第五章



 大津は館ではなく、小さな家屋に軟禁されている。河島の館を辞してすぐ、いても立ってもいられずに草壁は馬を駆っていた。時刻はすでに日の沈む頃、手や顔を冷たい風が切り裂くようだった。
 もともと、馬に乗るのは得手ではない。視界の端を景色が流れゆくのも、苛立つほどに遅い。今ほど草壁は、何もできぬ己を憎んだことはない。
 早く行かなければならないのに。大津が、捕らえられている。
 ようやく目指すそれを見出したのは、光の残滓が消えゆこうとしている頃だった。転がるように馬を下り、草壁は肩を上下させながら見張りの者達に名乗る。
「草壁皇子様……。このような刻限に、お一人でいらっしゃるとは」
「どうしても……大津と、話したい……」
「なりませぬ」
「なぜだ!」
 すがりついて問うても、屈強な男達は刑が定められるまでは何人足りと大津と会うことはならぬと、冷たい声で繰り返すばかりだった。
「ほんの短い間でも、叶わぬのか?」
「そう命じられております」
 食い下がる草壁にも、彼らはにべもなかった。
 本当に、自分は情けない。彼らは草壁にとっても臣であるはずなのに、草壁の言葉では彼らを動かすことはできないのだ。仕える者達は主を見抜く。主としてふさわしければ、自然に付き従う。父大海人がそうであったように。
 彼らにとっての自分は、こんなにも軽い。
 男達の肩越しに、草壁は見窄らしい小屋を見やる。
 会いたかった。
 心から、大津に会いたかった。
 会って何ができるはずもなく、何を言ってももう取り返しはつかないけれど。
「草壁?」
 くぐもった声。びくりと肩を震わせ、草壁は声のしたほうへ駆け寄った。男達が留めようとするが、振り払ってわずかの間だけと叫んだ。
 小屋に入らなければよいと判断したのか、草壁を憐れんだのかはわからないが、男達は数歩後ろへ下がる。
「大津!」
 申し訳程度の窓が、高い位置にしつらえられている。その真下で、草壁は叫んだ。
「大津……私は、私が気づいていれば、こんな……!」
「どうした?」
 顔が見えない。やや不明瞭な、深く優しい声だけが降りてくる。
「大津……!」
 どうして、自分はこうも駄目なのだろう。伝えたいことを言葉にできない。思いを形にできない。
 泣くことしか、できない。
「草壁、泣いているのか?」
 押し殺したつもりの嗚咽が、筒抜けだったようだ。情けない。本当に、自分は。
「何もできなくてすまない……私は……」
 最後に大津に会うこともできず、大津を救うこともできず、みすみす彼を、破滅させて。
「草壁」
 ほたほたと、壁が叩かれる。向こう側からだ。はっと息を呑み、草壁はその一点を凝視する。
「俺は後悔していない。これは、俺が望んだことだ。今も――死すらも」
「そんな……」
「これでいい。お前の道は、平坦になる」
 大津はなぜ。
 なぜこんなにも、大津の声音は静かなのだろう。
「これからを頼む。――姉上のことも」
 もう、遅いのだ。
 草壁は、改めて悟る。身体から力が抜け、倒れそうになるのを後ろから見張りの一人が支えてくれたが、注意を払うことはせず草壁は虚ろに目を地へ落としていた。
 自分には、何もできない。
 これは、報いだ。
「……必ず」
 こう答えることで、精一杯だ。
 闇が空を押し包んでいた。促され、乗ってきた馬のところまで戻り、草壁は目の前に広がるそれにようやく気がついた。
 黄葉。
 遠いあの日の記憶が怒濤の如く蘇り、それは涙となって草壁の頬をしとどに濡らす。
 赤に、黄に。目に痛いほど鮮やかなのに、濡れたように柔らかなあの光景。
 経もなく、緯もさだめず――。
 残された最後の光の一筋が、刹那そのあやなす錦を照らし出し、消えた。



