ロシア人豪商 アレクセイ・ロマノヴィッチ・ズヴォリンスキー
わたくしの夫は、その半生を貧しさの中で堪え忍んできた人でした。
会ったことはございませんが、ご両親とも早くにお亡くなりになり、病気の妹さんが天に召されたあとは、他の兄弟とも離ればなれになったそうです。奉公に出され、ひどくこき使われたのだとか。顔の造作を口実に、本当にひどい目にあったらしいのです。
今度のことも、周囲からの非難が大層なものでした。それでもわたくしは、夫のため尽くしたくて、賛成したのです。ええ、愚かしいなんて思ったことは一度もございません。
夫は、名声も黄金も欲してはおりません。お母様の形見の、あの本の夢を見たいだけなのです。
そして夫の夢は、わたくしの夢でもあります。
エレーヌは、疲れた目をぎゅっとつぶり、溜息をついて立ち上がった。夫の発掘作業はどんな具合なのだろう。さきほど見に行ったときは、いつも通りのにぎやかさで「絶好調」といっていた。
穴を掘っているときの夫は、本当に楽しそうだ。喩え何が現れることがなくとも、彼は常に暗い土の中に夢を見出している。ある意味、彼ほど幸せな人はいないのではないか。
「そろそろ、お夕食の支度をしないと」
ぽそりと呟いて、台所へ向かう。今日はいい魚をもらったから、がんばってごちそうを作ろう。このところ、ようやく料理らしい料理を作れるようになってきた。ここへ来たばかりの頃は、何を作っても失敗してばかりで、雇っている現地の者の妻や近所に住む娘達から食べ物を分けてもらっていたりした。その味も、エレーヌにしてみれば大雑把に感じられたものだ。
夫は富豪であり、学者だ。築いた富のすべてを、この異国の地面を掘り返すことにつぎ込むと発表したとき、当然の事ながら周囲は彼を非難し、あるいは嘲笑した。彼が発掘しようとしているのは、古代の神話に語られている、あるかどうかも定かではない遺跡なのだ。
エレーヌも、幼い頃に読んだことはある。神々の手により踊らされ、神に刃を突き立てた人間の物語。神というのは比喩でしかないのではないかと、彼女でなくても考える。
風の神に守られたアナトリア、戦女神のトラキア、火の女神の国マケドニア、大地の女神に守られたテッサリア、光の神眷属のアイトリア、智女神眷属の王国ボイオティア、そして水神のラコニア。
神々の詩の中につづられるこれらの王国が、実在したなどと、彼以外に信じるものはいない。
それでも。
エレーヌは、決めたのだ。
運命の女神――ミラの望むものが悲劇なのか、喜劇なのか。夫が探し続けるのであれば、同じ夢を見ようと。
「ほら、あの人よ」
姉がいかにもな侮蔑を口調に滲ませ、扇の先で指し示した所にいたのは、長すぎる鷲鼻と薄くなった頭、白いひげの小男だった。エレーヌ達の父より、少し若いくらいだろうか。数人の男性客に囲まれて、何かを一生懸命に話していた。
「成り上がり者のくせに、思い上がっていること。それになんて醜い顔」
「わたくしなら、人前に出られないわ。あんな顔じゃ恥ずかしくって」
くすくすと意地悪く笑う姉たちに眉をひそめながら、エレーヌは小男に興味を持った。
初めて見る人だ。いったい誰なのだろう。
「あの方はどなたなの?」
「あら、知らなかったの? 近頃商売で成功したという、学者よ。名前は……何だったかしら」
「さあ」
それ以上のことは聞けそうになかったので、エレーヌは口実をつけてそっと男の方へ近づいていった。
人だかりが男を解放するのを待って、少し離れた所から観察する。確かに、お世辞にも美男ではなかった。けれどそばに寄ってみておやと思ったのは、ひげからのぞく彼の瞳が、とてもきらきらと輝いていたことだった。その目の光だけは、エレーヌと少しも変わらぬ若さをたたえているように見えたのだ。
「? おや?」
淑女にあるまじき不躾な観察に、男は気づいてしまったらしい。エレーヌは肩をすくめたが、逃げることはしなかった。
いや、できなかった。
一瞬目を奪われた彼のまなざしが、とても優しかったので。
「どうかなさったのですか? お嬢さん」
「いえ……あの」
まずは非礼を詫びるべきだろう。でも言葉が出てこない。
胸が騒ぐ。
「私が怖いですか?」
けれど、おどけて見せようとしたのか、そんなことを言ってきた彼が、とても寂しそうに見えたので。
