1.発端
一週間前。
美しい夕焼け、静寂の中の公園、そんな絶妙な状況で彼女の口からこぼれた言葉は、
「ごめんなさい」
抑揚どころか、罪悪感すら感じられない短い謝罪だった。
前日。
某私立高校、合格発表の日。
かなり進学率が高く、入るのも至難の技であるその学校の玄関、合格者の受験番号がずらりと並ぶ中、彼は失意のため息をついてその場をあとにした。
その日。
家にいると母親からの視線と叱責攻撃にさらされるため、彼は友人の家に避難していた。
落ちこんでいて、つい愚痴愚痴と最近の悪夢を語っていると、友人香村凱――ガイは冷たく言い放った。
「受験真っ只中に恋愛なんぞに現を抜かしてたんじゃ、落ちるのはあたりまえだ。お前の無計画な行動が招いた結果を、俺に押し付けられても迷惑だ」
――五分後、ガイはめためたに殴り倒されたのだった。
ついてないときは、本当に悪いことが重なるものだ。
好きだった女の子にコンマ五秒でふられ、私立高校には落ち、さらについさっき幼稚園依頼の親友をぼこぼこにしてきた少年、姓は蒼崎、名は相馬という。十五歳にして、人生の教訓をひとつ得た彼は、そろそろやばいことになってくる時間帯だというのに、迷うことなくゲームセンターに向かっていた。あまりにも悪いことが立て続けに起こったため、この上何が起こったとしてもかまうものかという気分になっていた。
(ちくしょー! ちくしょー! 俺の青春を返せってんだ!)
小学校六年生から、ひたすら受験勉強に打ち込んできた(あるいは、打ち込まされてきた)。そんな中で親友のガイをはじめとする友人たちとのふれあいが、唯一許された憩いだった。恋をして、心はさらに安らぎで満たされていた。
(受験に失敗したんだ。これから俺はどうすればいいってんだよ……)
合格発表の日、家に帰って落ちたことを話すと、案の定両親(主に母)は激怒した。あからさまに相馬を無視し、夕食も出してくれなかったのでその日は近くのコンビニで夜を明かした。その後ガイのところへ行ったら、大喧嘩になったのだ。
(どうすればいいって……)
長い間目指してきたものに、手が届かなかった。築いてきたものが瞬時に瓦解した。そうなってしまうと、彼は途方にくれることしかできなかった。
「おう、待てや」
月並みな台詞と同時に、相馬は胸倉を捕まれて壁に強く押し付けられていた。そうなって初めて周りを見てみると、路地裏だった。ぼーっと歩いていて知らないうちにこんなところへ来てしまっていたらしい。
胸倉をつかんだのは、背中に『不良!』と大きく書かれたネオンをしょっているような、あからさまに人相の悪い高校生だった。こういう手合いにはマニュアルでもあるのか、必ずといっていいほど似たような感じの仲間が数人いて、品のない笑みを浮かべて相馬をにらんでいた。
「てめえ、俺の足踏みやがったな?」
胸倉をつかんだ奴が、リーダー格らしい。便宜乗リーダーと呼ぶことにした。
「慰謝料払ってもらおうか。んん?」
リーダーが慰謝料という言葉を知っているという事実に、相馬は仰天した。が、顔には出さなかったので、リーダーはそのままの調子で二万円を要求してきた。
(二万!?)
ぼんやりとしていた相馬の頭が、その金額で一気に覚醒した。当分家に戻らないつもりで、彼は貯金のありったけを持って出てきたのだった。その持ち合わせが、ちょうど二万円。
(家に帰らなきゃならないじゃねぇか!!)
不良の集団にフクロにされるよりも、そっちのほうが相馬には耐えられなかった。気がついたときには、右膝蹴りがリーダーの股間にクリーンヒットしていた。
「ふご……!!」
服をつかんでいたリーダーの手が離れた瞬間、相馬はすぐ近くにいた不良その一のみぞおちに正拳突きを食らわせて、続けざまに右手の不良その二に後ろ回し蹴りを決める。実は相馬、小学校のころから体力作りのためにと空手を習っている。技は無論使っていないが、使わなくともこのくらいの相手ならば楽勝……。
げんっっ!!
