紺碧にまたたく金色を見上げる。冷たい外気が頬を刺して痛かった。けれどそれがなんとなく気持ち良かった。ひっそりとした公園のベンチ。クリーム色の塗装と、買ったばかりの真っ白いコート。
「りんごみたい」
微笑を浮かべながら、裕也が隣でそう言った。
「詩織のほっぺ」
「えっほんとに?」
慌てて両手で頬をくるんだ。手袋がふわりとあったかい。クリスマスに裕也からもらった、赤い手袋。
「やだなぁ。あたしね、冬になるとすぐに頬が赤くなるんだ」
「うん知ってる。可愛いよ」
にこりと笑って紡がれる言葉に、あたしの頬は別の意味で赤くなってしまう。やだな、せっかく桃色のチークをつけてきたのに。ムダになっちゃうよ。
卒業式が終わって、先に帰宅したあたしたち2年生とは違い、裕也たち3年生は友達とのひとときを夜がふけるまで過ごしていた。同じ学生服で笑い合える、最後のひととき。あたしは隣に座る裕也をじっと見つめた。
真っ黒の学ラン。すらりとした長身に良く似合う。この姿を見るのはもう今日で最後なんだ。そう思うと、胸が痛む。昨日もその前もそのまた前も、同じことを思っては、胸の痛みを繰り返してきた。
裕也は、4月になったら遠くへ行く。東京の大学に進学する。新幹線でも4時間かかる遠いところに。
行ってしまう。
「詩織」
名前を呼ばれて、顔を上げた。その動作で自分がいつのまにかうつむいていていた事に気づいた。裕也の優しい目とかち合う。
「ゆー」
呼びかけて、その声があったかいくちびるにふさがれた。
やわらかい裕也のくちびるは、熱いかあったかいかのどちらかだ。熱いのは怒りや喜びの、激しい感情をぶつけてくる時。あったかいのは……なんだろう。すごく心が優しい時、かな。
でもいつも少し不安になる。だってそういう風に感じるってことは、あたしのくちびるが裕也のより冷たいってことだから。だったら裕也にとって、あたしのくちびるはひやりと冷えてる感じなのかもしれない。
そんなのはいやだな。だって裕也はもうすぐ遠くに行っちゃうのに。キスの思い出が冷たいなんて、やだよ。
くちびるが離れて、そのまま頬にキスされた。抱きしめられる腕の中で、安心感と不安がないまぜになりながら、あたしは思わずつぶやいた。
「ねえ裕也。あたしのくちびるって冷たい?」
「なに。どうしたの急に」
胸越しに、直に伝わる裕也の声。苦笑してるみたいなその響きに、あたしはなんだか恥ずかしくなって首を振った。
「な、なんでもない。ごめん」
「どうだったかな。冷たかったかな。忘れちゃったから、もう1回していい?」
「え、」
反応する間もなく、もう一度裕也の唇が押しあてられる。やわらかくて優しくて、さっきよりも少しだけ深い。
抱きしめる腕。それがどうしようもなく心地よくて、あたしはもう、一生このままここにいてもいいと思ってしまう。目を閉じて、裕也以外なにも感じずに、ずっとこのまま。
「……やわらかいよ」
くちびるをそっと離して、両目を優しくゆるませて、裕也はささやくように言う。
「すごく気持ちいい」
「…ばか」
また顔が赤くなってしまう。嬉しいのに、嬉しいんだけど、恥ずかしくてどうにもならない。赤い顔を見せたくなくてうつむくあたしを、裕也はもう1度抱きしめた。
その優しい腕に、泣きたくなる。もうすぐいなくなってしまう腕。いつも一番近くにいたのに。
裕也が隣にいなくて、あたしはこれからどうやって歩けばいいんだろう。テストの点が悪かった時は? 友達とケンカした時は? 先生に怒られた時は?
