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更新: September 2, 2007
平成十八年一月十四日の昼ごろだった。 「先生が家族の者と話がしたいって言うの。ちょっと来てくれない?」 同じ町内の医院に出かけた妻の嘉子からの電話だ。嫌な予感で背筋が寒くなる。 しばらく以前から胃の調子がおかしいと言っていた嘉子だ。昨年の暮れあたりから、それを口に出すようになっていた。 神戸のルミナリエを一度見たいとせがまれて、十二月の中ごろに出かけた。 「お願い、見たら死んでもいいわ」 などと、笑いながら出不精の私を誘った。ついでに、嘉子の書道の先生たちの展覧会にも付き合わされる。そこで大先生と言う人物にも紹介される。六十過ぎの男で、芸術家にしては存外愛想の良い人だった。 日も暮れかかり、冷気が街並みを覆う。皮ジャケットの私たちはマフラーを耳下までずり上げる。さて嘉子のお望みのルミナリエへ。その前に、簡単に夕食でもと思ったが、どうも食欲がなさそうだ。百貨店に入ってトイレを済ませ、もうかなり膨れ上がった見物人の列に加わる。 ・ はぐれまいと久々に妻と腕をくみルミナリエへの人波に入る 大方二キロもの大行列が会場へと迂回する。一時間も現場の周囲を歩かされて、ようやく電飾でまばゆいメインストリートに入る。嘉子はまことに嬉しそうである。押すな押すなの見物人の熱気で冬の夜の寒さも感じない。喜ぶ嘉子を見て私も来て良かったと思う。 小一時間ほど、あれこれの電飾を堪能して、ようやく何か食べようと言うことになった。が、どこかレストランに入ってまともな食事をする気にもならぬ様子だ。結局、広場の露天で鯛焼きとジュースで済ます。この頃から嘉子は食後に訪れる胃のむかつきに対する恐怖心を持ち始めていたようだ。 その後、年末から正月にかけて、彼女は食後二時間ほどすると食べた物を戻すようになる。十二月二十三日、年末の大阪に珍しく積雪のあった日。嘉子は初めて近くの医院で診てもらう。しかし、そこで貰った胃薬の効き目はなかった。そして年明けの内視鏡検査の結果で、突然、私が呼び出されることになったのだ。 「奥さんはいまあちらで点滴を受けています。ご主人、どうぞこちらへ」 医師が私を小さな部屋に呼び入れる。物静かな五十近くの男だ。 「内視鏡検査をしたんですがね、胃の出口が塞がっていてね…」 写真を見せながら、医師が口ごもる。 「どうも顔つきの良くない癌のようで、それもかなり進行しています」 聞きながら体中が汗ばむ。いま点滴を受けている嘉子にどんな顔をして向かったらよいのだろう。 ・ 進行性癌と妻の病名告げられて只々吾はおろおろしゐる |
町の医院で幽門狭窄と告げられて、妻の嘉子は専門の病院に入院せねばならなくなった。胃の出口が塞がっていては食事も摂れないので、と本人も納得した。もはや彼女の胃袋は固形分をまったく受け付けなくなっていた。点滴と医院から貰ったドリンク剤が頼りとなっていた。 紹介されたH総合病院に入院することになった。わが家から徒歩で五分ほどの場所だ。入院は嘉子にとって始めての経験。私は十五年ほど前に、同じ病院に肺炎で入院したことがある。それで色々と気休めの台詞が口をつく。だが、それを語りながらもやるせない思いだった。 一月十八日午前十時半、着替えや洗面用具などの手荷物を私が提げて嘉子と病院に向かう。 ・ 住み馴れし家を見返り「帰ってきたい」妻が呟く入院する妻が 住み始めて十年近くになるこの家。築八年の中古物件だった。和風の注文建築で姿の良い家だったので、思い切って購入したのだ。嘉子は大層この家を気に入っている。結婚した昭和四十三年は大阪高槻の狭い文化アパートでのスタートだった。その後、神戸の鈴蘭台の公団住宅、茨木の建売の一戸建てへと移り住み、私の退職を機会に、ここを終の棲家と定めたのだった。庭も広くなり、園芸の好きな嘉子はあちこち草花を植えたり、鉢物を並べたり、大いに楽しんでいた。ただならぬ病状でひと月もの入院をすることになった。ここを離れることになって、さぞ心さびしい思いをしたのだろう。 入院時の一通りの検査が済み、四階の三人部屋に落ち着く。早速、点滴につながれる。何しろ食事が摂れないのだ。点滴は終日続くことになる。 看護婦が来て、ベッドの脇で腕組みをしている私に、 「ご主人、ちょっと手続きのことで…」 と詰所へ呼び出される。手続きなんぞは嘉子と一緒に済ましてあるので、何か私のみへの説明だろうと、はやくも気が重くなる。 そこに嘉子の主治医となるN医師が待っていた。彼は町の医院の紹介状と写真を診ながら、 「癌がかなり進行してゐますね、すぐに手術が出来るか、更に検査をして検討してみますが…」 このところ医療機関に働く人達の患者、家族や来訪者に接する態度はとても良くなった。丁寧な物言いと柔和な表情を保つように心がけているようだ。この医師も嘉子の病状をあれこれ懇切丁寧に説明してくれる。でも、その内容は私にとって聞きたくないことばかりだ。 |
私への説明を終えると、N医師は 「ところで、本人さんへの告知はどうしましょう…」 と問いかけた。 妻の嘉子は町の医院でもこの病院でも、まだ癌とは告げられていない。だが、これまでの医師や私との会話で、自分は癌であると悟っているようだった。私は答えた。 「嘉子から癌ですかと聞かれて否定も出来ないでしょう。抗がん剤治療もあるでしょうし、なるべくソフトにお願いします」 町の医院で検査に使ったバリュームがまだ胃に残っていた。幽門が塞がっているので腸には送られない。時間が経つと固まってしまう。N医師が苦労して内視鏡で吸い出す。嘉子は出口が塞がっているのにバリュームを使うなんてと医院を罵った。バリュームが残っているとCT検査にエラーが出るそうだ。 やがてレントゲン、CT、MRIなどの検査が行われて、それらの評価結果が私に知らされる。幽門を塞いでいる腫瘍は十二指腸、胆管、すい臓など周囲の組織に浸潤している。大動脈リンパ節にも転移が見られる。肝臓への転移はまだ見られないが胆管が塞がりかけている。N医師は、この状態で手術が出来るか否かを外科の専門医と相談すると言う。化学療法から始めることも検討せねばとも言う。 「とにかく、食事がとれるようにしてやって下さい」 私はN医師に懇願した。 そのころ嘉子の二十四時間点滴は、両腕の静脈からではうまく入らず、首筋の静脈からとなっていた。見るからに痛々しい姿だ。病室に食事の時間がくる。嘉子には何も運ばれて来ない。同室の患者は二人とも高齢者だ。毎回看護士の介助で賑やかに食べている。早く彼女も食べ物を口からとれるようにならなければ。 ・ 妻病めばわれも病むごと白椿 これまで家のことはまったく嘉子に任せっきりだった。食事の準備も掃除洗濯も町内のかかわりも、それに銀行の方も、私には無縁だった。そんな妻に入院されて、好むと好まざるとにかかわらず、家庭の雑事をこなす破目になる。間の悪いことに、この月は町内のごみ収集場所の清掃当番が回ってきていた。こういう関わりを極端に嫌がっていた私。だが、嘉子から要領を教えられるままに、何とかこなすようになる。そして、毎日午後三時から二ー三時間は病室の嘉子の傍らにいる、昨日の夕刊と今日の朝刊、それに郵便物を持ってゆく。そのうち、嘉子のパジャマや下着などの洗濯物も渡されるようになり、これも立派に処理するようになる。 ・ 入院中の妻の洗濯物を干す春の日差しに皺のばしつつ 結局、N医師は嘉子への癌の告知をそれとなく、日々の会話の中で済ましたようだった。つまり嘉子自身の疑問を否定しない形の応答でだ。それでも、嘉子は 「やることがあったら、やっておいた方が良いなって言うのよ、あの先生は」 と、つとめて明るく私に言った。可愛そうに。ずいぶんショックを受けているのだろう。何しろ引導を渡されたようなものだから。 |
二月一日に手術と決まり、妻の嘉子は落ち着いてきた。治療方針が定まりいささか安堵したようだ。手術をしてもらって早く退院したいとの気分なのだろう。 ・ ひと月と妻退院の目処を言ふ医師は表情厳しきままに 私たち夫婦には二人の息子がいる。二人とも会社員である。長男はまだ結婚していないが、次男の方は家庭を持っている。四歳と一歳になる男の子もいる。嘉子にも私にも愛しい孫たちだ。長男は精密機器の会社に入社以来、独身寮やアパートで一人暮らしだったが、六年ほど以前から私たちの家で同居している。次男家族は歩いて五分ほどの近くに住んでいる。みんな病院の嘉子を足繁く見舞った。 はからずも癌などに罹ってしまった。嘉子は思う。ひとりになると、何で自分がと、ついつい落ち込んでしまう。 入院が一週間にもなると、嘉子の友人知己が次々と見舞いに来てくれる。そんな時、嘉子は 「胃がんになっちゃったのよ」 などと、努めて明るく言う。そして、見舞ってくれた友人たちと元気そうに話し続ける。書道、茶道、卓球など、サークルの仲間たちと機嫌よく話をする。何も食べていないが、点滴で必要な栄養分が補給されているのだろう。見舞いの女友達も、 「元気そうじゃない。がんばってね」 と言って帰ってゆく。点滴台を押しながら、嘉子がエレベーターまで見送ることもある。みんなが帰った後の淋しさと疲労感。またまた自分の死を考えてしまう夜が訪れる。 外科の手術担当医からまず家族への説明があった。手術を明後日に控えた一月三十日の夕方だ。外科のG医師の部屋で二人の息子と話を聞いた。医師は言う、 「癌があちこちに転移、浸潤しています。その組織ゃ臓器をすべて取り除くことは出来ません。身体がもちません」 これまでの検査資料を私たちに見せながら、 「幽門と十二指腸が切除できて、胃と小腸をつなげることを目指しますが。それが無理なら、胃の横っ腹と小腸をつなぐバイパスを作ります。食べ物が通れるようにせねばなりませんからね」 G医師は嘉子の癌は第四期で、いわゆる五年生存率は十パーセントだと言う。手術は女医も交じえ三人のチームで行われる。幽門切除などが目標通りに可能となれば手術時間は七時間程度。バイパスのみとなれば四時間ほどと言われる。 「では、これから患者さんへの説明にまいりましょう」 医師が言う。嘉子には胃の出口の手術のみを説明することになった。私たちは嘉子にどんな顔をしたらよいか、とてもやるせない気分になった。 病室に戻った私たちは、G医師からの説明を、たった今、別室で受けたなどとはおくびにも出せない。嘉子と一緒にナースステーションに行く。そこの片隅にわれわれ親子四人が座らされる。そして、あらためて医師の話を聞いた。 ・ 「手術すれば治るのですか」妻が問ふ「治る」と医師も吾も頷く 出来るだけ穏やかにG医師は話す。なるようにしかならぬと覚悟の決まった嘉子は静かに頷きながら聴いている。そして、うながされて手術や輸血の同意書に署名した。 |
