる医の権力の執拗な干渉の始まりだった。

やがて病院を退職したリーンは、トロント市内に借りたアパートで治療に専念することになったが、毎日数十人の患者の列ができ車の数も増えて近隣からの苦情が相次いだ。しかし、報酬を求めず、患者のささやかな寄付に頼るだけの彼女に、それ以上の家賃の支払いは不可能だったので、郊外の小さな一軒家に移り住むしかなかった。

そこでも「不正医療行為」の罪で逮捕されかかるという不愉快な事件があった。まわりの医師や患者たちの援護のもとに当時の厚相と直談判し、治療の継続を認めさせることはできたが、それには「治療代を請求しない」「確かに癌であるという医師の診断書を持った患者に限る」といった条件がつけられていたのである。

1932年にはトロント・スター紙に「ブレースリッジの若い女性、注目すべき癌の治療法を発見」という大見出しで紹介され、彼女の治療法はいよいよ広く知れ渡り、助けを求める患者は増加する一方だった。また大金を積んでその処方を買い取ろうとしたり、共同事業を申し入れてきたりする人間も少なくなかったが、リーンはどんな儲け話にも一切関心を示さなかった。

その頃、自分の患者の末期的腸癌がエイジアック療法で完治したのを見て感銘を受けた1人の医師が、ブレースリッジ町議会に熱心に働きかけた結果、税金の滞納で町に差し押さえられていたホテルがリーンに提供され、1934年にはようやく彼女のクリニックを開設することができた。

たちまち盛況を極めたクリニックは、まるで巡礼者が溢れるルルドの聖堂のようだった。このクリニックの治療でエイジアックへの信頼と期待はいよいよ高まり、厚生省にリーンの活動の支援を要求する請願書には数千人の署名が集まった。

当時の厚生相だったフォークナー博士は、請願書への対応について、インシュリンの共同発見者として名高いバンティング博士に相談したが、バンティング博士は実はずっと前からエイジアックに関心を持っていた。腸癌と糖尿病を患っていた女性にエイジアック療法をほどこしたところ、腸癌だけではなく糖尿病まで治ってしまい、インシュリンが不要になったという症例が報告されていたからである。

そこでバンティング博士は、リーンにトロントのバンティング研究所に来て自分の監督下で厳密な動物実験を行うようにと申し入れて来た。その実験に合格してエイジアックの効力が科学的に証明されれば、実際に患者の治療を行うのを認めるというのである。

それはつまり実験が続けられている間は治療を禁じられ、リーンのクリニックに助けを求めてくる患者たちを見捨てなければならないということで、彼女にはとても耐え難いことだった。結局彼女はバンティング博士の招聘を断り、ノーベル賞も受賞した世界的権威のお墨付きを得て医学界の認知を受ける絶好の機会に背を向けてしまったのである。

しかしリーンは医学的研究を忌避したわけではなく、次々に訪れる医師たちの調査をオープンに受け入れていたし、シカゴのノースウェスタン大学医学部長の招待に応じて1年半にわたって隔週にシカゴに出張し、エイジアックの臨床実験を行った。

このときには「なぜカナダではなくアメリカなのか」とオンタリオの新聞が怒りの論説を載せ、リーンをアメリカに奪われることを心配した投書が厚生省や新聞社に殺到した。

実験の成果に感銘したシカゴの病院からは、アメリカに移住して治療を続けないかという打診があったが、地元の患者を見捨てる気のないリーンはそれも謝絶した。



リーン・ケイスの「キャンサー・クリニック」

1938年には、リーンを支援する新たな請願書の署名者は5万5千人に膨れ上がっていた。この年には「正看護婦リーン・ケイスが引き続き医師の免許無しに癌患者を治療することを公的に許可する」法律案が、オンタリオ州議会に上程された。

この法律が通って、医師の診断書を持たない患者の受け入れが許され、もっと早く初期のうちからエイジアック療法を施せるようになることをリーンは切望していた。医者の多くは自分の手に負えなくなるまで患者を手放さないので、ようやくリーンのところへ回されて来る頃には、すでにさまざまな治療でボロボロになって今更エイジアックでも救いようのない患者がほとんどだったのだ。

しかしこの法案は医学のエスタブリッシュメントには侮辱的な挑戦として受け取られ、激しい反発を巻き起こした。また、州の厚生相がリーンに好意的だったフォークナー博士から、敵対的なカービーに代わっていたことも状況を厳しくした。

カービーは前記のリーン法案に対抗して「カナダ医学界で選抜された専門委員による癌評議会を設立して議論の的になる治療法の有効性を究明する」というカービー法案を上程した。一見もっともな法案だが、その付帯条件によると、治療に使用される処方のすべてを評議会に提出しなければならず、これを拒否したまま治療した場合には罰金や禁固刑が課せられるのである。

