『夜をこめて…』

                            by 羅々

 

 

 

       この東雲のごとく見え、

       月のようにうるわしく、

       太陽のように輝かしく、

       恐るべきこと、旗を立てた軍勢のごとき者はだれか。

                          ――――『雅歌』

 

 

 勇者ディアン・アルヴィースは、その夜更け、ふと目覚めた。傍らには安らかな寝息をたてる、金の髪の天使。

「リリト…」

 銀の髪の勇者は天使の白い額に愛おしげに口づける。そして黄昏色の瞳が隠されている瞼から長い睫、頬へと唇を滑らせた。その手はそうっと天使の背に畳まれた黄金の翼を愛撫している。

 彼は数ヶ月前、堕天使ラスエルとの戦闘で、重症を負った。

(ディアン! いけません、これ以上は! お願いです、退いてください、ディアン!!)

 背後で必死に懇請する天使に、ディアンは、

(いえ、大丈夫です、天使様。奴はあと一撃で倒れます、もう少しですから)

 わき腹と肩を大量の血で染め、正面の青ざめた堕天使から繰り出されるかまいたちの嵐に満身創痍となりながらも、ディアンはわずかの間隙を捕えてダガーを構え直し、堕天使に向かっていった。

(ディアンーーーーーーーーーーーーーーッッ!!!!!!)

 ……それは天使のためだった。彼女の求めるままあのとき敵から逃れていたら、おそらく他の勇者が同じ堕天使を倒すべく遣わされただろう。彼女――インフォスの守護天使リリトによって。ディアンは、それだけはどうしても避けたかったのだ。

(あれは、私の我侭でした。貴女のお役に立つ機会を他の勇者になど譲りたくなかったのです、リリト。だから…本当は、貴女の言葉を無視した私に対して貴女が責任を感じられる必要など微塵もないのですよ)

 ディアンは天使の額にかかる月の光のような髪をかきあげてやった。

 ディアンが堕天使戦を終え、当然ながら身動きもならぬ身体となると、天使リリトは片時も彼の傍らを離れず看病し続けた。ベテル宮にも帰還せず、守護天使のつとめすら放棄して、それこそ昼も夜も。薬草を探し、包帯を巻き、休みなく回復魔法を施し、夜は天使の精気が少しでも彼を癒すよう、ディアンを金の翼で包み込み胸に抱いてともに横たわった。熱が下がらず、粥すら喉を通らぬと知ると、天使はためらいなく真珠母さながらに白い胸乳をあらわにし、嬰児にするようにそれをディアンの口に含ませた。夢うつつに柔らかな精気が体内を満たす甘美な感覚を、ディアンは覚えていた。

(リリト…)

 以来、数ヶ月。天使はいまだ勇者ディアンの側にいた。やはり守護天使としてベテル宮に戻ることもなく。(それに関しては、天使に別に目論むところもあるらしいことをディアンは、うすうす察してはいたが)。

 そうして今、銀の髪の勇者は地上界インフォスの守護天使と、デュミナスの「竜の洞」なる地で静養の日々を過ごしていた。竜の養い子である勇者候補の好意である。彼の傷はもうほぼ塞がっており、体力もあと数日で元通りとなるだろう。こうした優しい時間もおそらくは…。

 ディアンは小さくため息をついた。そして自分に当てがわれた「洞」を改めて見回してみる。

 花崗岩の床には、灯心草と美しい毛織物が敷かれ、また見事な綴れ織りが寝間を仕切っている。二人の枕元には繊細な造りの花籠と香炉が置かれ、ほのかに乳香の残り香が漂っていた。彼は天使を起こさぬよう、そっと立ち上がり、閨を出た。広い矩形の空間に天使自らが組み上げた織機と糸車が、明かり取りの小窓からさしこむ月光を浴びて鎮座している。そして別間の厨房にはパン焼き釜と煮炊きのための竈が手入れされ、整えられていた。

 ディアンはやはり厚い毛織物の垂れ幕に塞がれた洞の入り口から外に出、洞を取り巻く岩棚に腰を下ろした。天上には盈ちるにはいま少しの月が薔薇色の光暈を被って謎めいた微笑を浮かべている。ちらほらと群生している羊歯が、どこかしら艶めいた風情であった。澄んだ大気を吸い込みながら、ディアンは思い耽る。

 この数ヶ月で、彼は天使リリトがいかに瑕一つない美しい存在であるか改めて知った。おそらく彼女は、真の意味で天使なのだろう。その天の宝玉とも言うべき彼女を、彼はいつのまにか生身の、触れれば肉体の愉悦をも交わしうる恋人として密かに愛するようになっていた。

(愛しています、私のリリト…)

 こんな薔薇色の月夜だった。愛しい天使に想いを告げたのは。

(私も…です。あなたを愛しています、ディアン…)

 天使に抱かれ、こんな夜空を渡っていたときだった。

 この世のすべての男が焦がれずにはいられない、夢のような時間に、彼は天使の口づけと愛の言葉を得たのだ。あの瞬間、彼は死んでもいいとさえ思った。涜聖かもしれない。けれどあの刹那、天使は彼とたしかに愛の喜びを共有しうる魂の半身だったのだ。

(…リリト…)

 ディアンは服の下に鎖を通して下げている指輪に着衣ごしに触れた。ディアンは飴色のそれを容易に眼裏に描くことができる。天使がかつて自分にもたらしてくれた優しい奇跡の証。彼が再び生きて、幸福になるために力を与えてくれたものだ。幾万言を費やしてもこの指輪に込められた想いを語ることは不可能であった。この指輪の本来の持ち主のこともまた。