――ではなかった。
最初にのしたリーダーが、悶絶しながらも相馬の頭を後ろから鞄で殴ったのである。
致命的ダメージではなかったが一瞬隙ができてしまい、そうなると人数で不利な相馬の運命は決まりきっていた――。
結局相馬は、午前十二時近くになって自宅に戻ってきたのだった。顔は元の人相がわからないくらいに晴れあがってしまっている。身体もあちこちが痛い。
(うーくそ。親父もお袋も寝てるよな)
母親はともかく、父の職業は小説家なので、油断はできない。深夜に起きていてもまったく不思議ではない。用心して物置に忍び寄り、静かに静かに戸を開けた。
引っ張り出してきたのは、梯子である。
(窓の鍵は……開けてあったよな?)
万が一のときを考えて、自分の部屋の窓に施錠はしてこなかったはずだが、掃除のときにでも母が閉めてしまった可能正もある。いちおう、ポケットの針金であけることができるが、作業中に人に見られてしまうかもしれない。
(そんときゃ物置に泊まるか)
梯子をしっかり建てかけて慎重に登っていくと、カーテンをしていない自分の部屋の窓は、出かけたときのままであることがわかった。
窓を開けて中に入って、梯子を引っ張り上げてしまうと(これが大変だった)、相馬はベッドに倒れこんでしまった。
(いろいろありすぎた……)
もそもそと布団に潜り、膝を抱える。
(疲れた……俺、もう……)
眠りについたというより、眠りの中に沈みこむように、彼の意識は遠のいていった。
「おい、スターゼンだぜ」
「辞表を提出してきたんだ、きっと」
「あたりまえさ。あんな簡単な任務に失敗したんだからな」
小声で、だが聞こえよがしに話す無責任な連中の間を、マキシは努めてゆっくりと歩いた。そうしなければならなかった。走って通りすぎようものなら、臆病者という呼び名がさらに増えることになるからだ。
(好き勝手言いやがる)
彼――マキシ・スターゼンは、主に諜報活動を専門とする部隊<メルス>に属していた。『いた』と過去形になっているのは、周囲の噂通りたった今クビになったからだ。
(ああ確かに簡単な任務だったさ! だから相手も感づきやがったんだ!)
マキシは部隊に入って三年、まだまだ若輩と呼ばれるくらいだが、そんな彼でも今回の仕事の計画はずさんだとはっきりわかった。誰が考えたのだか知らないが、それをすんなり命じるほうも命じるほうだと思った。だからいちおう反論してみたのだが……。
(なに考えてやがるんだあのくそじじいは。ついでに計画立てた奴もわかったぜ。あの馬鹿女)
下働きになりすまして潜入し、情報収集を行うなんて無茶です。もっと以前からの下積みがなければ、すぐにばれます。ご再考を――と隊長に言葉をつくして進言したのだが、彼の熱意と誠意は隊長の膝にのっていた金髪の胸の大きい娘の一言で却下された。
『なんとかなるってぇ』
すかさず彼は、てめえその頭でもの考えたこと生まれてこの方皆無なんじゃねぇかと怒鳴りつけてやりたかったが、隊長の手前ぐっと堪えた。ぐっと堪えた結果、隊長室付近の壁になぜか大きな穴が開いたりした。
そして、潜入した彼はあっさり捕まり、昨日未明逃げ出してきたというわけだった。
長年慣れ親しんできた詰め所を出るなり、彼は歩調を速めた。案の定背後からざわざわという複数の人間の話し声が追いかけてきていた。クビを宣言されるなり隊長を力いっぱいに殴ってきたので、追っ手をかけられたのだろう。もっとも、かつての同僚たちは付近を捜索するふりをして、他愛ないことをしゃべっているばかりだ。表立っては言わないが、愛人に振りまわされている隊長は、最近人望を失いつつある。だからマキシも、陰口を叩いていた隊員たちに対しては腹を立ててはいなかった。彼らは、マキシがどんなに無謀なことを押し付けられたか知らないのだから。
(いつか闇討ちしてやる!)
