抜かれぬ剣と願う天秤




 幼い頃から寝物語に聞かされてきた、精霊という種族はこんな風に笑うのかもしれない。

 王宮の中庭、そこにある東屋の一つ。黒い髪の男が、彼によく似た子供の手を引いて、先にきていたクルト達にそっと会釈をした。日の光を浴びて、本当に無邪気に嬉しそうに笑う小さな子供を見て、クルトがまず抱いたのはそんな想いだった。

 しかし彼の前にいるその少年はもちろん人間で、クルトよりも三つ年下の十一歳だったはずだ。名前は、確か――。

「初めまして、ラース様。クルト様。僕、シアン・ラルジェアといいます」

 やや幼い調子で、少年は名乗った。彼の言い回しに、またクルトは軽く驚かされる。このドルゴール王国の王子である彼らに対し、こんなにも気軽な口調で物を言う者などほとんどいなかったからだ。

「シアン、か。会えるのを楽しみにしていた。我らの師であるマルクの子息とは、どのような者であるのか、とな」

 一つ違いの兄――ラース・リステル・ドルゴールは、シアンに対しクルトのような感慨は抱かなかったようだ。たびたび父王や母王妃にたしなめられる、気さくな態度でラースは席を立ってシアンの傍へ歩み寄り、彼のやや癖のある黒い髪を優しくなでた。

 勉学の師であるマルク・ラルジェアが、息子を紹介したいと切り出したのは昨日の午後の勉強が終わったあとのことだった。用件は唐突だったが、自分たちと彼の子を引き合わせることの意味をクルトは知っていたし、当然ラースも承知の上だと思った。だから初めのうち、クルトは今日のこの場には顔を出さないでおこうと考えていたのだが、兄が結局彼を一緒に引っ張ってきたのだった。

『マルクは、俺たち二人に息子を会わせたいと言った。それを断るのは失礼に当たるだろう。だから一緒に来い、クルト』

 そういわれてしまえば、クルトには断ることは不可能だ。

(しかし、兄上がいらっしゃればそれで十分のはずだ)

 ラースとシアンが親しげに話しているのを眺めながら、クルトはぼんやりと東屋のベンチに座ったまま物思う。

 ラルジェア一族は、彼ら王族よりもずっと古い血を持ち、長い間王族達と深く関わってきた。ゆえに、そのつながりをよく保つよう努力するのは、確かに自分の役目でもあるのだろう。だが……。

「あの、クルト様」

 ふと気づけば、シアンが彼の顔を下から覗き込むようにしてそこにいた。彼は軽く浅葱の瞳を瞠ったが、屈託のない少年の表情は確かに愛らしかったので、自然に心と顔が和んだ。

「これから、よろしくお願いします」

 父からそういうようにと教わったことがすぐにわかる、ぎこちない挨拶。真っ直ぐに臆することなく自分を見つめてくるシアンの双眸は凪いだ湖を彷彿とさせる、とてもとても静かな薄青。

「こちらこそよろしく頼む。兄上を、そして時には私も助けてくれると嬉しい」

 彼の言葉の真の意味を、恐らくシアンは幼すぎてすべて理解できなかっただろう。だが少年が元気よくうなずいたことに彼は満足した。

 ――彼に見えない角度で兄が目をすがめ、マルクが小さく嘆息したことに、彼は気づかなかった。




「クルトは、絶対にお前の意図を勘違いしているな」

 ラースは、窓から外を眺めたままマルクに話しかけた。窓には質のよい玻璃がはまっており、透明な障壁越しには彼の弟と、先ほど会ったばかりの小さな黒髪の子供が見える。弟にシアンの相手をさせたのはラースで、その間にマルクと少し話をしたかったのだ。

「我が一族とお前の血族は、確かに長い間有効な関係を保ってきた。だが……ねじれが生じるのは、しかたのないことだと思うか、マルク?」

「何事も、時の流れのままなれば」

 はぐらかすような答えを返されて、ラースは思わず苦笑する。マルクは、ラースの父よりもいくらか年が若いだけ、さらに長い間国王の相談役を務めてきた彼は、今年十五歳のラースには及びもつかない老練さを持っている。

