涙水晶







 その泉は、古代からそこにひっそりと沸き、時には森の生き物たちを潤し、また旅人の憩いとなった。それほどに貴重でまた愛されていた小さな泉だが、誰も名前を与えなかった。泉の持ち主が機嫌を損ねることを、誰もが案じたからだった。

 泉には、美しい乙女が住んでいる。遠い昔から、人々の口から口へとそれは伝わっていき、澄んだ泉に神聖さと暗黙のうちに不可侵という約束事を付随させた。麗しの泉の姫君が人ならぬ存在であることを、近くに住む民は熟知していたからだった。

 けれど、ここ数十年間そんな決まりはないも同然になっている。他ならぬ乙女自身が泉の縁に半身を現し、夢見るようなまなざしで森の入り口を終日見つめ続けているからだ。いつもいつも、変わることなく、乙女は森の外から誰かが訪れるのを待っているように見えた。そうして、実際その通りだったのだ。

「何をしているのですか?」

 それは、何年ぶりか。あるいは、何十年ぶりだったか。すでに孤独の年月を数えることをやめて久しく定かではなかったが、そんなことは彼女には些細なことだった。久方ぶりに声をかけられた乙女は、一瞬顔を輝かせて身体を起こした。が、声の主を目にとめると、すぐに落胆して一度上げた視線を逸らした。憤りと失望のどちらともとれる表情で、しばし彼女の目の前に生えている草を睨みつける。

「……美しい方、何をなさっておいでなのですか?」

 しかし同じ声がもう一度そう問いかけた途端、乙女は再び声の主を見上げた。彼女の青の瞳が捕らえたのは、白髪の老人だった。背筋は伸びているが、ここまで歩いてくるのは相当体力を消耗したらしい。しきりにそれほど清潔でない布で汗を拭いている。

「何で、そんなふうに言うの?」

 少しだけ、乙女は憮然としているようだった。彼女の心にあったあとの大半の感情は懐かしさだ。

「前にもね、そんなふうに話しかけてきた人がいたの。もしかして、あなた彼を知ってるの?」

「……どんな御仁かにもよりますよ、美しい方」

 乙女はころころと笑った。

「そう、そんなふうにあたしを呼ぶのも同じ。あたしは彼に、あたしの名前を呼んでもらうほうがきっと何倍も好きになったのにね。……ねえ、ちょっと呼んでみてくれる? あたしの名前はね――」

 老人はあわてた仕草で首を振った。無理もないことだった。乙女はもちろん人ならざる存在、<常春の地(古代の言葉でアールト・ヴァーティース。音韻が転じてアルヴァンテスという)>と呼ばれるこの大地に古くから住み、神秘の力と美しい容姿を持つ自然の愛子――精霊族なのだから。人間達は精霊を畏れ敬い、また精霊達も滅多に人の前には現れない。本来神秘の乙女がここにこうしているのは非常に希有なことであり、この老人と彼女の言う誰かはとても幸運なのだ。その幸運は、ひとえに精霊達に好かれる心の持ち主か否か、による。

「あなたの待ち人は、契約をなさった相手ですかな?」

「違うわ。あたしはそうしたかったけど、彼は承知してくれなかった。ちゃんと名前も教える約束をしたのに」

 精霊と人間が互いに名前を交わし合うことで、その人間は『精霊術者』と呼ばれるようになる。精霊は全面的に人間に力を貸し、その血を引く子孫達は精霊族の恩恵を受ける。それは例えば強い魔力や、人間には持ち得ない色彩、美しさなどである。当然精霊との契約を望む者は数多く存在するが、滅多に現れないのは前述の理由がほとんどだ。そんな貴重な存在になれるという特権を、自ら放棄するとは――。

「……変わった方ですな」

「でもね」

 乙女はうっとりと、森の出口を見やった。

「あたし、信じてるの。きっと彼はまた来てくれるって。約束の印だって渡したのよ。ああ、早く来ないかな」

 老人のしわだらけの顔に、苦渋が満ちた。すでに老人を視界に納めていなかった乙女は、当然気づかない。





 若者は、道に迷ったことをようやく認める気になった。

 森は深く、木々は乱立しており、前に進んでいるのか後退しているのかさえ定かではない。獣の鳴き声がする。それだけでも不気味極まりないというのに、空腹感は強くなるし闇も濃くなっていていた。

「……どうするかな」

 この大地は<常春>の名を持つが、寒い季節も夜もある。今夜はどうやら、夜の女神の心が冷たく凍てついているらしい。彼はぶるっと震え、念のために持ってきていた外套を腰の袋から取り出した。