手術の当日がきた。十一時ごろに病室にゆく。妻の嘉子は昨日から外科病棟に移されていた。ここ数日、頭痛と吐き気を訴えていたが、今朝は元気に見えた。ベッドの脇に立っていた。新しい病室の仲間に先日届けられた書道の手本を高く掲げて見せていた。早く退院して締め切りまでに書き上げねばと言っている。 やがて、嘉子は手術着に身を包まれ、ストレッチャーに乗せられて階下の手術室に向かう。私と長男、それに次男家族が手術室のドアまで見送る。小さな孫たちが手を振るのを見ながら嘉子はドアの向こうに消えた。午後一時四十五分である。 手術室と集中治療室の前はロビーになっていて、いくつかの長椅子がありテレビも置かれていた。そのロビーで私と二人の息子が待機することになった。実は、嘉子の岩手の兄弟たちも是非とも立ち会いたいと言ってきていたが、嘉子が、自ら電話で、遠いからと断ったのだ。 嘉子は岩手県の一関市の出身である。私も嘉子も十年ほど前までにそれぞれの二親は見送っている。肉親としては、私には八歳年下の弟、嘉子には三つ上の姉と二人の弟がいる。姉と上の弟は岩手にいるが下の弟は仙台の養護施設にいる。この下の弟は若い時に東京で交通事故に遭い、以来、障害者として不遇な人生を送っている。遠くにいて見舞いもままならぬ嘉子はこの弟のことをいつも気にかけていた。 手術を受ける患者は他にもいて、その家族たちもロビーで待機していた。しかし、嘉子のような大手術ではないらしく、三時間もすると、手術の済んだ患者と共に、それぞれの病室へ、みんな引き揚げていった。次男は昼食でいっとき中座したが、私と長男はジュースを飲み、パンをかじりながら、ロビーの長椅子に座りつづけた。病院の外では冷たい冬の雨が降り出していた。 待っている間に、私たちがずっと願っていたことは、手術が出来るだけ長引きますようにだった。一昨日のG医師の言葉でだった。「病巣の切除が無理ならば、バイパス手術のみ」で、その場合は四時間ほどで終了すると言う話だ。 夕方の五時を過ぎると、私たちは時計ばかりを気にしていた。時々、手術室へ通じるドアが開いて看護士や医師などが出てくる。しかし、待機している私たちには関わりのない人達のようだ。六時をかなり過ぎた。この分なら本来目指している手術が行われているのかも知れない。私たちがそう思って安堵し合った時だった。思わぬところのドアが開いて、看護婦が出てきた。 ・ 手術時間の短きを憂ひゐるわれら執刀の医師の部屋に招かる |
私と二人の息子が小部屋に入る。すぐ手術室に通じる別のドアが開いて執刀医のG医師が現れた。頭から足元まで手術衣に包まれたままだ。マスクを外しながら医師が話し始める。 G医師の所見では、妻の嘉子の胃腺癌は十二指腸、胆管、膵臓、大腸などに転移していて、大動脈リンパ節もかなり腫れている。病状は重症だと言う。ともかく食事がとれるようになったので、あとは術後の体力の回復を待って、適切な化学療法を始めるべきと言う。さらに、予想される次の問題は胆管がつまって黄疸になるかも知れぬことだ。その場合は胆管にステントを入れて胆汁の流れを確保する処置をすると言う。私たちには最悪のシナリオである。 暫くして私たちは集中治療室に移されている嘉子と面会することになった。麻酔から覚めたばかりらしい嘉子は「痛い、痛い」と繰り返しつつも、 手術の翌日には集中治療室から一般病棟に戻された。トイレにも何とか歩いて行き始める。医師から、癌が取りきれなかったことも伝えられる。それでも胃袋から腸へと食べ物が通れるようになっていることを知らされ、嘉子も少しは気分が落ち着いたようだった。本人の理解では、幽門と十二指腸が切除されて、胃と小腸が直結したことになっている。それ以後ずっと、私たちも医師たちも、この嘉子の思い込みを敢えて否定するようなことはしなかった。 術後の回復そのものは順調だった。三日後にはガスも出て、五日目ごろからは水、重湯、お粥へと胃や腸の活動も再開した。首筋の静脈からの点滴も腕に移され、日に三、四時間に短縮した。そして、医師に言われる通りに病院内を歩き回った。 ・点滴台押しゐる妻と語りつつ病院の廊下を往き戻りする それでも嘉子は折あるごとに、切除した病巣を見せろと医師たちに迫った。私や息子たちにも、 ・ 己が病状問ひただしゐる妻を見つめ優しき女医は口ごもりをり 手術の後、嘉子のケアは執刀したチームの一人だった若い女医の担当になっていた。十日目の抜糸もこの女医が行なった。 |
手術そのものの経過はよく、妻の嘉子は二月十六日に退院することになった。退院して気力を整えてから次の化学療法などに挑戦して下さいとの医師の言葉だった。病室の妻は食事もまあまあとれるようになっていた。ベッドの手すりに渡したテーブルで書道の手本の文字をさらったりしていた。 嘉子の退院日の前日、G医師から私への説明があった。日を追って元気になりつつある嘉子にいささかほっとしている私に、 ・ 冴返る五体に癌をちりばめて 「ところで、奥さんから、なぜ癌を取りきれなかったのかと尋ねられています。どう説明しましょうか」 病室に行くと嘉子はもう荷物も整理して、外出着に着替えていた。部屋の仲間に別れを告げ、ナースステーションの看護婦さんらにも挨拶をして一階のロビーに向かう。 ・ 退院する妻の痩躯につきて歩む重き荷物を両手に提げて 顔見知りの窓口の事務員と話をしながら嘉子は入院費の支払いをしている。病室で使い残したテレビカードも精算機に入れて、じゃらじゃらと出る小銭を掬い上げている。病院の玄関を出て駐車場へ。そこで次男の嫁さんと幼い孫たちが待っていた。車なら家まで三分だ。 ことによったら再び戻れぬかもと家を出た日からひと月。さすがに嬉しそうな嘉子だ。だが、門を入ると、彼女は開口一番、 ・ 枯れきつて葉を失ひしゴムの木をけふ退院の妻が見つむる |
退院して三日目のこと。激しい腰痛が妻の嘉子を襲う。朝、布団から痛みで起き上がれなくなった。病院に電話をして指示を貰い、鎮痛剤の座薬を使う。二時間ほどで激痛が治まり動けるようになった。三日間こんな状態を繰り返したが、そのうちに痛みも起こらなくなり、鎮痛剤も使わないで済むようになった。 食はきわめて細いが少しずつ気力が戻ってきている。昼間は床につくこともなく、書道の提出作品に取り組み始めている。時折かかってくる友人や知己からの電話にも元気な声で応じている。春めいてきた日差しの暖かい日曜日には、庭先の椅子に座って、長男に草花や植木の世話をあれこれと言いつけている。 病院では運動のために廊下などをよく歩いていたが、退院してからは外出もしないし、家の中でも書道などで座っていることが多い。運動不足では胃腸の活動も悪くなり食欲も増すまいと、家から一番近い団地のスーパーに連れ出す。 ・ 気晴らしにと病みゐる妻をスーパーに連れ出し林檎干し鰈買ふ 嘉子はいつもの嘉子だ。道々、知る人に会えば必ず立ち話をする。私はこれが嫌だった。話し始めた妻を残して先へ行ってしまうのが常だった。話し相手が遠慮して「ほらご主人が…」と、話を止めて嘉子を促してくれていた。でも今は違う。私も嘉子の傍らに立ってにこにこしながら、頭をぺこぺこ下げている。嘉子が元気に話が出来るのを見て、私は嬉しかったのだ。 片道が五分ほどのスーパーだったが、帰り道ではかなり疲れた様子だった。春の心地よい風にも、それが寒いと言う。買った物を入れたレジ袋は私が提げている。でも、手ぶらの嘉子がついにエンストだ。歩道の手すりに寄りかかって二、三分動かない。やはり体力がないのだろう。ようよう家に戻ると嘉子はソファーに横になった。 母親の食欲を回復させようと、同居の長男が仕事帰りにあれこれと買ってくる。だが、どれももうひとつなので何を買ったら良いのかと途方にくれていた。ある日、嘉子の友人の一人が有機栽培のトマトを差し入れてくれた。これが大層口に合ったらしく、「美味しい、おいしい」と食べてくれた。以来、息子も有機栽培の野菜を買ってくるようになる。 私も少しずつ家事に身が入るようになってきた。米の研ぎ方、コーヒーの入れ方、食器や鍋釜の洗い方、洗濯機や掃除機の使い方など、すべて嘉子流に教え込まれる。 ・ 苦心してわれの焚きたる大根をやまひの妻の舌に載せやる わずかずつだが、嘉子の食も進むようになる。書道にもますます熱が入る。時には嘔吐や腰痛も起きるが、さらに悪い方へは向かっていないようだ。私も暫くご無沙汰していた週末の趣味のサークルへと外出するようになる。 退院して三週間。まだ体力が整ってはいないと思うのだが、外来受診で、消化器内科のN医師から再び入院するように言われる。いよいよ抗がん剤治療を始めることになる。そのための薬との相性を確認するための入院である。二週間余りだと言われる。 |