(望むことは、自ら手に入れよということか)

 彼ら兄弟の師でもあるマルクは、自分たちを導き道を示してはくれるが、決して甘やかすことはしない。

「では、俺は俺の思うままに動くことにしよう」

 ラースは、顔を真っ直ぐにマルクに向けた。黒に近い灰色の髪が揺れ、彼の瞳の少し上にかかる。

 右は闇の漆黒、左は夏の森の新緑。

 不可思議な二色の双眸と母譲りの印象の強い美貌が、彼に鮮烈な雰囲気を纏わせる。

 そして何より、彼自身の性質が、強烈な輝きを内から放つ。

「お前は、俺の生誕の予言を“剣”と告げたな?」

 に、と彼は唇の端をつり上げる。美しい顔が、そんな表情を浮かべるとますます凄絶なものになる。

「『“剣”の王子』がどのような者か、お前はとくと見ているがいい」

 このドルゴール王国において、すべての者は生まれたときにその性質を表す言葉を受ける。それは<生誕の予言>と呼ばれている。

<生誕の予言>を授けることができるのは、時の流れを読み言の葉と成すことができる者――“予言者”ラルジェアの一族のみ。ラースもクルトも、体が弱いために今は王宮にはいない末の王子レーヴィオンももちろん生誕の際にそれぞれの予言を授けられていた。

 彼らの本質を“視た”のはマルク・ラルジェア。彼はレーヴィオンを“翼”、クルトを“天秤”と称した。そしてラースは、“剣”だと。





 王子達が誕生してから、臣下達が陰日向で勢力争いを繰り返していることを、クルトはもう知っている。今のところ決め手となるものが何もないのだが、ほんの些細なことで事態が大きく動いてしまうこともまた、彼は熟知していた。

 そう、たとえば。

「クルト様!」

 大きな声で元気よくクルトを呼んで、転がるような勢いでシアンが駆けてきた。先ほど果樹園のほうへ走っていったのでどうしたのかと思っていたのだが、彼が懸命に抱えているものを見て、クルトは小さく微笑んだ。

「ヨウジュだな」

 三つの年齢差は、この時期の少年達には大きい。まだ小柄で華奢なシアンにとってはかなり大きい果実は、明るい黄色の固い皮を剥くと同じくらい鮮やかで水分が豊富な果粒を持っている。甘さはほんのりと控えめで、クルトも好んで食べる。

 重そうに実を抱えているシアンから、彼はヨウジュを受け取った。小さな子供の頭ほどの大きさのそれは、クルトの手にほどよい重量感を感じさせた。

「とっても甘いです。僕、ナイフを持っています。一緒に食べましょう、クルト様」

 無邪気で明るいシアンの笑顔と、嬉しげにヨウジュを半分に切り始める彼の様子を見ていると、クルトはどうしても複雑な気持ちになる。

 ラルジェア一族は、国にとってとても重要な存在なのだ。そして、その一員であるシアンはこれから、マルクのように王族と交流を持つようになるだろう。

 そんなラルジェアの者が心を預け、忠誠を誓った王子は、きっと家臣達から一目置かれることになる。シアンがどんな小さな子供であろうと、それは同じだ。

「シアン」

 ゆえに、クルトはこうしなければならない。これが正しいことなのだ。

「君の父上と、ラース兄上にもヨウジュを持っていこう。それは誰かに剥いてもらうから、一緒においで」

 シアンは、ラースのもとにいなければならない。

 クルトの言葉に、シアンは手を止めて小首をかしげたが、すぐにうなずいた。

「はい、クルト様」

 半分ほどヨウジュに刺さっていたナイフを、彼は抜いた。果汁が付いたまま鞘に戻しては、ナイフが駄目になる。そう思ってクルトは誰かにそれを洗わせようと、シアンのほうに手を伸ばしかけたのだ。