「とりあえず、火は焚かないとな。獣よけにもなるし、暖かいし」

 火付けのための道具ももちろんある。若者はまず落ちている葉や小枝を一箇所に集めた。地面を少しだけ掘り、そこにそれらを入れる。

「明るくなってから、またこの辺で薪を集めないとな」

 とにかく火が起こってから。彼は何度かかちかちと火花を闇に散らし、やっと橙色の光をともすことができた。

「ふう……」

 だが、彼の安堵は文字通りあっという間にかき消された。ばしゃっと火の上に水が勢いよく降ってきたのだ。勢いがよすぎて、彼にもかなりの量の水がかかる。

「うわっ!?」

 しびれるような冷たさに悲鳴を上げ、思わず立ってしまった彼に鋭い声が突き刺さった。

「ここで火なんて起こさないで! どうしても必要なら向こうへ行きなさい!」

 少女のものだった。濡れた黒髪を後ろへなでつけつつ彼は声の主を目で捜したが、闇はすでに彼の周囲を取り巻いていた。

「……そうしたいのは山々なんだが、腹が減ってる。これ以上動けない」

 答えはなかった。けれど誰かが聞いている気配はあった。

「水をかけられたから、どうしてもまたすぐに火が必要なんだ。服を乾かしたい。そうしたらすぐにここから去るから、しばらくは許してくれないだろうか」

 やはり、何も返ってこない。一瞬幻聴だったのかと思いかけたが、それでは自分が水浸しになっていることの説明ができない。

 気を取り直してもう一度焚き火の準備をし、火をつけると今度はちゃんと燃え続けた。上着だけを脱いで、火のそばに広げて持った。炎の色が暖かくて、ひどくほっとする。そうして初めて、彼は自分がずっと緊張していたことを知った。

「……何で、火のそばにいるの?」

 ものすごくいやそうな声がしたのは、上着の内側がほぼ乾いた頃だった。若者は仰天しつつも弓を構えてそちらに向けたが、殺気が少しもないことはわかっていた。単に夜の森の中での用心に過ぎない。

「あたし、火はきらい」

「ああ、でも僕が朝までここで無事に過ごすためには、どうしても必要なんだ。獣が寄ってこないように。そして身体を温めるために」

 若者の瞳では、声の主を確かめることはできない。けれど、あどけない少女だと声と話し方から察せられ、できる限り彼は心を落ち着けた。きちんと話せば、助けを求められるかもしれない。

 相手は、しばらく黙っていたがやがて草を踏む音がした。

「わかった。人間はそういうものなのかもね。シーリスもそんなこと言ってたわ」

 橙色の光は淡かったが、そんなことは問題にならなかった。若者は思わず弓と矢を取り落とし、唖然と口を開く。

 すばらしい美貌だった。優しげでありながら、成熟した魅力がある。あどけない少女のようなまなざしと、ふっくらとした小さな唇。四肢は細く伸びやかだ。

もしも彼に芸術の力が宿っていれば、即座にこの感動を何かしらの形として表そうとしただろう。だがおそらく、それを完成させられるのはまれなる天才のみであり、挫折した者達は絶望の余り創り出すことを永遠に放棄したに違いない。そういう意味で、若者は幸せだった。ただ忽然とそこに現れた謎の少女の輝きに、間抜けな顔でぼうっと見とれている以上のことはなにもできなかったのだから。

「あなた、誰? 動物を殺す人なのね?」

 まだ敵意という棘が隠されていたが、希なる花の如き乙女はもう彼に何もしようとはしなかった。質問されて、ようやく我に返った若者は、一種の畏敬の念に打たれてその場にひれ伏してしまう。

「俺……いや、私はあなたの言う通り……違った、仰る通り? ……狩人でございます。今日の獲物を求めているうち、迷って家に帰れなくなってしまいました。名前はアゼリスです」

 どもりながらようやくそこまで話した彼は、最後に少し考えて付け加えた。

「――美しいお方」

 すると、乙女は先程までの態度が嘘のような明るい声で、ころころ笑った。

「『美しいお方』! ふふふっ、何でそんなこと言うの? 『美しいお方』ですって?」

 なぜ笑われたのかわからないアゼリスは、おろおろするばかりだった。やっと息を整えた乙女は、彼の表情に少しの間首を傾げていたが、

「あ、そっか。いきなり笑ったりしてごめんなさい。でもね、そんなふうに呼ばれたの初めてだったの」

「初めて? あなたはそんなに、美しいのに……?」

 再び乙女はくすりと笑んだ。

「あたしたち――ええと、あなた達は<精霊族>って呼ぶのよね?――は、みんな『美しい』もの。誰もそんな言葉で相手を褒めたりしないわ。褒め言葉だっていうこと、知らない人もいるしね」

 もうこの夜で何度目になるかわからなかったが、アゼリスは仰天して絶句した。大陸に住んでいることは子供でも知っているが、会える人間は希であるという神秘の種族が、今こうして自分の目の前にいるのだ!