三月十三日、妻の嘉子がH総合病院に再び入院した。手術のかなわなかった幽門、十二指腸、胆管の癌を抗がん剤で叩こうと言うのだ。内科病棟の三人部屋だ。最初に入院したときの同じ部屋の同じ廊下側のベッドに落ち着く。退院中、家では食欲がいまいちで体力も衰えてしまっている。そこで、体力回復のための栄養剤の点滴が始まる。さらに抗がん剤治療に先立って、病状の現状把握のために、CT、レントゲン検査などが行なわれた。 嘉子は勿論のこと、私にも抗がん剤治療への恐怖心があった。激しい副作用に悩まされる例を多く見聞きしている。だが、医師の言うままにするしかないと思った。医師の丁寧な説明に納得していた。それ以外に治癒への道はないものと頭から考えていた。消化器医療の専門医として評判が高く、多くの疾患例に精通しているこの先生に診て貰えることを幸運と思っていた。いわゆるセカンドオピニオンや他の治療法を模索するようなことはまったくしなかった。 それでも一度、嘉子の書道の知り合いから電話があり、四国に抗がん剤を使わずに癌治療をする有名な医師がいると教えてくれた。電話の主もこの治療法で前立腺癌を克服したと言うのだ。よかったらその紹介ビデオを送ると言ってくれた。いまのところバタバタしているので落ち着いたらまた相談しますと、その場の話は済ました。その後、一応この病院をインターネットで調べてみた。副作用の厳しい抗がん剤を使わずに、患者に適合する自然食品や生薬を使って身体の免疫力を高める療法だと言う。臨床例も出ている。藁をも掴もうと頼ってくる末期癌患者が多いせいだろう。治癒率のデータは決して目を見張るものではない。第四期の癌患者のいわゆる五年間生存率よりも低い数字である。そして嘉子は彼女の知己からのこの助言にまったく興味を示さなかった。 私は病院の嘉子に新聞や郵便物を毎日届けている。一時間ほど付き添ってから日課の散歩に出る。一日に一万歩のウォーキングは雨の日でも欠かさない。歩きながら考える。嘉子のことだ。悪いシナリオ。良いシナリオ。今日の嘉子の様子や医師の言葉から、一喜一憂、あれこれと思い巡らすのである。 ・ 妻病めばつい俯きて歩むわれメロンは如何の声に振り向く 散歩の帰り道にはスーパーに立ち寄り、食パンや牛乳、簡単な夕食などを買う。そして、夕方の嘉子の食事どきにまた病院を訪ねる。そんな日々を繰り返すようになる。 N医師から使用する抗がん剤についての説明を受けた。T薬品のフッ化ピリミジン系抗がん剤だ。経口薬で一日に百ミリグラムを服用する。小さな小豆粒ほどのカプセルを朝夕二個ずつ呑むことになった。医師の話では頭髪が抜けるような副作用はないが、白血球や血小板の減少が起き、激しい運動は出来ないそうだ。また顔の皮膚や指先などが黒っぽくなってくると言う。三月二十一日から服用が開始された。四週間服用して二週間休む。これを一クールとして繰り返しながら病巣を駆逐するのである。 ネットで調べてみると、なかなか評判の良い抗がん剤らしい。吐き気や下痢の副作用も出るようだが、闘病日記などを読むと、中には四クール目でリンパ腫が消え、塞がっていた幽門も開いたなどと言う希望の持てる話も紹介されている。それでも、メーカーのホームページには胃癌の場合の治癒率が四十七パーセントとなっていた。大腸癌に対する治癒率よりは増しのようだが、これで特効薬とは厳しい話である。 |
抗がん剤の服用が始まって四日目。妻の嘉子にさしたる反応はまだ見られない。病棟の男性患者が増えたとかで、部屋替えとなる。今度は四人部屋だ。ところが、この病室に移って、嘉子は俄かに元気になる。明らかに新しい病室仲間のせいだ。同年輩の話し好きが揃ったのだ。これまでの病室仲間、認知症気味の老女や夜を通して咳き込んでいた肺炎の患者などはまともな話し相手ではなかった。とにかく見違えるように明るくなった。食事もよくとるようになる。仲間たちと見舞いの差し入れを分け合って間食までするようになった。 病室の雰囲気の良し悪しについては私にも経験がある。十数年前にマイコプラズマ肺炎で一週間ほど入院したことがある。最初の二人部屋では喘息のルームメイトだった。お互いに話などはまったくしなかった。次に六人部屋に移された。ここには手術を無事に終えて回復途上にある患者ばかりがいた。私の肺炎も峠を越していた。患者たちは饒舌だった。ベッドを仕切るカーテンはみな開けっ放しにしたまま。広々とした部屋に光が満ちていた。ここには談笑が絶えない。看護婦やヘルパーが来れば軽口も出る。ところが、隣の六人部屋はまったく違う。六つのベッドはカーテンで固く仕切られていて物音ひとつしない。薄暗く陰鬱なその部屋の雰囲気は異様に思えた。でも、考えてみればこれが当たり前の病室のムードなのだ。 お蔭さんで、私の入院体験は苦しいものとはならなかった。私の肺炎も順調に回復して、早々に退院することになったとき、せっかく意気投合した仲間なんだから今後も互いに連絡し合おうということになる。リーダー格の男が連絡先のリストを作るからと私の住所を聞いた。しかし、その後何の音沙汰もなかった。私もそれで良いと思った。みんな娑婆に出たのだ。それぞれの生活に戻ったのだろう。 嘉子の抗がん剤服用が始まって一週間が過ぎた。二日おきに行われている血液検査で、白血球が三千を割り出した。 嘉子の白血球の数値は低下しているものの、明らかに抗がん剤の副作用と思われる不快感などは出ていないようだ。食欲も増したせいか、体重も少し増えたと言う。あれが食べたい、これが欲しいと病室に顔を出す私や息子にも言うようになる。 ・ 病む妻の望むイチゴはいづくにや広き店内に立ち尽くすわれ 同室のTさん、Oさんとのおしゃべりは楽しそうだ。傍らにいる私などそっちのけで話をすることもある。Tさんは肝炎、Oさんは骨折だが、二人とも間もなく退院するらしい。嘉子も白血球の数値が安定すれば退院できる。恐ろしいことと思っていた化学療法の出足がまあまあなので、嘉子にも安堵感が湧いてきているようだ。 ・ 納得の化学療法春の雨 |
妻の嘉子の抗がん剤治療が始まって十日が経った。朝夕、小豆粒ほどのカプセルを二錠ずつ呑んでいる。 胃薬、吐き気止め、整腸剤も同時に服用している。幸い気になっていた白血球の数値も二千五百から三千で安定した。二千を割ることはなさそうだ。 病室が替わって、嘉子は格好の話し相手を得た。それで嘉子が俄かに元気になったことも確かだろう。だが私には、この気分の昂揚が、ことによると抗がん剤の副作用によるものかも知れぬと思えた。しかし、製薬会社のホームページを見ても、副作用の項目にそんな記述はなかった。 病室仲間との雑談ででも出たのだろう。 嘉子は二年ほど前から厚生年金を貰っている。若い頃、大阪の中堅商社に四年ばかり勤めていた。そんな短期間が対象だから月々数千円の僅かな年金である。しかし、国民年金の方は六十五歳になってから受け取る手続きをしていた。その方が年間で十数万円多く支給されると言うことでだ。早くから貰うことにしても、現在私が受け取っている年金から配偶者加給分がなくなってしまうので、差し引きすると大した増加にならぬとの計算だった。 嘉子は私より八歳年下である。当然、先に死ぬのは私の方と考えていた。事実、私の友人や会社時代の同僚にもぼつぼつ鬼籍に入るものが出始めていた。この前年の八月、仲の良かった同僚の一人が亡くなった。肺に疾患を持つ男だったが、退職後も元気にしていた。彼は埼玉、私は大阪と、離れていてなかなか会う機会も持てなかったが、メール交換は続いていた。それが暫く疎遠になっていたのだ。 ・ パソコンをともに始めしに君のメール絶えゐてけふはその死を聞きぬ この年に彼も私も古希を迎えていた。男の平均寿命が七十九歳にも及ぼうという今の時代だ。早世とも言えるだろう。この友の死を聞いて、嘉子は私に八十歳までは生きて欲しいと言った。 ・ ひとの死に妻は言ひたり年金の元とるまでは吾に生きよと たしかに、私が死んでしまえば、嘉子は私の遺族年金で生活することになる。それは今の私の年金の七割ほどのものだ。二人で長生きをすれば、嘉子の国民年金の分のなにがしかも加わる。家計もずっと豊かに違いない。 「こっちの年金の配偶者加給がなくなるから、大して変わらないよ」 |
「お父さん」 妻の嘉子の入院が続き、同居している長男が色々と私の食事の世話をやいてくれている。コンビニ弁当で間に合わすことも多いが、彼が休日の今夜は天ぷらを準備してくれているのだ。揚げたての美味しい天ぷらを父親に食べさそうと、何度も呼んでいるのに、二階から降りて来ないので腹を立てたのだ。 たしかに、嘉子には食事のたびに呼ばれていた。それも一度で食卓につくことなど滅多にない。三度四度と呼ばれてようやく階下に降りてゆく。その上、食事が済めばすぐ自分の世界へだ。昼食後なら、また二階のパソコン部屋に。夕食後ならテレビの前にだ。厨房の後始末の手伝いなどしたこともない。 これは会社に勤務していた頃の私の休日の習いだった。ところが、職を終えて毎日が休日となってもこれだ。しかもこれがもう十年も続いている。毎日三度三度の食事を用意させられて、その上、何度も呼ばないと夫は食卓に現れない。ご立腹はもっともである。「亭主は元気で留守」の私の現役時代に比べると、随分とご苦労をかけていることになる。 それでも、日当たりの良い朝の縁側で、二人並んでゆっくり食事をとるひとときは、私にとって心の安らぐ時間だ。現役時代の忙しない朝には味わえなかった至福のときだ。 ・ 水仙の花うつくしと語り合ふ妻とわれとの遅き朝食 だが、この朝食が済めば互いに別行動の日課が始まる。たいがい嘉子はそのまま縁側で暫く新聞を読む。そのうちに外の草花が気になれば庭にも下りる。洗濯機を回しながら掃除機もかける。私の方はパソコン部屋に引きこもる。 嘉子も書道をやっている時には気力を集中させている。私が傍らをうろうろしたり、二階で物音をたてたりするととても怒る。促されて私は二時間ほどの散歩に出るのが常である。 いま天ぷらを揚げている息子も決して嘉子に協力的ではなかった。職場の関係で五年ほど前から同居となったのだが、家族の一員と言うより下宿人だ。時には下宿人より愛想の悪いこともある。会社から戻るのは夜遅くだ。しばしば階下の私たちには声もかけずに、二階の自分の部屋に上がってしまう。それで嘉子が必ず、夕食があることを告げにゆく。そして、部屋でテレビを見ながらひとりでマクドナルドを食べている息子の姿に腹を立てて降りてくる。 嘉子が病気になり、私も息子も変わった。二人ともよく家事を手伝うようになった。もっと早く嘉子のためにこうしてやればよかったのにと後悔しきりだ。いざとなれば私たちも家族なのだ。 |
