10.蝶
手を伸ばして、空を漂う美しい蝶に触れようとして、彼は苦笑した。ぱたりと力無く落とした手の下で、花が幾つか消えた。跡形もなく、空気に溶けたのだ。
「……幻影でない蝶と花を、持ってきてくれると……」
そんな約束をした美しい娘は、今遠いところにいる。とても遠いところに。
「セイリオス様」
追憶に浸る時間すら、許してくれない。彼は半身を起こした。
銀の髪は長く、彼の動きに従って涼しい音を立てる。瞳は右が青で左が紫、どこか虚空を見つめているような印象を周囲に与える。彼と対するものすべてがその美貌をたたえ膝を折るだろう、そんな少年だった。
少年が立ち上がると同時に、蝶も花も消える。そこにそれらがあったことを知るのは少年だけ。しかし、淡い記憶は突きつけられた現実の前に押しつぶされるしかない。
「この書類にサインを。そして、<星天流>の観測結果を急ぎまとめてくださいますよう」
「……承知した。責任者は――」
「エイン・シャラザード様です」
「では結果を書類にしたら、私が直接お届けしよう。そう伝えてくれるか」
「は」
無表情な部下の一人(名前を覚えられない)は、そっけなく頭を下げて退室した。セイリオスは無人の部屋で逡巡し、口の中で呪文を紡いだ。再び花畑が現れ、無数に蝶が舞う。
「本物の蝶が本物の花畑で元気に舞う様は、どんなに美しいだろうな」
セイリオスの創り出す幻の蝶は、羽根は実物に酷似していたがそれを動かすのは小人だ。絵本の<妖精>と蝶の姿が、少年の中では混同している。本物の花も、風も、大地も、空も彼は知らない。
「メーマ、いつになったら君は帰ってくるんだっけ?」
呼びかけると、セイリオスの眼前にすらりとした少女が現れた。小麦色の肌、薄紅色の髪の、凛然とした風情の彼女は、セイリオスが唯一心を許せる人物なのだ。彼女だけはセイリオスを、一人の人間として見てくれる。
「メーマ……」
細い指が、少女の髪をすくい上げようと伸ばされる。触れた瞬間、少女の姿は泡のようにはじけた。
「レヴァ魔法王国はね、魔導士達に治められているの」
揺れる馬車の中、車輪の音に負けないように大きな声で、リリアンは話している。結局相馬、マキシ、アーサーは彼女の好意に甘え、途中まで旅芸人達の馬車に便乗させてもらうことにしたのだ。
「詳しくは知らないんだけど、魔導士達をまとめる長がいて、その人は最強の魔力を持っているために、外に出ることができないんだとか。白い髪の、とても賢い人ですって」
「白い髪……もうじーさんか」
相馬は呟いたが、がらがらという音に消されて隣のマキシにしか聞こえなかった。マキシはそれを受けて、よく通る声で全員に話しかける。
「いや、まだ少年なんだ。生まれる前からすでに魔導士達は彼の魔力を知っていて、赤ん坊の時に王国に連れていって、英才教育を施した。だからとんでもねぇ天才には違いないんだが、ずっと塔から出ないで今まで育ってるはずだぜ。むごいなまったく」
「そうだな」
アーサーが同意する。相馬も驚いていたが、自分との類似があることに気づいていた。
(俺も……母さんの都合のいいように育てられてきたって感じだよな)
まだ会ったことのない、白い髪の少年に親近感が沸く。それが好奇心へ転じたのは、ごく自然なことだった。
「なあ、その子の名前なんて言うんだ?」
「うん? 確か……ラトナ。セイリオス・ラトナ――ああああ
!?」いきなりマキシが絶叫したので、近くにいた三人ばかりでなく旅芸人一座の者全員が仰天した。場を取りなすために頭を下げる相馬とアーサーを後目に、マキシは別の形で記憶に残っていたその名前を反芻する。
「セイリオス・ラトナ……。うっかりしてた……」
調査をしたのだが、いろいろごたごたしていて忘れていた。そして調査は所詮感情を伴わず、事実だけを求めるもの、だから凛とした声が誇らしげにこの名前を形にした時に、一致させることができなかった。
「いきなりどうしたというのだ、マキシ?」
「大声出すなよ。心臓止まるかと思ったじゃん」
文句を言う二人の相棒をぐいと引き寄せて、マキシは素早く囁いた。至近距離なので、小声でも充分届いたはずだ。
「いいか、あのいけ好かないメーマが手紙をくれたろ? そんときあいつが伝言してほしいって言った相手の名前、覚えてるか?」
「伝言の相手……?」
「いや、記憶にない」
「だろうな。驚くなよ」
無理だろうが、と思いながらもマキシは短く告げる。
「セイリオス・ラトナだ」
――今度は、二人分の叫びが馬車の外まで響き渡った。
『蝶を、ご存じないのですか?』