「いいえ! 決して!」
必要以上に力強く飛び出した言葉に、彼女だけでなく彼の方もぽかんとした。
一瞬のちには、同時にくすくす笑い出していた。
アレクセイと名乗った男は、古代史の研究をしているのだと言った。
「母の形見の本の影響で。人に話すたびに笑われますが、私はあの伝説が本当のことだと信じています」
エレーヌも知っている。風の都と呼ばれた、栄華を極めた古代の国の話だ。大きな戦で滅んだと聞いている。
「どうして、そう思われるのですか?」
「ええ、話せば長くなりますよ。学術的なことなのでね」
くす、と彼は笑った。
「けれど、そういった根拠はともかく……私は、夢が見たいだけなのかもしれません」
「夢?」
「そうやって夢を見ることで、失った家族との時間を取り戻している気持ちになれるのかもしれない」
この人は、本当に孤独なのだ。
胸が痛くなる。両親と兄、姉に愛されて育ったエレーヌには想像もつかない時間を、この人はきっと過ごしてきたに違いない。
「お父上が探していらっしゃるようですよ」
アレクセイは立ち上がり、エレーヌに手を差し伸べた。この手を取ってしまえば二度と会えなくなる気がして、彼女は躊躇った。
「あの……」
「はい」
「お願いします。またぜひ、お話を聞かせてくださいませ」
彼は驚いたように目を瞠り、もごもごとひげを蠢かせた。
「……もし、あなたのご家族にお許しをいただけるなら」
「はい!」
彼女は顔を輝かせた。
許してもらえなくてもかまわない。この人に会いたい。
年若い彼女の人生で、これほど強く何かを願ったことはなかった。
そうしてエレーヌは何度もアレクセイを訪ね、やがて彼から求婚された。そのときはまさに天にも昇る心地で、もし反対されたら駆け落ちしてやろうとまで思い詰めていたが、当時彼の商売の実績と財産はかなりのものになっており、また彼女が末娘であったことも幸いしたのか、諸手をあげてとはいかないまでも二人は無事に結ばれることができたのだった。
大変だったのはそのあとで、夫が仕事をやめ、蓄えた富のすべてを遺跡発掘に注ぐのだと発表したとき、彼女の家族はすごい勢いで反対し、彼をなじった。エレーヌももちろん、彼を思いとどまらせるようにと何度も言われたが、その度に誰に対しても同じ答えを返した。
『夫の夢は、わたくしの夢でもあります』
今までふんだんに与えられていた絹のドレスや宝石、贅を凝らした食事と引き替えにしても、ロシアの入れ子人形のように、不幸ばかりが連なった夫の人生を補ってあまりある幸福感を、彼に味わわせてあげたかった。
同じ夢を、見たかった。
自分で支えになれるなら、そうしたい。
台所に入って、エレーヌは小さなテーブルの上に広げたままにしていた本に気がついた。神話の本だ。
「そういえば、読みかけのままだったわ」
夫が大切にしている物語の、彼女の国の言葉で翻訳されたもの。そう、ここに記されたある一説が、彼女と彼を結びつける運命の絆となったのだ。
雷神域の英雄、レオンティウスの言葉。
――運命は残酷だ。されど、彼女を恐れるな。
『いつでも、この言葉が私の支えだったのだよ。エレーヌ』
結婚する前も、夫婦となったあとも、彼は口癖のようにこう言っていた。
――女神(ミラ)が戦わぬものに微笑むことなど決してないのだから。
彼女は、息を呑んだ。怒号が押し寄せてくる。本を取り落とし、頬を抑えたのとほぼ同時に、すごい音を立てて扉が開かれた。
「エレーヌ! エレーヌ!」
頭から足まで泥だらけの夫が、声をうわずらせて駆け込んでくる。彼はいつも、台所に入る前に汚れを落とすのに、今はまったくかまわずにエレーヌを強く抱きしめ、何度も接吻した。
「何ですの?」
「ハラショー!」
「え?」
「ハラショーー!!」
まったく要領を得ない。困惑する彼女をようやく解放して、夫は右手にしっかり持っていたものを差し出した。
大切そうに。こわごわと。
「まぁ……すばらしいわ……!」
溜息と、そんな言葉しか出てこなかった。
これをきっと、奇跡と呼ぶのだろう。
傷と肉刺と土でぼろぼろになった両手に包まれていたのは、まさしく神の時代の片鱗だった。
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