抗がん剤治療が始まって二週間が過ぎた。妻の嘉子が胃癌の手術を受けてから二ヶ月になる。手術では病巣を摘出できなかった。頼りは抗がん剤治療である。 フッ化ピリミジン系抗がん剤を一日当たり百ミリグラム服用している。当初は白血球の減少が見られたが、それも安定した。恐れていた食欲不振や気分の悪化はなかった。嘉子もこの治療への安堵感をいささか抱いていたところだった。 それが服用二週間を過ぎて、胃のむかつき、吐き気や下痢に悩まされ始めたのだ。気のせいか、指先や顔の皮膚も黒っぽくなってきた。気のせいではなく、 しかし、本人には憂鬱な日々だ。折しも、気の合う話し相手だった病室の仲間が二人とも退院してしまっていた。嘉子も早く退院したいと言い出した。医師はもう少し観察してから退院させようと考えていたようだ。この数日、血液検査のデータも更に悪化する傾向は見せないようなので、N医師は、 退院しても食欲不振は続く。入院中のリズムを守ろうと、嘉子は朝は七時に起きると言う。階段の上り下りは白血球の少ない身体には良くないと医師から言われていた。私たちの寝室は二階なのだが、嘉子は一階の座敷を使っている。私は二階でいつも通りの朝寝をしている。ふと階下から聞こえる泣き声で目が覚める。嘉子が大きな声で泣いている。慌てて下へ降りてみる。洗面所の大きな鏡の前で嘉子は声を上げて泣いている。「どうした」と問いかける。 抗がん剤服用が始まって三週間目はこんな苦痛の日々だった。四週間目に入るところでH病院の外来受診に出向く。桜の花も散り、世間はすっかり春だ。 ・ 通院も三月目なりし春コート すっかり落ち込んでいる嘉子にN医師が、 これ以後、少しずつ嘉子の食欲も戻ってくる。時折、むかつきや下痢は起こるが、本人もこんなものと達観し始めたようだ。 |
抗がん剤の副作用には苦しんでいたが、妻の嘉子の病気が更に進んでいる様子はない。気になっている黄疸もまだ出ていない。次は胆道が癌で押しつぶされて黄疸になると医師たちから言われていたからだ。食欲不振、むかつき、下痢などの症状は相変わらずだ。 ある友人から椎茸の効用についての新聞記事の切り抜きが届いた。特に胃癌治療で使われている抗がん剤による白血球減少の副作用を軽減できるのだと言う。嘉子がN医師にその切り抜きを見せたようだが何のコメントも無かったそうだ。ともかく私は、それ以来、毎夕には椎茸を一つトースターで焼いてぽん酢をかけて嘉子に食べさせた。一個ばかりでなく、もっと沢山食べて欲しいのだが、食の細い嘉子だ。薬だからと毎日ひとつだけでも食べてもらっていた。水分の多い生椎茸である。細く刻んでアルミホイルに載せる。塩を振ってトースターで五分ほど焼く。一個のみでは水気が飛んで、まさに薬ほどの分量になってしまう。それでも私はこれを毎日続けた。祈りでもあり、気休めでもあった。 おそらく世の中には椎茸のエキスで作られたサプリメントも売られているのだろう。そんな栄養補助食品ならば、カプセルか錠剤で呑みやすく、効き目も良い筈だ。探してみようかと、嘉子に尋ねるが、どうも乗り気ではないようだ。 四歳になる私たちの孫が幼稚園に入った。四月十一日は入園式。本来なら私たち爺ちゃん婆ちゃんも出席するかも知れぬ晴れの式だ。それが、この顛末ではどうにもならぬ。嘉子は今日も体調が悪い。昼近くに次男夫婦に連れられてこの新幼稚園生がやって来た。 ・ 入園式終へし制服のをさな来てやまひの妻にXサインする 居間のソファーで休んでいた嘉子も元気に出迎える。入園式も無事に終えたそうだ。その模様など、ひとしきり話がはずむ。嘉子は制服姿の兄と、その二歳の弟を両脇に、明るい縁側で写真も撮る。昨年暮れから裸木になっていた庭の楓にも若葉が吹き始めていた。 ・ 蝶々の羽化するさまに枝先よりかへで若葉のたたまれて出づ 嘉子の身体を気遣って、次男一家は小一時間もすると帰ってしまった。嘉子が元気だったら祝いの膳も作ったろうに。 いま次男たち家族は、私たちが二十数年住んでいた古い家にいる。昨年来、彼らはこの家を建て替えたいと言い出している。住宅展示場もあちこち見て回っているらしい。嘉子は、 |
四月十七日、抗がん剤投薬の最初の四週間が終わる。恐る恐るチャレンジした抗がん剤治療である。出足は良かった。病室の明るい雰囲気にも恵まれて、食欲も出て、妻の嘉子の気分もハイ気味になっていた。案ずるより産むが易しと、私も喜んだ。しかし、そのうちに胃のむかつきや下痢に悩まされるようになり、気分も鬱状態に陥ってしまう。まさによく言われている抗がん剤治療の苦痛を味わう日々となってしまった。 その嫌な薬を呑まなくてよい二週間がやってきた。インターネットの闘病記などには、抗がん剤から解放されて生き返ったような心地になれるときとある。そんな晴れ晴れした嘉子の顔を早く見たい。だが、服用を止めても体内に残る薬の効果のためか、なかなか良くはならない。五日目になり、ようやくむかつきや下痢もおさまり、食欲が出始める。顔つきも明るくなる。身体の動きも敏捷になってきた。気になっていたらしい家計簿の整理を始める。お見舞いに来てくれた人々のリストを作る。やけに活動的になった。 よく食べるようになってくれた。私は日課の散歩の途中で嘉子に食べさせようと果物やおはぎを買うようになる。すき焼きもする。牛丼もラーメンも寿司も食べる。心なしか顔もふっくらしたように見える。体重が一キロばかり増す。ここで嘉子はまた書道の作品に挑むことになる。今回は二尺八尺の大きな紙に六十数文字の漢詩を三行に書く大作である。コンテストへの出品である。出品作を仕上げるまでに百枚近くも練習をする。廊下に手本と並べて敷かれている用紙を跨いで書くのである。大いに体力を要する仕事である。この休薬期間に仕上げてしまわねばと頑張っているのである。 気晴らしに買い物にでも連れ出そうとするが、三、四時間も書道に集中すると、後は疲れてなかなかその気にならない。食材の調達は、やはり息子と私がしている。料理は大方は嘉子がするようになった。食欲が出て食べ過ぎることもあり、時々腹痛も起きるようだが大したことはない。気分は良いらしく友人たちとの電話でも明るい声で話をしている。 休薬期間も間もなく終わる。N医師の診察を受けるために病院にゆく。もちろん私も付き添う。明日からゴールデンウイークということで、大変な混雑である。朝の九時過ぎにチェックインしたのに四十五番目の札を貰う。血液検査を終えて暫く待つが、まだ二十番台の患者の診察である。 ・ 受診待つわが傍らに立ち話するナースらの脚はたくまし いったん家に戻って簡単な食事をしてから、また病院へ。午後の一時になっている。それでもなお十人ほど待たされて、ようやくN医師の診察室に入る。嘉子も疲れきっている。N医師もくたびれて口をきくのもしんどいと言う。 来週からまた苦痛の投薬期間が始まるかと思うと嘉子が気の毒でたまらない。覚悟を決めているらしい嘉子だった。特に異存は言わなかった。長い外来受診の一日が済んで帰宅する。もう夕方の四時になっていた。 |
妻の嘉子は五月二日からまた抗がん剤の服用を始める。フッ化ピリミジン系の薬を一日に百ミリグラム、朝夕、小さなカプセルを二錠ずつ呑む。これが四週間続くのである。 服用による副作用が三日目あたりから出始める。例の胃のむかつきと下痢である。それに今回は息切れもすると言う。見るからに憂鬱そうな毎日が続く。すぐに部屋のソファーに横になって眠る。折りしも、私まで風邪を引く。発熱と咳である。夫婦二人でごろごろする破目になる。失敬して嘉子の解熱剤の座薬を使ってみる。効果は覿面。二日ほどで発熱は治まる。夜中の咳き込みは暫く続いたが医者にもかからずに私の方は回復した。 抗がん剤服用の再開から十日ほど経つと、嘉子も少し落ち着いてきた。日課の散歩で私の買ってくる甘夏も喜んで食べてくれる。書道の作品も何とか仕上げて提出したところだ。少し気分に余裕も出来たのだろう。庭に出て草花の手入れを始める。抗がん剤服用中は強い紫外線は避けるようにと医師から言われている。それでもUVカットのジャケットを着て、大きな帽子をかぶり庭に降りる。草花や土いじりが根っから好きなのだ。 岩手県の山村に生まれ育った嘉子だ。東京育ちの私には及びもつかないほどの動植物や大自然への感性と愛着を持っていた。幼少の頃から花が大好きだったらしい。山仕事から戻る父親の手にはいつも嘉子のための野の花の土産があったと言う。私と二人で外出していても、花屋の前では必ず立ち止まる。今は他の用事の途中なので買う筈もないのにしげしげと並べられている花々を見ている。私たちの庭にもどんどん新しい草花が増える。あれは何々、これはなになにと私にそれらの花の名前を教えるが、大して興味を示さない私をいつも詰っていた。 ・ 満面に笑みを湛へて妻は言へり待望のランけさ開けるを お蔭さまで、わが家の随所に、いつも花が飾られている。 玄関、廊下、縁側、応接間、座敷の床の間、仏壇、キッチン、洗面台やトイレ、二階の部屋べや。家中にいつも季節の花が飾られている。嘉子は独身時代に東京の華道教室に通っていた。「古流いけばな教授」の看板も持っているが自ら人に教えることはなかった。結婚して関西に移り住んでその教室とも縁が切れていた。 ・ 食卓にアガパンサスの飾らるる妻の手捌きあざやかにして 花の名前にはカタカナが多い。嘉子が新しい花の名前に出くわせば私がインターネットで調べて、その写真や資料を提供する。これが花好きの彼女へのせめてもの私のかかわりだった。草取りも水やりも滅多に手伝うことはない。たまに強く促されて嘉子の作業に参加しても、私の仕事ぶりに必ずけちをつけられる。それで口論になり、大概は途中で止めてしまう。そんな訳でなかなか二人で楽しむ趣味は持てずじまいになっている。 |