心底驚いたという声音で、彼女は尋ねた。うなずくと、しばし考えて近くの羊皮紙とペンを引っ張ってきて、
『こうなって、こんな感じですね』
さらさらと戦だけで描かれたそれは、不思議な形をしていて彼の目を惹きつけた。
『絵は苦手です……。お許しください、セイリオス様』
『ううん』
本当に簡単な絵だったけれど、彼は嬉しかった。
『ありがとう教えてくれて。ねえ、どんな色なの?』
『様々です。私の故郷では白いものや黄色いもの、それに大きくて紫色のものがおりました』
言われるまま、彼は手の中の絵にじっと集中して、呪文を唱える。三匹の蝶が現れる。白と黄色と、紫。
『セイリオス様……』
彼女は複雑な表情をしてそれらを眺めていたが、セイリオスの肩に手を置いてひざまずいた。
『今度の旅から戻った時、蝶を持参いたします。他の色の蝶をたくさん、必ずや主様にお届けいたします』
優しい彼女。大好きなメーマ。
「うん、待ってる――」
……自分の声で目覚め、セイリオスはうたた寝していたことを知った。ひとりぼっちの現実を思い出し、長い溜息をつく。
二年前の夢だ。彼女は本当にたくさんの蝶を手みやげに帰還したが、花も風もない塔の中では、すぐにみんな死んでしまった。仰向けになり床に落ちていた蝶の死骸は、ただ無惨で悲しいだけだった。
それから彼は、蝶を求めるような素振りは一切見せなくなった。それだけでなく、何かを欲することもしなくなった。時々自らの高い魔力でもって、幻を作り上げることだけが彼の楽しみとなった。
「セイリオス様?」
突然、室内に人間の気配が生まれた。驚いた少年は、無意識のうちに魔力を発動させてしまう。
呪文なしで解き放たれた魔力は、何の効果も生まないものだ。しかしたとえ魔道に疎い人間でも、それに触れると大小の差はあれ気分を悪くする。酷い時は死に至ることもあるので、魔導士は必ず魔力の制御を学び、自己を抑制する術を身につけるのだが……。
「落ち着け!」
ぱんっ、と強い音とともに室内を覆っていた異様な空気が嘘のようになくなる。セイリオスは打たれた頬を押さえてうずくまり、恐る恐る上目遣いに目の前の人物を見た。
「自己の制御を常に心がけよと、私は忠告しなかったか?」
「……」
大きくはないが強い語調で責められて、セイリオスはうなだれた。悄然としたその様子に心を動かされたか、やや言葉が柔らかくなった。
「リオ、すまなかった」
「兄上……」
セイリオスは、屈んだ青年におずおずと身を寄せた。彼と同じ銀の髪、青い瞳――セイリオスは片方だけだが――を持つ青年は、実の兄である。ただしギルドの中でこの事実を知るものはいない。兄メルドは、母の実家の姓を名乗っており、セイリオスとの類似を問われても「遠い親戚筋だから」とはぐらかしているらしい。らしい、というのは、セイリオスがこの部屋からほとんど外へ出られないため、又聞きで伝わってくる話から推測するしかないからだ。
兄は時々、何らかの名目をつけたり、あるいは忍びで訪れてくれる。自分を気にかけてくれるのは伝わってくるが、三歳で塔に連れてこられた彼が兄に出会ったのは、十年後だった。家族としての親しみや愛情など、本で読んだような感情に該当するような想いを、兄に向けることはできなかった。兄のほうもどちらかというと相談役に近い立場で接してくることが多かったので、なおさらだ。今では少し、互いの距離が近づいてきたような気がする。
「どうした? <星天流>に何か悪い兆しでも?」
メルドは決して、セイリオスの心の中を知ろうとはしない。わかっていたのにその事実に直面するたび、彼はどうしようもない寂寥感に悩まされる。けれど涙を流すことができない。どうすれば泣けるのか、彼は忘れていた。
「そうではありません、昔の夢を……見ていただけです」
「そうか」
たったそれだけだった。弟の甘えるに任せていたメルドは、すっと身体を離した。
「変化があったら、真っ先に私に知らせろ。わかっているだろうがいつものルートでだ」
「……はい……」
期待して、いつも裏切られる。どうしてそれでも兄の優しさを願うのか。
セイリオスは唇をかんだ。
……言い訳できないくらい
遅れまくった続きです……。打ち切り
考えてたのも秘密です(←言ってる)。
セイリオス君、5にちらっと出て来てます。
あとメルド青年も。ほんとにちらっと
だった二人ですが、実は重要な
人達でした。この続き、また遅れそうな
気がひしひしといたしますが(汗)、気長に
おつきあいください……。
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