それから議会で壮絶な論戦が展開され、傍聴席の圧倒的な応援にもかかわらずリーン法案は僅差で否決された上、カービー法案は可決されるという最悪の結果になり、リーンのクリニックは閉鎖に追い込まれてしまった。

この事態に対する大衆の反発の大きさに驚いた政府の配慮で、クリニックはカービー法の「例外規定」とする保証のもとにひとまず再開されたが、翌1938年発足した癌評議会によるエイジアック叩きは強力で狡猾で執拗を極め、1942年、遂にリーンは力尽きてクリニックを閉鎖してしまった。

■第2幕 医薬品への挑戦

以上がエイジアックのドラマの第1幕で、第2幕が始まるのは1959年、リーンが70歳になってからのことである。幕間の17年間にも細々と治療は続けられていたようだが、社会の表面に彼女の名前は全く現れていない。

第2幕では、アメリカで最も尊敬されている医師の1人で、ケネディ元大統領の主治医であり親友でもあるチャールズ・ブラッシュ博士という、この上もなく頼もしい共演者がエイジアックのドラマに加わる。

潰瘍を伴う重症の痔をエイジアックによって完治させたカナダ人が、この感動的な療法を世に出そうと志して膨大な資料をニューヨークの出版社に持ち込み、それに興味を持った編集者がさらに独自の調査を重ねた上、ブラッシュ博士にリーンとの共同研究を提案したことから、ケンブリッジのブラッシュ・クリニックを新しい舞台にして幕が開いた。

ブラッシュ博士はエスタブリッシュメントの中枢に在りながら、異端と関わることを恐れない柔軟な人物で、ポリオ・ワクチンの接種も、鍼治療の研究も、彼がアメリカで最初に行い、治療費の支払いが困難な患者のために西半球で初めて医療保障制度を自分のクリニックに設けたのも彼だった。また博士が予防医学に高い関心を抱き、食事をはじめとする生活そのものの在り方を重視していることも、リーンの信条と一致していた。

博士とたちまち意気投合したリーンは、その招待を喜んで受け入れ、ケンブリッジに移ってブラッシュ・クリニックで臨床活動を開始した。エイジアックがブラッシュ博士の期待に応える効果を現し始めるのに、3ヵ月もかからなかった。

しかしブラッシュ博士は、エイジアック治療を注射で行うことには疑問を感じていた。そこで薬草研究の第1人者として名高い植物学者のエルマー・グローブ氏の助力を求め、効力を増強する薬草を加えることで、必要な成分のすべてを経口投与だけで摂取できるようにエイジアックの処方を改良することに成功したのである。

これでエイジアックの自宅摂取が可能になり、通院できない患者にも治療の可能性が広がった。これこそリーンが長年待ち望んでいたことだったのだ。

だが喜びは長くは続かず、ここにもまたじわじわと妨害の手が伸びて来た。アメリカ医療協会から、「協会員が未知の治療薬を患者に投与することは禁止されている」という通達があり、研究の手足を縛られてしまったのである。

どっと疲労に襲われたリーンは、再び戦うよりも故郷に帰ることを選んで、アメリカを去った。

ただブラッシュ博士との深い信頼関係は揺るがなかったので、博士が今後もエイジアックの研究を続けて、より完璧なものに近づけ、いつの日か誰でも手に入る大衆的な価格で市販できるようにするという希望を残すことはできたのである。



1977年に89歳のリーンはまたもや脚光を浴びる。カナダの「ホーム・メーカーズ」という大手の雑誌が、リーンとエイジアックの歴史を入念に取材した、今までになく正確で良質な記事を大々的に掲載し、カナダ全土にセンセイションを巻き起こしたのである。治療を求めて押し掛ける群衆からリーンを守るために、警官が出動しなければならないほどだった。

この記事を読んで「レスパリン」という薬品会社のフィンガード副社長が、エイジアックの商品化を目論んでリーンを説得にやって来た。これまでも幾度となく同じような申し込みを受けながら頑なに拒み続けて来たリーンだったが、フィンガードの雄弁には心を動かされ、パートナーのブラッシュ博士の意見を求めた。エイジアックの独占使用権を獲得できたらカナダ全土に十分なクリニックを設け、経済力のない末期癌患者には無料で施療するというレスパリン社の条件は、これまでの利益目当てがみえみえの申し込みとは違う良心的な話であるように思われて、博士も受諾に賛成し、3人の調印で契約が成立したのである。

