虹の彼方に

 

 

 

 小さく愛らしい泉に住む乙女は、幸福そうにいつも微笑んでいた。けれどその心が錆びた虹色であることを、青年は知っている。

 柔らかい木漏れ日の射す森の中。水色の髪を背に流し、乙女は泉の縁に腰かけていた。水面を見つめ、何かを小さく口ずさんでいる。今の人間にはわからない言葉で、そして人間には持ち得ない美しい声で旋律を紡ぐ。

「……ああ。だめね」

 不意に歌が途切れた。乙女は歌いやめたところを少しさかのぼり、繰り返したがやはりそこまで行き着いたところで止まってしまう。

「そこから先は、忘れたの?」

「ええ。だめね。大好きな歌なのに」

 青年は真っ青な瞳でそんな乙女をしばし見つめていたが、その表情には柔らかく微かな笑みがあった。

「あなた、続きを知ってる? これ、人間の歌なの。知っているなら教えて」

「――あいにくだけど、私にはわからない歌だよ。君が自分で思い出すか、あきらめるかだね」

「あきらめるのはいや。意地悪ね、サージェン。ほんとは知ってるんでしょ?」

「なぜ、そう思うの?」

「だって、あなたはラルジェアの子じゃない」

 サージェン・ラルジェアは青年の名である。ラルジェアというのはこの地に古くから住む予言者一族だ。その存在を、このアルヴァンテス大陸で知らない者はいない。その豊富な知識と予言の力を人間に尊敬され、精霊達への深い理解と心根の純粋さを精霊族に愛される一族である。

 サージェンは、数日前からこの乙女とよく話すようになっていた。ラルジェアと聞くと、乙女は屈託なく彼を受け入れてくれた。乙女の言葉に耳を傾け、時には求められるまま何かを物語りながら、彼はじっと乙女の様子を見つめていた。この乙女を救うのが、彼の目的なのだ。

「ねえ。ほんとに知らないの? ラルジェアの子供達は、知らないことなんてないんじゃないの?」

 わずか数日の付き合いのうちに、乙女はサージェンに心を寄せてきている。警戒心をかけらも見せず、澄んだ水色の瞳で見上げてくる愛らしい乙女に、サージェンはますます哀れを覚えていた。

 乙女は水の精霊である。契約を決めた青年を、この場所でもう十数年待ち続けている。その開いては彼女を捨て、たくさんの子供や孫に囲まれて緩やかな老後を送っているというのに、それを知らず一途にずっとここにいる。その話を彼が知ったのは偶然だったが、彼女に真実を告げて止まってしまった時を動かすのは、自分の役目だと思った。乙女をこんな目に遭わせてしまった責任の一旦は、彼の母にもあったから。

「サージェン?」

 重ねて問われ、サージェンは苦笑した。

「私達を、神だとでも思っているのかい? <時の河>を垣間見、たくさんのことを教えられるけれど、私達とて人間なのだよ」

「そうね……。ごめんなさい。でも、あたし歌の続きがどうしても知りたいの」

「では私とともに来ればいい。森の外で、君の答えは必ず得られる」

「いや!」

 突然乙女は大声を出し、身を翻して泉に飛び込んだ。盛大に飛沫をかけられたがサージェンは微動だにせず、ざわざわと騒ぐ水面に目をやりそのまま待っていた。

「……ほんとにあなたは意地悪ね、サージェン!」

「君が頑固だからだよ」

 乙女が顔だけを外に覗かせたのは、森の中が暗くなり始めたころだった。艶やかでわずかに長めの黒髪を布で拭いていたサージェンは、くすくす笑って布を荷物の中にしまう。

「さて、今日は帰ることにしよう。また明日、訪ねてもいいかい?」

「……知らないわ」

「まだすねているのかい、ラ・フィール」

 そう呼びかけると、ますます乙女は柳眉を逆立てた。

「その呼び方、嫌い」

「でも君の名を聞くわけにはいかないだろう?」

 精霊の名を聞くこと。それは彼女たちにとっては特別なことだ。人間と精霊は、互いの名前に魔力を込めて交わし合うことにより、契約を結ぶ。契約すると、精霊はその人間を全身全霊で愛し守る。その人間が死んでも、その血の中に<祝福>と呼ばれる特別な力を注ぎ、様々な恩恵をもたらすのだ。ただし、精霊族は滅多に人の前に姿を現さない。彼女たちに好まれる、純粋で美しい心の持ち主でなければ、契約どころか会うことすらできないのだ。ゆえに精霊に愛された者――精霊術者、と呼ばれる者は非常に数少ない。