抗がん剤治療の第二クール。半ばを過ぎても妻の嘉子は下痢に悩まされている。だが、細いながらも食事は取っている。最初の投薬期間に比べて少しは増しな感じがする。嘉子にも私にもそれなりの生活のリズムが出来てきた。 私は週末の英語サークルへの出席は何とか続けていた。また、この頃になると、私の事情を察した会社時代の同僚が慰労のためにと、梅田で食事会を催してくれた。久しぶりに昔語りなどして楽しい時間を過ごした。嘉子も、時折、家に見舞いに来てくれる友人たちと話に花を咲かせている。 気分の良い日には私と買い物など外出もするようになる。ただ、途中で下痢のためにトイレに駆け込む。普段は滅多に利用しない公衆便所にも厭わずに入る。五月二十三日の外来受診の日にも、診察を待つ間に二度もトイレにゆく。この日の血液検査では白血球が四千を割っていた。しかし肝機能など他には問題は見られぬとのことで、同じ抗がん剤を続けるようにと医師から言われる。 「私、生きられるの?」 ・ 窓越しのカエデ若葉の不規則な揺らぎに思ふ独り身の子を この年代でも五割近くの男性が未婚という調査結果もある。たしかに周囲を見回すとそんな若者を多く見かける。しかし、私たちにとっては、やはり気がかりなことである。早く結婚して次男のように幸せそうな家庭を作って欲しいと親として願っているのだ。 |
抗がん剤服用の第二クールが終了する。季節は五月も尽き、世の中はどこを見ても青葉若葉だ。妻の嘉子の闘病生活も六ヶ月目に入った。投薬期間中のむかつきや下痢は相変わらずだったが、それなりのリズムを掴んで、体力も少しずつついてきたようだ。 四ヶ月ぶりに書道クラブの例会に出席した。例会後もたっぷり時間を取って話し込んで来たと言う。表情も明るくなる。家族のための食事の仕度もするようになる。庭の草花にも手がゆく。それに昨年末以来の美容院にも出かけた。 ・ 抗がん剤休薬期間に入りていま妻は風きり自転車を漕ぐ 外来受診の頻度は月に二度ほどである。抗がん剤の投薬期間に一度、休薬期間に一度のペースだ。私も必ず同行する。前回の受診では白血球の数値が下がっていたが、今回は四千を超えていた。黄疸の兆候もまったく見られず、N医師は薬効があるようだと言った。癒着していて硬くなっていた腹部の病巣の辺りも、 いつだったか、この外来受診で嘉子と同様の病気の患者と会った。六十過ぎの男性患者だ。抗がん剤治療を続けて四年になると言う。やはり顔や手の皮膚の色が黒ずんで見える。治療にも慣れて、体調はすこぶる良いそうだ。趣味の山登りもそこそこ楽しんでいると言う。それでも、まだ医師から完全治癒は告げられていない。受診のつどに、いつ転移や再発が起きるか分からぬと脅されているそうだ。嘉子は、 嘉子には顔見知りが多い。外来受診の待合ロビーでも、ひっきりなしに顔見知りに会う。少し元気になった証拠だ。知る人に会えば決して無視しないのが嘉子だ。会釈もすれば、話もする。知り合いがここに入院していると聞けば、病院内を歩き回って見舞う。そのうちに、三月の入院仲間のOさんとも出会う。骨折の方も順調に治癒していると言う。嘉子との話で、みんなで一度、昼食会をすることになったようだ。 休薬期間なら嘉子もいくらか気分が良かろうと、病室仲間だったOさんとTさんが家まで迎えに来てくれた。もう一人の仲間の家で食事をするらしい。嘉子はいそいそと車に乗り込んで出かけた。思いがけなく良い知己を得たものだ。ここ数日は胃のむかつきや下痢の心配はない。楽しんでくるがいいと私は送り出した。 午後三時ごろ、私が日課の散歩に出ようとしているところに三人が戻って来た。「家でお茶でも」と、上がって貰う。私は「ごゆっくり」と挨拶して、そのまま散歩に出る。二時間近くして家に戻ると、三人はまだ賑やかに談笑していた。さすがにそれぞれ家の用事もあるからと、私が帰宅したのを機に帰っていった。大した一日だったが、嘉子はそれほど疲れた様子を見せずに、招待された家の造作や馳走になった料理など、あれこれと私に話をする。良かったよかったと私も言う。来週からまた抗がん剤の服用が始まる。第三クールである。 |
六月十三日、妻の嘉子の抗がん剤治療も第三クールに入る。そして四日もすると例のごとく胃のむかつきや下痢が始まる。これも波があって、三、四日ごとに苦しい日々とまあまあの日々を繰り返すらしい。食事は何とか取っている。大方一人前が食べられるようになった。時々倦怠感に襲われるものの、気力は確かに整い始めている。 このところ遠慮をしていたのだが、嘉子の様子に安心して、私も朝のFMラジオのクラシック音楽を聞くようになっていた。 ・ チャイコフスキーでは四番がいいねとわれ言ふも妻は黙って薬呑みをり 結婚前に趣味はクラシックと言っていた嘉子だったが、 嘉子は二度の入院中に沢山のお見舞いを頂戴した。取り敢えず何か御礼をせねばと言い出した。いつだったか、入院中の病室仲間がこんなことを言っていた。 百貨店から送られた粗品が届き始めると、あちこちから電話がかかり、嘉子は明るい声で応答をしている。近くの友人や知己には自らもお見舞い御礼を届けて歩く。自転車も危なげなく乗りこなしている。卓球クラブにも御礼にとクッキーを持って行く。ついでに卓球も少しやって来たという。しぐさも生き生きとしてきた。まさに快気祝いを配って回っている雰囲気だ。 ・ いささかの癒ゆる兆しの妻に見ゆ紫陽花ことに美しきけふ このところの嘉子の元気な様子を見て、ことによるとこのまま快方に向かうのではと私たちも思った。時折、下痢や倦怠感があり、また鳩尾の辺りが痛いとか、頭のてっぺんが痛むなどと訴えることもあるが、全体として前途に光明を見る感じになっていた。 訪ねてきた孫たちにも、いつになく時間をかけて飲み物や食べ物を与えていた。そして次男家族の希望していた家の建て替えにも、私に同意するように迫った。 |
七月七日、妻の嘉子に付き添ってH総合病院の外来受診に出かける。抗がん剤投与の第三クールもあと数日で終わる。毎日のように下痢は続いているが、気力はかなり回復している。 「他人にあんなに深々と。お父さんがあんな風に頭を下げるなんて初めて見たわ」 四週間に及んだ第三クールの投薬期間も終わって、数日になるがまだ下痢が続く。時々倦怠感に襲われるが、食欲はかなり出てきた。よく動くことも動くが、疲れるとすぐ横になる。 ・ 手術後の化学療法に耐ふる妻わかととのへし素麺に笑む 嘉子の容態は上向いている。先日のN医師の言葉で私たち家族も心が軽くなっていた。今月の書道の作品も仕上げた。卓球クラブにも顔を出す。今度は本格的な試合もしてきたと言う。自転車で買い物にも出る。ただ、少し気になることもあった。下痢が止まると、今度は便秘になること。時々お腹が痛むと訴えること。頭の頂点が痛いらしいことなどである。 休薬期間が十日ほど過ぎた頃だった。突然、激しい腰痛に見舞われ始めた。鎮痛剤の座薬を使うことで三日ばかりで何とか治まった。七月二十一日、外来受診する。 思えば、この辺りからだった。嘉子の体内で再び何かが動き出したのは。鎮痛剤で腰痛も引き、嘉子は元気になった。書道の例会にも出席して、いつものごとく、仲間たちとのお喋りも楽しみ気分の良い日々を重ねていた。 |
見違えるように元気になる筈の休薬期間。抗がん剤の服用を止めて十日あまり経ったのに、妻の嘉子の様子がおかしい。 七月二十八日、外来受診で病院に行く。血液検査の結果は良くない。CRP値も二・五と高く、相変わらず体内に炎症があることを示している。血小板も十二万を切り、肝機能も低下している。 ほんの二週間前だった。回復の兆しにあれほど喜んだ嘉子と私だったのに。二人とも重苦しい気分になる。これまでにも、調子の良いとき、悪い時は繰り返していた。どうか今回の症状も一過性のものであって欲しいと私は願った。 八月一日、CT検査を受ける。二十分ほどの検査。結果は数日後の外来受診の日までに出ると言う。ここのところ、嘉子に下痢はなくなっていたが、便通が二、三日に一度となっていた。毎日のように、腰痛と発熱が起きる。決まって夕方近くからである。鎮痛・解熱剤の座薬も日々用いるようになった。本人もソファーに横になっていることが多くなる。食欲も減退し始めていた。 「もしかすると」 私は考えた。外科のG医師が手術後に言っていた大腸の腫瘍だ。ここにきてそれが成長したのでは。それで便通が阻まれているのではと。ネットで調べると、服用しているフッ化ピリミジン系抗がん剤の治癒率は大腸癌では胃癌より低い。 腹膜播種のこともある。薬を止めているのに、血小板の数が回復しないのもおかしい。所詮、素人の推量だが、嘉子の様子を見ていると、どうしてもそんな悪いシナリオを描いてしまう。 世の中は夏休みだ。わが家の長男の職場も一週間の夏季休暇に入った。息子はこの休み中、別に予定を立てることもなく、嘉子の言いつけで庭の手入れなどをしている。そのうちに、あちこちの町内会の盆踊りが始まる。週末の夜にはどこかの盆踊りの歌や太鼓の音がわが家に届くのである。 ・ 十重二十重やがて一重に踊の輪 嘉子は盆踊りが好きだ。元気なら必ず出かけて行く筈である。それが、やはり体調が悪いからだろう。さして残念そうな様子は見せない。子供たちが小さかった時分には家族みんなで出かけたものだった。私は滅多に加わらなかったが、嘉子はいつも踊りの輪に入った。息子たちが親とは同行しなくなった頃になると、私も盆踊りの会場には行かなくなった。それでも、嘉子は出かけていた。時には自治会の世話役が回ってきて、売店や福引きなどあれこれと張り切って動いていた。いつも明るく楽しそうだった。去年あたりからは、次男家族や孫たちと出かけるようになっていた。ようやく連れが出来たところだった。 一度、嘉子の故郷の盆踊りに出かけたことがある。まさに村落を挙げての行事だ。過疎の集落なのに参加者の数は都会にも勝るほどだ。帰省した子女や孫たちが多数こぞっているのだ。会場は、嘉子も卒業したという、小学校の校庭である。大勢の人が集まって賑やかな時を過ごすのだ。 願わくば、嘉子の病気が早く快方に向かってくれることを。そして、来年の夏には、彼女の生まれ故郷の盆踊りを見せに連れていってやりたいとつくづく思うのだった。 |