■第3幕 そして、現在

エイジアックを煎じるリーン・ケイス

リーンは1978年の暮れに世を去った。このあと桐島さんの本では、引き続き第3幕、チャールズ・ブラッシュ博士とイレーン・アレグサンダーの出会いと、フローラ社がフロー・エッセンスを発売するまでのストーリーが展開されるのであるが、参考文献を読んでいると、リチャード・トーマス著「ジ・エイジアック・リポート」以外は、フロー・エッセンスの記述はないのである。確かに他の文献は、リーン・ケイスとエイジアックに焦点を合わせて書いているので、リーンの死によって彼女の闘いには終止符が打たれ歴史の幕は降ろされたのであるから、その後の記述がないのも理解できる。しかし、オリジナル処方のエイジアックは、今も多くの人々に必要とされ、愛され続けているのであるから、リーンの遺産であるオリジナル処方のエイジアックにも第3幕を用意すべきであると考え、私が調べたその後のエイジアックの道程を簡単に述べたいと思う。



リーンが独占使用権を与えた当時のレスパリン社の台所は、実は非常に切迫していて、会社の立て直しに必死の状況だった。リーンと交渉に当たった副社長のフィンガード博士は、ホーム・メーカーズの記事を読み、経営責任者の1人として、エイジアックを自社の医薬品にすることができれば会社を救うことができると確信し、必死の覚悟でリーンと会ったようだ。その気持ちが通じたのだろう。リーンはただ同然で、レスパリン社へ独占使用権を与えたのである。

フィンガード博士は会社を救うために、そして、リーンの期待に応えるために懸命に努力を重ねた。しかし、ハーブ・ティーから科学的データーを得ることは、もともと困難な作業である上、会社の資金はタイトな状況下であるから、なおさらデーターが集まらず時間が過ぎ去るばかりだった。

カナダ政府から与えられた5年の研究期間が過ぎても、医薬品として申請するために必要とされる十分な科学的データーを提出することはできなかった。このためカナダ政府は、レスパリン社にエイジアックの研究を中止するよう命令を下した。

通常であれば、医薬品としての道は閉ざされたのだから、レスパリン社は方針転換をし、独占使用権を生かし、ハーブ・ティーとして健康食品への道を選択し、会社の立て直しをすることができたはずである。しかし、フィンガード博士はその選択を拒否し、リーンとの約束を実現させるべく、ほとんど不可能となった医薬品の許可にこだわり、研究続行を決意した。

翌年の1983年、思いがけないところから援軍が現れた。カナダでも有名なトロント大学病院のブルース・ヘンドリック博士である。ヘンドリック博士は、放射線や化学療法を嫌う10人ほどの子供の癌患者にエイジアック療法を施したところ、治療結果がとても良好であったこと、また、癌治療に付き物の副作用がほとんど見られなかったことに大きな感銘を受けた。そして、「エイジアック療法は、科学的な医療よりも患者にとっては有益であり、この治療法は継続して取り入れられるべきである」という内容の手紙をカナダ厚生省に送った。しかもその手紙には、過去60年間、癌治療にエイジアックを使用してきた多くの医師たちの好意的な声のリストが同封されていたのである。

この情報を知り、レスパリン社の社長ダイモント博士、副社長フィンガード博士をはじめ、研究スタッフ全員が大変喜び、そして勇気付けられた。ヘンドリック博士の手紙を糧とし研究は続行されたが、援護射撃もむなしくレスパリン社の挑戦は、1989年ついに幕を閉じることになる。

それは研究の推進力として常に先頭に立ち、スタッフを励まし続け、医薬品への夢を決して捨てようとはしなかったフィンガード博士が亡くなり、スタッフだけでは研究を継続することができなかったからだ。

2年後の1991年、レスパリン社はリーンから譲り受けたエイジアックの独占使用権を、カナダのキャンベルトンに住むデイビット・ドビーに譲り渡した。この譲渡の件は、カナダ当局も是認し支持している。

ドビーは過去の経緯を見て、当初からハーブ・ティーは医薬品には向かないと判断した。彼は、健康食品として店頭に並べれば、必要としている人はいつでもそこで求めることができ、結果としてはその方が人々の役に立つと考え、健康食品としてエイジアックを製造することを決意した。そして彼は、エイジアックを商標登録し、「エイジアック・プロダクツ社」を設立したのである。そして、「エイジアック・インターナショナル」(社長 T・P・マロニー)がディストリビューターとなって、ハーブ・ティーとして販売を開始した。

その後、T・P・マロニーは2000年にエイジアック・インターナショナルを「エイジアック・カナダ・インターナショナル」と改名し、2002年にはエイジアック・プロダクツ社を買収し、新に「エイジアック・カナダ・インターナショナル社」を設立した。