 大津は、死を命じられた。半ば予想はしていたが、草壁は胸がつぶれる思いで刑の日までを過ごした。
 皇族の死刑は、ごく少数の見届け人以外は立ち会うことを許されない。大津の最期を、草壁は鵜野大后、河島皇子、そして年下の兄弟皇子達とともに聞かされた。
「堂々としておられました。ですが、山辺皇女様までお命を断たれたと聞きましたが……」
「後を追ってしまったのです。皇女にまでは目が行きませなんだ、哀れなことをしました」
 さしもの母も、神妙な顔つきだった。山辺皇女は大津の妻で、仲は穏やかなものだったらしい。彼女が大津を追って自害することは予測できないことはなかっただろうが、その表情から本当に母は彼女の死を哀れんでいると、草壁は信じることにした。
「そして、これを」
 一通りを語ったあと、大津の死を見届けた男は、懐からそれを取り出し恭しく捧げた。
「大津皇子様の、辞世の句にございます」
 やわやわとした真白の紙に、墨にて綴られたその歌に、その場すべての者の目が集まった。

  百伝ふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ
 ――あの磐余の池に鳴く鴨を、親しく見るのは今日だけで、自分は死んでいくの
 であろうか。

「大津らしい歌ですね」
 しばらくの沈黙のあと、鵜野大后が淡々と口を開いた。草壁は、大后のほうから回ってきた歌を、じっと噛みしめるように読んでいた。
 悲しい歌だ。ただ、悲しいだけだ。感じられるのは悲哀だけで、恨みも未練も感じられない。それとも、そう思いこみたいだけなのだろうか。
 いずれにせよ、確かなことは一つだ。
 ――大津はもう、いない。
 滲む視界を、あわてて草壁は元に戻した。ここではまだ、嘆くことはできない。それに、自分にはその資格もない。大津を死に追いやった責任は、この自分にもあるのだから。
「おかしな歌ですね」
 母が何か言っている。傍にいる草壁達にしか聞こえない、小さな呟きだった。
「己自身に対し『雲隠りなむ』とは……」


「草壁皇子様」
 解散を命じられ、しばらく通廊を歩いたところで草壁は呼び止められた。先ほどの使者が、何か人目を憚るような様子で追いついてくるところだった。
「……何用だ?」
 早く一人になりたかった。足はすでに地を踏む感触すら伝えてくれず、ふとした拍子に倒れてしまいそうなほど、身体が重かった。
「実は、これを草壁皇子様にとお預かりいたしました」
 男は、先ほどのように懐から紙を取り出した。
「……これは?」
「大津皇子様の、いまひとつの辞世の句にございます」
 すぐには、何を言われたのかを理解できなかった。我に返り、草壁は震える手でもどかしく折りたたまれた紙を広げた。
 そこには、見覚えのある大津の字で、堂々と詩がしたためられていた。

  金烏臨西舎。鼓声催短命。
  泉路無賓主。此夕離家向。
 ――太陽が西の建物に懸かり、時刻を知らせる鼓の音が短い命をさらに急き立てる。暗い黄路には客も主人もいない。そんな暗い道へ今夕、家を離れて向かう。

「先ほどの歌は他の者に渡しても構わぬが、これは草壁皇子様に必ずお渡しするようにと仰せでございました」
草壁は、何度もその詩を読み返した。そして、そっと紙を元のように畳み、大切にしまい込んだ。
「……礼を言う」
 ようやくそれだけを口にすることができた。
 本当にもう、心はここから飛び立ってしまっている。
 母が口にしていたように、『雲隠りなむ』は尊敬の意を含み、己に対しては使わない言葉だ。大津が死に際しての歌にこの言葉を織り込んだのは、草壁に気づかせるためなのだろう。
 一人黄泉路を辿る覚悟――異国の詩として記した想いこそが、真の絶唱なのだと。
 大津は、あのとき悔やんでいないと言った。この詩そのままに。
 そして、最後にそれを草壁に伝えてくれた。
 静かに立ち去っていく使者の男を見送って、草壁は再び歩き出した。
 身体は重いが、苦にはならなかった。背筋を伸ばし、前を見て、彼は歩いた。




BACK   NEXT