 しかし。

「アリア」

 それがごく自然で何でもないことのように、シアンは虚空に向かって呼びかけた。クルトが奇異に思う間もなく、その現象は目の前で現実となった。

「な……!?」

 優しげな顔立ちの少女が、シアンの見上げる何もない中空からふわりと現れる。肩口で揺れる彼女の髪は、水色。常人が持ち得ない色彩――。

 何よりも、彼女はクルトがこれまで見てきたどんな女性よりも、清らかな美貌の持ち主だった。その二つが、彼女の正体を示す手がかりとなり、クルトを答えに導こうとする。

「アリア。このナイフ、持っていてね」

「ええ。この間みたいに、刃が使えなくならないように、私が浄めておくわ」

 短いやりとりの間にも、青い瞳に愛おしさをたたえて彼女が黒髪の少年を見つめていることで、クルトには彼女が少年にとってどんな存在であるか、すべてを推測することができた。

「お待たせしてごめんなさい。クルト様、お父さん達のところへ行きましょう」

「……彼女は」

 それを明らかにするために、彼は驚きのために干上がってしまった喉から、声を振り絞って問いかけた。

「今の少女は、君の守護精霊なんだね?」

 この世界のすべてから生まれ、不思議な力を自在に行使でき、希有な美貌ととりどりの色彩を有する神秘の種族。<精霊族>と呼ばれるその者達は滅多に人間の前には姿を現さないが、彼女達に好かれる性質を持つ者には限りない愛情と<加護>と呼ばれる守りの力を与えると言われている。もちろん、その恩恵を受ける人間は本当に少ない。

 目の前で見なければ、クルトにも到底信じられなかっただろう。この少年が、その希少な一人だなどとは。

「そうです。彼女は水の精霊で、ずっと僕の友達なんです」

 何でもないことのようにそう答えるシアンに、クルトは戦慄といいようのない不安感を覚えた。




 精霊族の存在は、半ば伝説だ。しかし完全に幻想だと言い切れないのは、彼女達が時折人の前に姿を現すからだ。世界的に、アルヴァンテスにはその現象が多く見られるのだという。

(それは我らの先祖であるカイ・メルス・ドルゴール様が、精霊を連れてこの大陸に来たためと言われているが)

 王宮の図書館で、ラースは歴史書を広げていた。広げてはいるが、文字を追ってはいない。繰り返し繰り返し学ばされてきたために、国の歴史くらいはそらんじられる。

 彼は右手の指で、開いた項のある一行をなぞった。

『カイ・メルス・ドルゴールは元の名をカイ・メルス・ロータ・マジェス。アルヴァンテス大陸に晴れて自治権が与えられた折り、この地を“ドルゴール”と命名。この名の由来は大陸の古代の言葉“ドルガオル――王者”に由来すると伝えられている。……』

「この古代の言葉が、誰から教えられたものなのか……それも問題なのかもしれんな」

 ラースは愁いを帯びた口調でつぶやいたが、色の違う瞳は楽しげに笑っていた。

「ラルジェア一族は、そもそも我らが始祖の代から、我が一族に深く関わっている。――だが」

 ラルジェアの者は時に、王家の中のただ一人に忠誠を誓う。その相手は彼らの意思でのみ選ばれる。何人たりと、彼らのその権利を侵してはいけない。これは、王族と予言者達の間でずっと変えられることのなかった約定だ。今では、彼らの助力を得られることはすなわち、優れた資質を有することと同義と見なされている。実際歴代の賢王と呼ばれた統治者の傍らに、黒髪の予言者がいたことは多いのだ。

 しかし予言者の一族は、それだけ王族にとって大切な存在でありながら、何も望まない。むしろ、王族達が願うからこそ彼らは傍にいてくれるようなものだ。もっとも、そんな存在でなければ、こうも長くラルジェアの者達が欲の坩堝である王宮などに長くいられるはずはない。時を読むという彼らの神秘性とそういった無欲さが、王宮の中のどろどろと渦巻く人の醜い想念から彼らを守ってきたのだ。

(だが)

 ラースは、すっと目を細める。

 始祖の時代から、数百年の時がすでに流れている。いろいろなことは、その間に変わらざるを得ない。ラルジェアの一族とて、それに翻弄されずにいられることはできないのだ。

「俺が“剣”という本質を持つのならば」

 歴史書を閉じて、彼は立ち上がった。

「それは、“断ち切る”力でもあるのかもしれないな」




 マルクは、毎日ラースとクルトに学問を教えてくれるが、三日に一度ほどの割合でシアンを伴ってくるようになった。シアンは驚くほど博識で、知識量はクルト達に勝るとも劣らなかった。

