その、優しい手





 閉館を告げる鐘を聞いて、初めてサーラは顔を上げた。道理で視界が悪くなってきたはずだった。もう夕刻だ。早く寮へ戻って荷物を置いて、急いで夕食をすませなければならない。そして、そのあとまた勉強再開だ。

 頬へ落ちてくる癖の強い栗色の髪を心底じゃまくさそうに耳に挟む少女は、アルフォート学院に入学してから半年あまり、長期の夏休暇が終わり新しい学期が始まってもずっとそんなことばかり考えている。

 今日は週末の始まり、ほとんどの学生が外出するという。だがサーラは、学院の外にある<学生街>の文房具店くらいしか行ったことがない。授業のない休日は、一日中図書館か寮の部屋で勉強している。休みの日だと、同室の相手も出かけてしまうので、存分に勉強に集中できるのだ。

「あっ」

「もしかして、あの子が?」

 そんなささやきをつい耳が拾ってしまい、サーラは真っ赤になってうつむき、早足になる。半年以上経って少し収まったとはいえ、学園は生徒数が多い。未だふとした瞬間にサーラを見てひそひそと物珍しげに話す声を聞く。

 サーラは、まだ十三歳だ。アルフォート学院は、特に入学時の年齢というものを設定していない。試験に合格すれば、誰でも入学できるのだ。サーラは去年、寝る間も惜しんで必死に勉強し、入学資格を得たのだ。しかし、彼女くらいの年齢での受験及び入学は学校始まって以来のことで、彼女は学院内での有名人の一人になってしまったのだった。

 誇ってもいいことだと、夏休暇で帰省した時父は言ってくれた。サーラも、そう思っている。自分の努力が認められた証なのだと。だが、どちらかというと内気な彼女は自分が注目されていることがいたたまれない。同じ一年生でも十五、六歳がほとんどで、彼女達はサーラに対してどこかぎこちない。サーラも、年上の彼女達にどう接していいかわからない。

 友人を作れなかった小さな少女は、だからますます勉学に打ち込むのだ。




「なぁ、教えてくれよレヴィン〜〜〜」

「ジェスさん! 何やってるんですか!」

 ごろごろと甘えた声でねだっていた最中に、ジェスがもっとも会いたくなかった相手が、ものすごい形相で部屋に駆け込んできた。ちっと舌打ちして、彼は今にもつかみかからんばかりの不思議な髪の青年にともかく状況をわかってもらうことにした。でないと、問答無用でたたき出されそうな気がする。

「宿題で、わかんねぇところがあったから、レヴィンに教えてもらおうと思ってきたんだよ。あ、セディでもいいぜ。教えてくれよ」

「何を言ってるんですか! 課題は自分でやらないと力にならないんですよ!」

「やりたくてもやりかたわかんねぇんだって。俺、どうも苦手でさ。この魔術ってやつ」

 魔術、の一言でセディはぴたりと言葉を飲み込んだ。レヴィンは苦笑して、そんな二人の友人を眺めている。

 魔術というのは、今は失われつつある古代の技術で、自然界の力を行使するための技だ。ここレイス大陸のマジェス皇国では先代の皇帝がその技と知識に着目し、七十年前に世界初となる国立の学術機関――アルフォート学院を設立し、これも世界で初めて魔術というものを学問として見直し、その知識の研究を進めさせるようになったのだ。おかげで、はじめは危険視されていた神秘の力も、少しずつ一つの技術として見直され始めている。

「セディ、基本的な理論くらいならいいだろう? それが理解できれば、あとは応用も簡単になるし――」

「………レヴィン様が、そうおっしゃるのでしたら」

 どこがわからないんですか、と自分の机にどっかと座りながらセディは憮然と訊いてきて、ジェスは満面の笑みでテキストを指し示す。これで明日万一教授に当てられても、答えに窮して立たされることはないわけだ。

(何せ、魔術先進国のドルゴール王国出身だからな、この二人)

