第三章


 大海人は、いっこうに回復の兆しがない。
 そして、草壁はこのところとみに身体の調子を崩すことが多くなっていた。
 熱に浮かされ、夢と現を行き来する。妻は何も言わずにかいがいしく身の回りを見てくれ、鵜野大后はひっきりなしに容態を問う使いをよこした。
 その繰り返し。
 だが、単調な流れにこの日は一石が投じられた。その石は、大津。ゆらゆらと波打ったのは、草壁の心。
「父上は、相変わらずであらせられる」
 父を語る大津の声音は、重苦しかった。
「政に滞りがないのが、せめてもの救いだ。父上が、礎をしっかりと築いてくださったからだな」
「そう……。戦のあと、父上は一心に律令のために打ち込んでいらっしゃったから……」
 幼い草壁の目にも、遠い日の父の背中は鬼気迫るように映り、正直恐ろしささえ覚えたものだった。けれど、尊敬して止まない。あの激しさ、あの強さを。
「私では……父上のようには」
 我知らず、弱い言葉が漏れた。草壁、と呼ばわる大津の声と共に、熱を帯びた額に何かが降りてきた。
「お前は、父上とは違う。父上ではない」
 手は優しいのに、大津の言の葉がみしりみしりと草壁の胸に重石を置く。
「わかっている……私は、父上のようにはなれない」
 何一つ、思うようにならない自分と、この国をあまねく治める大きなあの存在とは。
「違う、草壁」
 大津の手が離れ、直後同じ箇所にひやりと冷たい何かを感じた。水を含ませた布を置いてくれたのだと、目を開けてから理解した。
「これからは、お前こそが求められる」
「……え?」
「俺はそう考えている。父上は戦わなければならなかった。そして、新たに築かなければならなかった。しかし、もう築くときは終わりに近づきつつある。そのあとは――守らなければならないだろう?」
「守る……?」
 ぼんやりと、草壁は問い返した。
「あの戦では血が流れすぎた。あれからまだたったの十余年しか過ぎておらぬ。そして、再びあのような戦いが起きたら……父上の礎は、間違いなく砕けよう」
 静かな大津の口調は、内容とは裏腹になぜか心地よく。
 疲れが出てきた草壁は、その音の連なりに身を任せ目を閉じる。
「俺は父上の尽力の様を知っている。あの戦も、肌で感じた。もう二度と、血の臭いの中に身を置きたくはない」
 身体の上に投げ出していた手を、包まれたと思ったのは幻だっただろうか。
「できれば、お前と共に父上の跡を継ぎたかった……」
 慟哭のように耳に響いた大津の呟きも、夢だったのだろうか。


 大気は怒号に満ちている。
 大地は、どす黒く染め上げられている。
「よく見ておくのだ。これが戦だ」
 傍らで草壁と同じように馬に跨った父の声は、戦いの雄叫びにも負けずはっきりと耳に届いた。
「この血の上に、新たに国を築く。そして、子々孫々に伝えていく。ゆえにこそ、努々忘れるでないぞ。我らの引き起こしたこの戦を。この血を」
 長兄高市皇子は、重い銅の鎧を身につけて真っ直ぐに戦の様を見つめていた。決して揺るがない強いまなざしで。
 母鵜野は、対照的に萌えるような瞳を眼前にすえていた。正確には、その向こうにある何かを見出そうとしていたのかもしれない。
 そして、大津は。
 草壁と、同じ目をしていた――。
 そのとき耳が、ぞっとするような音をとらえる。
 草壁の馬の前に、どさりと何かが落ちてきた。
 馬が驚いて暴れる。あわててその首にしがみついた草壁は、次の瞬間地面から真っ直ぐ何かに射抜かれた。
 朱と、黒と。
 どくどくと暴れる、胸の中の心の臓を貫いて。
「草壁!」
 大津の手が助けてくれる。馬が鎮まる。安心して草壁は身体を起こしかけたが、息を呑んで硬直した。
 倒れている、血にまみれた男。結った髪はばさりとほどけ、顔は生きているときの面影がまったく伺えないほど、歪みねじれていた。大きく口を開けているのは、最期の叫びを留めているからか。けれど、草壁を戦慄させたのは、いっぱいに見開かれたその目。
 無念と、恨みと、恐怖。命を失ったはずの今でも、それらを敵に刻み込み己の仇を討たんとするかのような、強烈な怨みを燃やし続けている。
 この黒い目が、草壁を、射たのだ。