「僕達は、昔からアルヴァンテスの人たちにいろいろなことを教えて、役に立てる存在でなければならないんだって、ずっと言われてきました」

 今日の授業がすべて終わったあと、そのことをクルトが言うとはにかんだようにシアンは笑って答えた。

「だけど僕、まだまだお父さんに叱られます。薬や医のことは特にきちんと覚えなければならないのに、なかなかできなくて」

「一度にすべてできるようになど、なるはずがない」

 そんな彼に、ラースは断言する。

「現に俺など、マルクには未だに叱られるぞ。クルトはほとんどそんなことはないがな」

「兄上」

 気軽な調子でそんなことまで話す兄を、クルトは控えめにたしなめる。あまりかっこうのいい話題ではない。ラースは肩をすくめ、シアンは薄青の瞳をクルトに転じた。

「クルト様は、すごいですね」

 彼のまなざしには、そういう賞賛を言われるときに必ずクルトが相手の中に見つけてきた、どんな感情も――おもねりや追従、時にはねたみ――なかった。とても新鮮で、同時に胸がどきどきしたが、それを表には出さずにクルトは当たり障りのない相づちを打った。そしてすぐに、

「シアン。私はこれから用があるから、これで失礼するよ。兄上、それでは」

「おい、クルト――」

 ラースが呼ぶのにも礼だけで応え、クルトは長く広い廊下を足早に歩き出す。

 だが。

「クルト様」

 まだ少女のような愛らしい響きを残す、黒髪の少年のあどけない声には。

「また今度一緒に、ヨウジュを食べましょうね」

「……そう、だな」

 無視することはおろか、はねつけることもできなかった。

 ぎこちなくシアンにうなずいて、クルトはさらに歩調を早めて廊下を進んだ。

 辛い、と思う。無邪気に懐いてくるシアンの様子は、これまでクルトとは縁遠いものだった。だからいっそう、クルトの心を和ませてくれるのだろう。名前も知らない暖かいもので、満たしてくれるのだろう。

 そんな少年を……自分は駆け引きの駒と見なさなければならないのか。

(けれど、シアンが兄上のところにいれば、きっと状況が変わる)

 クルトとラースは、一つ違いの兄弟。且つこの国では、世継ぎは生まれた順ではなく能力で決められる。ゆえに、臣下達は争うのだ。三人の王子のうち誰が次の王にふさわしいか、多くは国と民のためではなく、自分たちの将来の利益のために。

 普段は飄々としているが、兄はかなり聡明だ。言葉の端々からそれがわかる。兄が王となるのなら、自分は全力で彼を補佐したい。

 ――兄弟で争うことなど、絶対にいやなのだ。

(だからどうしても、兄上が王太子となるにふさわしいなにかがほしい)

 それが何かまでは、クルトにはわからない。わかるのは、自分と兄が対立する可能性がずっと以前からあったことと、自分は何があってもそんな状況を望まないということだけだ。

(すまない、シアン……)

 ラルジェア一族の影響力は、大きい。加えて、シアンは精霊に愛されたゆえの強大な力と、広く深い知識を持つ者だ。そんな彼がラースを主と認めたとなれば、周囲にきっとなにがしかの変化をもたらすことはできるはず。