(し、信じられない……!)

「どうしたの?」

 きょとんとする乙女はそんなたいそうな事実を微塵も感じさせない愛らしさで、それがアゼリスを平静に戻してくれた。

「ああ……と、とりあえず、今夜だけここに泊めてくれませんか? そして、その間だけ火を使うことを、許してください。どうか……」

 ためらいがちに懇願する言葉が、終わるか終わらないかのうちに。

 精霊の乙女は花の蕾がほころぶときのような初々しさで、微笑んだのだ。

「いいわ。あなたはあたしを褒めてくれたから。そのかわり、人間のことを教えてくれる? 朝になって、最初の光が射すまで」




 ――それから乙女の言葉通り、一晩中壊れるままに話し続けたアゼリスは、結局また森の中に留まることになった。乙女にかけられた水のせいで、発熱してしまったのである。

「……苦しいの?」

 あの強気がどこへ消えたものか。乙女は悄然とアゼリスのそばに付き添っている。

「気にしないでください……。あなたの住む場所で、火を使おうとした俺が悪いんです……」

「でも、あたしが水をかけてしまったから、あなたは今苦しんでいるわ」

 乙女の顔はそう簡単には晴れてくれそうにない。アゼリスはどうにかして、乙女の心の痛みを和らげようといろいろ言葉を尽くしてみたが、そのどれもが乙女をますます悲しげにしてしまう。

(俺は口下手だからな)

 笑ってほしい。その一心で彼はもう一つ言葉を重ねた。

「美しい方、俺は大丈夫ですから。それに、俺は今とても嬉しいんですよ」

「……苦しいのに、なぜ?」

「あなたのそばにいられるから」

 口にした途端、彼は後悔した。これでは人間の女に向ける口説き文句と何らかわりがない。自分の心が突然わからなくなった。

 けれど。

「あなたが……そばにいてくれるから」

 それが嬉しいのだということは、紛れもない真実だった。一晩かけて語り明かした、無邪気で美しい神秘の乙女は、素朴なアゼリスにとってはまぶしすぎ、印象が強すぎた。

 乙女は、ようやくはにかんだように唇をほころばせてくれた。

(この人のそばにいたい。たとえ俺が人間で、彼女が精霊でも)

 若い心に激しい炎がともったのは、当然の成り行きであっただろう。アゼリスはこの瞬間、盲目的な恋の僕となったのだ。

 そしてもう一つの悲劇は、精霊の乙女があまりにも幼かったこと。

「じゃあ、あたしずっとあなたと一緒にいるわ。そのために、あなたはあたしを名前で呼ばなきゃならないの」

 名前を交わしあうことは、すなわち契約である。契約を結んだ人間は<精霊術者>と呼ばれる存在になり、人間に名前を預けた精霊は全身全霊を以てその相手に尽くす。それこそが精霊の『愛情』なのだ。

「本当に、あなたはそれでいいのですか?」

 事の重大さが、ようやく朦朧とした頭でも理解できた。アゼリスは半身を起こして、乙女を見上げた。

「俺に一生、縛られることになっても、いいんですか?」

「だって、あなたはそれを嬉しいと言ってくれたわ。あたしもあなたといるのは、とても楽しいと思う」

「……」

「でもあなたは今とてもぼんやりしてるから、後にするわ。疲れてるでしょ?」

 乙女の言うことは正しかった。熱は微熱程度だが、意識を保っているだけでも体力が消耗していくのがアゼリスには感じられた。

「また、眠るといいわ」

 そっと彼を横たえ、乙女は日に焼けたその額に白いなめらかな手をのせる。触れた部分がひんやりと気持ちよくて、彼はふっと力を抜いた。

「元気になったら、あたしの名前を教えてあげる。ちゃんと覚えて、たくさん呼んでね……」

 乙女の声が、緩やかに遠ざかる。




 熱は翌日、嘘のように下がっていた。アゼリスは帰路につき、来たときよりもずっと早く村へ戻ることができた。乙女が、力を預けてくれた。

『これは約束の印に』

 乙女はその手から生み出した水を涙のような形の石に換えて、アゼリスに持たせた。

『この石があなたを望む場所に導くわ。今はあなたの家に。そして今度は、あたしのところに』

 彼はまず、家に戻りたいと乙女に話した。老いた父が案じているだろうからと。人のような肉親の情を持たない彼女ではあったが、彼女なりに彼の気持ちを理解してくれたようだった。そして先のように、彼女は魔法の力で水を透明な結晶にした。危険から彼を守り、彼の求める道を示す護符としての力を込めて。