 覚醒する。草壁は闇の中で瞼を開き、しばらくして己を取り戻した。
 ここは館。そして今のは、過ぎし時の出来事。未だに忘れることができない。こうして熱が出たときには、夢となって時折気まぐれのように草壁を襲うのだ。
 叫んだのかもしれない。あの時の自分は。
 けれど、あのあとの記憶はひどく頼りない。覚えているのは、あの、死者のまなざし。
 人の目には、力が宿る。見るという行為によって、他のものによきにつけ悪しきにつけ影響を及ぼしたり、力を得たりする。たとえば、盛りの花や、茂る木々からはその萌える輝きを分けてもらい、心に想う相手には、愛しさを与える。
 そして、あの時きっと、あの死者の目は草壁から何かを奪っていったのだ。根の国に向かう己が道連れに、草壁の命をいくらか吸い取っていったのかもしれない。死ななければならぬ無念を、呪詛として草壁に植え付けていったのかもしれない。
 部屋の中に、白い光が忍び込んでくる。夜明けが近づいているのだ。草壁は、腕を持ち上げてみた。昨日よりは幾分楽になっている。今日は、出仕できるだろう。
 あと少し、眠っておこう。草壁は目を閉じて、うとうとと意識を沈めていった。
 戸の外から、控えめに自分を呼ばわる声を聞きつけ、草壁は再び現に浮き上がった。すでに部屋は明るい。戸の向こう側にいるのは、阿閉らしかった。
「どうした?」
「はい、ただいま宮よりの御使者が参られました」
 一瞬、母がよこしたものかと考えたが、いくら何でもこんな早朝に、草壁の体調を確かめるためにわざわざ人を遣わしたりはしないだろう。草壁は起きあがり、阿閉にはしばらく待ってほしいとの言づてを頼んで、身支度を整えた。
 待っていたのは、藤原不比等であった。彼は雑事の使いなどをする身分にはない。何かよくないことがあったのだ。草壁はすぐに、父を思い浮かべた。目の前が暗くなり、一瞬足下がふわふわと頼りなく揺らいだ。
「父上に、何かあったのか?」
 不比等の前に座り、身を乗り出すようにして草壁は問うた。だが、不比等は重苦しい表情のまま、まず人払いを頼んでくる。
 嫌な予感はますます強まる。草壁は早々に周りの者を下がらせ、不比等を促した。
 いったい、何があったのだろう。
「……大王は……」
 不比等の面持ちが、沈痛なものに変わっていく。それだけで、草壁は彼のいわんとしていることを察した。
「お隠れになられたのか……」
 哀しみより、虚無感が大きかった。
 父である以前に、国を統べる存在として在り続けた人だった。血の繋がった人というより、仰ぎ見るべき対象であった。
 その父が、とうとう。
「――すぐに、宮へ向かう。母上はどうしておられる?」
「殯(もがり)の準備のために、未明より我らに指示を下されております」
「わかった」
 草壁は不比等を待たせ、すぐに彼を伴い宮へ向かった。
 母も悲しいはずだ。悲しくないはずがない。父は、波乱を共にくぐり抜けた伴侶なのだから。
 けれど、嘆くより先に、足下を整えなければならない。
 他ならぬ大海人のために、鵜野大后は今一人で動いている。
 母を支えなければと思った。一日でも早く、母が大海人の妻として泣けるように。


 大王のような貴人が儚くなったときは、殯宮を建てそこにしばらく亡骸を安置する。その間に、ふさわしい墓所を用意する。
 鵜野大后は、それらの仕事を立派に成し遂げるため、全力を注いでいた。その思いは進化の貴族達にも伝わり、本来の役目共々誰もが懸命に働いていた。
 草壁ももちろん、例外ではない。病身を押して、これまで以上に与えられた職分に励んだ。父が、安らかに眠れるように。父の残したもの、父が終わらせることのできなかったものを、完成させるために。
 誰もがせわしなく、一つのことにだけ打ち込んでいた。
 少なくとも、一見すればそのように見えた。