 そのためには……どうしても、シアンを利用しなければならない。



「シアンは、クルトが好きか?」

 初めて互いに知り合った東屋で、無心にヨウジュを食べるシアンを眺めながら、ラースはそう問いかけた。

「はい、好きです」

 そして何のてらいもなく、少年はにっこり笑う。彼の素直さをラースもまた気に入り始めているが、反面そんなところに彼も頭を悩ませている。

「お前は賢いから、ラルジェア一族と王族の関係について理解しているだろう?」

シアンは手を止めて、じっとラースを見つめ返してきた。凪いだ湖のように揺らがない双眸は、彼のすべてを見透かすかのようだ。

「俺達は、常に監視されているようなものだ。些細なことで、身の置き所がなくなったり最悪の場合は死さえあり得る、この王宮は、そんな場所だ」

 瞬きもせず自分の次の言葉を待つシアンの髪を、ふと彼はなでた。癖があって、柔らかい。

「クルトは……恐れているんだ」

 最後に触れたのはずいぶん前になる。やはり幼くてあどけなかった、小さな子供の輝く金色の髪を、彼は思い出していた。

「俺達の末の弟――レーヴィオンは、まさにその犠牲になったからな」

 ラースよりは五つ年下。本当に小さくいとけなかったあの笑顔を、突然見ることがかなわなくなったあの事件は、彼にとっても大きな衝撃だった。未だに、心の中に鮮明な傷となって残っている。きっとそれは、クルトも同じはずで。

「なあ、シアン」

 視線の高さを少年と合わせ、ラースはその肩に両手を置いた。

「手伝ってくれないか? 俺はクルトを、このままにしたくない」

「クルト様を、助けるのですか?」

 少年の言葉は思いの外静かで、ラースは目を見開いた。今更ながらに、目の前にいるのが不思議の力を持つ一族の者なのだと、実感させられた気がした。

 しかし、だからといってそれがなんなのだろう。ラースにとって、シアンは彼という存在でしかない。

「力になってくれるか?」

 立ち上がり、二色の瞳の王子はシアンに手をさしのべた。

 予言者の少年は、果汁でべたべたしている自分の手に戸惑ったようだったが、ラースが微笑むとおずおずと彼の手を取った。

「すまない。礼を言う」

 手を繋いで、二人は王宮へ足を向けた。灰色の髪と浅葱の瞳の、“天秤”と呼ばれる少年を捜さなければならない。

「手を洗ってから、心当たりに行ってみよう。何、早いに越したことはないが、焦る必要もない」

「はい」

 端から見れば、仲むつまじい兄弟のように、彼らは回廊を進んでいく。




 レーヴィオン・セイ・ドルゴール。クルトの四つ下の弟だが、母親は違う。この国の王は複数の妃を持てるのだ。ラースとクルトの母は第一王妃エリザベス、レーヴィオンの母は第二王妃ライラ。彼女はクルト達の母よりもかなり身分の低い家柄の出身で、母よりもずっと父に愛されている。クルトは何度か父とライラの姿を見かけたことがあったが、そのときの父はとても安らいだ表情をしていた。母と過ごすときには、決して見せない顔。

 容姿の美しさという点では、母は決して彼女に劣っているわけではない。母は波打つ癖の強い黒髪に緑の双眸の、凛として激しい印象の美貌の持ち主だ。対してライラは、真っ直ぐに背中に流れる金髪と、とろけるように優しい光の青い瞳を持つ儚げな女性だった。性質も、母とは対照的に控えめで柔和だと聞いた。

(私は……私達は)

 日暮れの静けさに満たされた回廊で、消えていく今日の光を見るとはなしに眺めながら、クルトはあの日のことを思い出す。きっとクルトもラースも、一生第二王妃への罪の意識を消すことはできないのだ。

「いつまでもこんなところにいると、風邪引くぞ?」

 肩に手が置かれる。顔だけでそちらを振り返り、クルトは兄を見つけた。

「兄上」

「暗い顔をしてるな。どうかしたか?」

 真っ直ぐに尋ねられ、クルトはうつむいた。再び口を開くまでにかなりかかったが、その間ラースはずっと隣で待っていてくれた。

「……私達は、もう二度とあんなことを繰り返してはいけないんです」

「……」

「レーヴィオンと同じことが、私にも兄上にも起きてはいけないんです」

「やはり、そのことを気にしていたんだな」

 ラースの腕が、自分の頭を抱き寄せた。彼の肩に額をつけて、クルトは唇を強く噛みしめた。

 二年前。クルトは十二歳でラースは十三、そして……レーヴィオンは八歳だった。小さな弟は、自分と兄達の母同士の確執などもちろん知らず、クルトにもラースにも懐いていた。彼らも、少女のように愛らしく素直な弟を好きだった。