落ち込んだ時、どうやって元気を取り戻せばいいんだろう。悲しい時ひとりきりでいた記憶が、2年前から全然ない。
ただの先輩と後輩として裕也と出会った時から、1度もなかったのに。
そう思うと、ざわりとした焦燥感に胸が掻き回された。行ってしまうんだ。この腕が、まなざしが、声が、遠くへ。
「……裕也」
言っちゃだめだ。
そう思うのに、とめられなかった。
「やっぱり、東京行っちゃうの」
「……。どうして?」
やんわりと聞き返す裕也の声は、いつもと変わらない。
あたしは胸に顔をうずめたまま、裕也の制服をぎゅっとつかんだ。
「行ってほしくないよ」
ぽつりと落とした言葉に、裕也は沈黙する。
その沈黙に耐えきれなくて、あたしは顔を上げた。
「ねえ裕也。もしあたしが行かないでって言ったら、どうする?」
茶色っぽい裕也の目が、わずかに見開かれた。
冷たい空気に白い息が舞う。あたしは今まで1度も言わなかった。東京の大学を受けると裕也から聞いた時も、合格の知らせが届いた時も。
がんばってね、おめでとう、よかったね。そういう言葉だけで。もちろんそれも本音だったけれど、やっぱり心の奥底は別の場所にある。
ああでも、こんなことを言ってしまって、きっと裕也は今呆れてるかな。今更何を言ってるんだって、怒っちゃうかな。
でもだって、今、すごく実感したから。裕也がいなくなるってことを。
今が冬だからかな。夜だから? 寒いから。今日が卒業式で、別れと旅立ちの日で、そういう日に裕也が2回もキスしてくれたから。
裕也は怒るかな。今のあたしの顔は、裕也にはどう映ってるんだろう。わがままで、すがりついてるみたいで、みっともない女の子。そんなのいやだ。
でも。
「行かないよ」
ふいに、ふわりと裕也が微笑んだ。
このひとはいつも、どうしてこんなに優しく笑えるんだろう。それに目を奪われたから、言葉の内容を理解するのに一拍遅れた。
「詩織が行かないでって言うなら、行かない」
あたしの髪をなでながら裕也が言う。呆然と、その優しい目を見つめていた。
そうしてそれから、じわじわと胸の奥から熱い塊が昇ってきて、あたしは顔を歪めた。視界がぼやけて2重になる。
ずるいよ。
そんなこと、言うなんて。
「じゃあ、あたし、言っちゃうよ? 何回でも言っちゃうよ。行かないでって。裕也、遠くになんて行かないでって。一晩中でも、ずっと、言い続けるよ?」
「うんいいよ。何度でも」
裕也があたしもう1度引き寄せる。真っ黒の学ラン。学校のにおいと、裕也のにおい。
いつも、一緒にいた。
「行かないで裕也。そばにいて」
「うん」
大きな手が髪をなでる。耳元に優しい声。
あたしはそのまま、たぶん30分くらい、泣きながらずっと裕也にそう言い続けていた。
紺碧の空からいつのまにか雪が降っていた。星と月は隠れて、それでも公園の電燈はあかるくて、裕也の腕の中はあったかくて優しくて、あたしはただ胸の痛みを涙に変えながら赤い手袋で学ランを強く握っていた。
「……ごめんね。ゆーや」
ひとしきり泣いて、涙もだんだん出なくなって声が途切れて沈黙が流れたのち、あたしはそっと裕也から体を離した。
裕也の、優しい両目を見上げる。あたしは微笑んだ。笑うことができた。心の奥底がすっきりしていた。あかるくなったような感じだった。今は雲に隠れた星と月みたいに。
雪が降って、黒い学ランの肩にふわりと落ちる。くしゃりと崩れそうな、繊細な雪のかけら。
「がんばってね。東京」
あたしの言葉に、裕也が目を丸くする。
「あれっ。さっきと言うことが全然違うじゃないか、詩織」
「違ってもいいの」
やっぱりまだ、胸の痛みは残るけど、さっきまでのようなどうしようもない孤独感と焦燥感はない。
裕也が受けとめてくれたからだ。きっと。
あたしは体の向きを正面に戻し、夜空を見上げた。
「白いね。雪」
「昼間に見上げると、ねずみ色なのにな」
「ありがとう裕也。行かないって言ってくれて」
裕也に視線を戻し、微笑みながらあたしは言った。裕也は苦笑する。
「お礼を言われるなんて、変な感じだな」
「だって本気じゃなかったでしょ。行かないって。あたしを元気づけるためにわざとそう言ってくれたんでしょ?」
「なるほど、そうとるか」
「ちがうの?」
「まあでも、オレもそんなに強くないからさ」
答えを濁して裕也は微笑んだ。裕也がこういう喋り方をする時は、本音を言ってる時だ。
そっか。裕也もさみしいんだ。
胸がまた小さく痛んだ。それとともに、感じたことのないあたたかいものがじわりと広がった。
裕也もさみしくて、あたしもさみしい。それならちゃんとやっていける気がする。頑張れる気がする。
「ねえ裕也。週末、たくさん帰ってきてね」
「電話もするよ。メールもする」
「あたしもおこづかい貯まったら遊びに行くね」
「うん。いつでもおいで」
雪が降る。
うっすらと、クリーム色のベンチに白い綿が積もり始める。
空は黒くて、息が白くて、誰もいない公園はさみしそうで、けれどいつもよりしっとりとしていて優しかった。
もう1度、くちびるが触れた。
裕也の膝の上で手と手をつないだ。互いの右手と左手に。
優しいさみしさと、あたたかい心を伝えるように。
「ひかりの空」の亜希様に書いていただいた
小説です。どうですか奥様(誰)。私には地球から土星を往復しても
書けない、青春現代学園もの恋愛物語ですよ。
目の前に光景が浮かぶ、本当に身近な感じのする
お話です。純情カップル……いいなぁ。
心洗われ目から鱗が落ちたエルスでした。
亜希さん、本当にありがとうございました。改めまして
これからもよろしくお願いいたします。