昨年末以来の妻の嘉子の闘病生活。間もなく立秋を迎える。暦の上ではとよく言われるが、ここ二、三年、どうも季節の進み方が早くなった気がする。つまり暦どうりなのである。立春と聞くころには、枯れ木には芽吹きの兆しも見え、日差しにはぬくもりが増している。立夏を聞くころには、まばゆい万緑の中、早くも冷房にスイッチの入る日があったりする。そして立秋を聞く今、すでに庭の草花が、それらしい雰囲気を宿し始めている。気がつけば、植え込みの陰に、露草が紫の可憐な花を咲かせている。 ・ 露草にかがめるひとと四十年 八月四日、先日の嘉子のCT検査の結果が聞ける日だ。二人で外来受診に出かける。嘉子はこのところ連日、腰痛や発熱に悩まされていて、体調は決して良くない。この日の血液検査でも、肝機能の低迷と血小板値の低下が指摘される。 八月五日、三度目の入院となる。この五月からH総合病院は新築の七階建ての病舎に移っていた。古い建屋から百メートルほど東に移転した。私たちの家の前の道を北へ二百メートルの場所である。嘉子のこれまでの二度の入院は引越し前の古い病棟だった。新しい建物の四階の病室に入院する。四人部屋である。部屋ごとにトイレと洗面台がついている。インターネットにもアクセスが出来る。他にも患者が少しでも快適に過ごせるような様々な仕掛けがなされている。 新築の病院の快適な病室。だが、入院した嘉子の体調はあまり良くない。発熱もあり、腰痛もあるが、家で使っていたような解熱剤や鎮痛剤は貰えぬらしい。余程でないと処方しないと言う。安静にしていて様子を見るらしい。病院食も六、七割しか食べられないようだ。ベッドに横になって眠ったり目覚めたりしている。同室の仲間たちはテレビを見ながら大声で笑ったりする。無遠慮なもんだと私は訝った。嘉子はテレビを楽しむ気にもならぬようだ。 安静に過ごしている結果だろうか。三日ほどすると、体調が安定してきた。血小板も肝機能も改善してきたらしい。N医師はここで抗がん剤服用を再開させた。第四クールの開始である。 |
妻の嘉子は三度目の入院中だ。一週間が過ぎる。日によって強弱はあるものの、相変わらず午後になると発熱と腰痛が起きる。食欲もあまりない。病院の朝食につくゆで卵をいつも残す。それを読み終わった新聞の袋に入れておいて、毎夕、私に持ち帰らすのである。それでは嘉子が毎朝、卵一個を摂取したと記録されることになってしまうと私が言っても、捨てるのは勿体ないと、頑として聞かないのだ。先ごろ回復し始めていた体重も四十一キロと、これまでの最低レベルに落ちた。 入院中なので血液検査も二、三日おきぐらいに行なわれている。肝機能や血小板の数値も入院当初より改善している。だが、その日の体調でデータは上がり下がりを繰り返す。本人は一週間の経過観察と言われて入院したのだからと、しきりに帰りたがる。医師は次の検査結果を見てと先延ばしする。今回は病室の仲間とのコミュニケーションにも身が入らないらしい。体調のせいなのだろう。五月に開業したこの新築の病棟には患者と見舞い客の面談のためにと、各階に見晴らしのよい面会ラウンジが設けられている。ラウンジからは植え込みのある広いベランダにも出られる。三十メートルほどだが散歩も出来る。孫たちが見舞いに来ると私たちはここに来た。そんな時、嘉子は病室の仲間たちのお喋りが五月蝿いと私にこぼすのである。 八月十三日には盆提灯を押入の奥から出して飾るのが私の役割になっている。私の役割ではあるが、例年ならば、必ず嘉子が傍らであれこれと指図するのである。彼女が入院中の今年だ。私一人でする初めての盆用意である。恒例の嘉子のお盆の料理もない。あれこれ見つくろって供え物を仏壇の前に並べてみる。 ・ 仏壇にかく近付きし昼寝覚め 病室の仲間たちにはお盆で家に帰るものもいる。N医師も四日間ほど不在になると嘉子に挨拶に来たそうだ。故郷に墓参に帰るらしい。後を託された若い医師が病状の経過を血液検査でチェックしている。早く退院したいと嘉子が望むので、血小板などのデータが回復しているとのこの医師の判断で、入院二週間目に家に帰れることになった。八月十九日である。なお貧血もあり、決して快方に向かっているとは思えない帰宅であった。 昼前に家に戻る。食欲もなく、倦怠感ですぐソファーに横になる。フッ化ピリミジン系の抗がん剤の服用が再開されて二週間。例の通りの副作用もあるのだろう。下痢も始まっている。午後になれば、発熱や腰痛が起こる。それでも、家にいる方が落ち着くのだろう。少し眠って気分が増しになれば、書道にも手を出す。 ・ いささかのぬくもり運ぶ満月が病みゐる妻の顔かがやかす 退院して三日目、外来受診に出かける。血液検査ではALP(アルカリ・フォスファターゼ)が千九百とかなり高い。ネットで調べると、肝機能の働きを示すγGTPなどの数値が並行して悪くない場合は転移性骨腫瘍の疑いがあると書かれている。しかし、この骨転移は胃癌からは起こり難いともある。 |
三度目の入院から退院して十日余り。妻の嘉子の病状は相変わらずである。午後になると決まって発熱と腰痛が始まる。それでも、気になっているのか、努めて書道の例月の作品に取り組んでいた。月末には、それを仕上げて書道クラブの世話役の家まで自転車で届けに行く。一段落して気が晴れたのか、美容院にも出かける。折りよく、卓球クラブの友人も見舞いに来てくれて、気分よさそうに話をしている。私には空を覆い始めていた鬱陶しい雲に切れ間を見る思いだった。 九月一日、外来受診に出かける。血液検査では血色素が七・一と貧血がひどい。白血球は四千だが、血小板も八万と低い。体内の炎症を示すCRPは殆どゼロに回復しているのだが。N医師は、 九月四日、嘉子は胃の内視鏡検査を受けた。今回は経鼻胃カメラが使われた。鼻孔から直径五ミリ余の内視鏡を挿入。直径が十ミリ以上もあるこれまでの経口内視鏡に比べて、検査を受ける患者にとってはかなり楽になる。簡単な鼻孔の麻酔のみで始められる。半時間ほどで検査は終わった。途中で私も検査室に呼ばれた。モニターに嘉子の胃の内部が映されている。N医師がカメラの位置を操作している。空気圧で動作するらしく、動かすたびにプシュー、プシュッとエア・シリンダーの音がする。嘉子はベッドに仰向けに寝ている。口もきかずに静かにしている。私と医師は嘉子のベッドの上の画面を立って見ている。寝ている嘉子の真上にも別のモニターがあって同じ映像が映っている。明るくピンク色に胃の内部が映し出されている。 検査を終えたN医師が廊下で待つ私に、 |
貧血がひどいので、もしや胃の腫瘍からの出血でも、との疑いで内視鏡検査が行われた。だが、妻の嘉子の胃部に出血は見られなかった。この検査で、九ヶ月前には腫瘍で塞がってしまっていた胃の出口の幽門が通れるようになっているのが分かった。同様に、癌に冒されていた筈の、その先の十二指腸も回復していた。朗報である。フッ化ピリミジン系の抗がん剤が確かに効いていたのだ。 しかし、嘉子にとっては複雑だ。二月の手術で切除されていた筈の幽門と十二指腸が復活したと聞かされたからだ。 幽門も十二指腸も働いていて、食べ物もまともな道を通って消化されていると聞いても、嘉子の表情はそれほど明るくならない。そうは言われても、肝心の食欲が出ないのだ。抗がん剤服用の第四クールも済んで、休薬期間に入っているのに、発熱と腰痛が毎日繰り返す。何か大きな変化が体内で起こり始めていると感じているようだ。時々、 ・ 住み古りし三十坪の家なれどこの春も来し二羽の鶯 私のこの短歌が新聞の歌壇欄に載ったとき、嘉子は、 その家は嘉子の戦場だった。子供たちを幼稚園から大学まで通わせ、PTAの役員にもなったり、東京から引き取った私の母の面倒をみてくれたり、趣味のクラブにも参加し、合間には和服販売のアルバイトまでしていた。その間、私の方は、お定まりの会社人間。毎晩の帰りも遅く、出張で外泊も多かった。家のことは嘉子に任せっきりだった。従って、嘉子にはたいそう思い出の深い家なのである。それがこの日、いとも簡単に消滅したのだ。 私たちが今の家に移った後、その家には、長男が三年、次男家族が六年住んだ。つまり、築三十二年の代物である。あちこち不具合も出てきて、若い家族には住み難い家になっていた。 嘉子にとって、さぞ心残りなこの取り壊しの一件だったに違いない。だが、彼女はあまり関心を示さなかった。それほど病状が悪くなっていたのだろう。健康体だったら、取り壊しの現場で嘆きもし、手をかけてきた紫陽花や、毎年みごとな花を咲かせる藤の木、甘い実をつけてくれる枇杷の木などは、こっちの家に移そうとしただろう。事実、建て替えの話が持ち上がった昨年には、あれも惜しいこれも惜しいと未練たらたらであった。結局、嘉子も私も取り壊しの現場を一度も見ない間に、その場所はさっぱりとした更地になってしまっていた。 |