 なのに。

「私がレーヴィオンを愛していても、弟として大切に想っていても……どうにもできなかった……!」

 表向き、レーヴィオンは病弱なために辺境で療養しているということになっている。しかし、クルトもラースも、真実を知っている。レーヴィオンは、毒を盛られたのだ。

 今でも記憶は鮮明だ。常になく取り乱し泣き叫ぶライラ、彼女をなだめようとする父と……その影でほくそ笑む、勝ち誇ったような母の顔。

 彼らはまだ今よりずっと子供だったが、事実を探るための方法は知っていた。はっきりとそれを明らかにせずとも、それを彼らにほのめかすことで将来的に彼らの寵を得ようとする者は多かった。彼らはそんな者達に、婉曲に尋ねるだけでよかったのだ。

 そして明らかになったのは、彼らがうすうす感づいていながらも、可能ならば打ち消したかった真実だった。

(母上は……やはりレーヴィオンに毒を飲ませていた!)

 息子達の王位継承権を確実にするためと、そして大部分は、彼女自身の第二王妃への嫉妬のために。小さな王子に飲ませた毒が致死量に足りなかったのは、警告のつもりだったという。結果、レーヴィオンはそのまま王宮から去り、ライラはその心労がたたったのか、あのとき以来部屋に閉じこもりがちになってしまった。彼女自身も病がちになったのだと聞く。クルトの耳には、彼女に関する情報があまり入ってこない。彼自身も、怖くて後ろめたくて、積極的に彼女の周囲の状況を知ろうと思えない。

 あの日の事件は、クルトの傷だ。そして同時に、罪でもある。忘れてはいけない、二度と同じことを繰り返してはいけない。

「そのために……シアンは、兄上の傍にいなければ」

 兄の世継ぎとしての地位を確固たるものにすれば、誰も何も言えなくなるくらいに、不動のものにできれば。この先に現実となる可能性のある、嫉妬ではなく欲望が引き起こす災いを、防ぐことができるかもしれないと思ったのだ。

 しかし。

「シアンを、駆け引きの道具にするのか?」

 静かだったが鋭く問いかけられて、クルトは言葉に詰まった。

 彼にもわかっていた。いくら名目を探しても、結局自分がしようとしているのはそういうことだ。

「お前は、本当にそれを望むのか?」

「っ、いやに決まっています。ですが兄上、私は、」

「他人の意思で運命を左右される屈辱を、レーヴィオンと同じ想いを、あの子に味わわせる気なのか?」

 決定的に、心に刃が刺さる。

 今度こそ、クルトは完全に絶句した。無意識のうちに、しっかりと兄にしがみつく。がたがたと震え出す自分と、そう変わらないまだ華奢な身体は、対照的に少しも揺らがない。

「あの子は――シアンは、お前を好きだと言っていた」

 背中を軽く叩いてくれる手と、落ち着いた声がクルトを包み込む。

「それに応えるのは、何も悪いことじゃない。だから、無理はしなくていいんだ、クルト」

 すとん、と。

 何かがどこかへ落ちていった。そして、身体も心も、軽くなったような気がした。

「兄上、私は……」

「そこにシアンがきている」

 クルトがすべて言い終える前に、ラースは抱擁を解いて彼の背中を押した。いつのまにか目の前に、小さな黒髪の子供が立っていて、クルトは瞠目する。

「クルト様」

 シアンは、微笑んでいた。優しくて深みがあって、透明な笑顔。

「僕は、お父さんからいろいろな話を聞きました。王子様達の<生誕の予言>のことも、他にもたくさん」

 やや舌っ足らずな、しかし不可思議な音律で以て、少年は語った。

「ずっと僕は、ここに連れてきてもらえるのを楽しみにしていました。お父さんと同じように、王様になる人をお手伝いできたらと、ずっと思っていました。“剣”の王子様にも、“天秤”の王子様にも、それから“翼”の王子様にも、とてもとても会いたかった」