 南のアルヴァンテス大陸を治めるドルゴール王国は、古くから魔術を操り発展し、国民もまた強い魔力を先天的に有するものが多かった。そのためアルフォート学院にはドルゴールからの魔術の教授が多く、留学生も毎年やってくる。学院側も積極的に南からの学生や研究者を受け入れていた。

 レヴィンことレーヴィオン・ファルガードとその従者で幼なじみというセディ・サシュフォードもそんな中の一人なのだろうとジェスは思う。詳しいことは知らないけれど。

 レヴィンは十人が見れば十人全員が振り向き、一生忘れることができないだろうというほどに、美しい青年だ。襟足までの金色の髪はつややかで、穏やかに笑みをたたえる双眸は深い蒼。唇はやや薄く、しかしほんのりと薄い紅色。神が彼を生む時には細心の注意と芸術的な技術と感性を以て、精魂を込めたに違いない。ただし、レヴィン自身はそんな己の美貌にはまったく無頓着で、いつも従者のセディのほうがよほど神経質になるのだった。

 そんな二人と知り合ったのは、先月始めにジェスの恋人リティが巻き込まれた、とある小さな事件がきっかけだった。二人ともジェスとリティの一つ上の学年だが、あまり先輩ということは意識していない。レヴィンはどこか浮世離れしているというか、おっとりとした性格で、セディはセディでなぜかジェス達にも敬語を使ってくるので、そのせいもあるのかもしれない。ともかく、知り合ってから変わらずジェスもリティも、レヴィン達と親しい関係を続けている。

「じゃ、僕が手伝います。レヴィン様、お先に行っていてください」

「お、何? どっか行くのかレヴィン?」

「ああ」

 レヴィンの表情も声音も穏やかなままだったが、ジェスは気まずくて頭を掻いた。

「……邪魔して悪かったな。やっぱ俺、一人で何とかする」

「いや。私用だから。それに少し遅れるかもしれないとおっしゃっておられたし」

 飛び出した敬語に目をぱちぱちさせるジェスに、セディが補足して説明してくれた。

「今日は、レヴィン様の兄上のクルト様にお会いするんです。クルト様はユージィン教授の助手をなさっておいでなので、なかなかご都合がつかないんです」

「そうなのか。レヴィンの兄さんかぁ……」

 やはり、ものすごい美形なのだろうか。少し興味がわいてくるジェスだった。

「でも助手って、あんまり俺らみたいなただの学生だと会うことないよな」

 アルフォート学院では、基本の三年間の課程を終えても希望すればその上の学究機関に進むことができる。もちろん試験が必要だが、それに合格すると研究員になれる。その課程で三年間研究に励み、論文を提出すると修了資格が得られる。助手は研究員を終わってから自分の研究分野の教授について勉強している者のことで、ゆくゆくは教授資格を会得できる。もちろん、試験と論文が必要だが。

 つまり、ジェスのようなどちらかというと落ちこぼれという部類に入ってしまう勉強嫌いには、想像を絶する存在だった。

「どんな人なんだ?」

「優秀な方ですよ。研究員の論文は教授方に絶賛されたとか。レヴィン様より四つ年上でいらっしゃいます」

「お優しくて、穏やかで、聡明な方だ。故郷でも兄上を信頼し支持する声は高い。俺もその一人だがな」

「へええ」

 ますます興味がわいてくる。兄を語るレヴィンの表情も声も、とても幸せそうで誇らしげだった。心から兄を好いているのだろう。それが伝わってきて、ジェスまで嬉しい気持ちになる。