この年の正月以来の胃癌との闘い。その間、妻の嘉子は欠かさず例月の書道作品に取り組んできた。癌で幽門が塞がり胃が食べ物を受け付けなくなり、二十四時間の栄養剤点滴で過ごしていた一月、開腹手術をした二月、抗がん剤治療の副作用に悩まされているその後、ひと月も欠かさずに四ー五種類の月々の作品を提出し続けてきたのだ。そして、腰痛がいくぶん増しな今、九月分の課題に向かっている。書道に集中していると、いっとき自分の病気のことを忘れられると言うのだ。 時折、嘉子は書き上げた作品を三つ四つ並べて、 今月の嘉子の作品のひとつに、身閉自興の四文字で始まるものがある。多分、書道の手本の漢詩の一節なのだろう。私は漢詩にも疎いが、この四文字が示唆するものをつい考えてしまった。本来の意味するところは知らぬが、どうも、五体滅ぶも自ずと復活する、と読めてしまう。嘉子はどう思ってこれを書いているのだろう。きっと、何も考えずに筆を運んでいるのだろう。いつも詩句の意味には無頓着であるし、書の先生からも詩の内容についての解説はないと聞いている。書道クラブとはそういう所らしい。まずは手本どおりの筆づかいを学ぶことのようだ。 九月七日ごろから嘉子の腰痛が一段とひどくなった。ついに鎮痛剤の座薬が効かなくなった。これまで劇的に苦痛を和らげてくれていたボルタレン五十ミリが役に立たないのだ。今までは日に一度以上は使ったことがない。それで十分だった。もはやただの腰痛ではない。 ・ やがてはと思ひをりしが妻つひに癌の痛みを感じ始むる どうにも我慢が出来ぬようなので、六時間ほどしてもう一度座薬を使う。医師からは日に三度までは可とも言われているからだ。すると、今度はいくらか痛みが治まってきたようだ。血液中のALP値が示していたように骨転移が起きているのかも知れない。あるいは大腸の癌が俄かに増殖して神経に障り始めたのかも知れない。何とかしてやりたいが、私にはどうすることも出来ない。恐らく、N医師にもなのだろう 痛みが和らぎ、食欲も少し出る。先ごろ広島の親戚から届けられた葡萄も食べてくれる。同じ姿勢を崩さなければ、神経に触れぬらしく、激しい痛みは来ないようだ。トイレに座るときや二階への階段の上り下りには相当の苦痛を伴うようである。 |
九月八日、連日の腰痛に苛まれている妻の嘉子だが、思わぬ見舞い客に、いささか元気を取り戻した。昼過ぎに、OさんとTさんが来てくれた。嘉子が三月に入院した折の病室仲間である。当時、自分の病状に鬱ぎぎきっていたが、部屋替えでこの人たちと一緒になって、明るさを取り戻したのだ。三人が寄ると話もはずむ。痛みが取れたわけでもなかろうに、この日も嘉子は、ソファーに座って楽しそうに話をしている。私は、いつもそうするように、「ごゆっくり」と来客に挨拶をして、日課の散歩に出た。 二時間ほどして家に戻る。来客はもう帰っていた。お喋りの楽しさの余韻を残す嘉子の顔色を見ながら、私もおやつの葡萄とケーキを食べる。 九月十二日、どうにも我慢が出来なくなった。三日前から鎮痛剤の座薬も日に三度も使うようになっていた。この日も朝からの激しい痛みが。本人もこれではと覚悟し、入院するつもりで身の回り品を紙袋に詰めたりしている。簡単に昼食も済ます。しかし、そのうちにまったく動けなくなってしまった。座薬も効かなくなった。とにかく激しい痛みで姿勢を変えることも出来ない。これでは病院までどうやって行こう。病院に電話をして、結局、救急車に運んでもらうことにした。 ・ 我慢強き妻にしていま疼痛に耐へられずわれに乞ふ救急車 私が一一九番に電話をするのは初めてのことだ。嘉子はこれまでに何度か呼んでいるし同乗もしている。幼稚園児だった次男が怪我をしたとき、近所の老人が家人の留守に脳溢血で倒れたとき、そして私の母親を介護してくれていたときなどである。 救急車はすぐ来た。私は家の前の道路に立って大きく手を振り合図をする。ウイークデーの静かな住宅地。救急車のサイレンが近づき不意に止まる。こんなことが時々ある。そんなとき、嘉子は必ず窓から外を見た。表まで出ることもあった。そんなことがわが家に起きたのである。 三人の救急隊員が家に入って、嘉子の具合を診ている。一時間ほど前から、嘉子は応接間に敷かれた夏物の上敷に横になったまま動けないのだ。 救急救命士が持ち込んだ担架に嘉子を移そうとするが、痛がってどうにもならない。仕方がないので、三人がかりで、嘉子の寝ている上敷ごとそっと持ち上げて担架に乗せる。担架は玄関から台車に載せられ、そのまま救急車の車内に入れられる。私も入院用に嘉子の準備していた紙袋を持ち、家の戸締りをして救急車に乗り込む。嘉子は血圧や脈拍などの検査を受けながら、救急救命士の質問にはっきりと受け答えをしている。 H病院までは二百メートル足らずの道程だ。車は方向を変えるために町内の路地をサイレンを鳴らして一回りする。そして嘉子は、ほどなく病院の救急患者の処置室のベッドに横たわった。 |
九月十二日に救急車でH病院に運ばれた妻の嘉子。二時間余り救急処置室であれこれ検査を受けて、四時過ぎに六階の個室に落ち着く。「費用がかかりますが、あいにく大部屋が空いてないので」と看護婦に言われる。勿論、私は個室に異存はない。しかし同時に、嘉子もついにそんな重症患者になってしまったかと情けなくなった。それでも嘉子は、 腰部のCT検査をしてくれた整形外科の医師の説明では、嘉子に癌の骨転移は認められないそうだ。腰痛は骨が原因ではないと言う。粘膜内で癌が増殖しているらしい。HB(血色素)が五と低く、極度の貧血状態だ。明日にも輸血が必要とのこと。疼痛が治まらず、夕方に鎮痛剤を注射してもらう。栄養剤の点滴を受けながら眠りに入る。 翌日、N医師から嘉子の痛みは大腸や腹膜で増殖中の癌によるものと告げられる。疼痛緩和には手術の麻酔用の鎮痛剤を使っている。昨晩はよく寝られたようだ。鎮痛剤の効き目も、使い続ければ、薄れてくるので、少しずつ注射の量を増やすと言う。とりあえず貧血対策として、今日から日に四単位の輸血をすることになる。輸血処置に伴う事故のリスクについての承諾書に署名捺印させられる。 嘉子はベッドに寝たきりになってしまった。疼痛のために起き上がって食事を取ることも出来ない。トイレにも立てず、尿カテも付けられた。私は尋ねた。 ・ 疼痛にうめきゐる妻ふとわれにふるさとの姉に会ひたしと言ふ その晩、私は嘉子の岩手の姉さんに電話をした。 |
九月十三日、腰部の痛みを抱えたまま、妻の嘉子は更なる検査のために、ストレッチャーに寝かされ、階下に降りていった。私は病室に一人ぽつねんと残される。一人でいると、これまで大して気にも留めなかった病棟の音が迫る。激しく、絶え間なく咳き込む隣室の患者。「痛いよー」と叫んでいる別の病室からの声。廊下では、車椅子の認知症の老女が看護婦に諭されている。嘉子の個室はナースステーションにごく近い。この階にも多くの病室があり、ひっきりなしのナースコールがかかってくる。ナースらが廊下を慌しく行き来する。聞いていて、ますます惨めな気分になる。そのうちに、掃除のヘルパーが入って来る。ワゴンセールスが回ってくる。詰所では、看護婦たちが受持ち患者の投薬内容の読み合わせを始める。病棟の時間がこうして過ぎてゆく。 一時間余りして、嘉子がストレッチャーで検査から戻った。 やがて主任らしい看護婦と見習いと見える看護婦が入って来た。これから四単位(約八百ミリリットル)の輸血が始まるのだ。患者の名前を確認し、「血液型はA型ですね」と、主任が念を押すと、 昨日の輸血のせいだろう。嘉子の唇に赤みが出てきた。少し話もするようになる。今日は胸部のレントゲン写真を撮る。肺に水が溜まっている疑いもあるらしい。部屋までX線装置が運ばれる。乾板を背中に敷くのだが、これがひと苦労。もはや痛みで身体を動かせないのだ。 次男家族が来る。五歳の孫が嘉子の似顔絵をくれる。嘉子も嬉しそうにしている。だが、辛そうな様子に長居も出来ず、早々に帰ってゆく。今ではテレビも見なくなった。好きな相撲の秋場所だと言うに。無口な長男は見舞いに来ても、ただただ傍らに座っているのみである。 ・ 仏壇に秋の花々そなへよと子に指図せり病室の妻が |
九月十六日、N医師から妻の嘉子の血色素(HB)が十一に戻ったと聞く。貧血が一息ついたと言うのだ。当然のことかも知れぬ。三日間で八単位の輸血を終えた直後なのだから。しかし、嘉子の容態は一向に良くなっていない。痛みのために自分から身体を動かすことも出来ない。鎮痛剤の座薬も使うがあまり効き目はない。 「なかなか返事をしてくれなくなって、コミュニケーションが取れなくなりました」 ・語るのも億劫となりし病む妻を見据ゑつつわれもただ黙しをり 私にもものを言わなくなった。うつらうつらしている。意識も混濁してきているようだ。時々、吸口で水を飲ますが、私が不器用なせいか、ややもすると噎せさせてしまう。食欲はまったくない。一月の幽門狭窄時のように、点滴のみで必要な栄養分が補給されている。このうつらうつらの時間を過ごしながら、嘉子は何を考えているのだろうか。人はこんな状態になって、どんなことを夢想するのだろう。 九月十七日、明日は岩手から嘉子の姉と弟が来る日だ。夜具の準備もせねばと、嘉子にどの布団やパジャマを用意するのかを問う。少し気分が増しになっていたのか、この時は、はっきりとあれこれ指図をしてくれる。 九月十八日、昨夕も、やや強めの麻酔剤の注射で、ぐっすりと寝込む姿に安堵して、私は病院を出たのだが、聞くと、やはり夜中に目覚めて、激しい痛みを訴えていたそうだ。 今日は敬老の日。世間は昨日今日の連休である。H病院も入院患者のいる病棟の他は、人気もなく真っ暗である。最寄り駅まで迎えに出た次男家族の案内で、午後四時ごろに、岩手からの姉と弟が嘉子の病室に到着した。 さすがに嘉子は嬉しそうだ。涙を流している。一年半ぶりの再会である。昨年四月に、仙台の施設で療養中の下の弟が腰の手術をするとかで、兄弟姉妹が顔を合わせて以来のこと。 ふるさとの肉親に会えて少し元気が出たのか、いつになく嘉子は姉や弟の問いかけに応答している。でも、以前の嘉子の饒舌さの面影はない。姉や弟が問い続けぬ限り、話は途切れてしまう。 |