 アゼリスがすぐに乙女の名前を聞かなかったのは、父の存在があったからだった。父はかなりの高齢で、心臓を病んでいた。精霊と契約したなどといきなり話したら、そのまま死者の神ヴェーティラの御許へ召されかねない。父にゆっくりと経緯を話し、すべてを納得してもらった上でのほうが、乙女にとっても安心だと考えたのだ。

「アゼリス!」

 村へもう少しというところでだった。血相を変えた娘が一人、彼のほうへ転がるように駆け寄ってきた。

「アゼリス、アゼリス! 本物ね? 生きてるのね!?」

「死んでるように見えるのか? ほれ、触ってみてもいいんだぞ」

 娘は幼なじみで、ヘファミナといった。栗色の長い髪を振り乱した状態のまま、彼女はアゼリスの腕や腹や胸や顔を、ぺたぺたとたたくようにして確かめている。やがて、ほーっと息をついて彼女はアゼリスの首にしがみついた。

「よかった! 二日も帰ってこないから、みんな心配してたのよ。あなたのお父さん、そのせいで具合が悪くなったわ。今は診療所にいるから、早く会いに行ってあげて」

「!? そうか……。それで、容態は?」

「初めはかなり危なかったけど、落ち着いてる。さ、早く。ちゃんと謝っておくのよ」

「ああ」

 ヘファミナはそのまま、森のほうへ走っていった。手に籠を提げているから、薬草探しに行く途中だったのだろう。長い髪を簡単に縛っただけのその後ろ姿を見送ることをせず、アゼリスは反対方向へ向かう。早く父に顔を見せて、安心させたかった。

 村へ入ると、誰もが彼に声をかけた。無事だったのか、親父は大変だったんだ、早いとこ行ってやれなどと口々に自分に投げかけられる言葉に曖昧に返事しながら、彼は村で一軒きりの診療所に飛び込んだ。

「親父!」

 初老の医師ヨアンがまず彼に気づき、無言で部屋の一角を示した。一つだけのベッドの上に、アゼリスの父ウストが横たわっていた。

「先生、親父はどうなんですか?」

「今は小康状態だ。まったく、今までどこにいたんだね? 二日も戻らないなんて……」

「森で……道に迷っていました」

 さすがに精霊に会ったとは言えない。

「まあ、無事で何よりだ。ウストの目が覚めたら、話しかけてやるといい。ただし、あまり興奮させないように気をつけるのだよ」

 ヨアンは往診に行って来ると言い残し、鞄を片手に出ていった。アゼリスはヨアンの座っていた椅子に腰掛け(ここには椅子は一つしかないのだ)、父の目覚めを待つ。

 そうしてつらつら思い起こされるのは、あの乙女の笑顔だ。

(親父は……彼女を見たらどう思うかな。あんな優しくて美しい人だから、きっとわかってくれる)

 水色の乙女は人ではないけれど、自分は確かに彼女を好きだ。好きな人と結ばれるのは、幸せなことだ。アゼリスの父母も、そうだったのだから。

「う……」

「親父?」

 瞼がかすかに痙攣し、緩やかに現れたウストの空色の瞳に、のぞき込むアゼリスの顔が映った。

「おお……アゼリス! よ、良かった……」

「父さん、あんまり興奮するなよ。俺はこの通り無事だから。ごめんな、心配かけて」

 思わず半身を起こしかける父を元のように寝台に戻して、彼はまず謝った。母を亡くしてからずっと、父は自分のことを第一に思いやってくれているのを、彼自身が一番よく知っていた。だからいつもは、狩りのときもあまり遠くへは行かないようにしていたのだ。

(気をつけてたんだけどな。あのときはけっこう調子に乗ったかもな……)

「どこに行っていた? 二日も……もしやお前までと、わしは……」

「森で道に迷ってたんだ。でも助けてくれた人がいて、今日戻って来れた。しばらく狩りには行かないよ。父さんの仕事を手伝うつもりだ」

「そうか……」

 心臓の悪いウストは、一日中家で内職をしている。村に住む他の狩人の鏃を作ったり、弓の弦を張り直したりするのが主だ。元気な頃は名うての狩人だったウストだから、依頼は減らない。天気が悪かったりすると、アゼリスも父を手伝うことがよくあった。