「シアン……」

「クルト様」

 シアンは、一歩前に踏み出した。ゆっくりとクルトのほうに近づいて、彼ははっきりとそれを言葉にした。

「“鞘から抜かれぬ気高き剣(つるぎ)”ラース・リステル・ドルゴール様を、僕はずっとお手伝いいたします」

 すでに彼は、ただの子供ではなかった。神秘の空気を身に纏うその姿は、幼くとも確かに予言者。その意味は“言の葉を与える者”――与言者。

「そして、“均衡を守る高潔なる天秤”クルト・ナル・ドルゴール様」

 凪いだ湖の瞳でひたと見つめられ、クルトは自然背筋を伸ばす。今やっと真っ直ぐに、シアンの視線を受け止めることができた。

 少年は、彼に向き直り、流れるような動きで膝をつき頭を垂れた。ラルジェアの者のこの行為は、生涯の忠誠の証だ。

「あなたがその願いを抱き続ける限り、シアン・ラルジェアはあなたにお仕えいたします」

 均衡を守り、平和を願う限り。

 クルトは、目を閉じた。一瞬のち、露わになった浅葱の双眸は、ただ強い。

「ありがとう、シアン」

 強引に人の気持ちを変えることなど、できはしないのだ。まして、何者にも束縛されない神秘の一族ならば、なおさらクルトにそんなことは許されていなかった。自分が過ちを犯しかけていたこと、それに気づかせてくれた兄とシアンに、クルトは心から感謝していた。

(そう、無理に変えさせようとしては、いけなかった……)

 兄との関係を悪化させないようにと、それだけを考えていた。忘れてはいけない大切なことだったのに。

「兄上」

 変化は、様々な方法で起こすことができるものだ。

 クルトも、シアンと同じように兄の前に跪いた。

「クルト・ナル・ドルゴールは生涯、我が兄ラース・リステル・ドルゴールのために尽力いたします」

 立会人もいない。何の効力も持たない誓言かもしれない。けれど、クルトは強い決意の籠もった目で、ひたと兄を見すえていた。

 ラースの二色の瞳が、柔らかくそれを受け止める。闇の漆黒と、夏の新緑――あたかもそれは、静寂と、躍動する力。

「二人の心、確かに預かった」

 ラースは、それだけをしか言わなかった。だが短い言葉の中に万感の想いを確かに感じ取り、クルトは再度頭を下げた。視界の端に、揺れる黒髪がちらりと映って、彼は微笑んだ。




 先触れは出しておいたが、父王はラースの突然の私室への訪問に驚いていたようだった。一通り挨拶してから、彼は父の前の椅子に座った。

「用件を聞こうか、ラースよ」

「はい。――先だっての、東方リーヴァンの治水工事の件をマルクから聞き及び、その際に思いついたことを、父上と話し合いたいと思いまして」

「ラース、お前はまだ十八の成人を迎えておらぬのだぞ?」

「承知しております。ゆえに議会への参加資格を持たぬ私は、こうして直接父上をお訪ねるしかなかったのです」

 これは、布石だ。

 クルトの願いは、自分の願いでもある。他人の思惑で、自分たちが犠牲にされるいわれはない。

 これからも、彼はこのように父に意見をぶつけていくつもりだった。それが若輩者の浅知恵と笑われても、問題ではない。むしろそれは当たり前なのだから。政治や国内の出来事に意欲的であるという姿勢を見せられれば、今はそれでいい。

 鞘に収まっていた刃を、ラースはまさに抜き放とうとしているのだ。




 アルヴァンテス大陸は一年を通して温暖であるが、四季の別はある。秋の中に冬の匂いを感じるようになったと、散策しているうちにやや冷たくなってしまった指先を軽く握りこみながら、クルトは思った。

「お寒いですか?」

 柔らかな声で問われて、クルトは傍らを振り向く。静かな瞳の予言者の少年が、彼に手袋を差し出していた。

「持ってきていてよかったでしょう?」

「そうだな。予言者殿の言葉は、これからもっと大切にすることにしよう」

「そうしてください」

 軽口めいたやりとりは、すでに当たり前のものになっている。シアンはもう二年、クルトの従者として王宮で生活しているが、彼らの間柄は主従よりも友人同士に近い。あのとき、今よりも子供だった自分の浅はかな考えに彼を巻き込まずによかったと、クルトは心底思う。