 大津を見つけた。
 草壁は、足を止める。
 異母兄は、一人でゆっくりと、庭を歩いていた。
 何か不自然な感を覚え、大津の周りに誰もいないからだと思い当たった。大津はいつも、たくさんの人に囲まれていた。人を集めやすい性質を持っているのだ。彼のそういうところは、大海人と似ていた。
 その大津が、今は一人。
 落ち着かない気持ちで、草壁はそのまま大津を見ていた。
「草壁?」
 後ろから、肩に触れる手があった。顔だけで振り向いて、草壁はその持ち主を知る。
「河島皇子……」
「大津が、どうかしたのか?」
「いえ……彼が一人だったから」
 うまく自分の違和感を説明することができなかったが、河島も何か思うところがあったのか、目を細めただけでそれ以上問うことはしなかった。
「大津には、今やどんな後ろ盾もない」
 代わりに、河島は草壁と同じように視線を大津へ向ける。
「太田皇女様は、ずっと昔に身罷られたからな」
 母の身分は、子の将来に大きく影響する。大王の妻であれば、それはよりいっそう重要な意味を持つ。
 草壁の母鵜野は、先代の大王葛木の娘。血筋の点ではこの上ないほど申し分なく、今もなお発言力は衰えない。故にこそ、草壁はこのまま日継としてならなければならない立場にある。
 だが、もしも大津の母が今も健在であったら、それはまったく違っていたはずだ。大津の母太田皇女は、鵜野と両の親を同じくする姉妹だったのだから。太田皇女のほうが姉にあたるのだから、そのときは大津が日継皇子に推されていたのだろう。
 彼の資質は、そうして遺憾なく発揮され、人々に慕われ敬われる大王となったのだろう。
「……大津ならば、大王にふさわしい」
 儚い幻。けれど草壁には限りなく慕わしい夢。思わず、口から呟きが漏れた。
「詮無いことを言うな」
 鞭で打つような激しさで、河島の言葉が投げつけられる。草壁は驚いて河島を仰ぎ、そこに激しい憤怒を見た。
「……日継はお前だ。忘れるな」
 だが、すぐに彼は、そんな怒りなど嘘のようにかき消して、すいと行ってしまった。草壁は茫然とそれを見送り、うつむいた。
 河島は、あまり平素感情を表に出さない。年嵩と言うこともあり、いつも落ち着いている人物だ。
 あんな河島は、初めて見た。
 草壁は、胸元を押さえた。
 ざわざわと、身体の内側が騒いでいる。


 河島と大津は、多くの場合二人一緒に見かけた。通りすがりに耳に拾うのは、漢籍に関する話題がほとんどだった。大津は十五で、河島は一回り近く年が違ったが、二人ともかなり大陸の文学に明るいという共通点があった。
 二人が親しくなったのはいつか、草壁は覚えていない。印象に強かったのは、大津が訪ねてくるのが、少しずつ間遠くなっていったことだった。
父が大王として位につき、日々が落ち着きを取り戻してからは、河島と大津の親交はいっそう深まった。草壁は、遠いところから二人を眺めるようになった。
 一度だけ、彼らの話の中に加わったことがある。そのときも、疎外感でいっぱいだった。
 大陸の学問・文学は草壁も教養として身に着けている。けれど、彼らが話として口に上らせるそれは、違うものとしか聞こえなかった。
「河島皇子はすごい。本当にたくさんのことを知っていらっしゃる」
 傍目にも、河島の話題になると大津は嬉しそうだった。
「大津は、河島皇子が……好きなのだね」
「ああ。尊敬している」
 屈託なく、大津は答える。
 草壁が、一度も見たことのない顔。
「大陸の学問についても、たくさん教えていただいた。俺のような未熟な子供でもわかるよう、かみ砕いて教えてくださるから、本当に嬉しい」
 慕っているのだろう。それが一目でわかる笑み。
 大津が遠い。そう感じた。




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