 しかし。

(一日二日なら、待っててくれるさ……待っていてほしい)

 本当は、一刻も早くあの乙女を迎えに行きたい。




「できたぞ、親父」

 いくつめかの矢をテーブルに並べ、矢筒に納める。これは隣家のヴェナのものだ。

「おう、ご苦労だったな。あとはわしがやるから、休んでいいぞ」

 自分の病状を少しも自覚していない父の言葉に、アゼリスは大仰にため息をついてみせた。

「あのなぁ、もう少し身体を労れよ。ヨアン先生だって、もっと仕事を減らして楽しろって、いっつも言うじゃねぇか。そんなことじゃ、良くなるもんも良くならないぜ」

「ふん」

 アゼリスよりも数倍慣れた手つきで弓を直している父は、息子の忠告にも鼻を鳴らしただけだった。

「だったらお前も、もっとわしに心配かけんようにするこった。森に出かけるのはいいが、獰猛な奴には手を出すなよ」

「ああ」

「それから、あまり森の深いところへは行くな。魔物が出るぞ」

「はいはい」

「あとは、早いとこいい嫁を取って、孫の顔を見せてくれればいい」

 孫、と言う単語にアゼリスは絶句する。

「おおおおお、親父っ! 何言い出すんだよ。第一――」

 彼女は精霊なんだぞ、と言いそうになったのを抑え込めたのは幸いだった。ますます話がややこしくなるところだった。

「うん? 何だ、誰か心に決めた相手でもいるか」

 一応疑問の形だが、父は父なりに『相手』の目星をつけているような口振りだった。

「ヘファミナか? あの子はいい娘だな。はな垂れの頃から見てきたが、最近綺麗になったよ。気だてもいいし、働き者だ。エナの若い頃にそっくりだ……」

 エナはアゼリスの母の名前だ。父は何かというとすぐに死んだ彼女の名前を口にする。父も老いたのだと実感するのは、この瞬間だ。

「あのな、親父……」

「いろいろなことが決まったら、まず教えるんだぞ。エナの花嫁衣装は、まだとってあるからな」

「……」

「さて。アゼリスがこれ以上やかましく言わないうちに、寝るとするか」

 ウストは重そうに立ち上がり、寝室へ向かおうとする。あわてて父に手を貸して歩きながら、アゼリスはうなだれた。

(子供……か)

 精霊は人間との間に子を成せない。否、成すことは可能だがそれは精霊の長い寿命と高い魔力、そして精霊として許されたすべてを奪うことになる。父の望みを叶えようとすれば、彼女を不幸にするかもしれない。

「お休み、父さん」

 寝台まで運んだ父の身体は、いつもより軽いように思えた。



 次の朝は、戦慄で彩られた。




「来ないな……」

 水色の乙女は、泉の縁に佇んでいる。もう七日目になる。待ち人は、来ない。

「早く来て……」

 言葉は、届かない。




 父は昏睡状態が続いていた。ヨアンは全力を尽くし、また方々に鳥を飛ばして大きな街で働く知り合いの医師などにも手紙を出してくれたが、絶望の色は徐々にアゼリスを侵していった。

「アゼリス……」

 そっと髪をなでる手に振り返ると、ヘファミナが気遣わしげな顔をしてそこにいた。きっと自分はひどい顔をしていることだろう。何日も眠っていないし、食事もろくにとっていない。

 それでもヘファミナは優しかった。微笑んでくれる。

「さ、スープ食べて。もうすぐヨアン先生のお友達も来てくださるわ。今日、そういう知らせがあったんですって。とても腕のいい方だそうよ」

 おそらく嘘だろう。そう思ったが、アゼリスはありがとうと言った。ヘファミナは優しい。本当に、温かい。

「ヘファミナ……」

「何?」

「少しでいいから……このスープ、食べ終わるまででいいから、その――」

「ええ、いいわ。ここにいるわ」

 幼馴染の娘の存在を、今ほどありがたいと思ったことはなかった。

 二日前二人で仕事をして、父を寝室へ連れて行ったまではいつもどおりだった。翌日の朝、父は起き上がれなくなった。胸をおさえて、苦悶する父に驚いたアゼリスが急いで医師を連れて家に戻ったときには少し症状は収まっていたが、ヨアンはつききりで看病すると申し出た。それでもその日のうちにはまだ意識はあり、量は少なかったが食事もしたのだ。そんな父の様子にアゼリスはようやく肩の力を抜いたのだが、仮眠から目覚めてみるとすでに父はどんなに呼んでも呼んでも、答えてくれなくなっていたのだった。