九月十九日、岩手から来た肉親たちに、N医師が妻の嘉子の病状について説明をする。パソコン画面を前に、大腸や胸膜にも転移していて、もはや末期的であることが告げられる。普通の鎮痛剤ではとても治まらぬ疼痛の緩和のために、ついに麻薬系の鎮痛剤を使うことになる。私たちが、あの痛みを何とかしてやって、少しでも楽に最後の時間を過ごせるようにしてやって欲しいと医師に頼んだのである。 麻薬系鎮痛剤で、少し痛みが和らいだ。私が手を握ってやると、その手を強く引っ張って、 ・ 薄れゆく意識の下になほ妻はへそくりの在り処を笑みつつ語る 九月二十一日、岩手からの肉親たちがひとまず帰郷する。嘉子の痛みはまだ続いている。一日に一錠で始められた麻薬系鎮痛剤の服用が、一日に二錠になり、そのうち、錠剤を自分で呑み込むことが出来なくなって、点滴による投与となった。 「ばあちゃんの命日のあぎゃほぎゃ、済まして来たよ」 意識が更に混濁してきた。一度など、看護婦が廊下でヘルパーを呼ぶ大声に、「はーい」と返事をした。びっくりした。 もう、看護婦にも医師にも、まともに受け答えが出来なくなった。私の呼ぶ声にも、「うーん」と、やっと反応するのみとなった。それでも、まだ私には、この日が嘉子と話の出来る最後の日になるとは思えなかった。そのうちに、麻酔から覚めるみたいに、嘉子が私に話しかけ始める日が来ると思っていた。 |
「恐らく、これが家内の最後の提出作品だと思います」 九月二十二日、その書道クラブの仲間たちが、病室に見舞いに来てくれた。 ついに、見舞いに来てくれた人に挨拶ができなくなってしまった。麻薬系鎮痛剤のせいで意識がなくなってしまったのだ。医師からこうなることを、言われてはいたが、無性に悲しくなった。今回、救急車で入院して十日目のことである。 そして、九月二十三日には嘉子の病状を監視するモニターがナースステーションに置かれる。心電図、心拍数、体温、呼吸数、動脈血酸素飽和度、血圧などが持続的に測定されてモニター画面に表示されている。ナースステーションではピッ、ピッという嘉子の心臓の動きがスピーカーから流され始めた。嘉子の病室にも同じモニターが置かれた。これらの医療データの測定のために嘉子の身体には多くのコードが繋がれている。血圧計は一時間おきに嘉子の腕を締め上げる。今では点滴も体の二箇所で行われている。栄養剤、抗生剤、鎮痛剤など投与速度の違いからだそうだ。その上、鼻孔近くには酸素チューブもつけられた。 嘉子は意識もなく眠っている。見舞いにきた次男家族も、嘉子に話しかけるが反応はない。 ・「ばあちゃん」と呼べど反応なき妻に倦みてをさなら病室を去る 日曜日なので、近くに住む親類なども来てくれるのだが、呼びかけても応答のない嘉子の様子に、これといって成すこともなく、付き添っている私に、「お大事に」と言って、早々に立ち去るのみだ。うつらうつらはしていても、数日前には、何とか話も出来た。私や看護婦たちには、激痛に顔をしかめながら、なかなかまともに返事をしてくれなかったが、日に一、二度は顔を見せるN医師には、はっきりした口調で返答をしていた。 |
六階の病棟でエレベーターを降りると、ピッ、ピッと言う心臓モニターの音があたりに響く。妻の嘉子の心臓の鼓動である。この音はエレベーター乗り場のすぐ傍らのナースステーションからのものだ。病棟には大勢の人が出入りする。ふと、妻の心音が病棟に出入りする皆にも聞かれていることを思い、その風前の命が晒しものにされているようで、気が重くなった。それでも、忙しく立ち働くナースや医師たちには、この心音モニターが嘉子の容態の急変を知るよすがなのだ。 麻薬系鎮痛剤を使い始めて一週間。意識がなくなり、眠り続ける。最初の数日はすやすやと眠っていたが、その内に大きく呼吸をするようになる。痰もからむようになり、二、三時間おきに看護婦が来て、機械で痰を吸引する。この鎮痛剤の使用で起きる呼吸障害だそうだ。三十八、九度の発熱も毎日のように続く。いつも氷枕に頭を乗せ、脇の下などにも氷嚢がつけられている。氷枕の位置を正すために、嘉子の頭を持ち上げるとき、 N医師から、血中カルシウムが異常に増加しているので、血清アルゴミンを輸血で補うことも考えられる、と言われる。いずれにしろ、病状の回復はもはや望めぬとも言う。これ以上の輸血をしても、大した延命にはならぬとも。私も、 血中カルシウムは二日もすると、正常値に戻った。一日の排尿量も十分にある。しかし、ALP(アルカリ・ホスファターゼ)は六千にも跳ね上がっている。 ・ 死にちかき妻を離るる小半時理髪店の椅子にいつかまどろむ 意識のない嘉子を病室に見舞う日々が一週間続いた。傍らにいても、何もすることがない。午前に二時間、午後には三、四時間を病室で過ごす。仕事で普段は帰りの遅い長男も、都合をつけて七時過ぎには病室にやって来る。次男家族もたびたび来てくれる。このころになると私は、もの言わぬ嘉子の手を握って、 ・住み馴れし家を見返り「帰ってきたい」妻が呟く入院する妻が 私の「おうちに帰ろうね」を、いつの間にか長男が聞いていたらしい。子供たちや看護婦が部屋にいるときは、嘉子へのこんな語りかけはしてなかった筈なのだが。 |
・ 昏睡の母の手にぎる妻が言ふいま「ありがたう」の合図ありしと 今から十六年前の四月、私の母が八十四歳で逝った。認知症に冒されていた晩年だった。臨終は肺炎で入院した病院で迎えた。三日ほど前から殆ど意識はなくなっていた。そんなとき、妻の嘉子が母の手を握っていると、ぐっぐっと、二度ほど握り返してくれたのだと言う。 この後、たまたま手をつなぐことがあれば、私たちはこの握る手の信号を送ることでふざけ合った。 「腎臓にも障害が出てきましたが、全体として安定しているので、あと二週間はこのまま…」 十月二日、書道クラブの世話役の方から電話があり、本部の大先生が急逝されたと知らせてくれた。もう本人に意識がないとは聞いているが、嘉子にも話してやってくれと言う。昨年の十二月、二人で神戸のルミナリエに出かけた時に立ち寄った書道展で、お目にかかったあの書道家である。芸術院会員で日本の書道界の重鎮だ。新聞によると、胆管細胞癌で、わずか二ヶ月の闘病の末の急逝だそうだ。嘉子より二つ年上の六十五歳。著名な書家の中ではまだまだ若い指導者だった。 大方九ヶ月の闘病の果てに、こんな末期状態に陥っている嘉子だが、世の中には、わずか二ヶ月の闘病で急逝する人もいるのだ。昨年の十二月にお会いしたときには、とても元気そうに、活発に振舞っておられた。ご自分の体調に何の違和感もなかったのだろうか。そのころ、嘉子は胃のむかつきを感じ始めていたのだ。人の身体を冒す病魔は気まぐれなものだ。しかし、ひとたび取り付いたら、かなり執拗に攻撃を仕掛けてくるのである。 |
妻の嘉子の意識がなくなって二週間になる。朝の五時前に家の電話が鳴る。すわ、病院からに違いない。嘉子の容態が急変したのかも、と飛び起きる。だが、ベルは一度きりで途切れた。しばらく電話の前で待つが、その後かかる気配もない。夜中に電話のベルが一度だけ鳴って止むことは、これまでにも時たまあった。いわゆるワン切りコールだろう。私の家の電話機には送信者の電話番号を表示する機能はないので気にもしてなかった。 やはり早朝の電話のベルが気になる。金曜日なので家庭ごみを出す日だ。自治会の決まりで、ごみは八時以降に出すことになっている。カラスにつつかれ、散らかされることを避けるためだ。朝食や家の用事もそこそこに九時ごろに嘉子の病室に入る。 心拍数、血圧、呼吸数なども落ち着いてきている。昼近くになり、私は嘉子の洗濯物を持ち、家に戻る。今朝の電話がやはり気になる。嘉子がよく言っていた。 夕食のための買い物に出る。三時半ごろにはまた嘉子の病室に戻るつもりだった。ふと、買い物のついでに近くの寺まで少し足を延ばす気になった。西国二十二番札所の総持寺が近くにある。嘉子とよく出かけた寺である。本堂の階段を上り、銅鑼を鳴らして手を合わせる。合掌し頭を垂れるが、願う言葉も心に浮かばぬ。 家に戻ると、H病院からの留守電が入っていた。三時二十五分と四十三分の二度である。嘉子の容態が急変したので、すぐ来るようにとだ。今は三時五十分。次男の嫁さんにまず電話。本人と連絡をつけるよう頼む。次いで長男の会社に電話。母親が危篤と本人に伝えてくれるように依頼する。そしてすぐ病院へと向かう。病院までの二百メートルを小走りに歩いて、扉の閉ざされた嘉子の病室に着く。大方四時になっていた。 嘉子はもう息をしていなかった。顔からは苦痛の表情が消えていた。眉間の皺も消えた穏やかな表情だ。まだ暖かい手を握る。 ・ 「ごめんね」とまづ言葉出づはや息の止まりし妻の手をとりて吾 嘉子の身体につながれていたチューブやコードはすでに外されていた。病室には次男の嫁さんが駆けつけてくれていた。二人の看護婦と若い医師がいた。嘉子を九ヶ月間診てくれていたN医師は昨日から休暇を取っていた。その若い医師が言った。 だが、私は不意に心残りな気分に襲われた。私の母が死んだときには、正直ほっとしたものだった。認知症で妻の厄介になる晩年を、やっと終えることが出来たと。しかし今回は、嘉子に十分なことがしてやれたのか。これまで通過してきたいくつかの分かれ道で、私は踏み違えてはいなかったのか。癌に罹っても、治る人は大勢いる。奇跡的な生還を果たした例もよく聞く。嘉子は本当に死ななければならなかったのだろうか。常に傍らにいた私に落度はなかったか。嘉子の手を取る私に、思わず「ごめんね」と言わしめたのは、そんな私の心持だったのかも知れぬ。 はからずも突然の胃癌に冒され、手術後二百四十七日目にして、平成十八年十月六日午後四時十二分、妻の嘉子はかく永眠した。六十三歳十ヶ月の人生を終えた。当日は仏滅。折しも中秋の名月であった。 |