金の王子様
――学園とは、摩訶不思議である。そこには真偽のわからない噂が数多く生まれ、ときとして伝説となって後々まで語り継がれるのだ。
話を聞いているときは、ただくだらないとしか思えなかった。どうして喧嘩になると先に予想することができないのか、呆れていた。実際にやってしまったあとは、その謎がすっかり解けている。
(はぁ……)
彼女のさらさらとした細い黒髪が、甘い香りの満ちる中庭を駆ける風に救い上げられていく。肩まであるそれは授業の時にはきっちり縛ってあるが、ほどいているとちょっとした自慢になる。故郷の親友はよく『リティの髪、すごく綺麗で羨ましいわ』と口にしていた。
けれどそんなことは今の彼女にとってはどうでもよく、凛とした紫の瞳を曇らせて、ただ彼女は溜息をつく。中庭に面した学校の渡り廊下から、そんな彼女を見かけた男子生徒の中に何人か溜息をついたり顔を赤らめたりした者がいたが、彼らにも彼女はまったく注意を払っていない。
(まさか、わたしもやっちゃうなんて)
彼女は、もう何度目なのかもわからない言葉を胸の中で反芻した。クラスの女子たちの二の舞を踏んだことと、喧嘩のあと特有の気の重さがずっと彼女の心を占領していた。そしてそれを払拭したくて、つい無意識に相手に非があるように思おうとする。
(ジェスが悪いのよ。まったく、買い物くらい付き合ってほしいわ)
今日は、七日のうちに二日ある休みの前日で、少し前からこの日には彼と一緒に買い物に行こうと彼女は決めていた。教室でいつも顔を合わせているとはいえ、連れ立って街を歩いたり、差し向かいで食事をしながら話をしたりするのは、格別の楽しさがある。
(あぁ、もう。何が気に入らないのかしら)
そこまで考えて、やはりいつかの女子たちも同じことで文句をいっていたのを思い出す。女性特有の悩みなのだろうか。男たちは、こんなことで悩まないのだろうか。
(わからないなぁ)
そうしてまた、リティは悶々とするのだった。
(わっかんねぇなぁ)
黒髪の少女と同じことを、ジェス・マルクトゥールは胸中で呟いていた。ちなみに、これで十五回目である。
ずっと前から、今日は一緒に買い物に行こうと誘われていたのだが、彼女の買い物が半端でなく長いのを熟知していた彼は、それをちょっと口に出してしまった。すると、とんとんと口論が始まってしまい、彼女は彼に強烈な平手を食らわしてどこかへ行ってしまった。
(加減しろよな……)
何しろ彼女は、細い四肢と凛とした綺麗な顔立ちからは想像できないほどに強いのだ。危険があれば強烈な拳を繰り出す腕が、怒りに任せて振り下ろされたのだから、彼の褐色の頬がますます色濃く、しかも腫れあがってしまうのは当然のことだった。水で冷やしたハンカチは、すっかりぬるくなってしまっている。
「また冷やしてこなきゃ……」
とは思うのだが、くみ上げ水道はこの男子寮の裏庭にある。言い換えるとそこにしかないので、絶対に誰かの目にとまってしまう。友人の多い彼だから、そうなるとリティにぶたれたことを白状せざるをえない状況に陥ってしまうのは十分考えられた。もちろん彼は、決して話したくない。
「どーすっかなぁ」
冷やしていないと、じくじくと脈に合わせて頬が痛む。ベッドに寝転がって目を閉じて見ても誤魔化せない。
半刻(約五分)ほどプライドと格闘したあげく、彼は勢いをつけて立ち上がった。
中庭は風が冷たくなってきた。リティは足取りの重いまま校舎に戻り、とりあえず歩き出した。彼女は寮住まいだが、あまり親しい友人はいない。戻っても特にすることはなかった。それに、今日は本当なら今ごろ街で露店を眺めていたはずなのだ。
(ジェスの馬鹿!)