「ディアン」

 ふいに背後から声をかけられて、ディアンは振り返った。

 黄金の双翼を背に負い、豊かな月炎の髪房を全身にまつわらせた美貌の天使が、気遣わしげに彼を見つめていた。

「夜風は、身体に障ります。なかへ入りましょう」

 聞く者すべてを陶酔に誘わずにはいられない声音だった。清雅な竪琴の音にも似て。彼女の師たる歌唱を守護する大天使イスラーフィールが、それをどれほど慈しんだことか。

 ディアンは微笑んだ。

「ええ、心配をおかけしました、リリト。もう寝みます」

 そう言うと、ディアンは天使の手を取り、彼女に促されるまま、寝間に足を向けた。

 …そのとき、銀の光沢のある何かが視界の端をよぎったことを、ディアンは気がつかなかった。

 

 翌日、天使は人の姿をとって、朝早くから麓の村に出かけていった。織物や刺繍、花籠等の彼女の手わざの品によっていくばくかの金銭を得るためである。彼女が見事な手さばきで作り上げる品々は、村人の間で大層な評判を得、そのためディアンは自らの所持金にまったく手をつける要がなかった。(何より天使がそれを承知しなかったのである)。数日おきに天使は村へゆき、ディアンはその帰りを待った。もう戻ってこないのではという子供っぽい不安を押し隠しながら。とはいえ彼はひたすら養生に努め、ある程度動けるようになると、医師である彼自身も天使とともに時折、村へゆき、自身で調合した薬を村人に分け与えたり、軽い診療に携わったりもした。だが天使の手前、回復を妨げるほどの負担は極力避けねばならなかった。

 けれども天使はいまもって彼をその腕に抱いて眠っていた。まだ完全ではない彼の体力のためである。天使は月の光と処女雪もて造化の神が丹精した身に違いないはずなのに、その肌えは暖かく花の香りがした。だがディアンは、肉体の欲望をややもてあましながらも、天使を性的に求めようとはしなかった。天使がその優しさゆえに拒まぬであろうと分かっていたが。

 ……彼は恋の則を本能的に弁えていたのである。そして彼は自分が何を欲しているのかよく知っていた。それを得るために、自らが何をすべきか、またどうあるべきかも。

 その昼下がり、ディアンは洞に近い、緑濃い丘陵に薬草を採りに赴いた。そこにはせんせんたる清しい泉があり、水辺は群れ咲く山百合に飾られている。ディアンは薬草採取のあと、そのほとりで身体を休めるのを習いとしていた。この泉は彼のエスパルダの実家の庭に湧く小泉に似ていた。アルヴィース家は彼と同名のディアンという彼の曽祖父の代に隣国ファンガムから戦乱を避けて国境を越え、ブルンの地に居を定めたのであるが、その泉はやはり医師であった曽祖父ディアンの代から受け継がれてきたものだった。そのディアンはそれを「健やかの泉」と名づけ、娘エアミッドとともに守っていたという。

 ディアンは何を思ったか、薬草を摘み終わると草で膨れた革袋を置き、外套を肩から滑り落とした。そしてさらに衣服を脱ぎ始める。

 銀の髪が風に揺れた。やがて一糸まとわぬ姿となると、彼はゆっくりと泉の水に身を浸していった。肩とわき腹の傷はわずかに引き攣れはするものの、もう痛みはなかった。その他の小さなものはもはや跡形もない。

(貴女のお陰ですね、リリト…)

 一見華奢だが、肩幅の広い引き締まった美しい体躯が水中に沈められた。刹那、灰青の瞳が閉じられる。数瞬そのままでいたディアンはやがて伸び上がり、泉から上がると、全身の水滴を払いながら服を引き寄せた。

 

「あら? 髪が少し濡れていますね、ディアン」

 麓の村から戻った天使は、勇者のつややかな銀鼠色の髪が湿気を含んでいることに気づいた。

「ええ、洗ったものですからね、先ほど」

「まあ、でも風邪をひかないように気をつけて、ディアン」

「ええ、心得ています。大丈夫ですよ、リリト」

 リリトは不安げな面持ちで、勇者を見た。天使の勇者はいつもと変わらず、柔和な笑みを浮かべて香炉に没薬を焚こうとする。

「…私は仕上げてしまいたい織物がありますので、ディアン。でもどうかよく乾かしてくださいね。何かあったら呼んでください」

「夕食は今日は私が用意します。百合根がたくさん手に入りましたから、それを甘く煮てみることにします。それに調合しておきたい薬もありますので。ご懸念は無用ですよ、リリト」

「……」

 金の天使はどこか腑に落ちない様子であったが、やがて織機のある部屋に姿を消した。

 

 …天使リリトは筬を軽やかに操った。彼女自ら組み上げた織機に、不思議な抽象文様の意匠が凝らされた幅広の布が、恐るべき速さで織り進められてゆく。そうする間に天使の眼差しは、いつしか神秘な幻視に絡め取られていった。

 菫色の海原が一面をたゆたっている。年若い地上界の生まれたての太陽が、まばゆい光輻の雨を飽かず降らせ続ける。けれど「リリト」はそのような恩恵など届きようもない深海の暗みに一片の原形質と化して無限の時を漂っているのだった。羊水にまどろむ胎児のように。無数の輪廻を繰り返すも、「リリト」はそれを知らず、そのたびごとにまとう肉の衣が少しずつ堅固なものになってゆくこともまた。やがて幾重もの波浪の層を越えて一条の光が「リリト」にたどり着き、その魂に一滴の自意識の涙を落とした。さらなる転生のままに、それは「リリト」のなかで意欲の炎と変貌し、そしてあるとき「リリト」は己が使命を悟った。十重二十重の波頭を越え、未知の陸地を目差すのだ。「リリト」は緑したたる野山に遊び、氷雪に凍え、焼けつく砂漠で渇き、荒野で飢(かつ)え、夜の森に憩った。空を渡り、地のおもてを這い回り、地中にもぐり込み、世界を経巡った。

