7.二面性
いささか小さめのベッドにも少し慣れてきて、マキシは床の上に足を踏ん張って立ち、思いきり伸びをした。
扉と壁を通して、敦の雄たけびが聞こえてくる。『しめきり』が近くて、しかも調子が悪いので荒れているのだと小夜が言っていた。
「セリ、大変だよなー。さてと」
大きな四角形の形に埃が避けられている場所に、黒くて小さいものがある。ある個所を押すと音楽や話し声が聞こえてくる。『らじお』というものだ。今の時間、ボタンを押した瞬間に複数の子供たちの歌が流れ出してくる。
新しい朝がきた 希望の朝だ……
明るくていい歌だと思う。少し前、自分の世界にいた頃は、歌を聞くこともあまりなかった。
歌が終わると、体操の指示が始まる。それに合わせて身体を動かすうち、なんとも言えない爽やかな気持ちになる。
見知らぬ場所で、見知らぬ人々の間で暮らす数日は、いつもこうして始まっていた。
三人で朝食を済ませると、敦はふらふらと二階へ戻っていき、マキシは小夜の後片付けを手伝うのが日課になっていた。小夜の隣にいると、ふんわりと甘い香りがする。マキシはそれが好きだ。
ぎこちない手つきで食器を片づけると、小夜はいつも彼にありがとうと言った。優しい微笑みも一緒に向けられ、彼は真っ赤になってしまう。決して、恋愛感情ではないけれど、彼女といるとどきどきした。
けれど、そんな柔らかな日常に違和感を覚えていたのも、また事実だった。
ここは、本来欠如した空間。マキシがいても、数は戻っても元通りにはならないはずなのだ。
それなのに、どうしてこんなに穏やかなのだろう。いるべき人間がいないのに。
考えていくと、彼は恐ろしい結論に行きついてしまう。そして、いつも強制的に思考をそこから引き剥がす。
(早くなんとかしねぇとな……)
優しい小夜も、きっと息子の身を案じているはずだから。いつも表面には出さないけれど、隠れて涙もこぼしているはずだから。マキシの手元にある本が、すべての鍵となるのだ。
(がんばって解読して、ソウマをこっちに呼び戻すぜ!)
気合を入れて、同時にてにも力が入ってしまった。
かしゃん!
「あらあら、大変」
小夜は泡だらけの手をじゃっと流し、ぱたぱたと台所を出ていこうとする。
「マキシさん、動かないでいてくださいね」
「え? ええ、はい」
漫画のように(マキシは漫画を知らないが)綺麗にぎざぎざの断面を見せて割れてしまった皿もそのままに、彼は言われたとおりに立ち尽くしていた。小夜はすぐに戻ってきて、用心深く皿を受け取るとそれを脇にどけ、マキシの手首をつかんだ。彼の心臓が元気よくはねる。
「り、リラ・サヨ
!?」「ガラスが入ったかもしれないから、よく洗わないとね」
水は冷たい。勢いよく無骨に鍛えられた手のひらを滑っていく。けれど彼は、熱くてしかたがなかった。背中に、小夜を感じているからだ。
(どどどどどどどどどどど)
自分でも何を考えようとしているのか判別できない。彼は水がとっくに止められて、椅子に座らされてさらに手全体に満遍なく薬を塗られたことにも気づけなかった。
「はい、終わったわよ」
声をかけられても、まだ彼はぼーっとしていた。
「マキシさん?」
「ふぁいっ!」
ようやく彼が我に返ると小夜は当然のことだが怪訝そうな表情をしていて、彼はうろたえてしまった。言い訳をしようとしても、言葉は空回りするばかりだったが。
とうとう、小夜はくすくすと笑い出してしまった。
「あらあら。どうしたの? 落ちついてくださいな」
「はあ……。ど、どうも」
赤面してもぐもぐとつぶやくマキシは、つくづく会ったことのない少年を羨ましいと思った。こんなに優しい母親がいて、きっと屈託なく育ったに違いない。どんなにつらいことがあっても、家に帰れば彼女が包みこんでくれたのだろう(少々変わった父親もいるが)。
帰ることのできる場所――家は、マキシにとっては縁遠いもの。本当にそれが必要だった時期に、自ら遠ざけてしまったものだ。今はもう、手に入れることはできない。
「なんか……ソウマが羨ましいです」
「え?」
情けないと思わないでもなかったが、マキシは続けた。心からの想いだった。
「優しい母さんがいて、家があって。俺はずっと、そういうの憧れてて」
「……」
「ソウマは、いい子なんでしょうね。リラが一緒だったんですから」
柔らかい微笑が、返ってくるのだとばかり思っていた。
「いい子じゃないわよ」
口調は変わらずに優しいけれど、放たれたのは冷たい一言だった。マキシは硬直してしまう。
「もういらないわ、相馬なんか。ご飯を食べるのは遅いし、ちっとも成績は上がらないし、最近は遊ぶんだものね。いなくなったのだって、きっと逃げたからだわ」
「あ……あの……?」
小夜は笑っていた。笑いながら、とても酷薄なことを話していた。
彼女の笑顔を、彼は初めて無気味だと思った。
日課となっている古文解読をしていても、マキシはずっと小夜の言葉を考え続けていた。
『いい子じゃないわよ』
『もういらないわ』
自分の妄想であってくれればよかった。あるいは幻聴でも。しかし、どちらでもないことは彼自身がよくわかっている。
「……どういうことなんだ?」
彼は本を放り出して、ぼんやりつぶやいた。小夜は優しかったのに、息子のことを語る彼女は氷のようで。
「きっと、心労がたまってるんだな」
努めて明るく言って見ても、しっくりこない。それが一番、納得できる説明なのに、心のどこかが受け入れようとしないのである。