楽しい予定をつぶされた怒りがむらむらと浮上してきて、はけ口を求めた。その衝動に突き動かされ、リティはよく考えずに手近な壁を殴りつけ――。
「っと」
「――!?」
殴りつけようとしたのだが、彼女の拳は壁の固い感触ではなくぱしんという破裂音と、人の体温を感じていた。
「ご、ごめんなさ……!」
謝ろうとしてまたしても彼女は仰天した。
彼女の拳を――そうとう力がこもっていた上、切れのあったはずのそれをいともたやすく受けとめ、軽い驚きで彼女をわずか高いところから見下ろしている切れ長の双眸は、深い海の蒼。唇は春に生るペティオの果実の赤、肌は梨の花弁の白、そしてその輪郭を縁取るは、陽光が形をとったようなまばゆい金の髪であった。これらの描写からわかるように、すばらしい美貌の持ち主がそこにいた。
美しさは人を圧倒するもので、リティはこのとき完全に硬直していた。ずっと凝視しているわけにはいかないと頭のどこかが言っているが、それに従うことができない。
「……」
かろうじて腕を動かして、相手の掌から離れると、やっと口が動くことを思い出してくれた。
「あの、ごめんなさい。わたし……すごくいらいらしてて、周りよく見てませんでした」
まだ茫然がぬけなくて、言葉は棒読みに近くなってしまったが、目の前の相手は気さくに微笑んだ。
「かまわない。幸い避けられたから」
「……」
羞恥が一度に彼女に襲撃をしかけてきた。もともと白い彼女の肌は、血が上るとあからさまにそれとわかる。赤面の原因がいきなり殴りつけることになったためのものか、目の前の美形の笑顔によるものなのか、彼女は判別できなかった。
この綺麗な人のことを、徐々にリティは回想していた。クラスで話題にならない日は一日としてない、このアルフォート学院の超有名人だ。リティの一つ上の三年生で、煌く美しさと気品ある物腰、雰囲気から、いつのころからか女子生徒たちはこの二つ名で呼ぶようになった。
――『金の王子様』と。
(……冗談じゃないわ。洒落にならないくらいぴったりだなんて……)
リティはロマンティストではないほうなので、その命名を大げさと思っていたが、この考えを変えざるをえなくなった。これほどふさわしい二つ名はない。
『王子様』の本名も、また貴族らしい響きを持っていた。
(レーヴィオン・ファルガード……。この人が……)
「? 何か?」
「……」
困惑顔の青年とリティが、謎の緊迫感を孕んで対峙した瞬間。
「ああああーーーーーーーーーー!?」
奇声の合唱が、起こった。
おかしな声が何重にもなって響き渡った。突然のことだったので、ジェスは思いきりこけてしまう。
「何だ!?」
転んだ場所が校門付近だったので、彼の砂色の髪はやや汚れてしまい、起き上がった拍子にぱらぱらと小石やら土やらが落ちてきた。けれど、ジェスはまだ謎の奇声に気をとられていたので、そんなことには頓着しない。
「お、おい。今の声ってなんだ?」
「知らねぇ。でも、女子の声だよな」
街から帰ってきたところ、あるいはこれから出かけるところである私服姿の生徒たちが、足を止めてざわざわと話していた。誰もが事態を把握していなかったが、不吉な予感を覚えているという表情である。それは恐らく、彼自身も同じなのだろう。
(女子生徒複数の奇声……。何だ? 何かこれと似たようなことが前にもあったような気がする……)
頭の回転と記憶力はそう悪くはない(勉強のことになると鈍るが)。ジェスはしばし目を閉じて唸っていたが、唐突に解答を得た。
「わかった!」
それとまったく同時。
「待てぇぇぇぇぇぇ!!」
「きぃぃぃぃぃ!? 許せないわよ!!」
「協定違反ですわぁぁぁぁぁぁっ!!」
どどどどどどどどどどどどどどどどどどどどどどどどどど!!