今、私たちが手にすることができるオリジナル処方の「エイジアック」は、「エイジアック・カナダ・インターナショナル社」が製造・販売元となって、カナダ、アメリカをはじめ、世界70数ヵ国へ輸出しているものだ。



さて、リーンとレスパリン社の契約に立会人として出席し、リーンが最も信頼していたパートナーのブラッシュ博士のその後はどうなったのだろう。彼は、エイジアックの独占使用権を取得した後のレスパリン社の動向を、注意深く観察していた。そして程なくして、同社に不満を抱くようになった。

リーンが自分の思いの丈をすべてレスパリン社に託し、たったの1ドルでエイジアックの独占使用権を譲ることにしたのは、レスパリン社の副社長であるフィンガード博士がとても誠実な人に思えたこと、レスパリン社ならエイジアックをきっと医薬品として認定させるだけの実力のある会社に思えたこと、そして、リーンの意志を汲んでカナダ全土に十分なクリニックを設け、貧しい末期患者には無料で施療することを約束してくれたこと、もう1つは、この時(1977年)リーンが89歳という高齢であったことからだった。

これらのすべてを詳しく知っていたブラッシュ博士の目には、レスパリン社のその後の行動が何とも苛立たしく映った。リーンに約束した週250ドルの生活費を振り込まないばかりでなく、エイジアックの臨床テストも真剣に取り組んでいるようには思えなかったのである。

1978年、リーンが転倒し腰の骨を折ったことが遠因となって死亡したこともあり、ブラッシュ博士はこのままレスパリン社にエイジアックの医薬品化を任せておいては、リーンの意志の実現は難しいと思うようになる。そして、彼女の夢をかなえるために、再びエイジアックの医薬品化を模索しはじめた。

1984年、ブラッシュ博士は腸癌を患い、なんと彼はエイジアックを服用しただけで、この癌を治癒させてしまった。この体験が揺るぎない自信となり、一層エイジアックを陽の当たる場所に出さなければという気持ちが強くなった。

ブラッシュ博士はちょうどその頃、ヴァンクーヴァーのラジオ局でプロデューサー兼ブロードキャスターとして活躍していたイレーン・アレグサンダーから、彼女が企画する「スティル・アライブ」という健康情報番組のためのインタビューを受けた。このインタビューは、ラジオ局の電話回線がパニックになるほどの大成功で、イレーンはその後2年間にわたって7回ものエイジアックの特別番組をプロデュースした。

この間にエイジアックを通じて、ブラッシュ博士とイレーンは親交を深め、いつの間にか2人はエイジアックを世に出すための方策を真剣に考えるようになった。ブラッシュ博士は医師として医療の場でエイジアックを使うことにこだわってきたが、イレーンの説得で医薬品としてではなく、浄化作用のある無害なハーブ・ティーとして、健康食品のジャンルで販売することに同意したのである。

ところが、エイジアックはすでにレスパリン社に独占使用権が移り、エイジアックという名称も、オリジナル処方も博士たちには使用する権利がなかった。そこで博士は、マサチューセッツ州のケンブリッジにある自分の研究所にリーンを招いて共同研究をしていた頃、リーンがエイジアック治療を注射で行うことに疑問を感じ、薬草研究の第1人者として名高いエルマー・グローブに助力を求め、必要な成分のすべてを経口投与だけで摂取できるようにした、改良版エイジアックを世に問うことにした。

実際に彼ら2人のハーブ・ティーが、店頭を飾るのはまだ先のことになる。なぜなら、イレーンは自分たちの理想を実現してくれるメーカーを捜すことに強いこだわりをもったからだ。それは多分、リーンの意志を大切にしたい気持ちが強かったからだろう。

結局、彼女は4年の歳月をかけた。最終的に彼女が選んだのは、「フローラ・マニュファクチャリング・アンド・ディストリビューティング社」という、名実ともに申し分のない健康食品のメーカーだった。

そして1991年、改良版エイジアックは「フロー・エッセンス」という新しい名称で、ついに店頭に登場することができたのである。

以上がエイジアックの歴史です。エイジアックを医薬品にしたいというリーン・ケイスの悲願は、ついに達成することはありませんでした。でも、エイジアックに関わった多くの医師たちや応援した人々の願いが、ハーブ・ティーとなって、世界中の本当に多くの人々の役に立っています。エイジアックもフロー・エッセンスも、数々の素晴らしい臨床例が報告されています。

今アメリカでは、代替医療が積極的に取り入れられるようになりました。時代は変わりつつあります。科学的データーが整わなくても、代替療法として、臨床の場でエイジアック、フロー・エッセンスがどんどん使われるようになる日もそう遠くはないような感じがします。

【2005年8月1日版】

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