 ヨアンは何も言わないが、すでに手遅れと思っているのは態度からわかった。絶望に打ちのめされて、それでも何とか錯乱せずにいられるのは、ヘファミナが何くれとなくアゼリスの世話を焼いてくれているからだ。

「もういいの?」

 スープ皿をひざの上においてぼんやりしている彼に、ヘファミナは尋ねた。彼がうなずくとそっと皿を受け取り、台所へ戻しに行く。

 彼女がいなくなると、再び彼の心はどす黒く塗りつぶされていく。父との思い出すら浮かんでこない。虚無の中、憎らしいほどにゆっくりした時の流れの冷たさだけを実感するだけだ。

 何もない心は、アゼリスに何をさせようとも何を思わせようともしない。けれど何かを感じる部分だけはまだ残っていて、それが彼をおびえさせた。父を失うこと、それからの日々、やがて来るだろう恐ろしい未来の影に彼はただ身をちぢこませて震えているしかなかった。

「アゼリス、アゼリス!」

 だが、光明は戻ってきた。

「アゼリス、ちょっと来て!」

 先ほどまでとは打って変わった取り乱しようで、ヘファミナが部屋に飛び込んできた。彼女はアゼリスの顔を見てから慌てて口を抑えたが、ばたばたと彼を引きずる勢いは興奮のためにいささか荒っぽくなっていた。

「どうしたんだ?」

「ヨアン先生のお友達のお医者様よ! ううん、違うわね、お医者様でもあるけど……」

「こらこら、落ち着きなさいヘファミナ。病人がいるんだ」

 たしなめるヨアンと、彼の後ろから家に入ってくる人物を目の当たりにして、わずかにアゼリスの瞳に意思の光が戻った。

「その人が……?」

 いぶかしげな声になってしまったのも、彼の責任ではないだろう。ヨアンの友人というから初老の男性を想像していたのに、戸口にまっすぐ立って優しく微笑んでいるのは肩のあたりで黒い髪を切りそろえた、神秘的雰囲気を纏う若い女性だった。まだ十代かもしれない。その水色の瞳に吸い込まれるような錯覚を覚え、疲労の極みにあるアゼリスは思わずよろめいた。

「はじめまして。ヨアンの知らせで飛んできたの。ご病気なのはどなた?」

 話す声は柔らかく、どことなく幼子のようでありながら深い英知を内包していた。

「あ……俺の父です。今、あっちで眠ってますが……」

「診せていただいても?」

 不思議な女は了解を得ると、すたすたと寝室へ入っていった。その後にヨアンが続き、残されたアゼリスとヘファミナは茫然とする。

「……ほんとに、彼女が?」

「ええ。だってヨアン先生はラルジェア一族の方って言ってたから」 「ラルジェア一族!?」

 このアルヴァンテス大陸最古の血を持ち、医の術をはじめさまざまな知識に通じるという一族の名である。どこに住んでいるのか、どれくらいの規模なのかは謎に包まれているが、大陸中にラルジェアの一員は現れ、とても好意的に力を貸してくれたり、知識を提供してくれたりすることは大陸の誰もが知っている。

「だけど……ほんとかよ。大陸中にいるけど会うことはめったにないって話だぞ」

「うん。でも確かになんとなく、不思議な感じがする人よね。ヨアン先生の紹介だし、信じてみてもいいんじゃないかしら?」

 こんなことを話しながら二人が寝室へ戻ると、ラルジェア一族の女性は眠るウストの額に触れて、何やらぶつぶつとつぶやいていた。

「あの……?」

「危険ね……。それに、ここで治しても少しだけ生きられる時間が長くなるだけよ」

「治るんですか!?」

 一歩前に出るアゼリスを静かに見つめて、女性はゆっくりうなずいた。

「まだ、私の治癒の魔術の効果は現れる。けれどそれでいい? 人間はいつか必ず死ぬわ。その時が先に延びるだけの事よ」

「それでも、それでも俺は――っ」

「フレマ」

 アゼリスをなだめるようにその肩に手を置いて、ヨアンも口を開いた。

「君たち一族は予言者であり、それ故物事を受け入れることが我々より容易かもしれない。だが、親しい者の死という悲しみは大きく、覚悟するために時間がいることはわかってくれるだろう? その時間を、彼に与えてはくれないだろうか。そして君の言う通りいつかは逝ってしまうウストにも」