 …その地上界で、「リリト」は数多の生を駆け抜けた。笑い、泣き、脅え、驚嘆し、歓喜し、絶望し、愛し、諍い、まぐわい、病み、癒され。…飽きもせずに。そしてリリトはその世界を、創造神が「光あれ」と告げるはるか以前から知っているのだった。

(……あ!)

 リリトは筬を取り落とした。目の前の織物はもうほぼ完成しかけている。

(……)

 リリトはため息をつき、腰をかがめて筬を拾った。彼女は今しがたの幻視の所以を、実はよく承知していた。

(また、―――なの?)

 それはかつて彼女が密かに交わした契約のため。

 リリトは座りなおし、今度は細く澄んだ声で歌いながら再び織機(はた)を動かし出した。

 

   私は眠っていたが、心はさめていた。

   聞きなさい、わが愛する者が戸をたたいている。

   「わが妹、わが愛する者、

   わが鳩、わが全き者よ、開けてください。

   私の頭は露で濡れ、

   私の髪の毛は夜露で濡れている」と言う。

   私はすでに着物を脱いだ。

   どうしてまた着られようか。

   すでに足を洗った、

   どうしてまた、汚せようか。

   …………

   …娘たちよ、

   私は、かもしかと野の雌鹿をさして、

   あなたがたに誓い、お願いする、

   愛のおのずから起こるときまでは、

   ことさらに呼び起こすことも、

   覚ますこともしないように。

   ……

 

 光輝燦爛たる麗しき大地――インフォス。天使リリトの愛してやまないその大地は今、「時の淀み」という負の瘴気に侵されていた。機音が遠ざかり、視界がぼやけてゆくにつれ、リリトはまたその意識をさまよわせる。

 彼女が勇者ディアンとともに姿を消したことに端を発する、勇者たちの天使の管理を飛び越えた移動。それは彼らの、天使に恋焦がれるがゆえの、狂おしい衝動に突き動かされての行為だった。そうするうちに十二人の勇者と勇者候補たちは、歩む道程の十字路で出会い深い影響を互いに及ぼしあい、驚くべき物語を紡ぎ続けている。そのためにも、守護天使は「失踪」を装ったのだった。天界の一角、ベテル宮に帰還することもなく、守護天使のつとめを故意に放棄して。…そしてまもなく、守護天使の指示を与えられなくなった地上界は、一時の混乱期を経て、自らの自己治癒能力を目覚めさせ始めた。十二人の勇者たちは、本来ありえなかった互いの交流を通して、我知らず自力でインフォスより魔を払う行動を採り続けているのだ。さもあろう。『勇者の資質』を有する彼らは、真には地上界インフォスを支える『十二の柱』なのであるから。

 なかでも優しい吟遊詩人と金髪の騎士は、いまなお愛する天使を求めてめまぐるしい移動の日々を送っている。彼らの道すがらの魔物退治は、平和度の維持に多大な貢献をしていた。…天使リリトはそれを知っていた。まるで運命を織り上げる者さながらに。(とはいえ機織る女は運命を司るのかも知れなかった。縦糸と横糸に定めを織りこまれた衣でもって、人は身体を覆われるのだから)。

 彼女には…「視える」のだ。インフォスのすべてが。しかしその所以は、勇者たちはもちろん、彼女の師たる大天使イスラーフィール、彼女を見出し勅命を下した大天使ガブリエル、そして彼女の「影」たるべく地上に降臨した二人目の守護天使にすら隠し通されねばならなかった。そして多くの愛を捧げられながら、彼女は孤独だった。自らがいずれ選択する未来を誇らかに迎えうるために。

(ああ…!)

 再度、インフォスの全容が彼女の脳裏に描き出された。黄昏色の瞳が揺れる。高い平和度にも関わらず、異次元から吹き寄せられてくる「淀み」の腐臭に身悶えし、苦痛に咽ぶ大地。やがて地表にゆっくりと…二つの焦点が結ばれていった。天使リリトはそれが何であるか、よく分かっていた。彼女はそれ以上絶えられず、逃げるように部屋を後にした。間仕切りの垂れ布を払って飛び出すと、焼きたてのパンと栄養価の高いあつものの匂いが、天使の鼻孔を愛撫した。 

 すると天使は一瞬で自分を取り戻すことができたのだった。

 

 陽がすっかり落ち、夕べの風が夜半の静謐に取って代わられる頃、勇者ディアンは閨房で天使リリトを待ちながら、静かな回想に思念を委ねていた。

 これから手術を始めようというときに、突然現われた光の化身のような金色の天使。真摯な奉仕と献身の心から勇者のつとめを引き受けたこと。彼女は可能な限り彼を訪問し、書物や彼についてのさまざまなことを聞きたがった。だがディアンは、不思議なことにそれを一度も煩わしく感じなかった。それどころか面会希望を妖精に申し出るたび、滑稽なばかりに一喜一憂する自分に戸惑いを覚えずにはいられなかった。それで彼は天使の出現でどれほど理解者、心を通わせる対象に飢えていたか思い知った。今にして思えば、天使は無意識のうちに、他者への真の礼儀というものが、「関心をもつ」ことであることを、愛の対極にあるのが憎しみではなく無視であることを感得していたのだろう。

 だから語らずにはいられなかったのだ。彼が世界から孤立してしまった、あの瞬間のことを。

(貴女に何が分かるというのです? 貴女は何も分かっていない…!)