「……」
マキシは、おもむろに腰を上げた。部屋を出て、真っ直ぐ廊下を進んで突き当たりの扉を叩く。返事はないが、彼は扉越しに話しかけた。
「セリ、ちょっと話したいことがあるんだけどいいか? 入るぜ」
言いながら入っていくと、頭はぼさぼさで目は落ち窪み、頬は土気色に変じたゾンビのような敦が顔だけで彼を振り向いていた。彼の身体の正面には、白く発光する四角いものが置かれていて、数行の文字が綴られていた。仕事はあまり思わしくないのだと予想がつく。
マキシはかまわずに、ドアを閉めて問いかけた。
「リラは、疲れてるんだろう? ソウマがいなくなって」
「小夜が……?」
「だから、変なこと口走るんだろ? なあ、セリ」
彼が必死に尋ねるので、敦は四角い箱から光を消して、身体ごと彼に向き直った。
「小夜がどうしたんだね?」
「実は……」
思い出したくも話したくもなかったが、彼は小夜との会話を敦に説明した。彼の仮説を肯定して欲しくて、ところどころに彼自身の弁護も交えた。
「なあ、リラはゆっくり休むべきなんだ、そうだろ?」
「……」
「セリ!」
敦の沈黙がいやだった。耐えられなくて彼の肩を揺さぶると、彼はマキシを真っ直ぐに見つめてきた。どこか哀れむような色があって、それがさらにマキシを狼狽させる。
「セリ……」
「小夜は……相馬を本当の意味では愛していないのだよ」
次の瞬間マキシは、敦の頬を思いきり張り飛ばしていた。
例の如く物音を聞きつけた小夜が、薬の箱を手に二階に飛んできて、かいがいしく敦の手当てを始めている。マキシは彼女の近くにいたくなくて、ソウマの部屋に戻っていた。
敦の具合は、深刻なものではないはずだ。衝動的に手を上げたが、ぎりぎりのところで加減はしていた。二、三日ほど、頬が腫れ上がる程度ですむ。
(そういう問題じゃねぇけどな……)
彼は重いため息をついた。質問をしたのは自分で、敦は答えてくれただけだ。八つあたり以外の何物でもない。
(ちゃんと謝らねぇと)
「マキシさん、いいかしら?」
ノックと、小夜の声。
マキシは逡巡し、結局ドアを開けて彼女を部屋に入れた。彼女は湯気の立つカップを二つ盆に載せ、柔和に微笑んでいたけれど、彼は何の感情も抱かなかった。
「あの人は大丈夫よ。ごめんなさいね、何か気に触ることを言ったんでしょう?」
「いえ……俺が悪いんです」
椅子などないので床に座り、二人は向かい合った。小夜はマキシにカップを渡し、自分も一口を飲んだが、彼は黙ってそれを床に置いた。
「マキシさん、あの人あなたに何を言ったの?」
訊かれて、彼の肩が動揺を表に出してしまう。答えたくない、教えたくはない。また、彼女の冷たさを見たくはない。
それなのに口を開いてしまったのは、どこかで同じくらい彼女を信じたかったからだ。
「さっきの、ソウマの話をしました。あなたはきっと、息子さんがいなくなって疲れているんだろうって……」
小夜の答えを聞くまでの時間が、とても長いと感じた。実際はきっと、ものの数秒だったのだ。
おっとりとして、ふんわりした雰囲気の女性は、愛らしい仕草で首を傾げていた。
「私、疲れてなんていませんよ。どうして相馬がいなくなったくらいで疲れるの?」
「だ、だってソウマは、あなたの……!」
「息子だけれど、ちっともいい子じゃないわ。私の言うことぜんぜん聞かないもの」
彼女の声は、再び不気味に冷えていく。マキシは耳を塞ぎたかったが、手が動いてくれない。
「本当ならね、相馬は一流の幼稚園に入園して、そこと同じ大学付属の小学校、中学校、高校から大学へ上がるはずだったの。それなのに幼稚園には入れなかったのよ。ひどいわよね。でも、今度受験した高校に入学できれば、まだやりなおせるはずだったのよ。あの子ったら、また失敗するんだもの。失敗しちゃったから、私の計画は全部台無しになっちゃったわ。どうしてあの子、こんなにできそこないなのかしら? 私はちゃんと、計画どおりに育てたのに」
誰が、何をしゃべっているのだろう。計画とか、やりなおしとか、失敗とか。
(計画……やりなおし……失敗……?)
『計画』どおりにことが進まなくて、『やりなおし』がきかないほどに『失敗』したから。
――だから、必要ないと平気で言ってのけるのだろうか。親の思惑を実行する能力のない『できそこない』の子供は『いい子じゃない』のだろうか。
「ねえ、マキシさん。ずっと考えていたんだけどね」
震えるマキシの拳の上に、小夜は自分の手を重ねた。甘い香りが鼻孔に届いた。
「あなた、家がほしいのでしょう? ずっとここで暮らさない? 私の息子にならない? あなたのような素敵な人なら、私はとても嬉しいわ」
とても空虚な言葉が、マキシの上を通りすぎていった。
彼は、突如胸に生まれた激しい感情に、なんという名前を与えるのがふさわしいのか、決め兼ねていた。
あああああ。なんか暗い……。お母さんの
人気急下降を決定づけましたねぇ。意表を突いた
キャラだなぁ。相馬の家は、決して温かい家庭では
なかったんだということを表したかったんです。
『家庭』が居心地のいい場所なら、相馬は逃げたいとは
思わなかったはずですから……って、あとがきまで
暗いぞ(^^;)。次からはまた明るくなる
はずですので、見捨てないでくださいね(^^;;)。
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