第四章



 その朝。不比等が訪ねてきたことを草壁は妻より伝え聞いた。
 まだずいぶん早い。いつもなら、朝餉をとる時間であった。殯宮は先だって完成し、大王を偲ぶ儀式が続いているが、今日は殯の儀はない。どうしたのだろうと首をひねったが、草壁はそのまま不比等に会うことにした。
 不比等は、端然と部屋で座っていた。何やら既視感を覚え、父の死の知らせを彼が持ってきたときもこのような状況だったと草壁は思い至る。
 何やら、不吉な連想だ。草壁は己の考えを撃ち払うように頭を振った。
「――実は、大津皇子様が」
 挨拶をすませるなり、唐突に不比等が切り出した。
「大津?」
 どうして、急に大津の名が出てくるのだろう。
 訝しく思った刹那、不比等が言葉を継いだ。
 信じられない話を。
「昨日、大津皇子様はお一人で伊勢にご出立になられました。姉上の大伯皇女様にお会いになるために」
「伊勢?」
 草壁は戸惑う。伊勢の齋宮には、血の繋がった者でもおいそれと会うことはできない。時折大伯の様子を見に宮から使いが行くこともあったが、それも頻繁にではなく、しかも女に限られる。齋宮は、清らかな存在なのだから。
 大津がそれを知らないはずなどない。あり得ない。なのになぜ、彼は伊勢へ向かったのだろう。そして、それ以前に。
「なぜ、伊勢に向かったとわかる?」
 不比等は推し量る言い方をしなかった。はっきりと、大津は伊勢に向かったと断じた。
「大后様がおっしゃいました。それを裏付ける御方もいらっしゃいます。草壁皇子様には、至急おいでいただくようにとの大后様よりのお言葉です」
 草壁は、事情を理解した。母鵜野大后は、大津をずっと見張っていたのだ。何のためにかも明白だ。
 ――大津を、失脚させるため。他には考えられない。
 母は、ことあるごとに大津を気にしていた。大海人が、彼に目をかけていることを。それは、鵜野大后の父葛木皇子が大王の位についてのち、皇太子を大海人と定めたにもかかわらず、実子の大友皇子を後押しし始めた様と似ているのだと、壬申の戦以前からの臣下達に聞いたことがある。
 大君の子供達の序列は、生母の身分や血筋により決まる。大友皇子の母は決して身分高くはなかったが、皇子は非常に優秀だったらしい。その資質を大王に認められ、やがて大きな力を与えられたのだという。大海人の地位すら脅かすほどに。
 草壁にはおぼろげな記憶しかないが、葛木は非常に峻烈な性質の持ち主だったという。己の障壁になると判断した者は、影から手を回し抹殺してきた。大海人は、それが自分に及ぶ可能性を危惧し、出家して吉野へ身を寄せたのだ。
 ほどなく、大王は崩御した。大海人は密かに人を集め地方の豪族達を味方につけ、貴族達との結束を固めた。そうして戦の用意を調え、あとは。
 あの、戦だったのだ。
「……すぐに、出仕の支度をする。しばらく待っていてくれ」
「は」
 頭を下げる不比等を残し、再び草壁は自室へ戻る。
 通廊を早足で進みながら、彼は唇を引き結んでいた。
 大津は会いに来てくれたのに。何も変わった所などなかった。それとも、朦朧としていて気づかなかっただけなのだろうか。
 伊勢の齋宮は聖の存在。大王の許しなく、勝手に会いに行くことはかなわない。壬申の戦の折りに、大海人が祈祷を捧げ勝利を願った神。大王のみを守る神が伊勢には祭られているからだ。
 ゆえにこそ、齋宮に無断でまみえるはすなわち罪なのだ。大王の神を冒すこと、大王だけの領域を侵すことだ。
 まして今は殯の最中である。大王の死を悼み、誰もが身を慎まなければならないときなのだ。このままでは、大津は。
「大津……!」
 不意に、何も見えなくなった。突然身体中が重くなり、草壁はその場に身を沈めた。


 津守連通(つもりのむらじとおる)という者を、いつ頃からか鵜野大后は密かに己の配下として使っていた。草壁がそれに気づいたのは、二年ほど前のことだった。母の部屋に呼ばれ、何も説明されず目の前に三首の歌を置かれた。

 あしひきの 山のしづくに 妹待つと 我立ち濡れぬ 山のしづくに
 ――あなたをお待ちするとてたたずんでいて、あしひきの山の雫に私はしとどに濡れました。その山の雫に。

  我を待つと 君が濡れけむ あしひきの 山のしづくに ならましものを
 ――私を待って下さるとてあなたがお濡れになったという、その雫になることができたらよいのに。

  大船の 津守が占に告らむとは 正しに知りて 我が二人寝し
 ――大船の泊てる津というではないが、その津守めの占いによって占い露わされようなどということは、こちらももっと確かな占いであらかじめ承知の上で、我らは二人で寝たのだ。

 前の二首は相聞とわかるが、最後の一首は異様な趣だった。何かに挑戦するような、煽るような雰囲気を感じた。
「この歌は?」
「最初と最後は、大津の詠んだものです」
 そのとき、鵜野大后は自分の後ろに影のように控えていた、矮躯の男を目で示した。それが津守連通、大陸より伝わった陰陽の術に長けた男だった。
「これは、どういうことなのですか?」
 わけがわからず、草壁は母を伺った。歌の内容――男の大津が逢瀬にて相手を待つ、という状況は不自然だが、取り立てて問題になるほどのものでもないように彼の目には映った。
 次の、母の言葉を聞くまでは。
「誰に送った歌か。それも、この通が突き止めてくれました」
どこか自慢げに母は笑い、続けた。
「石川郎女ですよ。お前の館で働く娘でしたね」
 石川郎女は、名を大名児という。草壁が恋歌を贈った相手だった。