 金の天使は、罪びとを手にかけ、そのために毒薬すら用いかねない勇者の心の荒みに、胸を痛めていた。それは罪びとたちのためではない。彼らがディアンによって傷つけられるとき、むしろ彼の魂こそが痛々しく苛まれ、悲痛な狂気に血の涙を流しているのだから。

(…そんな優しい彼女が、なぜ殺されなければならなかったのです!? …あのとき、神も善良な人間たちも、何をしてくれたというのです!? …誰も…何も…!)

 そしてそのとき彼の目の前にいたのは、彼の最愛の女性が理不尽な死を与えられ彼の腕のなかで冷たくなってゆくのに、手をこまねいていた神の御使いなのだった。

(ディアン…)

 彼の無私の献身は、人々の不信と懐疑、そして冷酷な仕打ちによって購われた。…もはや、彼には耐えられなかった、何もかもが。

 天使は彼の側を離れなかった、いや、離れられなかったのだ。また、彼の非難の矛先をかわすことも思いも寄らない。どうすれば、彼を癒せるのだろう。どうすれば、彼に取り憑いた狂気から彼を解放してあげられるのだろう…。そのとき天使の心を占めていたのはそれのみ。

 考える前に、身体が動いていた。天使は勇者の足元に跪き、手を組み合わせ、頭を垂れた。気高い黄金の翼は小さく畳み込まれ、その姿は人の子のそれのように頼りなく、覚束なげに見えた。

(何の真似です?)

 天使はすっと顔を上げた。蒼穹よりも、悲しみよりも青い青い目。

(ディアン、私は…)

 天使は唇の震えを悟られまいと、息を吸い込んだ。

(私は…あなたの悲嘆、憤りにお返しできる言葉がありません。ただ、どうか自分を見失わないで、としか。でも、ディアン、私は神の御使いであり、今あなたの傍らにあります。ああ、ディアン。私はこの身をあなたに差し上げます。この身はあなたのものです。私にあなたの味わった苦渋をください。神への瞋恚、罪科ある人々への悲憤、愛するひとを失った悲しみを、私にください。あなたの狂気を絶望を、あなたの思うままのやり方で。…思い上がりは、承知しています。でも、『勇者の資質』をもつあなたには、天使である私を物理的に傷つけることは、可能なのです。そしてあなたの私に下すことのすべてを、私は何であれ受け容れます。…それが死に繋がるものであろうと。それでどうか、あなたを苛み苦しめる諸々のものたちを許してください。私では、役不足なのは分かっています。ああでもディアン、私には、罪びとをその手にかけながら、自分の心をも引き裂いているあなたを見ているのが、死よりも辛く思えてなりません…)

 天使はそれきり口をつぐんだ。彼女が涙をこらえ、気丈に恐れを押し隠しているのが、ディアンにも容易に知れた。

(…貴女がそうして身を擲っても、罪びとたちはさらに罪を重ねるだけです。なぜ、そんな者たちに、慈悲などおかけになるのか。それで貴女にどんな益があるというのです?)

 天使は首を振った。

(違います、ディアン。そうではありません。私は彼らのことなどどうでもいいのです。私が想うのは、あなたのことだけ。あなたが再びもとの健やかな心の安定を取り戻すことだけです。ディアン、あなたは彼らを懲らしながら、本当は、愛するひとを守れなかった、病んだ子供たちを置き去りにしてしまった自分を罰しているのです。ディアン、ディアン、お願いです。もうこれ以上、自分を苛めないで。清く、気高く、この上なく徳高く誠実なあなた自身をもうこれ以上、傷つけないで。そのためなら私は、あなたの「狂気」に喜んでこの身を捧げます。…もしも、あなた自身からあなたの怒りを逸らすことができるなら、それ以上の益があるでしょうか)

 その瞬間、ディアンは心臓を貫かれた気がした。彼女はディアンにも自覚のなかった真実を言い当てたのだった。彼は小さく大胆な天使を呆然と見やる。彼はまるで操られるかのように懐からダガーを取りだし、鞘を払った。それを、ゆっくりと構える。鋭利な刃の切っ先が天使の左胸にあてがわれた。天使は肩を震わせたが、その場を動こうとはしなかった。あとほんの少し力を込めれば、この天使に恋人と同じ運命を与えることができるだろう。彼自身の手によって。

(貴女が死んだら…インフォスはどうなるのです?)