 一度心に決めた契約を果たせない泉の乙女には、特に名前を明かすのは重大なことだろう。そう考えてサージェンは、会えて彼女のことを『ラ・フィール』――古代の言葉で『娘、少女』を表す――という言葉で呼ぶのだ。

 乙女は、無言のまま再び水に潜った。

 鮮やかに蒼い瞳の予言者は、しばし彼女の残したあぶくを見つめていたが、静かにそこから去っていった。

 

 

雨が洗い流した空に

七色の橋が架かる

その向こうに愛しい君がいる

私は会いに行こう

たとえ……――――

 

「たとえ……」

 その先を、歌うことができない。旋律も詩も、浮かんでこないのだ。とても優しい、素敵な歌だったという記憶はあるのに。

「こんにちは」

 今日もまた、昼下がりの森の奥に青年がやってきた。不思議な空気を持った人だと、彼女は会う度に思う。たとえるなら、朝靄を残した海のような。

「虹の歌を、まだ歌っていたの?」

「うん……」

 乙女は曖昧にうなずいて、また歌い始める。何度も何度も、同じところで止まってまた最初から繰り返す。いつまで経っても、先へ進めない。

「『私は会いに行こう たとえ……』」

「たとえすべてを失っても」

 不意にサージェンが口を挟み、仰天した乙女は勢いよく彼を振り向いた。水がはねて、サージェンの髪が少し濡れた。

「あ、ごめんなさい」

 あわてて拭おうとした手を取られ、上向かせられた掌に何かを置かれた。それを見つめていた乙女の顔が、さっと蒼白になる。

「嘘……嘘よ!」

「事実だ。君はもう、気づいているのだろう?」

「いや……いやよ……。嘘……!?

 涙の形をしている石。かつては水の結晶だった。力を失ったこれを、創り出したのは他ならぬ乙女であった。

 とうとう泣き出してしまった乙女に手を差し伸べることもしないまま、サージェンはじっと待っていた。彼女の混乱がおさまるまで、話を聞いてもらえるまで、いつまでもここにいるつもりだった。

「……ひどい。どうしてこれを、あたしに見せるの?」

 涙で濡れた頬を、懸命に拭いながら、乙女はサージェンをなじった。石は掌の中に固く握りしめたままだ。

「君はもう、知っていたはずだ。これは君の生んだもの。そこに宿った水の魔力が消えた時点で、わかっただろう?」

「――っ!?

 一度止まった乙女の嗚咽が、また聞こえ出す。どんどん溢れる涙を手の甲でこすり、彼女は泣き続けた。

「……嫌い……。あなたなんて嫌い。ほんとに意地悪! ひどいわ!」

「それでもいいよ。君が、勇気を持ってくれれば」

「ゆう、き?」

 サージェンの手が、初めて乙女に触れた。これまでの言動とは裏腹の優しい仕草で髪をなでられ、乙女は思わず泣きやんだ。

「勇気を持たなければならない。そうして外へ出て、いろいろなものを見るといい。いろいろなことを聞いて、知るといい。彼は彼の道を選び、時を過ごした。だから君も、もういいんだよ」

「サージェン……っ!」

 もう、いいのだと。あきらめてもいいのだと。

 誰かに言われたかったのかもしれない。

 乙女はサージェンの胸に飛び込んで、声を上げて泣いた。彼の指摘は正しかった。認めるのが悲しくて、あの人が自分を裏切ったと思いたくなくて、今までずっと目を背けていただけだ。