はたして、これを何に喩えるのが適切であろうか。
ともあれすさまじい足音と地響きに、生徒たちは凍りついた。全員が、状況を把握しつつあった。
「端に寄れ!!」
叫んだのはジェスだ。彼に誘導されるとおりに生徒たちは校門から離れ、安全と思われる道の端のほうに縮こまった。
そして、校舎からやってきたのは。
「離れなさいってばぁぁぁぁっ!!」
「そして止まれぇぇぇぇ!!」
「めぇぇぇっさぁぁぁぁつっっっ!?」
学院すべての女子生徒が構成しているのではと思うほど、その団体の構成員の数はおびただしかった。制服・私服療法の女子生徒たちが、筆舌に尽くしがたい殺気立った形相で走っている。地響きは彼女たちが起こしたものだ。
「危ないところだったぜ……」
額の冷や汗を拭い、ジェスは今しも少し先の角を曲がろうとしている騒ぎの元凶を見定めようと背伸びをした。
「――っっっ!?」
砂塵を巻き起こす殺人集団の先頭を見やり、そのままの体勢で彼は動きを止めた。呼吸すら飲み込んで、彼は何度も何度も瞬きし、目をこする。が、目撃したものが真実かどうかを確かめる前に、それは建物に遮られてしまっていた。
「今の、まさか、違うよな」
否定するために口に出してみたものの、それがかえって疑心暗鬼のもととなる。彼の翠の瞳が、不安と驚愕と躊躇い、それからその他の感情に揺れた。
「確かめねぇと」
決断の早い青年は、言い終わらないうちに駆け出していた。
美貌の王子は、不可侵の存在である。彼に憧れる者は、ただ黙って遠くから見守っていなければならない。彼のそばにいる親友にも、不必要に近づいてはならない。言葉を交わすなんてもってのほか、まして触れ合ったりするのは万死に値する――。
(ようするに、抜け駆けされるのが悔しいだけじゃないっ!!)
リティは全力で走っている。ついでにかの美青年も引っ張っている。逃げ始めた時には反射的にそうしてしまったのだが、置いてきたほうが安全と思い至った今でもこの手を離せない。そんなことをすると彼が勢いのついた騒音集団につぶされるか、彼女が殺人集団(前集団と同じ意)につぶされるかの二つに一つ。どちらも望ましくはない。
「どこへ行くんだ?」
引きずられながらも、懸命に足を動かしている青年が尋ねてくる。彼の発音は流麗だったが、返すリティの答えは、やや息が弾んでいて不明瞭だ。
「わからない、けど、止まれ、ない、わよ!」
走るしかない。それしか生き残る道はない。
こんな瀬戸際にいるはずなのに、次の瞬間彼が見せた表情は、リティにとって信じられないものだった。
「だったら、こっちだ」
目をみはった彼女の腕を、逆に彼がつかんだ。今度は彼女が引っ張られる。
「ちょっと、どこに――?」
問いかけようとして、彼女は口をつぐんだ。
彼の笑みが自信と確信に満ち溢れていたから、直感で大丈夫だと思った。
右に、左に。ときどき立ち止まって、引き返してからまた曲がる。ゆっくり歩いて、また走って。
何度かそんなことを繰り返すうち、地響きはまったく聞こえなくなっていた。あきらめて帰っていったのか、分散してこちらを探しているのか、それは不明だったが、リティは安堵の息をついた。その直後、笑いの衝動がこみ上げてくる。
「疲れたか?」
どうにかそれを抑えていると、金糸の髪を無造作にかきあげている青年と目が合った。やはり彼は微笑んでいる。
「どうして、笑ってるの?」
彼は髪を指先でいじりながら視線をさまよわせたが、きっぱりと「わからない」と言ってきた。
「あまりこういうことはないから、楽しかったといえば楽しかったが」
とうとう、リティは爆笑してしまった。走った直後なのですぐに息が切れ、涙が出てくる。それでも笑いはおさまりそうにない。
「君こそ、なぜ笑うんだ?」
「だ、だって……!」
とてもまともに答えられそうもなかった。だが、答えは初めからないのかもしれなかった。どうしてこんなにも笑いたいのだろう。
「あはは……はあ、はあ……。あー苦しかった」