さんさんと照りつける真昼どきの太陽光線を背中に感じながら(本当は燃えるような夕日か、ひゅうと吹きすぎていく一陣の風がよかったのだが)、マキシ・スターゼンは茶色の瞳に闘志を燃やしたのだった。
花街では、マキシはけっこうもてるのである。女はもちろん、男にも「兄貴」と慕われる気さくで面倒見のいい性格と、長年鍛えてきたたくましい体躯、それを武器にして戦う姿の勇ましさ、さらに、普段は精悍な印象を醸し出す顔立ちが、女を口説くときには甘くとろけるところも人気が高い。耳元でささやかれた日には失神すると、花街の若い娘たちは彼を見るたびうっとりとため息をつくのだ。
しかし今日という日は花街による気も起きず、マキシは巻き上げてきた……もとい、ありがたくちょうだいした退職金をすべて使って、酒を山ほど買った。そして、街の奥まったあたりにある自宅で一人あおった。
「ちくしょう……ちくしょう……!」
三本目の強めの酒をあけたとき、涙が出てきた。拭ってもきりがないので、流れるままにしておいた。
これは、悔しくてずっと溜めていた涙だ。
「隊長……」
だらしなくたるんだ、隊長の顔が脳裏に浮かんだ。
「なんで、変わっちまったんですか……?」
マキシの入隊時には、厳しくも優しい、上からも下からも頼りにされる立派な人物だったのに、今では見る影もなくなってしまっている。マキシが一番許せないのは、頭の悪そうな愛人でも、彼女が立てた計画でもなく、それをすんなり受け入れて命令を下してしまう隊長であった。彼らの仕事は、時には命をかけなければならない危険なもの。それなのに、部下をあっさりと危険にさらすような真似をした隊長に、彼は憤っていた。かつて、誰よりも尊敬していたからこそ。
「ちくしょう……」
新しいビンの栓を抜こうとした手が、力なく床に落ちる。ごろりと床に転がったまま、彼は起きあがろうとはしなかった。
蒼崎敦氏は、締め切り前に原稿を仕上げることができて、万感の思いをこめてふうっと長く息を吐き出した。こんなに余裕を持って書き上げることができたのは、いったい何年ぶりだろうかと、彼は徹夜明けのしょぼしょぼする目で朝日を見ながら考えた。
小説家を職業として、一番嬉しいのは読者からの「おもしろい」という感想だ。でも、このひとつの物語を完成させたという喜びは、やはり格別なのである。
だんだん昇っていく太陽をぼんやり見つめているうち、敦の思考は現実世界へと戻ってきた。
原稿を書いているときの常で、書き上げるまでは一切のことがわずらわしくなる。そんなわけで昨日帰ってきてなにやら妻と口論していた相馬を頭ごなしに叱り飛ばしてしまったが、やはりあれはいけなかった。謝ってくるべきだ。ここの所ずっとろくに外へも出ずにいたようだから、街へ連れていってやろうか。
息子の受験のことをすっかり忘れ去っていた敦は、思い立ったが吉日とばかりに部屋を出ていった。ついでに、現在の時刻のことも、すっかり失念していた。
相馬の部屋は、同じ二階の一番端だ。てふてふとそこへ歩いていって、扉をノックする。
返事はない。
「相馬、相馬」
さらにノックするが、やはり返事はない。
もしや、昨日のことを気にしていろいろなことを悩んでしまったのかもしれない。まさかとは思うが、深く深く思いつめてしまったあまり、部屋の中で冷たくなっているかもしれない。そんなことになったら、父さんも母さんもこの先どうしたらいいんだ。きっと父さんはお前との思い出を忘れないためにと、何年もかけて家族の愛の物語を書くことになるんだろう。ああ相馬! どうかそんな小説をかかせないでくれ!
……さすが小説家というべきか、こんなことを五秒あまりで考えてしまった敦は、勢いよく扉に体当たりした。
かろうじてちょうつがいから外れなかった扉は、ばたんと近所迷惑な音を立てて壁にぶつかりった。しかし、敦の耳にその音は入らなかった。入ってはいたが、認識されていなかった。
彼の硬直は、天井からぶら下がっている息子を目撃したためではない。部屋の中央に大の字で寝転がっている、たくましい青年の姿があったからだ。
「……っだよさっきからうるせえな……。……んあ?」
酒瓶らしきものをしっかりと握り締めた青年は、のっそり起きあがって大あくびをした。そして、涙のたまった茶色の瞳は、唖然として経ち尽くしている敦を映す。
「誰だ、おっさん?」
警戒心も、怪訝な響きもまったくこもっていない、呑気な声で青年は尋ねてきた。つられて敦も、ごく自然な調子で口を開く。
「蒼崎敦という。この家の主だ。君は?」
肩のところで無造作に破られたシャツ、ぴったりとした伸縮性のありそうなズボン、腰にはしっかりと大きな剣をぶら下げた、精悍な面差しの青年はにかっと笑った。
「マキシ・スターゼンだ。いい部屋をありがとうな、親父さん」
オリジナル、開始です。
個人的に、蒼崎父を書いていて楽しかったです。あとマキシ。
設定段階では、ちょっと気の弱い性格だったのに、
兄貴な人になってるかも。某ゲームの某将軍が悪いと思われます。
クールな相棒とかいたら、もっとはまったかもしれない(笑)。