 ディアンの声は、かすれ、しゃがれていた。彼には天使の行為がいまだ信じがたかった。

(また、新しい守護天使が天界より遣わされてくるでしょう。おそらくは、私に次ぐ成績をおさめた者が。でも私は、なるならば私ではない他の誰かにこのようにあなたの傍らにあって、心のうちを打ち明けられる時間を過ごす仕合わせを、譲りたくはありませんが)

 天使は悲しげに微笑んだ。まるで愛そのもののように。

(リ…)

 ディアンはもう何も言えなかった。ダガーを放り投げ、くずおれるようにその場に座り込んだ。そのままいくばくかの時が流れ、ディアンは喘ぎながら面を上げた。そこには、奇跡すらも色褪せる美貌の天使がいた。白く、金色に輝き、彼のものと自ら宣し、ただ彼の心が救われることのみを求めて贄たらんとする天上の宝玉が。かつてこれほど美しく、これほど優しい言葉を彼に向かって紡いだ者がいたろうか。…たった一人をのぞいて。

 天使の黄昏色の瞳には彼の顔が映されていた。弱く、哀れで、矮小で、愚かで、疲れ果て、どうしようもなく惨めな一人の男が。

 天使と勇者はどちらからともなく手を伸べ合い、抱擁を交わした。そして二人は互いの腕のなかで泣いた。親鳥をなくした二羽の雛のごとく寄り添い、泣きじゃくった。涙が枯れ果ててもなお。それまでの数年間、彼のなかに巣食っていたどす黒い毒の塊が、このときすべて砕け、流れ出していった。心中の歪みが、浄化の端緒を探り当てた。暖かな光が彼の精神をゆうるりと満たしていった…

 …ディアンは軽やかな足音にはっと我に返った。不覚にも、少し目頭が熱いようだ。

「ディアン?」

「ここにいますよ」

 仕切り布の向こうからかけられた声に、ディアンは穏やかないらえを返す。

「どうかここへ、私のリリト。貴女に告げねばならないことがあるのです」

 すると天使が急ぎ足で、こちらに向かってくる気配が感じられた。ディアンは微笑み、天使を迎えるために、立ち上がった。

 

 その夜、彼は天使リリトに愛を請うた。森羅万象にあまねく注がれる天界びとの慈悲ではなく。もしも地上的な――彼だけに向けられる直接の生、天上の夢を越えた生身の存在としての愛を、彼がこれまで彼女のなかに芽生えさせ、その生育を少しでも促し得たならば、塵埃より造られた人の子が彼女をまたそのように抱くことを許して欲しいと。膝を折り、天使の薔薇色の指に接吻し、繰り返し懇願した。

 淡いランプの明かりと、神秘な没薬の香り。リリトの姿はいっそうこの世ならぬもののようだった。ああ、どうすれば…どうすれば、この神話世界から降臨した美の化身を、地上に…自分に繋ぎ止めることができるのか?

 天使は笑い、諾の証に、彼の前に膝をつき、彼の手を自分のそれで包み込んだ。ディアンはさらに言い募る。貴女に犠牲を強いることは、絶対にしたくありません。これが、毛ほどでも貴女のお心にそぐわないと思し召すなら…。

「いいえ、いいえ」

 天使はかぶりを振った。

「あなたのものになりたいの…」

 

 幼い天使の唇は乳と蜜の味がした。唾液はしたたる甘露のよう。天使はディアンの教え込んだ技巧でもって、彼の口づけに応えた。

 初めて互いから衣の最後の一枚までが取り去られた。天使の完璧に均整のとれた裸身にディアンは息を呑む。ディアンは美酒に酔うように、天使の肉体に溺れていった。二人は痛いほど抱き合い、隙間もないほど身体をぴったりと寄せ、起源を異にする存在であることを忘れ去った。天使のすすり泣きにも似た嬌声が、妙なる音楽と化して彼を恍惚境へといざなう。天使は彼の腕のなかで全身をわななかせ、縋りつき、哀願し、悶え、歓喜の涙に咽んだ。ディアンは狂おしい天使への渇望を抑え、彼女を導こうとしたが、適わなかった。ランプの炎が一瞬、真昼の太陽のように燃え上がった。それは、大水も洪水も消し得ぬ愛のほむらのよう。

 すべてが溶け合っていた。脈打つ動悸すらも。ディアンの愛撫が天使を埋め尽くし、勇者は彼女の甘美な肉体を貪るように味わった。乙女の吐息は林檎の芳しさ、乳房はなつめやしの房のよう、まろやかな腿は名人のわざなる玉さながら。ああ、わが鳩、わが全きひと、恋人よ、貴女のこの垂れ髪に捕われぬ者がいようか。吾妹よ、わが花嫁よ、どうか貴女の声を聞かせてください、貴女の顔を見せてください、貴女の愛らしい声と魅惑的なかんばせを。私は貴女への愛に病みわずらっているのだから。貴女は神苑の泉、生ける水の井、貴女の香りにはナルド、サフラン、菖蒲、乳香の木、没薬、ろかいすらも及ばないだろう……

 …嵐が訪れた。熱風が吹き荒れ、流星が降り注ぎ、灼熱の帳が恋人たちの脳裏と眼裏に弾けた。うねり高まる波涛がもはや彼らが二つ身たることを許さなかった。銀の髪が天使の月炎のそれを蔽う。ディアンは、もがき、切なげに縋りついてくる天使をかろうじて宥め、彼女の身体を押さえつけ、彼女のなかに分け入った。その聖なる瞬間、天使の閉ざされた清らの泉は、その奥処を恋人の分身たる塔によって満たされた。雷霆を打ち下ろされたがごとく、陶酔が襲いかかった。そして時は止まり、刹那が愛の律動を刻んで永劫をまとい恋人たちを結びつけた。

「貴女はここにいるのですね…」とディアンが、灰青の瞳に官能を滲ませ、うわ言のように言った。

「そうよ」リリトが頬笑む。「いま私、ここにいるわ」

 

 ……愛の営みを終えても、ディアンは天使を離そうとはしなかった。力強い腕に抱かれて、彼の胸の鼓動に聞き入りながら、リリトは幸福だった。

 けれど……

(ディアン、私は…)

 しばらくして、勇者がまどろみから深い眠りに落ちると、天使は背に回された手をそっとほどいた。そして、恋人に羽根のような接吻を与える。

(あなたは…私を許してくれるかしら…)