 フレマという名前らしい女性は、しばし瞑目する。やがて、彼女は再びアゼリスにその水色の視線を据えた。

「わかった。では、あなたの持っている石をくれないかしら」

「えっ?」

 一瞬何を言われているのかわからなかったが、彼女の次の言葉で数日前の記憶が彼の中で鮮明に蘇った。

「水成る石。涙の結晶。あなたは持っているでしょう?」

 精霊の乙女との、約束の証のことだ。

「その力があれば、あなたのお父さんの病気を完治させることができる。さ、出して」

「……」

 葛藤が生じた。

 ここ数日、まったく思い出すことのなかった乙女だけれど、確かに自分は彼女を迎えに行くと約束したのだ。そして彼女は何の疑いも持たずに待っていてくれるはずだ。

(何の疑いも?)

 彼は何度か、それを反芻してみた。

 本当に、今でも自分を待っているのだろうか。あの乙女は。自分は名前を明かしたけれど、彼女はそうしていない。自分と契約していない。

(俺と契約したいなんて、彼女は思ってないんじゃないだろうか)

 水をかけて、発熱させてしまったから、責任を感じただけなのではないだろうか。だとしたら、契約をすることはできない。あの乙女を縛ることになるだけだ。

(それに、彼女がいたら……)

 彼は傍らの幼なじみをちらりと盗み見た。気がつくと愛らしく、暖かな存在になっていたヘファミナ。

(精霊は……子供を産めない)

 もしも子供を成したいと自分が思ってしまったら、彼女を苦しめることになる。彼女からたくさんのものを奪ってしまう。気高い彼女を、ただの弱い人の子に貶めてしまう。

(彼女の、ためだ)

 アゼリスは一度天上を見上げ、言った。

「この部屋にある。今、とってきます」

 部屋にいる誰の顔も見ずに彼は自分の寝台の枕の下から、涙の水晶を取り出した。

「では、始めるわね」

 フレマは大切に水晶を受け取り、その白い手に握りしめた。



「ねえ、アゼリス?」

 おずおずと、ヘファミナが声をかけてきたので、アゼリスは振り返った。家から漏れる煌々とした明かりで、彼女の顔は影になっている。

「あの……」

「何だ?」

「……気分は?」

 酔いを醒ますと言って出てきた自分を気遣うような台詞に、彼はああと答える。彼女が本当に訊きたいことは、すでに察しがついていた。

「さっきのだけどさ」

 ヘファミナが緊張したのが、空気でわかった。そんな彼女の肩をそっと抱き寄せて彼は優しくささやいた。

「本気だ。俺と一緒になってほしい」

「アゼリス……!」

「もうだめだって思ったとき、お前が助けてくれた。だから、これからも……」

 嘘偽りはない、正直な気持ちだった。今祝いの席で、危篤状態が嘘のように酒を飲み、料理を食べて騒いでいる父が死んでしまうかもしれないというあの絶望の中で、彼を照らしてくれていたのは間違いなくヘファミナなのだから。これから何があっても、彼女なら自分を導いてくれるだろうと思えた。ともに、歩いていきたいと思った。

「いやなのか?」

「ううん!」

 がばっと顔を上げて力一杯に否定する彼女が可愛くて、アゼリスは笑った。そして、もっと強く彼女を抱きしめた。

「よかった、ほんとに」

 何度も何度も、彼はそう繰り返した。





 泉から遠ざかる老人は、振り向いて乙女を見た。もう彼のことなど忘れてしまったかのような夢見る表情で、乙女は泉から半身をのぞかせている。どこも映していないまなざしに、胸を引き裂かれるような気持ちになった。

「自分のしたことが、理解できたかい?」

 そこで待っていた黒髪の青年は、老人の気持ちなどお構いなしにきつい口調で尋ねた。青年の父と言ってもいいほどに老いた男は、それを甘んじて受け止める。自分は、青年に案じてもらう資格などない。そして青年が気遣っているのは、哀れな精霊の乙女のことだけだ。