 二年の間に、クルトは背も伸び声も低くなった。すでにマルクに教えを請うことはなく、自ら積極的に知識を求めるようになった。シアンも身長はクルトに追いついてきたが、華奢な体つきは同じまま。薬草などの医に関する学問は今も続けている。

 そして、一番変化が劇的だったのは、ラースだ。

 あの日の翌日、ラースはなんと、クルトとシアンを伴って第二王妃を訪ねたのだ。小柄で儚げな美しい女性は、驚きつつも彼らを笑顔で迎えた。それがクルトには心底意外だったのだが、彼女と過ごすうちにその理由を納得できなくもなかった。

 彼女はとても、優しい人なのだ。そして聡明で、あの事件において本当に憎むべき対象をしっかりと理解していた。

『わたくしの息子は、人の欲に害されたのです』

 長い金の髪を緩く結わえ、寝台に半身を起こした姿勢でライラはクルト達と話した。それほどに彼女は病がちなのだと胸が痛くなったが、それでも彼女は凛としていた。

『けれど、わたくしはあの子を信じています。だからあの子がこの先自分のことでどんな選択をしようと、それを否定したりはいたしません。――そして同じように、あなた方があの子を愛しんでくださったことを、信じてもおります』

 彼女のその言葉と、共にもたらされた奇跡のような微笑を、きっとクルトは忘れない。

 それからラースは、様々なことを行った。クルトも傍で感じたのは、彼の学問分野における成績が、急激に伸びたということだった。それをマルクは、「これまで本気で取り組んでおられなかっただけ」と表現したが、確かにそうなのだろう。薄々、クルトも兄が本気になることはとても少ないのだと、以前から気づいていた。

 しかし、その兄の『本気』は、はっきりいって恐ろしかった。未だ彼は成人しておらず会議への出席資格はないが、それでもこの二年の間に、彼が内々に考え出した新政策がいくつか実現に向けて着々と進んでいることは、すでに公然の秘密だ。

 そんな事実を見せつけられるたび、“鞘から抜かれぬ剣”という彼の<生誕の予言>の意味を、クルトはひしひしと感じずにはいられない。一度抜き放たれてしまえば、その閃きと力は人を圧倒する。けれど普段は鞘の中で、人を傷つけないように眠っている気高き刃。

 クルトは、兄を心から尊敬している。

「おーい、クルトにシアン!」

 二人が庭から回廊に上がったとき、ラースが遠くから彼らを呼んだ。長い廊下の向こうから走ってくる彼を、二人は柔らかい表情で待っていた。

 日の加減で、彼の黒灰色の髪には光の環がかかっているかのよう。二色の瞳には知性と落ち着きが垣間見えるが、楽しげな輝きも強い。美しい王子のそんなところが、不思議な魅力となって誰もが彼に惹きつけられずにはいられない。

「いい知らせだ、クルト」

 このときのラースは、常よりもいっそう明るく笑い、秘密を隠す子供のようだった。彼からもたらされた知らせに、次の瞬間クルトは心底驚かされた。

「それは……本当なのですか?」

「嘘をついてもしかたなかろう? 父上から聞いた話だぞ、間違いなく本当だ」

 クルトは、喜びをもてあまして深く息を吸い込んだ。すぐには信じられないが、それが事実であればこの上なく嬉しい。

 ――弟が、レーヴィオンが、帰ってくる。

「よかったですね、クルト様、ラース様。僕も、早くお会いしたいな」

 シアンにうなずき、クルトはラースと視線を交わした。兄も同じ気持ちでいることが、伝わってくる。

 今度こそ、守りたい者を守る。

 冷たいけれど豊壌の気配をも孕む秋の風に、クルトは目を細めた。











相互リンク記念で「ひかりの空」の亜希様に

送りつけた、無駄に長い話……(汗)。前半が

……。ラース兄さんは、構想自体は高校時代

から会ったものの、ここに至るまでまったく書いたことの

なかった人です。いやぁ、色の違う瞳っていいですねぇ。

がんばって立派な王様になってください。

亜希様、これからもよろしくお願いします。




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