奴隷市場






 荷馬車の揺れからミーシャを守るように抱きしめた。
 何が起きたのか、よくわからなかった。五年前のあの日と同じだ。
 家に帰ったら鎧を纏った男達がいて、父は振り向きもせずに何かを叫んだ。
 母に連れられてがむしゃらに走り、エレフとミーシャは生まれて初めて山を下りたのだ。
「エレフ……」
 か細い声が自分を呼ぶ。まだ震えている妹の、柔らかな体をさすってやる。
「大丈夫……僕はずっと一緒だから」
「うん……」
 離すものか。父の分も守ってくれた母も、もういないのだ。


「父様は?」
 雪を避けるため入った廃屋で、先にそう訊いたのはミーシャだった。母はびくりと肩を震わせ、きつく目を閉じてうつむいた。
「母様?」
 呼ぶと、母はますます悲しそうに身をすぼめる。何かを察したのか、ミーシャは口をつぐんだ。
 あの赤毛の男は何者だろう。剣を持っていた。見たことのない顔だった。
 わからない。
 どうして、逃げなければならなかったのだろう。あの日からずいぶん経つのに、父はなぜまだ追いかけてこないのだろう。
 ぐすっと、ミーシャが鼻を啜った。
「ミーシャ、エレフ」
 ゆっくりと、母が腕を伸ばして抱きしめてくれた。暖かくていい匂いのする胸は、微かに震えていた。
「大丈夫よ。これからは、母様が二人を守ってあげますからね」
 何度も何度も小さな声で、母は繰り返した。


 粗末な幌の隙間から、あわてて道の端に避ける老人がちらりと見えた。すごい速さで走っている。いったいどこへ連れて行かれるのだろう。
 荷馬車の中は布で覆われて薄暗い。だが弱い光でもはっきり見て取れるほど、乗せられている者達の表情は陰鬱だった。
 疲れたような目。どこも見ていない。頭に重りでもつけられたように、一様に下を向いている。
 守らなければ。
 エレフは、腕に力を込めた。


 何かを切り裂くような音の正体が、不意にはわからなかった。
「ほら、ぐずぐずするんじゃない!」
 頑強な男が怒鳴る。のろのろとすすんでいく大人達に混じって、エレフ達も歩かされた。
 足が重い。荷馬車から降ろされるとき、両足に枷をはめられたのだ。歩きにくくともすれば転んでしまいそうだったが、地面を鋭く叩く音が恐ろしく、彼は妹の手を引いて足を進めた。
 足が痛い。
 冷たい枷がこすれる。
「エレフ……」
 ぎゅっと、ミーシャの手が強く握り返してくる。自分と同じ紫の双眸に怯えが満ちているのを見て取って、少しだけ彼は落ち着きを取り戻した。
 守らなければ、ならないのだ。
 母も、いないのだから。
 三日か、それとも四日前か。
 鎧の男達が突然家になだれ込んできた。


「見つけたぞ!」
「捕らえろ!」
「子供がいるはずだ、探せ!」
 飛び交う声。声。
 暗闇の中で、二人はしっかりと手を繋いでいた。
「きゃあっ!」
 突然聞こえてきたのが母の悲鳴だと、一瞬遅れて気づいた。
 ミーシャが飛び出そうとする。エレフは、咄嗟に彼女を抱きすくめた。何か言いかける唇を手で押さえ、ひたすら息を殺す。
 男と母の声は、すぐに遠ざかっていった。足音がいくつか、家の中を何度も何度も動き回って、時には彼らのいる隠し部屋のすぐ前を通っていった。
 こんな部屋が、このために用意されていたのだと、今日母に押し込められるまで知らなかった。
 どうして。
 父だけではなく母まで、なぜ。
 暗闇のせいで、時間の流れがつかめなかった。
 足音がまったく聞こえなくなり、疲れてぐったりしたミーシャを抱えたまま、エレフは用心深く扉を細く開けた。
 狭い視界の中には、誰も見えなかった。
「エレフ、母様は?」
「……いないよ」
 家具が散乱した床の上を、彼は茫然と眺めやった。
 食器が割れている。今朝方摘んできた花も、泥に踏みにじられていた。
 あの日と同じ。
 母も、父と同じ。
「行かなきゃ」
「どこへ?」
 わからない。けれど、ここにはいたくない。
 妹の手を引いて、彼は外へ出る。
 いつか自分も、ミーシャのためにあの男達と対峙するのだろうか。両親のように。
「怖いわ」
 柔らかなぬくもりが、背中を包み込む。
「エレフ、怖い」
「大丈夫だよ、ミーシャ」
 同じでは駄目だ。いつまでもそばにいて、彼女を守るのだ。
 自分までもがいなくなったら、ミーシャは一人で泣かなければならないのだから。


「いやだっ! 離せ!」
 屈強な男達が、すごい力で肩や腕をつかんでくる。目の前で、華奢な妹の身体は儚く揺らめいているようだ。
「ミーシャ! ミーシャぁっ!」
 離れないと決めたのだ。自分が守ると。
「エレフ……きゃぁっ!」
「ミーシャ!!」
 繋いだ手と手。
 ちぎれそうだ。
「くそっ、いい加減にしろ!」
「くぁっ!?」
 腹に衝撃が来る。息が詰まり、何も見えなくなる。
「エレフ! エレーフ!」
 遠くなる声。喘ぎながら顔を上げた先、抱えられて連れ去られていく妹の泣き顔がある。
「ミーシャあぁああ!!」
 叫んでも、声がかれても、彼は妹を呼び続けた。


 平等などというものは、きっと幻想だ。
 今日、自分たちの命には値段が付けられ、運命ごと売り払われた。
「お前達は、明日からイーリオンで働いてもらう」
 アネモスの加護ある聖なる風の都。名前だけしか知らなかった。
「聖都を守る盾を築くのだ。さぞや冥府へ行っても優遇されるだろうよ」
 下卑た男の笑い声が、ねっとりと耳にこびりついて離れなかった。






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