「結局あなたは、彼女のことを裏切ったんだ。どんなに言葉を飾っても、これが真実だよ」

「……はい、サージェン様」

 殊勝にうなだれる老人に憐憫を覚えたか、彼は一度言葉の刃を収めた。ため息をついて、サージェンは乙女に視線を転じる。

「まあ、あなたは魔術にも精霊族にも縁のなかった人だから。彼女に会おうと思ったことだけでも評価してあげていいかもしれないね」

「サージェン様」

 老人は、おずおずと彼を呼んだ。彼が老人をその真っ青な瞳の中に映し出すと、冷気にさらされているような気持ちになったが、意を決して老人は言葉を続けた。

「彼女は、あのまま永遠に待ち続けるのですか?」

「いいや。そんな気の毒な運命は、この私が許すつもりはない」

 サージェンの言葉は強く、同時に温かかった。

「もうあなたは戻るがいい。家族が待っているのだろう。優しい奥方と、健康で孝行者の子供と、いとけない孫達が」

 その言葉の一つ一つが、老人を現実へと引き戻そうとする。架空のようなこの森から、遠ざけようとしている。

「戻るがいい、あなたの選んだ世界へ。彼女に悲劇を与えたあなたの分の罪はすでに購われた。あとは私の母……フレマ・ラルジェアの責を私が代わって償おう」

 抗い得ない神々しさを持った青年の言葉に、老人は従うしかなかった。ふらつく足取りで森の出口に向かう彼を、遮る者は誰一人としていない。

 ――明るい空の元へ戻った瞬間に、呪縛にも似た力は消え去った。老人は茫然とその場に立ちつくし、やがて力無く座り込んだ。

(やはり、やはり彼女は気づいてくれなかった……)

 自分の村がよく見える。彼の現実はあそこにある。それをぼんやり眺めながら、今切り捨ててきたばかりの幻想に彼は思いをはせた。

(最後まで、彼女の名を知ることはできなかった)

 直接聞くのはもう無理だ。そんな資格が自分にないことを、わきまえるくらいの分別は持ち合わせている。だからせめてあのラルジェア一族の青年が教えてくれはしないかと淡い期待をしていたのだが、あの峻烈な言葉ではねつけられるのがおちだろう。

 サージェン・ラルジェアは突然訪ねてきて、泉の乙女のことを老人に話したのだった。そして老人を伴って今日泉へ向かった。彼女を解放するために、絶対にどんなことをしてでも彼を連れて行くと半ば脅すような勢いで。数十年前に一度会ったあの女性の面影はかすかに見出せたが、彼女の柔和な性格は受け継がなかったようだ。

 サージェンの目的は、待ち人を思い続ける乙女の救済だった。彼女にとっても決して短くない年月に終止符を打つためにやってきたのだと、彼は語った。あの日彼の母が一人の人間の命をわずかに長らえさせるために使った、水の石の償いをするのだと。

(ああ……)

 老人はしわだらけの手で、自分の顔を覆った。あの日の出来事は、今や鎖となって彼を戒め、また鋭き針の衣となって彼を苛み始めていた。

(彼女は、ずっと待っていた!)

 純粋な乙女は、彼を信じ続けていた。彼がラルジェアの青年の来訪までずっと彼女のことを意識の片隅に追いやっていたというのに、石を差し出した瞬間に彼女を裏切ったというのに、ずっとずっと信じて待っていたのだ。

(俺は……あのとき彼女のためと自分に言い聞かせて、都合のいい選択をしたんだ!)

 彼女の世界をまったく別のものにしてしまうから、彼女を不幸にすると思うことによって、彼はあの乙女を虚無という悲劇の中へ突き放したのだ。結局自分は彼女の数十年を錆びた虹色の儚い夢にしてしまったのだ。

「おじいちゃーん!」

 元気のよい高い声で呼ばれ、彼はのろのろと手を下ろした。彼をそんなふうに呼ぶのは、彼の血を引く最も若い者達だ。

「おじいちゃん、用事は終わったの? 終わったんならいっしょに遊ぼうよ!」

「……」

 彼は重い身体を持ち上げた。きゃっきゃっとはしゃぐ子供は、彼の手を引いて村のほうへ歩き出す。

「おお、ちょっと待っておくれ。すぐにすむからな」

 一歩を踏み出す前に、彼は孫にそう言い置いて森の入り口へ戻った。

 乙女を守る緑の神殿の門番、あのころよりもずっと大きく太くなった木の根本に、彼はそっと小さな石を置いた。

 涙のような形をしていたが、それは地面の上では草に埋もれてしまう、ただの石に過ぎなかった。









高松さとり様のサイト『セルフブレイカー』に送らせていただいた

小説なのですが、高松様にお願いしてこちらにもアップさせて

いただけることになりました。自分でなかなか書かない傾向の話

で、思い入れ深いです。サージェンはホントに大好きですね。

高松様、アップ許可ありがとうございました。




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