 今の状況と、あの時の様子は驚くほど酷似していた。母がいて、その後ろにひっそりと津守通がいる。異なっているものは過ぎ去りし時が残した痕跡と、集う者が二人ほど多いことだ。
 ぴたりと閉ざされた部屋には、五人。草壁と鵜野大后、津守通、そして不比等と――河島皇子。
「謀反の企てがあったのです」
 場の中心はもちろん大后。静かな声音で、重々しく彼女は話す。しかし、その瞳が爛々と輝いているのを見るのが苦痛で、草壁はうつむいていた。
「大海人様の殯のさなかだというのに、伊勢へ向かったのはまさにその証。今、大津の一味を捕らえるべく手を回させています」
 伊勢には、大津の姉がいる。今は神に仕える齋宮。
 容易には、会うこともままならない、たった一人の彼の肉親。
 見えることが罪となる。
「渡来僧の行心(こうじん)、かの者がよく大津皇子と密かに会っておりました。何を話していたかまでは確とは致しませぬが」
 大津は、大陸のことに関心を寄せている。海を渡りこの地へやってきた僧は、彼には特に興味深い人物だろう。渡来僧の知る限りのことを、聞きたがったに違いない。
「今は殯を最優先としなければ。それに、大海人様の殯を、このようなことで騒がせたくはない。あくまでも内密に、刑を与えるは、大津と中心になっていた者達のみでよい」
 すべては整然と取り決められていく。予め、決められていたかのように。或いは、本当にそうなのかもしれない。
「いずれにせよ。事が起きる前に発覚して何よりであった。改めて礼を言いましょう。――河島皇子」
 草壁は、ようやく目を上げる。
 鵜野大后からのねぎらいを受け、叩頭する河島に。
「よくぞ謀反の企てを知らせてくれました。そなたの忠義に感謝いたします」
「もったいないお言葉」
 感情の見えない声。涼しげな面。
 何を考えて、彼は。
 ――大津を、裏切ったのか。


 伊勢から戻った大津は、極秘のうちに捕らえられた。すべて理解しているような、潔い態度だったという。


「なぜですか?」
 河島の館をおとない、彼が現れるなり草壁は詰め寄った。
「お前らしくもない。落ち着け」
「お答えください。なぜ、あなたが大津を」
 心は急いて、喉に言葉が引っかかった。軽く咳き込む背中を、河島はさすってくれる。しかし草壁は、常の彼とは違う強いまなざしで年嵩の皇子を睨め付けた。
「あなたは、大津の友であったはずです。なぜ、そのあなたがなにゆえに、大津を陥れるような真似を」
「なにゆえ、と問うか」
 河島は、ゆっくりと口を動かし。
「愚にもつかぬ問いだな」
 口の端を、歪めた。
 間近の瞳には、あざける色が浮かんでいて、我知らず草壁は寒気を覚えた。
「大津の行動は、明らかなる反逆。世を乱す行為を見過ごさぬは国を治める者として当然のこと。違うか?」
「……し、しかし」
 草壁は食い下がる。河島の言は、確かに正しい。だが、それを認めてしまっては。
 大津は、あんなにも、この目の前の男を慕っていたのに。
「あなたは、大津の心を、裏切った……!」
 がくん、と視界が揺れた。同時に、喉元を締めつけられる。
「それを、お前が言うのか……?」
 下腹のあたりから絡みつくような、冷たく粘つく声音。
「己の役目を理解せず、逃げるばかりのお前が言うのか?」
 凍り付く草壁を放り出し、河島は高い位置からさらに続けた。
「伊勢へ行くが大逆と、大津が知らなかったはずがあるまい? 大津がこのような所行に及んだはなにゆえか、お前が理解できるはずもなかろうが」
「……」
「これはお前の罪と知れ。大津を死へ追いやったのは、お前の弱さと愚かさと心得よ」
 反駁は、できなかった。
 わからなかったからではなく、答えに至ってしまったからだ。
「大津は……」
 彼ほど優秀であれば、さらなる高みを望んだだろう。
 そして、唯一のよりどころであった大海人を失った今、彼が己を守るにはたった一つの方法しかなかったのだ。
 大王の位を手にすることしか。
 それは罪だ。しかし、大津にその夢を抱かせてしまったのは、草壁だ。
 自分は大王にはふさわしくないと、国を治めることは自分ではできないと。
 ――大津ならばできるのだろうと、ことあるごとに口にしていたのは。
 この、自分だ。


「大津が羨ましい」
 武術の鍛錬は、草壁にはいつも苦痛だった。この日も途中で身体がいうことをきかなくなり、草壁は木陰に横たわって休んでいた。
「どうして?」
 様子を見に来てくれた大津に、こんなことを言ってしまったのは、やはり心弱くなっていたからだったのだろう。
「大津は私よりも優れている。大津ならば、父上も跡を任せるに何の憂いもないだろうに……」
「だが、大后様はお前を日継皇子となさりたいのだろう?」
「……豪族や貴族達は、大津を望んでいるだろう」
 母がどれだけ期待をかけても、自分はこんなにも矮小だ。身体も弱く、いつまで生きられるともわからない。
「お前ほどの皇子ならば、誰も否は言わないだろう」
「……」
 大津は黙っていた。
 黙って、どこかを凝視していた。







BACK   NEXT