 その答えはおそらく永遠に与えられないのだろうけれど。

 

「薮蛇だ…!」

 竜の洞の、金の天使と銀の髪の勇者の住まいする洞を見下ろす岩棚に、もう一人、異形の存在がいた。すらりとした体躯を黒衣に包み、類まれな美貌は漆黒の髪に縁取られ、背には銀の光沢をもつ巨大な双翼を負っている。もっとも印象的なのはその双眸だ。彼の眼窩に嵌め込まれているのは、虹彩が開いてはいるが黄金色の猫の目であった。その輝きは、抜き身の剣を思わせる。

 彼の名は、アレクス。天使リリトに次いで地上界インフォスに降臨した、リリトの「影」であった。

 アレクスは岩棚に腰を下ろしたまま、切なげなため息をついた。天上にはもろ星を従えた薔薇色の満月。彼の側には葡萄色の酒瓶と一対の玻璃の盃が所在なげに置かれていた。

 アレクスは、思いも寄らなかった。自分の心がまだこれほどに天使リリトに捕われていたとは。

(痛ぇな…)

 本当に、心臓が痛かった。アレクスは再度ため息をつき、金の天使のいる洞に視線を落とす。

 大地がその奥深いところで鳴動していた。風が、木々が、花々が、草が、空が、泉が、盈月が、星々が、乾いた岩々さえも、金と銀の恋人たちの愛のわざに酔い痴れていた。その愉悦に共鳴し、打ち震え、戦き、歌っているのだった。

(……)

 アレクスは頬を伝う暖かいものに驚いた。それは降雨となって彼の膝を濡らし続けた。

(なんだって…?)

 天使は光にて造られ、純潔にして無雑、情欲なく瞋恚なく、生むこともない霊的生命体だ。だから、愛する天使が天使の身のまま地上の勇者何人と枕を交わそうと、大したことではないはずなのだ。なのに…

(こんなことなら…)

 こんなことなら、天界の神苑にこんこんと清水を噴くタスニームの泉のほとり、百合の花陰で無防備に憩う金の乙女を見つけたときから、なぜもっと彼女の歓心を買うべく努めてこなかったのか。

 とはいえ彼は天使養成校アルスアカデミアに入学してまもなく、その乙女がリリトという名の天使で、自分と同期でアカデミアに在籍していることを知った。金の翼、黄昏の瞳の天使は、たおやかな見目とは裏腹に恐ろしく優秀だった。その明敏さ、天才ぶりで周囲の学友はもちろん、教授格の上級天使すら圧倒し続けたアレクスでさえ、知識、実践、理論展開、弁舌どれをとっても一度として本気になった彼女を凌ぎえなかった。それを口惜しいと思ったことはない。ただ、一世一代の申し出をすまなげな、けれど確固たる態度で拒絶されたとき、はじめて彼は心臓が痛むという感覚を知った。

(…ごめんなさい、アレクス。私の恋人は…書物と、そしてインフォスなの。私がアルスアカデミアで頑張ってこれたのも、一日も早く上級天使になって、いつか必ず、インフォスの守護天使になりたかったから。ほんの子供だった頃に、大天使イスラーフィール様の膝の上で、インフォスの生まれるさまを映し出された水晶球を見せていただいたときから、私はかの地のもの。インフォスを抱きしめることができるなら、私は他に何もいらないわ…)

(…本の虫の君に、そんなご執着の対象があったとは知らなかったな。いいさ、俺はこれまで通り、酒と妖精を友として生きていけばいい)

 うまく笑えたつもりだが。

 たかが一地上界のために彼は、女としてリリトを抱くことを断念せざるを得なかった。だが、それが何だ? 天使には人間からすれば永世に近い時があり、彼女はいずれ大天使の位にも上り詰めるだろう。それを追ってゆくことはできる。同胞として談笑を交わし議論を戦わせ、酒を酌み交わすことも。

(君の卒論『回復魔法の可能性について』だけどね。あれだけの資料を駆使したのは、見事と言うしかないよ。癒しを司られるラファエル様が評価なさるのももっともだ。だが仮定で終わっている部分が多すぎて、それがなんとも残念だったな。大体、禁忌手前だよ、ああした応用は)

(理論は間違いないはずなのよ。でも実践となるとねぇ。それだけ痛めつけられた何らかの対象物がないと。あなたの『地上界における天使観念の変遷』こそ、まあ、美学論に堕ちすぎているのではない? 豊富な図版は楽しませてもらったけど)

(俺は美の狩人なもんでね。天界、地上界を問わず数多の審美観念からものの本質を探り出していくのが一生の研究テーマなのさ)

(美しいということが、素晴らしい取り柄なのは認めるわ。でもそれが、どのくらい確かなものと言えて? 美の観念が、世界や時空によって無限に様変わりする頼りなさを知らないのかしら? そこからどうやって事象の本質を汲み取るというの)

(竪琴の演奏のように、背後に統一性のない多様性などありえない。弦の一本一本は独立した存在だが、別のいくつもの弦とともに一つの音楽を紡ぎ上げていくんだよ。そして、その統一性こそが…)

(『神』というわけね?)