たっぷり一刻(約十分)ほど笑い転げて、ようやく発作はおさまった。青年は呆れつつも苦笑の混じった表情で立っていた。
「あ、ここ海公園だったのね」
景色を見る余裕が出てきて、リティは彼の隣に歩み寄った。この公園は、高台にあるので広い海原を一望できる。街に住む人々から<海公園>と呼ばれ親しまれている所以である。
公園を囲む柵にもたれて、そろそろ赤く染まりつつある海を、目を細めて彼女は眺めた。ここからの風景が好きなのだ。
「あなたも、ここが好きなの?」
「ああ」
青年もリティと同じように、柵によりかかった。
「この先に、俺の故郷があるんだ」
「故郷? この方向だと……アルヴァンテス大陸?」
「そうだ。もうずっと帰れていない」
さばさばした声だったが、それだけに彼女はうなだれてしまう。彼女の故郷もまた遠く、長く家族と離れる寂しさはよく理解できる。
「でも、この学年が終われば戻れることになっている。それに俺は三年ですんだが、兄上は六年も国を離れていらしたから、それを考えれば大したことじゃない」
「お兄さん?」
「今はアルフォート学院で助手をなさっている。帰るときは一緒だ」
彼の口調は喜びや誇らしさを内包していて、心から兄を慕っているのが感じられた。それが少し羨ましい。
「家族が近くにいていいわね。わたしもそう簡単には里帰りできないから、すごく寂しいの」
自分でも驚くほど、素直に話せていた。寂しい、と口にしたのは初めてだった気さえする。
(そうよ、初めてだわ)
誰にもこの思いを打ち明けたことはなかった。ジェスにさえも。
(ジェスには、話してもよかったのかもしれないけど)
どうしてそうしなかったのか、よくわからない。意地っ張りな性格が邪魔をしたのかもしれないし、彼と恋人同士になっても完全に心を開いていないせいかもしれない。両方ということもありうる。
「すまなかった」
「え?」
いきなり謝られて、そうとは理解できていないままに彼女は顔を彼に向けていた。彼は気まずそうだったが、真っ直ぐに彼女を見つめている様は夢のように綺麗だった。
「まきこんでしまって、すまない。最初のとき以来、気をつけてはいたんだが、注意が足りなかった」
彼の言う『最初のとき』がいつのことか、彼女もよく覚えている。彼女が入学した日に、今回と同じような騒動があった。事の起こりは、彼が転びかけた一人の女子生徒を支えたことだったとか。
「気にしてないわ、ファルガードさん。ちょっともやもやしてたけど、おかげですっきりしたから。でも噂以上の迫力で驚いたことは驚いたわ」
「それならよかった。そうだ、これからどうする? 帰るなら送ろう」
リティは、即断した。
「せっかくだから、少し散歩しましょう。もちろん、ファルガードさんがよければ、だけど」
そもそも、今日は朝から買い物を楽しみにしていたのだから。
そうして彼もまた、すぐに頷いた。
「どこへ行こうか? ああ、俺のことはレヴィンでいい。そう呼ばれるほうが好きなんだ」
「じゃあ、私もリティって呼んで。リテュエルセーテ・ボラーナルっていうのが本名なんだけど、長いでしょ?」
並んで歩いてそれぞれ自己紹介をすると、また彼は笑った。

「リテュエルセーテという響きは、綺麗だな」
彼女の首筋まで瞬時に紅に変わったのは、言うまでもない。
今続いているシリーズのどれとも
まったく関係ない短編です。しかも続きます。
このキャラクターたちは私が
別件で描いているキャラたちで、高校
二年か一年くらいからの付き合いです。
付き合いが長いと、なんか妙に愛着
沸くんですよねぇ。少しでもみなさんに
気に入っていただけると嬉しいです。
この挿絵は、うさぎ様に書いていただいた物です。
以前にもレヴィンの挿し絵をいただいていたのですが
書き直ししたということで、差し替えさせていただきました。
ちなみに、以前のはこちらです。↓どちらも素敵なのです!

うさぎ様、拙い文章に素敵なイラストを
ありがとうございました!
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