「そうだ、ジェスも来るか? きっと兄上も喜んでくださる」

「え! い、いいよ。久しぶりなんだろ? 邪魔したら悪いし」

「かまわない。それに、俺も友人を紹介したいんだ」

 ――友人。

 ジェスは硬直し、頭が一瞬真っ白になった。何気ない一言だったはずなのに、レヴィンの言葉がわんわんと余韻を残して響く。

「もちろん、ジェスが迷惑なら強制はしないが……」

「え!? いやっ! ぜんぜん大丈夫! レヴィンの兄さんに会えるんならすっげぇ嬉しい!」

 あわててうなずくと、レヴィンだけでなくセディにまで笑われてしまった。

 この綺麗で不思議な人に言われたから、とても嬉しかったのだ。なぜかレヴィンの言葉なら、心からのものなのだと素直に思えるのだ。




 魔術というものは大嫌いだ。エルネイスに敵対し、千に切り刻まれ大地の礎となった闇の神ネルフィードに属する力だから。サーラは子供の頃から熱心なエルネイス教の信者として育てられた。それが、国内唯一魔術を学問として扱っているアルフォート学院に入学したのは、学院が国立であり授業料などの費用が格段に安かったからだった。

 サーラの両親は、彼女が幼い頃祖国を追われこのレイス大陸に逃げてきた。姉と彼女も一緒に海を渡った。レイス大陸の西ラジェーン大陸の記憶は当時五歳だった彼女にはほとんどないが、辛かったという思いだけは鮮明に残っている。

 文化も風土も違うレイス大陸で、何も持たない状態で両親は必死で働いた。だが貴族だった彼らには労働は酷だった。やがて父は病に倒れた。

 これはサーラが成長するに従ってわかったことだったが、両親は祖国で陰謀に巻き込まれ、身分を剥奪され追放されたのだった。そのためにマジェス皇国の皇帝に面会も叶わず、庶民の中に紛れて暮らさなければならなかった。証拠がない以上、サーラ達家族は罪人だった。

 だが、唯一故郷と同じくレイス大陸を守る神エルネイスに必死に祈ったからだろうか。マジェス皇帝はサーラ達に救いの手をさしのべてくれた。陰謀を図り両親を貶めた者達の罪が発覚し、亡命したサーラ達一家の捜索を祖国のほうから依頼してきたというのだった。サーラは十歳になっていた。

 病が治っていなかった父をおもんばかって、皇帝は発見の報告だけをさせ、一家は屋敷を与えられ国賓の待遇で暮らすことを許された。そのうち美貌で謳われたサーラの姉は、マジェスの貴族の若者に見初められ、恋に落ちた。少し寂しかったが、サーラも祝福した。しかし、そんな中突然両親は、サーラにこの国の貴族のもとに養女として入るようにと言い出したのだった。

 もちろん、サーラはうなずかなかった。父はこんこんと彼女を諭した。――自分の病状は快方に向かっているが、マジェスの国力は遙かに祖国よりも勝っている。優れた知識と教養を身につけなさい。養女となればいつか我々が帰国することになってもお前はこの国に居続けることができるのだ。

 結果、サーラは父の熱意と愛情を理解し、マジェス皇国のウイニス伯爵家の養女となった。子供のいない老夫婦がサーラを愛して育ててくれているのがわかるし、サーラも彼らを敬愛しているが、甘えてはいけないとも思っている。だから、学校を選ぶ基準はまず費用を念頭に置いたのだった。

(魔術なんて……)

 どうして学ばなければならないのかわからない。マジェス皇国は農業・工芸・その他の技術がずば抜けて発展しているとサーラは思う。そんな中、なぜ今魔術を研究する必要があるのか。第一国教であるエルネイス教の教義で禁じられているのだから、むしろ滅ぼすべきなのだ。それでも単位を落とせば落第してしまうから、勉強するしかない。憎らしいことに、魔術は卒業必修科目なのだった。

「あっ……いけない」

 我に返ったサーラは、足を止めた。考え事をしていて、七号校舎まで来てしまっていた。七号校舎は主に教授や研究員のための棟だ。

 きびすを返そうとして、後ろから来た誰かにぶつかってしまう。

「あっ!」

「ごめんなさい。大丈夫ですか?」

 落ちてしまった勉強道具を拾おうとしたサーラの手は、相手の声を聞いて止まった。とても静かで揺らぎのない、不思議な音律だった。思わず顔を上げて、そこにあった相手の瞳に息をのむ。