(その通り)

 …こんなふうに。

(それで、充分のはずだったんだがな…)

 譲れぬ一線としてアレクスは、天界が天使リリトを失うという事態だけは絶対に許すわけにはいかなかった。そんなことにでもなれば、ガブリエル、ラファエル、イスラーフィールらの大天使と、それに何より自分が全力で阻むだろう。彼が現在、リリトの「影」、大天使ウリエルの横紙破りな行為の結果とはいえインフォスの二人目の守護天使としての活動を極力控えているのは、一重に、インフォスの自己治癒能力の期間を尊重して欲しいという天使リリトの求めに従ってのことだった。そのためにアレクスは、天界の上司の勇み足の干渉を塞き止める防波堤の役割を自然、引き受けることになった。それでもストレスが溜まると、ちらほら勇者たちの前に姿を現しては、息抜きを楽しんでいたが。それでも数ヶ月前、リリトに告げられた言葉は肝に命じていた。

(大好きなアレクス。いくら大切なお友達のあなたでも、『治癒』の流れに干渉することがあれば、リリトは容赦しないということを覚えておいてね)

 魅惑者の笑みを浮かべ、爪を隠した猫の口調でやんわり釘を差すリリトに、アレクスは青ざめながら、降参のポーズを取った。

(……『ミカエルの剣』なしでも、高位の堕天使すら君の敵ではないのは、よく分かってるつもりだよ。君の言う通りにするよ、安心してくれ)

 そこまで思い至って、アレクスは吹き出した。本当は、それでこそリリトなのだ。

 天使リリトはかつて、聖グラシア宮に呼ばれ、ガブリエルを筆頭に、並み居る大天使の目前で、インフォス守護の勅命を下された。そのとき、彼女は、すくと立ち、黄金の双翼を一杯に広げ、いつでも望むままに借りうける許しを得た「ミカエルの剣」を敢然と抜き放って、天界最高位の大天使たちに向かい、

(畏れ多いことでございます。わたくしごときに、かような大任。されど、勅命をいただきましたからには、死命を賭して成し遂げる覚悟でございます)

(そして、天啓と慈悲を司られます大天使様、そしてこの場にあられますすべての偉大なる大天使様。甲斐なき身ではございまするが、この天使リリト、この重き任を拝命いたしますからには、今ここで皆様にいただかねばならぬものがございます)

(神に選ばれ、天界を統べられます大天使様。ここにインフォス守護のお役目をお受けいたします天使リリトに今後十年間、インフォスに関しての全権をいただきとうございます。かの地上界守護についての一切の権利、はたより覚束ぬあるいは不信極まりなき行為にわたくしリリトが出ましょうとも、お口出しを決してなさらぬというお誓いをくださいませ。それがならぬとあれば、恐れながらこの任務、リリトはご辞退申し上げます)

 平の一天使の分を弁えぬ要求に、当然、反発の声が上がったのであるが、切迫した事態が結局はリリトに望みのものを貰い受けることを許した。しかしアレクスの直接の上司たる大天使によりそれは破られてしまうのであるが。だから彼は、リリトのためにも、天界とインフォスとの緩衝役をつとめ、うまく立ち回らねばならないのだ。

 …とはいえ、上司から憤然とリリトの「傍若無人な」発言を聞かされたとき、彼は笑いを堪えるのに一苦労したものだ。それはまた、それまでの、「優秀であるが、儚くたおやか」というリリトへの巷間の評を覆すものでもあった。アレクスだけは、執拗な観察の末、リリトの気丈で冷徹なもう一つの貌を密かに知悉していたのであるが。

 しかし今、自分はこんなところでたった一人で、何をしているのだ? 昨夜、彼は「竜の洞」に翼を巡らせた。リリトに逢いたくて。天界の酒『マーゥ=ル・ジャンナ』を数ヶ月、顔を見ていない朋友に渡すというのはもちろん苦し紛れの口実だ。だがアレクスは嵐の前のこの期間がだんだん耐えがたくなってきていた。

 こっそり彼は、村に降りて村人と交わる彼女を眺め、その家事をこなし機を織る様子に見入った。インフォスは勇者ディアンは、リリトのこんな優しい奉仕に与ってきたのだ。どうして嫉妬せずにいられよう? 熱い生命の輝く地上界とその生の営みに惹かれ始めているとはいえ。

「薮蛇だ…」

 アレクスは再びつぶやいた。

 そしてリリトのために持参した酒と酒盃に手を伸ばす。可能ならこれで彼女とひとときを過ごそうと目論んでいたのであるが。酒瓶の封印を解き、芳烈な酒精を振りまく液体をぎやまんの盃に注ぎ入れる。それをやはり天界から特に取り寄せた霊泉タスニームの水で割り、薄荷を落とす。かつてリリトはこの液体の紅玉とラピス・ラズリを溶かし込んだような色合いを例えて、「インフォスの海のよう」と言ったものだ。アレクスは酒盃を欠けるところなき月に向けて掲げた。

「乾杯。俺の『男性』の失恋に」

 遠からず「時の淀み」は打ち払われ、地上界インフォスは完璧な形で救われるだろう。天使リリトによって。だがその後は? それについては、アレクスはリリトの意図がどうあれ、思うところを変えるつもりはなかった。それまでは彼女に奴僕のように仕えもしよう。

(俺もヤキが回ったな…)

 だが後悔はなかった。

 アレクスはひとしきり盃を空けると、周囲に咲く花々に目を止めた。すると彼はふと、女勇者の一人に教えられた手すさびを思い出した。

(ふん…)

 彼は憮然とした表情でそれにとりかかった。

 やがていささか調子っぱずれな鼻唄まじりの作業となったのは、いかにも彼らしいことであったろう。

 