「いやだったの、いやだったのあたし! あの人がもう来ないって、考えたくなんてなかったの!」

「そう」

「だってあたし、やっぱりあの人を好きなんだもの! あの人が約束破ったって思ったら、嫌いになっちゃうかもしれなくてそれが恐かったのよ……!」

 素朴で、彼女を美しいと言ってくれた人だった。あの人と一緒なら、楽しいと思った。そしてあの人の血の中に<祝福>を注いで、子孫達をずっと見守っていきたかった。

 それなのに、あの人は自分との約束の証を、あっさりと捨ててしまったのだ。

「君の愛した人は、自分の父親のために……大切な人のために、君の力を使ったのだよ。そして、身近な幸せを選び取った。彼はそうやって、今までを生きたのだよ」

 サージェンが背中をなでてくれる。意地悪なことを何度も言ったくせに、どうしてこんなに親切にしてくれるのだろう。慰めてくれるのだろう。彼は心から、彼女のためになろうとしてくれている。

 泣き続けて、やっと落ち着いた乙女は、サージェンに抱き締められたままぽつりと尋ねた。

「ね、サージェン。あの人……今は幸せ?」

「そうだね。大きな不幸はなかった。穏やかで平和で、緩やかな日々を送っているようだったよ」

「それって、あたしの石の力を使ったからかな?」

「君の魔力で、彼は大きな悲しみに見舞われるのを免れたのだよ」

 間接的にでも、自分はあの人を守れたのだろうか。

 それならば、少しは楽になれる。

「さて、どうしようか?」

 ややしばらくして、彼女から離れて正面から視線を合わせたサージェンが、静かに口を開く。

「私はこれから、旅に戻る。君を一緒に連れてもいける。君はどうしたい?」

 本当にこの青年は、意地の悪い言い方をする。あくまでも乙女自身に決めさせようとする。厳しくて、鮮烈で、本当の意味で優しい人なのだ。

「あたしは……」

 口を開いた瞬間、ふとあの歌が頭の中で流れ出す。忘れていた箇所も含めて、すべて。

 

雨が洗い流した空に

七色の橋が架かる

その向こうに愛しい君がいる

私は会いに行こう

たとえ、あなたの隣に誰がいても

きっとあなたの幸福を見に行こう

 

(ああ)

 心が、空へ吸いこまれていくようだった。閉ざされた緑の底から、一気に視界が開けていくような感覚。雨上がりの直後の、しっとり濡れた鮮やかな蒼の中に、彼女は包まれていた。

「あたし、あなたと一緒に行くわ」

 明るく笑って、彼女はサージェンに手を伸ばす。彼の頬に手を触れて、宣言する。

「あなたの精霊になりたい。あなたにあたしの名前を預けるわ」

 サージェンの顔に驚きが浮かぶのを、初めて見た。妙に得意な気持ちになって、彼女は笑顔のまま彼の返事を待っていた。どんな答えでも、今度は大丈夫だという気がした。

「では、これからずっと一緒にいよう。改めて、私の名『サージェン・ラルジェア』を君に預けよう」

 かちりと、心の中で何かがはまる音がした。契約が半分為されたのだ。嬉しくてはち切れそうな気持ちを感じながら、彼女も告げた。

「あたしの名は、『ルシエ』。あたしの力の限り、あなたとあなたの血に連なるものを愛していくわ」

 また、かちりという音が聞こえた。彼女はサージェンに飛びつき、思いの丈を込めて抱擁した。

「ルシエ」

 名前を呼ばれた瞬間、ルシエは感激に身を震わせた。誰かが自分の傍にいてくれるという泣きたくなるほどの幸せを、ルシエはようやく知ることができたのだ。

 

 

 


高松さとり様のサイト「セルフブレイカー」

に、以前「涙水晶」という

創作を送らせていただいたのですが、

これはその続編(外伝?)に当たります。

そちらもお読みいただくと

いろいろ裏事情が明らかになります。

……単に、サージェンを書きたくなって

突発で仕上げたんですよ、これ……。

 

 

 

HOME   BACK