 色素の薄い、透明なほどの青。凪いだ湖を思わせる。こんな静かなまなざしに出会ったことは、生まれてから一度もない。人の瞳には、どんなに些細でも感情が表れていつもたゆたっているはずなのに。

「これ、教科書。どこか汚れているところはない?」

「……あっ! ええと……っ。た、たぶん大丈夫です」

 その声に聞き惚れてしまって、サーラはうろたえた。ずっと聞いていたいと思ってしまうのだ、この青い瞳の青年の声は。

 二十歳ほどだろうか。頭に添う長さの黒い髪には、やや癖がある。優しげに微笑む面差しは、性別を感じさせない。背は高いほうだが、教科書を差し出す手も足も驚くほど華奢な印象を見る者に与える。

「君は、一般課程の学生?」

 一般課程とは、サーラ達のような学生のことだ。研究員や助手、つまり七号校舎で学ぶものは、学生をこう呼ぶのだと言うことを彼女は知っていた。教授達がたまに口にするからだ。

「は、はい」

「誰かに会いに来たの?」

「いえ……あの……考え事をしていたらいつの間にか……」

 口ごもるサーラに、安心させるように青年は微笑みかけた。

「じゃあ、これから戻るんだね。よければ、少し一緒にいてもいい?」

「えっ!?」

「僕も学生寮に用事があるから、その近くまで」

 サーラは人見知りをするほうだ。初対面の、しかもぶつかっただけという相手にここまで親しげに振る舞うなどとは、信じがたいことだった。仮に彼以外の誰かに同じことを言われたら、絶対に断ったはずだ。

 なぜか、もっとこの青年と話をしてみたいと思ったのだった。これも普段の彼女からしてみれば、破格のことだった。果たして、こくりと首を縦にふったサーラに、心底からの微笑を青年は向けた。

「ありがとう。僕はシアン・ラルジェア。君は?」

「……サーラです」

 姓を隠したのは、いつものような反応をしてほしくなかったからだ。シアンはぎこちないサーラの自己紹介にも、何も言わなかった。

「学校のほうに行くの、久しぶりだな。先週は行けなかったから」

 穏やかに、ゆっくりとシアンは話す。不思議なほど、彼からは流れや動というものを感じない。ずっと走ってきた感のあるサーラは、そんな彼のことを好もしいと思った。

「サーラさんは、出かけなかったの? 今日はお休みなのに」

「……勉強してたから。特にすることもないし」

「ずっと勉強をしていたの?」

「ええ」

「そう。だから疲れた顔をしていたんだね」

 突然そんなことを言われて、サーラは言葉を失う。シアンは柔らかく続けた。

「何もしないことも、時には必要だよ。よけいなことかもしれないけれど、たまには緑のそばでゆっくりしたほうがいいよ」

 シアンに言われると、そうかもしれないと思う。サーラは素直にはいと答えた。シアンは、首をわずかに傾けて「僕は薬師だから」と付け足した。

「薬とか、病気のことを研究しているから、そういうことが気になって」

「熱心なんですね」

 この人なら、きっと病気だけでなく心も癒すことができるだろう。サーラははにかんだ笑みを浮かべた。

「明日は、少し休むことにします」

「うん。それがいいね」

 幼子のように無邪気で、優しくて賢くて不思議な空気を纏う青年は、サーラが学院で得た初めての友人となった。









シアンに癒されました(笑)。常々癒し系といわれていましたが、

こんなにも癒し系だったとは今まで自覚してませんでした。

すごいネ! シアン(おい)!

実は、「金の王子様」のキャラも含め、

学院にテロリストが乱入する話というのも

書いたことがありました。この通り、平和な

学園ものに落ち着きましたが、結果としては

今のほうが好きです。








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