   ……

   やさしき乙女、百合の花、

   めぐしや、往き来のその姿、

   めぐしや戯れ遊ぶさま、

   めぐしや言葉、愛敬よ、

   めぐしや接吻(くちづけ)、香りよな。

   そなたを憎む人あらじ、

   そなたの故に地下の牢、

   われ捕はれて、ここにあり、

   哀れな果てを遂ぐるなり。

   今こそ、われは果てんとす、

     そなたゆゑにぞ、わが乙女。

 

 

 夜はまだ深かった。

 天使リリトは愛する勇者にそっと口づけを与えると、身体を離し、夜着をはおって外へ出た。降るような星空。雲の波がゆったりと漂い、月読が堂々たる威容をもって中天に君臨している。リリトは視線の先を横切った箒星さながらの銀色の光に、微笑んだ。

 そして洞の入り口に置かれた贈り物を腰をかがめて手に取る。

 それは花輪だった。彼女が被るのにちょうどよい大きさに作られている。蔦に羊歯、野薔薇に緑の葉、菫、蓮華、クローバ−、雛菊が編み込まれ、毒草たるベラドンナの花が縁飾りをつとめていた。

 天使はくすくす笑いながら、それを頭にのせ、祝祭日の少女のように踊る足取りで一回転した。金の髪房がふわりと舞う。中空に金盞花の花群が咲きほころんだ。

(今度、ぜひとも歌唱指南をしてあげなくてはね…)

 苦笑まじりに小さくつぶやくと、天使は花冠を入り口の端に置きなおし、勇者ディアンの傍らに戻るべく、踵を返した。

 

 勇者ディアンが目覚めたとき、腕のなかにはすでに天使の姿はなかった。だがしとねにはまだ彼女の香りと温もりが残っている。明かり取りの窓から、彼は太陽の露払いの曙光が、夜の夢の終わりを告げているのを知った。

 ディアンは身を起こした。すると仕切り布の向こうに湯の用意が整えられているのが分かった。ディアンは天使の好意を受けることにした。香草を浮かせた芳しい湯船に浸かろうとすると、彼は太腿に血が付いているのに気がついた。不思議なものを見るように、ディアンは血痕を指の腹で撫でた。

(『勇者の資質』をもつあなたには、物理的に天使である私を傷つけることは、可能なのです)

 彼はかつての天使の言葉を思い出す。では、これも「可能なこと」で、自分は彼女を傷つけてしまったのだろうか。

(リリト…)

 彼は昨夜、天使の豊饒なる愛の泉を味わった。数年間あえて女色を断ってきたディアンにさえ、驚くべき天使の技巧、愛のために創られたような肉体の神秘が知れた。一体、天界にしろ地上界にしろ彼女を求めない者などいるのだろうか? そして自分は彼女に値する何者だというのだろう。

 彼は天使を得てなお嫉妬に苦しんでいた。彼女の慈愛深い眼差しの注がれるインフォスやそのもろもろの事象、勇者たち、果ては天界や彼女の仕える神にすら。(しかし嫉妬を知らぬ者に愛の何が分かろう?)

 これよりディアンは、以前とは似て非なる狂気を飼いならすべく努めねばならないのだった。それを思い、彼は苦い笑いを頬に刷いた。だが光は闇のなかに輝き、今後決して闇は光に勝つことはないだろう。彼は救われたのだから。亡き恋人と…愛する光の天使によって。生ある限り、彼は彼女を信じ、愛し続けてゆくだろう。その結末はまだ模糊たる霧の帳の向こうにあって伺いようもないが。

 どこかで雲雀の鳴く声が聞こえた。香料をきかせたスープの匂いが漂ってきた。ディアンは身体を洗い終えると、身仕舞いを整え、最後に外套をはおろうとした。すると手に取った滑らかな布が、彼が昨日まで用いていたそれではないことに気づいた。湯桶から少し離れたところに丁寧に折り畳んであったのは、美しい抽象文様の織り込まれた幅広の白い絹布を外套に仕立てたものであった。

(リリト…)

 彼はそれを押しいただくようにして、しばらく胸に抱いていたが、やがてゆっくりと絹の外套を肩にかけ、首の下で留め金を合わせた。彼は縦糸と横糸よりなる文目、そして縫い目の一つ一つに天使の想いを感じ取ることができた。彼は微笑んでいた。穏やかに、満ち足りた者の表情で。そして今がいかなる朝(あした)か、今日がいかなる再生の日か、彼の叡智が告げていた。

 湯浴みを済ませた銀の髪の勇者を黄金の天使は待っていた。岩肌に円く穿たれた窓を背に、天使は朝日を従え守護天使の威容もて佇んでいた。

 天使が優しく勇者に笑いかけ、目覚めの挨拶を口にした。勇者がそれにまた礼儀正しく挨拶を返す。そして勇者は、

「今日は旅立ちには、最適の日です」と付け加えた。

 …そのとき天使は、勇者に向けて一歩を踏み出し、やや慎重な面持ちで、彼に次なる堕天使戦の依頼を申し伝えたのだった。

 

                                  Fin

 

 

 


羅々様よりいただいたお話です。

先だって閉鎖になってしまいました、猫まねき様の

サイトに投稿された物を、今回こちらにも

寄贈してくださいました(猫まねき様の

了解はいただいております)。みんな大人というか、

魅力が溢れてますよね。私は羅々様のディアンをみて

彼のファンになりました(^^)。でもでも、アレクスってつくづく

浮かばれませんねぇ(苦笑)。そこが素敵なんですけど。

羅々様、美しい物語をどうもありがとうございました。

 

 

 

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  この曲は『エアリスのテーマ』で、演奏はかをるさんです。